「眠っているのだ」ルカによる福音書8章40~56節
序
8章全体が「神の国の福音宣教」というテーマでお話が6つ展開されています。1節「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら・・・旅を」。この世とは違う“神の”国、それが私たちにとって神様からの“福音”として知らされるのです。「福音宣教」という言葉をキリスト教の当たり前の用語として受け止めるとこのテーマについてのお話はよく理解できません。もう一度深く掘り下げて受け止め直すことが必要です。“福音を告げ知ら”されるという意味を考えるのです。ウクライナで戦禍が、ミャンマーで軍事政権の横暴が報道されています。みんな自分の家を追われ、生活を奪われ、難を逃れて行き場もなく彷徨っているのです。「福音」という言葉は喜びの音信を意味し、王の即位や敵への勝利の知らせとして使われました。平和が戻ってきたことの知らせです。6月23日沖縄慰霊の日が報道されました。沖縄戦犠牲者追悼を県が定めて守ってきた沖縄にとって“特別な日”です。同様にイエスが「福音を告げ知らせ」てくださったのも、私たち罪人にとって人生を通して忘れてはならない特別な知らせなのです。単なるキリスト教伝道ではないのです。ですからその勝利の音信に救われた婦人が紹介され(8:1~3「7つの悪霊を追い出していただいたマリア」等)、その奉仕が福音の結実として描かれているのです。
種蒔かれた土地のたとえ話はこの福音を「どう聞くべきかに注意」するための教えです。選民イスラエルであってもその恩恵を忘れて折り取られ、野生の枝である異邦人であっても神は御国の枝として接ぎ木されます。誤解しないでください。どちらも神様による憐れみの業なのです。選民であることも接ぎ木されたことも主なる神様の一方的な業によるものなのです。神様は御国に与らせるために憐れまれたのです。「憐れむ」とは、すなわち神様の主権による惠みの業なのです。だからこそそれに与った私たちは何度も「どう聞いたのか」を掘り下げて注意しなければいけません。このメシア・イエスによる神の国の福音宣教は単なる宗教の宣教活動ではなくて、神の憐れみの業であるのです。言い換えればイエスによる主権的な御業なのです。肉親の家族ではなく神の家族とされ、自然界だけでなく人生の荒波の中にも主の言葉は力をもって「お叱りになると静まって凪ぎになる」。目には見えない霊の世界の中にあっても主が命じれば、霊どもは「湖になだれ込む」のです。私たちはこのメシア・イエスによる憐れみの業と福音の言葉の力がなかなか分からず、時に弟子達のように「おぼれそうです」と慌てふためき「信仰がどこにあるのか」と正されます。悪とされるものが湖に落とされると本当は喜ぶべきなのに、自分も同じ悪を内包するところから「恐れに取り付かれて」「出て行ってもらいたい」と救い主を拒絶したりもします。ですからこのテーマで知るさている8章のお話はたとえ話もあり出来事もあるのですが、福音宣教が一宗教の宣教活動だとか、宗教の教えは心の中だけのことだとかと考える誤りを正して、もう一度私たちの人生や存在の根底から考え直すために記述されたものなのです。それは私たちの想像を遙かに超越して世界といっても様々な世界が存在しますたが、自然界、霊界、生死の世界などそのすべての世界において救いと神の栄光とを仰ぎみることができるものであること、だからこそ何度となく注意してどう聞いたのかを振り返ることが教えられているわけです。
1.「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第を皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」」47~48
このテーマの最後のお話が会堂長ヤイロの12歳の娘の死と出血が止まらず12年このかた生死の淵を彷徨った女性のお話です。旅から戻ったイエスを群衆は喜び迎えます。会堂長の娘が死にかけていたからです。しかし群衆に紛れてイエスに触れた病気の女性をイエスは探し回ります。この探索が手遅れの原因となります。一方で死にかけの娘の救助が求められながら、途上の探索で時間がとられて万事休す。もう手遅れです!「お嬢さんは亡くなりました。先生を煩わすことはありません。」しかしイエスは言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる。」「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と。人々が「イエスをあざ笑」う中、主イエスは「手を取り「娘よ、起きなさい」と呼びかけ」て、その言葉どおりに救います。他方で「十二年このかた出血がとまらず、全財産を使い果たし、だれからも直してもらえない女」が群衆に紛れて「後ろからイエスの服の房に触れ」「直ちに出血が止まった。」ああ何という幸いでしょうか!命の象徴であり源でもある血液を12年間も流し続けてきたのです。そうして日常茶飯事に死に脅かされて生きてきたのです。これでもう彼女は安心? いいえ「わたしに触れたのはだれか」「だれかが私に触れた。わたしから力が出ていったことを感じたのだ。」読者である私たちは弟子たちのように言うのではないでしょうか?「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」、つまり“誰だかわかりません”“誰だっていいじゃあないですか”と思います。しかし、主の力が出血を止めただけではダメなのです。事実彼女は「隠しきれない」「震えながら進み出て」きました。治ったのなら、震えることも恐れることもないではありませんか? しかし事実は違います。彼女はイエスの前に進み出ることもなく助けを求めることもなく触れるだけを考えていたのです。イエスの前で「癒された次第」を告白したとき、イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と彼女に告げて帰します。力だけで出血を止める救いは真実な救助にはならなかったのです。それはすぐにまた再発するかもしれない一時の症状に過ぎません。離れれば再び恐怖が襲ってきます。それは今までと変わりない死の淵の日常です。力の出所とその力の主であるところの御心に触れてこそ初めて安心なのです。こうしてこの二人の娘の救いを通して一方では“死んでしまえば万事休す、もう駄目だ”という人間の常識と絶望感に見直しを迫ります。他方では神様の力で病気が癒されればもう安心、というこれまた人間の常識と楽観を戒めてきます。私たち人間は地上の生死について、どれほどのことを知り、その真相を理解しているのでしょうか? 薬と治療、病気の原因が掴めば、すべてを理解していると誤解しているのではないでしょうか? 真の医者や治療は医学や研究成果を緻密に分析し極めますが、同時に極めればこそ命の不思議と、人間の力の限界もきちんと認識いたします。命だけは財産のような持ち物ではないし、その継続も終わりも私たちの手の内で自由にできるものではないのです。だからこそ亡くなったから終わり万事休すではないし、出血が止まればラッキーもう安心なのではないのです。
2.「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのはない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。」52~53
そこで私たちはこの二人の娘の救われたお話から生死というものについての常識的な見方を信仰的に見直さなければいけないと思うのです。イエスは「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。私たちの地上の死生観ではこの言葉は滑稽で「あざ笑」ってしまいます。こんな信じようともしない見方に対してイエスは「だれにも話さないように」と両親にお命じになります。命の源である神様の前ではイエスの言ったとおりなのです。死んでいないのです。医学的には心臓の鼓動は止まっても、神の前の命は眠っているだけなのです。12年このかた出血を患うという苦悩は出血を主の力で止めさえすれば癒されたとは見做されないのです。財産(経済)も使い果たし血液も流し続ける、(コロナ禍でどっちが優先という話題がありましたが)果たして人の命はどこにあるのでしょうか?彼女はどちらも使い果たしました。そしてイエスの力で出血が止まりましたが、彼女は救われ命を取り戻したのでしょうか?もうおわかりになるかと思いますが力を出して救ってくださった方の前にひれ伏し、そのすべてを告白した時、つまりその憐れみに触れた時、“救いの主イエスの憐れみを仰ぐ”「あなたの信仰があなたを救った」と言えるのです。命みなぎる12歳の娘の死に死んだらおしまいと思っていませんか?それがあなたの命ですか?
「わたしがお前の傍らを通ってお前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって『生きよ』と言ったのだ。」エゼキエル書16:6 聖書がイエスを命の君、「言葉の内に命があった」と証言するのは、私たちが知っているようで知らない命の根源を教えるためです。命は心臓や血液だけで生きているのではありません。言葉であるイエスの内にこそ命があって、この方の御心と言葉が命を与え、生きるのを得ているのです。 祈り。