9月28日 主日礼拝

説教

25/9/28

「偽善のパン種」ルカによる福音書12章1~12節

序 「メシアの教え」段落の二つ目は「神の国と力」というテーマになっています。①11章冒頭113キリスト教的祈祷の意味(主の祈り)、②14~悪霊追放・新時代のしるし(ベルゼブル論争)、③29~イエスの職務の真のしるし(ヨナのしるしとともし火)、④37~パリサイ人、律法学者へののろい、⑤12:1~証人への忠告(偽善のパン種注意)、⑥13~生活の目標(愚かな金持ちのたとえと「思い悩むな、ただ神の国を求めなさい」)、以上6つの話が並びます。冒頭の主の祈りと最後の「神の国を求めなさい」とが対になっているようにも思えます。聖書の神の国という教えにはalreadyyet(すでに・まだ)という両面があります。この段落では明らかに“すでに”到来しているのです。主の祈りはそのことを前提にして教えられています。だから「神の国を求めなさい」と結論づけているのです。ベルゼブル論争でも11:20「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」問題なのはそのことが見えない地上人間界の盲目です。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、そうすればだれでも受け、見つけ、開かれる」9のです。神の国の力は悪霊追放でも明らかなのに「あの男はベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言います。これに対してイエスは「今の時代の者たちはよこしまだ。」だから「しるしを欲しがる」と叱責されます。「ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられない」とは、よこしまへの警告であって神様はきちんとヨナのしるしを示されます。悔い改めにはこのしるしで十分です。問題は神様の側ではなく「目が澄んで」いない人の側にあります。だから「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」35と忠告されます。人の内面的な検証は当時の社会的な尊敬の象徴であるファリサイ人と律法学者にこそ典型的な問題として現れ、メシアは「あなたがたは不幸だ」と叱責されます。「外側はきれいにするが、内側は強欲と悪意に満ちている。」「背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない。」そしてこの問題は時代を問わず繰り返されてきました。神の国が到来している今「そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」51のです。そこで最後に偽善の「パン種に注意しなさい」12:1、「この方を恐れなさい」5、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」15、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」22と注意が並び、最後に31「ただ神の国を求めなさい。」「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」のだからと力強く奨めてくださいます。6つの話を振り返ると神の国が到来しているのにそれを理解できない様々な問題が見えてきます。求道心のなさや父親への信頼のなさ、悪霊に対して仲間は何の力で追い出すのか、結局、空き屋にしかできず前よりも悪くなるのだと指摘します。しるしは十分、むしろ体の中の光のチェック、そして最後に人々への偽善と神への冒涜、自身の貪欲と思い悩み、と並んでいきます。私たちは福音による神の国の希望を仰ぐためにこうした教えを胸に納めながら聞きたいと思わされます。

 もう一つこの箇所「神の国と力」11章~1234節まで、前述の神の国については“すでに”到来しているという信仰で教えがならびますが、緊迫した時代の転換期の中にある危機感がどの話の中にも見られます。⑥愚かな金持ちのたとえでは「今夜、お前の命は取り上げられる」。それに続く「思い悩むな」という教えでは「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ」と“わずかな”生涯をたとえ、「寿命をわずかでも延ばすことができようか」とそのわずかでさえも神の装いを受けていることを指摘します。③しるしを欲しがるよこしまな時代も「今の時代の者たち」と語って、イエス在世中だけのことではなくて御言葉が語られるどの時代にも適用できるように「今」なのです。さらに「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり」と続けています。これは「ニネベの人々は裁きの時」と繰り返されます。つまりこの箇所で語られるお話にはその当時の時代でのことを語られたのではなくて、むしろ新約のキリスト教会の時代だとか、さらには人生上の終活、もっといえば神の御国到来による審判をも含めて、それを先取りにして教えられています。今朝の12章偽善警戒の教えでは神の福音が「言い広められる」とか「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と語って、福音伝道の時代が想定されています。更に124ではキリスト教迫害「体を殺しても」という殉教の時代、128「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間と言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」。つまり現在の態度表明がそのまま「神の天使たちの前」でのこととなります。神の国が既に来ているという信仰は、時代が変遷したり転換して、危機的な状況の中になっていても、そこにも既に到来を見て自らの信仰の立場を表明し、また神の希望を見ているのです。現代も同様に大きな時代の転換期を迎えていると思えます。実のところこの先の見通しが立たないほどに行き詰まりや不安を覚える時代となりました。自然環境も国家間での関係もさらに日本ではこれまでの体制や制度が通用しなくなってきています。宗教、信仰の世界ではその離れが顕著です。だからこそこの箇所での教えは私たちの人生や信仰に大きな励ましと慰めを与えます。

 

1、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」12:2 その上で今朝特に覚えたいのはこのテーマの5つめ「偽善のパン種への注意」です。直前の11章最後にはファリサイ人と律法学者への不幸が語られます。当時の社会では尊敬の対象でしたが、イエスはその問題を「偽善」と指摘します。「外側はきれい」「あらゆる野菜の十分の一は献げ」ます。しかし目に見えない「正義の実行と神への愛はおろそか」なのです。「先祖が殺した預言者の墓を建てる」ことをして預言者を敬いますが、実は「先祖の仕業の証人となり、それに賛成している」からです。「知識の鍵」とは自身の責任を覚えて悔い改めることです。注意点は二つあります。一つは「偽善」、もう一つは「パン種」であることです。外側はよく見えるのです!問題は内側なのです。そして「これこそ行うべきことである」1142と言及して神様の前で本当に大切なことはどこなのかを指摘されました。神の国到来の今、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という神の国の力が発揮されます。福音においては内側の強欲や悪意、先祖の仕業が明らかになってしまうのです。もう一つの問題であるパン種とはイーストキンのことでこれが意味するのは偽善の菌は小さいのですが、膨らませて全体を変えてしまうことの危険です。結局「人々の前でわたしを知らないと言う」姿へと変質してしまうのです。メシアのことを理解できず「人の子の悪口を言う」ことは赦されます。しかし神の国到来で「聖霊」が自分の罪とメシアによる赦しを教えるのです。律法学者の不幸が先祖の罪の仕業の証人であったように、この偽善のパン種を侮ると真実を教えてくれた「聖霊を冒涜」するようにまで全体が膨らむのです。

 

、「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」12:7

 そこで最後に私たちがそのようにならないためにイエス様はえを重ねられました。第一に神の国到来によって地上の人間世界であっても「暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間でささやいたことは、屋根の上で言い広められる」12:3という点です。知らないのは地上の人間社会だけです。「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」8と言い、その逆「知らない」9も言及しましたように「人々の前」と「神の天使たちの前」は一緒なのです。なぜ人は信仰を告白し、働き人たちは殉教までしたのか?その理由がここにあります。信仰者たちは地上にあってすでに神の国にあるからです。第二に「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」ただお一人を除いて心、魂、真実な私には誰一人として「何もできない」のです。イエスは私の一切を握っておられる方を教えられました。「この方を恐れなさい!」この方は雀一羽でさえ「お忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」それほどまでに私たちのことを理解しいてくださるのです。「地獄に投げ込む権威を持っている方」を「恐れなさい」とはこの方の髪の毛までも数えられているほどの深い慈しみのことです。心配することはありません。信仰を貫くことにおいても「言うべきことは、聖霊がそのとき教えてくださるのです。」神の国はそれほどに私たちをしっかりと捉えていてくださいます。 

父なる神様、私たちに聖霊なる神を遣わし、主イエス・キリストとその御国へと導いてくださり感謝します。すでに神の国にあることをいつも教えてください。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります

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