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礼拝説教 (2017年10月15日)

 

ヨハネによる福音書説教59       主の20171015

 

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父がその業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

            ヨハネによる福音書第14114

 

 

 

 説教題:「主イエス、父なる神に至る道」

 

 先週から、ヨハネによる福音書の14章を学び始めました。今朝は14114節の御言葉を朗読し、主イエスが父なる神に至る道であることを学びたいと思っています。

 

 

 

 前回は、1413節の御言葉を学びました。主イエスは⒒弟子たちに心を騒がせることを禁じられ、彼らのために父なる神の家に彼らの住まう所を用意し、再び迎えに来ると約束してくださいました。

 

 

 

 ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスがおられる所に共にいることが永遠の命であることを、主イエスのお言葉を通して伝えてくれました。

 

 

 

 永遠の命は、抽象的なものではありません。主イエスが信じる者にお与えくださるものです。

 

 

 

主イエスは、これから地上を去られます。それは、ヨハネによる福音書によれば、次のことを主イエスがなさるためです。

 

 

 

すなわち、主イエスを信じ、主イエスの「あなたがたは互いに愛し合いなさい」という御言葉を守る11弟子たちを、主イエスが御自身がいる神の家に共におらせるために、住まいと場所を用意し、やがて彼らを父なる神との交わりの中に入れ、神の子とするために準備することです。

 

 

 

このようにヨハネによる福音書が主イエスを通して、わたしたちに伝える永遠の命は具体的なものであります。

 

 

 

だから、主イエスは11弟子たちに「わたしと共にいる道」、すなわち、永遠の命に至る道をあなたがたは知っていると言われたのです。

 

 

 

主イエスは11弟子たちに、こう言われました。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(4)と。

 

 

 

主イエスのこのお言葉には、次のような主イエスの思いが隠されていると思います。主イエスは、言であったが受肉し、父なる神に遣わされて、啓示者としてその活動と出来事を通して、父なる神の栄光を現わされ、父なる神の御言葉と真理を語られ、その御名を知らされました。

 

 

 

そして、主イエスは御自身が11弟子たちやユダヤ人たちに示された父なる神の独り子であることも示されて来たのです。

 

 

 

だから、主イエスに従って来た11弟子たちは、主イエスの御言葉を聞き、為さる奇跡を見て、主イエスが誰から遣わされたのかを理解できたはずであります。理解できたならば、当然主イエスがこれからだれの所に行こうとされているのかを知り得たでしょう。

 

 

 

ところが、11弟子たちの中の一人、トマスが驚くべき発言をするのです。トマスには、主イエスが「わたしはこの世を去って、父の家であなたがたと共に住むために場所を用意しに行く。そして、用意ができと、すぐに迎えに来て、共に一緒にいる」と約束してくださったのを、喜びと受け取れませんでした。

 

 

 

彼は、本当にリアリストです。現実に自分の目で見たことしか信じない人です。彼は、目に見えない主イエスの約束より、主が死んでこの世を去られることに心を奪われました。

 

 

 

彼は思いました。これまで「先生」と仰いで、従って来た主イエスが死ねば、一体自分たちはこれからどうしたらよいのだろうかと。

 

 

 

トマスは、死なれる主イエスがどこに行かれるかを、生きている自分に分かるはずがないと思いました。だから、彼は正直に主イエスに尋ねました。「主よ、どこへ行かれるのですか。わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

 

 

 

ある注解者は、トマスの質問を、愚問であると一言で片づけています。

 

 

 

確かに、御国とそこでキリストと共に永遠に生きる喜びを信じている者には、主イエスにどこに行かれるのですかと尋ねるトマスは、愚問を発しているとしか見えません。

 

 

 

しかし、主イエスは11弟子たちにこれから聖霊を彼らに与えると約束されるのです。11弟子たちはまだ聖霊に導かれて主イエスがどこに行かれるのかを知りません。

 

 

 

だから、11弟子たちは、主イエスが死なれたら、一体自分たちはどうなるのかと恐れたのです。どこにこれから自分たちがたどり着けるのかが分からなければ、どこに行けばよいのかも分かりません。

 

 

 

だから、トマスの質問は決して愚問でありません。リアリスト、自分の目で見たものだけを信じる者が問いかけた真剣な問いだったのです。

 

 

 

そして、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、リアリスト、自分の目で見たものしか信じない者は、あなたがたの中にいるし、どこの教会でもいるのではないかと問いかけているのです。

 

 

 

先週の説教で、わたしは、キリスト者の本国は天であるとお話ししました。これがこの地上の教会のゴールであり、キリスト者の地上の旅のゴールです。わたしたちの信仰のゴールです。しかし、残念ながら、このゴールはわたしたちの目で見ることはできません。トマスには信じられません。そこにどうしたら辿れるのか、到着できるのか、彼の目には見えないのです。

 

 

 

だから、彼は主イエスに「わたしは分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と答えたのです。

 

 

 

何度も繰り返して言いますが、トマスのこの答は愚問でありません。リアリスト、自分の目で見たものだけを信じる者の真剣な答えです。

 

 

 

だから、主イエスもトマスの問いに真剣に答えられました。目で見たものだけを信じる者にも、主イエスは彼が永遠の命に至る道を教えられたのです。

 

 

 

リアリストであり、自分の目で見たものしか信じないトマスに、主イエスは、御自分を自己啓示されました。「わたしは道であり、真理であり、命である」(6)

 

 

 

主イエスは、トマスに宣言されたのです。「目で見るものだけを信じるトマスよ、ゴールを目で見ることができなければ、そこに至る道も分からないということではない。お前がその目で今見ているわたしが道であり、真理であり、命なのだ。わたしを通らずに、だれも父のもとへ行くことはできない」と。

 

 

 

今トマスが自分の目で見ている主イエスこそ父なる神に至る道なのです。父なる神から遣わされた主イエスだけが、神の真理、命そのものですから、主イエスの父である神に至ることのできる唯一の道であります。

 

 

 

主イエスとトマスとの問答を通して、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスが誰であるかを伝えているのです。

 

 

 

トマスが今彼の目で見ている主イエスは、父なる神から遣わされた者であり、父なる神を啓示する者であり、神御自身であると。

 

 

 

だから、主イエスはトマスに続けて次のように宣言されました。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 

 

 

主イエスは、父なる神に至る唯一の道でありますから、主イエスを知る者は父を知るのです。いや主イエスは、自分を見た者は父を見ていると言われます。

 

 

 

この「知る」と言う動詞は、単に自分の頭で知ることを言っているのではありません。旧約聖書の創世記に神が人間を創造し、男と女に造られて、彼らが夫婦となった時、彼らは互いを知ったと言われています。知ることは、一体となることでもあります。

 

 

 

だから、わたしたちが主イエスを知ることは、わたしたちが主イエスと一体となることです。さらに、主イエスを知る者は、父なる神を知るとは、父なる神と子なる神である主イエスとの交わりの中に入れられることです。

 

 

 

すると、もう一人の弟子のフィリポが主イエスに言いました。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と。

 

 

 

ああ、ここにイデアリストがいます。フィリポは主イエスに言いました。「主よ、わたしの目の前で父なる神を見せてください。それだけでわたしは満足します」。

 

 

 

ある注解者は、フィリポの質問も愚問であると記しています。しかし、彼はフィリポの質問は人間誰でも神を見たいと思う願望だろうとも記しています。

 

 

 

フィリポは、トマスとは反対の人であります。イデアリストです。理想主義者です。神の民の願望は神を見ることです。神を見る者は死ぬと言われていました。罪人が神を見ることは恐ろしいことです。聖なる神の御前に罪に汚れた者が立つことです。人は裁きが下るという恐怖を体験するでしょう。

 

 

 

しかし、神を見た幸いな者がいます。旧約時代のモーセは通り過ぎられる神の後姿を見たので、彼の顔は輝き、覆いで彼の顔を隠くしました。

 

 

 

フィリポもモーセのように父なる神を自分の目で見てみたいと願いました。

 

 

 

しかし、イデアリスト、理想主義者であるフィリポは、現実を軽視する傾向があったのです。フィリポには、目の前にいる主イエスは、人でありました。尊敬すべき先生で、偉大な預言者でありましたが、人間でした。

 

 

 

だから、長い間、おそらく3年間、フィリポは主イエスと行動を共にしました。一緒に生活しました。その共同生活は先生と弟子という関係でした。

 

 

 

フィリポは、今共にいる主イエスを、父なる神が遣わされた者、父なる神の啓示者であり、神御自身であることを知りませんでした。

 

 

 

現実にフィリポは主イエスを通して父なる神に出会っていたのです。しかし、彼の目は現実の中になく、神を見てみたいという彼の願望、理想の中にありました。

 

 

 

フィリポには、主イエスが神であるという信仰はありません。彼にとって主イエスは偉大な預言者であり、教師でした。

 

 

 

主イエスは、フィリポに御自分と父なる神は一つであると宣言されました。フィリポは、主イエスを通して父なる神を見ており、父の御言葉を聞いておりました。

 

 

 

フィリポは、直接に父なる神を見たいと思ったのでしょう。しかし、わたしたちが直接に父なる神に至る道は、人間の願望であっても、現実にはありません。現実にあるのは、仲保者キリストを通して父なる神に至る道だけです。

 

 

 

主イエスは、フィリポに答えて宣言されました。「わたしと父とは一つであることを信じなさい。わたしの言葉と業は、自分から出たのではない。父がわたしを通して行われているのだ」。

 

 

 

主イエスの御言葉を、フィリポは受け入れたのでしょうか。答はありません。ただ、主イエスは続けてこう宣言されました。「わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(11)

 

 

 

フィリポは、現実に主イエスしか見ることはできません。主イエスが言われることしか聞くことができません。

 

 

 

そして、今日のわたしたちは、主イエスの十字架しか見ることはできません。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスとトマス、主イエスとフィリポの対話を通して、教会の現実の問題を解決しようとしているのです。

 

 

 

それは、教会の礼拝におけるキリストの臨在です。今、わたしたちは、11弟子たちのように主イエスと直接に交わることはできません。

 

 

 

聖書を通して主イエスと交わっています。聖書の御言葉の朗読を聞き、その説き証しである説教を聞くことを通して、わたしたちと共にいてくださる主イエスと交わっています。

 

 

 

直接にわたしたちが主イエスを見ることはできません。父と主イエスが遣わされた聖霊を通して、その聖霊が著者のなられた聖書とその説き証しである説教を通して、わたしたちは主イエスにお会いし、父なる神と主イエスとの交わりの中に入れられているのです。

 

 

 

使徒ペトロは、その喜びを次のように言っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Ⅰペトロ1:89)

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は主イエスとトマス、そしてフィリポの対話を学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

わたしたちは、トマスのようにリアリストです。自分の目に見えることしか信じていません。同時にフィリポのようにイデアリスト、理想主義者で、現実を見ないで、神に見えることを夢想する者です。

 

 

 

どちらでも、等しく主の御前にいる恵みをいただいています。この礼拝から拒まれることはありません。

 

 

 

今朝、主イエスは11弟子たちと同様に、わたしたちにも御自分が父なる神から遣わされた者であり、神の啓示者であり、父なる神に至る唯一の道であることを宣言されました。

 

 

 

どうか聖霊の導きを通して、今朝の御言葉を主イエスがわたしたちに語られたお言葉として信じさせてください。

 

 

 

願わくは、常にこの礼拝でわたしたちが主と共におり、主イエスと父なる神の交わりの中に入れられている恵みを覚えさせてください。

 

 

 

この世は不信仰な世界です。わたしたちが信じる神を、主イエスを、この目の前に見せてくれ、そうすれば信じてやろうと言われます。

 

 

 

その時に、わたしたちが「教会の礼拝に来てください」と誘い、聖書とその説き証しである説教を通して、わたしたちは主イエスと会い、父なる神の愛を喜んでいるのだと伝えさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

10月15日 礼拝説教
ヨハネによる福音書 第14章 1~14節
171014_001_01.MP3
MP3 オーディオファイル 33.4 MB

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