2013年クリスマス礼拝説教        主の20131222

 

 

 

 闇の中を歩く民は、大いなる光を見

 

 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

 

 あなたは深い喜びと

 

   大きな楽しみをお与えになり

 

 人々は御前に喜び祝った。

 

 刈り入れの時を祝うように

 

 戦利品を分け合って楽しむように。

 

 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を

 

 あなたはミディアンの日のように

 

   折ってくださった。

 

 地を踏みならした兵士の靴

 

 血にまみれた軍服はことごとく

 

 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。

 

 ひとりのみどり子がわたしたちのために生まれた。

 

 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

 

 権威が彼の肩にある。

 

 その名は、「驚くべき指導者、力ある神

 

 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 

 ダビデの王座とその王国に権威は増し

 

 平和は絶えることがない。

 

 王国は正義と恵みの業によって

 

 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。

 

 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 

              イザヤ書第916

 

 

 

 クリスマス説教:「わたしたちのために生まれた救い主」

 

 クリスマス、おめでとうございます。本当に、今日はわたしたちにとっておめでたい日であります。「わたしたちのために救い主イエス・キリストはお生まれになりました。」

 

 アドベントの第4週が始まりました。アドベントとは、「キリストの来臨」という意味です。イエス・キリストが神であられたのに、人としてこの世に、わたしたちの世界に来られました。

 

 その喜びを、昔の預言者イザヤが預言しました。それが、今朝の御言葉であります。

 

 預言者イザヤは、主イエス・キリストがお生まれになる750年前に活躍した預言者です。彼は、アドベントを、神の民が暗闇の中で光を、闇に輝く光を見る出来事として、次のように預言しました。「闇の中を歩く民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」

 

 預言者イザヤの時代、中近東にアッシリア帝国が大きな軍事力によって周辺の国々を征服していました。その当時のユダヤの国は、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しておりました。そして、アッシリア帝国のティグラテピレセル3世が北イスラエル王国を2度侵略し、紀元前722年に滅ぼしました。

 

 妹尾河童の『少年H』という小説が映画化されたので、見ました。アメリカとの戦争に日本が敗れ、神戸の町が空爆によって廃墟となりました。預言者イザヤが預言するとおりです。戦争に負けるとは、暗闇の中を民が歩むことです。死の陰の地に人々が住むことです。悲惨な出来事です。

 

 そうした中で、預言者イザヤは、戦争に敗れた暗闇の中を歩む民が大いなる光を見、死の廃墟と化した中に住む人々、彼らの上に光が輝いたと預言しました。

 

 預言者イザヤが預言していることは、大きな希望です。アッシリア帝国との戦争に敗れ、北イスラエル王国が滅びます。まさに暗闇と死の陰の中にいる神の民たちが、大いなる光である一人の救い主の到来を見たのです。   

 

預言者イザヤは、今朝のメシア預言の御言葉の前に、次のように語っています。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」(イザヤ書823)と。

 

 ガリラヤは、救い主イエス・キリストが弟子を集めて、神の国を宣べ伝え、人々を病と悪霊から癒され、救い主の活動をされた地です。まさに暗黒と死の陰の地です。神に背を向けた罪人たちの地です。神が遣わされた洗礼者ヨハネは、この地で神の怒りと裁きの中にあるユダヤ人たちに罪を悔い改める洗礼を授けました。彼は、救い主イエスの道を備えた預言者でした。ところが、不正な領主ヘロデに殺されました。ガリラヤは、預言者イザヤの時代でも、主イエスの時代でも、同じでした。神の民は外国人の支配と同胞の指導者たちの不正と抑圧に苦しんでいたのです。

 

 預言者イザヤは、預言しました。一人の救い主の到来により、外国人と指導者たちの不正と抑圧に苦しむ神の民たちに、神は「深い喜びと大きな楽しみを与えて」くださると。神の民たちに祝宴の時が来ると。昔、士師ギデオンが300人の者たちを引き連れ、12万人のミディアンの人々を打ち破った「ミディアンの日」のように、神は一人の救い主を与えて、戦争の地に平和をお与えくださると。

 

 預言者イザヤは、その一人の救い主の誕生を次のように喜んでいます。「ひとりのみどり子がわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」

 

 この「ひとりのみどり子」は、ダビデ王の家系から生まれます。主なる神が「わたしたちのために」お与えくださった救い主です。彼は、神の民を支配する王であります。彼は、神の子として罪を赦す権威を持ち、神の民を永遠に支配します。

 

一人の救い主、神の民の王であるその「ひとりの男の子」の名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。「驚くべき指導者」とは、支配における何か、すなわち、政治的手腕があるという意味ではありません。その王に備わっている希望のことです。「力ある神」とは、わたしたちの救い主イエス・キリストの神性を証しする御言葉です。この王は、虐げられた者の打ち負かすことのできない擁護者であることを表しています。「永遠の父」とは、その王が守護と愛の絶対確実な源であることを表しています。「平和の君」とは、この王が神の民の幸福と平和の管理者のであることを表しています。

 

そして預言者イザヤは、主なる神がダビデ王によってダビデ王国を建てられたように、ダビデの王家から生まれる救い主イエス・キリストによって永遠の王国を打ち立てると預言します。その王国は、救い主イエス・キリストの正義と恵みの御業によって建てられ、永遠に支えられます。

 

すなわち、わたしたちのために生れた救い主イエス・キリストは、父なる神に従順に従われ、正義を行い、愛と憐れみを示し、神に背向いて暗闇の中を、罪の世界に生きているわたしたちを救うために、十字架においてわたしたちの罪の身代わりの死を成し遂げられるのです。そして、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを神の子とし、わたしたちに永遠の命を与えるために、死人の中から復活されるのです。

 

預言者イザヤは、救い主イエスがわたしたちを救う御業を、「万軍の主の熱心」と預言しています。救い主イエス・キリストの十字架を通して、神はわたしたちへの愛を示されたのです。

 

 ですから、主イエスの弟子の一人、使徒ヨハネは、ヨハネによる福音書の316節に次のように証言しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」お祈りします。

 

 

 

 クリスマスの朝、われらの光として来られる主イエスの父なる神よ、今もわたしたちの世界はガリラヤの地と同じです。外国人に支配され、同国の指導者の不正と抑圧に、わたしたち神の民は虐げられようとしています。また自らも、神に背を向けて暗黒と死の陰の地にいます。父なる神がわたしたちのためにお与えくださった救い主イエス・キリストの十字架と復活だけが、わたしたちの希望の光です。どうか、わたしたちの信仰の目を曇らすことなく、常にこの罪の世界に輝いている光を、キリストを仰がせてください。救い主イエス・キリストの救いの御手の中にわたしたちを保ち、主イエス・キリストの再臨に備えさせてください。そして、預言者イザヤのようにわたしたちの家族に、この町の人々にわたしたちの救い主イエス・キリストの御救いを伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年新年礼拝説教            主の201411

 

 

 

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神はあなたがたに望んでおられることです。

 

                テサロニケの信徒への手紙一第51618

 

 

 

 説教題:「喜びと祈りと感謝」

 

 明けましておめでとうございます。新年に今朝の御言葉を、御一緒に学びましょう。

 

 

 

  テサロニケの信徒への手紙一は、使徒パウロが開拓伝道し、建て上げたテサロニケ教会に宛てて書いた手紙であります。

 

 

 

新約聖書の中に使徒パウロの手紙が13通あります。テサロニケの信徒への手紙は、その中でパウロが最初に書いた手紙であります。紀元51年頃に書かれました。

 

 

 

使徒パウロが第2回目の伝道旅行しました時に、聖霊はパウロに夢を通してヨーロッパのマケドニアの人々が救いを求めている幻をお見せになりました(使徒言行録16610)

 

 

 

使徒パウロは、復活の主イエス・キリストが自分をマケドニアの人々への福音宣教に召されていると確信し、ヨーロッパに渡りました。

 

 

 

使徒パウロは、フィリピで伝道し、次にローマ帝国の属州マケドニア州の首都であるテサロニケ市で伝道しました。

 

 

 

テサロニケ市は大都市であり、大きなユダヤ人地区があり、いろいろな宗教が雑居する国際都市でもありました。

 

 

 

パウロは、最初の地で伝道する時、ユダヤ人の会堂でユダヤ人にキリストの福音を伝えて、教えました。しかし、パウロのユダヤ人伝道は成功しませんでした。

 

 

 

パウロの語るキリストの福音を信じたのは、ユダヤ人以外の異邦人たちでした。パウロは、テサロニケの町に数カ月滞在して、開拓伝道をしました。

 

 

 

しかし、使徒パウロの伝道を、ユダヤ人たちが妬み、町のならず者たちを利用してテサロニケの町に暴動で騒ぎを起こしました。そして、ユダヤ人たちは、使徒パウロたちは「ローマ皇帝とは別の王イエス・キリストがいる」と触れまわっているとテサロニケ市の官憲に訴えました。

 

 

 

そこで使徒パウロは、身の危険を感じて、急ぎアテネの町に逃れました。そして、その後コリントの町まで伝道し、コリントの町に長く滞在しました。

 

 

 

使徒パウロは、コリントの町からテサロニケ教会に宛てて、この手紙を書きました。

 

 

 

使徒パウロがこの手紙を書いた動機は、彼の弟子のテモテがテサロニケ教会の兄弟姉妹たちの様子を知らせたからです。

 

 

 

弟子のテモテが使徒パウロに伝えたテサロニケ教会の情勢は、聞いたパウロには喜びでした。しかし、中にはパウロがテサロニケ教会に指示を与える必要がある事柄もありました。それは、キリストの再臨に関するものでした。

 

 

 

そこで使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちにこの手紙で次のことを書いています。第1に使徒パウロはテサロニケ教会の兄弟姉妹たちの信仰と忍耐に感謝しています。

 

 

 

2に使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちにテサロニケにおけるパウロの宣教の労苦と骨折りを語り、パウロは伝道者として潔白さを証しし、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちがパウロの語る説教を、神の言葉として受け入れてくれたことを感謝しています。

 

 

 

3にパウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちに誘惑する者に警戒し、聖なる者となり、神にふさわしい者となるように勧め、彼らの兄弟愛を称賛しています。

 

 

 

5にパウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちに死者と復活について教えています。そして主イエスに再臨に備えるように勧めています。

 

 

 

その中に今朝の御言葉があります。

 

 

 

使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちにキリスト者の務めとして次のことをお願いしています。第1に教会の指導者たちを重んじて、その指導に従って、教会の中で平和に過ごしてほしいとお願しています。

 

 

 

2にキリストの再臨を口実にして怠けている者たち、すなわち、キリストの再臨に対して熱狂的になり、日々の務めをおろそかにする者たちを戒め、逆にキリストの再臨が来れば、主に裁かれて自分は滅んでしまうと恐れている弱い兄弟姉妹を励ましてほしいと、パウロはお願いしています。

 

 

 

そしてパウロは、迫害の中にあるテサロニケ教会の兄弟姉妹たちに悪をもって悪に報いないで、どんな人にも、すべての人に善きことを行うように努めなさいとお願いしています。

 

 

 

それに続いて使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちに、今朝の御言葉を勧めています。

 

 

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

 

 

使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちに「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望まれている生活」をしてほしいとお願いしているのです。

 

 

 

それは、教会に対する神の御心であり、わたしたちキリスト者に対する神の御心です。神の御心ですので、使徒パウロは命令形で述べています。

 

 

 

1に「いつも喜んでいなさい。」

 

 

 

この喜びは、聖霊の実の一つです(ローマ147)。この喜びは、キリストの十字架の贖いから出てくるものであります。

 

 

 

ですから使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちに「“霊”の火を消してはいけません」と命令しています。聖霊に満たされなければ、教会とわたしたちに喜びは生まれません。

 

 

 

聖霊が満ちた場が教会の礼拝です。ですから、聖霊のお働きを、わたしたちがもっともよく感ずるのは、礼拝であります。聖霊は、御言葉と礼典と祈りを通して、教会の礼拝において豊かにお働きくださっています。

 

 

 

「いつも喜んでいなさい」、わたしたちが常に喜べるのは、インマヌエル、神がわたしたちと共にいてくださるからです。それが、わたしたちの教会の礼拝であります。

 

 

 

神は、イエス・キリストにあってわたしたちが神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことを望まれています。まさにこのことのゆえにわたしたちは、教会の礼拝だけでなく、家庭礼拝において、また個人の礼拝においてイエス・キリストにおいて神の栄光をあらわし、神を喜び、そしてわたしたちの生活のすべておいて神をあがめて生きることを、神はわたしたちに望まれているのです。

 

 

 

2に「絶えず祈りなさい。」

 

 

 

祈りは、もっとも深い喜びの根源であります。神がイエス・キリストにおいてわたしたちに望まれることを、わたしたちが実現しようと努めるために、祈りが必要です。

 

 

 

祈りは、主イエス・キリストから学びましょう。

 

 

 

主イエスは、十字架にかかる前の夜、ゲツセマネの園において血の汗を流して祈られました。そして、苦しみの中で主イエスは、「わたしの思いではなく、父の御心のままにしてください」とお祈りになりました。そして主イエスは、父なる神の御心を成し遂げて、ゴルゴタの十字架の上で死なれました。最後に主イエスは「すべては成就した」と述べられました。

 

 

 

主イエスは祈りを通して、十字架の死に至るまで父なる神に従順に歩まれました。主イエスの祈りは、言いかえれば、父なる神への従順でありました。

 

 

 

そこに目を向けると、わたしたちは、次のことを学ぶことができます。祈りは、絶えず声を出して祈ることが大切なのではないということです。主イエスは、父なる神への祈りを通して、父なる神を徹頭徹尾信頼されました。そして、父なる神の御心に従って歩まれました。

 

 

 

キリストを模範にして、教会とわたしたちも祈りを通して、徹頭徹尾主イエス・キリストを信頼しましょう。主イエス・キリストの御心に従って歩みましょう。

 

 

 

3に「どんなことにも感謝しなさい。」

 

 

 

パウロが言う感謝は、形のことではありません。

 

 

 

どんな不幸も悲しみも感謝する。無理やり自分で、そういう気持ちになれと、パウロは命じてはいないと、わたしは思います。

 

 

 

確かにテサロニケ教会の兄弟姉妹たちは、ユダヤ人たちの迫害を受けていました。ローマの官憲の迫害も受けていました。町の人々からも迫害を受けていたでしょう。また、家庭に、職場に悲しみがあり苦難があったでしょう。

 

 

 

パウロは、教会とキリスト者が「感謝する」ことを、人の徳として教えているのではありません。むしろ、教会とキリスト者が何事でも感謝することで、感謝する「すべてのこと」が神の御手の中にあることを教えているのです。

 

 

 

教会とキリスト者がすべてのことを感謝することは、神の主権性と神の摂理に対する信仰告白なのです。

 

 

 

今朝の御言葉からわたしたちは、次のことを教えられます。今年も共に礼拝において喜んで神の御言葉を聞きましょう。祈りを通して神を信頼し、神の御心に従って歩みましょう。そして、すべてのことを感謝し、神の主権性と神の摂理を信じましょう。これが神がキリストの十字架の贖いを通してわたしたちをこの上諏訪湖畔教会に召してくださった意味であり、父なる神がわたしたちに2014年にお望みになっていることであります。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちが新しき一年を通して、神を喜び、祈りをもって神を信頼し、すべてのことを、どんなことも感謝し、すべてに神の主権性と摂理を信じて歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 

 

 

 

 

 

2014年新年礼拝説教            主の201411

 

 

 

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神はあなたがたに望んでおられることです。

 

                テサロニケの信徒への手紙一第51618

 

 

 

 説教題:「喜びと祈りと感謝」

 

 明けましておめでとうございます。新年に今朝の御言葉を、御一緒に学びましょう。

 

 

 

  テサロニケの信徒への手紙一は、使徒パウロが開拓伝道し、建て上げたテサロニケ教会に宛てて書いた手紙であります。

 

 

 

新約聖書の中に使徒パウロの手紙が13通あります。テサロニケの信徒への手紙は、その中でパウロが最初に書いた手紙であります。紀元51年頃に書かれました。

 

 

 

使徒パウロが第2回目の伝道旅行しました時に、聖霊はパウロに夢を通してヨーロッパのマケドニアの人々が救いを求めている幻をお見せになりました(使徒言行録16610)

 

 

 

使徒パウロは、復活の主イエス・キリストが自分をマケドニアの人々への福音宣教に召されていると確信し、ヨーロッパに渡りました。

 

 

 

使徒パウロは、フィリピで伝道し、次にローマ帝国の属州マケドニア州の首都であるテサロニケ市で伝道しました。

 

 

 

テサロニケ市は大都市であり、大きなユダヤ人地区があり、いろいろな宗教が雑居する国際都市でもありました。

 

 

 

パウロは、最初の地で伝道する時、ユダヤ人の会堂でユダヤ人にキリストの福音を伝えて、教えました。しかし、パウロのユダヤ人伝道は成功しませんでした。

 

 

 

パウロの語るキリストの福音を信じたのは、ユダヤ人以外の異邦人たちでした。パウロは、テサロニケの町に数カ月滞在して、開拓伝道をしました。

 

 

 

しかし、使徒パウロの伝道を、ユダヤ人たちが妬み、町のならず者たちを利用してテサロニケの町に暴動で騒ぎを起こしました。そして、ユダヤ人たちは、使徒パウロたちは「ローマ皇帝とは別の王イエス・キリストがいる」と触れまわっているとテサロニケ市の官憲に訴えました。

 

 

 

そこで使徒パウロは、身の危険を感じて、急ぎアテネの町に逃れました。そして、その後コリントの町まで伝道し、コリントの町に長く滞在しました。

 

 

 

使徒パウロは、コリントの町からテサロニケ教会に宛てて、この手紙を書きました。

 

 

 

使徒パウロがこの手紙を書いた動機は、彼の弟子のテモテがテサロニケ教会の兄弟姉妹たちの様子を知らせたからです。

 

 

 

弟子のテモテが使徒パウロに伝えたテサロニケ教会の情勢は、聞いたパウロには喜びでした。しかし、中にはパウロがテサロニケ教会に指示を与える必要がある事柄もありました。それは、キリストの再臨に関するものでした。

 

 

 

そこで使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちにこの手紙で次のことを書いています。第1に使徒パウロはテサロニケ教会の兄弟姉妹たちの信仰と忍耐に感謝しています。

 

 

 

2に使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちにテサロニケにおけるパウロの宣教の労苦と骨折りを語り、パウロは伝道者として潔白さを証しし、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちがパウロの語る説教を、神の言葉として受け入れてくれたことを感謝しています。

 

 

 

3にパウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちに誘惑する者に警戒し、聖なる者となり、神にふさわしい者となるように勧め、彼らの兄弟愛を称賛しています。

 

 

 

5にパウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちに死者と復活について教えています。そして主イエスに再臨に備えるように勧めています。

 

 

 

その中に今朝の御言葉があります。

 

 

 

使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちにキリスト者の務めとして次のことをお願いしています。第1に教会の指導者たちを重んじて、その指導に従って、教会の中で平和に過ごしてほしいとお願しています。

 

 

 

2にキリストの再臨を口実にして怠けている者たち、すなわち、キリストの再臨に対して熱狂的になり、日々の務めをおろそかにする者たちを戒め、逆にキリストの再臨が来れば、主に裁かれて自分は滅んでしまうと恐れている弱い兄弟姉妹を励ましてほしいと、パウロはお願いしています。

 

 

 

そしてパウロは、迫害の中にあるテサロニケ教会の兄弟姉妹たちに悪をもって悪に報いないで、どんな人にも、すべての人に善きことを行うように努めなさいとお願いしています。

 

 

 

それに続いて使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちに、今朝の御言葉を勧めています。

 

 

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

 

 

使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちに「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望まれている生活」をしてほしいとお願いしているのです。

 

 

 

それは、教会に対する神の御心であり、わたしたちキリスト者に対する神の御心です。神の御心ですので、使徒パウロは命令形で述べています。

 

 

 

1に「いつも喜んでいなさい。」

 

 

 

この喜びは、聖霊の実の一つです(ローマ147)。この喜びは、キリストの十字架の贖いから出てくるものであります。

 

 

 

ですから使徒パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちに「“霊”の火を消してはいけません」と命令しています。聖霊に満たされなければ、教会とわたしたちに喜びは生まれません。

 

 

 

聖霊が満ちた場が教会の礼拝です。ですから、聖霊のお働きを、わたしたちがもっともよく感ずるのは、礼拝であります。聖霊は、御言葉と礼典と祈りを通して、教会の礼拝において豊かにお働きくださっています。

 

 

 

「いつも喜んでいなさい」、わたしたちが常に喜べるのは、インマヌエル、神がわたしたちと共にいてくださるからです。それが、わたしたちの教会の礼拝であります。

 

 

 

神は、イエス・キリストにあってわたしたちが神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことを望まれています。まさにこのことのゆえにわたしたちは、教会の礼拝だけでなく、家庭礼拝において、また個人の礼拝においてイエス・キリストにおいて神の栄光をあらわし、神を喜び、そしてわたしたちの生活のすべておいて神をあがめて生きることを、神はわたしたちに望まれているのです。

 

 

 

2に「絶えず祈りなさい。」

 

 

 

祈りは、もっとも深い喜びの根源であります。神がイエス・キリストにおいてわたしたちに望まれることを、わたしたちが実現しようと努めるために、祈りが必要です。

 

 

 

祈りは、主イエス・キリストから学びましょう。

 

 

 

主イエスは、十字架にかかる前の夜、ゲツセマネの園において血の汗を流して祈られました。そして、苦しみの中で主イエスは、「わたしの思いではなく、父の御心のままにしてください」とお祈りになりました。そして主イエスは、父なる神の御心を成し遂げて、ゴルゴタの十字架の上で死なれました。最後に主イエスは「すべては成就した」と述べられました。

 

 

 

主イエスは祈りを通して、十字架の死に至るまで父なる神に従順に歩まれました。主イエスの祈りは、言いかえれば、父なる神への従順でありました。

 

 

 

そこに目を向けると、わたしたちは、次のことを学ぶことができます。祈りは、絶えず声を出して祈ることが大切なのではないということです。主イエスは、父なる神への祈りを通して、父なる神を徹頭徹尾信頼されました。そして、父なる神の御心に従って歩まれました。

 

 

 

キリストを模範にして、教会とわたしたちも祈りを通して、徹頭徹尾主イエス・キリストを信頼しましょう。主イエス・キリストの御心に従って歩みましょう。

 

 

 

3に「どんなことにも感謝しなさい。」

 

 

 

パウロが言う感謝は、形のことではありません。

 

 

 

どんな不幸も悲しみも感謝する。無理やり自分で、そういう気持ちになれと、パウロは命じてはいないと、わたしは思います。

 

 

 

確かにテサロニケ教会の兄弟姉妹たちは、ユダヤ人たちの迫害を受けていました。ローマの官憲の迫害も受けていました。町の人々からも迫害を受けていたでしょう。また、家庭に、職場に悲しみがあり苦難があったでしょう。

 

 

 

パウロは、教会とキリスト者が「感謝する」ことを、人の徳として教えているのではありません。むしろ、教会とキリスト者が何事でも感謝することで、感謝する「すべてのこと」が神の御手の中にあることを教えているのです。

 

 

 

教会とキリスト者がすべてのことを感謝することは、神の主権性と神の摂理に対する信仰告白なのです。

 

 

 

今朝の御言葉からわたしたちは、次のことを教えられます。今年も共に礼拝において喜んで神の御言葉を聞きましょう。祈りを通して神を信頼し、神の御心に従って歩みましょう。そして、すべてのことを感謝し、神の主権性と神の摂理を信じましょう。これが神がキリストの十字架の贖いを通してわたしたちをこの上諏訪湖畔教会に召してくださった意味であり、父なる神がわたしたちに2014年にお望みになっていることであります。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちが新しき一年を通して、神を喜び、祈りをもって神を信頼し、すべてのことを、どんなことも感謝し、すべてに神の主権性と摂理を信じて歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 

 

 

 

 

  2014年イースター伝道集会説教     2014年4月20日

  イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
             ヨハネによる福音書第11章38-44節
 
  説教題:「新しい命の希望-人は死で終わらない-」
  イースターおめでとうございます。
  今朝は、主イエスが死んだラザロを墓の中からよみがえらされた奇跡の出来事を御一緒に学びましょう。
  先週一週間、教会とわたしたちは、キリストの御受難を覚えて過ごしました。すなわち、マルコによる福音書にキリストの最後の一週間の受難の記事があります。キリストがエルサレムの都にユダヤ人の王として入城されたこと、エルサレムの神殿でユダヤの民衆に教えられたこと、12弟子たちと最後の晩餐をされたこと、弟子の一人ユダが主イエスを裏切り、主イエスがユダヤの官憲に逮捕されたこと、裁判にかけられたこと、ローマ総督ポンティオ・ピラトのもとで死刑を宣告されたこと、ローマの兵士たちに侮辱され、ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられたこと、墓に葬られたこと。キリストが7日間の苦しまれたことを覚えながら過ごしました。
 
  また、先週は、韓国の旅客船が転覆し、修学旅行をしていた多くの高校生たちや人々が遭難しました。本当に悲しいニュースでした。遭難した高校生たちや人々が一刻も早く救助されるように、そして遭難された方々のご家族に慰めと平安がありますように祈りました。
 
  この悲しいニュースを通して、人間は必ず死ぬのだという、この厳しい現実に目を向けさせられました。
 
  わたしたちが人間の死を悲しみますのは、数字や数量の問題ではありません。旅客船の遭難者が多かったから、わたしたちは死を悲しむのではありません。愛する者たちの死であったから、悲しむのです。わたしたちが死を悲しむのは、その人を愛するからであります。わたしたちは、愛する人に永久に会えなくなる、それが人間の死であります。人はだれでも、死んでしまえば終わりであると思うのです。
 
  しかし、この世においてキリスト教会は、世の光として、死の暗闇の中に置かれています。そして、この世の人々にキリストの復活を良きニュースとして伝えているのです。人生は死で終わると思っている人々に、キリスト教会には「死人の中からキリストがよみがえられた」、この良き知らせを世界に伝える使命があります。キリストによってもたらされた新しい命の希望を、人類への良きニュースとして伝えているのです。
 
  その良きニュースの一つが、主イエスが、墓に葬られたラザロをよみがえらされたというビックニュースでありました。
 
  エルサレムの都から数キロ離れたベタニアの村にマルタとマリア姉妹がいました。彼女たちは、主イエスの女弟子たちでした。彼女たちには、愛する兄弟のラザロがいました。彼は重い病気で、危険な状態にありました。そこでマルタとマリアは、主イエスのところに人を遣わして、主イエスに助けを求めました。そのとき、主イエスは、遣わされた者に「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました(ヨハネ11:4)。そして、主イエスは、急いでベタニアの村に向かわれませんでした。二日間同じところに滞在され、それから主イエスは12弟子たちを連れて、ユダヤのベタニアの村に向かわれました。
 
  主イエスがベタニアの村に着かれると、ラザロはすでに死んで四日経っていました。彼の遺体は、墓に葬られていました。主イエスを出迎えに来たマルタに、主イエスは「彼は今よみがえる」と言われました。ところが、マルタは主イエスに「終わりの日に弟がよみがえることを信じています」と答えました。そして、妹のマリアも主イエスに「もしあなたがここに居てくだされば、弟は死ななかったでしょう」と言いました(ヨハネ11:32)。姉妹の周りを取り囲む人々も、「盲人を癒されたこの人も、愛するラザロを死なさないようにできなかったのか」と言って、涙し悲しんでいたのです(ヨハネ11:37)。
 
  現代のわたしたちは、死人のよみがえりを信じていません。主イエスの時代も同じです。主イエスの弟子の一人であるマルタもマリアも、そして彼女たちを取り囲む人々も死人がよみがえらされることを信じてはいません。なぜなら、人の常識と経験は、人生は死で終わるからです。人は死んでしまえば終わりなのです。よみがえることはありません。
 
  だから、主イエスは、彼の女弟子たちや周りの人々が主の愛されたラザロの死に絶望し、涙し泣いている姿を御覧になりました。そして、主イエスは、憤りを覚え、興奮して、言われました。「どこに葬ったのか」と(ヨハネ11:33)。彼らは主イエスをラザロの墓に案内しました。墓に来られた主イエスは、再び心に憤りを覚えて、ラザロの墓の入り口のふたを開けるようにお命じになりました。
 
  主イエスは、これまで死人をよみがえらせる奇跡をなさっています。会堂司のヤイロの娘をよみがえらされました(マルコ5:21-34)。ナインの町のある母親の一人息子をよみがえらせる奇跡をなさいました。これらの奇跡は、死んだ者が四日経ていませんでした。人の魂が体を離れていないと信じられていました。ですから、マリアは、もし弟が死んですぐであれば、主イエスは弟を死なないようにできたとおもったのです。ラザロは、死んで四日経ち、彼の魂は彼らの体を離れてしまった。だから、ラザロは死んでしまった。もうお終いであると、彼らは絶望し、涙し泣いたのです。
 
  ですから、この主イエスが死んで墓に葬られたラザロをよみがえらされるという奇跡は、まことに異常な出来事でありました。
 
  死は、本来神が創造された世界には存在しませんでした(創世記1章)。神が創造された最初の人間アダムが神の戒めを破り、この世に死が入り込みました(創世記3章、ローマ5:12)。
 
  神の子が人の子として、この世に来られたのは、わたしたち人間を罪とこの死から解放し、救い出すためでありました。
 
  救い主イエスにとって死は、憎むべきものでありました。そしてよみがえりこそ、わたしたち人間が罪と死から解放され、救われる唯一の救いであります。
 
  死んで墓に葬られ、全く死に支配されたラザロを、主イエスがよみがえらせるという異常さを、ヨハネ福音書はわたしたちに知らせるために、2度に渡って主イエスが「心に憤りを覚えて」この奇跡を行われたと記しています。
 
  主イエスがよみがえらされたラザロは、人々が口にしましたように「主が愛された兄弟」であります。すなわち、主イエスの弟子であり、キリスト者であります。主イエスは、ラザロの墓の前で、主が愛された者、すなわち、キリスト者の死に立ち向かおうとされたと、ヨハネ福音書はわたしたちに証言しているのです。
 
  さらに主イエスが、ラザロをよみがえらせる奇跡を行われたのは、神の栄光をあらわすためでありました。主イエスは、御自身の奇跡の御業を通して、御自身が神から遣わされたメシアであることを明らかにし、神の栄光をあらわそうとされました。
 
  御子主イエスは、父なる神と御自身の関係を良く知っておられますが、主イエスの周りにいる者たちは知りません。ですから、墓に葬られたラザロをよみがえらせる奇跡を通して、主イエスが父なる神より遣わされたメシアであることを信じさせてくださいと、主イエスは父なる神にお祈りになりました。
 
  こうして主イエスは、ラザロの墓の前で大声を出して、「ラザロ、出て来なさい」と叫ばれました。「すると、死んでいた人が手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた」と、ヨハネ福音書は記しています。
 
  アダムが神の御前に罪を犯し、以来全人類は堕落し、神が創造されたこの世界に死が入りました。そして、わたしたちが今経験しているようにこの世界と万物が人の罪によって、死に飲み込まれ、死に向かいました。
 
  この流れを、主イエスが止められ、神が創造された本来の姿に戻されました。主イエスが大声で「ラザロ、出て来なさい」と命じられましたときより、この世界と万物が死から命の方に向かって引き寄せられました。死に飲み込まれていたラザロが命に飲み込まれて、墓の中から出て来ました。
 
  それから、主イエスはエルサレムの都に入られ、御自身が十字架の死によってわたしたちを罪と死から解放し、そして、御自身のよみがえりによってわたしたちを新しい命に、すなわち、神との永遠の命に生かしてくださいました。
 
  聖書は、人類の命の本であり、希望の本であります。神は、ただ独りですが、父、御子、聖霊という3つの人格を持ち、一人の神として永遠に命の交わりをされています。そこに死が存在する余地はありません。
 
  父、御子、聖霊なる、唯一の神は、命の世界を創造されました。そして、キリストのよみがえり、イースターという出来事によって、死に支配された世界と人を、再び永遠の命の世界に回復してくださったのであります。
 
  そして、ラザロのように、主が愛される者は、たとえ死に飲み込まれても、主イエスが大声で「ラザロ、出て来なさい」と叫ばれたら、ラザロが命に飲み込まれて、墓の中から出て来たように、神との永遠の命の交わりに飲み込まれて、新しい命によみがえらされます。
 
  今、主イエスは、今朝のイースター礼拝を通して、わたしたち一人一人に「あなたはこれを信じるか」と問いかけられています。主イエスをわたしの救い主と信じ、主イエスの十字架をわたしの罪のためと受け入れ、主イエスはラザロをよみがえらせ、御自身もよみがえられたと信じるならば、もうあなたは死に飲み込まれてはいません。永遠の命に飲み込まれ、死があなたを支配することのない新しい希望の中にあなたがいる、それが今のあなたの事実であると、主イエスは今朝の御言葉によってお約束してくださるのです。
 
  お祈りします。
  主イエス・キリストの父なる神よ、イースターの朝、わたしたちをこの教会へとお招きくださり、感謝します。イースター集会をし、「新しい命の希望-人生は死で終わらない」というテーマで、聖書の主イエスが墓の中からラザロをよみがえらされたことを学びました。
 
  わたしたちの世界は、万物も人も死に向かっています。まるで死に飲み込まれた世界です。至る所でわたしたちは、愛する者の死に出会い、涙し泣き悲しんでいます。そして、だれもが、人生は死で終わるとあきらめています。
 
  しかし、主イエスは、ラザロの墓の前で「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫び、ラザロがよみがえらされました。主イエス御自身も十字架に死に、三日目によみがえられました。それによって主イエスは、人の罪と憎むべき死を滅ぼされました。今や万物と人は、死から命へと変えられました。本来の神の創造された世界が回復へと向かっています。
 
  Xディー、主イエスが再臨される日は来ていません。ですから、この世界にはなお死が支配しています。しかし、わたしたちは信仰によって確信します。主が愛される者たちは主の御救いにより、死から命に移されて、新しい希望に生かされ、人生が死で終わらないことを。
 
  どうか、この世が続く限り、主が再臨されるまで、教会がキリストのよみがえりを告げ知らせ、人々に人生が死で終わらず、永遠の命の希望があることを伝えさせてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 2015年ペンテコステ礼拝説教         2015年5月24日

その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
その日、わたしは
奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
天と地に、しるしを示す。
それは、血と火と煙の柱である。
主の日、大いなる恐るべき日が来る前に
太陽は闇に、月は血に変わる。
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。
主が言われたように
シオンの山、エルサレムには逃れ場があり
主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
            ヨエル書第3章1-5節

 説教題「神の霊の降臨」
 ペンテコステ、おめでとうございます。
 このようにわたしたちが祝いの挨拶を交わすことができますのは、わたしたちが聖霊をいただいているからです。今朝は、御言葉と聖餐を通してペンテコステを祝いましょう。

 新約聖書の使徒言行録によりますと、およそ2000年昔、エルサレムの都のある家で120名の主イエスの弟子たちが集まり、熱心に祈っていました。そこに聖霊が降臨されました。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」ました。そして聖霊は、120名の主イエスの弟子たちひとりひとりの上にとどまられました(使徒言行録2:3)。すると、主イエスの弟子たちは聖霊に満たされて、聖霊が導くままに他国の様々な言葉を口にして、預言しました。

 聖霊降臨の出来事は、家全体に響き渡るものでした。その大きな音を聞いて、エルサレムの都でペンテコステの祭を祝っていた大勢の人々が集まりました。彼らはいろんな国々からエルサレムの都に詣でていました。そして彼らは自分たちの国の言葉で主イエスの弟子たちが「神の偉大な業を語る」のを聞いて驚きました。

 これがわたしたちの教会の誕生物語です。歴史の出来事は、人々に物語として伝えられて、聞くわたしたちにとって真実となります。使徒パウロは次のように証言しています。「わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を知らせたか。しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」(Ⅰコリント15:1-2)。

 福音とは、良き知らせです。ペンテコステの日に使徒ペトロが説教しました。使徒言行録には使徒たちの説教が18あり、使徒言行録という書物の4分の1を説教が占めています。キリストの福音は、使徒たちによって説教という形で地中海世界を支配していたローマ帝国に宣べ伝えられました。そして、それ以後の2000年間のキリスト教の宣教は、説教と礼典と祈りを通してなされ、特に宣教の中心的なわざは、説教でありました。

 ペンテコステの出来事を通して、エルサレム教会が生まれ、エルサレム教会から全世界に向けてキリスト教の宣教が始まりました。その発端が使徒ペトロの説教でありました。キリスト教の宣教の中心が説教であったことは、キリスト教の根底をなしています。

 なぜなら、さらに教会の起源をたどれば、主イエス・キリストに至ります。キリストは受肉された言葉です。洗礼者ヨハネからヨルダン川のほとりで洗礼を受けられ、天が裂けて、聖霊が鳩のように降臨され、父なる神の御声が響きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)。聖霊は主イエスにとどまられました。そして、キリストは3年間の公生涯をガリラヤの宣教から始められ、十字架の死に至るまで神の国を宣教されました。

 聖霊はキリストにとどまって福音宣教を課され、教会にとどまって使徒たちやわたしたちに福音宣教を課されています。ですから、教会で、そして礼拝の中で説教がなされることがキリスト教の根底であり、新約聖書が証言するようにキリスト教の宣教の中心のわざが説教であるということに、聖書的、神学的歴史的根拠があります。

 今朝は、旧約聖書のヨエル書からペンテコステの喜びを学びたいと願っています。ヨエル書は、旧約聖書の中の「十二預言書」と呼ばれる小さな預言書の一つであります。預言書には、その預言者が活躍した年代やその預言者の時代にどの王が国を治めていたかを記しています。ところがヨエル書には、預言者の「ベトエルの子ヨエル」という名前しかありません。

 ですから、ヨエルがいつごろの預言者として活躍したか、はっきりしません。いろいろ言われていますが、主に次の2つが有力です。一つは、南ユダ王国のヨシュア王の時代に活躍したという説です。もう一つは、バビロン捕囚後に活躍したという説です。わたしは、後者を支持したいです。

 ヨエル書は、第1部と第2部に分かれています。1章から2章17節までが第1部です。イナゴの大きな被害を記しています。イナゴの大群が飛来し、農作物を食い荒らし、国の食糧がなくなってしまいました。主なる神は預言者ヨエルを通して神の民にその出来事を主の日が来るしるしであると告げ知らせられました。主の日とは、神が諸国民と神の民を裁かれる日であります。ですから、預言者ヨエルを通して主なる神は、神の民たちに罪を嘆き、悔い改めて、神に立ち帰るように訴えられました。

 2章18節から4章までが第2部です。預言者ヨエルを通して訴えられた主なる神に人々が立ち帰り、そして主なる神に祈りと嘆願をしました。それに対して主なる神が預言者ヨエルを通して答えられたのが、第2部であります。主なる神は、預言者ヨエルを通してユダとエルサレムの解放を、「主の名を呼ぶ者」に対する新しい命と救いを約束されました。

 ヨエル書3章1-5節は、預言者ヨエルを通して主なる神が、神の御救いの歴史における未来の出来事を明らかにされました。旧約聖書の救いとは、主なる神が神の民イスラエルと共にいてくださることです。一言で言えば、「インマヌエル」、神の現臨です。

 さて、主なる神は、預言者ヨエルを通して、神の民の救いである「神の現臨」をどのように未来に実現するかを、幻、すなわち、黙示という方法で表されたのが、今朝の御言葉のヨエル記3章です。

 1節の「その後」とは、主なる神が大きな転換をされた後という意味です。主なる神は、イナゴの大群の被害で、主の日を示されました。諸国民を裁くので、主なる神は預言者ヨエルを通して神の民に罪を悔い改め、主なる神に立ち帰るように訴えられました。ところが、主なる神は裁きから平和へと大きく転換されました。「平和」とは神が神の民を救われることです。主なる神が神の民と和解し、彼らと共にいてくださることで、神の現臨で実現することです。

 そのために主なる神は預言者ヨエルを通して、次のように言われました。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」「その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」

  主なる神は、霊を注ぐことと御言葉を語ることで大きく転換されました。「すべての人にわが霊を注ぐ」「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」ことによって、主なる神は神の民たちの内にとどまられます。聖霊を通して主なる神がすべての人々の内に、そして男女の奴隷たちの内にも現臨してくださいます。それによってすべての人々が、男女の奴隷が預言者ヨエルにされます。預言者のように神の言葉を語り、夢と幻を見ます。預言者は息子であり、娘であり、若者であり、老人であります。聖霊をいただく者は、息子であろうと娘であろうと、男女の奴隷であろうと、老人であろうと若者であろうと、神の御言葉を語り、神の御救いの啓示を受け取り、人々に伝えることができるのです。
 
  やがて3-4節に記されています主の日がやって来ます。主なる神がすべての諸国民を裁かれる終末が来ます。「天と地に」、すなわち、この世界にこの世の終わりの予兆が示されます。「血と火と煙の柱」とは戦争をイメージしています。「太陽が闇に、月が血に変わる」とは、天体に起こる大異変をイメージしています。これらのイメージは、主なる神が諸国民を裁かれる恐ろしい前兆であります。
 
  そして、主なる神は預言者ヨエルを通して5節で「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。」と、主の御名を呼ぶ者たちの救いを約束されました。新約聖書のローマの信徒への手紙10章13節で、使徒パウロは主イエスを心で信じて、口で告白する者は救われると述べて、この御言葉を引用しています。そして、使徒パウロは続けて、14節以下で「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうしてしんじられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」
 
  主なる神が聖霊を注がれ、息子、娘たちがエルサレムの神殿で説教をし、その礼拝に集まる者たちがそれを聞いて、主の御名を信じます。そして主の御名を信じて、主を礼拝する者たちを、主なる神は主の日に救ってくださいます。
 
  預言者ヨエルの時代は、主なる神はエルサレムの都にあるエルサレム神殿に現臨されました。だから「シオンの山、エルサレムに神の救いがある」のです。そして、主なる神の救いに、「残りの者」もあずかることができます。この「残りの者」とは主なる神が選ばれた者たちであり、神が世界の諸国民の中から選ばれたわたしたち異邦人キリスト者たちであると、わたしは信じています。
 
  預言者ヨエルの預言は、確かに使徒言行録の第2章のペンテコステの出来事で実現しました。主イエスは教会に、そしてすべてのキリスト者に聖霊をお遣わしになりました。そして、聖霊をいただく者は、すべて預言者、祭司です。預言者として人々に神の言葉を語り、祭司として人々をキリストに執り成すことができます。
 
  とりわけ、宗教改革以後、聖書が万人に手渡され、すべてのキリスト者は万人祭司とされ、キリストの福音を伝え、神との和解の務めを、日々の生活の中でなしています。
 
  それでも宗教改革以後、今日まで毎週日曜日に教会で礼拝がなされ、その中心が説教であることには変わりがありません。聖餐式がなされなくても、説教は必ずなされます。聖書朗読がなされれば、礼拝は成り立つでしょうが、世界中のプロテスタント教会の中で説教がなされない教会はありません。
 
  それは、実践的な根拠からです。わたしたちは、キリストの言葉である説教を聞いて、それを信じて救われるからです。宗教改革者たちが再発見した「信仰義認」の教理は、わたしは毎週日曜日の礼拝説教を聞くことで、わたしたちが確かめることのできる救いの真理であると思います。
 
  この教会にわたしたちを招かれます主イエスは、今天におられます。しかし、主イエスは聖霊を教会とわたしたちに遣わされて、聖霊と共にこの教会に、そして主イエスを救い主と信じて洗礼を受けたわたしたちの内にいてくださいます。何よりも、目には見えませんが、聖霊を通して御言葉が語られているところに、主イエスが現臨されています。だから、わたしは信じています。わたしたちが主を礼拝するところで、説教が語られ、わたしたちがそれを聞いて、自分の罪を悔い改め、主イエスを救い主と信じるならば、いつでもここで洗礼という形で、わたしたちは主の救い出来事を見ることができます。
 
  わたしたちは、今から共に聖餐式にもあずかります。一種の儀式ですが、中心は、神の御言葉であり、福音であります。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一11章26節の聖餐式の式辞で、このように述べています。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」
 
  罪と死からわたしたちを救うことの御力を持つ復活の主イエス・キリストが、この聖餐式の主人です。復活の主イエス・キリストは、わたしたちの目には見えません。しかし、聖霊と御言葉を通して、この場にいてくださいます。だから、説教と同じです。目に見えないキリストを信じる信仰が、必要でありますし、その信仰は聖霊をいただかなければ、わたしたちの賜物とはなり得ません。信仰によって、わたしたちは裂かれたパンを通して十字架の上でわたしたちの罪のために体を裂かれたキリストを、そして杯に注がれたぶどう酒を通して流されたキリストの血を思い起こします。そしてわたしは信じます。キリストの十字架の死がわたしの罪のためであることを、そして、キリストの復活がわたしの永遠の命の保証であると。
 
  今朝のペンテコステの日に、わたしたちが信じなければならないことは、今ここに復活の主イエス・キリストが、わたしたちと共に、この教会にいてくださっているということです。聖霊を通して復活のキリストが今ここにいてくださるので、わたしは今日も十字架のキリストのゆえにキリスト者としての存在を許され、ペンテコステ礼拝で主を礼拝し、聖餐にあずかることを許されていると信じています。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステの日に主を礼拝し、御言葉と聖餐の恵みにあずかれる祝福を心より感謝します。
 
  復活の主イエス・キリストは天に昇られ、地上の教会とわたしたちキリスト者に聖霊をお与えくださり、心より感謝します。
 
  聖霊をいただいた地上の教会は、宣教のわざを説教中心になし、御言葉によってこの世にキリストの教会を建て上げてきました。わたしたちの教会も、聖霊に導かれて、およそ70年間礼拝を守り、御言葉と聖餐の恵みにあずかり、キリストの教会を形成してきました。
 
  願わくは、預言者ヨエルが預言しました主の日はなお未来であります。キリストの再臨を待ち望みつつ、毎週の日曜日に主を礼拝し、御言葉を聞き続けさせてください。
 
  わたしたちは、聖霊をいただいています。預言者ヨエルが預言した預言者であり祭司です。家族や地域の人々に、友人たちに預言をし、キリストの執り成すことを許されています。この世の終わりが来ないうちに、ひとりでも多くの方々にキリストの福音を伝えさせてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 2016年度聖句による説教         2016年1月31日

 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは一年六カ月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。
                    使徒言行録第18章9-11節

 説教:「恐れるな。語り続けよ」
 本日は午後に会員総会を開きます。現住陪餐会員はぜひ出席していただき、昨年度の報告を聞いて受け入れていただき、またいくつかの提案を審議していただき、今年度の教会の歩みに心をとめて、共に主の恵みを覚え、今年一年主に期待して歩むことができれば幸いです。また、今年は任期満了に伴う長老選挙がありますので、選挙を通して教会の政治にもかかわってほしいと思います。

 さて、わたしたちの教会は、地方にある小さな群れです。戦後に生まれ、2018年で70周年を迎えます。昨年は戦後70周年を記念していろんなことが行われました。今年はわたしたちの日本キリスト改革派教会が大会創立70周年を迎えますので、5月3日に仙台市で大会創立70周年記念信徒大会が開催されます。そして、来年は宗教改革500周年を迎え、いろんな行事が予定されています。

 まずは「70年」に注目したいと思います。

 紀元30年に、主イエスが十字架刑で死なれ、復活し、昇天され、その後に天から聖霊が降られ、エルサレムに最初のキリスト教会が誕生しました。それから70年後キリスト教はローマ帝国中に広がり、ドミティアヌス帝、トラヤヌス帝の迫害化にありました。それでもキリスト教会は多くの殉教者を出しながら、福音宣教を続けました。そして、多くの殉教者の血によってキリスト教とキリスト教会は、ローマ帝国内に根付いていきました。

 紀元2世紀ごろ、70年を過ぎたキリスト教会は、外は国家の迫害に苦しみ、内では異端との戦いに苦しみながら、福音宣教を続けていました。おそらく当時のキリスト者にとっては、主イエスが「恐れることはない。小さな群れよ。あなた方の父は、あなた方にみ国を与えるのを喜びとされる」という語られた御言葉に励まされていたのでしょう。

 さらに日本のプロテスタント教会がアメリカの宣教師たちの福音宣教によって生まれましたのは、19世紀後半です。1861年にバラ宣教師が妻と共に嵐の海の中、船で日本にやって来ました。それから彼がプロテスタント教会最初の洗礼者を得るのに4年を費やしました。

 最初の洗礼者、矢野元隆は病床で洗礼を授けられました。キリシタン禁令の中での出来事でした。明治政府は江戸幕府と同様にキリスト教を認めませんでした。その中で、1872年横浜に日本で最初のプロテスタント教会が生まれました。それが日本基督公会横浜教会です。現在の日本キリスト教会横浜海岸教会です。

 翌年1873年、明治6年にキリシタン禁令の高札が撤去されました。キリスト教が日本全国各地に広まりました。次々に教会が建設されました。そして、改革派と長老派の教会が統合され、日本基督一致教会が生まれました。1890年に日本基督教会と名を改めました。日本プロテスタント最大の教派でした。そして、51年後の1941年に日本キリスト教会は、国家の圧力に屈し、宗教団体法に従って日本プロテスタント教会の各派と共に日本基督教団に統合され、戦争協力しました。

 さて、バラ宣教師は、日本基督一致教会と協力し、信州諏訪に1880年に福音宣教し、上田から和田峠を越えて下諏訪にやって来て、人々に福音を伝えました。下諏訪に講義所ができ、1900年ごろ諏訪市に伝道の拠点が移されて、日本基督教会諏訪教会が生まれました。現在の日本キリスト教団諏訪教会です。

 戦後1948年に諏訪教会から松尾智恵子先生はじめ25名の教会員が教団を離脱し、1946年に創立された日本基督改革派教会に加入しました。日本基督改革派灘教会所属諏訪伝道所としてスタートしました。

 詳しくは、年報の「上諏訪湖畔教会 素描」を見てください。機関紙「風」に紹介していますが、前任者辻幸宏先生が、わたしたちの教会の50年をまとめられ、3つの時期に分けておられます。

 第1期は、1948年から1952年です。教団から離脱し、日本キリスト改革派教会に加入し、改革派教会として歩み始めた時代です。灘教会の所属伝道所から西部中会の所属伝道への移行した時代です。最初の宣教教師岡田稔先生から最初の定住伝道者森居康次先生の時代です。

 第2期は、1953年から1964年です。CRCの所属伝道所の時代です。宣教師たちに飯田幸之助先生が協力されていた時代です。土地と会堂が与えられ、今のわたしたちの教会の土台が据えられた時代です。

 第3期は1965年から2008年です。東部中会所属伝道所として再出発した時代です。飯田先生、辻先生、馬場先生、わたしの4人の時代です。甲信地区にあります3つの伝道所、甲府塩部、上諏訪湖畔、佐久伝道所がCRCから東部中会に移管され、7年計画で独立を目指しました。

 『日本キリスト改革派教会 東部中会五十五年の歩み』に、長田秀夫先生が80年代の上諏訪湖畔伝道所を次のように記されています。「上諏訪湖畔伝道所は、小さい群れながら、地道な礼拝と伝道を続けてきた。忠実な信者が礼拝を守っており、聖書研究会に新しい熱心な婦人たちが集い始めている状況は、上諏訪伝道の歴史の中で最も希望の持てる時期を迎えていた。一九八三年以来、松本方面伝道の試みが何回かなされ、中断もあったが、信者も数人おり、本格的な伝道の可能性はますます広がりつつあった。」

 当時飯田先生は、新聞コラム伝道を続けておられました。

 90年代以後は、飯田先生の引退があり、辻先生、馬場先生、わたしと目まぐるしく牧師が交代しました。

 先ほどの『東部中会五十五年の歩み』の中で、辻先生が次のように記されています。「上諏訪の長い伝道は、忍耐の伝道であった。異教的土地柄もあって、キリスト教信仰に生きる真の信仰者が育たず、やっと育った信者は都会に流出し、信仰者同士の結婚による契約の家庭が生まれず、信仰が根づかず別帳会員になっていく者も多かった。」

 わたしたちの肉の目で見れば、今も状況は変わりません。しかし、わたしは、わたしたちの肉の目で見るのではなく、今朝の聖書のみ言葉、パウロのコリント伝道を心に留めるべきであると思います。

 パウロのコリント伝道は、成功していたと思います。異教的土地柄で、しかも、不道徳な町コリントでパウロは、天幕作りをしながら、福音宣教し、多くの受洗者を得て、短期間でコリント教会を建て上げました。

 喜んでよいのに、おそらくここでパウロは恐れていたのだと思います。恐れの原因は分かりません。推測するに、パウロが町々で福音宣教し、大勢の受洗者を得て、教会を建てると、必ずユダヤ人たちが妨害し、世の支配者たちが迫害し、エフェソ市の銀細工人のように不利益を被った者たちが町で暴動を起こすことを恐れたのではないでしょか。

 わたしたちは、恐れの前には言葉を失います。怖いと、声を出せません。出せなければ、福音宣教できません。

 だから、復活の主イエスは、ある夜幻のうちに現れ、パウロは励まされました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

 わたしたちの目に今の現実、状況がいかにあろうと、主イエスは、パウロ同様に、わたしたちにまず「恐れるな」と命じられます。

 人を恐れても、将来の不安を恐れても、恐れると言葉が出なくなります。言葉は、わたしたちが人に自分の思いを伝える大切なものです。キリスト者の場合には、隣人に、家族にキリストを伝える大切なものです。

 それ以上に、実はキリストの霊であられる聖霊は、わたしたちがキリストを語る言葉と共にお働きくださるのです。今天にいますキリストは、聖霊としてわたしたちのうちに住まわれています。

 そして、霊としてキリストは、パウロがコリント教会の礼拝で大胆にみ言葉を語り、礼拝に集う者たちがそのみ言葉を聞き従うときに、そこに隣在してくださるのです。

 だから、パウロは御言葉を語り続け、黙ってはなりませんでした。そして、礼拝に集う者たちがパウロのみ言葉を聞き続ける中で、コリント教会に一つの奇跡が起こります。聞く者の中に自分の罪を認めて、礼拝に集う者たちの前で告白し、パウロが語り続けるキリストが自分の罪のために十字架に死なれ、自分の永遠の命のために甦られたと言い表し、キリストを自分の救い主と信じて、洗礼を受けます。

 復活の主イエスは、父なる神が御自身を通して永遠の命に選ばれた多くの民を、コリントの町に置いてくださっていました。

 今年は御柱祭の年です。いつもの年よりは、いろいろと難しいこともあるかもしれません。それぞれの方に信仰の試練というものがあるでしょう。

 だからこそ、今年一年、この主イエスのみ言葉に励まされ、歩もうではありませんか。主を畏れ、人を恐れないで、礼拝を続け、家族・知人にキリストを伝えましょう。

 キリストは、この礼拝に集うわたしたちの中に隣在され、み言葉と聖霊を通して私たちと共にいて、わたしたちを守り、わたしたちを襲って、危害を加える者がないようにしてくださっています。

 わたしたちの教会の70年は、復活の主がパウロに約束してくださった通りでした。わたしたちの教会を襲って危害を加えた者はありません。だから、わたしたちは、だれにも、どこででもキリストを語り続けることができるのです。

 パウロは、コリントの町に一年と六カ月とどまり、人々に福音宣教し、教会の礼拝で説教し、集う者たちに聖書を教えました。わたしたちも、礼拝を守り、祈祷会と聖書の学びの集い、男子会と婦人会、中高生科、有志の学び会を今年一年続けていきましょう。

 嬉しいことは、教会のホームページを見て、この教会に来てくださる方、この教会で記念会をさせていただきたいと申し込まれる方がいます。近隣のチラシ配り、新聞広告や地域誌の案内も続けていきたいと思います。

 礼拝や伝道集会にお誘いする伝道と共に、この教会が来られる方々に、自分がここに居ても良いと思っていただける拠り所となればと願っています。

 現代は、ストレスの時代です。教会がその避難所になればと願っています。

 様々な理由で、教会に来られても、ここで主イエスに出会っていただくことができるなら、ここにわたしたちの教会が存在する意味があると思います。

 お祈りします。

 イエス。キリストの父なる神よ、およそ70年間、わたしたちの教会をお守りくださり、ここにあなたの民たちを呼び集めてくださることを感謝します。

 この後、愛餐の時を持ち、午後に会員総会を開きます。出席するわたしたちにあなたの恵みを豊かに見せてください。

 今年一年諏訪地方は御柱祭でにぎわいます。何ものにも恐れることなく、だれにも、どこでもキリストを証しできるようにしてください。

 主よ、あなたがわたしたちと共にいてくださり、わたしたちを襲い、危害を加える者からお守りください。

 どうか、このわたしたちの小さな群れに、御国の恵みをお与えください。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。

 

 

 

 

 

  2016年ペンテコステ礼拝説教         2015515

 

 

 

 五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者もおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキアポントス、アジア、フルギア、パンフリア、エジプトキレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 

            使徒言行録第2113

 

 

 

 説教題「御霊よ、降りて助けたまえ」

 

 ペンテコステ、おめでとうございます。

 

 このように礼拝でわたしたちが祝いの挨拶を交わすことが、年に3回あります。イースターとペンテコステとクリスマスのです。この3つの出来事は、どれもただ一度この世界の中で、そして歴史において起こった出来事であります。イースターとクリスマスは、主イエス・キリストの受肉と復活の出来事を教会で祝います。ペンテコステは、聖霊が天から降られ、キリスト教会が生まれた日であると考えられており、教会の誕生日であると思っている方が多いと思います。

 

 

 

 わたしもそのように申し上げて来たと思います。しかし、ウェストミンスター神学校の実践神学の教授であったR・B・カイパー先生は、彼の著書、『神中心の伝道―聖書的な伝道の神学』という本ではっきりと間違いであると言っています。彼は言います。「ペンテコステは、よくキリスト教会の誕生日と言われます。それは間違いです。人間の堕落以来、ただ一つの救いの道があっただけです。救われた人はみな、キリスト信仰によって救われました。彼を信じたすべての人は、彼のからだなる教会の肢体でした。旧約時代と新約時代との聖徒たちの間にある、救いについての唯一の相違は、前者が預言のキリストを信じる信仰によって救われ、後者は歴史のキリストを信じる信仰によって救われたということです。しかし、預言のキリストと歴史のキリストが同一であることは言うまでもありません。」

 

 

 

 カイパー先生の理解によれば、キリスト教会はペンテコステの日に生まれたのではありません。それ以前に存在しました。旧約聖書の創世記の315節の原始福音と呼ばれています御言葉を、アダムとエバが信じているのであれば、彼らが最初のキリスト教会の会員です。

 

 

 

 カイパー先生は、ペンテコステがキリスト教会の誕生日であることを何度も間違いだと記しながら、ペンテコステがキリスト教会にとって重要な転機になったと記しています。それは、キリスト教会の普遍性です。ペンテコステの出来事を通して、キリスト教会はユダヤ人の民族性から、聖霊の注ぎを通して世界へ、普遍性へと移行したのです。それを、記録したのが新約聖書の使徒言行録であります。

 

 

 

 使徒言行録は、主イエスの弟子である使徒たちを主人公にしたものではありません。むしろ、聖霊言行録と名付ける方が良かったと思います。聖霊が天から降り、キリスト教会はエルサレムからローマ帝国の首都ローマまでキリストを宣べ伝えました。すべての人々に聖霊が注がれることで、キリスト教会はユダヤ人たちの教会から異邦人の教会に移行し、世界のキリスト教として発展しました。

 

 

 

2000年昔ことです。最初のエルサレム教会の群れは、120名でした。彼らは、一つになり、礼拝し、祈っていました。すでに復活の主イエスは、弟子たち世界宣教を命じ、天に昇られました。彼らは、熱心に集まり、そして、祈りました。そして、ペンテコステの日の朝に、突然そこに聖霊が降臨されました。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」ました。そして聖霊は、120名の主イエスの弟子たちひとりひとりの上にとどまられました(使徒言行録23)。すると、主イエスの弟子たちは聖霊に満たされて、聖霊が導くままに他国の様々な言葉を口にして、預言しました。

 

 

 

 このように聖霊を注がれ、聖霊に満たされることで、キリスト教会は二つの恵みを得ました。一つの恵みは、普遍性であり、もう一つの恵みは、キリスト者が頭であるキリストの体につながれた一つ一つの肢体とされた統一性です。

 

 

 

聖霊降臨の出来事は、そこに居合わせた者たちが体験した出来事でした。それは大きな自然の力として記されています。激しい風が吹くような音が天から響いたこと、炎のような舌が現れ、120人の弟子たち一人ひとりの上にとどまったということです。これらの現象は、天から聖霊が降られ、120名の弟子たちを力づけ、彼らの宣教の働きを助けられたことを象徴しているのです。

 

 

 

大きな物音を聞いて、エルサレムの都でペンテコステの祭を祝っていた大勢の人々が集まって来ました。彼らはいろんな国々からエルサレムの都に詣でていました。彼らは、聖霊に満たされた120名の弟子たちが自分たちの国の言葉で「神の偉大な業を語る」のを聞いて驚きました。

 

 

 

 ペンテコステの日に聖霊に満たされた使徒ペトロが説教しました。その日にペトロが語ります十字架のキリストに、3000人の人々が耳を傾け、聖霊が彼らの心を動かされたので、彼らは罪を悔い、十字架のキリストを信じ、罪の赦しにあずかるために洗礼を受けました。

 

 

 

ペンテコステの出来事から、聖霊に満たされたキリスト者たちは、一つのキリストの福音を、多くの国の言葉で伝えました。使徒たちが語ります説教は、聖霊の働きで力ある神の御言葉となりました。ヘブライ人への手紙412節に次のように記してあります。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」このようにして聖霊は、世界中の人々をキリストの福音をいろんな国の言葉で伝えることを通して、頭であるキリストの体なる一つの教会に招き入れられました。

 

 

 

 このようにペンテコステは、キリスト教会の誕生日というよりも、キリスト教会がユダヤ民族から世界の民に向けて福音宣教を展開し、頭であるキリストの体なる一つの教会へ世界中の人々を招き入れる転機となった記念すべき日なのです。

 

 

 

 ペンテコステの出来事は、キリスト者の生活に、特に聖霊に満たされたキリスト者の生活に特別の光を当てるものでした。

 

 

 

 エルサレム教会の120名の主イエスの弟子たち、後にキリスト者と呼ばれる彼らは、ペンテコステの出来事で「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。

 

 

 

 語り出したのは、「神の偉大な業」であります。キリストの十字架と復活であり、神の救いの歴史でしょう。それを、わたしたち改革派教会は恵みの契約と言っています。神がアブラハムに「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となり、あなたに多くの子孫を与え、カナンの地を所有させ、あなたの子孫より救い主を起こす」と約束されました。その神の約束を、キリストが成就してくださいました。キリストが信仰によってわたしたちをアブラハムに結び付け、彼の子孫としてくださいました。そして、今、わたしたちはアブラハムと同様に、キリストを通して神の民とされ、彼と共に神の御国を相続しています。

 

 

 

 キリスト者の生活は、聖霊に満たされた生活です。これがペンテコステのもう一つの恵みです。聖霊がわたしたちに注がれ、わたしたちは毎週の礼拝で説教を聞くごとに、聖霊がわたしたちの心を刺激し、励ましてくださるのです。聖霊が聖書の御言葉を通して、わたしたちの心を動かしてくださるのです。

 

 

 

 英国の有名な説教者、ロイドジョンズがエフェソの信徒への手紙を連続講解説教し、日本語に翻訳されています。わたしは、その一部分の翻訳本を買い求めて読んだことがあります。彼は、聖霊が注がれ、聖霊に満たされたキリスト者は幸せであると言っています。なぜなら、彼に聖霊が御言葉を通して次々に刺激を与えられ、彼は聖霊によって心を広められ、心に感動を与えられ、聖霊によって大きくなる人である。すなわち、礼拝で御言葉を聞くごとに、彼は何かしたいと思い、キリストと教会に貢献することを願い、神の国の領域を広げることを願い、他の人々も共に聖霊の恵みの刺激にあずかることを願うのである。キリスト者は、全人格、知性と感情と意志のすべてに聖霊の影響を受ける。聖霊は何という刺激剤であろう。

 

 

 

 ロイドジョンズが言う「神の国の領域」とは、家庭、学校、会社、国家でしょう。聖霊に満たされたキリスト者は、そのすべてでキリストが主となられることを願うでしょう。

 

 

 

 またロイドジョンズは、いいます。キリスト者の生活は幸福な生活であると。聖霊に満たされ、喜びにあふれるからです。幸福になりたい、喜びたいなら、聖霊に満たされることです。あなたの心に常に神の愛が注がれていることを、毎週の日曜日に、聖霊が御言葉を通して伝えてくださるからです。

 

 

 

 いや喜びはありません。そう思うのであれば、祈る以外にありません。「御霊よ、降りて助けたまえ」と。

 

 

 

主イエスは聖霊を風にたとえられました。聖霊は自由のお方であり、主権者でもあられます。誰も聖霊を捕らえることはできません。ところが、主イエスがその聖霊をペンテコステの日に注がれました。その日以来、キリスト者は聖霊に満たされています。だから、キリスト者は、御言葉を通して語られる聖霊の御声に、彼の心を刺激され、十字架の神の愛を通して、自らの罪を示され、同時に父なる神がキリストのゆえにその罪を赦してくださることを伝え、彼を喜びへと導かれるのです。

 

 

 

 わたしは、今朝の御言葉から、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話した」という聖書の御言葉から、キリスト者が聖霊に満たされることは普遍のことであると信じます。わたしは、信仰告白し洗礼を受けた時、主イエスに聖霊を注がれ、聖霊に満たされたと信じます。

 

 

 

ロイドジョンズは、言います。「キリスト者生活をするには、道は一つしかない。それは、『聖霊に満たされることである』」と。

 

 

 

最後に、今朝は、この後聖餐式にあずかります。ペンテコステの日に、キリストは聖霊と共に来られました。そして、聖霊と御言葉が、この教会にわたしたちを招かれます主イエスの臨在を証ししています。確かに復活の主イエスは、今天におられます。しかし、主イエスは聖霊を教会とわたしたちに遣わされて、遣わされた聖霊と共にこの教会に、そして主イエスを救い主と信じて洗礼を受けたわたしたちの内にいてくださいます。

 

 

 

目に見える真理でありません。御言葉を聞いて信じる以外にありません。しかし、聖餐式においても、御言葉が語られます。聖霊はその御言葉に働きかけて、聞きますわたしたちの心を動かしてくださいます。

 

 

 

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一1126節の聖餐式の式辞で、このように述べています。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」

 

 

 

罪と死からわたしたちを救うことの御力を持つ復活の主イエス・キリストがこの聖餐式の主人です。主は、わたしたちの目には見えません。しかし、聖霊と御言葉を通して、確かにこの場にいてくださいます。だから、目に見えないキリストを信じる信仰が必要であります。その信仰は聖霊を注がれ、聖霊に満たされた者にだけ与えられています。聖霊により賜る信仰によって、わたしたちは裂かれたパンを見て、十字架の上でわたしたちの罪のために体を裂かれたキリストを覚え、そしてかかげられた杯を見て、十字架で流されたキリストの血によって、わたしたちは罪をゆるされたことを、覚えようではありませんか。そして、心から喜びをもってわたしたちは信じようではありませんか。キリストの十字架の死がわたしたちの罪のためであることを、そして、キリストの復活がわたしたちの永遠の命の保証であると。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステの日に主を礼拝し、御言葉と聖餐の恵みにあずかれる祝福を心より感謝します。

 

 

 

ペンテコステに聖霊がエルサレム教会に注がれ、キリストの福音が全世界の人々に向けて語られ、全世界の人々が頭である主イエス・キリストの体なる一つの教会に招かれていることを感謝します。します。

 

 

 

キリスト者が聖霊に満たされて、日々に生きることのできるのを感謝します。どうか、わたしたちが礼拝で説教を聞きます時、聖霊がわたしたちに賜る信仰によって御言葉への理解をお与えくださり、わたしたちの心を刺激し、日々罪を悔い、キリストにより頼む生活へと導いてください。

 

 

 

受ける恵みに感謝すると共に、わたしたちに与える喜びをお与えください。どうか家族の者に、隣人にキリストを伝えることができるようにしてください。

 

 

 

願わくは、聖霊に導かれて、祈り、聖書と教理を学び、奉仕にあずからせてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

イースター伝道集会説教(2017)    2017416

 

 

 

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

 

 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人クレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓に行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先に行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。一緒に食事の席に着いたときい、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

          ルカによる福音書第241335

 

 

 

 説教題:「復活の主イエスとの出会い」

 

 主イエス・キリストは、死者の中から甦られました。イースター、おめでとうございます。

 

 

 

 世界中の教会で、キリスト者たちが互いに、今日は「主イエスは甦られました。おめでとうございます」と挨拶をします。

 

 

 

「イースター」は「復活祭」とも呼ばれています。日曜日の朝に、死者の中から復活された主イエス・キリストを記念し、お祝いするキリスト教会のお祭りです。

 

 

 

 「イースター」は、わたしたちが生きているこの世界で起こった出来事です。わたしたちが手にしている聖書だけが証ししています。

 

 

 

ですから、ルカによる福音書も他の福音書に合わせて、主イエス・キリストが死者の中から復活されたのは、「週の初めの日」、すなわち、一週間の最初の日の日曜日であったと記しています(ルカ24:1)

 

 

 

当然、わたしたちの日常世界において起こった出来事ですから、目撃者がいます。

 

 

 

その目撃者は、主イエス・キリストがゴルゴタの丘の上で十字架刑によって死んだことを目撃していました。

 

 

 

そして、主イエス・キリストが死者の中から復活し、彼らの前に現れたことを目撃したのです。

 

 

 

ルカによる福音書の24章は、その目撃者たちの証言を記録したものです。最初に遠くからキリストの十字架刑を見守っていた婦人たちの証言が記されています。

 

 

 

彼女たちは、主イエスが死なれて、3日目、週の初めの日の朝早く、主イエスが葬られた墓を訪れました。ところが、既に墓の入口をふさいでいた大きな石は取り除かれており、墓の中に主イエスの遺体を見つけることができませんでした。二人の御使いが彼女たちの前に現れ、主イエスが復活されたことを告げました。

 

 

 

墓から戻りました婦人たちは、エルサレムの町のある家に隠れていた主イエスの弟子たちに、墓の中に主イエスの遺体が見つからなかったことと御使いが「主イエスは復活した」と告げたことを伝えました。

 

 

 

婦人たちの証言を聞いて、ペトロが墓に行って確かめました。墓の中には主イエスの遺体を包んでいた亜麻布しか残っていませんでした。

 

 

 

このようにルカによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの弟子たちやガリラヤから主イエスと弟子たちのお世話をするためについて来た婦人たちの証言を通して、主イエスが葬られた墓に、主イエスの遺体がなかったという事実と御使いたちが「主イエスは復活なさったのだ」というメッセージを通して、主イエス・キリストの復活を証言しています。

 

 

 

今朝の御言葉のメッセージの中心は、23節の二人の御使いのメッセージ「イエスは生きておられる」であります。

 

 

 

主イエス・キリストの復活とは、主イエスは今生きておられる、という真実であります。

 

 

 

この真実を聖書はわたしたちに証言し、わたしたちはその証言を信じているので、こうして日曜日の朝に復活の主イエスの復活を記念して毎週礼拝をしているのです。

 

 

 

しかし、二人の御使いたちの「主イエスは生きておられる」というメッセージだけでは不十分であることを、ルカによる福音書は知っているのです。

 

 

 

「主イエスは復活された」「主イエスは今生きておられる」と言う限りには、復活し、今生きている主イエス御自身が現れ、それを目撃するのでなければ、御使いたちのメッセージが真実とは言えないと、ルカによる福音書は考えたのではないでしょうか。

 

 

 

そこでルカによる福音書は、続けて同じ日の夕方に、復活し、今生きている主イエスが彼の二人の弟子たちに現れてくださったことを記しています。

 

 

 

日曜日の夕方の出来事です。エルサレムの都から11キロ離れたエマオの村へと主イエスの弟子のクレオパともう一人の弟子が歩いていました。

 

 

 

彼らは、週の初めの日の一日の出来事を話し合いながら歩いていました。朝早く婦人たちが主イエスの墓を訪れたそうだ。ところが墓の中に主イエスの遺体を見つけることができず、二人の御使いが彼女たちに「主イエスは復活した」と告げたそうだ。そこで婦人たちがエルサレムの都にわたしたちに伝えてくれたわけだが、ペトロたちが墓に行き、主イエスの遺体がなかったことを確かめきた。何が何だか分からない。本当に驚かされる一日だ。

 

 

 

そのように会話しながら歩いている二人。彼らは、婦人たちが彼らに伝えた二人の御使いの「主イエスは復活された」というメッセージを信じてはいません。

 

 

 

彼らが信じるためには、復活し、今生きている主イエスが二人の弟子の前に現れてくださる必要がありました。

 

 

 

だから、ルカによる福音書は、復活の主イエスが旅人の姿で現れ、二人に近づかれ、彼らと一緒に歩かれたと記しています(15)

 

 

 

ルカによる福音書は、わたしたち読者に次のことを伝えています。すなわち、どうして復活の主イエスが旅人の姿で二人の弟子たちに現れたかであります。

 

 

 

それは、主イエスが復活されたことを信じない弟子たちが信じるようになるためであります。

 

 

 

不信仰のため、目が遮られて、今主イエスが生きて、彼らの御前におられるのに、目が遮られて、復活の主イエスが見えていない弟子たちが見えるようになるためです。

 

 

 

そのために主イエスは、二つのことをなさいます。第1に主イエスは弟子たちに旧約聖書を紐解いて、御自身の受難と死と復活を説明されました。第2に彼ら共に聖餐の食事をなさいました。

 

 

 

最初は、復活の主イエスに気づかない二人でしたが、主イエスが旅人の姿で、二人に旧約聖書から解き起こして、キリストが死者の中から復活することを明らかにされ、その主イエスの説明を聞いていて、彼らの心が熱くなりました。そして、二人は旅人の話を聞きたくて、彼らの家に旅人を迎え入れました。そして一緒に食事をしました。その時です。主イエスが二人の前でパンを裂かれると、彼らの目は開かれて、復活し、今生きておられる主イエスの現れを目で捕らえました。すると、主イエスは消えてしまわれました。

 

 

 

クレオパともう一人の弟子はエルサレムの都に戻りました。すると、ペトロたちが復活し、今生きておられる主イエス・キリストの現れを話し合っていたのです。

 

 

 

聖書は、一人だけの証言では、信用できないと教えています。しかし、二人、三人、さらに多くの者たちが、復活し、今も生きている主イエスの現れを証言するのであれば、それは真実であると教えています。

 

 

 

使徒パウロはファリサイ派の者で、ダマスコにいるキリスト者たちを迫害する途上で、復活し、今も生きている主イエスの現れに出くわしました。そして、キリスト教会を迫害する者からキリストの福音を伝える使徒に変えられました。復活の主イエスは、彼だけでなく「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ」(1コリント156)と、パウロは証言しています。それだけ多くの復活の主イエスの現れを目撃した者たちがいるのですから、聖書はキリストの復活は信用してもよいと証言しています。

 

 

 

この説教を準備しています時に、萩耿介という作家の「イモータル」という題の小説を読みました。

 

 

 

聞きなれない作家だと思います。しかし、店頭にその作家の本が積み上げられていました。キリスト教とは関係のない本です。主人公の兄がインドの思想に魅かれて、インドに旅し、亡くなります。その兄を追って、インドに行きます。兄が残した「智慧の書」に関わる人々が描かれています。

 

 

 

その本の中で次のような言葉に出会いました。「言葉によっても思考力によっても視覚によってもそれは得られない。それはただ『ある』というようにだけ理解される」(「イモータル」P159)

 

 

 

牧師は、言葉が仕事です。言葉で復活の主イエスの現れを伝えること、これが牧師の説教という行為を通してなしている務めであります。

 

 

 

今、わたしは、「イースターって何」ということを、ルカによる福音書24章の御言葉を解き明かすことで、伝えようとしています。

 

 

 

イースターを理解していただくためには、今朝の御言葉の中心である「イエスは生きておられる」ことを理解していただかなくてはなりません。

 

 

 

しかし、それは、小説の言葉に一節のように、言葉で、思考力で、そして、わたしたちの目で得られません。

 

 

 

「それはただ『ある』というようにだけ理解される」のです。

 

 

 

主なる神は、昔の神の民の指導者モーセに御自身の現れをお示しになり。「わたしは『ある』ものである」と言われました。そして、主なる神はモーセに「イスラエルの子らに言え、『<わたしはある>という方がわたしをあなたのもとへ遣わされた』と」(出エジプト記3:15)

 

 

 

わたしたちの日本キリスト改革派教会の創立者の一人、岡田稔先生は、主なる神の自己啓示を次のように『教理学教本』の中で説明されています。

 

 

 

「聖書において神は自存者であるばかりではなく、行為し、語り、計画し、実行する。それは何であるよりも生ける神であると言われる。」(『教理学教本』P53)

 

 

 

復活し、今も生きている主イエスは、わたしたちには毎週の日曜日の礼拝を通して「ある」というようにだけ理解されるのです。

 

 

 

たとえば、牧師が聖書の御言葉を解き明かし、説教します時に、先週の礼拝では、復活し、今も生きておられる主イエスは牧師の説教を通して御自分を「わたしは良い羊飼いである」と言われました。

 

 

 

そして、主イエスは「良い羊飼いは、自分の羊のために命を捨てる」と言われました。

 

 

 

ルカによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが二人の弟子に現れたことを伝えておりますが、その出会いに二人の弟子たちが気づくのは、主イエスが旧約聖書を通して彼らに御自身の受難と死と復活を説明され、共に聖餐の食事でパンを裂くことを通してでありました。

 

 

 

このことを、今この礼拝で理解していただくことが、わたしたちが主イエスの現れに気づき、今わたしたちも復活し、今も生きている主に出会う一番の近道です。

 

 

 

どうか、許す限り、これからもご一緒に礼拝を共にしていただき、共に説教を聞き、聖餐式に参加していただきたく、わたしはここでお勧めします。

 

 

 

実は、先週の礼拝で、わたしが大学時代に教会の礼拝の説教と聖餐式に導かれ、今年の夏で43年になりますというお話をしました。

 

 

 

わたしは不信仰で、悟ることに鈍い者でしたが、ルカによる福音書が今朝の御言葉で証ししますように、教会の礼拝で説教を聞き続け、聖餐式でパンとぶどう酒にあずかるごとに、本当に復活の主イエスは、わたしの羊飼い、命のパン、命の水であり、真理であり、光であると理解しました。その理解を通して、今ここにわたしと共に「ある」復活の主イエスに、わたしは出会ったのです。

 

 

 

主イエスはわたしの羊飼いとして、礼拝に常にわたしと共に「ある」お方です。そして、わたしをこの世の罪から確かに連れ出し、毎週日曜日に礼拝で御言葉の糧をくださり、そして、聖餐式を通して養い、御国へと導いてくださっています。

 

 

 

それは、わたしだけでありません。復活の主イエスが教会の礼拝に招かれた一人一人に、礼拝の説教を通して、「わたしは良い羊飼いである」と言ってくださり、「わたしは命のパン、命の水である」と呼びかけて、聖餐式に招いてくださり、永遠の命へと導き、死に至るまで、そして死後をも、羊飼いとして導いてくださるのです。

 

 

 

どうか、今朝を機会に、そして毎週の礼拝を通してここに「ある」主イエスに出会っていただきたいと、お勧めし、終わりにしたいと思います。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神よ、今朝のイースターの朝、わたしたちの教会は伝道集会をしました。復活の主イエス・キリストが死に勝利され、この主の御名を呼ぶわたしたちに永遠の命をお与えくださり、心より感謝します。

 

 

 

ルカによる福音書を通して復活の主イエスの現れについて学びました。

 

 

 

復活の主イエスの出会いは、信仰の出会いであり、言葉で、思考力で、目で理解することはできませんが、わたしたちの信仰によってのみ、復活し、今も生きる主イエスが、ただ「ある」というように、わたしたちは信仰によって理解できることを教えられました。

 

 

 

難しいことですが、信じて、礼拝をわたしたちと共にしようとする方を起こしてください。

 

 

 

讃美歌1464節に「主の死に生かされ 御傷にいやされる よろこびたたえ」とあります。主イエスが復活し、今も生きて、わたしたちの救いのためにお働きくださっていますので、このように賛美できることを感謝し、この喜びの礼拝にわたしたちの家族、この町の人々を、そして、日本中、世界中の人々をお招きください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。