コリントの信徒への手紙二説教 01     主の20015年4月19日

 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
 わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。
 兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。
          コリントの信徒への手紙二第1章1-11節

 説教題:「パウロの感謝」
 コリントの信徒への手紙一を学び終えましたので、今朝よりコリントの信徒への手紙二を学びましょう。

  使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の16章でコリント教会を訪問することを伝えました。しかし、この手紙の1章12節以下で使徒パウロは、コリント教会への訪問の延期を伝えております。パウロが前の手紙でコリント教会への訪問の計画を伝えたのに実行できていませんでした。パウロの訪問が遅れている間にコリント教会に新たな問題が起こっていました。それがこの手紙の11章でパウロが非難しています偽使徒たちであります。偽使徒たちがコリント教会を訪れて、コリント教会のキリスト者たちに「パウロは使徒ではないし、彼は約束を守らない不誠実な者だ」と中傷していたのです。そこで使徒パウロは、この手紙をコリント教会のキリスト者たちに宛てて書きました。
 
  使徒パウロの使徒であることが問題になっているのですから、パウロは、手紙の挨拶で「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」と自己紹介をしています。パウロは偽使徒たちとは異なり、父なる神の御意志によりダマスコへの途上、復活の主イエス・キリストに出会い、キリストの使者として召され、ユダヤ人以外の異邦人たちに福音宣教をする任務を与えられました。
 
  もう一人、この手紙の発信人「兄弟テモテ」。彼はパウロが自分の子のように信頼する弟子であります。前の手紙では、パウロはテモテをコリント教会に遣わすからお世話くださいとお願いしています。しかし、パウロがこの手紙を書いた時には、テモテは彼のところにいたようです。
 
  「兄弟テモテ」とは、パウロにとっても、コリント教会のキリスト者たちにとっても、「信仰上の仲間である」という意味です。
 
  パウロは、この手紙をコリント教会のキリスト者たちだけではなく、アカイア州の全地方の「聖なる者たち」に送りました。「アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たち」とは、たとえばアテネの教会、ケンクレアイの教会のキリスト者たちであります。パウロは、父なる神と御子主イエス・キリストがコリント教会のキリスト者たちとアカイア州の全地方のキリスト者たちに恵みと平和をお与えくださるようにと挨拶をしました。
 
 3-11節の御言葉は、「苦難と感謝」という見出しがありますが、パウロが苦難からの救いに対して神に感謝しています。

 パウロは、3節で次のように父なる神をほめたたえて、神への感謝を始めています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」

 使徒パウロは、教会の外の世界でも、教会の内においても、あらゆる苦難の中にありました。教会の外の世界では8節以下でパウロはエフェソ市の騒動を述べています。エフェソ市はアルテミスの女神を祭る有名な神殿がありました。銀細工人たちがその神殿の模型を作って、神殿に詣でる人々に売っていました。ところが使徒パウロたちがエフェソ市やその周辺の町々、村々で福音宣教し、人々がキリスト教に回心します。銀細工人たちは神殿が廃れ、自分たちの商売が成り立たないと騒ぎだしました。エフェソ市の騒動は、おそらく周辺の町々村々にも広がり、パウロたちは異邦人たちの迫害で命の危険にさらされました。その体験を、使徒パウロは「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」と記しています。

 教会の内においては、使徒パウロは教会の中の異端や党派争い、そして不品行者に悩まされました。この手紙では、パウロは偽使徒たちに悩まされています。

 しかし、使徒パウロは教会の内と外にあるあらゆる苦難に遭って一つの確かな体験をしたのです。それが、3節のパウロの神賛美となりました。

 主イエス・キリストの父なる神の慈愛と豊かな慰めという体験であります。パウロの言葉を借りれば、「慰めを豊かにしてくださる神」という信仰体験です。

 使徒パウロがこの世や教会の中でのいろんな苦しい状況で、彼が実感していたのは、「慰めを豊かにしてくださる神」でありました。

 今日でも、わたしたちキリスト者のこの世と教会における状況は変わりません。安部首相が第2次内閣を組織し、わたしたちは日本が戦争をする国になろうとしていると不安を覚えています。それだけでなく、必ず靖国神社は国営化され、戦前・戦中のように神社参拝が強要され、それを拒むキリスト教会とキリスト者たちは迫害を受けるようになるのではないかと不安になります。

 教会の中にもいろいろな問題があります。教会の高齢化、若者への伝道の不振、教会とキリスト者の世俗化等です。

 地上の教会は、戦いの教会と言われます。教会もわたしたちキリスト者もあらゆる苦難はこの世において、この地上の教会において避けられません。むしろ、常に戦いのただ中に置かれています。

 そのあらゆる苦難の中で使徒パウロが、次のように信仰体験をしました。それが4-7節のパウロの御言葉であります。

 パウロは、十字架のキリストを通して父なる神が「慰めを豊かにしてくださる」という恵みの体験を得ました。それは、パウロ個人の恵みに終わりませんでした。その「主イエス・キリストの父なる神は、慰めを豊かにしてくださる」ことを、信仰体験したパウロは、パウロと同じように苦難の中にいる教会のキリスト者たちを「神は慰めを豊かにしてくださるお方である」と慰めることができたのです。

 だから、パウロの苦難は、コリント教会のキリスト者たちの慰めになり、救いになりました。

 何をパウロは、わたしたちに語ろうとしているのでしょう。苦しみと慰めは別物でしょう。どうして苦しんでいる者に慰めがあるでしょうか。病気で苦しむ者、仕事で苦しむ者、勉強で苦しむ者、友達に悩む者、暴力に苦しむ者、貧しさに苦しむ者、いったい誰が「わたしには慰めがあります」と言うでしょうか。

 それは、人には不可能ですが、神には可能です。「主イエス・キリストの父なる神、慈愛に満ちた神、慰めを豊かにしてくださる神」には、それが可能なのです。

 どうしてか。神は苦難の中にいるパウロを、キリストの苦しみにあずかる者としてくださるからです。神は、信仰によってあらゆる苦難の中にあるキリスト者を、十字架のキリストと一つに結びつけてくださいます。教会とキリスト者は、キリストの体であります。だから、パウロは、教会とキリスト者はキリストの苦しみにあずかると言うのです。

 そうであれば、十字架のキリストが死人の中から復活されたように、それによってキリストがあらゆる苦難と死から救われたように、キリストの苦しみにあずかるパウロも、あらゆる苦難と死から救われます。

 主イエス・キリストの父である神であれば、病気に悩む者、仕事に悩む者、勉強に悩む者、暴力に悩む者、あらゆる苦難の中にある者を十字架のキリストに結びつけることは可能です。そしてキリストと共に死に、共に死から復活し、新しい命に生きるのです。パウロは、福音宣教を通してその慰め、喜びを伝えようとしました。

 わたしは、今朝のパウロの御言葉を聞いていて、ハイデルベルク信仰問答の問1と答を思い起こします。

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」
「わたしがわたし自身のものではなく、
      体も魂も、生きるにも死ぬにも、
      わたしの真実な救い主
      イエス・キリストのものであることです。
  この方は御自分の尊い血をもって
    わたしのすべての罪を完全に償い、
    悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
  また、天にいますわたしの父の御旨でなければ
    髪の毛一本も落ちることができないほどに、
    わたしを守ってくださいます。
    実に万事がわたしの救いのために働くのです。
  そしてまた、御自身の聖霊によりわたしたちに永遠の命を保証し、
    今から後この方のために生きることを心から喜び
    またそれにふさわしくなるように、
    整えてくださるのです。」
 
   「慰め」とは、わたしたちの救いの根拠であり、拠り所です。それが、わたしたちの主イエス・キリストであります。パウロは、わたしたちが主イエス・キリストと一つになるとき、あらゆる苦難は慰めとなり、救いとなるという、この信仰に堅く立っているのが、今この世にあって多くの苦難と戦うわたしたちキリスト者なのだと言っているのです。
 
  だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちにこの慰めの神を頼りにしなさいと勧めています。エフェソ市での騒動は、パウロたちを死の危険に追いやりました。そこでパウロが信頼したのは、十字架のキリストを死人の中から復活させた神でありました。今、この手紙を書いているときも、パウロは豊かな慰めをくださる神が、必ずあらゆる苦難からパウロを救ってくださると、神に希望をかけています。
 
  パウロの御言葉を聞いていまして、正直にわたしは、ほんとうにキリスト者であることに感謝しております。不器用というか、うまく立ち回れないで、家内にもいつも心配をかけ、今もかけていますが、神はわたしがどんな状況にあっても、明日はどうなるだろうと思うような中でも、わたしを慰め、妻を慰め、教会を慰め、救ってくださいます。
 
  神に、キリストに希望の置けることが、わたしには大きな慰めです。死者を復活させてくださる神を、わたしは依り頼めるということが一番の喜びです。なぜなら、わたしたちは自分たちが死ぬことを知っているからです。
 
  最後にパウロは、コリント教会のキリスト者たちに祈りの援助を願っています。「祈りで援助してください」と。神がわたしたちの不可能を可能にしてくださるのは、祈りを通してです。御言葉と礼典と祈りが、外的な神の恵みの手段です。キリストの十字架と復活の救いを、わたしたちが手にできるのは、この3つの手段によってです。
 
  ここでパウロは、彼の異邦人への福音宣教が多くのキリスト者たちが陰で祈ってくれるので、その恵みにあずかれ、そして、祈った者たちはパウロの福音宣教の働きを見て、神に感謝してくれていると述べています。
 
  このパウロの御言葉を読みまして、祈りで援助することの大切さを心に留めましょう。パウロが異邦人への福音宣教によって各地にキリスト教会を建て上げようとしています。パウロは、そこで第一に求めているのは、献金でも奉仕でもありません。祈りで援助することです。とりなしの祈りで、パウロの福音宣教と教会形成を助けてくださいと、パウロはコリント教会のキリスト者たちに心からお願いしています。
 
  神は御自身の御計画を実現される時に、教会とキリスト者のとりなしの祈りに一つの役割を与えられています。「祈りは聞かれる」という信仰体験をしたことのないキリスト者はいません。とりなしの祈りをするキリスト者は、必ず神が祈りを聞かれることを体験します。そして、パウロのように神への感謝の祈りをするように導かれます。神をほめたたえる、礼拝人生を生きる力となるのです。
 
  神に救われたことに対する感謝がわたしたちキリスト者の生活の土台であり、わたしたちキリストの者の取りなしの祈りがキリスト者の生活を推進させるのです
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、今朝よりコリントの信徒への手紙二を学び始めました。パウロの苦難からの救いに対する感謝を学ぶことで、わたしたちはどんな苦難の時にも十字架のキリストに結びつけられていることの慰めと救いを学びました。キリストと共に罪に死に、キリストと共に永遠の命に生きることを感謝します。
 
  また祈りで援助することの大切さを学びました。どうかとりなしの祈りのできる者としてくださり、「祈りを聞かれている」という喜びと祝福で、神への感謝の祈りへとお導き下さり、礼拝人生を全うさせてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

 

コリントの信徒への手紙二説教 02     主の20015年5月3日

 わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。
 このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。わたしたちとあなたがたをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。
 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためにではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。
          コリントの信徒への手紙二第1章12節-第2章4節

 説教題:「パウロの弁明」
 使徒パウロが最初にコリント市を訪れたのは、彼の第2回伝道旅行の時でした。使徒言行録の18章に紀元50年ごろ、パウロがアテネ市経由で、コリント市を訪れ、1年6カ月滞在し、コリント教会を建て上げました。それから使徒言行録20章によれば、紀元55年ごろ、パウロの第3回伝道旅行の時に、マケドニア経由でコリント教会を訪れ、3カ月滞在しました。

  使徒言行録には記録がありませんが、第3回伝道旅行でパウロがコリント市に3カ月滞在する前に実はパウロがコリント教会を訪れ、短い間滞在したのではないかと考えられています。

 実際に、パウロはこの手紙で、彼自身が3度目のコリント教会への訪問をすることを記しています。今朝学びます1章23節から2章4節と13章1節です。特に13章1節では、パウロが「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です」とはっきり記しています。

 パウロが最初にコリント市を訪れ、そして、その後紀元53年ごろにコリントの信徒への手紙一を書きました。その手紙を書いた後パウロはコリント教会を訪れています。その訪問後にパウロが2章3-4節に記しています「涙の手紙」を54年ごろに書きました。そして、涙の手紙の後にパウロは、コリント教会のキリスト者たちと和解するために、コリントの信徒への手紙二の第1章から9章の手紙を書きました。そして、さらにパウロはコリント教会のキリスト者たちにパウロの3度目の訪問が遅れていることを弁明する手紙を書きました。それがこの手紙の10-13章であります。

 ですから、コリントの信徒への手紙二は、パウロがコリント教会のキリスト者たちと和解し、また弁明のために書きました二つの手紙が合わさって一つの手紙となりました。

 さて、コリントの信徒への手紙二は、3つの主題があります。第1が「パウロとコリント教会との関係、パウロの奉仕の本質」(1章12節から7章)。第2が「エルサレム教会のための援助募金」(8章から9章)。第3が「パウロの弁明、偽使徒たちとの対決」(10章から13章)。

 さて、パウロは、彼のコリント教会のキリスト者たちに対する誠実さと心配りを記しています。

 今朝の御言葉で問題になっているのは、パウロがコリント教会の訪問の計画を変更したことであります。

 1章15-16節でパウロは訪問計画を記しています。それによりますと、パウロはエフェソからコリントを訪れ、それからマケドニアに行き、そして再びコリントに戻り、そしてエルサレム教会への援助募金を携えて、エルサレムに向かう予定でした。
 
  ところが、その計画が変わりました。パウロは、エフェソからマケドニアを訪れ、その後でコリントを訪れることになりました。パウロが2度コリント教会を訪れるという計画が1度に変えられました。

 そこでパウロがコリント教会のキリスト者たちに弁明していることは、コリント教会のキリスト者たちに対するパウロの誠実さです。パウロはこの変更を、この世の人間的な知恵ではなく、神の恵みによってなされたことを弁明します。パウロは、「わたしは人間の知恵に頼って生きているのではなく、神の恵みに生かされて、すべて行動している」と証ししています。それが、パウロの良心の証しであり、誇りでありました。

 次にパウロは、自分の気持ちが、この手紙を読むコリント教会のキリスト者たちに理解できると確信していると、弁明します。

  この手紙は、コリント教会の礼拝の中で読まれました。ですからコリント教会のキリスト者たちが、パウロの手紙を聞いて理解できること以外、パウロは何も書いていないと弁明します。なぜなら、パウロは、信頼関係の回復を願っているからです。

  その信頼関係は、「主イエス・キリストの来られた日」に明らかになります。主イエス・キリストの再臨の日、神の審判の日に全人類が裁かれ、すべてのキリスト者たちも裁かれます。その時にコリント教会のキリスト者たちはパウロに対して誇りを持ち、パウロもコリント教会のキリスト者たちに対する誇りを持つだろうと述べています。
 
  次にパウロは、1章15節-22節でパウロがコリント教会の訪問の計画を変えたことで、コリント教会のキリスト者たちに与えた誤解を解こうと弁明を続けています。
 
  15節の「このような確信に支えられて」とは、パウロが人間の知恵によってではなく、神の恵みを受けて行動しているという確信を根拠にして、パウロは16節のコリント教会の訪問の計画を立てました。パウロは、エフェソ市からエーゲ海を船で渡り、コリント教会を経由して、マケドニア州の諸教会を訪れ、それから再びコリント教会に戻り、そしてエルサレム教会への援助募金を携えてエルサレムに向かおうとしました。
 
  しかし、このパウロの計画は変えられました。そこでコリント教会のキリスト者たちの中から「パウロの計画は軽はずみであった」と批判する者が出、彼らはパウロには下心があり、彼は2枚舌を使っていると非難しました。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちに自分の計画が人間の考えであり、自分は2枚舌を使ったのだろうかと反問し、そうではないと否定します。「『然り、然り』が同時に『否、否』」とは、2枚舌という意味です。
 
  パウロは、彼の計画が人間の考えで、彼が2枚舌を使ったという非難に対して、真実な神を証人に立てて弁明しています。
 
  パウロが神の恵みを受けて、行動するその「神は真実な方です」。神は変わられません。同様にパウロがコリント教会のキリスト者たちに語る言葉も変わらないし、パウロは2枚舌を使ってはいないと弁明しています。
 
  主イエス・キリストご自身も、変わられないし、2枚舌を使われません。だから、旧約聖書の預言の約束は、すべて主イエス・キリストにおいて実現しました。だから、パウロは、神をたたえるために、キリストを通して「アーメン」、すなわち、「確かに」と唱えると述べています。
 
  パウロとコリント教会のキリスト者たちを、キリストに結びつけたのは、洗礼であります。洗礼によってパウロもコリント教会のキリスト者たちも、聖霊をいただき、神の子としていただき、御国と永遠の命の保証にあずかりました。
 
  次にパウロは、1章23節から2章4節で、パウロがコリント教会を今訪問しないのは、コリント教会のキリスト者たちへの思いやりであると弁明しています。
 
  この手紙の第1の主題である「パウロとコリント教会との関係とパウロの奉仕の本質」を、1章24節で簡潔に、パウロは記しています。すなわち、パウロとコリント教会のキリスト者との関係は、パウロがコリント教会のキリスト者たちを支配するという関係ではありません。むしろ、パウロはコリント教会のキリスト者たちの喜びに奉仕する協力者であります。パウロとコリント教会のキリスト者との関係は上下関係ではありません。むしろ、共にキリストに仕える対等の関係であります。信仰だけで結びついている関係であります。
 
  24節のパウロの御言葉から、わたしたちはキリスト教会とは何かを教えられます。教会の中に牧師、長老という役職がありますが、牧師と長老、そして牧師・長老と信徒との関係は、上下関係ではありません。教会は、支配関係で成り立ってはいません。牧師と長老は、教会の主人ではありません。むしろ、教会員の喜びのために協力する者で、奉仕者であります。牧師は宣教という務めで、長老は治めるという務めで、信徒たちがキリストの群れとして守られるように、仕えるのです。そして、教会は、信仰だけで結びついている共同体です。共に賛美し、祈り、信条を告白し、共に御言葉を聞き、聖餐の恵みにあずかり、献金をし、キリストにわが身をささげるところです。教会では、信仰だけが判断基準であります。キリスト者は、キリストの来られる日にキリストだけに弁明できるように信仰によってすべてを判断し、行動するのです。
 
  2章1節は、パウロが使徒言行録には記されていないコリント教会への訪問をしたと考える根拠になる御言葉です。第2回目のパウロの訪問は、コリントの信徒への手紙一でパウロが知らせたような長期期間滞在する訪問となりませんでした。そして、パウロの訪問は、コリント教会のキリスト者たちにとって悲しみとなりました。だから、2章4節でパウロは、その訪問の後に「悩みと愁いに満ちた心で涙ながらの手紙を書きました」。この手紙は、コリントの信徒への手紙一の5章9節のパウロの手紙と同じように今日失われています。
 
  ここでわたしたちがパウロから学ぶべきことは、パウロの兄弟姉妹たちに対する溢れるばかりの愛であります。そのパウロの愛は、コリント教会のキリスト者たちを再び悲しませない、悩ませないという決意であり、コリント教会のキリスト者たちにいろいろな問題があっても、無条件に愛するという思いやりでありました。
 
  教会は、パウロが言うように「わたしの喜びはあなたがたすべての喜びである」ところであります。それが、十字架のキリストの愛によって救われたわたしたちの確信であると、パウロは述べています。
 
  わたしたちも、今朝のパウロの弁明に、心から耳を傾けましょう。そして、わたしたちの上諏訪湖畔教会がどんな教会であるべきなのかを心に留めましょう。わたしたちは、ここ数年来「聖書的教会の形成」を教会標語にしています。そして後3年で、わたしたちの教会は70周年を迎えます。わたしは、今朝の御言葉でパウロが言うように、人間の知恵ではなく、神の恵みの下にわたしたちの教会は歩んできたと確信しています。それでもコリント教会のキリスト者たち同様にわたしたちの教会でも悲しみがあり、涙がありました。わたしも教会員たちに悲しみを与え、教会員たちもまた教会に悲しみを与えることがあったでしょう。罪の世にある教会ですから、わたしたちに悲しみと涙は避けられません。
 
  それでも、わたしたちの教会がキリストの教会であることは、神が真実なお方であるからです。わたしたちは心変わりしても、キリストは昨日も今日も同じであり、心変わりをされません。キリストは、旧約聖書の預言者たちの預言を、ゴルゴタの丘の十字架と復活によって実現してくださいました。わたしたちのすべての罪を赦し、永遠の命の希望に生かしてくださいました。
 
  わたしたちはキリストを信じて洗礼を受けたときに、また契約の子として洗礼を受けたときに、キリストに固く結び付けられ、聖霊を与えられ、神の子として永遠の命の保証を得ました。
 
  この喜びは、信仰によってのみ得られる喜びです。教会の聖徒の交わりだけがこの喜びを、愛という形で分かち合うことができます。
 
  これから聖餐式にあずかります。パウロは、言います。「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っている」と。本当に信仰によって、この恵みにあずかってください。そして、パウロのように決心してください。「再びあなたがたを悲しませることはしない」と。教会を悲しませることはしないと。そして、一緒に喜びを、十字架のキリストの愛で救われたという喜びを、この聖餐式で共にし、一緒に「わたしたちは神をたたえるために、この方を通して『アーメン』と唱え」ましょう。
 
 お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二を学べる喜びを感謝します。パウロの弁明から教会について、牧師・長老と教会員との関係について学べましたことを感謝します。
 
  この世にある教会に問題のない教会はありません。わたしたちがどんなに主を悲しませ、教会を悲しませているか、父なる神はご存じであります。どうか十字架のキリストの贖いのゆえにわたしたちの罪をお赦しください。
 
  どうかパウロが言いましたように、キリストの来られる日にわたしたちが互いに誇りを持つことができるようにしてください。共に神の子として永遠の命に生き、御国を相続させてください。
 
  共に聖餐の恵みにあずかります。どうか御国に至るまでこの地上の生涯、神の恵みの下を歩ませてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 コリントの信徒への手紙二説教 03     主の20015年5月10日

 悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
 その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
 わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。
          コリントの信徒への手紙二第2章5節-13節

 説教題:「赦し、力づける」
 今朝は、コリントの信徒への手紙二の第2章5-13節の御言葉を学びましょう。新共同訳聖書には5-11節に「違反者を赦す」という見出しがあり、12-17節に「パウロの不安と安心」という見出しがあります。

 わが国に日本国憲法があるように、わたしたちの教会にも『ウェストミンスター信条』と『教会規程』という憲法があります。わたしたちが日本国憲法に違反し罪を犯せば、警察に捕まり、裁判所で罪を裁かれます。同様に教会の中でわたしたちが過ちを犯せば、小会が戒規を執行し、わたしたち教会員の罪を裁きます。

 教会にも憲法があり、違反者はその罪を裁かれます。教会は、愛と寛容の世界で、自由気ままにできるところではありません。教会の教えや運営方針、教会員を指導する規則、礼拝の守り方などの決まりがあり、教会の集う者たちは、それに従って教会生活をし、信仰生活をします。

 それは、パウロの時代の初代教会から変わることはありません。いつの時代にもどこの国にも法律に違反する者がいるように、教会にも過ちを犯し、教会全体を悲しませる者がいます。

 そのためにパウロは、コリント教会のキリスト者たちに2章3節で「涙の手紙」を書き送ったことを記しています。ある一人のキリスト者が大きな過ちを犯しました。そこで使徒パウロの指導の下、コリント教会は違反した者を裁きました。教会裁判でその者を戒規に処しました。

 違反者がどんな罪を犯したのか、ここでパウロははっきりと書いてはいません。パウロひとりではなく、コリント教会のすべてのキリスト者たちが悲しむ出来事でありました。

 パウロは、今では失われた「涙の手紙」でこの者の罪を、教会が裁くように指示していたでしょう。そしてコリント教会は、この違反者の罪を教会裁判で裁き、戒規に処しました。パウロは、コリント教会がこの違反者にどんな処罰を下したかをはっきりと書いてはおりません。

 むしろ、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに、この手紙でこの違反者を赦し、力づけ、愛するように勧めているのです。

  6節でパウロは「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。」と述べていますね。これは、コリント教会の教会裁判がこの違反者に下した裁きを、コリント教会の大多数のキリスト者が支持したということです。つまり、このコリント教会の教会裁判は、コリント教会の純潔を守るためになされ、その目的を成し遂げたのです。推測ですが、この違反者はコリント教会の裁きに服したでしょう。
 
  そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように勧めているのです。教会における愛と赦しと力づけとの関係でこの違反者が罪を悔い改めて、再びコリント教会のあなたがたの交わりに戻ることができるようにしなさいと。
 
  わたしたちの国でも犯罪者が刑期を終えれば、再び社会復帰できるようにします。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに同じことを求めています。教会の裁きに服した違反者が自分の罪の重さと悲しみに沈んでしまわないように、彼の罪を赦し、力づけるようにと、パウロは勧告しています。
 
  そのためにパウロは、コリント教会のキリスト者たちにその違反者を愛するようにしてくださいとお願いしています。
 
  わたしたちは、「教会の霊的成長」を願っています。それは、わたしたちの教勢の拡大という数字とは無縁のことでしょう。目に見えて礼拝が豊かになったというわたしたちの自己満足とも無縁のものでしょう。
 
  では「教会の霊的成長」とは何であり、どうすればわたしたちの教会は、「霊的成長」していると判断できるのでしょうか。
 
  また、わたしたちは、「聖書的教会の形成」を教会標語にしています。長老候補者を立て、小会を設立し、経済的独立すれば、「聖書的教会」が形成できたと、わたしたちのだれも思ってはいないでしょう。ではペンテコステの教会を再現できれば、「聖書的教会」になるのでしょうか。理想でしょうが、ほど遠い現実です。
 
  コリント教会は、わたしたちの教会と同じように、この世にある教会です。教会員の罪により、教会全体を悲しませて来た教会です。今も一人のキリスト者が大きな罪を犯して、パウロひとりではなく、コリント教会のすべてのキリスト者たちを悲しませました。
 
  この教会の現実は何を意味しているのでしょう。罪の大小はあっても、この世で罪を犯さないキリスト者はいません。一生涯罪の悔い改めを求められないキリスト者はいません。だから、コリント教会のように教会全体が一人の違反者によって悲しみの中にあるのが、この世の教会であります。
 
  そして、教会の頭である主イエス・キリストは、言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。主イエスが、わたしたちをこの教会にお招きくださり、お救いくださいました。わたしたちは罪人として、神の御前に出、主イエスこそわたしの救い主と信じて、救われました。主イエスの十字架の死は、わたしたちの罪の身代わりであり、主イエスの復活はわたしたちの罪が赦され、わたしたちが神の御前に義とされ、永遠の命を与えられた保証です。
 
  主イエスの十字架の愛によってわたしたちの罪が赦されるところが、この世にある教会です。どうしてどこの会堂でも、屋根の上に高く十字架を掲げているのでしょう。ここに会堂がありますという目印でしょうか。教会は、神の御前に共に罪を悔い改めるところです。キリストの十字架の愛だけが、神に罪の悔い改めを求められる者の罪が赦されることを、教会は十字架によってこの世の人々に示しているのです。
 
  教会は、十字架のキリストの愛の下でわたしたちの生涯の罪の悔い改めを求めるところです。そして、教会はキリストの十字架の愛のゆえに、わたしたちの罪を赦し続け、「十字架のキリストのゆえにあなたの罪は赦された」と力づけてくれるところです。
 
  教会がだれの罪でも、キリストの十字架のゆえに赦すことができ、「キリストがあなたに代わって死なれたゆえに、あなたの罪は赦されます」と宣言し、赦し赦される共同体を造り上げることができるのであれば、それがパウロのここでわたしたちに教えてくれる「教会の霊的成長」ではありませんか。「あなたもわたしも、キリストの愛のゆえに罪を赦されています」と、わたしたちが互いに力づけ、慰めることができれば、それがわたしたちの教会の霊的成長です。
 
  パウロは、失われた涙の手紙でコリント教会のキリスト者たちの従順をテストしました。その手紙でパウロは、違反者に罪を悔い改めるように勧告しました。おそらく違反者は、パウロの涙ながらの勧告で、自分の罪を悔いて、教会の裁判に服しました。
 
  そして、この違反者を裁いたコリント教会は、裁きに服したこの違反者を愛することを、彼の罪を赦して、コリント教会の交わりに受け入れることを、パウロの手紙でテストされたのでしょう。
 
  父なる神は、罪人のわたしたちを愛してくださいましたので、御子の十字架の死を通してわたしたちの罪を赦してくださいました。だから、わたしたちは毎週この教会に集められて、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という喜びのメッセージを聞き続けるのです。
 
  神に愛されたからわたしたちは互いを、そして隣人を愛するのです。わたしたちは神に罪を赦されたから、わたしたちは互いを、そして隣人の罪を赦すのです。そしてキリストは、生涯罪を悔い改めることを神に求められているわたしたちに「わたしはいつもあなたと共にいる。あなたを見捨てることはしない」と力づけてくださるのです。このように教会は、キリストの愛のとりなしで、わたしたちの罪の悔い改めが求められ、キリストへの信仰と神の恵みにうちに
キリストの体なる教会として成長して行くのです。

 さらにパウロは、10節でわたしたちの教会が、赦し合う共同体であると教えています。互いに赦し合うことで、互いがキリストと一つに結び合わされて、教会がキリストの体として成長します。パウロは、愛と赦しに教会の霊的成長を見ていると思います。結局教会とは、キリストにおける愛と赦しのところであり、教会に愛と赦しがなければ、建物があり、人が集まっても、そこはキリストの体なる教会ではありません。

 だから、パウロはコリント教会のキリスト者たちに、教会の中に愛と赦しがなければ、11節でこの世の教会は常にサタンの誘惑と巧妙な罠にあたふたさせられて、欺かれることになると警告します。

 サタンとは訴える者であります。巧妙にわたしたちの弱さを利用して、キリストの体なる教会を破壊しようとします。だから、愛と赦しと力づけにより、サタンに隙を与えないようにし、教会を建て上げて行くことが大切なのです。

 罪人であるわたしたちが一番得意とすることは、人を批判することです。わたしの目が見ているのは、相手の欠点であり、耳は人の悪口を喜んで聞いています。そして陰口を言い、いつも人の品定めをし、批判しています。それを、サタンがうまいこと利用し、わたしたちがひそかに心で思っていた悪をわたしたちの教会の全体に広げるのです。その結果、教会は愛することより憎むことに、赦すことより責めることをし、キリストにあって一つとなるよりも、コリント教会のようにいろんなグループに分かれて、言い争いを始めるのです。

  キリストはわたしたちの教会の中に愛と赦しを植え付けられますが、サタンはそれを憎しみと責めに変えていくのです。
 
  ですから、今朝のパウロの御言葉で、わたしたちが口にする「聖書的教会の形成」「霊的成長」を考える時、わたしたちの教会が、ここでパウロの教える「愛と赦しと力づけ」の場所であるのか、そのような場所にしようと祈り、励んでいるのか、心に留めることが大切でしょう。
 
 お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第2章5-11節の御言葉を学ぶことができて感謝します。パウロは、キリストの教会が「愛と赦しと力づけ」の場所であることを教えてくれました。
 
  この世にある教会にとって戒規は必要です。罪の問題が起きない教会はないからです。どうかわたしたちの教会が教会裁判をしますとき、わたしたちがその裁判に服して、自らの罪を悔いることができるようにしてください。
 
  また罪を悔いた兄弟姉妹を、わたしたちが愛し、赦し、力づけることができるように導いてください。
 
  どうかわたしたちをサタンの誘惑からお救いください。サタンの巧みな計略からわたしたちをお守りください。
 
  愛と赦しと力づけの教会を建て上げさせてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



 コリントの信徒への手紙二説教 04     主の20015年5月17日

 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
          コリントの信徒への手紙二第2章14節-17節

 説教題:「パウロの奉仕」
 今朝は、コリントの信徒への手紙二の第2章14-17節の御言葉を学びましょう。

 先週、わたしたちは、パウロがコリント教会のキリスト者たちにひとりの教会員を赦し、力づけ、愛するように勧告したことを学びました。パウロの勧告は、コリント教会のキリスト者たちへの命令というよりお願いでありました。ひとりの教会員が大きな罪を犯し、パウロだけでなくコリント教会全体の悲しみとなりました。

  しかし、パウロは彼が自分の罪に対する悲しみに打ちのめされないようにと牧会的配慮をしました。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに彼の罪を赦し、共に礼拝にあずかり、彼が説教を通して、あるいはコリント教会のキリスト者たちの愛の交わりを通して力づけられ慰められるようにしてくださいとお願いしました。

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに教会が罪を赦し合うところであることを教えるために、次のように述べました。「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです」(Ⅱコリント2:10)。
 
  復活の主イエス・キリスト御自身が弟子たちに聖霊をお与えになって、次のように宣言されました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:22-23)。教会は、罪を赦すところ、罪が赦されるところです。
 
 だが、主イエスがわたしたちに聖霊をお与えくださらなければ、わたしたちは生まれながらに罪人であり、だれの罪をも赦すことはできません。

  だから、パウロは「サタンにつけこまれないためです」と警告しました。そしてパウロは「サタンのやり口は心得ている」と申しました(Ⅱコリント2:11)。このパウロの言葉を理解するために、テモテへの手紙一の3章6節の御言葉が役立ちます。そこで、パウロは弟子のテモテに教会の監督の資格について述べています。「監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きをうけかねません。」新共同訳聖書は意訳しています。原文をそそのまま読むと、「高慢になって悪魔の裁きに落ちる」であります。すなわち、高慢なキリスト者たちは、最後の審判の時、神の御前でサタンから悪人として訴えられるのです。

 パウロは、そのサタンのやり口をよく知っていました。なぜなら、コリント教会ほど高慢なキリスト者たちがいるところはありません。見かけは立派な教師であり、キリスト者です。しかし、彼らの関心は自分のことであり、兄弟姉妹を赦し愛し、力づけることではありません。むしろ、彼らは、パウロを本物の使徒ではないと非難し、教会裁判で裁かれたひとりの教会員の罪を赦そうとしませんでした。サタンは喜んだでしょう。

 だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のことを伝えたかったと思います。教会とキリスト者がサタンに打ち勝つ道は、「あなたがたがだれの罪をも赦し、キリストの御言葉で力づけられ、互いを愛し合うことだ」と。

 続くコリントの信徒への手紙二の第2章12-13節は、パウロが自分の不安な気持ちを述べていますが、7章5節以下の御言葉と関連付けて、後に機会があればお話ししたいと思います。

 さて、パウロがコリントの信徒への手紙二の第2章14節から7章4節までコリント教会のキリスト者たちに対するパウロの奉仕の務めについて述べております。

 14節でパウロは、自分の奉仕について、「神に感謝します」と述べています。パウロは、自分の奉仕を通してキリストの香りとされていることを、神に感謝しています。

 パウロは、コリント教会の敵対者たちに、すなわち、コリント教会に入り込んだ偽使徒たちに、パウロが使徒であり、使徒としての権威があることを攻撃されていました。だから、パウロは神への感謝をもってコリント教会のキリスト者たちにパウロの奉仕を弁護しているのです。

 パウロの奉仕とは、福音宣教と和解の務めであります。パウロは、7章4節まで彼が福音宣教し、和解の奉仕をする資格のあることを弁明しています。

 パウロは、14節で彼の福音宣教を、「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」と述べています。

 パウロの時代にローマ帝国でローマ軍の凱旋行進が行われていました。戦争に勝利したローマの将軍が戦利品と捕虜を従えて、ローマに入城しました。そして、凱旋行進では香炉がたかれました。そこで、ある学者は、パウロの「キリストの勝利の行進」をそのローマの凱旋行進に見たてていると推測しました。

  しかし、最近違う見解があります。「キリストの勝利の行進」は、勝利の概念とは関係がありません。「公に示す」とか「知らせる」という意味で用いられています。パウロは、神がキリストによってパウロたちをこの世において公に示し、知らされたということを言おうとしたのです。

 だから、パウロは、14節で次のように述べているのです。まず「わたしは神に感謝します」とは、パウロたちを、神が福音宣教する器として選んでくださったということです。それゆえに、パウロは続けて次のように述べています。「神は、パウロたちをいつもキリストによって公に示し、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」。

 「キリストを知るという知識」とは、神がキリストにおいて行なった行為を知ることです。パウロたちは、福音宣教を通して神がキリストの十字架を通して人の罪を赦された恵みを伝えました。

 だから、15節でパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」と宣言しています。

 パウロは、自分の使徒としての存在を、「キリストの良い香り」と見ています。この良い香りは、福音宣教の内容ではなく、福音宣教をする人であるパウロたちです。

  「神に献げられる」とは、昔神の幕屋やエルサレム神殿で神の民たちが神に犠牲をささげました。その時に神の民たちは雄羊全部を祭壇で燃やして煙にしました。これが「宥めの香り」と呼ばれるものです(出エジプト29:18)。神は、喜んでこの「宥めの香り」を受け入れてくだしました。福音宣教する者は、神の御前に献げられた良い香りです。そして、この良い香りが十字架のキリストの犠牲に発しております。

 だから、パウロが「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」と宣言するとき、彼がコリント教会のキリスト者たちに自分の使徒として務め、そして福音宣教という彼の奉仕を、次のように弁明しているのです。彼の使徒としての存在と奉仕はキリストの十字架の犠牲に発しており、それを通してのみ、パウロは自分と自分の奉仕を神に献げることができると。

 だが、キリストの福音はこの世の人々を2種類に分けるのです。パウロの使徒としての福音宣教は、キリストに発し、キリストによって「救いの道をたどる者」と「滅びの道をたどる者」に分かつのです。キリストのよき香りとして働くパウロの福音宣教が、キリストの恵みと裁きの二つの働きをするのです。

 だからキリストの良い香りであるパウロたちは、神が滅びに定められた者には死をもたらし、神が救われた者には命をもたらします。

 このようにパウロたちの福音宣教を通して神が救われた者と滅ぼされた者とを分けられ、御自身の永遠の予定を実行し、神の裁きを実現なっているのです。パウロに与えられた務めは重要であります。

 それが16節の「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」というパウロの御言葉です。

 神がパウロを異邦人の使徒に選ばれ、キリストが聖霊を与えてパウロが福音宣教をするに相応しい者としてくださったので、パウロは自分の奉仕をしているのです。

 だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに17節で次のように述べています。「わたしたちは、多くの人のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」

 コリント教会を訪れる偽使徒たちは、キリストの福音を市場で売られる商品のように、売っていました。キリストの福音で金儲けをしていたのでしょう。少し言葉が過ぎるかもしれません。パウロの時代の伝道者たちは、福音を語ることで、教会から報酬を得て、生活していたのです。それゆえにコリント教会のキリスト者たちを喜ばせて、報酬を得る偽教師たちが多く居たのでしょう。

 パウロはコリントで開拓伝道しました時、天幕造りをして生活の収入を得ました。コリント教会ではパウロは無報酬で働きました。彼は、コリント教会のキリスト者たちに神の御言葉を売り歩くようなことは決してしませんでした。それゆえにパウロは、コリント教会のキリスト者たちに媚びる必要はありませんでした。

 「誠実に」とパウロが述べていますね。パウロは、キリストの良い香りとしてコリント教会で福音を語り、その福音を心から愛していました。キリストの十字架の福音を語り、それをよく理解し、そして愛していたのです。それがキリストの良い香りとしてのパウロの誠実さです。

 福音を語るパウロ自身が、キリストの福音を聞いて、キリストを救い主と信じて、洗礼を受けました。そして、キリストの所有、神に属する者とされ、キリストに結びつけられました。彼は、キリストとの交わりの中で、罪を赦され、キリストに愛されている者として、コリント教会でキリストの福音を語ったのです。

 今朝は、パウロの御言葉からわたしたちも、パウロと同じ「キリストの良い香り」であることを学びましょう。

 教会は、先週学びましたように愛の教会、赦しの教会、そして慰めの教会であります。ですから、わたしたちがこの教会でキリストの愛と赦しと慰めを得ることができれば、わたしたちは本当に幸いでしょう。

 幸いですが、キリスト者のわたしとしては、神の御前に責任を果たしてはいません。キリストは聖霊を通してこの世からわたしたちをこの教会の礼拝に呼び集められ、そして、再びこの世に派遣されます。

 キリスト者の誠実さとは、自分が真面目であるということではありません。神の御前に生きているということです。そして、パウロが述べていますように、わたしたちはキリストの十字架の贖いによりキリストのもの、神に属する者とされました。礼拝を通してキリストの福音を聞き、聖霊を通して自分の罪を知らされ、十字架のキリストの死がわたしの身代わりであることを信じました。そして、キリストのわたしの救い主と信じて、洗礼を受け、キリストとひとつにされました。

 このキリストをこの世の人々に証しすることが、キリストからわたしたちキリスト者に与えられた責任です。世の光、地の塩となり、この世の人々にキリストを証しする、それがわたしたちキリスト者の良い香りであります。

 確かに、パウロが言うように、わたしたちも「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」と問わざるをえません。だが、キリストは言われました。「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ」と。キリストがわたしたちをキリストの証人として選ばれました。そして、聖霊を通してわたしたちがキリストを証しできるようにしてくださいます。

 わたしたちは、この世においてわたしたちがキリスト者という存在であること、そして、キリストにこの世に証し人として務めを与えられていることで、パウロのようにキリストの良い香りであります。

 お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第2章14-17節の御言葉を学ぶことができて感謝します。わたしたちは、パウロと同じように「キリストの良い香り」であることを学ぶことができて感謝します。
 
  この世の人々に証ししても、教会に来てくださる方はほとんどありません。しかし、今朝のパウロが教えてくれていますように、わたしたちは「キリストの良い香り」です。
 
  証し人のわたしたちの存在と証しが、パウロたちのように今も神の永遠の予定を実行し、神の裁きを実現しています。確かにキリストの福音は救われる物と滅ぶ者とを分け、わたしたちが滅ぶ者には死から死にいたらせる香りとなり、救われる者には命から命にいたらせる香りとなっています。
 
  わたしたちはキリストの証人として相応しい者ではありませんが、主イエスがわたしたちを選び、遣わしてくださり、証しできるようにわたしたちに聖霊の導きを与えてくださることを感謝します。
 
  どうか世の光、地の塩として、わたしたちをキリストの良き香りとしてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。