コリントの信徒への手紙二説教 10     主の20015年8月2日 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、  「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日にわたしはあなたを助けた。」 と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。  コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしたちは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。           コリントの信徒への手紙二第6章1‐13節 説教題:「神の賜る恵みを無駄にしない」  パウロは、和解の務めを果たす神の協力者として、コリント教会のキリスト者たちに「神から賜った恵みを無駄にしないでください」とお願いしています。 5章のことを少し復讐しますと、パウロは、コリント教会でキリストの使者の務めを果たし、和解のために奉仕する務めをしていました。この和解とは、父なる神がキリストの十字架の贖いによってご自分とこの世とを和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、パウロたち宣教者たちに和解の言葉を委ねられました。すなわち、父なる神は、罪とは何のかかわりもない主イエス・キリストを、わたしたちのために罪となさり、同時に主イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神に従順を示され、得られた神の義をわたしたちに賜りました。パウロたちは、この喜びを神の和解としてコリント教会のキリスト者たちに伝えました。 ですから、パウロは「神の協力者としてあなたがたに勧めます」と、この手紙でコリント教会のキリスト者たちに勧告することができました。その内容が「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」ということです。 1節の「神の協力者」とは、パウロの言葉そのままに言いますと、「働く者として」です。パウロには、「わたしだけが神の協力者ではない。あなたがたも神の協力者なのです」という思いがあったでしょう。わたしたちキリスト者は、だれでも「神の協力者」です。なぜなら、パウロのように和解の務めを委ねられているからです。神と共に働き、父なる神がキリストを通してこの世との和解を求めておられることを、わたしたちが世の人々に伝えることを、パウロは期待したでしょう。 だからこそ、パウロは神と共に働くキリスト者たちに「神から賜る恵みを無駄にしてはいけない」と勧告しました。 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「あなたがたはわたしたちのように神の協力者です」と訴えて、続いて彼はコリント教会のキリスト者たちに「あなたがたは、神の恵みの時、救いの日にいるのです」と教えました。 パウロは、2節で次のように神の言葉を記しています。「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と。 これは、旧約聖書のイザヤ書49章8節の御言葉です。イザヤ書40章以下は、主なる神がバビロンに捕囚された民たちに語られた御言葉です。敵国バビロンに捕囚されていた神の民たちに、主なる神は預言者を通して、神の民たちが捕囚から解放されることを約束されました。主なる神は、神の民たちに「解放される恵み時、今わたしはあなたがたの願いを聞き、救いの日である今、わたしはあなたがたを助けて、捕囚の地から解放し、エルサレムへと帰還させると約束されました。 旧約聖書を読みますと、主なる神は創世記で神の民の先祖アブラハムを選ばれ、彼と契約を結ばれました。その時に主なる神は彼に「わたしはあなたの神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と約束されました。そして主なる神はアブラハムに彼を祝福の基とし、彼と彼の子孫を通して諸国民を祝福すると約束されました。パウロは、この約束がキリストの十字架の死と復活によって実現したと述べています。すなわち、復活のキリストが昇天し、聖霊を地上に遣わされて、聖霊がキリスト教会を建て、教会は福音宣教によって全世界の人々に神の和解の福音語り、今、神の恵みの時、救いの日が実現しています。 福音宣教が続けられている今こそ、神の恵みの時、救いの日です。この福音宣教は、キリストが再臨されるまで続けられます。その時まで常に福音宣教がなされている今、すなわち、わたしたちが神を礼拝し、教会生活をし、人々に伝道している今こそが、「恵みの時」であり、「救いの日」であります。 キリスト者には、今の世と来るべき世しかありません。「今の世」は、神から賜る恵みの時であり、救いの日であります。祈りと伝道する時であります。なぜなら、主なる神御自身が「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と約束してくださっているからです。 今、わたしたちが今朝の御言葉を信じて、心からキリストに信頼し、祈り、伝道するならば、主はわたしたちの願いを聞いてくださいます。主は、パウロたちを通して牢獄の看守に「あなたが主イエスを信じるなら、あなたの家族も救われる」と約束されました。看守は主イエスを信じました。そして彼の家族も救われました。福音宣教がなされていることが神の恵みの時、救いの日だったからです。 そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「神からいただいた恵みを無駄にしない」ように勧告しただけではありません。実際にパウロたち自身も、「神からいただいた恵みを無駄にしないように」、3つの点に気を配りました。すなわち、彼らの和解の務めの奉仕の業が人々に非難されないように、また彼らがどんな時にも人のつまずきとなる機会を与えないように、そして、あらゆる機会に彼らがキリストのしもべであることを証しすることです(3-4節)。 パウロの勧告と彼らの信仰の姿勢を学びます時、わたしは、自分が神の恵みをいただいたことを思い起こします。大学生のころ、大学でキリスト者の先生に出会いました。そして宝塚教会に導かれました。1年3カ月求道し、主イエスを信じて、洗礼を受けました。以来今日まで教会生活を続けて来ました。わたしがキリスト者になった時、唯一の心配は大学生活を終えて、田舎に帰り、再び元の生活の戻ってしまうのではないかということでした。それこそ神から賜った恵みを無駄にすることになります。偶像生活の中からキリストによって救い出され、再び異教生活の中に戻れば、キリストの十字架と復活はわたしにとって何だったかということになります。前にもお話したかもしれませんが、わたしは、主イエスに祈りました。「あなたと共に生涯歩める道をお示しください」と。それに対する主の答は、神戸改革派神学校への入学でした。そして今日まで牧師生活をしています。 さて、パウロは、神に仕える奉仕者として4節以下で証ししていることは、真実であると思います。牧師も信徒も、第1にキリスト者は聖徒の堅忍という信仰人生を歩みます。第2にキリスト者には聖霊の導きがあります。第3にキリスト者は自らの弱さの中に神の御力を発見します。 キリスト者とは、洗礼によってキリストと一つにされた者です。そのためにキリスト者はキリストの十字架(苦難)を身に負う者です。それゆえにキリスト者には忍耐という特色があります。これは、やせ我慢とは違います。苦難を通してキリストと共に生きる者とされていることを喜ぶ、それがキリスト者の忍耐の特色です。 パウロが苦難のリストを次のように挙げています。「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」。これらの苦難はすべて、パウロが経験したことです。さらに言えば、これらの苦難は、キリスト御自身の経験であります。だから、この苦難のリストは、パウロがキリストと共に生きる者とされた喜びを証しするリストです。 第2にキリスト者の生活は聖霊に導かれる生活です。「純真、知識、寛容、親切」は、キリスト者の徳目であります。徳目とは、道徳を分類した名目のことで、キリスト者が身につける道徳のことです。聖霊は、わたしたちキリスト者に「純真、知識、寛容、親切」という道徳を身につけさせてくださいます。聖霊は、キリスト者の心を一新し、キリストを知る知識を与え、愛の特質である寛容を与え、不当な行為や敵に対して愛をもって対処する者とし、愛をもって隣人を親切にもてなす者としてくださいます。 第3にキリスト者は、自分の弱さの中に神の御力を発見する者です。7節後半から10節は、相反することを取り上げています。 世間の評価では、キリスト者たちは「人を欺いているよう」であり、「人に知られていないよう」であり、「死にかかっているよう」であり、「罰せられているよう」であり、「悲しんでいるよう」であり、「物乞いしている」ようであり、「無一物のよう」でありました。 しかし、神の目には、キリスト者たちは「誠実であり」「よく知られ」「生きており」「殺されず」「常に喜び」「多くの人々を富ませ」「すべてのものを所有して」いました。それは、キリスト者の弱さに神の御力が現されていたからです。 この世でキリスト者として生きることは、自分の弱さと向き合うことです。その弱さにこそ神の力が現れているのです。  今のこの世は、すべてが「効率」という言葉で評価されています。それは、この世に役立つか、得するかを基準としています。だから、この世の基準でキリスト者の生活を見れば、非効率的と評価されます。日曜日に礼拝と午後の教会活動で、さらに夕拝がある教会もあり、週の1日が費やされます。しかし、この世で役立つことも、だれかが得をすることもありません。しかし、神の目には日曜日の礼拝と教会の活動は、永遠の命の交わりであります。     どんなに効率的な生活をする者も、最後は死という非効率な現実を避けることはできません。死はブラックホールのようなものです。人が人生で築いたすべてのものをことごとく飲み込み、無にしてしまうのです。認知症という病気も、死と同じようにブラックホールです。人が幼いときから幼稚園、学校、社会で効率よく得た知識をすべて飲み込み、自分がだれであるかも忘れてしまうのです。ですから、人はだれでも裸で生まれ、裸で死にます。そして、この世で得たすべての知識も忘れ、自分も忘れ、最後に人も忘れてしまうのです。     しかし、キリスト者は死人の中から復活されたキリストと共に永遠に生きるのです。この世は、キリストの再臨と共に滅びますが、新しい天と地でキリスト者は永遠に生きるのです。たとえ認知症を患い、すべての知識と自分すら忘れてしまっても、キリストが覚えてくださっています。天国にわたしたちの名が刻まれているのです。     神の命を、キリストと共に生きている喜びを、この世の家族に、地域の人々に伝えることは、わたしたちの使命です。祈り、伝えるなら、神はわたしたちの願いを聞いてくださり、わたしたちの目に家族の救いを、近隣の方々の救いを見させてくださるでしょう。パウロは、今がそういう神の恵みの時であり、救いの日であるから、その神から賜る恵みを無駄にしないように勧めてくれているのです。  お祈りします。     主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第6章1節から11節の御言葉を学ぶことができて感謝します。     わたしたちは、パウロから「神からたまわる恵みを無駄にしないように」という勧めを与えられました。     今が恵みの時であり、救いの日であることを覚えて、心から感謝します。わたしたちの教会は、教勢と伝道において厳しい現実でありますが、それでも今という時がわたしたちとこの教会にとって恵みの時であり、救いの日であるとの神の約束を示され、感謝します。毎週の礼拝を通して、クリスマスの集いやイースター伝道集会を通して、またわたしたちの個人伝道や家族への伝道を通して、祈りますわたしたちの願いを主が聞き届けてくださり、家族や隣人の救いをお助けください。     どうか、わたしたちが神から賜りました恵みを無駄にしないために、わたしたちに聖徒の堅忍、聖霊の導き、そして、わたしたちの弱さの中に神の御力を見せてください。     これから聖餐の恵みにあずかります。わたしたちの信仰を強めてください。今朝の主の御言葉を信じて家族にも、近隣の人々にも、和解の言葉を伝えることができるようにお導きください。自分たちが弱いからこそ、弱いわたしたちを無条件に愛してくださった神の愛を賛美させてください。     聖霊により頼み祈ります。どうか、わたしたちをに「純真と知識と寛容と親切」というキリスト者の道徳を与え、人に伝道できるチャンスをください。忍耐と寛容と親切をもって家族に、近隣の人々や知人に和解の言葉を伝えることができるようにしてください。     この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 コリントの信徒への手紙二説教 11     主の20015年8月9日 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われるとおりです。   「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。   そして、彼らの神となり、   彼らはわたしの民となる。   だから、あの者どもの中から出て行き、   遠ざかるように』と主は仰せになる。   『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。   そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、   父となり、   あなたがたはわたしの息子、娘となる。』   全能の主はこう仰せられる」   愛する人たち、わたしたちは、このように約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全なる者になりましょう。   わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。           コリントの信徒への手紙二第6章14節‐第7章4節 説教題:「キリスト者は生ける神の神殿」  先週、コリントの信徒への手紙二の6章11-13節の御言葉をお話ししませんでした。それは、パウロたちにコリント教会のキリスト者たちが心を開いてほしいという願いであります。  パウロたちは、この手紙で自分たちの方からコリント教会のキリスト者たちに心を開いて、真っ直ぐに自分たちの和解の奉仕について説明しました。3章1節でパウロたちがコリント教会のキリスト者たちに自己推薦が必要であるかという話から始めまして、パウロたちが6章4-10節で使徒としての活動における試練や苦難のリストをあげ、また、使徒としての務めをやり遂げるに必要な霊的資格、恵み、そして手段をあげて、パウロたちがある意味で自己推薦しているところに至るまで、パウロたちはコリント教会のキリスト者たちに「自分の使徒職の全貌」を説明してきました。     そして、パウロたちはコリント教会のキリスト者たちに「子供たちが遊びで、『互いに公平にしよう』と言うように、わたしたちはあなたがたに心を開いて語っていますから、あなたがたもわたしたちに心を開いて、思っていることをそのまま言ってください」とお願いしました。     会話が一方的であれば、どんなにパウロたちがコリント教会のキリスト者たちに親愛の情を持っていても、伝わりません。相手が心を閉ざしているからです。パウロたちは、コリント教会のキリスト者たちが彼らの心を開いて、パウロたちの親愛の情を受けとめてほしいのです。そうでなければ、この手紙とこの手紙の勧めは無駄になるからです。     さて、この手紙の1章12節から7章16節までがこの手紙の第一部であり、パウロたちが自分たちの和解の奉仕について述べています。そして、6章11-13節の御言葉は、第一部の結びでありました。     ところが、パウロたちの「心を開いてください」というお願いは、6章14節から7章1節の御言葉によって中断され、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「あなたがたは、不信仰な者たちとの軛につながれてはならない。なぜなら、あなたがたは生ける神の神殿である」と勧告しています。     この中断の御言葉を、ある者はパウロ以外の者が挿入したと主張します。他の者は、パウロの失われた手紙の一部がここに挿入され保存されていると主張します。わたしは、パウロが当時の資料を用いて、これらの御言葉を挿入したと思います。     さて、パウロは、最初に旧約聖書の申命記22章10節の御言葉を引用し、信仰者と不信仰者の間に一致がないことを主張します。それは「牛とろばとを組にして耕してはならない」という御言葉です。主なる神は、モーセを通して神の民に牛とろばという種類の異なる家畜を一つの軛につなぐことを禁じられました。パウロは、それを信者と不信仰者との間の一致があり得ないことに援用しました。     パウロたちは、コリント教会のキリスト者たちに「心を開いてください」とお願いしました。しかし、コリント教会のキリスト者たちは、パウロたちの勧告を素直に受け入れられない事情がありました。すなわち、コリント教会のあるキリスト者たちは、偶像礼拝から離れられずにいたのです。そのことが、彼らの心を狭くしていたのではないでしょうか。だから、パウロは、6章14節から7章1節でコリント教会のキリスト者たちに偶像礼拝から離れよという勧告をしたのです。     そこでパウロは、偶像礼拝と異教の習慣から離れられないコリント教会のキリスト者たちに理に適った説得をします。信者とはキリスト者で、不信仰者とは偶像礼拝者です。両者は、「不釣り合いな軛」です。まるで牛とろばです。同じ軛につないで畑を耕すことはできません。また、キリスト者は神に「義」とされた者であり、偶像礼拝者は、神に「不法」とされた者です。両者は正反対で、かかわるところ、すなわち、両者に共通したところがありません。また、キリスト者は「光の子」、神の子であり、偶像礼拝者は「闇の子」、サタンの子です。だから、キリスト者は「キリスト」を主として礼拝し、偶像礼拝者は「ベリアル」、神に敵対するサタンを礼拝していますので、両者には調和はあり得ません。このようにキリスト教信仰と偶像礼拝との間には、何の関係もありません。     そして神の神殿と偶像との間にも何の一致もありません。なぜなら、主なる神は、神の民に十戒の第1戒で「わたしの他に神はない」と命じられ、第2戒で「刻んだ像を造るな」と命じられました。だから、旧約時代の神の民イスラエルの神の幕屋と神殿の中には偶像は置かれませんでした。     そこでパウロは、神の御言葉からわたしたちに素晴らしいメッセージを伝えてくれます。16節の御言葉です。「わたしたちは生ける神の神殿なのです。」     神の神殿は、聖所と至聖所との分かれ、至聖所には神の臨在のしるしである契約の箱が置かれていました。旧約時代の神の民たちは、神の幕屋と神殿で主なる神に会見しましたが、神殿の至聖所に入る事はできませんでした。ところが、父なる神が御子キリストをこの世に遣わされて、わたしたちを罪より贖い出してくださいました。そして、キリストは昇天し、父なる神の右に座され、そこから聖霊なる神をわたしたちに遣わされました。聖霊はわたしたちを清めて、わたしたちの内にいてくださいます。同時に聖霊を通してキリストがわたしたちの内におられて、マタイによる福音書の28章20節で復活の主イエス・キリストが約束してくださった「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と約束してくださったことを実現してくださいました。     16節後半から18節の御言葉は、「わたしたちは生ける神の神殿なのです」ということを、旧約聖書が証言している御言葉を集めた文章です。16節後半は、レビ記26章11-12節の引用です。「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、わたしはあなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」。17節はイザヤ書52章11節です。「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ 汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ」。18節はサムエル記下7章8節と14節です。「わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる」「わたしは彼の父となり、彼はわたし子となる。」     キリスト者は、キリストを救い主と信じて、洗礼を授けられた時、神との契約に入れられました。わたしたちがキリストによって神に義とされたとは、わたしたちがキリストの所有、神の所有とされたことです。それによって神はわたしたちキリスト者の神となり、父となってくださいました。そして、わたしたちキリスト者は、神の民となり、神の子とされました。     この神の約束のゆえに、パウロはコリント教会のキリスト者たちに7章1節ではっきりと次のように勧告するのです。「愛する人たち、わたしたちには、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」     パウロたちは、偶像礼拝から離れられないコリント教会のキリスト者たちを、「愛する人々」と呼びかけます。キリストの十字架を通して彼らと和解しようとする父なる神の愛を知っているからです。     ですから、パウロたちは、キリストを救い主と信じて洗礼を授けられたキリスト者たちに、そして、彼らの子たちである幼児洗礼を授けられて、キリストを告白した者たちに、この神の約束を思い起こさせて、神が聖なるお方であるように、コリント教会のキリスト者たちも聖なる者となるように勧めています。     今日、わたしたちは戦後70年を覚えております。聖書の中で70年という数字は、わたしたちに旧約聖書の神の民イスラエルがバビロンという異教の地で70年間捕囚生活をし、主なる神が異教の王であるキュロスを用いて彼らを再びシオンに、エルサレムに呼び戻された出来事を思い起こさせます。     神の民イスラエルが異国のバビロンからエルサレムに呼び戻されて、神の聖なる民として約束の地で信仰の戦いをしながら、エルサレム神殿とエルサレムの都を再建しましたように、わたしたちも70年前の敗戦により信教の自由を与えられ、この諏訪という異教的生活から呼び出され、キリストの十字架の贖いのゆえに神に特別にささげられた聖なる民とされ、上諏訪湖畔教会の形成に導かれてきました。     戦後70年を境に日本は戦争をする国に歩もうとしています。戦争に反対し、平和主義の日本国憲法を守る事は大切です。それ以上に日本が戦争をする国になることは、靖国神社を中心とする国造りがなされ、再びキリスト教は敵国宗教として迫害され、再び戦前のように天皇が現人神となり、わたしたちは毎週の礼拝において宮城遥拝が強要される危険が増すことを意味しています。     だから、パウロたちは、コリント教会のキリスト者たちにもう一度「わたしたちに心を開いてください」と呼びかけています。再び偶像礼拝に戻らないでくださいという訴えです。そして、パウロたちは、最初にコリントの町に来て、福音宣教したときと自分たちが全く変わっていないと訴えています。パウロたちは、コリントの町の人々とコリント教会のキリスト者たちのだれにも、被害を与え、彼らの生活を打ち壊し、彼らを騙して自分たちの利益を得ようとしたことはないと訴えました。     パウロたちが彼らの福音宣教を擁護するのは、コリント教会のキリスト者たちを、未だに偶像礼拝から離れられない彼らを非難するためではありません。むしろ、パウロたちは、同じキリストを主と告白し、共に主イエス・キリストのしもべとして、福音宣教を通して生死を共にしているコリント教会のキリスト者たちを、運命共同体として受け入れています。     わたしたちは、パウロたちから本当に自分たちの弱さを受け入れることを学ぶことは大切だと思います。キリスト者たちの中に偶像礼拝に戻る者がいることは、コリント教会の弱さです。しかし、パウロは、彼らを非難しません。それでもコリント教会は日曜日ごとに礼拝に集まり、説教がなされ、聖餐式が行われていました。聖霊を通してキリストは、コリント教会の中を歩き回られ、彼らと命の交わりを続けられています。     だから、パウロたちの目にコリント教会の弱さがどんなに見えても、パウロたちは彼らが伝えたキリストとコリント教会のキリスト者たちが日曜日の礼拝を通して常に命の交わりを続けていることに誇りを覚えました。また、復活の主イエス・キリストがコリント教会のキリスト者たちの内にあり、生きて働かれているのを見て、慰めを得、今の困難な状況でも喜ぶことができました。     どうか、今わたしたちが、そして、上諏訪湖畔教会が、わたしたちにどのように見えようとも、パウロたちはわたしたちに「あなたがたの心を開いて、わたしたちが、生ける神の神殿である」ことを見てくださいと訴えています。パウロのメッセージは、わたしたちに弱いわたしたちを非難しません。むしろ、弱いわたしたちをキリストの器として、この教会のために、そして御国の建設のために用いてくださる聖霊へと、わたしたちの信仰の目を向けしめています。     お祈りします。     主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第6章14節から7章4節の御言葉を学ぶことができて感謝します。     わたしたちは、パウロたちから「わたしたちは、生ける神の神殿である」という勧めを与えられました。     どうか、今朝の御言葉にわたしたちが慣れてしまうことがないようにしてください。御言葉が当たり前に聞こえ、わたしたちの心から喜びが消えることがないようにしてください。     自分たちやわたしたちの教会の弱さだけを分析し、聖霊のお働きを忘れてしまうことがないようにしてください。     どうか、わたしたちも聖霊と今朝の御言葉に導かれ、わたしたちの「心を開いて」、互いに話し合うことができるようにしてください。わたしたちの弱さのゆえに、自分の心を狭くし、わたしたちを導かれる聖霊を通して、今もお働きくださるキリストを信じることができない者としないでください。     今朝の主の御言葉を信じ、わたしたちの内にいますキリストを、わたしたちの家族に、近隣の人々に伝えることができるようにお導きください。弱いわたしたちを無条件に愛してくださった十字架のキリストの愛を伝えさせてください。     この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 コリントの信徒への手紙二説教 12     主の20015年8月16日 マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。こういうわけでわたしたちは慰められたのです。  この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。           コリントの信徒への手紙二第7章5‐16節 説教題:「パウロの喜び」 今朝は、コリントの信徒への手紙第7章5節から16節の御言葉から、使徒パウロの喜びを学びましょう。  これまでこの手紙を通して、どんなにパウロがコリント教会のキリスト者たちのために心を砕いてきたかを学びました。そのパウロに、彼の弟子であり、同労者であるテトスが良き知らせを伝えてくれました。そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちが彼らの罪を悲しみ、主の御心に適う悔い改めをしたことを知り、パウロは福音宣教の労苦が続く中で神により喜びと慰めを得たと喜びました。 今朝の御言葉は、もう一度この手紙の第2章13節に戻る必要があります。この手紙の1章12節以下でパウロは、コリント教会のキリスト者たちにコリント教会への訪問の計画を変更したことを知らせました。  パウロは、小アジアのトロアスという町で、弟子のテトスと会うことになっていましたので、エフェソの町からトロアスの町を訪れ、しばらく滞在し、キリストの福音を宣べ伝えました。しかし、主はパウロの福音宣教を祝福してくださいませんでした。また、彼はトロアスの町でテトスに会うこともできませんでした。そこでパウロは、テトスに会って、コリント教会のキリスト者たちのことを聞きたくて、ギリシアのマケドニア州に向けて出発しました。     そして、今朝の7章5節の御言葉につながります。使徒パウロたちはマケドニア州に到着しました。パウロたちはマケドニア州に着いても、心穏やかでありませんでした。パウロの心は最悪でした。「外には戦い、内には恐れ」とは、パウロの軋轢と心の不安を表現しています。コリント教会のキリスト者たちのことを思うと、パウロは心穏やかになれず、彼の身は全くくつろいだという思いがしないと、告白しています。     ここでわたしたちに知らされることは、パウロの喜びが彼の内側から来たものではないということです。だから、パウロは、6節で次のように告白しています。「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」と。     テトスは、ギリシア人でした。パウロの福音宣教を通して回心し、パウロの弟子となり、同労者となりました。パウロの第3回伝道旅行のおりに、パウロの代理としてコリント教会に派遣されました。彼は、コリント教会の中で偽教師たちに同調したキリスト者たちがパウロの使徒としての権威を侮辱するという事件が起こったとき、その問題解決のためにパウロの代理として働きました。また、エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを救済するための募金活動を、コリント教会で進んで行いました。     テトスは、コリント教会で良き働きをしました。それは神の慰めでありました。神は、テトスの指導を通してコリント教会のキリスト者たちがパウロを心から慕い、彼の使徒的権威に従うようにしてくださったのです。ですから、パウロは、神がテトスの指導を通してコリント教会のキリスト者たちが熱心にパウロを慕い、パウロの訪問を待ちわびていることを、テトスから知らされて、さらに喜びに満たされました。     8節の「あの手紙」とは、パウロが2章4節で「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」と述べている手紙のことでしょう。それは、パウロがコリント教会のキリスト者たちを非難する手紙ではありません。むしろ、パウロがどんなにコリント教会のキリスト者たちを愛しているかを知らせる手紙でした。だから、8節でパウロは、「あの手紙」でコリント教会のキリスト者たちを悲しませたとしても後悔はしていないことを表明しています。     パウロの喜びは、彼の外から、神によって慰めと言う形で与えられました。コリント教会のキリスト者たちが具体的に何を悲しんだのか、この手紙では明らかではありません。しかし、パウロは、コリント教会のキリスト者たちの悲しみを、後悔することなく喜びました。     なぜなら、その悲しみは神の御業であったからです。この世の悲しみとは違いました。9節でパウロは、「悲しんで悔い改めたからです」と述べています。悔い改めという行為は、神がコリント教会のキリスト者たちに恵み深くお働きになり、彼らに罪を認識させ、彼らの心を神に向けさせ、彼らの生活を根本から、徹底して神に向かわしめるものでした。ですから、パウロたちは、神が御自身の御心によって彼らを悔い改めさせられたので、「わたしたちからは何の害をも受けずに済みました」と述べています。パウロたちがコリント教会を訪れて、罪を犯したキリスト者たちを戒規し、教会から追放することをしないですんだということでしょう。     コリント教会のキリスト者たちがどんな罪を悲しみ、悔い改めたか、分かりません。使徒パウロを侮辱し、パウロの使徒的権威を否定した罪か、近親相姦という恐ろしい罪か、あるいは別の重い罪か、はっきりしません。     しかし、ここでパウロは、わたしたちに二つの悲しみを教えてくれます。神の御心に適う悔い改めに伴う悲しみとこの世の悲しみです。前者は、わたしたちを神の救いへと導き、後者はわたしたちを死へと、すなわち、滅びへと導くということです。     この二つの悲しみを覚えるときに、わたしたちは主イエスの弟子であるペトロとユダの悲しみを思い起こします。ペトロは、サンヘドリンのキリストの裁判で3度主イエスを否定しました。そしてその後、悲しみ、涙しました。神の憐れみゆえにペトロは、心をキリストに向け続けました。そしてキリストを信頼し、自らの罪の赦しを乞いました。ところが、ユダは自分の罪を悲しみましたが、決して心をキリストに向け続けることをしませんでした。キリストを信頼することなく、自らの罪に絶望し、自らの命を絶ちました。     11節の「例の事件に関して」、コリント教会の中で教会戒規がなされ、教会が一致して罪を犯した者を処罰し、パウロたちにコリント教会が潔白であることを証明しました。     この出来事で、12節にパウロは、自分が書いた涙の手紙の目的を果たしたことを述べています。涙の手紙は、罪を犯した当事者を裁くことでも、被害者のためでもありませんでした。使徒であるパウロに対するコリント教会のキリスト者たちの積極的な服従を神の御前で証ししてもらうためでした。しかし、それは彼らに神の憐れみがあり、神が彼らに悔い改めの心をお与え下さらない限り不可能であります。ところが神はコリント教会のキリスト者たちに神の御心に適う悲しみを与えて、悔い改めさせてくださったので、パウロは慰めを得ました。     また、パウロたちは、コリント教会のキリスト者たちについて報告したテトスの喜びを見て、さらに喜びを増し加えられました。神がコリント教会のキリスト者たちを通してテトスを元気づけてくださったからです。     コリント教会のキリスト者たちは、使徒パウロの代理としてコリント教会に遣わされたテトスを迎えるにあたり、「一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎」しました。敬虔な態度でテトスを、コリント教会に迎えたのです。     パウロは、テトスにコリント教会のキリスト者たちのことを誇りましたが、それが真実となった、神がそうしてくださったことを喜びました。     16節は、パウロがコリント教会のキリスト者たちに全幅の信頼を寄せていることを表明しています。神の憐れみのゆえに、コリント教会のキリスト者たちのパウロに対する誤解と侮辱は解決されました。パウロが願ったキリストにある和解が実現しました。     パウロの喜びを通して、わたしたちは、神の憐れみに心から信頼するように導かれます。キリストは、わたしたちに「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るように教えてくださいました。神が憐れみゆえにわたしたちの心を、わたしたちの教会を変えてくださり、神の御心に適う悲しみ、悔い改めをなさせてくださらない限り、教会は変わりませんし、わたしたちも変わりません。しかし、神がわたしたちに悔い改めをなさせてくだされば、問題の多いコリント教会のキリスト者たちが変えられたように、わたしたちも変えられるのです。     パウロは、今朝の御言葉でその真実をわたしたちに語りました。神の御言葉は真実ですから、コリント教会のキリスト者たちに起こった罪の悔い改めは、わたしたちの中にも起こります。だから、わたしもこの上諏訪湖畔教会をキリストの教会として全幅の信頼を寄せることが可能であります。わたしたちは、神の憐れみのゆえに主イエス・キリストにあって互いに信頼することができます。この確信こそパウロの喜びであり、わたしたちの喜びではないでしょうか。       お祈りします。     主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第7章5節から16節の御言葉を学ぶことができて感謝します。     わたしたちは、パウロたちの喜びを通して、わたしたちの喜びが神によって慰めという形でわたしたちに与えられていることを教えられました。     喜びの根源には、神の憐れみがあり、天においてわたしたちを憐れむ神は、この地において神の御心に適う悲しみをわたしたちに与えて、神に立ち帰らせてくださることを知りました。     わたしたちの教会に、コリント教会と同じ罪と弱さがあります。しかし、それを悲しむだけでなく、神の憐れみによってわたしたちが悔い改めへと導かれ、神の御言葉と御言葉を語る者への従順に導かれ、すべての点でキリストにあって信頼できる関係にしていただき、御国へと導かれていることに、心より感謝します。     どうか、わたしたちが今朝のパウロの御言葉に導かれ、神の憐れみに信頼し、礼拝で語られる神の御言葉の真実が、聖霊を通してわたしたちにも真実となることを確信させてください。     今朝の御言葉を信じ、わたしたちは主にある兄弟姉妹であることを覚え、すべての点で信頼させてください。そのことを神の憐れみとして喜ぶことができるようにしてください。     この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

コリントの信徒への手紙二説教 13     主の20015年9月6日 兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。           コリントの信徒への手紙二第8章1‐7節 説教題:「惜しみない施しの勧め」 今朝よりコリントの信徒への手紙8章を学びましょう。この手紙の8章と9章は、使徒パウロがコリント教会のキリスト者たちに「エルサレムの貧しいキリスト者たちへの募金の趣意書を記しています。このパウロの募金の趣意書から献金について学びたいと思います。     使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちにエルサレムの貧しいキリスト者たちを助けるための募金を集めていました。コリントの信徒への手紙一の16章1-4節に記しています。ところが、コリント教会に偽使徒たちが入り込み、コリント教会は混乱し、パウロとコリント教会の間も不和となりました。そこでパウロは、現在では失われた涙の手紙とコリントの信徒への手紙二をコリント教会のキリスト者たちに宛てて書き、和解しました。その時にパウロに代わって彼の弟子テトスがコリント教会に遣わされ、募金を再開したのでしょう。ですから、パウロは、8章6節で次のように記しています。「わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるように勧めました。」パウロは、テトスが再開した募金活動を励ましました。     パウロがこの手紙をコリント教会に宛てて書いた時、パウロはマケドニア州の諸教会で福音宣教をしていました。それでパウロは、マケドニア州の諸教会のキリスト者たちがエルサレムの貧しいキリスト者たちを助けるために気前のよい募金をしているのを目撃しましたので、それをコリント教会のキリスト者たちに伝えて、霊的な富を豊かに持っているコリント教会のキリスト者たちの募金活動を励ましました。     8章1節でパウロは、マケドニア州の諸教会のキリスト者たちが気前よくエルサレムの貧しいキリスト者たちへの募金をしている姿を見て、「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵み」であると述べていますね。この「神の恵み」とは、マケドニア州の諸教会のキリスト者たちが8章9節でパウロが述べているキリストの出来事に基づいた彼らの回心と召しに由来しています。彼らの募金は、神の恵みに対する感謝の応答でありました。十字架のキリストを通して示された神の寛大さに対する感謝を、募金という行為で表しました。それをパウロは、コリント教会のキリスト者たちに知らせて、彼らが再開した募金活動を励ましました。     パウロは、マケドニア州の諸教会のキリスト者たちが募金に熱心であることを称賛しているのではありません。彼らの募金活動を促されている聖霊のお働きを称賛しているのです。そして、パウロは霊の豊かさを持つコリント教会のキリスト者たちにパウロの思いが伝わることを確信して、この手紙を書いているのです。     確かにパウロは、直接、聖霊のお働きだとは述べてはいません。しかし、8章2節の「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜び」という表現に、7章4節でパウロが「どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています」と聖霊体験を証ししていますように、パウロはマケドニア州の諸教会のキリスト者たちが激しい迫害の中で苦しみながら、パウロたちの宣教活動を助け、エルサレムの貧しいキリスト者たちを助けるために募金に励むことができたのは、そこに彼らの中に聖霊の導きと働きがあったからだと証ししています。聖霊の導きと働きなくして、彼らが迫害と貧しさに耐え、人に惜しまないで施しをすることはできなかったでしょう。     パウロの「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」というみ言葉を繰り返し読んでいまして、その先生の奨励を思い起こしました。マケドニア州は農業と鉱山で生活が支えられていました。キリスト者たちは社会の下層の人々で、その上に激しい迫害があり、とても貧しかったのです。しかし、聖霊は、彼らの心にキリストの十字架の愛を豊かに注がれました。彼らは神の恵みの豊かさに対する心からの喜びにあふれ、人に惜しまずに施すことをしました。レプタ銅貨1枚ささげた貧しい女性のように、マケドニア州の諸教会の貧しいキリスト者たちが聖霊に導かれて喜びと惜しみない心の豊かさがあふれて、募金活動に参加しました。     さらに聖霊の導きは、人を熱狂させるものではありません。パウロは、8章3-4節で次のように述べています。「わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分たちから進んで、聖なる者たちを助けるために慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」     彼らの献金は、自発的でした。彼らの献金は、キリスト者全員がエルサレムのキリスト者たちを助ける慈善の業と奉仕への参加でした。献金とは、神の恵みに対する応答ですから、キリストの十字架の恵みにあずかるすべてのキリスト者が参加するものです。キリスト者にとって献金は、したい者がするというものではありません。神の恵みを知るキリスト者であれば、誰もが進んで自発的にしたいし、貧しいキリスト者を助けるためであれば、誰もが慈善の業と奉仕に参加を願うものです。そのように聖霊はすべてのキリスト者の心に働かれるからです。何よりも聖霊は、わたしたちキリスト者をキリストに似た者に変えられます。だから、キリスト者はキリストのように、貧しい者に仕えることを願うのです。「力に応じて」とは、経済力に応じて、ということです。「力以上」とは、経済力以上ということです。どちらにしても、それぞれのキリスト者たちが聖霊に満たされて、自発的にするのです。     聖霊がマケドニア州の諸教会のキリスト者たちにお働きになったのは、パウロにとって期待以上でした。彼らは、聖霊に導かれて、神の御心をなしました。だから、彼らは熱心に主を礼拝し、同時にパウロたちの宣教活動を助け、エルサレムの貧しいキリスト者たちを助ける募金活動をしました。     コリント教会のキリスト者たちは、聖霊の賜物を熱心に求める者たちでした。だから、パウロは、聖霊がお与えくださる信仰、言葉、知識、そして彼らは異言を熱心に求めました。そして分派争いをするほどに、パウロ、アポロ、ペトロたち使徒たちや他の伝道者たちの愛と交わりに豊かにあずかりました。聖霊を通して、使徒たちを通して神の恵みに豊かにあずかる彼らが、神の恵みの感謝の応答として、惜しむことなく慈善の業に参加するように、パウロは招くのです。     献金は、神の恵みに対するわたしたちの感謝の応答として、わたしたちが自発的に、惜しむことなく、参加するように、主イエスはわたしたちを招かれています。レプタ1枚の銅貨を主に献金した女性のように「力以上」にささげても、昔の神の民たちが収入の10分の1をささげたように「力に応じて」ささげても、喜んで教会のすべてのキリスト者たちが慈善の業に参加したいと願うことを、主は心から喜ばれるのです。     お祈りします。     主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第8章1節から7節の御言葉を学ぶことができて感謝します。     わたしたちは、パウロの献金の勧めを通して、神の喜ばれる献金を教えていただきました。     献金の喜びの根源には、キリストの十字架の愛があり、聖霊がわたしたちの心にその愛を豊かに注いでくださり感謝します。     どうか、わたしたちが強いられてではなく、惜しむ心からでもなく、慈善の業に心から喜びを持ち、その奉仕に全員で参加させてください。     どうか、わたしたちは、今から聖餐の恵みにあずかります。わたしたちの心にキリストの十字架の愛と復活による永遠の命の希望を注いでください。     この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 2015年度教会聖句による説教02       主の2015年8月30日 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。               ローマの信徒への手紙第15章5-6節 説教題:「道半ば」  既に今年の上半期は終わり、下半期に入っています。先週全員懇談会を開きました。「上半期を振り返って」というテーマでひとつ懇談の時を持ちました。そこで確認しましたことは、わたしたちの教会の将来が大変厳しい状況にあるにもかかわらず、その危機感を共有していると感じられないということでした。全員懇談会で確認したことは教会の命の問題であると思います。  今年の教会聖句であるローマの信徒への手紙第15章5-6節の御言葉から、今のわたしたちに何が必要であるかを、使徒パウロの祈りを通して、主から教えられたいと思います。 さて、先週の全員懇談会で出た発題は、決して珍しいものではありません。礼拝や諸集会への出席者の減少が教会の会計の状況を厳しくし、今年は前年の繰越で赤字にならなくても、来年は確実にマイナス会計になるというものです。わたしたちのような地方の小さな教会では避けられない問題です。     実は、東部中会の首都圏にある教会も、礼拝と諸集会の出席者が減り、教会員が減少し、教会から伝道所に種別変更する教会が増えつつあります。    昨年問安してくださった東部中会の伝道委員会が、わたしたちに経済的独立よりも教会の持続に力を入れてほしいと訴えられたのは、東部中会の将来に大きな不安があるからだと思います。 この世における教会は、常に、どこでも問題があり、将来への不安があります。だから、パウロは、神にローマ教会を覚えて祈ります。「忍耐と慰めの源である神」に。 このパウロの祈りは、わたしたちに神に与えられる忍耐を持って一致しようということです。  パウロは、ローマ信徒への手紙15章4節で「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と述べています。     「かつて書かれた事柄」とは、旧約聖書です。パウロの時代は、新約聖書がなく、旧約聖書だけでした。旧約聖書は、イスラエルの歴史、詩編、預言書等から成り、神の民を教え導くものでした。     旧約聖書には、神の民が困難な問題に直面し、将来に不安を覚えたとき、それが解決に至るためには、神からの多くの忍耐と慰めを与えられ、希望を持ち続ける必要があることを証言しています。     たとえば、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフたち、族長たちの生涯です。神が忍耐と慰めをアブラハムたち、族長たちに与えて、彼らが主なる神にのみ希望を持ち続けたことを、旧約聖書は証ししています。     主なる神は、アブラハムと契約を結ばれて、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と約束されました。そして主なる神は、アブラハムに「あなたとあなたの子孫を通して、諸国民を祝福する」と約束されました。忍耐と慰めの源である神は、この約束をアブラハムに与えられただけではありません。彼に神の約束を待ち望む忍耐と慰めを与えてくださいました。アブラハムは、神から与えられた忍耐と慰めで、25年間待ち続けて約束の子イサクを得ました。     旧約聖書に書かれているすべての事柄は、忍耐と慰めの源である神が、アブラハムを始めとする神の民イスラエルに忍耐と慰めを与えて、常に彼らに希望を与え続けられたことを証ししています。 パウロは、神の忍耐と慰めに注目しました。旧約聖書が教えるものが、「神から与えられる忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けること」でした。 この「忍耐」とは、苦難に対して確固した変わらない心で耐えて行くことです。「慰め」とは、励ましと助けです。忍耐と慰めによって希望を持つことが、旧約聖書が教えていることです。  ですから、パウロはローマ教会のキリスト者たちを覚えて祈りました。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」 パウロの祈りは、神の民であるわたしたちに「忍耐と慰め」によって希望を持つことを教えてくれます。しかも、神は忍耐と慰めの源であられ、神の民の忍耐と慰めを神御自身が実現されます。  一つの例を紹介します。創世記のアブラハム物語の中に、アブラハムと妻サラの間に子どもが生まれないという問題があります。妻サラが子どもを産めない女性でした。しかし、神が二人にイサクを与えると約束されました。そして神はアブラハムとサラに25年間その約束が実現するまで彼らに忍耐を与え、二人を慰めて、希望を与え続けられました。その間で二人は主の約束を待つことができなくて、アブラハムは妻サラの進言で召使のハガルを第2夫人にしました。ハガルが子を身ごもると、女主人のサラを蔑み、彼の家庭に争いが起こりました。それでも神は二人に忍耐を与え、アブラハムに契約を繰り返し、約束の子を与えると慰め、ついに90歳のサラが約束の子イサクを出産しました。 アブラハムは、家庭の問題を、それは同時に神の共同体の問題でしたが、家長、あるいは夫としての務めを果たし、解決できませんでした。その時に神が解決してくださいました。神は、アブラハムにサラがハガルと彼女の子を追い出すのを許され、アブラハムの相続者はサラの約束の子イサクであると定められました。神は追い出されたハガルと息子イシュマエルも祝福し、彼らの子孫を繁栄させることをアブラハムに約束し、それを実行し、問題を解決してくださいました。 このようにパウロの祈りは、わたしたちに教会の問題を、あるいは危機を、忍耐と慰めの源の神が解決してくださると教えています。    教会の問題の解決は、わたしたちのうちにあるのではありません。聖書を読みますなら、そこにわたしたちは神の御手を見出します。キリストがわたしたちに聖霊と御言葉を通して忍耐を与え、わたしたちに御言葉の慰めで希望を与えてくださっています。神はわたしたちに忍耐を与え、今の教会の問題に、厳しい現実に忍耐させてくださり、「わたしはあなたたちと共にいる」(マタイ18:20、28:20)、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで御国をくださる」(ルカ12:32)と、キリストを通して約束してくださったことを、自ら実現し、わたしたちを慰め、希望を持たせてくださいます。  だから、パウロはわたしたちにキリストに従って、わたしたちがキリストと同じ思いを抱くことができるように祈ります。 パウロは、教会の問題と危機の中で神に忍耐を与えられ、聖霊と御言葉を通して神から慰めを得て、前に進むローマ教会のキリスト者たちに、神が同じ思いを与えて、ローマ教会の中に一致を生まれさせてくださるように祈ります。  教会の一致、わたしたちの心の一致は、「キリストに倣って」生まれて来るものです。すなわち、「キリストはわたしの罪のために死なれたが、兄弟姉妹たちのためにも死んでくださった」ことを、わたしたちが心で受け入れるとき、そこに愛の交わりが生まれます。そしてキリストにある一致が強められます。 そしてパウロは、わたしたちの一致の心から礼拝の喜びが生まれるようにと祈ります。「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」。  パウロが祈りによってローマ教会のキリスト者たちに、そしてわたしたちに伝えていることは、一致の心が教会の成長のカギであるということです。教会は、神の祝福にあずかり、成長します。忍耐と慰めの源である神は、ローマ挙会のキリスト者たちに、そして今のわたしたちにキリストにある一致を求めておられます。パウロは、使徒言行録のエルサレムの教会がペンテコステの日に生まれた時と同じ信仰の一致によってローマ教会が成長するようにと祈ります。     わたしたちも聖書的教会の形成を目指しています。そこで確認して置くことは、創立20周年宣言の「教会の命は礼拝である」ということです。わたしたちが、信じ、信頼する主イエスより忍耐を与えられ、聖霊と御言葉を通して慰められ、常に希望を与えられて、キリストにあって一致し、日曜日の礼拝ごとにここに主に集められ、「心を合わせ声をそろえて主イエス・キリストの父なる神をほめたたえる」礼拝を続ける、これがここでパウロが祈り求めている教会のゴールであります。     パウロの祈りから教えられることは、教会もわたしたちのキリスト者の生活も、忍耐と慰めの源である神の恵みがなければ、教会の目標も今年度の実施も実を結ばないということです。     主イエスは、弟子たちに主の祈りを教えられた時に、最初に「御名をあがめさせたまえ」と祈るように教えられました。神がわたしたちの間で神となり、その御名が崇められますように、という祈りです。この祈りは、「あなたの御名が聖とされますように」という祈りです。     教会は、教会の中にわたしたちがこの世のものを持ち込むので、問題が起こり、教会がいろんな面で危機となるのです。主イエスは、「霊とまことをもって神を礼拝する時が来る」と言われました。     パウロは、わたしたちに主イエスが言われた礼拝を、「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてください」と祈りました。     神の喜ばれる礼拝は、神をほめたたえる礼拝です。神への敬意と賛美を表す礼拝です。礼拝は、天国の型であります。天上の教会を、わたしたちは礼拝を通して証ししています。パウロは、「我らの国籍は天にある」と言いました。だから、教会の礼拝はわたしたちキリスト者の故郷であります。父の家の教会に毎週招かれて、わたしたちは目には見えませんが、臨在のキリストのお会いし、心の内に喜びを覚えるのです。その喜びを、神はわたしたちの父として、喜んでくださり、祝福してわたしたちにすべての恵みをお与えくださるのです。そこにパウロは、教会の希望を見出したのだと思います。     わたしたちの教会は、途上にある教会で、道半ばであります。神から多くの忍耐をいただき、慰めを与えられて、希望を持ち続け、主の日の礼拝がこれからの続くことを祈り求めて生きましょう。パウロの今朝の祈りが、わたしたちの教会において主が実現してくださるように祈ろうではありませんか。     お祈りします イエス・キリストの父なる神よ、2015年も下半期に入りました。 小さな群れのわたしたちの教会をお支えください。  どうか、パウロの祈りを、わたしたちの教会に実らせてください。わたしたちは、今朝神の忍耐と慰めの源である神の忍耐と慰めと希望を学びました。主よ、どうかわたしたちの信仰生活に学んだことを実らせてください。 全員懇談会の話し合いを感謝すると共に、神の恵みなしに教会の目標も、今年度の実施項目も達成できませんので、わたしたちがあなたの喜ばれる礼拝をし、あなたの祝福の中に生かしてください。 今年の残り、心を合わせ、声をそろえて、主を礼拝し、賛美させてください。 御名を崇めさせてください。 主よ、わたしたちを祝福し、わたしたちの教会を持続させてくださり、御心であれば、経済的に独立できるようにしてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 コリントの信徒への手紙二説教 14     主の20015年9月13日 わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。   この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。   「多く集めた者も、余ることはなく、    わずかしか集めなかった者も、      不足することはなかった」 と書いてあるとおりです。           コリントの信徒への手紙二第8章8‐15節 説教題:「キリストの模範」 先週に続きまして、献金について学びましょう。信仰生活には命令されてするのではなく、自ら進んでなすべきことがあります。献金の行為もその一つであります。献金という行為は、自分を神さまに献げるというしるしであります。神の恵みに対するわたしたちの感謝の応答であります。 神は、献金に際してわたしたちに持っていないものまで要求されることはありません。持っているものを、どのように知恵を働かせて、熱意を持って惜しみなくささげるか、これが献金の大切なポイントです。  そこで今朝の8節のパウロの御言葉です。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに献金を命令しているのではないと主張します。「他の人々の熱心に照らして」とは、マケドニア州の諸教会のキリスト者たちの献金に対する熱心な態度を物差しにしてという意味です。パウロは、マケドニア州の諸教会のキリスト者たちの献金への熱意を物差しにし、コリント教会のキリスト者たちにエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助けるための献金を勧め、彼らの愛の純粋さを確かめようとしました。 献金という行為は、命令され、強いられてするものではありません。パウロにとって、献金はわたしたちの愛の純粋さを証しするものです。   そしてその愛を、9節でパウロはコリント教会のキリスト者たちに「あなたがたはキリストの恵みを知っています」と述べて、これが献金の根拠であることを示しています。そのキリストの恵みとは、人間の救いのためにいかにキリストがその身を犠牲にされたか、というキリストの十字架の愛です。 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに献金を勧めて、献金が2節で「人に惜しまず施す豊かさとなった」と述べていますが、その原型であり、模範が十字架のキリストでありました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)。それによって神が人に惜しまず施す豊かさをお示しになりました。 それゆえにパウロは、コリント教会のキリスト者たちにキリストが自らをささげられることの豊かさを、次のように述べたのです。「すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」 「主が豊かであった」とは、「先在のキリスト」のことです。すなわち、主イエス・キリストは永遠から父なる神の独り子なる神です。この世界が創造される前から神としての栄光に輝くお方でした。キリストはそのように富むお方でしたが、わたしたちを救うために人間の一人になることによって、神の栄光をお捨てになりました。貧しい大工の子に生まれ、貧しき者の友となり、そしてわたしたちの救いのために十字架の上で死なれました。パウロは、主イエスの貧しさと十字架の死は、わたしたちを豊かな者とするためであったと述べています。 「あなたがたを豊かな者とするために」とは、コリント教会のキリスト者たちをキリストの復活にあずかることのできるようにするためということです。すなわち、キリスト者たちに永遠の命を与え、御自身と共に御国の相続者とすること、これがわたしたちキリスト者を豊かな者とすることです。  実際にパウロは、この喜びを経験し、この手紙の6章10節で、このように証ししています。「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」     パウロのこの喜びは、復活のキリストの命にあずかる者の喜びです。そして、この喜びこそキリストの恵みを知ることです。そして知るゆえに神の恵みに対する感謝の応答として、わたしたちは心から喜びをもって、自ら進んで献金をし、この身を神にささげるのです。それほどに神はわたしたちを復活の主イエス・キリストと一つとし、持てる者、豊かな者にしてくださっています。     わたしは、キリスト者があずかる聖餐式が神の御国の前味であるのなら、献金はわたしたちが御国の相続人にされたしるしであると思います。 10節の「この件」とは、エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助けるための献金です。エルサレム教会への献金についてのパウロの意見です。パウロは、自分の意見がコリント教会のキリスト者たちにとって益となると確信していました。パウロとコリント教会のキリスト者たちの間に誤解があり、1年間エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助けるための献金が中断されていたのでしょう。  それでもパウロは、コリント教会のキリスト者たちが他の誰よりもこの献金を集めることに熱心であったことを知っていたのです。そこでパウロは彼らは励ますのです。今やり遂げるようにと。     パウロは、コリント教会のキリスト者たちに献金について二つのことをもう一度勧めています。それは、第1に自ら進んでなすこと、第2に彼らが持っている物で献金することです。 そこでパウロは、12節で次のようにコリント教会のキリスト者にとって益となることを語っています。すなわち、献金という行為は、「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです」と。  わたしたちが進んで献金したいという思いがあれば、わたしたちの持っているものに応じて献金すれば、神は喜んで受け入れてくださるのです。パウロのこの献金の勧めは、次のことをわたしたちに確信させてくれます。わたしたちキリスト者の中には無一物の者はおりません。だから、わたしたちは自分の持っているものに応じて献金すれば、主は喜んで受け入れてくださいます。主はわたしたちの献金を喜んでくださっています。子どもであっても同じです。親からもらっているお小遣いを、自分の持っているものに応じて献金すれば、主は喜んで受け入れてくださいます。これこそわたしたちが神の子として、御国の相続者としての前味であります。このようにわたしたちの献金は、主イエスが言われるように、天国に宝を積むことであります。 さらにパウロは、献金が自分のためだけでなく、教会の慈善と助け合いのためのものであることを教えています。それを「釣り合いのとれる」という言い方で、パウロはコリント教会のキリスト者たちに献金を勧めています。パウロは、教会間のキリスト者たちが献金で相互に助け合うことの大切を教えました。  実際にこの世の教会は、コリント教会のように富める教会があり、エルサレム教会のように貧しい教会があります。しかし、富める教会がいつまでも富み続けることはありませんし、貧しい教会がいつまでも貧しいことはありません。また富める教会も貧しい教会も、主は富ませてくださいます。     だから、キリスト教会は初代教会の時代から献金によって相互に助け合って来ました。今も同じです。わたしたちの教会は、わたしたちの献金で牧師とその家族を支える力はありません。ですから、東部中会の諸教会の祈りと献金で支えられています。パウロが言う通りに「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補いえば、いつか彼らのゆとりがあなたがたの欠乏を補うことになり」という、初代教会からの献金のこの原則で甲信地区にある3つの教会・伝道所が中会の援助金によって支えられています。     このように献金は、教会が互いに助けたり、助けられたりしながら、釣り合いがとれるようにします。すなわち、釣り合いがとれるとは、キリストの体なる教会としてどちらも同じ神の共同体にすることです。すなわち、富める教会にも貧しい教会にも共に伝道者、牧師が遣わし、共に礼拝がなされ、共に御言葉が語られ、聞かれ、礼典が行われ、共に福音の恵みにあずかれるようにするわけです。それが、「釣り合いがとれる」ということの意味だと、わたしは思います。そのためにパウロは、献金を有効に用いることに心を用いているのです。     最後にパウロは、旧約聖書のイスラエルの民がエジプトを脱出し、40年間荒野の生活を経験したことを述べています。昔、出エジプトしたイスラエルの神の民たちは、荒野で飢え、主なる神に天からマナをいただきました。家族の多い者たちは多く集めました。家族の少ない者はわずかだけ集めました。しかし、神の配慮によりそれぞれの家族の必要は満たされました。パウロは、献金もマナと同じであると言います。ある教会が多く集めても、ある教会が少なく集めても、主なる神は集めた献金によって富める教会と貧しい教会が共に不足することがなく、献金の相互の助け合いによってそれぞれの教会を満たしてくださると証ししています。     わたしたちは、今朝のパウロの御言葉から、二つのことを喜びましょう。わたしたちが進んでする献金を主は喜んで受け入れ、わたしたちに神の御国の前味を味わわせてくださっているということ、次に献金による相互の助け合いを通して、復活の主イエスは11使徒たちに「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と約束してくださった約束を実現して、主は教会の献金による相互の助け合いの中でいつもわたしたちと共にいてわたしたちとこの教会を配慮してくださっていることです。     お祈りします。     主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第8章8節から15節の御言葉を学ぶことができて感謝します。     わたしたちは、パウロの献金の勧めを通して、わたしたちが進んでする献金を主は喜んで受け入れてくださり、わたしたちに御国の前味を味わわせてくださることを感謝します。また、改革派教会のすべての教会を献金によって釣り合いがとれるように主が配慮してくださっていることを感謝します。     わたしたちの献金の模範は、十字架のキリストの愛であり、このキリストの恵みこそが献金の根拠であることを知ることができて感謝します。     どうか、今朝のパウロの言葉に励まされ、わたしたちが喜んで献金を願い、自分たちのものに応じて惜しみなくささげる思いをお与えください。この世では貧しいものですが、御国ではキリストと共に、豊かな者としてください。     主は、パウロの口を通して「受くるより与える方がよい」と言われました。いつかわたしたちが援助されるよりも、援助する教会へと成長できるようにお導きください。     この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 



コリントの信徒への手紙二説教 15     主の20015年10月4日

 あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。
          コリントの信徒への手紙二第8章16‐24節

 説教題:「愛と誇りの証し」

 異邦人への福音宣教と異邦人の諸教会からエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを援助する募金を集めることが、使徒パウロの使命であり、責任でありました。

 使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちにエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを援助するための募金を依頼していました(Ⅰコリント16:1-4)。パウロは、ガラテヤ諸教会で指示したのと同じことをコリント教会のキリスト者たちに実行するように命令しました。すなわち、パウロがコリント教会を訪問してから募金が始まるようではいけない。毎主の日ごとにコリント教会のキリスト者たちが自らの収入に応じて、幾らかお金をエルサレム教会の義捐金として準備しておくこと。パウロが訪問した時に、その援助の献金をエルサレム教会への贈り物として届けさせ、パウロも同行する。

 しかし、パウロの計画は、延期せざるを得ませんでした。なぜなら、パウロがコリント教会を去った後、偽使徒たちがコリント教会に入りこみ、パウロは真の使徒ではないと言いふらし、パウロとコリント教会のキリスト者たちの間がうまくいかなくなったからです。だから、エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを援助する募金活動も停滞していたのでしょう。

 そこでパウロは、この手紙の8章1-15節でマケドニア諸教会のキリスト者たちがエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを援助するために熱心に募金活動をしていることを紹介し、コリント教会のキリスト者たちに募金を再開するように奮起を促しました。

 その中心にいたのがパウロの弟子であるテトスです。テトスは、コリント教会のキリスト者たちを励まし、この慈善の業をコリント教会のキリスト者たちが継続し、達成できるようにと勧めていました(Ⅱコリント8:7)。

 パウロは、自分たちと同じ熱心さで、テトスがコリント教会で募金活動を熱心に勧めてくれていることを、神に感謝しています。なぜなら、テトスはパウロの弟子ですから、コリント教会に遣わされる前に、パウロからいろいろと勧告を受けていたはずです。しかし、テトスは本来異邦人への福音宣教と異邦人の諸教会にエルサレムの貧しいキリスト者たちを援助する献金を勧めることに熱心な人物だったようです。だから、テトスは、パウロに命令されたからコリント教会に行き、熱心にコリント教会のキリスト者たちに募金活動を勧めたのでありません。むしろ、テトス本人が自ら進んでコリント教会に派遣されることを望み、そしてコリント教会に着くと、コリント教会のキリスト者たちに熱心に福音を宣べ伝え、彼らを牧会し、そして熱心にエルサレム教会の貧しいキリスト者たちのための募金活動を勧めたのです。パウロは、神がその熱心な心を、自分と同じようにテトスにもお与えくださったことを心から感謝しました。

 コリント教会のキリスト者たちにエルサレム教会への募金活動を再開させる上で、テトスの働きは効果的でありました。しかし、パウロはコリント教会のキリスト者たちに献金を勧めるだけでは十分ではないと思っています。献金のために具体的なことを取りきめて、コリント教会のキリスト者たちに募金の準備をさらに進めるように促しています。

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちにテトスと共に二人の者を派遣することを伝えました。そのうちの一人は、この募金を助けるためにマケドニア諸教会から任命された者であります。初代教会では大変有名な伝道者でありました。福音宣教者としての彼の名を知らない教会はありませんでした。パウロのように異邦人への福音宣教に携わり、マケドニアか、小アジアか、あるいはガラテヤの諸教会か、はっきりはしませんが、エルサレム教会への募金を集める助け手として教会で任命されました。任命されたとは、使徒言行録6章6節に「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」と言われていることに関連している可能性があります。按手を受けたということです。彼は、主の栄光と彼を任命した諸教会の熱心を現すために、この慈善の業に加わり、諸教会の募金活動を助ける務めを与えられました。彼は、コリント教会で献金を募るために諸教会の手紙を携えて遣わされたでしょう。

 パウロとコリント教会のキリスト者たちの間に今ひとつ信頼関係がありませんでしたので、パウロはこの人物をコリント教会に派遣して、コリント教会のあるキリスト者がこの募金についてパウロを非難していたことを避けました。その非難とは、献金を募るパウロが、その多額な募金を自分のポケットに着服するというものでありました。現代では、会計監査をする者がおり、この仕組みで献金の着服という不正を取り除くことがある程度できます。パウロの時代は、その仕組みがありません。私利私欲で自分の立場を利用して、献金をだまし取る者がおりました。パウロも、コリント教会のあるキリスト者たちに疑われていたのです。

  だから、パウロは、部外者に集めた募金をエルサレムに運んでもらうことにしました。そうすれば、主の御前でも、人の前でも、パウロは募金に対して何ら不正をしていないし、全く潔白であることが証明されるからです。
 
  パウロは、3人目の人物について述べています。パウロは、テトスと諸教会から任命された人物と共にこの人物をコリント教会に派遣しました。この人物は、パウロたちの人物査定に合格した者です。彼は、「兄弟」と呼ばれています。彼は、一信徒であると思います。彼は、パウロたちの一団の財務を担当していたのではないかと思います。この人物がパウロを通してテトスが熱心にコリント教会のキリスト者たちにエルサレム教会への募金を勧めているということを知りました。そして彼は、パウロに財務を担当する者としてコリント教会のキリスト者たちの募金を助けたちと思うので、コリント教会に遣わせてほしいと熱心に願っていたのではないでしょうか。
 
  最後にパウロは、テトスと同行する二人の諸教会の使者たちがコリント教会に遣わされて、コリント教会のキリスト者たちがエルサレム教会への募金をどのように、いくら献金しているかを諸教会に報告することになると述べています。
 
  そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに彼らの愛と誇りを証ししてほしいとお願いしました。
 
  すなわち、パウロはコリント教会のキリスト者たちにエルサレム教会の貧しいキリスト者たちに対する愛を、エルサレム教会への募金を通して証ししてほしいとお願いしました。
 
  さらにパウロは、今マケドニア諸教会で福音宣教をしていました。そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちの寛大な心を誇っていました。ですから、献金を通してパウロがコリント教会のキリスト者たちを誇る誇りが正しいことを証ししてほしいとお願いしたのです。
 
  パウロがコリント教会のキリスト者たちに、そして今朝のわたしたちに願っていることは、わたしたちが献金を必要とする者への愛と物惜しみしないで、自ら進んで献金をしてほしいということであります。
 
  さらに言えば、キリスト者は愛と奉仕で成り立つということです。十字架のキリストは、わたしたちを愛され、わたしたちに仕えられて、ゴルゴタの道を歩まれました。そして、キリストは復活され、今聖霊と御言葉を通して、この教会の礼拝においてわたしたちを愛し、わたしたちに仕えてくださっています。御言葉と聖礼典を通して、キリストはわたしたちを愛し、わたしたちを救い、御国へと導いてくださっています。
 
  富めるキリストが貧しくなり、わたしたちを富まされているように、キリストの愛によって富む者とされたわたしたちも、隣人を愛し、隣人の必要に身ををささげることで、教会はこの世にキリストの愛を証しするのです。
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第8章16節から24節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
 
  2011年の3.11、東日本大震災以後、改革派教会は変わりつつあると思います。東北中会の東仙台教会や仙台栄光教会、のぞみセンターの働きは、福音宣教というより執事的宣教と呼ばれています。
 
  最初は、被災された方々への物資を援助することから、次第に被災者たちの必要とするものを援助するようになり、今では仮設住宅に住まれる方々を訪れて、いろいろとお話を聞き、寄り添う奉仕をされています。
 
  ニュースを読ませていただくごとに、今朝の「キリスト者は愛と奉仕で成り立つ」ということを実感させられます。福音を語ることができなくても、愛と奉仕を必要とする方がおられるならば、わたしたちがただその方に寄り添い、その方の話を聞き、その方に必要とするものを、わたしが惜しむことなくお分かちできる者とならせてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 



 コリントの信徒への手紙二説教 16     主の20015年10月11日

 聖なる者たちの奉仕について、これ以上書く必要はありません。わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意ができていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。
 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがい
つもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれることがおできになります。
「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。
彼の慈しみは永遠に続く」
と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。
          コリントの信徒への手紙二第9章1‐15節

 説教題:「献金の恵み」
 今朝は、コリントの信徒への手紙二の第9章1-15節のパウロの御言葉から「献金の恵み」について教えられたいと思います。

 使徒パウロは、繰り返しコリント教会のキリスト者たちにエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助ける募金を訴えて来ました。あまりにしばしば訴えたので、9章1節でパウロは、「聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要がありません」と述べるほどでありました。

 パウロのエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助ける募金の訴えは、少し度を越しているのではないでしょうか。「献金、献金」と言うのは、かえってコリント教会のキリスト者たちの反発を買わないだろうかと、わたしはこのところを読んでいて心配になります。

 そのためか、ここでパウロが「コリント教会」ではなく、「アカイア州」の諸教会に訴えているのが気になります。9章Ⅰ-5節は、パウロがマケドニア州の諸教会のキリスト者たちにアカイア州の諸教会のキリスト者たちのエルサレム教会の貧しいキリスト者たちへの募金集めの熱心さを自慢したという話です。

 さて、わたしたちは先に8章でマケドニア州の諸教会の貧しいキリスト者たちが、エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助けるために熱心に献金を集めていたことを学びました。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに彼らの献金の恵みを伝えて、コリント教会のキリスト者たちに再びエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助ける献金に励むように励ましました。

  ところが、9章1-5節ではパウロは、マケドニア州の諸教会のキリスト者たちがエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助けるために喜んで献金をささげる一因が、アカイア州のキリスト者たちがエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助けるために熱心に献金していたことにあったことを伝えています。
 
  エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助けるために献金を集めたのは、コリント教会のキリスト者たちが最初でした。8章10節でパウロは、「あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりではなく、実行したいと願っていました」と記しています。だから、パウロは、主にコリント教会のキリスト者たちのことを回りくどい言い方で「アカイア州の人々」と呼び、彼らは去年からエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助けるための献金の準備ができていると、マケドニア州の諸教会のキリスト者たちに自慢していたのです。それを聞いて、マケドニア州の諸教会のキリスト者たちは、自らの貧しさにもかかわらず、熱心に献金を集めたのです。
 
  このようにコリント教会のキリスト者たちとマケドニア州の諸教会のキリスト者たちは、互いに献金するという恵みに励まされ、エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助けるために献金を熱心に集めました。だから、パウロは、「献金、献金」と言って、エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助ける献金を、これ以上手紙に書いて訴える必要がなくなったと述べているのです。
 
  しかし、パウロは、先の8章で弟子のテトスとマケドニア州の諸教会がエルサレム教会の貧しい者たちを助けるための献金を集めるために任命した者、そしてこの献金に熱心に携わっている兄弟を、コリント教会に遣わすことを告げていました。
 
  9章3-5節で、パウロはその派遣の理由を述べています。第1にパウロの自慢が無駄にならないためです。マケドニア州の諸教会から任命され、派遣された者が、コリント教会に来ても献金の用意ができていなければ、自慢したパウロたちの面目は丸つぶれです。第2にパウロは、献金を集めることが中断されていなか、心配でした。そこで弟子のテトスたちを一足先に遣わし、去年に約束していたエルサレム教会への献金を用意させました。
 
  その時にパウロは、テトスたちに注文を付けています。エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助ける献金は、去年約束した「贈り物」でありました。献金は、プレゼントでした。父なる神がわたしたちに御子イエス・キリストを賜ったのも、神のわたしたちへのプレゼントでした。
 
  そのプレゼントを神は、「渋りながらでもなく、惜しまずに差し出されました」。それが、わたしたちの罪の身代わりに十字架に死なれたキリストです。キリストは、父なる神のわたしたちに対する愛の御業でありました。
 
  神は、キリストを通してわたしたちを愛された時に、キリストを渋りながら、惜しんで十字架へと渡されたのではありません。
 
  パウロは、6-10節でわたしたちの献金を、農夫の種蒔きにたとえています。農夫が種籾を惜しんで、畑に少なく蒔けば、収穫の時の刈り入れはわずかでしょう。反対に惜しまずに種籾を畑一杯に蒔く農夫は、収穫の時の刈り入れも豊かでありましょう。
 
  パウロは、農夫の種蒔きをたとえに用いながら、旧約聖書の箴言の教えを用いています。たとえば箴言の11章24-25節の御言葉です。「散らしてなお、加えられる人もあり 締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り 他を潤す人は自分も潤う。」箴言の作者は、おおらかな心の持ち主、恵み深い人への神の祝福を教えています。本当に幸せになれる道は、節約にあるのではありません。むしろ、人の目には一番無駄であると見える貧しい者への施しこそ神の民にとって主なる神から豊かな祝福を得、主によって人生を豊かにされる道であると教えています。
 
  農夫が種籾を惜しまずに畑に蒔けば、神はその農夫に豊かな収穫をお与えになりますように、わたしたちが惜しまないで貧しい兄弟姉妹を助けるために施し、すなわち、献金をすれば、この世の富の真の所有者である神が豊かに祝福をし、わたしたちは神によって人生を豊かにしていただけるのです。
 
  だから、パウロは9節で詩編112編9節の御言葉を引用しています。「貧しい人々にはふるまい与え その善い業は永遠に堪える」。別の訳では、こうです。「その人は惜しみなく貧しい者に施し その義はとこしえに続き その角は高められて栄えを得る。」
 
  今、聖書を学ぶ集いで、コヘレトの言葉を学んでいます。コヘレトはいろんな人生の空しさを語り、人の愚かさの一つは金や財産を蓄えても、自分のために使うことができないことであり、彼の蓄えた財産は他人のものとなり、それを見ていると人生の空しさを覚えると述べています。
 
  では、自分が蓄えたお金や財産を、自分のために、快楽のために、飲み食いやゲーム遊びのために使えば、人は幸いなのか。コヘレトは、その幸いは永遠に続かず、人には必ず死が訪れ、動物が死ぬように、人も死ぬのであるから、結局は空しいと述べています。
 
  では、空しくない人生とは何であるのか。パウロは「献金」であると言うのです。なぜなら、献金という御業こそ、わたしたちが神に祝福され、神によって人生を豊かにされていることの証しであると、パウロは11-15節で述べているのです。
 
  豊かな農夫が豊かであるのは、彼が人一倍努力しているからではありません。神が彼を祝福して彼に種籾を与えておられるからです。パンを糧として与えてくださる創造主なる神は農夫を慈しまれて、彼が種籾を蒔いて、それを増やし、豊かな収穫の実を得るようにしてくださっています。
 
  同じようにわたしたちは、神の慈しみによってキリストによって罪と死から救われただけではありません。キリストを通して神の御国の世継ぎとされ、富む者とされ、惜しまずに貧しい者に施す者とされています。
 
  つまり、献金の恵みは、わたしたちが貧しい者に施すことができるように、キリストにあって豊かな者とされているということです。パウロは、使徒言行録の中でエフェソ教会の長老たちにお別れの説教をしましたときに、「受くるより与える方が幸いである」と主イエスが言われた言葉を伝えました。
 
  献金の恵みは、わたしたちがささげるほどに神はキリストを通してわたしたちを豊かにしてくださっているという真実にあります。献金は、施しでありますが、自分が施すことに意味があるのではありません。神がわたしが人に施せるほどに、わたしを祝福し、神によってわたしの人生が豊かにされているということを、献金によってわたしたちが証しでき、心から神に感謝できるところに、わたしたちの献金の恵みがあります。
 
  だからこそ教会の中で献金という行為が絶えることはありません。東日本大震災への献金も多くの方々の不足を補い、ほとんどおわりました。しかし、神がわたしたちを祝福し、わたしたちが貧しい人々に献金するためにわたしたちを豊かにしてくださっている限り、ますますわたしたちは献金するたびに神に感謝し、一層貧しい人々に、自然災害に被災された方々に、アフリカの飢えた人々に、エイズに苦しむ人々に献金をささげるでしょう。
 
  パウロは、献金の恵みを、さらに13節で福音宣教に結びつけています。「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分け与えてくれるので、神をほめたたえています。」
 
  献金の恵みは、富んでいるキリストがわたしたちを富ますために貧しくなられたという福音を、世の人々に証ししているのです。献金できることは、わたしたちが十字架のキリストによって富む者とされたからです。
 
  献金の恵みは、施す者だけでなく、受ける者にも大きな神の祝福を得させることを、最後にパウロは述べています。14節で、パウロは献金を受けた者たちが、献金を通して父なる神がわたしたちに惜しみなく与えてくださった最高の贈り物を見て喜んだと述べています。
 
  エルサレム教会の貧しいキリスト者たちは、マケドニア州の諸教会のキリスト者たち、アカイア州の諸教会のキリスト者たちの献金、すなわち、贈り物を通して神がどんなに異邦人教会のキリスト者たちを愛し、祝福してくださっているか、その神の恵みを見て、心から神に感謝し、神をほめたたえました。
 
  献金の恵みは、施す者にも受ける者にも、共に神の祝福を見せてくれます。そして、パウロは、この献金の恵みを通して言葉に言い表せない贈り物について、神に感謝するのです。世の救いのために独り子であるキリストをお与えくださるという父なる神の最高の賜物であります。
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第9章1-15節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
 
  今朝は献金の恵みを覚えて、パウロの手紙を学びました。豊かな農夫のように、キリストを通してわたしたちに献金できる豊かさをお与えくださる神の恵みを心から感謝します。
 
  父なる神の独り子キリストが、わたしたちを救い、富む者とするために貧しくなり、十字架に死んでくださり、感謝します。
 
  また、わたしたちは、東部中会の諸教会の祈りと献金で支えられている恵みを感謝します。献金する者も献金を受ける者も、共に献金の恵みを通して父なる神が惜しみなく御子キリストをプレゼントしてくださったこの上ない恵みを覚えることが許されて心より感謝します。
 
  願わくは、今年もクリスマスが近づいています。この世の人々にキリストの恵みを伝えることができるようにしてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。




 コリントの信徒への手紙二説教 17     主の20015年10月18日

 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
 あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。そのような者は心得ておくがよい。離れていても手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。

          コリントの信徒への手紙二第10章1‐11節

 説教題:「変わりはない」
 今朝は、コリントの信徒への手紙二の第10章1-11節のパウロの御言葉から「変わりはない」という題でお話ししたいと思います。

 わたしたちには、兄弟姉妹たちを見かけで判断してしまうという弱さがあります。教会の中で人を見かけで判断し、数限りない過ちがなされ続けて来ました。

 パウロは、コリント教会のあるキリスト者たちが同じ過ちをしていることを、この手紙で指摘しています。彼らは、使徒パウロの外見だけを見て、誤った判断を下し、パウロを非難しました。それを、パウロは、この手紙で弁明しようと思いました。

  コリント教会のあるキリスト者たちがパウロを見て、「あいつの態度は首尾一貫していないではないか」と非難しました。

 それが10章1節と10節のパウロ批判の言葉であります。彼らの批判を受けて、パウロは1節で次のように述べています。「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出ると思われている、このわたしパウロ」。

 この批判を、パウロは10節でも繰り返して次のように述べています。「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいるからです」。

  このようにパウロは、コリント教会のあるキリスト者たちに彼の言動が首尾一貫していないと非難されていました。
 
  そこでパウロは、今朝の御言葉で自分はどこにいても「変わりはない」ことを弁明しているのであります。

 さて、パウロは、自分の弁明を、「キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたにお願いする」という形でしております。それによって、この手紙の読者は、パウロを通してキリストがコリント教会のキリスト者たちに弁明をなさっていることに気づかされると思います。

 キリストは天におられ、わたしたちは地におります。だが、キリストは、使徒パウロを通して、コリント教会のキリスト者たちに仕えておられるのです。それゆえにパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「キリストの優しさと心の広さをもって、お願い」しているのです。

 「キリストの優しさ」とはキリストの柔和であり、「心の広さ」とはキリストの謙遜であります。よく礼拝の招きの言葉に用いられますマタイによる福音書の11章29節の主イエスのお言葉を、パウロは心に留めてお願いをしています。キリストは言われました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」

 パウロは、キリストの代理人として、コリント教会のキリスト者たちに柔和と謙遜をもって仕え、彼らにキリストにある安らぎを得させようとしていることを、彼のこの願いに込めているのでしょう。

 さらに2節でパウロは、この手紙で対決しているコリント教会のあるキリスト者たちがパウロたちをどのように見なしているかを次のように述べて、対決姿勢を明確にしています。「わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。」

 パウロの敵対者たちは、パウロたちを「肉に従って歩んでいると見なしている者たち」です。

  「肉に従って歩む」とは、「キリスト者の霊に従う歩み」と対立することです。「肉に従って」とは、罪と古い世に支配された生活を表現しています。ですから、「パウロたちが肉に従って歩んでいる」と非難する者たちは、パウロたちを真の救いにあずかっていないと非難していたことになります。彼らの非難は、教会における聖徒の交わりを破壊することです。だから、パウロは彼らと勇敢に戦うことを宣言し、パウロたちがコリント教会を訪れたときには彼らを処罰することをしなくてすむようにしてほしいと願っています。
 
  3節でパウロが「わたしたちは肉において歩んでいます」とは、パウロは自分が死すべき肉体をもって生きていることを認めているのです。しかし、パウロはこの世の生活を生きる規準とはしてはいません。4節でパウロがこの世で戦う武器を「神に由来する力」と述べています。それは、彼が宣べ伝えている福音の力であります。
 
  パウロは福音のことを、「福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべての人の上に救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1:16)と述べており、この福音こそ、コリント教会の敵対する者たちの要塞をも破壊する力があると述べております。その要塞とは、彼らの高慢であります。
 
  パウロたちは、福音宣教を通してコリント教会のキリスト者たちの城塞、すなわち、高慢を破壊し、彼らの理屈を打ち破り、神の知識、すなわち、彼らが聖書に反対するあらゆる高慢を打ち砕き、キリストに従わせました。そして、偶像礼拝と不道徳な町、コリントにキリストの教会を建て上げて来ました。
 
  そして、さらに教会を建て上げるために、コリント教会のキリスト者たちを訓練することが必要であり、そのために神に違反する者たちを裁く教会裁判があります。教会裁判の目的は、この世の裁判所のように罪ある者を罰することではありません。罪を犯したキリスト者たちに心から罪を悔い改めることを求めるものです。この世の裁判にはキリストへの信仰は不要ですが、教会裁判にはキリストへの服従、すなわち、信仰は必要です。神への不従順を裁かれたキリスト者が罪を悔い改めて、再び信仰によって神に立ち帰ることを目的としているからです。ですから、パウロは、6節で「あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています」と述べているのです。わたしたちが真に神を畏れる信仰を持って初めて、神に不従順な者を裁く教会裁判が教会を備えることができます。
 
  パウロにとって、福音によって、すなわち、聖書を解き明かすことで、わたしたちを信仰から信仰に至らせ、その信仰においてわたしたちをキリストに完全に服従させることが、使徒としての彼の本分でありました。
 
  さらにパウロは、7節でコリント教会のキリスト者たちがうわべだけを見て、パウロたちを非難し、他の兄弟姉妹たちを非難していることを戒めています。
 
  コリント教会のあるキリスト者たちは、自分たちだけが本物のキリストの者であると強く確信し、他の兄弟姉妹と色分けしました。それによって教会における交わりが壊される危険がありました。
 
  異言が語れるので、自分は他の兄弟姉妹と異なり、本当にキリストのものであると特権意識を持つ者もいたでしょう。あるいは自分だけに神の特別な啓示が与えられたことを誇る者もいたでしょう。また自分はユダヤ人キリスト者であることを誇る者もいたでしょう。
 
  彼らの誇りが、コリント教会を、キリストの体として建て上げることを妨げていたでしょう。
 
  そこでパウロは、コリント教会のあるキリスト者たちに彼らだけが本物のキリスト者であるのではなく、パウロたちもまた本物のキリスト者であることを考えてみてくださいと勧めています。
 
  この勧めの中心に十字架のキリストがおられます。キリストは、教会の一部のもののために十字架に死なれ、彼らを罪から贖われたのではありません。パウロたちをはじめ、コリント教会の一つ一つの肢である兄弟姉妹たちが同じようにキリストのものであります。
 
  だから、パウロは、彼らに8節で次のように述べています。パウロの使徒としての権威は、キリストの共同体である教会に仕えるためのものであります。パウロは、コリント教会のあるキリスト者たちを彼の敵対者として倒し、教会から排除するために働いているのではありません。コリント教会を主イエス・キリストの体なる教会として建て上げるために仕えているのです。主イエスがパウロたちにコリント教会のキリスト者たちに仕えるために使徒としての権威を授けてくださったことを、パウロは喜び、心から自慢しているのです。
 
  9節でパウロは、この手紙でコリント教会のキリスト者たちを脅していると思われたくないと述べています。パウロは、ただ福音によってキリストの教会を建て上げたいだけなのです。福音によってコリント教会のあるキリスト者たちの不信仰を打ち破り、彼らに自分たちの傲慢さの罪を悔い改めてもらいたいだけなのであります。
 
  そして、パウロは11節でパウロを見かけで判断して、パウロには首尾一貫性がないと非難する者たちに、こちらにいて手紙を書くわたしも、コリント教会を訪れて振舞うわたしも、変わりはないと述べています。
 
  キリストが昨日も今日も、いつまでも変わられないように、キリストの福音を宣べ伝えるパウロも、変わりはないと言っています。キリストがわたしたちを罪から救うために、この世に来られて、わたしたちの救いのために仕えられたように、パウロも福音によってキリストの体なる教会を建て上げ、コリント教会のキリスト者たちを信仰から信仰に、そしてキリストに完全に服従させることに仕えたのです。
 
  あれから2000年を経ました。わたしたちは、今朝のパウロの御言葉から何を学びますか。パウロと同じように、わたしたちも福音によってこの諏訪の地にこのキリスト教会を建て上げ、牧師と長老を立て、牧師はパウロのように福音によってわたしたちを信仰から信仰へ、そしてキリストにわたしたちを服従させる務めに仕え、長老は牧師の説教の実を見守る務めに仕えて、それによって、わたしたちがこの教会において罪に汚れた肉の思いを聖霊によって霊的に変えられることを学ぶことができます。
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第10章1-11節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
 
  この世の教会がコリント教会のように、不信仰なキリスト者を生みだすことは避けられません。どうか柔和であり、謙遜であられる主イエスよ、常にこの教会に御臨在ください。
 
  わたしたちの頑なな心の要塞を壊せるのは、福音以外にありません。あなたが立ててくださった牧師が、聖書の御言葉のみを語り、御言葉を聞きますわたしたちが信仰から信仰に、キリストに服することができるようにしてください。
 
  願わくは、わたしたちに主を畏れる信仰をお与えくださり、もしわたしたちが不信仰の罪をなし、教会裁判で裁かれる時に、どうかわたしたちが信仰によって自分の罪を悔いて、主イエスに再び立ち戻れるようにしてください。
 
  どうか、わたしたちに聖書という武器をお与えくださり、どんな迷信にも、どんな無神論にも屈服することなく、キリストに逆らうすべてのこの世の思想に勝利させてください。
 
  罪に汚れたわたしたちの肉の思いを、霊的に清めることができるのは、神の御言葉のみであります。どうか、御言葉によってわたしたちをキリストに従順とならせ、滅ぶべきこの世に心を向けるのではなく、来るべき神の御国へとわたしたちの心を向けさせてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。