9月8日 礼拝

9月8日 説教

コヘレトの言葉の説教07          主の202498

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第610節-第714

 説教題:「命ある者よ、心せよ」

 

 本日は、『コヘレトの言葉』の第610節から第714節の御言葉を学びましょう。コヘレトは、12節で「すべては空しい」と述べた後、人間の生活もこの世の自然も同じことの繰り返しで、この世には新しいことなど一切ないと説いてきました。しかし、彼は虚無主義者でも、悲観論者でもありません。むしろ、彼は、空しく無意味に見えるこの世界で創造主なる神の恵みと賜物を楽しむことを、わたしたちがこの世において自分たちの人生を大切にすることを、何よりも主なる神に対して誠実に生きることを説いているからです。

 

前回は、コヘレトが人の欲望に満足することがないというこの世の事実を見ました。コヘレトは、わたしたちに飽くなき欲望を追い求めるのみで、神の与えられた恵みに満足できない人の不幸を説きました。

 

コヘレトは、わたしたちに610節から714節で人の限界を知ることを説いています。人は全知でも万能でもありません。知りえないこと、できないことがあります。コヘレトは、この世で限界というものを知らない人の不幸を説いています。

 

コヘレトは、61012節でこう述べています。「これまでに存在したものは すべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている。自分より強いものを訴えることはできない。言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう。短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはない。」

 

創造主は、アダムにご自身の造られた被造物に名前を付けることを命じられました(創世記210)。だから、この世に存在するものは、すべて命名されています。そして名前があるすべてのものには、上位と下位の秩序があります。例えば、王と民という名は、イスラエルの社会ではよく知られていたでしょう。イスラエルの社会では王は上位の者であり、民は下位の者と定められていました。だから、下位にある民が上位にある王を裁判に訴えても勝つことはできません。旧約聖書には王の不正が描かれています。北イスラエル王国のアハブ王は、王宮の隣のナボトのぶどう園を欲しました。ナボトは神から与えられたぶどう園を王に譲ることを拒みました。そこで王の妻イゼベルが不正な裁判を行わせ、ナボトに神を冒涜した罪を帰せ、殺させ、ナボトのぶどう園を奪い、アハブ王に与えたのです。

 

人は自分の限界を知らなくてはなりません。自分には限界があり、それを無視して自分で変えようとし、多弁を弄しても空しさが増すばかりだと、コヘレトは言うのです。コヘレトがわたしたちに伝えたいことは、次のことです。人は無駄な努力をしても何の益もないということです。しかし、わたしたちは、これまでのコヘレトの勧めから想像できるでしょう。創造主なる神は人に限界を定められていますが、造られたこの世界でわたしたちが楽しむことができるように、わたしたちに賜物を与えてくださっています。だから、コヘレトは神の定められたところにわたしたちが従うことこそが最善の道であると説いています。コヘレトは言います。人の一生は短く空しいと。そして影のようにこの世から過ぎ去る人は、何が自分の人生にとって幸福であるかを知ることができないと。そして人は死後に何が起こるかも知り得ないと。だから、コヘレトはわたしたちに説くのです。わたしたちは、この世における幸福もあの世でのことも知り得ないから、言葉数を多くしてこの世の謎と不条理を議論する愚かな者にならないで、この世におけることを神の定めとして受け入れようと。

 

続いてコヘレトは、わたしたちに7114節でより良い生活を勧めています。コヘレトは、よりよい生活を示すために箴言の知恵者の方法を用いています。すなわち、この世の諺を用いて、それに自分の考えを入れています。

 

114節でコヘレトは、7つの諺を用いています(12358a8b11)。一つ一つの諺は、「まさる」という言葉で始まります。たとえば、1節でコヘレトは、「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。」と説いています。コヘレトは、短い諺を組み合わせて、名声は香油にまさると、彼の人生哲学を述べているのです。香油はユダヤ人にとって高価な品物ですが、名声には及びません(1)。どうしてか、人生の荒波を超えて名声を得た人の死は、安らぎの日であり、永遠の平和の港に着いた日です。彼の名声は永遠に記憶されるのです。それゆえ、生まれたばかりで、これから道の人生を始める誕生日に勝るからです。

 

コヘレトは、2節で「弔いの家に行くのは 酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終わりがある。命ある者よ、心せよ。」と説いています。これも人の死と誕生を対比して、コヘレトが彼の人生哲学を示しています。コヘレトにとって死は生の喜びにまさります。祝宴の楽しみは一時のことです。弔いにはすべての人の終わりがあります。コヘレトは、人の死がすべての人が行き着くべき先であり、命ある者はすべて、心して死を思うべきであると説いています。中世の修道院では、修道士たちが互いに「死を忘れるな」と戒め合いました。コヘレトは、わたしたちに人は皆死ぬことを、そういう限界を持ったものであることを、命ある者は心せよと説いているのです。

 

 コヘレトは、3節で「悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。」と説いています。この「悩み」は悲しみです。「心」は知識や知恵のことです。コヘレトは言います。悲しみは、人の心を豊かにし、その人の知識と知恵を深めると。主イエスも山上の説教で「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」と言われました。主イエスの「悲しむ人」とは嘆き悲しむ人です。死者に対する悲しみです。ユダヤ人の弔いは一週間でした。その間友達たちが弔問し、悲しんでいる遺族の者たちを慰めました。だから、わたしは、悩み悲しみは、人の慰めによって悩みと悲しみに対する知識と知恵を得て、その人に平安をもたらすと理解しました。

 

コヘレトは、46節で次のように賢者と愚者をたとえています。「賢者の心は弔いの家に 愚者の心は快楽の家に。賢者の叱責を聞くのは 愚者の賛美を聞くのにまさる。愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音。これまた空しい。」

 

賢者の心は弔いの家に向かいます。彼は、悲しむ遺族を慰めに行くのです。愚者の心は快楽の家に向かいます。彼は遊女と楽しむのです。賢者は悲しむ者たちに慰めをもたらし、愚者は自らに死という悲しみを招くのです。また、コヘレトは言います。賢者が心から諫言してくれる言葉を聞くのは、愚者の「賛美」、すなわち、へつらいの言葉を聞くにまさると。昔から「良薬は口に苦し」と言います。コヘレトは言います。人は自分で自分を正しく判断できません。他人の耳に痛い言葉によって、自分のことを正しく考えるのだと。そして賢者の耳の痛い言葉を聞いて、自分の欠点を顧みるのだと。ところが、愚者は自分の益を考えて、心地よい言葉を語り、人を称賛し、人を駄目にしてしまうのだと。褒めて育てるという言葉がありますね。コヘレトは言います。それは愚者のやり方であると。なぜなら、人には限界があり、「あなたには罪がある」と諫言されない限り、自分が創造主なる神に、その神の定めにどんなに外れて生きているのかを判断できないと。キリストの十字架に出会って初めて、わたしたちは自分の罪と真剣に向き合うことができたのです。

 

コヘレトは、6節で「愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音」と説いています。「柴」は茨のことです。茨は大きな炎と共に大きな音を立てます。しかし、鍋の中は暖かみが少ないのです。コヘレトは、わたしたちに言います。愚者の笑いは大げさで、真実味がないと。だから、鍋に煮立った湯は、愚者に浴びせられると。コヘレトは、これまた空しいと言うのです。

 

 コヘレトは、7節で賢者の限界を説きます。「賢者さえも、虐げられれば狂い 賄賂をもらえば理性を失う。」。賢者は迫害を受けたとき、賄賂を贈られたとき、彼の理性は狂い、失われるのです。主イエスの12弟子たちを御覧なさい。12弟子の一人、ユダは銀貨30枚で主イエスを祭司長たちに売り渡しました。他の11弟子たちはペトロを初め、主イエスを裏切り逃げて行きました。わたしだって迫害に遭えば、キリスト教信仰を失うかもしれません。これが、この世での信仰者の限界です。聖霊だけが11弟子たちを守られ、わたしたちをお守りくださるのです。

 

コヘレトは、810節で次のように説いています。「事の終わりは始めにまさる。気位が高いよりも気が長いのがよい。気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの。昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない。」

 

8節前半の諺は、一事を完成する事は、事を始めるのにまさるという意味です。建築工事に例えると、工事が完成してみないと、その建築の良し悪しを判断できないということです。コヘレトは、わたしたちにこの世の物事を判断するに、物事の結果を見るまでは軽はずみに物事の判断をすべきではないと説いているのです。

 

8節後半から10節で、コヘレトはわたしたちに人間の知恵と修練に限界のあることを教えています。賢者も不正や不条理に対して腹を立てます。怒りは愚者の心に宿るものです。老人は過去を礼賛しますが、コヘレトは過去も未来も現在よりまさるものではないと説いています。なぜなら、歴史は同じことの繰り返しであるからです。彼は、「昔は良かった」と言う老人に、過去に執着するなと警告します。

 

 コヘレトは、1112節で知恵と遺産の効用を説いて、次のように述べています。「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが 知っておくがよい 知恵はその持ち主に命を与える、と。」。

 

ソロモンは知恵と遺産を併せ持つ者でした。「日の光を見る者」は、すべてこの世に生きている者のことです。65節に流産の子は「太陽の光を見ることも知ることもない」とあります。この世に生きる者はすべて日の光を見る者です。コヘレトは、この世に生きる者にとって役立つのは知恵と遺産であると説いています。12節も同じです。知恵の庇護の下にあるのは、金銭の保護の下にあることであると、コヘレトは言うのです。コヘレトはわたしたちに知恵と富が伴って、人は生かされていると説いているのです。

 

コヘレトは、1314節で、こう説いています。「神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ 人が未来について無知であるようにと 神はこの両者を併せ造られた、と。」

 

コヘレトは、わたしたちに神の御業に目を向けるように指示しています。人は、誰も自分の将来がどのようになるかを知り得ません。また、神がこの世についてどのようなご計画を持たれているかも知り得ません。それゆえコヘレトはわたしたちに次のように説きます。人は順境の時には喜び、逆境の時には反省し、順境の時も逆境の時も神の御業であることを心に留めよ。それは、人には明日何が起こるかを知らせないためであると。

 

コヘレトがわたしたちに説きますよりよい生活とは、人が自分の限界を知り、創造主なる神がなさる御業をすべて、そのまま受け入れることです。順境の時には素直に喜び、その一日を神に感謝して生きるのです。逆境の時には、神に失望することなく、すべては神の御手の中にあることを覚えて、明日を神にゆだねるのです。

 

お祈りします。

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、どうか、わたしたちに自分たちの限界を理解させてください。自分の命のことで思い煩っても、わたしたちは明日どうなるのか、死後どうなるのかも知りません。どうか創造主なる神の御業を、日々の恵みを喜び、感謝し、今日の一日を歩ませてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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