10月17日 礼拝ライブ配信

10月10日 礼拝録画

主日礼拝説教 (2021年10月10日)

マルコによる福音書説教77              20211010

さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け。」と、前もって合図を決めていた。

ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来た。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

                            マルコによる福音書第144352

 

説教題:「主イエスの逮捕」

前回マルコによる福音書は、受難週の5日目、主イエスが11弟子たちを連れて、オリーブ山のふもとにあるゲツセマネの園に入られ、祈られたことを記していました。

 

主イエスは、まるで地獄の苦しみを体験するかのように祈られました。父なる神に怒りの杯を、すなわち、十字架の死を取りのけてくださいと祈られました。そして主イエスは続いて御自分の意志ではなく父なる神の御意志をなさせてくださいと祈られました。

 

主イエスは身近に置かれた三人の弟子たちを三度訪れられました。彼らは睡魔に襲われ、眠りこけていました。主イエスは三度目にペトロに言われました。「試みがあなたの中に入らないように、目を覚まして祈っていなさい。あなたの中の霊は張り切っていても、あなたの持つ肉体は弱いから」。そして、主イエスは、最後に三人の弟子たちの弱さを受け入れて、「今は寝なさい。休んでよい。十分だ。」と言われ、「その時が来た。わたしは罪人に引き渡される。見よ、裏切り者が来た。」と言われました。

 

43節の冒頭は、「そしてすぐに」という言葉で始まっています。ゲツセマネの園における主イエスの逮捕は、初代教会において受難週における主イエスの御受難の一つの出来事として伝わっていました。それを資料にして、マルコによる福音書は主イエスの逮捕を記しているのです。

 

マルコによる福音書は、主イエスの逮捕の出来事に、12弟子の一人ユダの裏切りと他の弟子たちの逃亡を記しています。そして、おそらく裸で逃げた若者とは、マルコによる福音書の著者マルコ自身のことでしょう。

 

主イエスが三人の弟子たちと話しておられる時に、12弟子たちの一人ユダがサンヘドリンの手下たちを、ゲツセマネの園で祈られていた主イエスのところに導き入れました。

 

裏切り者ユダは、あらかじめサンヘドリンの手下たちに主イエスを逮捕する合図を与えて、こう伝えていました。「わたしが接吻する者がイエスだ。あなたがたは捕らえて、確実にサンヘドリンに連れて行け。」(44)と。

 

45節の冒頭でも「そしてすぐに」という言葉があります。ゲツセマネの園に来るとユダはすぐに主イエスに近づきました。そして、彼は主イエスを「ラビ(先生)」と呼びかけ、接吻しました。

 

サンヘドリンの手下たちは、ユダの合図を見ると、すぐに主イエスに手をかけて逮捕しました(46)

 

その時、主イエスの身近にいました者たちの一人が剣を抜いて、大祭司の僕に切りかかりました。そして僕の右耳を切り落としました(47)。ヨハネによる福音書だけが、シモン・ペトロの仕業であると記しています(ヨハネ18:10)。マルコによる福音書はだれが手下の右耳を剣で切ったのかを知らなかったのでしょう。当然マルコによる福音書を資料に用いたマタイもルカによる福音書も知りません。

 

さて、4849節は主イエスの御言葉です。マルコによる福音書は、「そこで主イエスは、彼らに答えて言った」と記しています。「答えて」という動詞は、マルコによる福音書がよく使っています。「吟味する」「査定する」「選別する」という意味の言葉です。或評価に即してよく考えて判断することです。

 

主イエスは、サンヘドリンの手下たちが剣や棒を持って主イエスを逮捕に来たことに即して、彼らを判断し、次のように言われたのです。彼らは、主イエスの御言葉に対して責任ある決断を求められているのです。

 

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」(4849)

 

手下たちが持つ剣と棒は、強盗を捕えるための武器でした。だから、それを御覧になった主イエスは、彼らに「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。」と質問されたのです。彼らは、主イエスを逮捕するのに、強盗に対するように剣と棒という武器を持ってやって来たのです。

 

主イエスは、エルサレム神殿の異邦人の庭でいつも教えておられました。神殿を警護する大祭司の手下たちは、その場にいたのです。しかし、彼らは主イエスを逮捕しませんでした。

 

今大祭司の手下たちが剣や棒を持って主イエスを逮捕しに来たのは、「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」と、主イエスは言われました。主イエスが宣言されたのです。

 

マルコによる福音書は、「しかし、聖書が成就されるために」と記しています。聖書は「書物」です。そしてこの聖書という書物は旧約聖書のことです。旧約聖書にはキリストの御受難が預言されていて、今それが主イエスの逮捕によって実現したのだと、マルコによる福音書は記しているのです。

 

マルコによる福音書は、5051節で11弟子たちとマルコによる福音書の著者マルコの逃亡を記しています。主イエスは1427節で旧約聖書のゼカリヤ書137節を引用して御自身の弟子たちが逃亡することを預言されました。マルコによる福音書は、その実現を記しているのです。

 

その実現とは、父なる神の御意志が実現したということです。聖書に書かれているのは神の御意志であり、御計画です。主イエスは、御自分の意志ではなく、神の意志に従い逮捕され、サンヘドリンに連行されました。

 

43節で主イエスを逮捕するのが「群衆」という言葉で表現されています。マルコによる福音書の「群衆」は主イエスに従い、喜んで主イエスの語る福音の御言葉を聞く者たちでした。主イエスの好意的な人々でした(3:7,94:16:34)

 

ところが1415章の「群衆」は、主イエスを逮捕し、裁判で死刑を要求する人々です。主イエスに敵対する人々です。エルサレムの支配者に雇われた人々を、マルコによる福音書は「群衆」と呼んでいます。

 

主イエスは、12弟子たち、マルコによる福音書の著者であるマルコに見捨てられただけではありません。好意を抱いて主イエスに従っていた群衆たちにも見捨てられたのです。それが、マルコによる福音書が描きます御受難の主イエス・キリストなのです。

 

12弟子の一人は裏切り、後の11弟子たちは皆逃げてしまいました。そして、一人の若者が素肌に亜麻布を着て、逮捕された主イエスについて行きました。ところが手下たちが彼を見つけて、捕まえようとすると、彼は亜麻布を捨てて、裸で逃げてしまったのです。

 

亜麻布」は、その布地で作った上等な上着のことです。若者は、理由は分かりませんが、下着を着ないで、素肌の上から上着を羽織っていたのです。ところが捕まえられそうになり、その上着を捨てて、逃げました。おそらく追いかける者たちが上着に目を奪われている隙に、逃げようとしたのでしょう。

 

このようにしてマルコによる福音書は、父なる神の御意志に服従し、強盗のように逮捕され、苦しみを身に受けられて、聖書の預言の御言葉を実現されている主イエスとその主イエスを見捨てて逃げる主イエスの弟子たちとマルコによる福音書の著者マルコの恥ずかしい姿をコントラストに、対照的に、描いているのです。

 

しかし、マルコによる福音書がわたしたち読者に伝えているのは、裸で逃げるマルコによる福音書の著者の姿もまた、主イエスが言われた聖書の御言葉の実現なのです。

 

預言者アモス、彼は紀元前8世紀に、主イエスが生まれられる700年昔に、北イスラエル王国で活躍した預言者です。彼の名は「重荷」「重荷を負う者」という意味です。羊を飼育し、桑の木を栽培する農夫でした。主なる神は彼を預言者に召されました。

 

彼は、北イスラエル王国の周りの諸国民に対する神の審判、北イスラエル王国と南ユダ王国の神の民に対する主なる神の審判を預言し、主なる神が神の民を回復し、救済されることを預言しました。

 

預言者にとって審判の主なる神が神の民を回復し、救われるお方でした。大切なことは、主なる神は生きておられるということでした。生きた神であるがゆえに、神の民を裁かれ、救われるのです。

 

旧約聖書は、生きた神、今生きて働かれている主なる神の民に対する審判と救いを預言しているのです。マルコによる福音書は、その旧約聖書の預言が逮捕された主イエスにおいて実現し、主エスを見捨てて逃げていた弟子たちや裸で逃げた若者において実現したのだと記しているのです。

 

アモス書216節で預言者アモスは、こう預言しています。「勇者の中の雄々しい者も その日には裸で逃げる、と主は言われる。

 

主イエスは逮捕され、弟子たちは逃げ去り、群衆たちは主イエスに好意を抱く者から憎しむ者に変わりました。こうして主イエスの御受難が主イエスを孤独にしたのです。主イエスは、神にも人にも見捨てられて、一人十字架の道を歩まれるのです。

 

主イエスの御受難をサポートできる弟子もユダヤの民もいません。そして神の民ユダヤ人と異邦人たちが主イエスを裁判にかけ、死刑を宣告し、十字架刑へと向かわせる主役となるのです。

 

マルコによる福音書は神の子主イエス・キリストの孤独を際立って鮮やかに描いて、聖書が預言する通りにこの神の子主イエス・キリストだけが、わたしたちを罪から救い、永遠の命へと導かれるのだと、告げ知らせているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスの逮捕について学ぶことができて、感謝します。

 

主イエスは裏切り者のユダが手引きし、ゲツセマネの園で大祭司たちの手下に逮捕されました。

 

主イエスは、この逮捕が父なる神の御心であることを確信されました。聖書の通りに主イエスが逮捕され、12弟子の一人ユダは裏切り、他の11弟子たちは主イエスを見捨てて逃げていきました。

 

マルコによる福音書の著者も、旧約聖書の預言者が預言したように裸で逃げて行きました。

 

主イエスは、12弟子たちに、群衆に、そしてマルコによる福音書の著者にも見捨てられ、全くの孤独な中で父なる神に従われ、御受難の道を歩まれました。

 

だからこそ主イエス以外に、わたしたちを罪と死から、あらゆる苦難から救い得るお方はいません。

 

それゆえにどうか主イエスを信じて、歩ませてください。

 

主イエスよ、どうか生きて働かれ、今わたしたちと共に居て、わたしたちをお救いください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。