10月20日 礼拝

10月20日 説教

2024/10/20 村手 淳

    「誘惑との戦い」ルカによる福音書4113

序 神殿での少年イエスの自己証言から故郷ナザレでの拒絶までを「メシア職への就任」というテーマで6つの話が並べられています。イエス様は神の子でありますが、私たちが救いを仰ぎ見るためにメシアに就いてくださいました。“就く”といっても就職や身分を得ることと違って忍耐を必要とするものでした。エルサレム入場の時の民衆の称賛もなければ、メシアとして正しく理解されることもありません。メシアとして就くとはどういうことなのか、私たちはメシアになろうとされるイエス様をどのように迎えるべきなのか、このテーマについてもう一歩踏み込んで瞑想したいと思います。 

 神の介入によって地上の繰り返される人間の歴史にも「新しい」時代が始まります。その介入とはメシアの派遣のことを指し、驚くべきことに神の子が人として誕生することによって成就します。本人は人間として誕生し成長しますが、成人を迎える時にはすでに神殿を自分の父の家と言って自分が神の子であるという認識を明確にお持ちでした。しかし人間として生まれ育ったのですから当時の人にはその素性と使命は理解されず民衆には「ヨセフの子」と思われていたのです。母マリアもイエスの言葉の意味がわからず「これらのことをすべて心に納めていた」と記しています。洗礼者ヨハネの説教では「神の救い」をもたらすメシアであり、備えを説くヨハネでさえ「履物のひもを解く値打ちもない」ほどの「優れた方」であって火で焼き払われる審判者です。祈りに天が開け神ご自身が「わたしの愛する子」と語られました。聖書を通して約束されてきた神の言葉はまさにこの方のことを神の救いの成就する「主」と示してきたのです。しかし正体を知らず神の偉大さを理解できない私たちにはどう見ても「ヨセフの子」なのです。明確な自己認識をもちながらも成人してもメシアとして働くことはせず両親に18年間も仕えられました。メシアとして働き始めたのは「およそ30歳」になってからです。13歳で成人を迎える当時のユダヤでは30はもう十分歳をとっています。神の子にとって系図はありません。父と聖霊のみです。神の約束を嗣ぐ系図に自分の名を連ね、その約束を継いできた民の歴史と存在を担われたということではないでしょうか。慰めに満ちた神の約束の言葉も解き明かすのではなくて自分で読んで「実現した(成就した)」と言えば、ただそれだけで成就したのです。しかし遣わされる故郷は「ここでもしてくれ」と要求して信じようとしません。前回にもお話したとおり神の子であっても私たちのメシアになるにはこうした忍耐と苦悩に耐えなければいけなかったのです。そしてその忍耐はメシアとしての数年の働きだけのことではなく人として誕生し十字架で生涯を終える最後まで続いたのです。

 

「そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』と書いてある。」」4:68

福音書がこうしたいくつかの話を並べてメシアに就こうとするイエスの話を改めて眺めると当時のメシア待望というものが神様の約束から大きくずれていたことを教えられます。「神の子なら」という言葉は悪魔の常套句であって十字架でも繰り返されました。悪魔の言葉なのか、私たちのメシア・イエスへの言葉なのか、どちらかわからないほど私たちも神に対して同じ言葉を使います。それの例が十字架についたイエスに議員たちが発した言葉です。「あざ笑って言った「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら自分を救うがよい」23:35。ですからこの悪魔の常套句は私たち自身のメシアへの疑いの言葉でもあるのです。悪魔の誘惑では最初に神の子の神通力を使ってパンを、二つ目に与えられるところの権力と繁栄を「わたしを拝むなら」「一瞬のうちに」手に入れることができるという方法を、そして最後には「神は/あなたをしっかり守らせる」「手であなたを支える」から「飛び降りてみよ」とあからさまな挑発をしました。パンが象徴する豊かさや権力や繁栄を象徴する経済、守りや支えを象徴する軍備による安全保障など、効率を重視する現代においては誰もが、そしてどの国でも飛びつきたくなるような誘い掛けではないでしょうか?

メシア就任というテーマの後、次のテーマが431から始まりますが、その冒頭のお話では汚れた悪霊がイエスの言葉の権威に騒ぎだし、「かまわないでくれ/正体はわかっている」と大声で叫びます。するとイエスは「黙れ。この人から出ていけ」と一喝のもと悪霊を追い出します。メシアの権威をもってすれば悪霊の誘惑など簡単に退けられるのです。誘惑だけではありません。悪霊そのものを追放できたのです。つまりこの荒野での悪魔からの誘惑は「悪魔から誘惑を“受けられた”」とあるように自ら進んで受けられたことによるものなのです。さらにこの記事の最後413「悪魔はあらゆる誘惑を終えて“時が来るまで”イエスを離れた」と閉じているように、十字架への道を選び取る直前のゲッセマネの祈りでは「誘惑に陥らぬように祈りなさい」と弟子に語り、自ら自身「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」のです。さらにメシアとしての受難復活の道を弟子に教え始めた時も「ペトロがイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」。その時「イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」」マタイ1622~。身近な弟子の言葉にさえ悪魔からの誘惑の言葉を察知して戦っておられました。前述したとおり十字架上では議員たちから「神の子なら」という常套句で嘲りと挑発を受けたのです。少年のころから神殿こそ父の家であり自分の場所である自覚をお持ちでありながら、その場所を離れて家族ならざる兄弟を養うために大工の仕事をもって支えました。メシアとしての働きを始めた時には悪魔からの誘惑をお受けになりました。このテーマのどの箇所を瞑想しましても忍耐と苦悩を感じさせます。私たちは進学や就職などの経験を通してごく当然のこととして自分の賜物や適性に応じた道を進んできました。そしてその結果としてその道を受け取り、あるいは受け取らざるをえず歩んできました。しかしイエスにおいては違ったのではないでしょうか? 神の子なのです。最初から神殿を自らの家とし自ら溢れるほどの栄光をお持ちであって、権威も力をお持ちです。それを一切使わないということはどういうことだったのでしょうか?誰かの代わりを務めること、その代理において自分の能力も豊かさも力も一切使わないのです。私たちなら当然のごとく存分に発揮するところです。私たちを罪から救うメシアに就職するということ、その働きに“就く”とは神の子としてその賜物と力を存分に発揮するということではなくて、私たちの代わりにその義務を果たすべく御自身の一切の権能と賜物さらにはアイデンティティでさえ放棄すること、ただ神の前の一人の人間として誘惑とひたすらに戦い、父の御心に従い通すということを生涯にわたって果たすことを意味します。誘惑に答えず黙っていることもできたでしょう。しかし聖書の言葉をもって退けられました。その聖書の言葉はメシア預言の言葉ではなく普通の信仰者一般に向けた御言葉をもって戦い抜かれました。それもその御言葉を正しく解き明かすところの「聖霊に満ちて」退けたのです。(始まりの4:1と終わりの14に「満ちて」)誘惑は人が弱さを覚える空腹、権力と繁栄、神の守りといったことを柱にしていました。どれもこれも私たち人間の弱さを突く誘いです。イエス様は私たちのメシアに就いてくださいましたが、それは私たちに代わって父なる神様の前に立つ人の姿をとることによってなのです。家族に仕える姿も、悔い改めの洗礼を受けることも、約束の系図に身を置くことも、誘惑に打ち勝つことにおいても、そして聖書の言葉を信じることにおいてもです。神の子として特別な業をしたのではありません。私たちの代わりとなるメシアだから、私たちが神に対して果たすべき義務を私たちに代わって成し遂げてくださったのです。

 

神の子が人間の姿、人としてこの地上に誕生する、この驚きをヨハネ福音書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と証ししています。ヨハネ114 ルカ福音書はイエスの誕生を新時代の到来という形で降誕物語を記し、メシア職への就任というテーマで神殿での少年イエスや洗礼者ヨハネによる紹介と受洗、悪魔からの誘惑や故郷ナザレでの拒絶を記します。人間として誕生する受肉の驚きよりも、メシアとしてその働きにどのようにして就いてくださったのかをその戦いと忍耐で伝えたかったのではないでしょうか?“自分らしく生きること”現代でもよく語られる標語ですが、それを見失った私たちのためにイエスは、自らを放棄してメシアに就いてくださいました。その方を救い主と仰ぐことに私たちの本当の“らしさ”があるのではないでしょうか?  なる神様、この私をあなたへと立ち帰らせるためにイエス様が御言葉と父への信頼をもって歩んでくださいました。どうか主イエスをまっすぐに信じることができますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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