主日礼拝 7月14日

7月14日 週報

7月14日 説教

コヘレトの言葉の説教03           主の2024714

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第3章1-22節

 説教題:「何事にも時がある」

 今朝は、『コヘレトの言葉』の第3122節の御言葉を学びましょう。3章は、115節と1622節に内容を分けることができます。コヘレトは、115節で、自然現象の中での人間の幸福のはかなさを述べています。コヘレトは、1622節でこの世の不合理と神の裁きについて述べています。

 

 コヘレトは、31節で言います。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と。「何事にも」とは、自然現象のことです。自然現象には「時」があります。それは「時期」のことです。一定の期間です。具体的に言うと、季節です。日本には四季があり、パレスチナには、雨季と乾季があります。一年に雨季と乾季の時期があり、小麦と大麦の種をまく時期があり、収穫の刈り入れの時期があります。

 

「天の下の出来事」とは、この世の「すべての営み」のことです。「定められた時」とは、神が永遠の相の下に定められた瞬間のことです。コヘレトにとって、「時期」と「瞬間」は、抽象的な時の流れではありません。出来事が起こることです。神ないしは人が事を起こす個々の一定の時期と瞬間です。コヘレトは、31節と86節で「何事にも時があり」と述べ、317節で「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」と述べています。

 

コヘレトは、28節で14対の相反する人間の行為を記しています。「生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時 嘆き時,踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。」

 

これは、人間の一生の全活動を含む14対の相反する行為を列挙しています。2節の「生まれる時、死ぬ時」とは人間の一生です。人間が生まれてから死ぬ時までの行為です。「植える時、植えたものを抜く時」とは、農業の営みのことです。3節の「殺す時、癒す時」とは、殺人と救助の人の営みです。「破壊する時、建てる時」とは人の建築の営みのことです。4節の「泣く時、笑う時」とは断食と婚礼です(マタイ91415)、「嘆く時、踊る時」とは葬式と結婚式です(マタイ111617)。「石を放つ時、石を集める時」とは、田畑を荒らすこと(列王記下31925)と田畑を耕かすことです。「抱擁の時、抱擁を遠ざける時」とは、男女の性行為のことです。断食と戦争の時に性行為を遠ざけました。「求める時、失う時」とはものを捜す時と失う時のことです。「保つ時、放つ時」とは、物を保存する時と捨てる時です。「裂く時、縫う時 黙する時、語る時」とは、悲しみと喜びの時です。悲しみの時には衣服を裂き、沈黙します。喜びの時には裂いた衣服を縫い、おしゃべりをします。「愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時」とは個々人に愛と憎しみがあり、国と国とに戦いと平和があります。

 

コヘレトは、このように14対の相反する人間の行為を列挙しています。そしてコヘレトは、28節で日常的な行為や出来事にはすべて一定の時があると述べています。他方911節でそうした時は神によって定められた永遠の相の下にあり、人間には見極められないと述べています。

 

コヘレトは、9節で言います。「人が労苦してみたところで何になろう。」。これは、13節の「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。」の繰り返しです。コヘレトは、この疑問に対する答えを持っています。それは、否定的な答えです。コヘレトは言います。この世のすべての出来事は、神によって定められた時に起こるべきものであるから、人はだれも自分の生涯の流れを変えることはできないと。

 

さらに1011節でコヘレトは言います。「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」

 

コヘレトは、神の創造は善であり、神は人に永遠を思う心を与えられたが、人の知恵には限界があり、人はその生涯においてすべてのことを完全に知ることはできないと述べているのです。

 

しかし、コヘレトは、1213節で言います。「わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と 人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。」

 

コヘレトは、「わたしは知った」と一つの悟りを開くのです。この地上におけるわたしたちの生涯は、すべて神の恵みです。だから、わたしたちは生きている間、楽しく幸福に暮らすよりほかによいことはありません。わたしたちが日々の糧を食べたり飲んだりし、わたしたちが一日の仕事の労苦で得たものを楽しむことは神の賜物なのです。

 

さらにコヘレトは悟ります。1415節です。「わたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり 付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。今あることは既にあったこと これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。」

 

すべて神の御業は永遠不変であり、人は神の定められたことに付け加えることも取り除くこともできません。人の生涯は変えることはできなし、ヘリ下って神の支配の下に生きる他はありません。そして、コヘレトは言います。「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」と。コヘレトは、神への畏敬が知恵の源であると言うのです。コヘレトは、15節で、その知恵に基づいて神が定められた歴史を考察します。過去の経験から現在を認識し、将来を予測するのです。

 

コヘレトは、神が時を決定されていることとわたしたち人間が神の決定された時を十分に認識できないことに、空しさを覚えているのではないでしょうか。

 

コヘレトは31622節で次のように述べています。「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」

 

コヘレトは、1617節で人の社会が不合理であり、裁きの場にも正義の場にも悪があると述べています。「裁きの場」と「正義の場」は共に法廷を意味します。コヘレトの時代、正義を守るべき法廷で、悪が盛んに行われていたのです。コヘレトは、この社会の不合理のゆえに人間はこの地上において幸福を得ることはできないと思っているのです。

 

しかし、彼は、主なる神の裁きを信じているのです。彼はつぶやきます。義人も悪人も、主は裁かれると。主なる神は、人のすべての行ないを裁かれるお方です。いつ神の裁きが訪れるのかは、人は誰も知ることはできません。あの旧約聖書のノアの洪水のように、神はご自身が定められた時に、すべての人間を裁かれるのです。人は誰もこの神の裁きから逃れることはできないのです。しかし、この世の不合理の中で神の慈しみを求めて、正義を行う者には、神の裁きがあることは慰めでないでしょうか。

 

コヘレトは、18節から人間を考察しています。彼は、人間を動物と比較して、人間は動物よりも優れたものではないと述べています。彼は、この世において人間が経験する試練は、神が人間を、動物に変わらないことを教えるためだと述べています。人間と動物に変わるところはありません。人間に死が臨むように、動物も死ぬのです。人間も動物も同じ霊を持ち、何ら異なるところはありません。そして、同じ死の世界に行くのです。人間も動物も等しく土の塵で造られ、共に陰府に下るのです。コヘレトは、人間も動物も共に、神より命の息吹を与えられ、それが生きている証しであり、生まれた時に与えられ、死ぬ時に取り上げられると考えていました。コヘレトの時代の人々は、人の命の息吹は神に取り上げられ、動物の命の息吹は地の下に降ると考えていました。しかし、コヘレトは疑問を呈しています。人間も動物も共に神に命の息吹を与えられたのだから、共に神に取り上げられて、神のところに帰るのだと。

 

コヘレトは、22節で彼が悟った確信を述べています。「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるかを、誰が見せてくれよう。」

 

コヘレトが経験したことです。彼は、人間が自分の仕事を楽しむに越したことはないということを経験したのです。「それが人間にふさわしい分である」とは、それがわたしたちのこの世における労苦の配当であるからです。

 

最後にコヘレトが「死後どうなるかを、誰が見せてくれよう。」と言っています。これは、コヘレトの不可知論です。人間は、自分の死後に何が起こるか知ることはできません。人間は誰もが例外なく死ぬことは、知っています。しかし、誰も死だけではなく、これから後、何が自分に起こるのか知らないのです。だから、人間は誰も、将来に対して確かな所に連れて行くことはできないのです。

 

コヘレトは、この世における時は、神が定められた時であり、人間は神の摂理の中に生きる以外にないと言っているのです。

 

だから、わたしたちは神を畏れ、自らの知恵の限界を知り、すべてのものは神の善き創造と摂理であるのだから、すべてのことを神の恵みとして、仕事も生活も楽しむことが幸いであることを、コヘレトの言葉から学ぼうではありませんか。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝はコヘレトの言葉の第3章の御言葉を学ぶ機会を得られて感謝します。

 

神の造られた自然には、時期があり、わたしたちは春夏秋冬の四季を与えられています。自然は、四季を通して芽生え、成長し、実を実らせ、休みます。わたしたちは、自然の四季を通して農業を営みます。米や野菜を育て、収穫を得ます。わたしたちの一生は、神の定められた時に支配されています。

 

この世の不合理や悪や不義に、わたしたちは苦しめられます。しかし、自然とこの世のすべての営みは、神が創造され、摂理によって支配されています。そして神がわたしたちに試練を与えられるのは、わたしたちが神を畏れることを学び経験するためです。

 

コヘレトは、わたしたちにこの世における時を定め、支配されている神にすべてを委ね、日々の食事を楽しみ、仕事の労苦から得られる楽しみから自分たちの幸いを見いださせてください。

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。