12月1日 礼拝

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11月24日 説教

  主の202412月1

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第11章7-10

 説教題:          「人生の楽しみ」

 

 本日よりアドベント、待降節に入ります。教会や家の玄関にリースが飾られ、既にクリスマスに向けての準備が始まっています。アドベントカレンダーを用いてクリスマスを一日一日楽しみ待つ家庭もあるでしょう。教会もイルミネーションを飾り、玄関に降誕セットを置き、クリスマスツリーを飾りつけるところあるでしょう。今日からクリスマス礼拝に人々を迎える準備をしましょう。それと共にアドベントは、再臨のキリストをお迎えする時でもあります。

 

主イエスはご自身の弟子たちにご自身の再臨の時にこう言うと告げておられます。マタイによる福音書第十章32-33節です。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」この主イエスのお言葉は、初代教会の信仰告白となりました。既に初代教会はユダヤ人たちに、ローマの官憲に迫害されていました。主イエスの御言葉はそのことを前提としています。だから、「人々の前で」とは地上の法廷です。そこで自分のことを主イエスの仲間と告白する者を、主イエスは「天の父の前で」、すなわち天上の法廷でその者を自分の仲間と宣言してくださるのです。反対に主イエスを拒む者を、主イエスは再臨の時、天上の法廷でその者はご自分の仲間でないと宣言されるのです。

 

本日からアドベントが始まります。どうか主イエスのお言葉を瞑想しつつ、クリスマスに備えましょう。そして今日のコヘレトの言葉第11710節の御言葉を学びましょう。

 

わたしたちの新共同訳聖書は見出しがありません。聖書協会共同訳聖書は見出しがあります。「造り主を心に刻め」という見出しです。聖書協会共同訳聖書はコヘレトの言葉117節から128節までを、「造り主を心に刻め」という題で一つにまとめています。新改訳聖書2017は見出しがありません。岩波書店の旧約聖書翻訳委員会訳は、117節から122節までを「青春の日々に」という見出しを付けて一つにまとめています。わたしが参考にしたのは、フランシスコ会聖書研究所訳注です。それは、今日の説教題と同じで、同じところです。「人生の楽しみ」という見出しです。

 

前回はコヘレトが1116節で人生がいかに不確実であるかを提言し、常に知恵を働かせ賢明に生きることが大切であると説きましたところを学びました。続いてコヘレトは今日のコヘレトの言葉11710節で人生を楽しむことが大切であると説いています。

 

7節でコヘレトは言います。「光は快く、太陽を見るのは楽しい。」「光」と「太陽」は同じ意味です。人生の美しさと楽しみを表現しています。わたしは説教題を「人生の楽しみ」と付けましたが、コヘレトは「光は快く、太陽を見るのは楽しい。」と述べて、人生の美しさと彼が生きているという喜びに感嘆しているのです。わたしは、この教会の牧師を辞職しまして、富士見町で家族と共に住み、犬の散歩がわたしの日課となりました。毎朝朝日が出るころに犬と散歩しています。太陽が昇る手前から空が明るくなり、光が射すのを見るのは、本当に心地よいですね。コヘレトも夜明けの光輝く美しさに心を打たれたのでしょうか。わたしは、毎日朝日を見るだけで、何か心に爽快さを感じます。コヘレトが「光は快く」と感嘆するのは、彼が光に美しさと生きる喜びを感じるからでないでしょうか。これまでコヘレトは、わたしたちに繰り返し人生の空しさとその限界を語ってきました。人とこの世界の存在が昔から同じであり、どんなに不確実であるかを語ってきました。人は人生に幻滅し、悲哀があることを語ってきました。しかし、コヘレトはわたしたちにそれだけではないといつも語り掛けるのです。

 

創造主なる神は天地を創造されました。はじめ天地は闇に覆われていました。創造主なる神は創世記一章3節で「光あれ」と言われました。こうして光が存在したのです。光は闇の対極にあるものです。命であり、愛であり、秩序であり、救いです。これらすべての総称です。創造主なる神は光を創造され、良しとされました。創造主なる神は造られた光をご覧になり、それを肯定し、承認され、神は光を善きもの、美しきものと御覧になりました。だから、コヘレトも光を見て、快いと肯定しているのだと、わたしは思うのです。

 

コヘレトは、続けて「太陽を見るのは楽しい」と言っています。わたしはコヘレトにとって「太陽を見る」とは生きているということの実感だと思うのです。実際にこの世に生きている者だけが太陽を見ることができるのです。だから、コヘレトにとってこの世に生きていることは楽しいのです。人は生きることに苦しみがあり、絶望があり、不安があるかもしれません。しかし、人は生きているという実感があれば、喜びを感じるのではないでしょうか。コヘレトは、この世に生きているという喜びの実感を、「光は快く、太陽を見るのは楽しい。」という言葉で、感嘆しているのだと、わたしは思います。

 

コヘレトはこの世に生き、人生を楽しむことを、創造主なる神が許された恵みと理解しています。同時にコヘレトは人が永遠に太陽を見続けることができないことも知っているのです。だからコヘレトは、8節でこう述べているのです。「長生きし、喜びに満ちているときにも 暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべては空しい。」コヘレトは、わたしたちに死を忘れるなと警告しているのです。

 

暗い日々も多くあろう」とは、人間の死とその後のことです。ヨブ記10章21節と22節でヨブが死後の世界をこう述べています。「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国に わたしが行ってしまう前に。その国の暗さは全くの闇で 死の闇に閉ざされ、秩序はなく 闇がその光となるほどなのだ。」コヘレトは言います。「どんなに長生きしても、太陽を見て喜びの中に生きていても、死を忘れるな。あなたは死ねば、死者の国に行き、そこは闇の世界である」と。「暗い日々」を、病気を患う日々とか、老後の日々とか、解釈できます。しかし、コヘレトは、人間の日々の長短を、あるいは人の未来を誰も予言することはできないと思っています。死は予言しなくても、誰にでも必ず訪れるのです。コヘレトの時代は人々の寿命が平均30-40代であったと考えられています。コヘレトには人の人生は短いという認識が徹底していました。それに対して幸いにもわたしたちの時代は超高齢社会です。平均寿命が80歳を超え、多くの方々が90歳を超えています。コヘレトは、わたしたちの時代を想像することはできません。彼は40歳を越えて長生きしていても、人はいつまでも太陽を見続け、人生を楽しめない時が来ると言うのです。コヘレトはわたしたちに死を忘れるなと警告します。コヘレトは、人間の死を前提に、人が生き、楽しめる時間を考えているのです。

 

日本の諺にも「一寸先は闇である」とあります。超高齢社会の日本ですが、私たちは長生きして人生を楽しみ続けることはできません。いつ死が訪れるのか、いつ不慮の事故に遭うか、わたしたちの人生は不確かであるからです。だから、コヘレトはわたしたちに人生における最悪の事態を想定して、それを避けるために知恵を働かせ賢明に生きよと忠告しているのです。コヘレトにとって賢明に生きるとは、将来の最悪の状況を想定し、それを回避するために、今最善を尽くすことです。徹頭徹尾現在にこだわるのです。宗教改革者マルティン・ルターは「明日世の終わりが来ても、わたしは今日リンゴの木を植える」と言ったそうです。コヘレトは、ルターの言葉に手を叩いて「その通りだ」と賛成するでしょう。明日を心配するよりも、今日自分がすべきことをする、これがコヘレトの教えだと、わたしは思うのです。

 

続けてコヘレトは、9節で次のように言っています。「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい 神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれると。」コヘレトは快楽主義者ではありません。彼には、生きる戦略があります。将来の不確実性をよく認識して、今知恵を働かせて賢明に生きることです。明日が不確実でも、今日農夫は種を蒔き、借り入れをし、自分の務めを果たすべきです。コヘレトの言う「空しい」とは時間の短さのことです。人生は空であるとは、つかの間であるということです。コヘレトは20歳の青年が後どれだけ生きられるのか、ほんのわずかな年月だろうと想定し、青春は短く束の間であるから、その若さを楽しみ、短い青春時代を楽しく過ごせと勧めるのです。

 

コヘレトは若者に創造主なる神の賜物である「お前の若さを喜ぶがよい」と勧めます。彼は青年に青春時代を楽しめと勧めます。そして彼は若者に「心にかなう道を、目に映るところに従って行け。」と勧めます。「心にかなう道」とは若者の心が若者を幸いにする道です。要するにコヘレトは若者に自分が思うままに生きよと勧めます。「目に映るところに従って行け」とは、そういうことだと思います。今のわたしたちの時代であれば、「青年よ、今を楽しめ。自由に生きよ。」ということでしょう。

 

しかし、コヘレトにとって賢明なことは、若者が自分の人生における最悪の事態に備えることです。だから、コヘレトは若者に言うのです。「知っておくがよい 神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれると。」「知っておくがよい」とは、「知れ」という命令形です。ヘブライ語の「知る」は単なる頭の知識ではありません。経験することです。人が人生で経験した知のことです。創造主なる神に創造された人間が人生の最後に経験することは、神の裁きの座に連れて行かれ、そこで人間は創造主なる神に前に自分がこの世でしたすべてのことを申し開きしなければならないのです。

 

コヘレトは、人生を飲め食え、楽しめ、自由に生きよと言っているのではありません。創造主なる神に与えられた命を、肯定しているのです。飲み食い楽しむことは、神からの賜物と考えているのです。だから、今を生きることに意味があります。人は生きて、創造主なる神の御前で農夫は農夫としての責任を果たし、商人は商人としての仕事を果たさなければなりません。だから、コヘレトは農夫に11章6節で「朝種を蒔け、夜にも手を休めるな」と勧めたのです。

 

若さはいつの時代も人生における最も喜びの時です。自由があり、人にとっての可能性があります。だから、若者は常に自分の心の赴くままに、自由に生きたいと思うのです。コヘレトは若者の生き方を肯定するのです。しかし、生きるということは、わたしたちに命を与え、生かしておられる創造主なる神がおられるということです。そのお方の御前に生きるとは、神に造られた人間としての責任を負って生きるということです。

 

神の民の命は、一人、あるいは個人の命ではありません。一人、気ままに好き勝手して生きる人生ではありません。創造主なる神を畏れ、神の民たちと共同して生きるのです。その中で神が与えられた命を生き、楽しむのです。

 

10節でコヘレトは「心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい」と言っています。コヘレトは、人生を楽しむためには健康であれと勧めます。心と体の一切の苦しみを取り除けと勧めます。今日健康は、人生をエンジョイするためには欠かせません。特に日本の超高齢社会で老後を楽しんで生きるためには、心も体も健康である必要があります。ですから、高齢の方々が朝早くジョギングをし、散歩をされています。高齢者から若者までジムに通い、健康の維持に余念がありません。

 

しかし、人の命は短いのです。コヘレトは言います。「若さも青春も空しい」と。若さも青春時代も束の間です。超高齢者社会、100歳時代と言っても、人の人生は束の間です。コヘレトは人の人生が束の間であると知って、そこから今を大切に生きようと考えているのです。食べて、飲んで、人生を楽しむ人こそ、コヘレトは創造主なる神に与えられた命を感謝して生きる人だと考えています。人生を楽しむ人は、自分の死を常に心に留めて、今自分に与えられた責任を果たすために生きるのです。そしてコヘレトにとって死は、単なる人生の終わりではありません。最後にすべて神に造られた人間は、彼の人生を裁かれるお方の前に立たなければなりません。

 

神の審判がわたしたちの人生の最後にあるのです。死んだらすべてが終わるという考えは、無責任な人生観です。この世に生まれたからには、人は皆創造主なる神に対してこの世に生きてきた責任を問われるのです。アドベントは、わたしたちを、人類を裁くためにキリストが再臨されることに、わたしたちの教会が備える期間です。

 

わたしは、70歳になり、牧師を定年退職しました。92歳まで生きて、日本キリスト改革派教会の百年を見たいと願っています。22年創造主なる神が命をお与えくださるならば、コヘレトの言葉から学んだことを生かしたいです。今を生きる恵みに感謝し、家族と共に生きる恵みを楽しみ、引退牧師としての務めを果たして、教会のために仕えて生きたいと思うのです。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、『コヘレトの言葉』を学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

コヘレトの言葉から人生を生きる喜びについて学びました。コヘレトの時代は、今のわたしたちの時代より人の平均寿命がとても短いです。しかし、コヘレトは人生の短さ、常に死を覚えて彼の人生を積極的に生きています。

 

人の人生の価値と意味は長いか、短いかではありません。わたしたちがこの世で与えられた命をどのように生かして生きるかです。何よりも命を与えてくださった創造主なる神に対してわたしたちは生きる責任を負っており、人は皆、人生の最後に神の審判の前に立ち、どのように生きたかを弁明しなくてはなりません。

 

どうか、アドベントの期間、再臨のキリストを心に留めさせてください。キリストの十字架のみがわたしたちをキリストの御前に立たせることを、わたしたちの心に強く覚えさせてください。

 

今から共にあずかる聖餐を祝してください。パンとぶどう酒をいただき、キリストの命にあずかる恵みに心から感謝させてください。

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。