箴言二章 「知恵を授ける主」 岩崎 謙 引退教師
25年5月18日(上諏訪湖畔)
この度は、説教奉仕のお招きにあずかり、皆様と一緒に礼拝を守ることができますことを、主に感謝しています。22年9月末をもって、病気療養のため、教師を引退しました。ですが、20年承認の新薬が効き、現在はこのようにほぼ毎主日、奉仕を許されています。それも、宇都宮、佐久といった遠方での奉仕を定期的に行っています。車での移動が中心で、毎主日、夫婦で小旅行している感じです。今年は、上諏訪湖畔で4回の奉仕予定があり、楽しみに参りました。
箴言2章という朝拝説教箇所として珍しい箇所から解き明かします。この点についても説明します。信徒向けの『新実用聖書注解』(いのちのことば社、既刊)の箴言の項を2017年度版の新改訳聖書をもとに書き換える仕事を引き受けました。他教会で1章から説教し、順番で今日は2章を扱いました。これからのことですが、箴言がフィットする教会もあれば、別の聖書箇所が相応しい教会もあります。これからの交わりの中で検討させていただきます。箴言の序論的なことは、2章の解き明かしの中でも触れることとし、早速2章を読んで参りましょう。今日は、1節から8節を主に扱います。
1~4節 「わが子よ」 親が子どもに語りかけています。2,3,4節に、「なら」とあります。「もし」という言葉は訳出されていませんが、1節~4節は、「もし」で始まる条件文です。「わが子よ、もし、あなたが〇〇すれば」が、1~4節まで続きます。条件文には、「すると、〇〇であろう」という帰結文が伴います。帰結文は、5節と9節です。
1節 「わたしの言葉、戒め」とあります。父の言葉です。
父の言葉を「受け入れ」ることから、すべてが始まります。そして、「受け入れ」るとは、一体どういうことなのかが、展開されていきます。「大切にして」を直訳すると、「蓄える」です。それも訳出されていませんが、「あなたと共に」という言葉があります。「あなたと共に蓄える」とは、肌身離さず持ち歩けるように、そして、いつでも取り出せるように心に蓄える、ということです。「キリストの言葉があなたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロ3:16)という御言葉を思い起こしてもいいでしょう。
2節a 父の言葉と戒めが、「知恵・英知」と言い換えられる。表現は違いますが、2節の「知恵」・「英知」と3節の「分別」の内実は、同じです。これらの言葉は、箴言のキーワードです。父の「わたしの言葉」(1節)が、箴言が与える知恵・英知・分別です。6節を見ますと、「知恵を授けるのは主」とあります。主なる神は、御自分の知恵を、父の教えを介して、子どもに伝えておられます。子どもが、父の言葉を受け入れなければならないのは、父の言葉が神の知恵を語っているからです。私は、牧師の子どもです。小さい時から、父の説教を聞いていました。思春期になると、それなりの反抗期もありました。父の言葉は聞きたくないと思いました。しかし、父の説教の言葉は、神の言葉なので聞かねばならない、とも思いました。箴言において、このような葛藤が子どもにあったかどうか分かりませんが、神の知恵を伝える父が身近にいるとは、幸いなことです。皆様にとられましては、父の言葉は、毎週の説教者の言葉となります。多くが集う礼拝か、小さな群れの礼拝か、で礼拝の雰囲気は若干異なります。しかし、変わらないのは、神の知恵を伝えてくれる教師が身近に与えられているという喜びです。感謝です。
2節b~4節 父の言葉は、神の知恵を伝えていますので、受け入れ、心に蓄える価値があります。その蓄え方が、段階を追って記述されています。
2節:耳を傾け、心を向けるなら、とあります。自転車に乗ることを覚えるには、本で学ぶだけでなく、実際に乗ってみることが必要です。「耳を傾ける」という言葉は、言葉としては誰でも理解できます。では、どのようにすることが「耳を傾ける」でしょうか。自分で実践するしかありません。また、それと並んで、「心を向ける」とあります。パラレルで同じことが語られているのでしょう。ですが、「心」は聖書において、箴言において、重要な言葉です。意図的に「耳を傾け続ける」ことと、知恵と向かい合う心が形成されることの密接な結びつきを、ここから読み取ることができます。私たちの心は、いつも何と向かい合っているでしょうか。生きていく上で、日々多くの心配事があります。仕事をする上で、納期があれば、それに間に合わすので必死になります。そのような生活においても、知恵に耳を傾ける習慣をもつことによって、知恵に心を向ける自分を形作っていることになります。
3節:「呼びかけ」「声を上げる」と続きます。耳を傾け、内側に知恵に心を向ける自分を形成するだけでなく、もっと積極的に、知恵に向かって声を上げます。知恵に向かって呼ばわり、声を上げるとは、祈りと賛美を伴いながら知恵を求める姿です。
4節:そしてその求め方が、比喩で説明されています。「銀を求める」とあります。当時は、銀は金よりも貴重だったのでしょう。宝物と言葉が重ねられます。鉱物としての銀ではなく、加工された美しさをまとっているのでしょう。宝物のように探すとは、知恵を宝物のように価値あるものと見なす、というのが大前提です。知恵の本当の価値を知る者のみが、知恵を宝物のように必死で探します。新約を思い起こすと、マタイ13:45-46と7:7-8「求めなさい、そうすれば、与えられる」が浮かびます。
5節 「もし、そのように求めるとすれば」の帰結文です。
「神を知ることに到達します」は意訳で、直訳すると「神を見出します」です。見出す時の喜びを想起してもよいでしょう。神を知るとは、神についての神学的な知識を獲得することではありません。神との人格的な深い交わりの中で、神がどのような方を知っていきます。これこそ、箴言の中心メッセージです。知恵を求めることは、神を見出すことに至ります。また、1節~4節において、求め方が非常に丁寧に語られていました。それは、父の言葉に心で受けとめ、従うことでもありました。神は目に見えませんが、神が遣わしてくださる方の言葉に聴従する中で、神との出会いが与えられることが、ここに記されています。
ここで、1章7節をお開きください。「主を畏れることは知恵の初め」とあります。ここでの「初め」とは、出発点という意味です。或いは、植物に喩えるなら、主を畏れることが根です。地下に根をしっかり張ることによって、知恵の木はしっかり育ちます。主を畏れることが、知恵が与えれることに先行して、語られていました。他方、2章では、その順序が逆になっています。1章と2章を合わせて理解するなら、知恵を得ることと主を畏れることは密接不離な関係にある、ということでしょう。また、2章は、知恵の言葉との真摯な向き合いなしに、主を畏れることはあり得ないという意味で、1章を補足説明しているのでしょう。
6節 帰結文において、6節は非常な重要な視点を提供しています。知恵を求める者が、神を畏れ、神を知る知恵に到達できる、ということがこれまでに語れてきました。6節は訳出されていませんが、「なぜならば」という接続詞で始まっています。神を畏れることに至るのは、なぜならば、主が「知恵を授け」でくださったからです。主は、口を開いてお語りくださったことによって、知恵と英知を与えてくださいました。私たちは、知恵を求める努力を重ねることによって、自分の努力の成果として、知恵を手に入れ、神を畏れるのではありません。幾ら努力しても、神が与えてくださらなければ、私たちは何も手にすることはできません。
また、ここで、「主の口」という表現によって、「父の口」が「主の口」として用いられていたことにも気付かされます。父の口が開き、主の口が開き、聞く者に神の知恵が与えられました。説教をするとは、「主の口」となることでもあります。神は説教者を通して、知恵の言葉を授けてくださいます。「主の口」として用いられることに慄きを覚えます。
7節 「力」は意訳です。2018共同訳では「良い考え」、「2017新改訳では「すぐれた知性」と訳されています。知恵に類するものです。「盾」は比喩です。主は、知恵を盾のように用いて、神に従う人を守ってくださいます。
8節 「道」と「守る」が繰り返し用いられ、強調されています。裁きの道とは、公平な裁きが行われる道です。に裁いてくださる、ということです。神が進まれる道です。「主の慈しみに生きる人」とは、「神の契約において示されている愛に生きる人」のとです。その人の「道」とは、習慣によって踏み固められる人生のことです。神が、これらの道をしっかりと守ってくださいます。
9節 「また」とあります。5節が、1から4節の条件文の帰結文でした。それに続く「また」です。ここに、「正義と裁きと公平」とあります。1章3節を御覧下さい。ここにも同じ言葉があります。知恵と神を畏れることは、個人的な事柄ではありません。人が、神を畏れ、知恵を得る時、社会は「正義と裁きと公平」を尊ぶ社会に変わります。正義と裁きは、ほぼ同じ意味です。そこに公平が加わります。社会的身分、男女差、年齢差関係なしに、正義と裁きが行われます。「すべて幸いに導く」は意訳です。直訳に近いのは、「踏みなさらされた良き道を弁え」る(新改訳)です。正義と裁きと公平は、個人的な資質ではなく、社会が共有するべき特質です。
が変わります。は、5節と同じパターンです。そのようにすれば、悟るであろう。
神を畏れ、神を知る知恵が、社会生活と密接に結び付く。
きがなされる。
10節 なぜならば、 5節:そうすれば、 6節:なぜならば と同じパターン
知恵が来るあなたの心に、神を知る知識があなたの魂にとって喜びとなる。
神が知恵によって守ってくださる。それは、知恵が心に来て、魂に来て、内在化されているから
神が外から奇跡的に一方的に守ってくださるだけではない。
心に宿っている知恵、自分の喜びとなっている知恵が、危機を察知し、守ってくれる。
義務的に、道徳的に、「ねばならない」こととして学ぶ知恵ではなく、心の喜びとなっている知恵
11節 8節と同じ 守る、見守るが繰り返される。
慎重さ 若者に最も必要なもの(1:4)
大胆であってもいい、しかし、誘惑に対しては慎重でなければならない。
何から守られるのか。
イ)12~15節 曲がったことを語る男から
12節 暴言を吐く者 別訳:偽りを語る者 倒錯したことを語る、ねじ曲がったことを語る ⇒ 真っ直ぐにことを捉えず、かつ、ねじ曲がったことを語り、人を惑わし、そのことを喜ぶ
悪を働くことを喜びとするVS主を知ることを喜びとする
彼らの生き方(道)が曲がりくねっており、語ることもねじれている。
現代社会におけるねじ曲がったこと AIの偽情報
昨年公表された事実 或る特定な質問に対して、AIが32%間違った回答をした。
理由 ネット上に間違った情報が溢れ、AIもまたその偽情報を学び、それを真実と誤解した。ロシアが廃刊になった米国の地方紙を用いて偽ニュースを作成し、AIが過去の情報を調べるときに触れるように仕向け、誤った結論へと誘導した。
ねじ曲がったことと真っ直ぐなこととの区別が付きにくい社会
喜んで、ねじ曲がったことを言う人がいる。
父親 このような悪しき者が、「わが子」の周りをうろついていることを知っている。
だから、わが子に、彼らの正体を見抜いて、彼らから離れ、知恵によって自らを守れ
ロ)16~19節 悪しき女
16節 「異邦の女」の場合は、イスラエル人以外 それよりはむしろ よその女、見知らぬ女 若い日の伴侶を捨て、夫婦の契約関係を捨て、家庭を捨て、共同体から離れ、自分の欲望のためだけに生きる。更に、神との契約関係を忘れ、神への畏れを捨てている。自分の欲望のために他者を利用する人。それなのに、「滑らかに話す」人。自分をほめてくれ、言葉から彼女の正体を見抜くことは難しい。
でも、彼女に着いて彼女の家に行くと、死の世界に引きずり込まれる。
「だれも」:例外無しに そこから引き返すことはできない。
悪しき女への道 死に至る 命の道に帰ることはない。
父の息子への教え。娘への教えなら、悪しき男が登場して当然。
20~22節 結論
20節 「こうして」 ねじれた事を言う男から離れ、なめらかなことを語る女から離れ、
彼らから守られることによって、「神に従う人の道」(生き方)を守る。
神に守られている者(8節)が、神に従う人の道を守ることができる。
21節22節 繰り返し出てくる 「地」
地に残される、地から断たれる 受身 行うのは主
悪しき者は神の地を汚す 神が、地から彼らを排除する。
神を知り、畏れることが、知識・知恵の初め。
22節 神によって、断たれ、引き抜かれる。
神は、神の知恵を教える者を立て、子よ、と呼びかけ、教える。彼らが自分から知恵を求める熱意を抱くように、導く。耳で聞くだけでなく、口を開いて呼びかけ、心を傾ける。
神は、その者に神への畏れと神を知ることを与え、かつ、知恵を彼らの中に住まわせ、その知恵によって彼らを守る。
命の道か、死の道か、人生は危険に満ちている。その中で自分を守るのは、神から与えられた知恵。知恵を与えてくださる神への畏れ。神との交わり。神の民は、このような教えを聞き続けて歩んで来た。自分もこの神の民が踏み固めた道を歩む。その道から離れ、捻れた男や単独者としてさ迷う女がいるが、惑わされるな。
神は、私たちが命の道を進むように、キリストを与えて、教会の一員としてキリストの道を歩めと呼びかけておられる。