1月19日 主日礼拝

説 教

フィリピの信徒への手紙説教02            主の2025119

兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立つたと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

               フィリピの信徒への手紙第一章1220

 

 説教題:「パウロの喜び」

本日はフィリピの信徒への手紙第一章1220節の御言葉を学びましょう。今この手紙をフィリピ教会のキリスト者たちに書いていますパウロは、獄中に捕らえられています。この手紙でパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに今彼の状況について述べています。12節から13節です。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立つたと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

 

パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「兄弟たち」と親しく呼びかけ、今パウロの身に起こっていることを伝えようとしています。わたしたちはパウロのその呼びかけで、彼とフィリピ教会のキリスト者たちがどんなに親密な関係であるか知ることができます。だからパウロは彼の身を心配しているフィリピ教会のキリスト者たちに今彼の身に起こっていることを知らせたかったのです。

 

パウロは、親しい呼びかけに続いて「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立つたと知ってほしい」と、手紙に書いています。パウロは彼の身を案じているフィリピ教会のキリスト者たちを励ますように手紙を書いています。使徒パウロがローマ帝国の官憲に捕らえられて、牢獄にいることは、フィリピ教会のキリスト者たちにとって大事件だったでしょう。使徒パウロは彼らにとって無くてはならない人でした。捕らえられたパウロの身に何かあれば、フィリピ教会のキリスト者たちにとって大きな打撃となり、失望も与えることでしょう。

 

ところがパウロの手紙はフィリピ教会のキリスト者たちに驚きを与えました。なぜならパウロが牢獄に捕らえられることで「かえって福音の前進に役立った」と書いているからです。パウロはそのことを13-14節で次のように述べています。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

 

パウロは福音宣教のためにローマ帝国の官憲に捕らえられました。パウロが今牢獄で囚人としてとらえられていることが、教会の外でも内でも大きな反響を呼びました。そしてそれがますますキリストの福音を広めることに貢献したのです。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにそのことを伝えることで、彼らを励まそうとしているのです。

 

パウロが「兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」と書いていますね。「兵営全体」とはローマ皇帝のお膝元のローマに置かれていた「親衛隊の兵営」を意味する言葉です。しかし地方にあるローマ総督の官邸や総督府の行政と裁判所のある役所の建物をも意味しています。パウロは使徒言行録の十九章において第三回伝道旅行で3年間エフェソの町で伝道しました。使徒言行録にはパウロがそこでローマの官憲に捕らえられたという記述はありません。しかしコリントの信徒への手紙二の一章でパウロはアジア州で被った苦難について書いています。パウロは耐えられない苦難を経験しました。彼は生きる望みすら失ったと述べています。また他の手紙でもパウロはエフェソで獣と戦ったと述べています。この獣とはローマ帝国の官憲のことでないでしょうか。パウロがどこの牢獄からこの手紙を書いたのか、ローマか、カイサリアか、エフェソか、いろいろと言われてきました。現在ではエフェソが有力です。わたしもエフェソだろうと思っています。

 

パウロはエフェソでローマ総督府の牢獄につながれたでしょう。そこで彼は裁判においてキリストを弁明したでしょう。そのことでパウロがキリストの福音宣教のために投獄されたことが誰の目にも知られる事実となりました。ローマ総督府の者たちだけでなく、エフェソの町の他のすべての人々にも知られました。その結果、パウロの投獄は福音宣教の打撃になるどころか、むしろ福音宣教を前進させたのです。キリストの福音がエフェソの町に浸透するようになりました。

 

それだけではありません。アジア州の、すなわち小アジアにあります諸教会のキリスト者たちがパウロの投獄によって奮起し、勇気をもって福音宣教するようになりました。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。「主に結ばれた兄弟たち」とはキリスト者のことです。キリスト者は主イエスを「わが主」と告白し、洗礼を受けて、キリスト教会に入会した者です。最初は勇気がなく、自分がキリスト者であることを証しできませんでした。しかしパウロの投獄と彼の主イエスへの信仰を見て、彼らは勇気を与えられ、主イエスへの信仰を更に強められ、大胆に人々にキリストを証ししたのです。

 

パウロはキリスト者たちが「御言葉を語るようになったのです」と書いていますね。福音宣教、すなわち、わたしたちキリスト者がキリストを証しすることは私事でありません。時が善くても悪くてもわたしたちはこの世の人々にキリストを公に証ししなければなりません。言葉だけでなく、毎週日曜日の主日礼拝を通してキリストを証しするのです。アジア州の諸教会のキリスト者たちは毎週の主日礼拝を通して町の人々に公にキリストの福音を伝えて行ったのです。彼らは礼拝の説教で聞いたキリストの福音を人々に伝えたのです。だから、パウロは「御言葉を語るようになった」と述べているのです。

 

しかし良いことだけではありません。この世は罪の世です。この世だけでなく、教会も罪人の集まりです。教会の福音宣教も人の罪の影響を免れません。しかし同時に福音宣教は聖霊のお働きでもあります。パウロは15-19節で次のように書いています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。

 

パウロは福音宣教するキリスト者たちの動機について語っています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます」。これはパウロと共に福音宣教している者たちのことです。同じ信仰を持つ者たちが異なった動機から福音宣教しているのです。すなわち、ある者たちは明らかに使徒パウロを妬み、対抗心を抱いて福音宣教していました。他方本当に善意から福音宣教している者たちがいました。パウロは前者の者たちを「わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのです」と述べています。彼らは使徒パウロがキリストの僕として今キリストの福音のゆえに投獄され、福音の真理を弁明するために神に立てられていることを知っているので、キリストへの愛と真実をもってキリストの福音を人々に伝えていたのです。ところが後者の者たちは「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」。彼らは異端者ではありません。偽りの福音を伝えていたのではありません。まことにキリストの福音を伝えていたのです。しかし、彼らの動機は不純でした。おそらくパウロ以上に自分たちの名を挙げようという野心がありました。彼らはパウロを嫉妬し、反感を持っていました。だから彼らは牢獄のパウロを苦しめようとしたのです。

 

まことに教会の福音宣教が個人の利害関係でなされました。キリストよりも自分たちの名を挙げようという野心を持つ者たちがいました。しかし福音宣教は人の業ではなく、聖霊の御業です。パウロは福音の前進という立場に立って、次のように喜んでいるのです。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」パウロは、福音宣教を自分の力でしているとは少しも思っていません。パウロは相手の動機が不純であろうと、福音宣教は聖霊の御業であり、聖霊は人の悪を善に変えられると信じています。だから、パウロに嫉妬し、反感する者たちが不純な動機で福音宣教していても、パウロは「それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」と言うのです。パウロの思いは自分のことよりキリストでした。キリストの福音が人々に伝えられ、伝道地に浸透することでした。そして彼は聖霊が牢獄に囚われているパウロを苦しめようとする者たちの悪意を用いて福音を人々に伝えさせてくださることを喜んだのです。本当にキリストが人々に伝えられるならば、人も方法も問題ではありません。大切なことはキリストが人々に告げ知らされることです。十字架と復活のキリストの福音が人々に告げ知らされることです。

 

異端や偽りの福音でないなら、キリストの十字架と復活の福音が人々に告げ知らされているなら、パウロは喜ぶというのです。「これからも喜びます」と、パウロは言っていますね。パウロは今自分が牢獄にいることを知っています。しかしキリストの福音が人々に告げ知らされているという喜びが今の彼の運命を勝利に導いています。なぜならパウロは捕らわれの身ですが、彼が伝えているキリストの福音は人に捕らえられ、牢獄につながれていません。人から人へと、町から町へとキリストの福音は告げ知らされて、前進し浸透しているのです。

 

パウロは19節で彼が大いに喜ぶ理由を述べています。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」。パウロの救いは牢獄から解放されることではありません。フィリピ教会のキリスト者たちはパウロが牢獄から解放されることを祈ったでしょう。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちの熱心な祈りを主イエスが聞き届けてくださると信じたでしょう。何よりもパウロは、キリストの霊である聖霊がフィリピ教会のキリスト者たちの祈りを聞き届けてくださり、牢獄のパウロを永遠の命の御救いにあずからせてくださると確信していたでしょう。

 

このパウロの御言葉は本当に私たちにとっても慰めです。教会の祈りとイエス・キリストの霊である聖霊の助けによって、わたしたちはこの世における困難さから解放されるだけではなく、永遠の命という御救いにあずかるのです。この喜びを、パウロはわたしたちキリスト者に体験しているでしょうと述べているのです。

 

だからパウロは今わたしたちにも勧めるのです。まずは祈りましょう。教会で共に二人、三人で祈りましょう。そこに主イエスはいてくださいます。教会の祈りを聞き届けてくださいます。主イエスが聖霊によってあなたがたを助けてくださいます。それがキリスト者としてのわたしたちの体験なのですからと。

 

そしてパウロは20節でキリストにすべての栄誉を帰するのです。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

 

どんなことにも恥をかかず」とは、パウロがキリストの僕として、彼によってキリストが誉れを受けたまうようにすることです。わたしたちキリスト者が恥をかくとは、わたしたちが自分を通してキリストに栄光を帰さないことです。わたしたちが神の御名を汚すことです。牢獄に入れられることはパウロにとって恥ではありません。パウロは何でも牢獄に入れられることを体験しました。そしてパウロが「切に願い、希望しています」のは、「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられる」ことです。

 

パウロはキリストの用いられる土の器です。だからキリストの誉れのために用いてくださいと、彼は祈り続けたでしょう。彼にとって生も死も問題ではありません。問題なのは彼を通してキリストが誰の目にも崇められることです。そのために福音宣教が前進することです。その前進を上諏訪湖畔教会は今日の主日礼拝を通して進めているのです。わたしたちがここでキリストを礼拝していることは誰の目にも明らかです。パウロはわたしたちの礼拝を喜ぶことでしょう。日本キリスト改革派教会が発行しています『リジョイス』の一月号の16日木曜日の聖書日課は上諏訪湖畔教会のために祈りました。全国の改革派教会の『リジョイス』の読者たちが上諏訪湖畔教会と代理牧師の村手敦教師のために祈ってくれました。そしてキリストの霊である聖霊がお助けくださり、今日もこうしてわたしたちは主日礼拝を守り、聖書の御言葉を聞く恵みにあずかることができました。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第一章12-20節の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちは小さな群れでありますが、今日も主日礼拝を通してキリストの福音に共にあずかっていることを、主に感謝します。

 

『リジョイス』を通して全国の改革派教会の兄弟姉妹たちがわたしたちの教会のために祈ってくださいました。本当に感謝です。またキリストの霊である聖霊のお助けによって、今日も主日礼拝を守ることができて感謝します。

 

どうかわたしたちも改革派教会の諸教会と伝道所の兄弟姉妹のために祈らせてください。今の苦難の時代に聖霊の助けをいただき、わたしたちもキリストの福音を世の人々に、わたしたちの家族に伝えることができるようにお導き下さい。

 

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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