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主日礼拝説教 (2020年1月5日、12日)

 

マルコによる福音書説教12              202015

 

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

 

                   マルコによる福音書第22328

 

 

 

  説教題:「人の子は安息日の主である」

 

今朝は、マルコによる福音書第22328節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

昨年、12月クリスマス月間で、マルコによる福音書の連続講解説教は1カ月中断しました。

 

 

 

新年より再開します。間が空きましたので、マルコによる福音書の2章を少し復習し、今朝の御言葉を学びましょう。

 

 

 

マルコによる福音書は2章に入り、主イエスとユダヤの宗教的権威者であるファリサイ派の人々との対立が深まって行く様子をはっきりと記しています。

 

 

 

ユダヤの宗教的権威者たちとは、ユダヤの民衆たちの宗教的指導者たちです。ユダヤ教の教派は、三グループありました。その一つのグループがファリサイ派の人々です。紀元前2世紀ごろ、ハスモン王朝時代にファリサイ派とサドカイ派が生まれました。そしてこの二つのグループはユダヤの民衆に大きな影響を与えていました。

 

 

 

律法学者は律法を専門に研究する学者です。彼らはモーセ律法を解釈し、ユダヤの民衆に教える教師でした。彼らはファリサイ派に属し、律法を守ることを厳しくユダヤの民衆に求めていました。

 

 

 

ファリサイ派の人々は、律法を守ること、特に安息日を守ることと断食と施しを行うこと、宗教的な清さを守ることを重んじていました。

 

 

 

ファリサイという名は、彼らが律法を守らない者から彼らを分離したので、その名で呼ばれました。彼らは、律法を守ることで自分たちが宗教的に敬虔で、熱心な人々であることを証ししました。

 

 

 

マルコによる福音書では、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、主イエスの論敵として登場してきます。それがマルコによる福音書の2章です。

 

 

 

マルコによる福音書は、2章でファリサイ派の人々、律法学者たちがどのように主イエスとの対立を深めて行き、ついには主イエスを殺そうと相談し、そして最後にはエルサレムで主イエスを十字架につけたかをはっきりと記しています。

 

 

 

既にわたしたちは、2112節で主イエスが中風の者を癒された事件において主イエスとファリサイ派の律法学者たちとが主イエスに人の罪を赦す権威があるかを争ったことを学びました。

 

 

 

主イエスが中風の者に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。それを律法学者たちは見ておりました。そして彼らは心の中で人の罪を赦す権威があるのは神のみだと思い、主イエスを非難しました。

 

 

 

主イエスは、彼らに御自身がその神であり、人の罪を赦す権威があることを、彼らの心を見抜くことで、中風の者を癒す奇跡を通して証しされました。

 

 

 

続いてマルコによる福音書は、21317節で主イエスが収税所にいた徴税人レビ、すなわち、後にマタイによる福音書を書いたマタイを弟子に召された事件を記しています。その事件を通して、主イエスとファリサイ派の律法学者たちとの対立は更に激化しました。

 

 

 

レビは主イエスと彼の弟子たちを食事に招待しました。その食事の席に大勢の徴税人たち、罪人と呼ばれている人々も招かれました。

 

 

 

ファリサイ派の律法学者たちはそれを目撃しました。主イエスと徴税人たちや罪人たちが一緒に食事をしている所を。彼らは主イエスが徴税人や罪人たちと交わっておられることを非難しました。それは、ファリサイ派の律法学者たちの目のは、宗教的に汚れた行為であったからです。だから、彼らは、主イエスの弟子たちに「あなたがたの先生はどうして徴税人や罪人たちと食事をしているのか」と告げ口をして、主イエスを間接的に非難しました。

 

 

 

主イエスは、彼らに言われました。「医者が必要なのは健康なものではなく病人である。同じようにわたしを必要とするのは義人ではなく罪人である。だから、わたしは罪人を招くためにこの世に来たのだ」と。

 

 

 

マルコによる福音書は、21822節において主イエスとファリサイ派の人々との対立がさらに深まったことを記しています。ファリサイ派の人々は律法を守ること、特に断食することをとても大切にしていました。

 

 

 

しかし、彼らは主イエスの弟子たちが断食しているところを見たことがありませんでした。そこで彼らは、主イエスに「あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか」と言って、主イエスに面と向かって非難しました。

 

 

 

ファリサイ派の人々と洗礼者ヨハネの弟子たちは熱心に断食をしました。断食と施しは、ユダヤ社会では敬虔な人々の信仰の証しでした。

 

 

 

だから、ファリサイ派の人々は、主イエスの弟子たちが断食しないので非難したのです。

 

 

 

主イエスは彼らに御答えになり、婚礼の客の話をされました。婚礼の客は花婿と一緒にいて断食しないと。同じように彼の弟子たちは今主イエスと共に居て断食しないと。しかし、主イエスが奪われる時には、彼らも断食すると。

 

 

 

マルコによる福音書は、その後で主イエスが継当てとぶどう酒を革袋に入れるお話をされ、新しいものと古いものを一緒にできないことを教えられたと記しています。

 

 

 

主イエスが求められる生活は新しいものであり、宗教的権威者たちが律法を守ろうとしている古い生活には合わないのです。

 

 

 

このようにマルコによる福音書は、主イエスとファリサイ派の人々との対立を通して、まず主イエスとは誰であるかを、わたしたち読者に教えようとしています。

 

 

 

主イエスは人の心を見抜かれる神であり、人の罪を赦す権威を持たれています。主イエスは、律法を良く守る義人ではなく、神の律法を守れない罪人を神の祝いの食事に招くためにこの世に来られました。主イエスは、神の律法を守り、行いによって神の御救にあずかろうとする古い生活を捨てて、主イエス御自身に寄り頼み、主イエスと共に神の祝福に生きる新しい生活を人々に求めるお方です。

 

 

 

さて、今朝と次回の御言葉で、マルコによる福音書は安息日律法を通して主イエスとファリサイ派の人々の対立がさらに深まったことを記しています。ついにはファリサイ派の人々は主イエスを殺す相談までし始めたと。

 

 

 

安息日とは、1週間の第七日目です。週の初めが日曜日ですから、土曜日です。ユダヤ教の安息日は土曜日です。

 

 

 

旧約聖書の出エジプト記は20章で有名なモーセの十戒を記しています。その第四戒が安息日律法です。天地万物を創造された神が六日間で人間と被造世界を創造され、七日目に休まれました。そしてその日を神は、御自身を敬う日として聖別されました。それが安息日です(出エジプト記20:811)

 

 

 

安息日には、労働を休まなければなりません。

 

 

 

主イエスの時代、安息日律法をファリサイ派の律法学者たちは厳密に解釈し、ユダヤ民衆に事細かく安息日にしてはいけない労働を定めました。そして彼らが定めたことを厳格に守る者が神の律法に忠実な者であり、敬虔な信者でありました。

 

 

 

ファリサイ派の律法学者の安息日律法の解釈によれば、安息日に麦の穂を摘んで食べることは、安息日に禁じられた収穫をするという労働でした。

 

 

 

マルコによる福音書は、今朝の御言葉で主イエスとファリサイ派の人々がある安息日に主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べた事件を通して対立を更に深めたことを記しています。

 

 

 

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」と言った。(2324)

 

 

 

安息日は、本来奴隷や家畜にも休息を与える日でした(申命記5:14)。バビロン捕囚後安息日は、神の民にとって神との契約のしるしとされました。神は民と契約を結ばれました。その時に神は彼らに「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と約束されました。安息日がその契約のしるしとされ、安息日を守らない者たちは神の律法を汚す者として、神の民から排除されたのです。

 

 

 

主イエスの弟子たちは空腹でした。ですから、安息日に麦畑を通り抜けた時に、麦の穂を摘んで食べ始めたのです。

 

 

 

ファリサイ派の人々は、主イエスと彼の弟子たちがすることを終始監視していました。当然主イエスの弟子たちが安息日に彼らが禁じていた労働、すなわち、麦の穂を摘んで食べ始めました。彼らは主イエスに「あなたの弟子たちは、どうして安息日に禁じられている労働をしているのか」と非難しました。

 

 

 

ファリサイ派の人々にとって、安息日に麦の穂を摘むことは、麦を収穫するという労働に相当しました。

 

 

 

主イエスは、彼らが自分たちの安息日律法の解釈によって、むしろ人の命を軽視していることを問題にされました。

 

 

 

イエスは言われた。『ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。』」(2526)

 

 

 

主イエスは、彼らの律法解釈よりも聖書の御言葉に権威を置かれました。律法学者たちも良く聖書の御言葉を用いた反対質問をしていました。

 

 

 

主イエスは、彼らに旧約聖書のサムエル記上2127節の聖書の御言葉を読んだことがないのかと質問されました。

 

 

 

ダビデは、サウル王に命を狙われ、逃亡していました。空腹のために途中、シロの神の幕屋を尋ねました。そしてノブの祭司アヒメレクから祭司以外に食べることが許されえいない供え物のパンを与えられ、彼と彼の家来たちは食べました。

 

 

 

神の家は神の箱が納められた幕屋のことです。ダビデの時代、神の幕屋はシロにありました。大祭司はアビアタルの父、アビメレクでした。

 

 

 

少し問題がありますが、今日はそれを論じるゆとりがありません。主イエスが何を問題にされたかだけ、お話しします。

 

 

 

ダビデは人の命のために、祭儀律法で祭司以外に食べることが禁じられた供え物のパンを食べました。供え物のパンは、安息日ごとに神の幕屋のテーブルに供えられ、祭司によって聖域である幕屋内で食べられました。12個の焼き立てのパンでした(レビ記24:59)

 

 

 

主イエスは、ファリサイ派の人々に空腹のダビデが祭司以外に食べられないパンを食べたという聖書の事例を挙げて、人間にとって命の必要性が祭儀律法に優先すると言われているのです。

 

 

 

同じように主イエスの弟子たちは空腹であり、彼らの命にとって、麦の穂は必要なものでした。だから、律法学者たちの安息日律法の解釈である「安息日に麦の穂を摘むことはできない」に優先するのだと。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者に人間の必要性が安息日を守ることに優先するのだと教えようとしているのではありません。

 

 

 

安息日を守ることは、神の御意志です。だから、主イエスはそれに服されています。主イエスは安息日ごとに会堂で礼拝を守られています。父なる神を敬い、何よりも神の御心を為されています。神が御自身のかたちに創造された人の命を尊び、人の作った戒めよりも優先されています。そうする自由な精神をお持ちです。

 

 

 

主イエスは自由な精神で、こう言われました。「『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。』(2728)

 

 

 

安息日は、創造主が人のために設けて下さったのです。休息の日であり、神を礼拝する日であり、永遠の休息を約束する日でもあります。人が心身ともに自由とされる日です。

 

 

 

ところが、ファリサイ派の人々は、安息日を守るために事細かな規則を作り、それをユダヤ民衆に厳しく守らせて、人を安息日律法の奴隷にしていたのです。神の民たちは、安息日を喜び楽しむことより守ることだけに心をすり減らしていたのです。

 

 

 

しかし、マルコによる福音書は、わたしたちに主イエス御自身が「人の子は安息日の主でもある」と宣言されたことを伝えています。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたちにユダヤ教安息日は廃されたと、主イエスの口を通して語っているのです。初代教会は、ユダヤ教安息日を放棄して、主イエス・キリストが復活された主の日に礼拝を始めました。

 

 

 

主イエス・キリスト御自身が日曜日を主の日として、キリスト教会に臨在され、ファリサイ派の律法学者たちの事細かな安息律法に代わってキリスト御自身が神の意志の現れとなられたのです。

 

 

 

今わたしたちは、キリスト教安息日に安息日に関する諸々の規則に縛られてはおりません。聖霊に導かれて、自由にこの教会の礼拝に集い、自由に今神の御言葉である説教を聴いています。

 

 

 

このようにキリストの霊である聖霊の導きは、わたしたちを宗教的規則で縛り付けることはしません。むしろ、この世の諸々の宗教的規則から、また諸々の諸霊の縛りからわたしたちを解放してくれます。

 

 

 

自由に喜んで主イエスは神であると、わたしたちの口を通して神賛美へと導くのです。それは、主イエス・キリストが十字架を通して、わたしたちを滅びの子から神の子へと移してくださったからです。永遠の命の源であられるからです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、新年が始まりました。今年もマルコによる福音書の学びをお導きください。

 

 

 

22328節の御言葉を、今朝は学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

神がわたしたち人間のために設けて下さった安息日を、心から楽しむことよりも、安息日を守らなければという思いに縛られて、本来の安息日を忘れていることに、今日は気づかせていただき感謝します。

 

 

 

人の命ために人に必要とされることが、人が作った規則に優先することを、主イエスはダビデを通して教えてくださいました。

 

 

 

また、神の御意志に従うことは、キリスト者として義務ですが、どのように従うかを、主イエスから教えられ、自由の精神で従うことを教えられ、感謝します。

 

 

 

この世は、いろんな規則で人を縛ろうとしますが、神の御支配は、人を規則で縛ることではなく、むしろそれから解放し、自由に主イエスを神と告白し、賛美させてくださることを感謝します。

 

 

 

今わたしたちが聖霊と御言葉を通して、ここに主イエスがわたしたちと共にいて、わたしたちを聖餐の恵みへとお招きくださることを感謝します。

 

 

 

今年一年、わたしたちが主の日ごとに自由に喜びをもって主を礼拝できるようにお導きください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

マルコによる福音書説教13              2020112

 

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 

                   マルコによる福音書第316

 

 

 

  説教題:「安息日に律法で許されていること」

 

今朝は、マルコによる福音書第316節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

今朝の御言葉は、マルコによる福音書第21節から36節まで主イエスとファリサイ派の人々との対立を細やかに描写してきましたが、その終わりです。

 

 

 

マルコによる福音書は、先週に続いて主イエスとファリサイ派の人々との安息日論争を記しています。

 

 

 

マルコによる福音書は、主イエスとファリサイ派の人々が論争した場所を記しています。会堂です。主イエスは、ユダヤ人の習慣に従い、安息日に会堂に入られました。

 

 

 

マルコによる福音書は、31節で、次のように記しています。「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。(1)

 

 

 

 マルコによる福音書は、「そこに片手の萎えた人がいた」と記し、ある安息日に会堂で主イエスが片手の萎えた男を癒す奇跡をなさったという事件が起こったことを伝えています。

 

 

 

会堂に集まった人々の中で、主イエスは片手が不自由な男を癒されました。しかし、マルコによる福音書が注目しているのは、イエスの奇跡の御業ではありません。安息日律法に関わることを問題にしているのです。

 

 

 

だからマルコによる福音書は、続いて2節で次のように記しています。「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。

 

 

 

この「人々」は、マルコによる福音書によると、6節で「ファリサイ派の人々は出て行き」と記していますファリサイ派の人々です。

 

 

 

ファリサイ派の人々が安息日に会堂にいて、主イエスが安息日律法を破られるかどうかを監視していたのです。彼らは主イエスが安息日に癒しの奇跡を行い、禁じられている労働をしたと、サンヘドリンに訴えようとにしていたのです。

 

 

 

サンヘドリンは、ユダヤ人の最高法廷で、最高行政機関でした。後にサンヘドリンは、主イエスが神を冒涜したと死刑を宣告し、主イエスをローマの法律で政治犯として死刑に処しました。

 

 

 

彼らが監視を続けている中で、主イエスは、片手の萎えた男に言われました。「「真ん中に立ちなさい」と」。主イエスは、監視している人々によく見えるように、会堂の中にいる人々の真ん中に立たせられました。

 

 

 

そして主イエスは会堂の中で監視している人々に向かって、4節でこう言われました。「「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

 

 

 

主イエスは、御自身を監視している人々に、何を主なる神は安息日に求めておられるのかをお示しになりました。

 

 

 

安息日に人々は、主イエスが癒しの奇跡を行われ、その労働によって安息日律法を破られたことをサンヘドリンに訴えようとしました。

 

 

 

しかし、主イエスの関心は、安息日に律法で許されていることでした。律法は神の御意志でもあります。

 

 

 

安息日に彼の弟子たちが麦の穂を積んで食べた時、ファリサイ派の人々は主イエスに「あなたの弟子たちは収穫の労働をしている」と非難しました。主イエスは、彼らにダビデが安息日に祭司以外食べられない献げ物のパンを食べ、彼の家来にも与えたことを話されました。そして安息日が人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではないと言われました。

 

 

 

安息日は、神の民が主なる神の御前に出る日です。そこで主なる神は、善をなしたか、悪をなしたか、命を救ったか、殺したかを問われるのです。

 

 

 

人々は、主イエスの質問に沈黙しました。しかし、安息日が人のためにあるのであれば、目の前の片手の不自由な男を癒すことは、善を行うことであり、片手が不自由で仕事ができず、生活に困窮する彼を救うことです。

 

 

 

主イエスは、自らの振る舞いによって安息日に主イエスが癒しの奇跡をなさるのを傍観し、主イエスを非難するだけで、目の前の助けが必要である彼らの隣人を見捨てている彼らを非難なさったのです。

 

 

 

神の御心は、いつでも善を行うこと、目の前に助けを必要とする者がいれば、彼を救うことです。安息日であっても、人々は自分が所有する家畜が川に溺れていれば助けるのです。助けても、彼らは安息日に労働をしたと非難しないでしょう。

 

 

 

しかし、今安息日に会堂に一人の体の不自由な男がいます。仕事がなく、物乞いで一日一日を生きています。彼に何もしないで、見過ごせば、神の御意志である律法を破ったことにならないでしょう。律法の全体は神を愛し、隣人を愛せよ、です。

 

 

 

主イエスは、安息日にこの男を癒されることを通して、彼らに問いかけられたのです。「今あなたがたの真ん中に立つこの男は、あなたがたの兄弟ではないか。兄弟は今片手が萎えて、生活に困窮しているではないか。無力の状態にあり、あなたがたの助けを必要としているではないか。しかし、あなたがたはこの男を無視して、わたしを殺すために、わたしが安息日にこの男に癒しの業をするかどうかを見守っている。一人の困窮する兄弟に何も行わないことは、悪であり、その兄弟を殺すことであり、神の御前で咎められることではないのか」。

 

 

 

その主イエスの問いかけに、「彼らは黙っていた」とマルコによる福音書は記しています。人々は、主イエスが彼らの悪意を見抜かれたと知って、沈黙しているのではありません。

 

 

 

主イエスは彼らの態度に、5節で次のようにリアクションされました。「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

 

 

 

主イエスもわたしたちと同じ人間です。わたしたち同様に怒りと悲しみの感情をお持ちです。主イエスは怒りをもって人々を見回され、彼らの「心のかたくなであることを」悲しまれました。

 

 

 

心がかたくなであるとは、感覚が鈍いということよりも、理解の欠如とか、愚かであることを意味しています。心が石のようになっている状態です。主イエスは、同じ神の民であり、彼らの兄弟である男を見ても、人々はその男の苦しみを理解しないことに、怒りを覚えられました。

 

 

 

また、安息日に主イエスがなさる癒しん奇跡の御業を通して、主なる神は人々に安息日の喜びを知らされているのに、人々は理解しないことに悲しみを覚えられました。

 

 

 

わたしたちも同じです。主の日ごとに礼拝で、福音が語られていても、わたしたちが心の頑なさであることによって今ここに主イエスの救いの喜びがあることを悟れなければ、主イエスの霊である聖霊を悲しませることになるのではありませんか。

 

 

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えたことは、こうです。安息日、すなわち、主の日こそ、片手の萎えた男のように、苦しみを持つ人が解放される日であるということです。

 

 

 

主イエスは、人の苦しみを軽重で量られません。わたしたちは、彼の片手の癒しは、今日でなくとも、明日でもよいのではないかと思わないでしょうか。わざわざ安息日に癒しの業をして、騒動を起こさなくても、明日の平日に主イエスが癒されたら、彼らは何も問題にしなかったのではないかと。

 

 

 

しかし、神は主イエスの安息日の癒しの奇跡を通して、安息日が苦しみを持つ人々の解放の日であり、喜びの日であることを告げられたのです。

 

 

 

ヨハネの黙示録1413節でヨハネは、次のように述べています。「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。』「『今から後、主に結ばれて死ぬ死人は幸いである』」と。“霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」。

 

 

 

永遠のこの安息のしるしとして、主イエスは、片手の萎えた男に「手を伸ばせ」と言われて、彼の手を癒され、彼を苦しみから解放されました。

 

 

 

マルコによる福音書は、6節で次のように記しています。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 

 

 

ファリサイ派の人々は、会堂から出て行き、ヘロデ派の人々と手を組み、主イエスをどのように殺そうかを相談しました。ヘロデ派の人々とはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの取り巻きの人々です。ユダヤ教の一派ではありません。政党のようなものでしょう。マルコによる福音書がわたしたちに伝えたいことは、宗教者たちが世俗の人々と手を組んで、主イエスを殺そうと相談をしたということです。こうして主イエスはエルサレムで十字架の刑によって死なれることになったということです。マルコによる福音書は、わたしたちに主イエスの受難と十字架の死によって、安息日はわたしたちが主イエスによって苦しみから解放される日になったことを伝えているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第316節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

安息日が人を苦しみから解放する日であることを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

わたしたちが心の頑なさであることで、今ここで共に礼拝する兄弟姉妹の苦しみを理解できず、主を悲しませているならば、お赦しください。

 

 

 

どうか、御霊よ、わたしたちが神の御意志に従い、善をなし、隣人の助けとなるようにお導きください。

 

 

 

どうかわたしたちが主の日ごとにキリストの福音を聞き、喜びの中に生かされていることを感謝させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2020 1月5日、12日
マルコによる福音書 第2章23~28節(1月5日)
          第3章1~6節(1月12日)
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