過去の各礼拝説教・ハイデルベルク信仰問答・ウェストミンスター大教理問答の学びは上記サブメニューからお進み下さい。

礼拝説教 (2018年7月8日)

 

ヨハネによる福音書説教80       主の201878

 

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時からこの弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 

      ヨハネによる福音書第192530

 

 

 

説教題:「すべてが終わった」

 

 

 

先週に引き続き、主イエスの十字架上での死について学びましょう。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、第1916節後半から30節まで、十字架に付けられた主イエスを物語ります。

 

 

 

 そこで記されたエピソードは、次の4つでした。十字架の上に「ユダヤ人、ナザレのイエス」という札が掲げられたこと、そして、ローマの兵士たちが主イエスの下着をくじで分け合ったこと、そして、婦人たちが主イエスの十字架のそばに立っていたこと、十字架の主イエスが母マリアを配慮され、愛する弟子に委ねられたことです。

 

 

 

 ゴルゴタの丘の上で、主エスが十字架のつけられた後、ヨハネによる福音書は、同時に二つの光景を目にしたのです。

 

 

 

 第一に死刑執行人であるローマの兵士たちは自分たちの報酬として、主イエスの上着と下着を分け合いました。そして、下着をくじで分け合うことで、旧約聖書の詩編2219節の御言葉が実現したことを、ヨハネによる福音書は見たのです。

 

 

 

 第二にヨハネによる福音書は、2527節で独自の記事を記しているのです。すなわち、主イエスの母マリア、彼女の姉妹、そして、クロパの妻マリアとマグダラのマリア、そして、主イエスの愛する弟子が主イエスの十字架のそばに立っていたことを記しています。

 

 

 

 そして、ヨハネによる福音書は、他の福音書に記されていないことを記しています。主イエスは、母マリアと愛する弟子に「見よ、これがあなたの子です。」「見よ、これがあなたの母です」と告げられました。それゆえ主イエスの愛する弟子は、主イエスの母マリアを自分の家に引き取り、自分の家族として世話をしました。

 

 

 

 先週榊原康夫牧師の説教を紹介しましたが、榊原先生は十字架の主イエスが母マリアを愛する弟子に託されたことから、次のように教会員の方々にお勧めをされています。

 

 

 

 「残念なことに、今日、東京のような都会に出てきております人々は、多くの場合に、スープのさめない距離の中に親をもっておりません。遥か彼方の田舎に親をもっていて、親孝行はしたいけれど、親がちっとも東京に出てくれないとか、いろんな事を考えさせられるのであります。が、自分が肉体をもって親孝行をするわけには行かないとしても、しかし母を最もよい魂の交わりの中に置く、母の周りに最も神とキリストの愛を受けている祝福された人を置くという配慮を、私たちもしなければならないのではないか、と思います。その土地の教会を紹介し、信頼できる教会の交わりを提供し、いろいろな形でキリストの愛を送り届けるという愛を、私たちは今もしなければならない、と思うのであります。」(『ヨハネ福音書講解下』)

 

 

 

 母親だけでありません。父親も子供も、孫も、遠くに離れている家族に、何とかしてキリストの愛を伝えたい、キリストの救いを伝えたいと思うのは、榊原先生だけでありません。切なるわたしたちキリスト者の思いでもあります。

 

 

 

 わたしは、東日本大震災の後、母を引き取り、この教会に住まわせていただき、本当に感謝しています。母は、教会に住むので、愛する家族の位牌を、寺に預け、諏訪に来てくれました。そして、礼拝に出てくれ、教会の交わりを通して、信仰を持ってくれました。

 

 

 

 わたしは、今朝のこの御言葉を読むごとに、十字架の主イエスが御自分の母親を優しく配慮され、愛する弟子に委ねられたことを感謝します。主イエスの母マリアへの配慮は、わたしの母への配慮でもあったと思うからです。

 

 

 

 さて、2830節は、十字架の主イエスの最後であります。

 

 

 

 28節で主イエスは、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われ」ました。ヨハネによる福音書は、続けて、「こうして、聖書の言葉が実現した」と記しています。

 

 

 

 新改訳聖書2017は、「それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」と訳しています。

 

 

 

 新共同訳聖書、岩波書店の聖書翻訳、フランシスコ会訳聖書も、「成し遂げられた」と「テテレスタイ」というギリシャ語を訳しています。

 

 

 

 昔の文語訳聖書は、「すべて終われり」と訳し、口語訳聖書は「すべてが終わった」と訳していました。

 

 

 

 どうして訳に違いが生じたのでしょう。ただ想像するに、ギリシャ語の「テテレスタイ」に元々二つの意味があるからです。「終わる」と「成し遂げる」という意味です。

 

 

 

 どうしてヨハネによる福音書は、二つの意味を持つこのギリシャ語を用いているのでしょうか。

 

 

 

 一つのヒントは、ヨハネによる福音書が18章より記している主イエスの受難物語にあります。受難物語はこの十字架の主イエスの死、主イエスが十字架上で「成し遂げた」と言われ、息を引き取られるこの終わりに向けて物語られています。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、1章で父なる神の独り子なる言が肉体を取り、この世に宿られたことを記しました。そして、人となられた主イエスは父なる神を世の人々に知らせられ、そして十字架の上で御自分が父なる神から遣わされた使命を完成されたのです。

 

 

 

 だから、主イエスの生涯の終わりには二つの意味がありました。

 

 

 

 第一の意味は、人となられた主イエスの生涯が終わったという意味です。わたしたち人間が死をもって生涯を終えるように、主イエスの生涯も十字架の上での死でもって終わりました。

 

 

 

 第二にギリシャ語の「テロス」は終わったという意味ですが、同時に「成し遂げた、完成した、目的を達した」という意味があるのです。

 

 

 

 わたしたちは、日常で「仕事を終える」と言いますね。「勉強を終える」、「一学期を終える」とも言いますね。その時、実際に仕事も勉強も学校の授業も終わります。しかし、同時にそれは仕事が成し遂げられ、勉強がその目的に達したということです。学校のカリキュラムの目的が成し遂げられたということです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に第一に主イエスは十字架の上でその生涯をすべて終えられたと伝えているのです。

 

 

 

 だから、主イエスは、十字架の上ですべてが終わったと言われて、息を引き取られたのです。

 

 

 

 しかし、ヨハネによる福音書は、十字架の上でその生涯を終えられた主イエスが神の御旨を成し遂げられたことを見たのです。

 

 

 

 すなわち、ヨハネによる福音書は十字架の上の主イエスの死による終わりによって、聖書の御言葉が成し遂げられ、実現したことを見出したのです。

 

 

 

 だから、ヨハネによる福音書は、主イエスが十字架の上で「渇く」と言われた姿に、旧約聖書の詩編2216節の「口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死に中に打ち捨てられる。」という御言葉が実現したのを見たのです。

 

 

 

 また、ヨハネによる福音書は、ある人が十字架の上の主イエスにヒソプに酸いぶどう酒を含ませた海綿を付けて、主イエスの口に運んだのを見て、詩編6922節の「人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします。」という御言葉が成し遂げられたのを見たのです。

 

 

 

 十字架の上で主イエスは、すべてを終えられました。父なる神が独り子を人としてこの世に遣わされ、神に敵対するこの世を御子の十字架の死を通して救うという神の御心は成し遂げられたのです。

 

 

 

 十字架の上で主イエスは、すべてを終えられました。その主イエスの終わりで、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という父なる神の御心が成し遂げられたのです。

 

 

 

 だから、ヨハネによる福音書は、「テテレスタイ」というギリシャ語を非常に強調して、主イエスの十字架の死によって永遠の父なる神の御旨は成し遂げられたのだと宣言しているのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、先週から2度にわたって主イエスの十字架の死を学びました。

 

 

 

ヨハネによる福音書がわたしたちに伝える主イエス・キリストの十字架の死に、わたしたちの目と心を注がせてください。

 

 

 

わたしたちも4人の婦人と主イエスの愛する弟子のように、十字架の主イエスのそばに立たせてください。

 

 

 

主イエスが御自分の母マリアを配慮されたように、わたしたちの家族を配慮し、教会の交わりへと導かせてください。

 

 

 

神の独り子がわたしたちと同じ肉体を取り、この世に来られ、十字架の上で生涯を終えられて、父なる神の御旨を成し遂げて下さり、わたしたちに罪の赦しと永遠の命の喜びをお与えくださり、感謝します。

 

 

 

どうか、十字架の主イエスを、わたしたちの救い主と信じ、この世にあって主に服従し、御国を目ざして歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

7月8日 礼拝説教
ヨハネによる福音書 第19章 25節~30節
180708_001_02.MP3
MP3 オーディオファイル 29.9 MB

音声で礼拝説教をお聞きいただけます。

「礼拝説教を聞く」をクリックしていただき、次に▷をクリックしていただくと、説教の録音をお聞きいただけます。(無料サイトのサービスを利用しているため教会と無関係な広告も表示されます)

ファイルをダウンロードされたい方は、「ダウンロード」をクリックしていただき、ファイルを開くを選択していただくと、ダウンロードが始まり、完了後自動的に再生されます。