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礼拝説教 (2021年1月10日)

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マルコによる福音書説教50              2021110

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる者が先になる。」

                 マルコによる福音書第101731

 

説教題:「金持ちと神の国」

 

マルコによる福音書は、第10章から後半に入ります。主イエスと12弟子たちのエルサレムへの旅を記し、その途上における出来事を記しています。

 

その出来事とは主イエスが12弟子たちを教育し、訓練されたのです。主イエスは、彼らに離婚と結婚について、子供と神の国について教えられました。

 

今朝は、金持ちと神の国について教えられています。

 

マルコによる福音書は、一つの場面を設定しています。17節前半です。「イエスが旅に出ようとされると」。主イエスと12弟子たちはエルサレムに向けて旅に出ました。

 

すると、「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。」一人の男が主イエスに走り寄って来て、跪きました。彼が主エスに対して跪いたのは、彼が主イエスを深く尊敬していたからです。彼は主イエスに尋ねたいことがありました。

 

前にもお話ししましたが、「尋ねた」という言葉は、価値判断を伴う議論を物語の文脈に組み込むための重要な文体的手段です。そのためにマルコによる福音書は、主イエスとある一人の男との会話を用いているのです。

 

この男の主イエスへの質問は、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」です。

 

この男は金持ちでした。しかし、彼が大切であると思っていたのは、永遠の命を受け継ぐことでありました。彼は、この世の終わりに神の審判があることを知っています。だから、彼は主イエスに何をすればわたしは神からの報酬として永遠の命を受けることができるでしょうかと尋ねたのです。

 

19節と20節の主イエスと彼の問答を読みますと、彼は子供の時から神の十戒を守っていました。神の律法を遵守してこれまで生きて来たのです。使徒パウロが「律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:6)と告白しているのを思い起こします。彼も律法の求めることを忠実に守り行なっていたのです。

 

しかし、彼はなお神の審判の前に立てば、神の報酬としての永遠の命、神の御国に入るに、何かが欠けているのではないかと思ったのでしょう。

 

主イエスは彼の望みに答えられました。

 

そこで「イエスは言われた。「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

 

善い」という形容詞は、第一義的に神の無比な善き在り方を示す言葉です。

 

昨日小会がありました。詩編1196572節の御言葉を読みました。詩人は68節で「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」と神賛美しています。

 

他の翻訳聖書を見ますと、「あなたは恵み深く、恵んでくださる方」と訳しているものもあります。新共同訳聖書も、この「善い」という形容詞を他の箇所では「恵み深く」と訳しています。詩編258節です。ダビデは、「主は恵み深く正しくいまし 罪人に道を示してくださいます。」と神賛美しています。

 

このように主なる神は恵み深く、慈しみ深いお方です。

 

旧約聖書は、主なる神を善きお方として証ししています。アブラハム、イサク、ヤコブの族長たちの歴史を通して、モーセの時代の出エジプトや荒れ野の生活、カナンの地の相続の歴史を通して、主なる神は慈しみと恵みに富むお方であることを証ししています。

 

主イエスは、彼を善いお方に導こうされました。ただ無条件にアブラハムを、モーセを、ダビデを神の国に入れられたお方に、彼を招こうとされました。

 

そこで主イエスは、神の律法の義について落ち度のない彼を御覧になり、慈しまれてこう言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。(21)

 

主イエスは、金持ちの男が自分には何か欠けていると思っていた物を具合的に指摘されました。

 

主イエスは、彼を非難されているのではありません。救おうとされているのです。主イエスは彼に愛のまなざしを向けられました。前回神の国と子供のお話で学びましたように、神の国と主イエスの愛は同じです。子供たちは主イエスの愛の眼差しに身を委ね、主イエスの腕に抱かれて、主イエスの祝福を受け、神の国に入れられました。

 

この金持ちの青年も主イエスの愛の眼差しの中に入れられました。彼は主イエスの愛の中にいました。彼は自分が願っていた神の国の中にいたのです。

 

だから、主イエスは彼の願いを叶えられました。彼がすべきことは、一つです。それは、感謝の応答です。

 

主イエスは彼を弟子に招かれました。その召しに応える道は、一つのです。彼は今すぐに家に帰り、彼の持ち物すべてを売り払い、それを貧しい者たちに施して、エルサレムへと旅されている主イエスに従うことです。

 

主イエスと金持ちの青年の会話を通して、マルコによる福音書はわたしたちに本当に価値あるものが何かを教えているのです。「天に富を積むこと」です。

 

それは具体的に言うと、主イエスの弟子となり、善いお方の恵みの中に生きることです。「天に富を積むこと」は、わたしたちの良き行いを述べているのではありません。善いお方の永続する恵みと慈しみを言っているのです。

 

しかし、主イエスの愛の御言葉は、金持ちの青年の心に届きません。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

彼は、主イエスとの会話を通して、本当に価値あるものを選ぶ決断ができませんでした。この世で多くの財産を持っているという、金持ちの価値観を捨てることができませんでした。この世で生きているという命を捨てて、永遠の命に、神の御国に主イエスと共に生きるということができませんでした。

 

金持ちは、主イエスが招かれた善いお方の無限の恵みを受ける自由よりも、この世で多くの財産を持つ方を選び、悲しみながら主イエスの元から去りました。

 

そこで主イエスは、12弟子たちを見回されて言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。

 

この金持ちのように、この世の多くの富を持つ者は、この世における富の力、お金の力に囚われて、主イエスの愛を自由に受けることができません。だから、主イエスは、財産ある者が神の国に入るのは難しいと言われるのです。

 

しかし、主イエスの12弟子たちは、主イエスのお言葉が理解できません。なぜなら、ユダヤ人たちは金持ちは神の恵みを豊かに受けている者と考えていたからです。確かにアブラハム、イサク、ヤコブという族長たちは、神の恵みによってこの世で豊かな財産を得ました。だから、弟子たちは金持ちは神の恵みを豊かな受けている幸いな人と思っており、彼らは神の国に入れる者だと思っていたでしょう。

 

ところが主イエスは違います。金持ちのように神と人の間の障害物となるのです。

 

更に主イエスは12弟子たちに語り続けられます。「子たちよ、神の国に入るのは、何と難しいことか。」主イエスは、弟子たちに神の国に入ることの困難さを述べておられます。

 

金持ちのように、人が神の国に入ろうとすることは不可能なのです。それを、主イエスはわたしたちに伝えるために、このようなたとえを語られます。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」主イエスは、金持ちのように人間が自分たちの思いや熱心さで、神の国に入ろうとすることは不可能であると伝えるために。誇張したたとえを話されたのです。

 

だから。12弟子たちの反応は絶望的であります。誰も救われないと、主イエスは言われたと受け止めました。

 

この光景を、わたしたちも体験しているのではありませんか。金持ちのように、あるいは12弟子たちのように、わたしたちも自分たちの熱心さで、一生懸命奉仕し、献金し、善いキリスト者になろうと思います。そこで主イエスがわたしたちに「人が神の国に入ろうとすることは難しいんだよ」と言われると、がっかりし、絶望しないでしょうか。

 

しかし、絶望した12弟子たちを、主イエスが愛の眼差しで見つめておられます。絶望したわたしたちを救うのは、この主イエスの愛の眼差しです。

 

そして、主イエスは、善いお方の愛と恵みを差し出してくださるのです。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。

 

人には神の国に入ることも、救いも不可能です。しかし、善いお方である神は、恵み深く、人に恵みをお与えくださるお方です。主イエス・キリストの十字架を通して、神はわたしたちの罪を赦し、御自身と和解させ、わたしたちを神の子とし、神の御国を相続させることがおできになるのです。

 

わたしたちは、ただ神を善いお方と信じるだけでよいのです。

 

ところが、またしてもペトロが、主イエスに自分のことを誇るのです。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。(28)。ペトロは言いました。「わたしたちは、金持ちと違う。見てください。わたしたちは、すべての持ち物を捨てて、あなたに従っています」。

 

ペトロに答えて、主イエスは次のように言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる者が先になる。(2931)

 

わたしのためまた福音のために」は、主イエスのエルサレムへの旅を前提にしています。神の子主イエス・キリストの福音です。主イエスは、十字架の道を歩まれました。その主イエスの御後に従い続けることが主イエスの弟子の道であり、「わたしのためまた福音のために」であります。それは殉教への道であります。

 

十字架の主イエスに従い、この世においてすべてを捨てる者は、主イエスが復活されたように復活し、神の御国においてすべてのものを得るのです。

 

そして主イエスは、今の世においても弟子たちや主イエスに従った女性たちのように、主イエスに従って永遠の命を得る者たちが、神の御国に入れられている者たちがたくさんいると言われています。

 

わたしたちもその一人に加ええいただけることを共に感謝しようではありませんか。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第101731節の御言葉を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝は金持ちと神の国について学べましたことを感謝します。

 

聖書の神が善いお方であり、主イエス・キリストの十字架を通して、わたしたちに恵み深く、豊かな恵みをお与えくださるお方であることを学ぶことができて感謝します。。

 

どうか、わたしたちが主イエスの愛の眼差しの中にあることを心に留めさせてください。

 

わたしたちは、罪人であり、滅ぶべきものです。暗闇の中に絶望したものです。しかし、善いお方は、主イエスを通してわたしたちを愛の光に照らされ、恵みのうちに御国へと導いてくださいます。

 

どうか金持ちのようにこの世に心を向けるのではなく、主イエスの愛の眼差しに、わたしたちの信仰の目を向けさせてください。わたしたちを主エスの愛の中におらせてください。この教会の礼拝を通して御国に至る希望に生かしてください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

1月3日
マルコによる福音書 10章 13~16節
210103_001_02.MP3
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