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礼拝説教 (2020年9月27日)

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詩編説教118               主の2020年9月27

恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。感謝せよ、主に。まことに

イスラエルは言え。 慈しみはとこしえに。永遠に彼の慈しみは。さあイスラ

アロンの家は言え。 慈しみはとこしえに。エルは言うように、まことに永遠

主を畏れる人は言え。  慈しみはとこしえに。に彼の慈しみは。さあアロン

家は言うように、まことに永遠に彼の慈しみは。

苦難のはざまから主を呼び求めると さあ言うように、主を畏れる者は、まこと

主は答えてわたしを解き放たれた。に永遠に彼の慈しみは。苦難の中からわた

主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。しは主を呼んだ。わたしに答えた、

人間がわたしに何をなしえよう。広い所で主は。主がわたしに、わたしは恐れ

主はわたしの味方、助けとなって ない。何を行うわたしに、人は。主がわた

わたしを憎む者らを支配させてくださる。しに、わたしを助ける者たちの中に

人間に頼らず、主を避けどころとしよう。だからわたしは、わたしは見るわた

しを憎む者たちを。良い、主の中に

国々はこぞってわたしを包囲するが 逃げ込むことは、人に頼るよりも。すべ

主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。ての国々はわたしを囲んだ。主

彼らは幾重にも包囲するが の名によって、まことにわたしは彼らを断ち切る。

主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。彼らはわたしを囲んだ。またわ

蜂のようにわたしを包囲するが たしを囲んだ。主の名によって、まことに

茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。わたしは彼らを断ち切る。彼らはわたし

主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。を囲んだ、蜂のように。揺らめ

いた茨の火のように。主の名によって、

激しく攻められて倒れそうになったわたしを まことにわたしは彼らを断ち切

主は助けてくださった。る。お前はわたしを押しに押した、わたしを倒すため

主はわたしの砦、わたしの歌。に。しかし、主はわたしを助けた。わたしの力

主はわたしの救いとなってくださった。と賛美、主は。そして彼はわたしのた

御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。めに救いとなった。歓喜と救

主の右の手は御力を示す。いの声が義人たちの天幕の中に。主の御手は御力を

主の右の手は高く上がり 為す。主の右手は高く上がる。

主の右の手は御力を示す。主の右手は御力を為す。

 

死ぬことなく、生き長らえて わたしは死なない。まことにわたしは生きる。

主の御業を語り伝えよう。そして主の御業を物語ろう。

主はわたしを厳しく懲らしめられたが わたしを懲らしめに懲らしめた主は。

死に渡すことはなさらなかった。しかし、死に、彼はわたしを渡さなかった。

 

正義の城門を開け 開けよ、わたしのために義の門を。

わたしは入って主に感謝しよう。わたしは入ろう、それらの中に。感謝しよう、

これは主の城門 主に。これは主の門。

主に従う人々はここを入る。義人たちはその中に入る。

わたしはあなたに感謝をささげる わたしはあなたに感謝する。

あなたは答え、救いを与えてくださった。まことにあなたはわたしに答え、

わたしのために救いになられた。

家を建てる者の退けた石が 建てる者たちが蔑んだ石が

隅の親石となった。 隅の頭になった。

これは主の御業 主からである、それは。

わたしたちの目には驚くべきこと。それは、わたしたちの目には不思議。

今日こそ主の御業の日。これは今日、主が行なった。

今日を喜び祝い、喜び踊ろう。わたしたちは喜び踊ろう、そして喜ぼう、主に

どうか主よ、わたしたちに救いを。あって。ああ主よ、どうか救い給え。

どうか主よ、わたしたちに栄えを。ああ主よ、どうか繁栄させ給え。

 

祝福あれ、主の御名によって来る人に。祝福されるように、主の御名によって

わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。入る者は。わたしたちは祝福

主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。するあなたたちを、主の家から。

祭壇の角のところまで 主は神、そして彼は照らした、わたしたちを。縛れ、

祭りのいけにえを綱でひいて行け。祭のいけにえを、綱で。祭壇の角まで。

あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。あなたはわたしの神である。

わたしの神よ、あなたをあがめる。わたしはあなたに感謝する。わたしの神、わたしはあなたをあがめる。

恵み深い主に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。感謝せよ、主に。なぜなら良い、まことに永遠に、彼の慈しみは。

                   詩編第118129

 

説教題:「恵み深い主に感謝せよ」

 

今朝は、詩編第118129節の御言葉を学びましょう。

 

イングリシュバイブルは、1節と29節を、次のように英訳しています。「主に感謝することは善いことです。なぜかというと、彼の愛は永遠に続くから」。

 

1921節で詩人が歌っているように、主に従う神の民たちがエルサレム神殿で主なる神に感謝することは、善いことである、と詩人は賛美します。その理由は、主の慈しみが永遠に続くからです。

 

詩編118編は、神の民が過越の祭の時に賛美した詩編113編からのハレルヤ詩編の最後のものであります。

 

この詩編は礼拝用の詩編として用いられました。とても洗練された、整えられたものです。1節と29節の御言葉がこの詩編全体を取り囲み、主なる神への感謝の賛美が歌われています。

 

詩人は、神の民に呼びかけています。エルサレム神殿で主なる神に感謝することは、善いことであると。高らかに呼びかけています。その理由は、神殿の礼拝こそが神の慈しみ、すなわち、神の愛がまことに永遠に続くからです。

 

詩人が主なる神に「感謝せよ」と呼びかけるのは、2節の神の民、イスラエル、3節のアロンの家である神殿の祭司たち、そして4節の「主を畏れる人」である異邦人たちです。

 

神殿で礼拝を司る祭司が「恵み深い主に感謝せよ」と神殿に集まりました神の民全体に呼びかけます。すると、神の民全体、すなわち、会衆が「慈しみはとこしえに」と答えるのです。

 

これは、礼拝の交読文です。14節と29節の前半を祭司が読み、後半を会衆が読んだのでしょう。

 

紀元前515年にゼルバベルと大祭司ヨシュアの指導の下、バビロン捕囚から帰還した神の民たちは、かつてのソロモン王が建立したエルサレム神殿のところに第二神殿を建て上げました。

 

それから60年後の紀元前445年に総督ネヘミヤがエルサレムに帰還し、エルサレムの都の城壁を修復しました。

 

おそらくこの詩編は、バビロン捕囚からの解放と神殿とエルサレムの都の再建という背景の中で作られたと思います。

 

この詩編は、二つの内容から成り立っています。518節と1928節です。

 

518節で、主なる神に救われた「わたし」、すまわち、神の民イスラエルの体験を、詩人が報告しています。

 

1928節で、祭司と会衆の代表者が交唱しています。主なる神が神の民を救われたという彼らの救いの経験に基づいて、神の民たちの主なる神への感謝を、礼拝という形でなしています。

 

5節の「苦難のはざまから主を呼び求めると 主は答えてわたしを解き放たれた。」という御言葉は、出エジプト記の22325節の御言葉が思い起こされます。詩人は、出エジプトの事件を思い起こし、讃美しています。

 

詩人の先祖たちは、エジプトで奴隷生活を体験しました。彼らは、重い労働のゆえに主なる神に向けて呻き、叫びました。主なる神は彼らの助け求める声を聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされました。そして主なる神は彼らのところに訪れられ、モーセを通して彼らを奴隷状態から解放されました。

 

詩人は、自分たちのバビロン捕囚からの解放を、出エジプトの先祖たちの信仰体験に重ねているのです。

 

詩人は、バビロンでの苦難の中から彼らが助けを叫び求めると、主なる神が答えてくださったと言っています。

 

主なる神は、ペルシャ帝国のクロス王を起こして、神の民イスラエルをバビロンから解放されました(紀元前539)

 

出エジプトした神の民たちが主なる神とモーセを信頼したように(出エジプト記14:31)6節で詩人は主なる神を信頼すると、告白します。

 

主なる神は出エジプトした神の民の味方になられました。だから、エジプトの王もエジプトの軍隊も何もできませんでした。彼らは、紅海の海に沈み滅んでしまいました(出エジプト記15:121)

 

同じように主なる神は、バビロンからエルサレムに帰還した神の民イスラエルの味方です。だから、周りの諸国の敵たちが神の民に何もできません。

 

7節後半の「わたしを憎む者らを支配させてくださる」は、意訳です。文字通りには、「わたしは敵を見る」です。イングリシュバイブルは、7節を次のように英訳しています。「主はわたしの味方、わたしの助け手、そしてわたしはわたしの敵たちを満足して眺めるだろう」。

 

だから、89節で詩人は、主なる神の救いに対する神の民の応答として、主を頼り、主を避けどころとし、人や王を頼らないと言うのです。

 

詩人、すなわち、神の民たちは、出エジプトとバビロン捕囚からの主なる神の救いという体験を通して、次のことを学びました。主なる神を信頼することこそが、この世のあらゆる困難や敵に打ち勝つ勝利であると。

 

1016節で詩人は、再び苦難からの主なる神の救いを報告しています。そして続いて詩人は神の民たちの喜びの声を、15節で伝えています。

 

この事件は、南ユダ王国のヒゼキヤ王の時代に起こったことです(列王記下18:1337)。ヒゼキヤ王がアッシリア帝国に反旗を翻し、アッシリア帝国がエルサレムの都を包囲しました。ヒゼキヤ王は、主なる神のみに信頼を寄せました。

 

アッシリア帝国の軍隊が蜂のように大勢で群れをなし、エルサレムの都を攻撃に攻撃を加えました。主なる神はヒゼキヤ王と神の民たちを助けられました。主なる神はアッシリア帝国の軍隊を一夜にして185000人打たれました。

 

救われた神の民たちは歓喜しました。このように主なる神は、常に神の民たちに御自身の右の手の御力を、神御自身の御力をお示しになりました。

 

同様に主なる神は、バビロニア帝国のネブカドネツアル王を道具に用いられ、神殿と都を破壊し、多くの神の民たちの命を奪われました。しかし、主なる神は、神の民を憐れみ、残りの者を取って置かれました。神の民を懲らしめに懲らしめられましたが、滅ぼし尽くされませんでした。主なる神は、バビロン捕囚で神の民を残して置かれました。

 

詩人は、神の民が苦難を通して神の慈しみを知りました。17節で詩人は、次のことの意味を理解しました。神の民たちがバビロンの地で死ぬことなく、生き長らえて、再びエルサレムの都に帰還できたことです。主なる神の慈しみに裏打ちされた神の民への刑罰であったと。

 

だから、神の民たちと詩人は生きなければなりません。どんなにこの世が過酷で苦難に満ちていようと、生き長らえなくてはなりません。どんなに主なる神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約に忠実で、神の民をまことに永遠に慈しまれていることを、後の世代に伝えるためです。その中心がエルサレム神殿での礼拝なのです。そこで主なる神に感謝することなのです。

 

そこで詩人は、1925節で神の民の代表者の言葉を語っています。

 

神の民の代表者が19節で「正義の城門を開け わたしは入って主に感謝しよう」と、おそらく神殿の祭司に呼びかけているのでしょう。

 

「正義」とは、義、すなわち、主なる神の救いです。主なる神の救いの門を開けよと、神の民の代表者が祭司に呼びかけています。

 

わたし(神の民イスラエル)は神殿の義の門から内庭、すなわち、神の民が主なる神を礼拝するところに入って、主なる神に感謝の献げ物を供えて、礼拝しようとしているのです。

 

主イエスが次のように言われていますね。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす人は少ない。」(マタイ7:1314)

 

どのように主イエスの御言葉とこの詩人の言葉が結びつくのでしょうか。命に至る門は一つしかありません。

 

それは狭い門です。主に従う人しか入れないからです。

 

よくいろんな宗教があることを、山の登山にたとえる人がいます。登リ口は違っていても、山の頂上は一つだというたとえで、宗教は違っていても、行き着く神さまは同じだと言うのです。

 

ところが、聖書と主イエスは、永遠の命に至る門、すなわち、入口は一つであり、門を間違えれば、命に至らず、滅びに至ると言います。

 

なぜなら、聖書の神は隠れた神ではありません。神は御自身を主なる神として、神の民に顕されました。そして、わたしたちには、イエス・キリストとして顕されました。

 

だから、詩人は、永遠の命に至る門は、主に従う人が入るエルサレム神殿の義の門だと言います。主なる神に感謝し、主なる神を崇めて礼拝する門に入る者だけが、永遠の神の愛に、神の命に満たされるのです。そこでこそ神に救われた喜びがあるのです。

 

主イエスの言われる「狭き門」も、主イエスに従う人が入る門です。教会の門に入り、主イエスを礼拝し、主イエスに救われたことを感謝し、主イエスのみがわたしの救い主だと公に告白するのです。

 

だから、詩人が17節で「主の御業を語り伝えよう」と歌っているのは、具体的にいうと、旧約の神の民たちはエルサレム神殿で礼拝することであり、新約のキリスト者たちは教会で毎週日曜日に礼拝することです。

 

ですから、詩人は、彼自身が神の民の代表として、エルサレム神殿の義の門を通り、神殿の中庭で主なる神に感謝の犠牲を献げて、主なる神を崇めて、礼拝することこそ救いであると言っているのです。

 

さて、神の民の代表は、21節で主なる神の救いに対して感謝を意思表示しています。そして2225節で彼は主なる神の御救いの御業を報告しています。

 

有名な隅の親石のたとえです。エルサレム神殿の礎です。土台のことです。神殿を建築する時に、建てる者たちがこの石は不要であると言って、棄てたのです。ところがその石は神殿の門を支える要石だったのです。

 

ここでは、詩人は、一度主なる神に捨てられた神の民イスラエルのことをたとえているのです。今や神の民イスラエルは第二神殿を中心とする共同体の礎となっているのです。

 

そして、主イエスが、この御言葉を御自身に当てはめておられます。マルコによる福音書12章で主イエスは、神殿の境内で祭司長や律法学者、長老たちにぶどう園と農夫のたとえ話をされました。ぶどう畑で働く農夫たちが主人の遣わした僕たちを殺し、主人の跡継ぎの子どもも殺して、ぶどう園を奪いました。そして主イエスは、彼らに主人は農夫たちをどうするかと尋ねられました。そして御自分でお答えになり、主人は農夫たちを殺して、別の農夫たちにぶどう園を任せるだろうと言われました。そして、主イエスは彼らに今朝の詩編118編の2223節の御言葉を読んだことがないのかと尋ねられました。

 

主イエス・キリストは捨てられ、ゴルゴタの丘の上で十字架刑によって死なれ、墓に葬られました。ところが、主なる神は主イエス・キリストを墓の中から復活させられ、キリスト教会の礎とされました。

 

キリストとそのキリストの福音が教会の土台であり、預言者と使徒たちも教会の土台であると言われます。

 

旧約の時代では、神の民イスラエルが捨てられ、バビロンへと捕囚されました。諸国の民は彼らを嘲りました。しかし、主なる神は、彼らを再びエルサレムに帰還させられました。そして彼らによってエルサレム神殿を再建させ、エルサレムの都の城壁を修復させて、ユダヤ教共同体の礎とされました。

 

神の民のバビロン捕囚からの解放と神殿の再建、エルサレムの城壁の修理とユダヤ教を中心とする神の民の共同体の形成は、まさに主なる神の驚くべき御業でありました。

 

誰が思ったでしょうか。バビロニア帝国に徹底的に神殿と都を破壊され、神の民がバビロンに捕囚されたのに、彼らが再びエルサレムに帰還し、神殿を再建し、都の城壁を修理し、主なる神を礼拝する共同体を再建するとは。

 

しかし、主なる神の救いの御業によって、世界の諸国民がエルサレム神殿の礼拝を通して命に至る礎が据えられたのです。

 

こうして主イエス・キリストが来られるまで、エルサレム神殿の礼拝を通して、あるいはシナゴグの会堂を通して主なる神を信じる人々が主なる神に感謝し、主なる神を崇めて、礼拝することを通して、主なる神の救いと命が与えられたのです。

 

そして、神の御国の福音がユダヤ民族からキリスト教会に移されます。

 

その事件が主イエス・キリストの十字架の死と復活であります。

 

主イエス・キリストは、ユダヤ人たちに見捨てられ、ゴルゴタの十字架刑で殺され、墓に葬られました。しかし、主なる神は彼を三日目に復活させられました。主イエス・キリストは死に勝利し、復活し、キリスト教会の礎となられました。

 

主なる神は、まことに信じられない奇跡をなさいます。本当にわたしたちの目には信じられない、驚くべきことです。

 

詩人にとって、神の民イスラエルにとって、土曜日の安息日は「今日こそ主の御業の日」です。主なる神は、諸国から神の民をエルサレムの神殿に招かれます。そして主に従う人々は神殿で主なる神に感謝をし、動物犠牲を献げ、主なる神を礼拝します。それを通して、主に従う人々は、まさに自分たちが主なる神に救われた喜びを、主なる神の命の恵みに生きている喜びを賛美したのです。

 

同じことがわたしたちのこの教会の礼拝において起こっているのです。主なる神、わたしたちの父なる神は、主イエスを死者の中から復活させ、わたしたちの主イエス・キリストとしてくださいました。

 

教会は、毎週の日曜日に礼拝をし、主イエス・キリストとその福音を人々に伝えております。

 

誰がキリストの十字架の死がわたしの罪のためであったと信じたでしょうか。誰が主イエス・キリストはわたしたちの永遠の命の保証として復活させられたと信じたでしょうか。

 

この教会で今主イエス・キリストを礼拝していること、主イエス・キリストの福音を聞いていること、そしてわたしたちが主イエス・キリストの救いを信じて、主イエスを救い主として信頼し、今ここで主イエス・キリストに感謝し、主イエスを・キリストをわたしたちの神と崇めていること、何よりもわたしたち罪人が今神の御前で義人とされていること、その喜びにわたしたちの心が躍ることは、まさに神の奇跡の御業であるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編118編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

わたしたちの思いを超えた主なる神の救いの御業を今朝もこの礼拝で見聞きさせていただき、心から感謝します。

 

今朝で9月の最後の主日礼拝となりました。コロナウイルスと夏の猛暑に守られ、今朝の詩編の御言葉を通して、主なる神の永遠の慈しみを見聞きさせていただき、うれしく思います。

 

小さな群れですが、この上諏訪湖畔教会を、主なる神がお守り支えてくださりありがとうございます。

 

この教会がある限り、ここで主イエスに感謝し、礼拝する者がいる限り、そしてこの教会で主イエス・キリストとその福音が語り続けられる限り、今ここに主なる神の御救と永遠の慈しみがあることを、今朝の御言葉によって確信させてください。

 

礼拝できることが主なる神の奇跡です。キリストの十字架によってわたしたちの罪が赦され、キリストの復活によってわたしたちに永遠の命が保証されていることを、この礼拝で確信させられる度に、どうか、わたしたちが救われたことだけではなく、もっと多くの方々が主イエス・キリストの御救いに与れるように祈り、救われた喜びを、多くの人々に伝えるために、わたしたちに勇気をください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

9月27日
詩編 第118編 1~29節
200927_001_02.MP3
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