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礼拝説教 (2018年9月16日)

 

ヨハネによる福音書説教86       主の2018916

 

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたたいは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 

 

 

さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 

 

 

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

      ヨハネによる福音書第202429

 

 

 

説教題:「見ないで信じる者は幸い」

 

今朝は、ヨハネによる福音書第202429節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

ヨハネによる福音書20章は、主エスを葬った墓が空であったこと、復活の主イエスが週の初めの日、日曜日の朝にマグダラのマリアに現れ、その夕に10人の彼の弟子たちに現れたことを記しています。

 

 

 

前回と今朝は、復活の主イエスが彼の弟子たちのところにやって来られて、弟子たちの隠れ家に現れたことを記しています。

 

 

 

主イエスの弟子たちはエルサレムのある家に隠れて集まっていました。彼らは、ユダヤ人たちの迫害を恐れて、家の戸口に鍵をかけていました。

 

 

 

すると、復活の主イエスが突然彼らの閉塞状況を打ち破られて、彼らの真ん中に現れて、彼らに言われました。2度も「あなたがたに平和があるように」と。

 

 

 

その時に復活の主イエスは彼の弟子たちに手とわき腹とをお見せになりました。彼の弟子たちは復活の主イエスに出会い、大変喜びました。

 

 

 

そして、復活の主イエスは、彼の弟子たちを祝福し、御自身の復活の体を見せて、彼らに御自分であることを示され、彼らを主イエスの宣教の業に遣わされました。主イエスは、彼の弟子たちを御自身の宣教の業に遣わすために、彼らに聖霊を授けられました。

 

 

 

こうして、復活の主イエスの聖霊を授けられた彼の弟子たちは、復活の主イエスから「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という権能を与えられて、主イエスの宣教の御業に遣わされるのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこれがこの世に宣教する教会とキリスト者の力であり、持っている祝福であると伝えているのです。

 

 

 

だから、使徒言行録の3章で使徒ペトロは、「美しい門」と呼ばれるエルサレム神殿の門に座っていた、生まれながらに足の不自由な者に言いました。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。彼は、生まれながらに足の不自由な者に、彼が復活の主イエスから聖霊をいただいて持っている力を、主イエスの聖名による罪の赦しを与えたのです。すると、「美しい門」で巡礼者たちから施しを乞うていた、生まれながら足の不自由な者は罪を赦され、そのしるしとして立ち上がり、歩き出したのです(使徒言行録3:110)

 

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエスの御名による罪の赦しを、復活の主イエスが彼の弟子たちを御自身の宣教に遣わすことに結び付けているのです。

 

 

 

さて、今朝の御言葉に目を止めてください。わたしが不思議に思いますのは、主イエスの10人の弟子たちが一週間過ぎてもエルサレムの町の彼らの隠れ家に閉じこもっていることです。

 

 

 

彼らは、復活の主イエスに出会って大変喜びました。彼らは、復活の主イエスを見ただけでなく、復活の主イエスから聖霊を授けられました。そして、復活の主イエスは彼らを御自身の宣教の御業に遣わされ、彼らにだれの不信仰の罪でも赦し、または赦さない力を与えられました。それないのに彼らは行動しないで、隠れ家に閉じこもっているのです。

 

 

 

これは、ヨハネによる福音書が読者であった初代教会のキリスト者たちの閉塞状況を、つまり、主イエスの弟子たちと同様にユダヤ人たちの迫害を恐れ、ローマ帝国の迫害を恐れて、身を隠している初代教会のキリスト者たちを暗示しているのではないでしょうか。

 

 

 

すなわち、いつの時代も教会は伝道の不振に直面するのです。そして、その原因はキリスト者たちが主イエスの弟子たちのように不信仰であるということです。それゆえこの世の迫害を恐れ、内に隠れ、外へと、主イエスの宣教の御業を担おうとしないのです。

 

 

 

だから、その教会とキリスト者たちの不信仰と閉塞状況を打破するために、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に今朝の御言葉を伝えているのです。

 

 

 

24節に「十二人の一人で」の「十二人」は、主イエスの12弟子で、後のキリスト教会の礎となる12使徒のことです。

 

 

 

その一人に「ディディモ」と呼ばれるトマスがいました。「ディディモ」という彼の名は双子という意味です。トマスは双子の兄弟の一人だったのでしょう。彼は勇敢な人でしたね。この福音書の1116節の御言葉を思い起こしてください。ラザロが死に、主イエスは彼の12弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。12弟子たちは主イエスにユダヤ人たちに迫害されますと言いました。主イエスは彼らに昼歩けば大丈夫と言われました。そして、主イエスは死んだラザロのところは行こうとされました。その時に「ディディモ」と呼ばれるトマスは、勇ましく主イエスと一緒に死のうと言いました。

 

 

 

トマスは、また疑い深いという性格を持っていました。神の律法には、3人の証言があれば、それは真実であると定められています。だから、復活の主イエスを、主イエスの10人の弟子たちが見たと証言したのですから、トマスは彼の仲間たちの証言を真実と受け止めるべきでした。

 

 

 

ところが、トマスは疑い深く不信仰でした。彼は仲間たちが「わたしたちは復活されたイエスを見た」と証言したことを信じませんでした。

 

 

 

それどころか、不信仰で疑い深い彼は言い張りました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。

 

 

 

何と心かたくなでしょうか。ヨハネによる福音書は、読者たちにこのトマスはあなただと伝えているのです。

 

 

 

あなたもトマスように、「わたしの目で主イエスの手の釘跡を見、わたしの手で主イエスのわき腹の傷跡を確かめない限り、信じない」と言っていると。

 

 

 

八日の後」とは一週間後の日曜日のことです。その夕に主イエスの弟子たちが彼らの隠れ家に集まっており、トマスも同席していました。そこに復活の主イエスが突然現れ、弟子たちに「平和があるように」に祝福されました。

 

 

 

そして復活の主イエスはトマスに御自身の手の傷跡、わき腹の傷跡を見せて、彼の目と手で確かめるようにと促されました。そして、主イエスはトマスに言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。

 

 

 

復活の主イエスはトマスに「不信仰者となるな。そうではなく、信仰者となれ」と強く命じられました。ギリシア語の「メエ」という否定語が伴う命令文です。

 

 

 

トマスのお話は、不信仰な者が信仰者になったという物語です。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にその出来事が日曜日の教会の集まりで起こったと伝えているのです。

 

 

 

すでに主イエスの10人の弟子たちは、復活の主イエスに出会い、信じていました。トマスはその場にいませんでした。だから、彼は、復活の主イエスを自分の目で見て、自分の手で確かめようとしました。

 

 

 

復活の主イエスは、トマスに現れて、御自身の復活の体を彼に示して、彼の不信仰と疑い深さを打ち破られたのです。

 

 

 

そして、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、真の信仰とは何かを伝えてくれました。それは、すでに復活の主イエスを信じた者たちの中で、彼らの証しを聞いて信じることです。ヨハネによる福音書の時代の初代教会は、主イエスの弟子たちのように復活の主イエスを見て信仰者になるのではなく、見ないで、むしろ、御言葉を耳で聞いて信仰者となっていました。

 

 

 

トマス同様に「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白していたのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、1章のプロローグ(114)で、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と述べていますが、まさに復活の主イエスの顕現こそ、父なる神の独り子である神が、御自身がすべての主イエスの弟子たちの「わたしの主、わたしの神」ということを示されたのです。

 

 

 

復活の主イエスは、トマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである。

 

 

 

この「見ないで信じる信仰」こそ、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えたい信仰です。復活の主イエスが昇天された後に、この世にある教会とキリスト者たちが持つべき信仰の在り方です。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、復活の主イエスが11弟子たちに現れて後、60年経って書かれました。すでに復活の主イエスは昇天され、地上におられません。ヨハネによる福音書は、読者であるキリスト者たちに、次のように伝えているのです。

 

 

 

誰も復活の主イエスを見て、キリスト者になった者はいません。誰もが初代教会の宣教を通して、また日曜日の礼拝での説教を通して、そしてキリスト者たちが証しするキリストの福音を聞いて、信じるという形で、キリスト者になったのだ。

 

 

 

だから、復活の主イエスは遣わされた者を通して、御自身の御名を知らせられ、聞く者の心に主イエスの対する愛を起こさせて、その者が見ないで主を信じ、愛するようにしてくださるのです。

 

 

 

どうか今朝の御言葉を聞いて、もう一度1章の御言葉に戻ってください。また、主イエスのお別れ説教の17章の最後の御言葉に戻ってください。

 

 

 

その時にわたしたちは、今ここで復活の主イエスに出会い、今ここでわたしたちは主イエスの救いを、主イエスが十字架によってわたしたちの罪を赦され、永遠にわたしたちを愛されていることを知らされるのです。

 

 

 

使徒ペトロは、言っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたの信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Ⅰペトロ1:89)

 

 

 

どうかいつまでも、この礼拝の集まりの中にとどまってください。ここで10人の復活の主イエスを信じた仲間と共にいたトマスのように、愛する兄弟姉妹たち、そして子供たち、友たちよ、主イエスを信じているわたしたちと一緒にこの教会に居てください。

 

 

 

わたしは、大学生のころに山中良知先生と春名純人先生に導かれて宝塚教会に行きました。その時に教会から、主イエスを信じている群れから離れないことの大切さを教えられました。

 

 

 

わたしもトマスと同じです。この目で見ることしか信じられませんでした。しかし、毎週トマスように主イエスを信じる信仰者一緒に教会で過ごし、説教を聞き続ける中で、復活の主イエスを見ていないのに信じる者とされました。そして、十字架の主イエスはわたしの罪のために死なれ、復活の主イエスはわたしの永遠の命の保証として復活されたと信じました。

 

 

 

そして、信じる信仰によって、初めて神の愛を知りました。わたしの心の内にキリストを通してわたしを愛される神を知らされたのです。

 

 

 

 わたしの人生において教会で見ないで主イエスを信じる信仰を得たことこそ幸いであったと思っています。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、どうかわたしたちに見ないで信じる信仰の喜びをお与えください。

 

 

 

愛する兄弟姉妹と子供たちと友たちと共に十字架のキリストを信じさせてください。わたしたちの心に罪を赦された喜びを、父なる神に愛されている喜びで満たしてください。

 

 

 

復活のキリストを、ここで見ないで信じさせてください。そして、わたしたちの心を永遠の命の喜びで満たしてください。

 

 

 

聖霊に導かれ、御言葉に励まされ、わたしたちが信仰から信仰へと歩ませてください。どうか教会という船に次々と乗り込む神の民をお与えください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

9月16日 礼拝説教
ヨハネによる福音書 第20章 24~29節
180916_001_02.MP3
MP3 オーディオファイル 45.4 MB

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