ウェストミンスター信仰告白75    主の2019313

 

 

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第8111(新約聖書P283284)

 

 

 

 「九.自由意志について」の「三」

 

 

 

人間は、罪の状態に堕落することによって、救いを伴うどのような霊的善に対する意志の能力もみな全く失っている。それで生まれながらの人間は、そういう善からは全然離反していて、罪のうちに死んでおり、自らを回心させるとか、回心の方に向かって備えることは、自力ではできない。

 

 

 

今夜は、ウ告白の第九章の「三」節を学ぼう。ウ告白は9章で人間の自由意志について告白する。ウ告白は、自由意志を4つの状態に分ける。92節では神が人間を創造された時に自由意志の状態を学んだ。人間は神に自由意志を賦与された。その人間の自由意志は可変的であった。神の命令に従うことも背くこともできたのである。

 

 

 

9章三節を他の訳と比較しよう。

 

(1)村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

人間は罪の状態に堕落することによって、救いに伴ういかなる霊的善にも向かう意志の能力をすべて失っている。したがって、生まれながらの人間は、そのような善に全く逆らい、罪の中に死んでいるので、自分自身の力では、自分で回心することも、回心の備えをすることもできない。

 

松谷好明訳(一麦出版社)

 

人間は、罪の状態への堕落により、救いに伴ういかなる霊的善に対しても、意志のあらゆる能力を全面的に喪失している。そのため、生まれながらの人間は、そのような善から全く離反して、罪の中に死んでいるため、自分自身の力によっては、回心することも、回心に向けて準備することもできない。

 

(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

 人間は、罪の状態に堕落した結果、救いに固有の霊的善を意志する能力をすべて失っている。それで、生まれながらの人間は、その善から全く離反し、罪のうちに死んでいるので、自己を回心させるとか、回心に備えるということを自力で行うことはできない。

 

ウ告白は、3節で人間の堕落状態における自由意志について叙述している。

 

 

 

堕落状態の人間の自由意志を知るために、主イエスの御言葉に耳を傾けよう。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである(ヨハネ15:6)。キリストは、わたしたちに神の愛と父親のような神の善意を映し出す鏡である(カルヴァン『ヨハネによる福音書註解』P492)。堕落状態の人間には、キリストなしに神との和解の道はないのである。

 

 

 

さて、ウ告白は2節で「人間は無罪状態においては、善であり神に喜ばれることを意志し、行なう自由と力を持っていた」と叙述した。その「」を、ウ告白は3節で「救いに伴うどのような霊的善に対する意志の能力もみな全く失っている」と「霊的善」と叙述している。

 

 

 

2節の無罪状態の人間は、霊と肉に分離することなく、「」を行う能力があり、神を喜び、神に栄光を帰することが出来たのである。ところが、堕落状態の人間には、ウ告白が3節で叙述するように「霊的善」、この善は救いと関係するもので、人間が神との和解に至る善である。その善は神の喜ばれるものである。それを、堕落状態にある人間の自由意志は完全に行う能力がない。

 

 

 

ウ告白は、堕落状態の人間は神と敵対し、神から離反しており、罪ゆえに霊的死んでいると宣告している。だから、堕落した人間には神の像の残滓があり、自由意志もあるが、誰一人「善を行う」者はいないのである(ローマ3:12)

 

 

 

堕落状態の人間は、神から離反した状態にあり、霊的に死んだ者である。だから、彼の自由意志は神を喜び、神に栄光帰するためには働かないのである。すなわち、自らを回心させて、神との和解を求めることはない。神に立ち帰るという思いも、それに備えるという意志も持ち合わせていないのである。

 

 

 

ウ告白は生まれながらの人間の自由意志が救いに対して完全に絶望的であることを自覚させ、聖霊に寄り頼む信仰へと導こうとしているのである。