ウェストミンスター信仰告白111    主の2019124

 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第52225(新約聖書P350)

 

 

 

 「十六.よきわざについて」の五節()

 

わたしたちは、自分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ることはできない。その理由は、そのよきわざと来るべき栄光の間に大きな不釣合があり、またわたしたちと神との間には無限の距離があって、わたしたちはよきわざによって神を益することも前の罪の負債を神に償うこともできず、かえって、なし得るすべてをなした時にも自分の義務をなしたにすぎず、無益なしもべだからであり、またそれが善であるのは、それがみたまから出ているからであって、わたしたちによってなされる以上それは汚れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないからである。

 

 

 

今夜は、「十六.よきわざについて」の五節を先週に続けて学ぼう。

 

 

 

五節で、ウ告白は、「罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ること」ができると考える律法主義を否定している。

 

 

 

だから、ウ告白ははっきりと「わたしたちは、自分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ることはできない。」と断言する。「自分の最良のよきわざ」は、「自分たちの最善の行い(松谷訳)である。

 

 

 

では、ウ告白が自分の最善の善き業によって「神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ることはできない」と、功績主義、あるいは律法主義を否定する理由は何か。

 

 

 

第一の理由は、「そのよきわざと来るべき栄光の間に大きな不釣合があり、またわたしたちと神との間には無限の距離」である。わたしたちの今の最高の善き業と神の御国における栄光を比べると、ウ告白は不釣合であると述べている。罪を赦され、永遠の命を得て、御国に入れることは、キリストの十字架と復活の御業による神の恩寵である。その恵みにわたしたちは何一つ貢献していないのである。

 

また、わたしたちと神との間には無限の距離がある。わたしたちは、昇天のキリストが聖霊をわたしたちに遣わされない限り、キリストの贖いの恵みにあずかる手段はない。どんな最善の行いによっても、わたしたちが神の御心に適い、神に益を与えることはできない。

 

 

 

だから、ウ告白は、「わたしたちはよきわざによって神を益することも前の罪の負債を神に償うこともできず、かえって、なし得るすべてをなした時にも自分の義務をなしたにすぎず、無益なしもべだからである」と告白するのである。わたしたちは、キリストの執り成しなしには、自らが何を行おうと、自分を罪から救えない無益な者なのである。

 

 

 

第二の理由は、「またそれが善であるのは、それがみたまから出ているからであって、わたしたちによってなされる以上それは汚れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないからである。

 

 

 

矢内昭二先生は、次のように述べている。「罪の許しと永遠の命はよきわざに対する功績ではなく、信じる者にイエス・キリストにより、み霊によって、与えられる賜物です。更にわたしたちのなすよきわざの性質を調べても、カトリックの誤りははっきりします。わたしたちのなすよきわざは、わたしたちの力から出ているのでなく、キリストのみ霊の恩恵的働きによるものですから、神の恵みを誇りこそすれ、わたしたちには誇るべきところはなく、しかも最善の善きわざといえども、それがわたしたちによってなされたという限りにおいて、多くの罪と弱さと不完全さにまとわれています。」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P174)

 

 

 

キリスト者の生活は、善き生活です。それは、わたしたちの内にある能力で生み出されるものではない。聖霊に寄り頼むことで与えられるものである。

 

 

 

恵みの契約に基づいて聖霊は、わたしたちを十字架と復活のキリストへと有効に招いてくださり、わたしたちに信仰を与えて、義とされ、聖とされ、キリスト者としての新生の歩みへと導かれます。

 

 

 

この善き生活が神の審判に耐えられなくとも、仲保者キリストがおられる。

 

ウェストミンスター信仰告白112    主の20191211

 

聖書箇所:ヘブライ人への手紙第132021(新約聖書P419420)

 

 

 

 「十六.よきわざについて」の六節

 

しかし、それにもかかわらず、信者自身は、キリストによって受け入れられているので、そのよきわざもまたキリストにおいて受け入れられる。それは、そのよきわざが、この世で神のみ前に全く非難され責められるべき点がないものであるかのようではなく、神がそれをみ子において見られ、誠実なものを、多くの弱点や不完全さを伴っているが、受け入れて、それに報いることをよしとされるからである。

 

 

 

今夜は、「十六.よきわざについて」の六節を学ぼう。

 

 

 

五節で、ウ告白は律法主義と功績主義を否定している。善き業は、わたしたちが神の御前で為す功績ではない。むしろ、聖霊から出た神の恵みの業である。使徒パウロが言うようにキリスト者は、「肉の人」である。自分では善を為そうという意志はあるが、望まない悪を為すのである(ローマ7:1419)。だから、ウ告白はキリスト者の行為は弱く、不完全で、汚れていると告白する。

 

 

 

それゆえウ告白は、六節で弱く、罪があり、不完全で、汚れているキリスト者の善き業がどうして神に受け入れられるのかを教えている。

 

 

 

いつものように他の訳と比較しょう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 それにもかかわらず、信仰者の人格そのものがキリストを通して受け入れられているので、彼らの善い業もまたキリストにおいて受け入れられる。それはその善い業が神の目から見て、この世で全く非難の余地も、叱責の余地もないからというのではなく、神が御子においてそれを御覧になって、たとえ多くの弱さち不完全さを伴ってはいても、誠実であるものを受け入れ、それに報いることをよしとされるからである。

 

 

 

(2)松谷好明訳

 

 しかし、それにもかかわらず、信者たちの全人格がキリストを通して受け入れられるのであるから、彼らの善い行いもまた、キリストにおいて受け入れられる。それは、それらの善い行いが、この世で神の御前に全く責められるところがなく、非難の余地がないものだからではなく、神が、御自身の御子においてそれらの行いを御覧になり、誠実な行いは、たとえ多くの弱さと不完全さを伴っていても、受け入れ、それに報いるのをよしとされるからである。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

 それにもかかわらず、信仰者の人格はキリストによって受けいれられているので、その善い業もキリストにあって受けいれられる。それは、その善い業が、神の目に全く非難や叱責の点がないかのようにみられるのではなく、神はそれを御子にあって見られ、それが多くの弱さや不完全さを伴っていても、誠実なものとして受けいれ、報いることをよしとされるからである。

 

 

 

 「しかし、それにもかかわらず」とは五節の「わたしたちによってなされる以上それは汚れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないからである」という文章を受けている。キリスト者がなす最高善といえども、不完全で、罪に汚れているので、神の厳しい審判に耐えることはできないのだが、「それにもかかわらず」神は、仲保者キリストにおいてキリスト者の善き業を受け入れてくださると、ウ告白は告白する。

 

 

 

 神は、キリスト者の善き業を見ておられない。仲保者キリストの御業を御覧になっている。弱く不完全で罪に汚れたキリスト者の善き業が神に受け入れられるのは、第一に神がキリストの贖いの御業を通してキリスト者の人格を受け入れられたからである。だから、第二に神はキリスト者の善き業をキリストにおいて受け入れられ、報いられる。

 

 

 

 キリストの積極的服従と消極的服従のゆえに、神はキリスト者を義とし、罪を赦し、神の子とされた。ゆえにキリスト者の善き業が弱く不完全であっても、神はキリストのゆえに誠実なものとして受け入れ、よしとしてくださるのである。

 

 

 

 それゆえにヘブライ人への手紙の記者は、こう祈る。「御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。」善き業は、キリストの賜物である。

 

ウェストミンスター信仰告白113    主の20191218

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6115(新約聖書P910)

 

 

 

 「十六.よきわざについて」の七節

 

再生しない人々がする行為は、事柄としては、たといそれが神の命じておられる事柄であり、自分にも他人にも有益であるとしても、それでもなお、信仰によってきよめられた心から出ておらず、み言葉に従って、正しい態度からも、また神の栄光という正しい目的のためにもなされていない。それゆえその行為は、罪深いものであり、神を喜ばせることも、神から恵みを受けるにふさわしくすることもできない、それでもなお、彼らがこの行為を怠ることは、一層罪深く、神を怒らせることである。

 

 

 

今夜は、「十六.よきわざについて」の七節を学ぼう。

 

 

 

六節で、ウ告白は、キリスト者の行いが罪があり、不完全であり、汚れているにもかかわらず、神は仲保者キリストのゆえにキリスト者の善き業を受け入れ、報いられることを学んだ。

 

 

 

では、再生しない人が為す善い行いはどうなのか。キリスト者が恥ずかしいと思うほどの人格者がおり、彼の行いは謙遜で、多くの人々に益を与え、世に高く評価されている。

 

 

 

いつものように他の訳と比較しょう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 再生していない人々によってなされる業は、それ自体としては神が命じておられる事柄であることもあり、そして自分自身にも他の人々にも有益なこともある。とはいえ、それらは信仰によって清められた心から出るものではなく、また正しい仕方で、すなわち、御言葉に従ってなされてもいないし、また正しい目的、すなわち、神の栄光を目指してなされてもいない。それゆえ罪深いものであって、神を喜ばせることはできないし、人を神から恵みを受けるのにふさわしくすることもできない。それにもかかわらず、彼らがそのような業を怠ることは、なおさらに罪深く、神の不興を招くものである。

 

 

 

(2)松谷好明訳

 

 再生していない人々によってなされる行いも、内容的には神が命じておられるので、彼ら自身にも他の人々にも有益なことがある。しかし、それらの行いは、信仰によって清められた心から出るのではなく、また、御言葉に従って正しい仕方でなされるのでも、神の栄光という正しい目的のためになされるのでもないから、罪深く、また、神を喜ばせることも、人を神から恵みを受けるのにふさわしくすることもできない。それでもなお、彼らがそのような行いを怠ることは、一層罪深く、神に喜ばれないことである。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

 再生していない人々のする行為は、それに関する限り、神が命じておられる事柄であり、彼ら自身にも他の人々にも有益であるかも知れない。しかし、それらは信仰によって清められた心から出たものではなく、御言葉にしたがった正しい態度からでも、また神の栄光という正しい目的によってなされたものでもないため、罪があり、神を喜ばせることも、神から恵みを受けるのにふさわしく行うこともできない。

 

 それでも、彼らがその行為を怠ることは、なおいっそう罪深く、神を不快にすることである。

 

 

 

 「再生していない人々」とは、聖霊の主権的働きによって新生されていない人々である。聖霊は、彼らに真の悔い改めと信仰を与え、キリストにあって神御自身に結びつけ、永遠の命に生かし、聖とし、神との交わりに導かれる。

 

 

 

だからあ、ウ告白は「再生していない人々」の善き行いを、「それでもなお、信仰によってきよめられた心から出ておらず」と述べている。

 

 

 

ウ告白は、主なる神がサムエルに言われた御言葉を思い起こさせる。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。(サムエル記上16:7)

 

 

 

神は、聖霊によって清められた心を、その者の信仰を御覧になる。外見では正しく神の命令に適っていても、彼の心が神を敬い、神の御心に適うことを願い、神の栄光を求めるものでなければ、ウ告白は彼の行為は罪であると指摘する。サウル王は、外見は立派な王であった。しかし、彼の心を主なる神は喜ばれなかった。それでも彼らが主なる神に従う内は彼を一時的に祝された。

 

ウェストミンスター信仰告白114    主の20191225

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第102230(新約聖書P187)

 

 

 

 「十七.聖徒の堅忍について」の一節

 

神がその愛するみ子において受け入れ、みたまによって有効に召され、きよめられた人々には、恵みの状態から全的にも最後的にも堕落することはあり得ない。かえってその状態に終りまで確実に堅忍し、そして永遠に救われる。

 

 

 

今夜は、「十七.聖徒の堅忍について」の一節を学ぼう。

 

 

 

十六章で、ウ告白は、聖霊のお働きとしての「善き業について」7節にわたって詳しく述べて来た。キリスト者の善き業は、本人の能力に由来するのではなく、聖霊によって為される継続的な恵みである。善き業は、救いの条件ではなく、救われたキリスト者に賜る聖霊の恵みの業である。聖霊は、キリスト者の心を清め、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る心を与えて、キリスト者に神の栄光を顕すようにされるのである。それでも彼の行いには、罪があり、不完全であり、汚れている。それにもかかわらず、父なる神は仲保者キリストの執り成しのゆえに彼の行いを、善き業として受け入れ、報いてくださることを学んだのである。

 

 

 

今夜から十七章の「聖徒の堅忍について」学ぼう。ウェストミンスター会議が1643年から49年まで開かれ、ウ告白は1646年に作成された。その前にドルト教会会議がオランダのドルトレヒトに集まり、開催された。カルヴァン派とアルミニウス派の間の予定論論争に決着をつけた教会会議である。そこで全的堕落、無条件的選び、限定的贖罪、不可抗的恩寵、聖徒の堅忍が表明された。「カルヴィニズムの五特質」と呼ばれている。この会議に英国からも神学者が出席し、ドルト信仰規準に署名をした。ウ告白は、ドルト信仰規準の成果を取り入れ、神は信者が恵みの状態から全的に堕落することがないようにと保持してくださるという「聖徒の堅忍」の教理を受け継いでいる。

 

 

 

いつものように他の訳と比較しょう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 神がその愛する御子において受け入れ、有効に召し、自らの霊によって聖とされた者たちは、恵みの状態から、全面的にも、また最終的にも、落ちてしまうことはあり得ず、その状態の内で確実に最後まで堅忍し、そして永遠に救われる。

 

 

 

(2)松谷好明訳

 

 神がその愛する御子において受け入れ、自らの霊によって有効に召命し、聖とした人々は、恵みの状態から全面的に落ちてしまうことも、最終的に落ちてしまうこともありえず、かえって、最後まで恵みの状態の中に確実に堅忍し、永遠に救われる。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

 神がその愛する御子おいて受け入れ、御霊によって有効に召し、清めた人々は、恵みの状態から完全に最終的に堕落してしまうことはない。むしろ、その恵みの状態を最後まで堅忍し、永遠に救われる。

 

 

 

 聖徒の堅忍は、カルヴィニズムの五特質の第5番目の教理である。保持、永遠の保証である。一度救われた者は常に救われるという教理である。ウ告白は、仲保者キリストの贖いのゆえに救われた者は、聖霊によって有効に召され、堕落することなく、最後まで神に保持され、最終的に永遠に救われると告白する。

 

 

 

 ダビデ王は、ヘテ人ウリヤの妻と姦通し、それが夫ウリヤに知られることを恐れて、彼を殺した。ダビデの罪は恐ろしいものであり、その後神の厳しい懲罰を招き、彼の家庭にさまざまな悲劇が生まれ、彼も子のアブサロムの反逆により命の危機に陥った。しかし、主なる神はダビデを見捨てることなく、最後までダビデとの契約を守り、彼をサウル王のように捨てられなかった。

 

 

 

 主イエスはヨハネによる福音書第1028節でこう言われている。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と。羊飼いである主イエスは、誰からも御自身の羊を、一匹さえ奪い去らせることを許されません。だから、キリストの十字架の贖いによって救われた人々は、聖霊が彼らを有効に救いに召され、信仰によって義とし、神の子として御国を相続させ、その御国に至るまで聖化の道を歩ませ、永遠の命に至らされる。