ウェストミンスター信仰告白141        主の2020年7月15

聖書箇所:創世記第2419(旧約聖書P3334)

 「第二十二章 合法的宣誓と誓願について」の三節

宣誓する人はだれでも、非常に厳粛な行為の重大さを正当に考慮すべきであり、宣誓においては、真理であると十分確信していること以外の何事をも公言してはならない。だれでも、善で正しいこと、自分がそう信じていること、また自分が行なうことができ、行なう決意をしていること以外の何事をも行なうと、誓うべきではない。とはいえ、合法的権威によって課せられて、善で正しいことについての宣誓を拒むことは、罪である。

 

今夜は、「第二十二章.合法的宣誓と誓願について」の三節を学ぼう。先週は二節の合法的宣誓を正しく行う方法について学んだ。宣誓が成立するのは、神の御名によって宣誓する時だけであり、神は誓約する者の誠実さを求めておられ、偽って誓うこと、神の御名以外で誓うことを禁じられていることを学んだ。聖書において神は誓約を認めてられ、神の御心に適う合法的誓約は、神の御心に適う合法的権威によって課せられている時、行なわなければならない。

 

今夜は、誓約する態度について学ぼう。誓約は、神の御名によってなされる行為であるので、非常に厳粛な態度を求められることを学ぼう。

 

いつものように他の訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

 誓約を行う人は誰でも、これほど厳粛な行為の重大さを正当に考慮し、そこにおいては、真実であると自分が全く確信していることのみを明言すべきである。また、いかなる人も、善であり正しいこと、そして自分がそうだと信じていること、さらに自分に実行でき、実行しようと決意していること以外の何事にも、宣誓によって自分を拘束してはならない。とはいえ、合法的な権威から課せられた場合、善であり正しいことであれば、どんなことについても、宣誓を拒否することは罪である。

 

   松谷好明訳

 誓約を行う人はだれでも、かくも厳粛な行為の重大さをしかるべく考慮すべきであり、宣誓においては、自分が真実であると完全に確信していること以外は、何事も、真実だと言明してはならない。また、いかなる人も、良く、正しいこと、自分がそうだと信じていること、そして、自分が果たすことができ、また果たそうと決意していること、以外の、いかなることにも、宣誓によって自分を拘束してはならない。しかし、合法的な権威によって課されながら、良く、正しい、いかなることについても宣誓を拒否することは、罪である。

 

   鈴木英昭訳

宣誓する者はみな、このような厳粛な行為の重大性を真剣に考えるべきであり、その行為においては、真理であると十分に確信していること以外は、何事も断言してはならない。善であって正しい事柄、善であって正しいと信じている事柄、さらに自分で行うことがで、行なうことを決意している事柄以外のことを宣誓して、自分を拘束してはならない。しかし、合法的権威によって課せられる場合、善であって正しい事柄について宣誓を拒むことは罪である。

 

宣誓は、十戒の第三戒に基づいて、神の御名によって宣誓するのであるから、ウ告白はわたしたちに「非常に厳粛な行為の重大さを正当に考慮すべきであり」と注意を促している。

 

聖書は、「重大な宣言や証言の真実性が快く受け入れられない状況にある時、その主張を真実性の誓いという行為で表す」(『エッセンシャル聖書辞典』 いのちのことば社 P385)

 

だから、ウ告白は、宣誓の態度について次のように述べている。「宣誓においては、真理であると十分確信していること以外の何事をも公言してはならない。だれでも、善で正しいこと、自分がそう信じていること、また自分が行なうことができ、行なう決意をしていること以外の何事をも行なうと、誓うべきではない

 

創世記24章でアブラハムが息子イサクの嫁探しをしている。そこで彼は、自分の財産を管理させ、最も信頼できる年寄りの僕を、彼の親族が住む地に遣わし、息子イサクの嫁を連れて来るように使命を与えた。

 

アブラハムは、僕に彼の手をアブラハムの腿の間に入れさせて、天地の神の御名によって誓いを立てさせ、僕が彼の使命を忠実の果たすように誓わせた。

 

アブラハムは、息子イサクの嫁をカナン人の娘から選びたくはなかった。だから、僕を遣わして彼の親族から選び、カナンの地に連れて来ようとした。

 

僕はアブラハムに一つだけ質問した。彼が選んだイサクの嫁がカナンに来ることを拒むなら、どうすべきであるかと。

 

アブラハムは僕に、決してイサクを彼の親族の地に行かしてはならないと答えた。なぜなら、アブラハムは主なる神と契約した。そして、神はアブラハムに、彼の子孫とカナンの地の相続を約束された。

 

それゆえに、アブラハムは、神が彼の子孫をカナンの地で繁栄させてくださると十分に確信していた。だから、彼が僕に天地の神の御名によって息子イサクの嫁をカナンに連れて来るように誓わせることは、神の御心に適う善で、正しい事柄であった。そして、この誓いを、アブラハムはこの信頼できる僕を通して、必ず行うことができると確信し、行なうことを堅く決意していた。

 

アブラハムと僕の誓いは、創世記241066節で主なる神の摂理の下で僕が使命を果たして、イサクの嫁をカナンに地に連れて来て、誓いが誠実の果たされたのである。

 

 

誓うべきではない。」と委員会訳は訳しているが、村川・袴田訳、松谷訳、鈴木訳は「宣誓によって自分を拘束してはならない」という趣旨で訳している。偽りの宣誓によって自分に神の裁きを招かないようにという警告だろう。また、神の御心に適う制度においては、誓約は必要である。

 

ウェストミンスター信仰告白142        主の2020年7月22

聖書箇所:サムエル記上第25135(旧約聖書P469471)

 「第二十二章 合法的宣誓と誓願について」の四節

宣誓は、言葉の平明な普通の意味において、あいまいな言葉使いや隠したてなしに、すべきである。それは罪を犯す義務を負わせることはできない。しかし宣誓するならば、罪の事柄でさえなければどのような事でも、たとえ自分自身の損失になっても果たす義務がある。またたとえ異端者や不信者にしたものであっても、宣誓を破ってはならない。

 

今夜は、「第二十二章.合法的宣誓と誓願について」の四節を学ぼう。先週は三節の誓約する態度について学んだ。宣誓は神の御名によってなされる行為であるので、非常に厳粛な態度が求められることを学んだ。十分に真理と確信している事柄を、また善で正しいと信じている事柄を宣誓すべきであり、必ず実行すると決意している事柄を宣誓すべきであることを学んだ。

 

今夜は、宣誓の文章が平明であること、どちらにも解釈できる曖昧な言葉は使用しないこと、宣誓は罪の事柄以外は誓約者に不利になっても守る義務があること、異端者や不信者に対する宣誓は、守る義務があることを学ぼう。

 

いつものように他の訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

 宣誓は言葉の平明で普通の意味でなされるべきで、曖昧表現や、意中保留を用いてはならない。宣誓は人に罪を犯すことを義務づけることはできないが、しかし、宣誓がなされた場合には、罪でないことならどんなことでも、たとえその人自身の損失になっても、それはどうしても実行しなければならない。また、宣誓は異端者や不信仰者に対してなされたものであっても、破られてはならない。

 

   松谷好明訳

 宣誓は、用いられる言葉の、明瞭で、通常の意味において、あいまいさや意中留保[言葉の普通の意味を、自分の心の中で特定の意味に限定すること]なしに、なされるべきである。宣誓は人に、罪を犯すように強いることはできないが、しかし、罪ではない、いかなることにおいても、いったんなされたならば、たとえその人自身が損失をこうむるとしても、果たすことを義務づける。また、宣誓は、たとえ異端者や不信者に対してなされたとしても、破られてはならない。

 

   鈴木英昭訳

宣誓は、曖昧な言い方や隠しだてをせず、平易で通常の意味をもつ言葉でなされるべきである。宣誓は、人に罪を犯させることになってはならない。しかし、宣誓することが、罪になる事柄でなければ、それがたとえ自己の損失になっても、それを果たす義務がある。異端者や不信者に対してなされたものであっても、宣誓は破棄されてはならない。

 

この宣誓は、合法的宣誓である。罪の事柄でない、善で正しいと信じている宣誓である。宣誓に用いられる文章は、平明で、曖昧な表現がなく、意中保留(言葉の普通の意味を、自分の心の中で特定の意味に限定すること)なしに、誰に対しても明瞭なものでなければならない。その理由は、「それは罪を犯す義務を負わせることはできない。」からである。村川・袴田訳は「宣誓は人に罪を犯すことを義務づけることはできない」と訳し、松谷訳は「誓は人に罪を犯すことを義務づけることはできない」と訳している。宣誓は十戒の第三戒に基づき、正しくない目的のために、神の御名を使って祈願してはならないのである。人に罪を犯させる宣誓は許されないのである。

 

預言者エレミヤは、北イスラエル王国の神の民たちに罪の悔い改めを呼びかけて、次のように言っている。「もし、あなたが真実と公平と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。(エレミヤ書4:2)。北イスラエル王国の神の民たちがバアル神を捨て、主なる神に立ち帰り、真実と公平と正義をもって「主は生きておられる」と誓うならば、彼らを通して諸国の民は主の祝福を得て、彼らは神の民イスラエルを誇りとすると、エレミヤは預言している。この誓いの言葉は平明で、曖昧な表現はない。言葉通りの意味であり、人の心の中で、特定の意味に限定されることもない。

 

ウ告白は、「しかし、宣誓するならば、罪の事柄でさえなければどのような事でも、たとえ自分自身の損失になっても果たす義務がある」と述べている。サムエル記上の25章にダビデとアビガイルの物語がある。ダビデがサウル王の迫害から逃れていた時の出来事を記している。ダビデはサウル王の迫害から逃れて、マオンの荒れ野に身を隠していた。彼と家来たちは、ナバルの羊飼いと羊の群れを保護した。羊の毛を刈り込む日は祝いの日であり、ダビデはナバルに祝いの分け前を求めた。それは、ナバルの羊飼いたちと羊の群れを保護した当然の報酬であった。しかし、ナバルはダビデの要求を拒否しました。ナバルの拒否はダビデに伝えられ、ダビデは400人の家来たちを連れ、ナバルと彼の持ち物すべてを滅ぼそうとしました。一人の羊飼いがナバルの妻に危機を知らせました。妻のアビガイルは、すぐに祝いの分け前を整えて、ダビデを訪れました。ちょうどダビデが主なる神の御前で彼の善意に対して悪意で報いたナバルと彼の家の男たちをすべて殺すことを誓って、ナバルの家に向かっていました。アビガイルはダビデに対して丁重に礼を述べて、夫の非礼に赦しを求め、祝福の分け前を差し出しました。こうしてダビデは、主の御前に誓ったことを実行して人の血を流すことを免れたことを喜びました。アビガイルの機転が無ければ、ダビデは主なる神に誓ったことを果たさなければならなかったのである。

 

ウ告白は、「またたとえ異端者や不信者にしたものであっても、宣誓を破ってはならない。」と述べている。ヨシュア記の9章にカナンの民族の一つギブオンがイスラエルに降伏した記事がある。ギブオン人は、ヨシュアとイスラエルの民と偽りの誓いをした。遠くの国から来たように見せて、イスラエルと契約を結んだ。すぐに目の前のカナンの民ギブオン人だと判明した。しかし、誓約したことは、破棄できなかった。そこでヨシュアは、イスラエルの民にギブオン人たちを殺すことを許さず、彼に神の幕屋でおいて柴刈りと水くみの労役を課したのである。

 

 

借金の連帯保証人となり、借金した本人が返済できない時、連帯保証人となった者は、その負債を負わなければならない。取立人が異教徒、不信者であっても、破棄することはできないのである。箴言232627節に次のように警告がある。「手を打って誓うな。負債の保証をするな。償うための物があなたになければ 敷いている寝床まで取り上げられるであろう」。箴言615節でも他人の保証人とならないようにと警告がある。