ウェストミンスター信仰告白161        主の2020122                                                                 

聖書箇所:使徒言行録第23747(新約聖書P217)

 「第二十六章 聖徒の交わりについて」の二節

信仰告白をした聖徒らは、神礼拝、またその他彼ら相互の建徳に資するような霊的奉仕の実行、更にまた彼らのそれぞれの能力と必要とに応じて外的な事柄においても互いに助け合うことにおいて、聖なる交誼と交わりとを保たなければならない。この交わりは、神が機会を供えてくださるままに、主イエスのみ名を呼ぶ至る所のすべての人々に広げられなければならない。

 

今夜は、「第二十六章.聖徒の交わりについて」の二節を学ぼう。

 

「第二十六章 聖徒の交わりについて」の一節で、次のことを学んだ。(1)聖徒とは、頭である主イエス・キリストに聖霊と信仰によって結合している者たちである。主イエス・キリストの恵みと苦難と死と復活と栄光を共にする者である。(2)聖徒は、兄弟姉妹の相互の愛の交わりである。共に愛においてキリストと結ばれ、互いに愛し合うことを義務づけられ、互いの賜物と恵みを分かち合い、相互の益に仕え合う者たちである。

 

ウ告白は、「第二十六章 聖徒の交わりについて」の二節で、「聖徒の交わり」の実践を教えている。具体的には神礼拝の実践と相互の恵みと賜物を分かち合うことである。聖徒の交わりは一定の地域に閉鎖されたものではなく、この世の至る所で主の御名を呼ぶ者たちすべてに広がるものである。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

信仰を公に告白している聖徒たちは、神礼拝において、またはその他の互いを向上させるのに役立つような霊的奉仕を行うことにおいて、更にはまた、外的な事柄においても、それぞれの能力と必要に応じて、互いに助け合うことにおいて、聖なる親交と交わりを保たなければならない。そしてこの交わりは、神が機会を提供してくださるままに、あらゆるところで、主イエスの名を呼ぶすべての人々に広げられるべきである。

   松谷好明訳

信仰を告白している聖徒たちは、[第一に]神礼拝において、また[第二に]相互の教化に役立つ他のさまざまな霊的奉仕を行うことにおいて、更に[第三に]外的な[物質的・物理的な]事柄に関しても、それぞれの能力と必要に応じて、互いに助け合うことにおいて、清い交流と交わりを保たなければならない。この交わりは、神が機会を提供してくださるままに、至る所で、主イエスの名を呼んでいる、すべての人々に広げられるべきである。

   鈴木英昭訳

信仰を告白している聖徒は、神礼拝と互いの建徳となるような霊的奉仕を行って、聖なる友情と交わりを保たなければならない。また、自分たちの能力と必要に応じて、物質的な事柄においても互いに援助し合わなければならない。

この交わりは、神が機会を与えてくださる場において、主イエスの名により頼む至る所のすべての人々に、広められるべきである。

 

聖徒の交わりの場は、神礼拝と「外的な事柄」、すなわち、「外的な[物質的・物理的な]事柄」である。使徒言行録に聖霊降臨によって生まれたエルサレム教会の信者の生活が描かれている(使徒言行録2:3747)3742節は、神礼拝における交わりであり、4347節は物質的な交わりの場である。神礼拝における主イエス・キリストの交わりを通して、エルサレム教会の信者たちはこの世で物質的な神の恵みと賜物を分かち合い、各家で愛餐を共にしていたのである。神を賛美し、彼らの交わりを開放し、民衆全体から好意を持たれていたのである。

 

神礼拝と伝道(証し)が教会形成の要である。

 

聖徒の交わりの実践は、神礼拝と信者相互の愛の交わり、相互の支援である。その交わりは、「神が機会を供えてくださる」ものである。実際に使徒言行録は、聖霊降臨の出来事によってエルサレム教会が生まれ、神礼拝と信者相互の愛の交わりが始まったと記している。神が聖徒の交わりという機会を、わたしたちに提供してくださったのである。

 

ウ告白は、わたしたちに聖徒の交わりの実践を教える時、この交わりは神が与えられた機会であることを、特に強調するのである。

 

神礼拝における聖徒の交わりの場で、主イエスは信者たちと求道者たちが互いの信仰と愛を高め合うために機会を提供されたのである。その具体的な実践が礼拝の奉仕であり、教会の奉仕である。

 

牧師、長老、執事の奉仕、祈り、奏楽、献金、受付、会堂清掃、教会学校の教師、伝道集会等の教会の奉仕である。これらの奉仕は、人の業と創造ではない。主イエスが神礼拝において与えてくださった機会である。その機会は、主の召しであるので、信仰的応答が求められる。

 

神の御言葉が語られ、わたしたちがそれを聴従する時、主イエス・キリストは臨在される。また、聖餐において主イエスはわたしたちを食卓に招かれる。御言葉を聞く、聖餐に与ることはわたしたちにとって受け身である。しかし、そこでわたしたちは、罪赦され、義とされ、神の子とされる、救の恵みを、信仰を通して与えられるのである。その感謝の応答は、主イエスが12弟子たちに「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15:17)と言われたことを実行することである。それが聖徒の交わりである。

 

聖徒の交わりの実践として心すべきは、神礼拝の奉仕において互いに信仰を高め合い、互いに仕え合い、助け合うことである。牧師、長老、執事が一方的に教会員に奉仕し、仕え、助けているのではない。牧師の説教を聞き、長老たちの指導に従い、執事たちと奉仕を共にするようになる。こうして彼らは、主イエスが提供される機会を得て、彼らも神礼拝と教会の奉仕に携わり、その奉仕のために祈るのである。

 

物理的、物質的な聖徒の交わりがある。聖恵会、静岡盲人伝道センター、聖書協会、ギデオン協会である。その他キリスト教の介護施設、キリスト教の学校、国際飢餓機構、カルヴィニスト協会等がある。わたしたちは、自分の賜物と能力を分かち合って、必要に応じて、この世における聖徒の交わりを支援すべきである。

 

 

諏訪地方には超教派の牧師と牧師夫人の祈祷会があり、そこから諏訪地方のプロテスタント諸教会が集まり、共に礼拝と交わりをした。世界祈祷日会が三月にあり、カトリックとプロテスタントの諸教会が集まり、共に礼拝をし、一つの国のキリスト教会のために祈っている。このようにこの交わりは広がっていくのである。

 

ウェストミンスター信仰告白162        主の2020129                                                                 

聖書箇所:使徒言行録第23747(新約聖書P217)

 「第二十六章 聖徒の交わりについて」の三節

聖徒らがキリストともつこの交わりは、どのような意味ででもキリストの神性の本質にあずからせず、またどのような点でもキリストと等しくならせるものではない。そのどちらを主張しても不敬けんであり冒とくである。また聖徒としての彼ら相互の交わりは、おのおのが自分の財産や所有に対してもっている権利すなわち所有権を奪ったり侵害するものではない。

 

今夜は、「第二十六章.聖徒の交わりについて」の三節を学ぼう。

 

「第二十六章 聖徒の交わりについて」の二節で、「聖徒との交わり」の実践について学んだ。具体的には神礼拝と信者相互の愛の交わりと相互の支援である。

 

「第二十六章 聖徒の交わりについて」の三節で、ウ告白が主張する誤った二つの考えについて学ぼう。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

聖徒たちがこのようにキリストと交わりをもっているということは、決して彼らをキリストの神性の本質にあずかる者とはしない。また、どんな点でも彼らをキリストと同等の者にはしない。そしてそのいずれを主張することも不敬虔であり、冒瀆である。また、彼らの聖徒としての相互の交わりは、それぞれの人が自分の所有物と財産に対してもっている権利や所有権を取り去ったり無効にするものではない。

   松谷好明訳

聖徒たちがキリストと持つこの交わりは、彼らを、いかなる意味でもキリストの神性の実体にあずかる者とはしないし、また、いかなる点でも、キリストと同等な者にすることはなく、そのいずれを主張することも、不敬虔であり、冒瀆である。また、彼らの聖徒としての相互の交わりは、各人が自分の所有物と財産に対して持っている権利や所有権を、取り去ったり、侵害するものではない。

   鈴木英昭訳

聖徒がもつキリストとのこうした交わりは、どのような点ででも、彼らをキリストの神性の本質にあずからせることはないし、どのような点においてもキリストと等しい者にはしない。このいずれを主張しても、それは不敬虔であり冒涜である。

また、彼らの聖徒としての互いの交わりは、互いのどのような財産権、すなわち、自己の所有物や財産に対する権利を、奪ったり侵害したりするものではない。

 

改革派神学は、カルヴァン以来「有限は無限を容れられない」という立場である。人は神と同一になれないし、人が神と混合することはない。創造者である神と被造物である人間は絶対的質的区別がある。

 

神は、人間の肉体を取って現れられたのである。この時独り子である神の子キリストは、神性を持ちつつ、人間性を取られたのである。キリストにおいて神性と人性の混合はない。しかも神の独り子であるキリストという一つの人格に神性と人性が混合することなく結合しているのである。

 

 聖徒の交わりについても、「有限は無限を容れられない」という立場に立つべきである。キリストの神性と人性が混合しないように、聖徒の交わりにおいて、わたしたちがキリストの神性の本質、すなわち、実体にあずかり、神であるキリストと等しく、わたしたちも神となることはない。

 

聖徒の交わりの実践である礼拝において、わたしたちはどのような意味でもキリストの神性の本質を持つことも、どのような点においてもわたしたちがキリストになることはない。

 

だから、聖徒の交わりをとおして、自分はキリストの神性の本質にあずかったと主張する者、またわたしはキリストと等しい者であると主張する者は、神である主権者キリストを低める不敬虔な者であり、神であるキリストを冒瀆する者である。

 

ウ告白は、最後に聖徒の交わりが決して個人の財産権、所有権を侵害し、奪うものではないと主張している。

 

使徒言行録24445節、第432節の御言葉への弁明である。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。

 

この記述は、個人の財産権と所有権を否定しているのではない。信者たちが聖徒の交わりを通して相互の愛において、自発的に彼らの財産を、所有物を献げて、貧しい兄弟姉妹と分け合ったのである。

 

エルサレム教会が強制して富める兄弟姉妹から財産や所有物を献金させたのではない。聖徒の交わりにおける愛によってエルサレム教会の信者たちは、自発的に貧しい兄弟姉妹のために献金したのである。

 

使徒言行録5章にアナニアとサフィラ夫婦の偽りの献金の事件を記している。彼らは聖霊を欺き、彼らの売った土地の代金をごまかして、全額献金したように装った。ペトロは夫のアナニアに次のように彼らに財産権も所有権もあり、売っても売らなくても、また売った代金を自分たちで自由にできたと述べている。

 

ウ告白は、このように聖書に基づいて聖徒の交わりが、個人の財産権と所有権を奪うことも、侵害することもないと主張する。教会の献金は、教会員の財産権や所有権を奪い、侵害するものではない。まことに聖徒の交わりにおける信仰と愛において自由に、自発的になされるものである。

 

大切なことは、神の賜物と恵みを互いに分かち合うことで、兄弟姉妹が互いに信仰を高め合い、互いに信仰を励まし合い、貧しい兄弟姉妹や困難にある兄弟姉妹のために支援をし合うことである。

 

 

教会の神礼拝における奉仕だけでなく、この世におけるキリスト者の交わりにおける奉仕においても、自由に自発的に神の賜物と恵みの分かち合いによって、支え合うことを、ウ告白は奨励するのである。

 

ウェストミンスター信仰告白165        主の20201230                                                               

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第21729(新約聖書P275276)

 「第二十七章 礼典について」の三節

正しく用いられる礼典の中で、またはそれによって、表示される恵みは、礼典のうちにあるどのような力によって与えられるのではない。また礼典の効果は、それを執行する者の敬けんあるいは意図によるのでもない。それはただ、みたまの働き、および礼典の使用を権威付ける命令と、ふさわしい陪餐者に対する祝福の約束とを含む礼典制定のみ言葉とによるのである。

 

今夜は、「第二十七章.礼典について」の三節を学ぼう。前回は「第二十七章 礼典について」の二節を学んだ。

 

礼典は洗礼と主の晩餐から成る。二節では、洗礼と主の晩餐のしるしとそれが象徴されているものとの関係を学んだ。洗礼の場合は水がしるしで、主の晩餐はパンとぶどう酒である。そのしるしの霊的関係とどちらも神が制定された礼典的一致があることを学んだ。

 

今夜は、礼典の効力と有効性は聖霊のお働きと制定の御言葉によることを学ぼう。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

正しく用いられた礼典において、あるいはそれによって差し出される恵みは、礼典自体の中にあるどのような力によっても与えられるものではない。また礼典の効力も、それを執行する者の敬虔さや意向によるものではない。その効力は御霊の働きと、礼典制定の御言葉とによるのであって、その制定の言葉には礼典の使用を権威づける命令とともに、ふさわしい陪餐者に対する恩恵の約束が含まれているのである。

 

   松谷好明訳

正しく用いられた聖礼典において、あるいは、それによって、提供される恵みは、聖礼典の内にある、いかなる力によって与えられるのでもない。また、聖礼典の効力は、それを執行する者の敬虔さや意向によるのではなく、御霊の働きと、制定の言葉―これは、聖礼典の使用に権威を与える命令と共に、ふさわしい陪餐者に対する益の約束を含んでいる―によるのである。

 

   鈴木英昭訳

正しく用いられる礼典において、あるいはそれらによって、あらわされる恵みは、礼典それ自体にあるどのような力によっても与えられない。また礼典の効力は、それを執行する者の敬虔さと意図にもよらない。それは御霊の働きと、礼典を用いよとの命令の言葉と共に、ふさわしい陪餐者への恵みの約束の制定の御言葉と、による。

 

礼典は奥義(ミュステーリオン)である。ヘレニズム世界には密儀宗教が存在した。奥義を受けた者だけが関与できる神聖な儀式そのものを表現するのがミュステーリオンである。キリスト教の礼典は隠されたものより以前は知られていなかったが今や啓示されたものである。神から人に聖霊のお働きによって解き明かされる真理である。その媒体の手段が御言葉としるしである。それは、福音として伝えられるのである。キリストの十字架と復活、再臨と御国と永遠の命である。

 

正しく用いられる礼典」とは、キリストが命じられた通りに執行される洗礼と主の晩餐である。

 

またはそれによって、表示される恵み」とは、洗礼と主の晩餐の執行によって表される恵みである。それはキリストの福音の全てである。個々にはキリストの受肉、十字架、復活、キリストの内住、キリストの再臨と神の御国と永遠の命である。

 

ウ告白が三節で主張することは、二つである。聖礼典におけるしるしと執行者に礼典を効力あるものとする力も礼典を有効なものとする力もないということである。

 

キリスト教は、奥義である礼典から徹底的に魔術を排除する。あるいは何らかの人間の力というものを排除するのである。

 

しるし」である洗礼の水も、主の晩餐のパンとぶどう酒も、礼典に用いられる品物に過ぎない。その物に何らかの神秘的な力があり、礼典に効力を発揮させることはない。

 

また礼典の効果は、それを執行する者の敬けんあるいは意図によるのでもない」。ローマカトリックでは、典礼の執行者に対する人効論と事効論の対立がある。人効論の語源は、「為す者の業によって」という言葉に由来する。神の恩恵はそれに与る者や司祭の功徳によって授けられるという思想である。12世紀以後のカトリック教会の秘跡において定着した。しかし、13世紀に事効論がローマカトリック教会の主流になった。事効論の語源は、「なされた業によって」という言葉に由来する。教会の秘跡が持つ超自然的力は、それを授かる者や司祭の功徳によってではなく、教会の秘跡儀礼のうちにキリスト自身によってもたらされるという思想である。

 

確かに人効論と事効論には違いがある。しかし、ウ告白は、ローマカトリック教会が礼典に超自然的な力があると考えることに、そして秘跡を教会が客観的な聖性として与えると考えていることに反対している。

 

礼典そのものに何らかの超自然的働きはない。しるしは、しるしである。礼典執行者は神の用いられる器である。

 

だから、ウ告白は、礼典が正しく礼典として効力あるものとなり、受ける者に益となるためには、聖霊のお働きと礼典制定語である御言葉が必要であると述べている。

 

ウ告白は、礼典制定語についてこう述べている。「その制定の言葉には礼典の使用を権威づける命令とともに、ふさわしい陪餐者に対する恩恵の約束が含まれているのである。

 

ウ告白は、宗教改革者たちが礼典の有効性を信仰の内に求めた伝統に従うのである。矢内昭二先生は、こう記している。「後半は、小教理問九一、大教理問一六一にもはっきり確言されているように、礼典を制定されたキリストの祝福と信仰によって礼典にあずかる人々の中に働くキリストのみ霊の働きが礼典を有効にするということを述べている」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P264265)