ウェストミンスター信仰告白31    主の2018411

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第281620(新約聖書P60)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 二.神について、また聖三位一体について」の「三」

 

 

 

 神の統一性の中に、ひとつの本質、力、永遠性をもつ三つの人格がある。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神である。み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る。

 

 

 

前節は、神が自己充足者であるゆえに、神は万物の唯一の源であり、万物を主権的に支配するお方であること学んだのである。

 

 

 

そして、ウ告白がわたしたち読者に求める神理解を学んだのである。すなわち、ウ告白はわたしたち読者に「神について信じなければならない」ことを、「神がわたしたちに求められる義務」を、内容として教えている(矢内昭二『ウェストミンスター信仰告白講解』P46)ということである。神理解の要は信仰と服従である。

 

 

 

 さて、三節も他の訳と比較しよう。

 

(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 神の唯一性の中に、同じ一つの本質、力、永遠性を持つ三つの位格がある。父なる神、子なる神、聖霊なる神である。御父は何ものにも由来せず生まれもせず、出てくることもない。御子は御父から永遠に生まれる。聖霊は御父と御子とから出てくる。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

神性の統一の中に、同一の実体・力・永遠性を持つ三つの位格、すなわち、父なる神・子なる神・聖霊なる神が、存在される。御父は、自ら存在しておられて、生まれることも、発出することもなさらず、御子は、永遠に御父からお生まれになり、聖霊は、永遠に御父と御子とから発出しておられる。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

神の本性の統一のなかに、同じ本質と力と永遠性とをもつ三つの位格がある。すなわち、父である神、子である神、聖霊である神である。父は、彼自体で存在し、生まれもせず、出もしない。子は永遠の昔に父から生まれ、聖霊は永遠の昔に父と子から出ている。

 

 

 

 三節は、三位一体の神の教理である。一節でウ告白は、「ただひとりの、生ける、まことの神がおられるだけである」と告白した。しかし、ウ告白は、ここではその唯一の、生ける神の中に、本質と力と永遠性において同一である三つの位格が存在すると告白する。それが御父と御子と聖霊なる神である。

 

 

 

 三位一体の教理は、ニカイア信条とラテン教父アウグスティヌスによって確立された。宗教改革者たちは、それに異議を唱えず、ウ告白の三節は、彼らの三位一体の教理の再述である。

 

 

 

 岡田稔先生は、こう述べている。「これは唯一の神の内部構造である。神は唯一であるということを少しも修正することなく、神は三一であると言わなければならない。三一性は唯一性と何ら矛盾するものではない。すなわち、一つの本質にある三人格である。父と子とみ霊とは唯一の神でいます。」(岡田稔『解説ウェストミンスター信仰告白』P⒙)

 

 

 

 父、子、聖霊の位格の区別は永遠的区別である。矢内昭二先生は、こう述べている。「神は永遠に三位一体のかみですから、子のいましたまわざりし時の父、聖霊の存在しなかった父と子を考えることはできません。み子は永遠に父より生まれ、聖霊は永遠にみ父とみ子とより出ずるというのはそういう意味です。」(矢内昭二『ウェストミンスター信仰告白講解』P51)

 

 

 

 三位一体の神告白は、キリスト教の中心であり、要約である。この教理なしに、キリスト教の正しい神観は成立しないのである(矢内昭二)

 

 

 

 聖書啓示により唯一の神は、三つの位格において御自身を父と子と聖霊としてあらわされたのである。

 

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白32    主の2018418

 

 

 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第1314(新約聖書P352)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 三.神の永遠の制定について」の「一」

 

 

 

 神は、全くの永遠から,ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。

 

 

 

ウ信仰告白は、聖書の神はどのようなお方であるかを、聖書の御言葉で告白する。すなわち、(1)神の唯一性を告白する。(2)神の唯一の中に本質と力と永遠性を同じくする三つの位格が実在することを告白する。父と子と御霊なる三一の神である。(3)御父は永遠から生まれも出てくることもなく、子は父から永遠に生まれ、御霊は父と子から出てくると告白する。

 

 

 

今夜よりウ告白は、三位一体の神がどのような働き(御業)をされるかを告白する。三位一体の神の働き(御業)は、内なる業と外なる業とに分けられる。すなわち、ウ告白の3章の「神の永遠の聖定」と45章の「創造と摂理の御業」である。

 

 

 

 さて、第3章一節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 神は、全くの永遠から、御自身の意志の最も賢く聖い意向によって、じっさい、起こりくる事を何でもすべて、自由に、また不変的に定められた。とはいえ、それによって、神が罪の創始者にならず、また、被造物の意志に暴力が加えられることもなく、さらにまた、第二原因の自由や偶然性が取り去られず、かえって確立されるような仕方で、そうされたのである。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

神は、全くの永遠から、起こってくることは何事であれすべて、御自身の御心の最も賢く清い計らいにより、自由に、また不変的に、お定めになられた。しかし、それによって、神が罪の作者となることなく、また、被造物の意志に暴力が加えられず、更にまた、第二原因の自由や偶然性が取り去られるのではなく、むしろ確立されるような仕方で、である。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

神は、全くの永遠から、御自身の意志の最も賢く清い計画によって、起こり来ることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められた。しかし、それによって、神が罪の作者とはならず、被造物の意志に暴力を加えることもなさらない。また、第二原因の自由や偶然性も奪い去られず、むしろ確立される。

 

 

 

 神の「聖定」とは、神の全「被造物」対する神の「決定」である。天と地で起こるすべての事はすべて、神御自身が永遠の計画において決定されている。

 

 

 

 三位一体の神の実在と働き(御業)の間をつなぐのが三位一体の神の聖定である。「これは神の内と外にかかわっている問題」(岡田稔『解説ウェストミンスター信仰告白』P20)。「歴史的世界、被造物世界に実現する出来事に関する聖定である。けれども、どこまでもそれは神の内に秘められたものであることであって、これを『永遠の聖定』と呼ぶのである。」(同上P20)

 

 

 

 ウ告白は、三位一体の神が永遠から一切の被造物の世界を、御自身の自由な意志により不変的に決定されたと告白する。主権的な三一の神が天と地に起こることすべてを、自由にしかも不変的なものとしてお定めになったのである。

 

 

 

 だが、聖書のこの教えに次の三つの反対がある。(1)神を罪の創始者とする、(2)被造物の意志に暴力が加えられる、(3)第二原因の自由と偶然性が排除される。

 

 

 

 ウ告白は、三一の神の聖定は、上記の3つの反対に同意しない。むしろ、聖定は確立する仕方であると主張する。

 

 

 

神の聖定は運命論、宿命論ではない。神の決定であるが、神は人に罪を強制されない。むしろ、人間は与えられた自由を用いて自ら罪を犯したのである

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白34    主の201852

 

 

 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第1310(新約聖書P352)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 三.神の永遠の聖定について」の「三」

 

 

 

 神の聖定によって、神の栄光が現わされるために、ある人間たちとみ使たちが永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている。

 

 

 

前回は、ウ告白の「三」の二で、神の聖定が神の予知によって定められたのではないことを学んだのである。神は全能者としてすべての起こる事柄をあらかじめ知られているが、神はその予知によって永遠の聖定をなさったのではない。神の永遠の聖定は、神の自由な選びによることを学んだのである。

 

 

 

今夜は、ウ告白が有名な二重予定を告白しているのを学ぶ。

 

 

 

 さて、第3章三節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村上満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 神の聖定により、神の栄光が現されるために、ある人間たちと天使たちは永遠の命に予定されており、また他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

神の聖定により、神の栄光を現すため、ある人々と天使たちは永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死に前もって定められている。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

神の聖定によって、神の栄光があらわされるために、神は、あらかじめ、ある人間たちと御使いたちを永遠の命に予定し、他の者たちを永遠の死に定められた。

 

 

 

 他の個人訳と比較して読んでいただくと、ウ告白が神の「聖定」の中に神の予定が含まれており、神の聖定は全被造世界で起こるすべての事を、神が永遠に決されたのであり、神の予定は神が人間と神の御使いたちを永遠に決意されたことを、聖書から教えていることに気づかされる。

 

 

 

 神の聖定は、神の永遠の決意である。その中心は、エフェソの信徒への手紙145節である。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

 

 

 

 ウ告白は、聖定の中で神は、被造世界の起こり来るすべての事を定められていますが、「その中心は、わたしたちの主イエス・キリストによって実現される神の永遠の救いの計画(エフェソ1911311)です。」(矢内昭二『ウェストミンスター信仰告白講解』P56)

 

 

 

 ウ告白のこの二重予定の教理は、最も人を不愉快にさせる教理と思われている。なぜなら聖書の神は、ある人間たちと神の御使いたちを永遠の命に予定し、他の人間たちと神の御使いたちを永遠の滅びに予定されたと、ウ告白が主張すると考えるからである。

 

 

 

 だから、神に罪の責任があり、伝道に意味がないと考える。また、自分は神に選ばれたのか、遺棄されたのかと、信者を不安に陥らせる恐ろしい教理であると思われている。

 

 

 

 その誤解を解く鍵は、ウ告白の「予定」と「定められた」の言葉の使用である。ウ告白は永遠の命に選ばれた人間たちと神の御使いたちには「予定」されたと告白し、他の者は永遠の死に前もって定められたと告白している。

 

 

 

 「予定」は永遠の命に選ばれた者だけに使用され、「定める」は両者に使用されている。予定は神の自由な恵みによる選びである。神は御自身の栄光のために創造の前より主イエス・キリストにあってある人々を神の子としようと決意されたのである。

 

 

 

 ウ告白は、「選びと遺棄が共に神の聖定に基づいているということでは同じでも、その根拠が全く違う」ということを、「予定」と「定められた」の言葉の使用によって主張しているのである(矢内昭二P57)。神の自由な恵みによる選びこそがすべての祝福の源泉である(創立50周年宣言)

 

ウェストミンスター信仰告白35    主の201859

 

 

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第131220(新約聖書P194195)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 三.神の永遠の聖定について」の「四」

 

 

 

 このように予定されたり、あらかじめ定められているこれらのみ使や人間は、個別的また不変的に指定されており、またその数もきわめて確実で限定されているので、増し加えられることも、減らされることもできない。

 

 

 

前回は、ウ告白の「三」の三で、神の聖定の中の神の二重予定について学んだのである。選びと遺棄が共に神の聖定に基づいていること、その目的は神の栄光が現れるためであり、その根拠が全く違うことを『予定』と『定め』という言葉の使い分けで明らかにされていることを学んだのである。

 

 

 

今夜は、ウ告白が神の聖定に変更・変化がないことを教えている。

 

 

 

 さて、第3章四節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村上満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 このように予定されている、またあらかじめ定められている、これらの天使と人間たちは、個別的に、そして不変的に指定されており、彼らの数はきわめて確かで確定しているので、増し加えられることも減らされることもあり得ない。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

このように予定され、あるいは前もって定められている、これらの天使と人々は、個別的に、また不変的に指定されており、彼らの数は正確で確定しているため、増やされたり減らされたりすることはありえない。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

このように予定されたり、あらかじめ定められたりしているこれらの御使いや人間は、個別的にまた不変的に指定されており、またその数もきわめて確実に限定されているので、増し加えられることも、減らされることもありえない。

 

 

 

 他の個人訳と比較して読んでいただくと、ウ告白は、神の「聖定」に変更・変化がないことを明確に聖書から証言する。

 

 

 

 テモテへの手紙二219:神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、『主は御自分の者たちを知っておられる』と、また『主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである』と刻まれています。

 

 

 

 ヨハネによる福音書1218節:「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。

 

 

 

 神の予定は、神の永遠の決意で、永遠から神の御計画に従って、予定され、前もって定められている。変更と変化はあり得ないのである。

 

 

 

 岡田稔先生は、「神の性質と聖定の間には、自由の一線が横たわり、聖定と世界的事件との間には、必然的関係が横たわっている。これは、実にキリスト教哲学の根本原理である。自由と必然とは、このような関係としてのみ正しく両立する。神と世界との関係を単純に自由の一線で結ぶならば、偶然論となり、必然の関係で結ぶなら、決定論とならざるをえない。聖定論は、実はこの二つの哲学を同時に論破する聖書的有神論の奥義である」(『解説ウェストミンスター信仰告白』P21)と言われている。

 

 

 

 選らばれた御使いと人間、遺棄された御使いと人間は、神の永遠の決定により、個別的になされ、不変的に指定され、その数は正確に確定されているので、途中で変更され、変化することはありえません。神が決められた数が増えることも減ることもない。

 

 

 

 神の選びは、上記の主エスのお言葉どおり、キリストにおける選びであり、キリストは御自身が選ばれた者を知り、その数を変えられません。裏切り者のユダはその数に入っていなかったのである。選ばれた者が遺棄され、遺棄された者が選ばれることはないのである。