ガラテヤの信徒への手紙説教01     主の20181111

 

人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。          

 

ガラテヤの信徒への手紙第115

 

 

 

説教題:「人からではなく」

 

 

 

今朝よりガラテヤの信徒への手紙を学びます。

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙は、その名の通り手紙、書簡です。

 

 

 

手紙はプライベートで、書簡はオフィシャルであると、考える方があるかもしれません。

 

 

 

その理解では、ガラテヤの信徒への手紙はパウロがガラテヤ地方の諸教会宛に書き送ったオフィシャルな書簡です。

 

 

 

また、手紙、書簡には定まった形式があります。誰が何の目的で、誰に宛てて書いたのか。そこに挨拶を書き込みます。

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙は間違いなく使徒パウロがガラテヤ地方の諸教会のキリスト者たちに宛てて、書き送った手紙です。

 

 

 

使徒パウロは、離散のユダヤ人の家庭に生まれました。ギリシア語を話すユダヤ人でした。彼はファリサイ人で、熱心にモーセ律法を守り、ユダヤ教の習慣を守りました。

 

 

 

それゆえに彼はキリスト教会の迫害者となりました。

 

 

 

彼が教会の迫害者から異邦人たちにキリストの福音を伝える使徒になった事情については、使徒言行録の89章に詳しく記されていますので、お読みいただきたいと思います。

 

 

 

そして、彼はバルナバと共に異邦人たちにキリストの福音を伝えて、開拓伝道をしました。

 

 

 

キプロス島から小アジア(現在のトルコ)にいる異邦人たちにキリストの福音を伝えました。

 

 

 

パウロとバルナバとの第一回伝道旅行です(使徒言行録1314)

 

 

 

彼らは、ローマ帝国の植民地で、属州であったガラテヤ地方のリストラ、イコニオン、デルベという町々の異邦人たちにキリストの福音を伝え、その町々に教会を建てました。

 

 

 

教会と言いましても、わたしたちのように土地と建物があるわけではありません。

 

 

 

ただ、ある人の家に人々が集まり、礼拝をし、祈りをしました。集まりました人々は、パウロやバルナバから説教を聞きました。キリストの十字架が人の罪の贖いで、異邦人たちにも神との和解の道が開かれたことを。そしてキリストの復活がキリストを救い主と信じる者の復活と永遠の命を保証していると。

 

 

 

彼らは喜んでパウロたちが語るキリストを、主と信じて、洗礼を受けました。そしてキリスト者となりました。

 

 

 

パウロは第二回伝道旅行で、ガラテヤ地方の諸教会のキリスト者たちを訪問しました(使徒言行録16:15)

 

 

 

それからパウロたちはヨーロッパに渡り、マケドニア、アテネ、コリントへと伝道しました(16:618:23)

 

 

 

その短期間で、ガリラヤ地方の諸教会のキリスト者たちの信仰が一変してしまっていたのです。簡単に言えば、神の恵みによって信じる信仰から人の行いで救われる信仰に変わっていたのです。

 

 

 

だから、パウロは彼らの背教にあきれ果てて、この手紙の16節以下で、「ほかの福音はない」と告げているのです。

 

 

 

教会の悪い変化は、悪い伝道者、偽教師たちがいたからです。

 

 

 

彼らはパウロたちが去った後、エルサレムからやって来ました。彼らは、ユダヤ人キリスト者と呼ばれていました。彼らは、キリストを否定しません。十字架も復活も否定しません。きリスト教をユダヤ化しようとしたのです。

 

 

 

彼らは、パウロが12使徒ではなく、使徒の権威はないと主張しました。さらに彼らはパウロがキリスト信じる信仰だけで救われると言っているのは間違いだと言いました。

 

 

 

彼らはガラテヤの諸教会のキリスト者たちに、パウロが語るキリストの福音に代わって、割礼の福音を語りました。そして、ユダヤ人たちがしているように、異邦人たちも割礼を受け、モーセ律法を守り、ユダヤ人の習慣を守らなければならないと主張しました。

 

 

 

だから、パウロはこの手紙で次のことをしなければなりませんでした。

 

 

 

第一にパウロの使徒職(使徒としての権威)の擁護です。第二にキリスト教信仰の普遍性を守ることです。ユダヤ人だけが救われるのではありません。キリストの福音を聞いて信じる者すべてが救われるのです。第三にキリスト者の自由を守ることです。

 

 

 

ガラテヤの諸教会のキリスト者たちは信仰の自由を捨て、律法の奴隷になりました。パウロは、彼らにあきれ果てているのです。

 

 

 

それでも、パウロは彼らを見捨てません。パウロは、常に父なる神がキリストにあって彼らを永遠に選び、キリストの十字架の血で彼らを贖われた、その愛を見ていました。

 

 

 

こうしてパウロは自分の使徒職を擁護し、彼らの信仰の自由を守るために、この手紙の挨拶を書きました。

 

 

 

1節で「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と、彼は手紙を書き始めます。

 

 

 

彼はガラテヤの諸教会のキリスト者たちに、パウロの使徒職は人から与えられたものではないと宣言しています。

 

 

 

彼はエルサレム教会の12使徒と同じように、キリストの代理人として、異邦人たちと彼らの教会にキリストの福音をもたらす権威を付与されていると述べています。

 

 

 

彼が主イエス・キリストと共に父なる神を、自分の使徒職の権威の根拠に挙げているのは、次のような狙いがあると思います。

 

 

 

彼は、旧約聖書の預言者エレミヤのように父なる神がキリストにあってパウロを使徒に選ばれ、彼は母の胎にいるときから、使徒の権威を与えられていたと主張しているのです。だから、彼が使徒であることに、どんな人間の行為も介在もないと。

 

 

 

ガラテヤの諸教会は、使徒パウロが一人で建て上げたのではありません。彼と共に労苦した者たちがいました。だから、パウロは、2節で「ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から」と記しています。

 

 

 

教会は人々が集まるところです。パウロだけでは教会は建て上げられません。一人では教会は成り立ちません(マタイ18:20)

 

 

 

パウロと一緒にいる仲間がいるから、彼らがパウロと共にガラテヤ地方でキリストの福音を人々に伝えてくれたから、ガラテヤの諸教会があるのです。人々が集まり、その群れが礼拝を始め、説教が語られ、それを聞く聴衆がおり、彼らは聞いた喜びを周りの人々に伝えました。それが何年、何十年続けられ、教会がその地方に持続するのです。

 

 

 

ところがパウロは、この手紙の宛先であるガラテヤの諸教会に対してぶっきらぼうというか、素っ気ないです。

 

 

 

ガラテヤ地方の諸教会へ」という一言です。

 

 

 

ある注解書を読みますと、次のように記されています。「彼は静かで釣り合いのとれた手紙など書く心境にはなかった。始めから彼の言葉は挫折の感情と憤激をむき出しにしている。彼にとってその問題は胸糞わるく、書き出しからして彼は心情をぶちまけるのである」(コンパクト聖書注解『ガラテア人への手紙』教文館 P2829)

 

 

 

だが、パウロは手紙の宛名に「ガラテヤ地方の諸教会へ」と書きました。パウロが伝え、教えた信仰を捨てたのに、彼らは背教しているのに、パウロはなおも、ガラテヤ地方の諸教会を見捨てませんでした。彼らから教会の看板をはぎ取り、キリスト者の名をはぎ取りませんでした。

 

 

 

宗教改革者カルヴァンは、次のようにコメントしています。「ある集会の教理と実践が、あらゆる点で我々の欲するところに適していないからといって、直ちにその欠陥を理由としてその社会から教会という名を取り上げてしまってはならない」(田中剛二著作集第三巻『ガラテヤ書講義』新教出版社P32)と。

 

 

 

教理と実践においてあるべき純潔さがないと判断すれば、わたしたち改革派教会は、そこは教会ではないと言わないでしょうか。

 

 

 

ところが、パウロは、ガラテヤの地方の諸教会のキリスト者たちに多くの信仰の誤謬と罪を認め、彼らの背教にあきれ果てつつも、キリストの名のもとに集まる彼らを、「教会」と呼び、彼らを「兄弟」として受け入れ、彼らにこの手紙で勧告しているのです。

 

 

 

先ほど「教会は人の集まるところだ」と言いました。どうして人が集まるのでしょう。キリストの十字架の血の贖いによって買い取られた人々だからです。

 

 

 

わたしたちは自分の目だけで、教会と兄弟姉妹たちを判断すべきでありません。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの地方の諸教会がキリストの十字架の血で買い取られた教会と信じるゆえに、そこに復活の主イエスは臨在されると信じています。

 

 

 

だから、3節で次のように祈ることができるのです。

 

 

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように

 

 

 

パウロは、神の恵みは人間の知恵と対立することを知っています。人間の知恵は、パウロの使徒職を、父なる神とキリストが与えられたと信じることはできません。ましてパウロは、人間の知恵と神の恵み、キリストの恵みとは対立すると考えています。

 

 

 

神の恵みは人の弱さの中に現れるからです。そして、わたしたち人間は、キリスト者であっても自分に弱さがあることを認めることができません。

 

 

 

ガラテヤの諸教会に父なる神とキリストの恵みと平和があることがパウロには重要なことでした。

 

 

 

その理由は4節の定型句にあります。これは、キリスト教信仰の決まり文句です。

 

 

 

キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。

 

 

 

この定型句で、パウロは驚くべきことに、ガラテヤ地方の諸教会のキリスト者たちやそこに集まる人々に、父なる神とキリストの救いの恵みを約束しているのです。

 

 

 

先ほど言いましたように教会はキリストの十字架の血によって買い取られたのです。

 

 

 

だから、パウロは、キリストの犠牲的献身の定型句を用いて、父なる神とキリストの恵みを救いの主要な根拠として、また、平和を人間が悪しき世から救い出されて、解放される過程として理解するゆえにガラテヤ地方の諸教会がどんなに今腐敗していようと、父なる神とキリストが恵みよって救ってくださると約束するのです。

 

 

 

パウロは手紙の最初と終わりで、神の栄光を讃えつつ、神とキリストの恵みと平和で、この手紙全体を結び付けています(囲っています)

 

 

 

だから、5節でパウロは、次のように述べて、アーメンと言っているのです。

 

 

 

わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。 

 

 

 

パウロの頌栄です。わたしたちの神であり、父であるお方は、主イエス・キリストを死者の中から復活させたお方です。その全能のお方が、ガラテヤ地方の諸教会で毎週日曜日に礼拝で、彼らをキリストの恵みに招いてくださるのです。

 

 

 

そこで「人々からでもなく、人を通してでもなく」、父なる神とキリストとによって立てられた権威に生きる者が語る説教を福音として聞くことで、キリストの教会が建ち、持続されていくのです。

 

 

 

こうしてパウロの御言葉から、わたしたちはこの日曜日の礼拝が全能の神の奇跡の御業であることを理解させられるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝よりガラテヤの信徒への手紙を講解説教します。

 

 

 

どうかガラテヤの信徒への手紙を学ぶことで、臨在のキリストの恵みを見させてください。

 

 

 

礼拝で御言葉を聞ける恵み、聞いて信じた者が信仰告白し、洗礼を受ける恵みを見させてください。

 

 

 

願わくは、共に聖餐にあずかり、祈りと奉仕と学びにあずからせてください。

 

 

 

わたしたちの教会がキリストの十字架の血で買い取られた群れであり、父なる神とキリストの恵みと平和で満たされていることを、常に覚えさせてください。

 

 

 

教会の70周年を祝いましたが、復活の主イエスがその70年間、この教会と共に歩んでくださり、今ここに教会があることを感謝します。

 

 

 

小さな群れでありますが、クリスマス月間に、わたしたちの家族や知人、諏訪地方の人々を、松本や伊那の人々をお誘いし、共に礼拝したいと願っています。どうかクリスマスに心から父なる神とキリストを讃えさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙説教02     主の20181118

 

キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返し言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。

 

こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあせくせしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

 

        ガラテヤの信徒への手紙第1610

 

 

 

説教題:「教会を建て、持続する福音」

 

 

 

先週よりガラテヤの信徒への手紙を学び始めました。

 

 

 

使徒言行録14章を読みますと、次のように記されています。使徒パウロとバルナバは、紀元4648年に第1回伝道旅行をしました。シリアのアンティオキアから出発し、地中海のキプロス島を経て、小アジア(現在のトルコ国)に渡り、キリストの福音をユダヤ人の会堂で語りました。

 

 

 

使徒言行録の14章はその伝道旅行の終わりの描写です。彼らは、イコニオンのユダヤ人の会堂でキリストの福音を伝えました。すると、大勢のユダヤ人たちとギリシア人たちがキリスト教信仰に入りました。

 

 

 

ところがユダヤ人たちが来て、彼らの伝道を妨害しました。町に騒動が起こりました。彼らの命が危険になりました。二人はイコニオンの町を離れ、リカオニア州のリストラとデルベの町へと逃れました。

 

 

 

デルベの町で二人はキリストの福音を伝えて、多くの弟子たちを養成しました。そして、その弟子たちを力づけながら、シリアのアンティオキアに戻り、第1回伝道旅行を終えました。

 

 

 

紀元49年にエルサレムで使徒会議が開かれました。使徒言行録の15章にその会議が記録されています。その会議でパウロとバルナバたちの異邦人伝道が認められました。この会議で初代教会は異邦人伝道を拡大することになりました。異邦人キリスト者たちがユダヤ人たちをつまずかせなければ、彼らはユダヤ人の習慣を押し付けられないということを確認する会議でした。

 

 

 

異邦人たちは割礼を受けなくてもよい。信仰だけで、キリスト者になれる。これは異邦人たちにとって本当に福音でした。

 

 

 

使徒会議後パウロとバルナバは第2回伝道旅行を計画しました。ところが、第1回伝道旅行で途中離脱した弟子のマルコのことで喧嘩別れしました。

 

 

 

パウロはシラスを同伴者に選び、紀元49年-52年に小アジアからヨーロッパに向けて第2回伝道旅行しました。

 

 

 

その時にパウロは、バルナバと共に開拓伝道したガラテヤの諸教会を訪問しました。パウロはデルベとリストラを訪れ、リストラとイコニオンで、すなわち、ガラテヤ地方の諸教会で評判の良かったテモテを、彼の弟子にしました。

 

 

 

使徒言行録は166節でパウロたちが「フルギア・ガラテヤ地方を通って行った」と記述しています。この記述で、ガラテヤ地方の諸教会が北ガラテヤにあったのか、南ガラテヤにあったのかと、今日も延々と論争されているのです。

 

 

 

わたしは、「フルギア・ガラテヤ地方」を、パウロたちは何もしないで、通過したはずがないと思います。キリストの福音を伝えたろうし、その地方でキリストの弟子を育てたでしょう。パウロが去った後、弟子たちはその地で熱心に伝道し、ガラテヤの諸教会を建て上げたろうと思います。

 

 

 

しかし、これは想像の域を出ません。歴史的証拠はありません。

 

 

 

確かなことは、パウロたちがヨーロッパのマケドニアに渡って、アテネ、コリントと伝道の旅を続けている間に、ガラテヤの地方の諸教会にエルサレムから割礼の福音を語るユダヤ人キリスト者たちがやって来たのでしょう。

 

 

 

彼らは、パウロの使徒職を否定し、パウロは12使徒たちのようにキリストから権威を与えられていないと主張しました。

 

 

 

さらに、彼らは信仰だけでは救いに十分ではないと主張しました。割礼を受け、モーセ律法を守り、ユダヤ人の習慣を守る必要があると教えたのです。

 

 

 

そこでガラテヤの諸教会のキリスト者たちは、後からやって来た「割礼の福音」(ガラテヤ2:78)を伝える者たちにすっかり惑わされてしまいました。

 

 

 

ここではパウロは「ほかの福音」と言っています。それにガラテヤの諸教会のキリスト者たちが乗り換えました。

 

 

 

先週もお話ししましたように、本当に短期間で、ガリラヤ地方の諸教会のキリスト者たちの信仰が一変してしまっていたのです。簡単に言えば、神の恵みによって信じる信仰から人の行いで救われる信仰に変わっていたのです。

 

 

 

だから、パウロは彼らの背教にあきれ果てて、今朝の御言葉で、パウロは「ほかの福音はない」と警告しました。

 

 

 

パウロは、彼が語るキリストの福音のほかに福音なるものを一切認めません。

 

 

 

なぜなら、主イエス・キリストの父なる神は、このキリストの福音を通して、わたしたち罪人をキリストの恵みに招き入れてくださるからです(ガラテヤ1:6)

 

 

 

どうか週報の礼拝順序を見て、よくよく考えてほしいと思います。礼拝は奏楽がなされ、「招詞」で始まります。これは、礼拝という行為が、何を意味するかを教えています。キリストの父なる神がわたしたちをキリストの恵みへとお招きくださるのです。

 

 

 

だから、この礼拝に招かれたわたしたちは、罪を告白し、十字架のキリストの恵みのゆえに、罪の赦しにあずかるのです。

 

 

 

わたしたちは、どうしてこの礼拝順序通りに、礼拝をしているのでしょうか。お考えになったことはありますか。習慣でやっているのではありません。

 

 

 

信じてしているのです。神は目に見えません。しかし、わたしたちは神が生きておられると信じています。

 

 

 

その信仰に立てば、わたしたちは、神の行為は教会の行為として現れていると信じていることになります。

 

 

 

教会は、父なる神がわたしたちにキリストの恵みへと招いてくださることで、豊かになり、成長し、持続していくのです。

 

 

 

だから、礼拝説教はキリストの恵みを福音として語られなければなりません。パウロが言う「ほかの福音」のように聞く者に、キリストの恵みを伝えずに、行いによる救いを求めるものであってはなりません。

 

 

 

パウロが6節で「キリストの恵みに招いてくださる」と語っていることが、礼拝の中心であり、本質なのです。

 

 

 

なぜなら、だれも、このキリストの恵み無くして、主イエスをキリストと信じ、神の栄光をあらわし、賛美する者はいません。

 

 

 

このキリストの恵みこそがこの世におけるキリスト者の実存を可能としているのです。

 

 

 

だから、パウロは、ローマの信徒への手紙52節で、こう記しています。「このキリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 

 

 

パウロは「このキリストのおかげで」と、キリストがわたしたちの仲保者であることを言っています。

 

 

 

わたしたちは、キリストが父なる神とわたしたちの間を取り持ってくださったので、今この礼拝に父なる神に招かれているのです。こうしてわたしたちがここで礼拝することそのものが、「このキリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ」ていることなのです。

 

 

 

わたしたちがキリスト者として導き入れられているこの教会の礼拝という場所は、父なる神が「キリストの恵みへと招いてくださった」場所なのです。

 

 

 

だから、わたしたちは、ここでキリストの福音を聞いて、キリストの十字架のゆえに父なる神に罪を赦されているのです。またキリストが死ぬまで父なる神の御前に従順となり、得られた義を、わたしたちに賜ったので、わたしたちは父なる神に義と認めていただく祝福を得たのです。

 

だから、この礼拝でわたしたちは心から神を喜び賛美し、永遠に神を喜び、楽しむのです。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの地方の諸教会のキリスト者たちがキリストの恵みを捨てて、再び律法の奴隷になろうとすることが信じられませんでした。

 

 

 

わたしはあきれ果てています」。新改訳聖書2017は、口語訳聖書と同様に「私は驚いています」と訳しています。

 

 

 

パウロは、主イエスがファリサイ派の人々の不信仰を驚き怪しまれたように、ガラテヤ地方の諸教会のキリスト者たちがキリストの恵みから律法の奴隷になろうとすることを驚き怪しんでいるのです。

 

 

 

キリストの恵み」は、父なる神がキリストを仲保者としてわたしたち罪人が神に近づけることを可能としてくださった道です。

 

 

 

だから、パウロは、彼らにはっきりと7節で宣言しています。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」。

 

 

 

キリストの恵みの福音以外に神に近づける道はないのです。「ほかの福音」はありません。

 

 

 

なぜなら、パウロたちが語るキリストの福音だけが、わたしたちをキリストの恵みに立たせてくれるからです。

 

 

 

だから、パウロは、キリストの福音に反することをすれば、パウロ自身も、天使たちも呪われると警告するのです(89)

 

 

 

呪われるがよい」とは、「神に見捨てられるがよい」という意味です。パウロは二度繰り返していますので、ガラテヤの諸教会のキリスト者たちに彼らの背教という罪の深さを知らしめているのです。

 

 

 

この世にあってキリスト者は誘惑を避けられません。実にキリストの恵みに立つことは難しいと思います。

 

 

 

初めに聞いたキリストの恵みの福音にとどまることは、この世にあっては迫害と苦難に遭うと同じでしょう。

 

 

 

どうしてでしょうか。迷いがあるからです。10節のパウロの御言葉に、世にあるキリスト者の苦しみを見出せるのではないでしょうか。

 

 

 

パウロは、「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。」と反問しています。

 

 

 

この「取り入る」という言葉は、神と人間との関係で使われるとき、「償う」「満足させる」という意味です。そこから転用されて、「意にかなう」「人の気にいる」という意味になりました。

 

 

 

ここでパウロは、「わたしは人に喜ばれようとしているのか。神に喜ばれようとしているのか」と反問しているのです。

 

 

 

これは、この世のキリスト者が直面することです。

 

 

 

しかし、パウロは反問しつつ、最後に自分は人を喜ばせることから解放され、神をのみ喜ばせようとこの世において実践しているのだと言うのです。

 

 

 

だから、パウロは、はっきり今自分が人を喜ばせることだけをしているなら、キリストの僕ではないと宣言しています(10)

 

 

 

このパウロの宣言は、キリストの恵みに立つ者の宣言です。

 

 

 

キリストは、恵みによってあの十字架で、御自身の死をもってわたしたち罪人を贖われたのです。

 

 

 

この贖いは、昔の神の民イスラエルの生活から生まれました。貧しさから神の民イスラエルは、神から与えられた嗣業の地を他人に手放さなければなりませんでした。そこで自分では償いきれない借金を、親戚の者が代わって償い、失った嗣業の地を買い戻してくれました。これを贖いと言いました。

 

 

 

キリストは、わたしたち罪人が神に対して負った罪の負債を、自らの命を捨てることで贖ってくださいました。滅びて当然のわたしたちはキリストの十字架の死によって罪と死から、悪魔の支配から贖われ、買い戻されたのです。だから、今このキリスト者の体は自分のものであっても、真の所有者はキリストです。

 

 

 

だからキリスト者はキリストの奴隷、僕であり、常にキリストを喜ばすことを考えて、この世を生きているのです。

 

 

 

しかし、現実のキリスト者は霊において神とキリストを喜ばせようと思っても、肉なる体はその思いとは反対のことをし、自分や人の喜ぶことに傾きやすいのです。

 

 

 

だからこそ、弱いわたしたちは、キリストの恵みへと招いてくださる神から離れてはなりません。この礼拝から離れてはなりません。常にここでキリストの恵みに立ち続けるのです。キリストの恵みの内にわたしたちが立ち続ける限り、主はこの小さな群れを継続的に成長させ続けてくださるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝はガラテヤの信徒への手紙から、教会を建て、持続する福音について学ぶことができて感謝します。

 

 

 

どうかパウロが今朝の御言葉からわたしたちに語りましたキリストの福音に、キリストの恵みを信じて、固く立たせてください。

 

 

 

わたしたちは、小さな群れで、弱い者たちです。霊においては神とキリストに栄光を、と思いつつ、わたしたちの肉なる体はこの世に、自分と人を喜ばせることに傾きます。

 

 

 

キリストの恵みによってわたしたちに信仰を与え、その信仰を、礼拝でキリストの福音を聞いて、成長させてください。

 

 

 

12月にクリスマス月間が始まり、クリスマスのメッセージとクリスマス讃美歌を歌います。わたしたちの家族、知人、この町の人々を、キリストの恵みにお招きください。

 

 

 

どうか、この礼拝で御言葉を聞ける恵み、聖餐にあずかれる恵みと共に、信仰告白し、洗礼を受ける者を見る恵みをお与えください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。