ガラテヤの信徒への手紙説教11       主の2019331

 

兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。

 

わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし、神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。

 

では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

 

それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

 

信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。

 

        ガラテヤの信徒への手紙第31524

 

 

 

説教題:「律法の目的」

 

 

 

本日は、ガラテヤの信徒への手紙第31924節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回は、この手紙の31518節の御言葉を学びました。パウロはガラテヤの諸教会のキリスト者たちに「兄弟たちよ」と親しく呼びかけて、「分かりやすく説明しましょう」と、「人の作った遺言」を例に挙げて、神の約束の不変性を説明しました。

 

 

 

人の作った遺言」を例に挙げて説明するのは、遺言者の意志に基づくという本質が神の恵みの約束を説明するに適していたからです。

 

 

 

だから、パウロは、次のように説明したのです。神はアブラハムと恵みの契約を結ばれ、彼と彼の子孫に永遠の命を相続させると約束されました。その子孫とはキリストでした。2000年の時を経て、キリストを通してキリストに属するすべての異邦人キリスト者たちはアブラハムの約束を相続できるのであると。

 

 

 

パウロはガラテヤの諸教会のキリスト者たちに律法に対する約束の優位性を主張しました。パウロは、「わたしが言いたいのは、こうです。」と述べて、約束(契約)が律法に先行することを述べています。

 

 

 

パウロが神の恵みの約束の優位性を主張するのは、ユダヤ人キリスト者たちが後に神が神の民に与えられた律法によってアブラハムの約束が無効になったと主張していたからではありません。

 

 

 

むしろ、ユダヤ人キリスト者たちは、律法を守ることで、アブラハムの約束にあずかろうとしていたのです。神の約束と律法の両立を考えていたのです。

 

 

 

その両立こそパウロの目には、神の恵みの約束を無効にし、破棄していると見えたのです。

 

 

 

だから、パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに15節の見出しの「律法と約束」の二者択一を、18節で迫ったのです。

 

 

 

神の恵みの約束である永遠の命を相続できるのは、律法なのか、約束なのかと。

 

 

 

パウロが18節で説明するように、それが律法に由来するなら、約束に由来するものではありません。

 

 

 

唐突な言い方になりますが、ちょっとパウロの説明を聞いていて、何か違和感を覚えませんか。

 

 

 

これまでパウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに「律法の実行によってではなく、信仰によって」と主張してきました。パウロのその福音理解によれば、パウロは18節で「信仰に由来するものではありません」と説明すべきではありませんか。

 

 

 

ところが、パウロは、18節で続けて「しかし、神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。」と説明しています。ここでも「アブラハムの信仰によって」と記していないのです。

 

 

 

パウロが約束の優位性を述べていることに関係します。彼は神の恵みの優位性を、キリスト教の用語を使えば、神の主権性を強調しているのです。

 

 

 

つまり、パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、そして、わたしたち読者に、次のことを伝えたいのです。神の恵みは、人間の働きで得られるものではないと。

 

 

 

だから、パウロは、「約束」という言葉に拘りました。御国の相続は、どこまでの神の恵みの約束であり、父なる神が永遠からキリストにあって選ばれた神の民に与えると、神の意志による決定の賜物なのです。

 

 

 

そこに人間の働きが入る余地はないのです。

 

 

 

だから、18節でパウロは、信仰ではなく、約束という言葉に拘ったのです。

 

 

 

さて、反対する者たちは、パウロに「ではなぜ神は神の民に律法を与えられたのか」と質問するのではありませんか。

 

 

 

そこでパウロは、その質問を想定して19節で律法の目的、律法の有効期限、そして、律法の制定の方法について述べています。

 

 

 

では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

 

 

 

パウロは、律法が神の民に授けられた目的を次のように述べています。「違反を明らかにするために付け加えられたもの」。

 

 

 

律法は二義的に付加されたものです。

 

 

 

主イエスは山上の説教でこう言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)

 

 

 

パウロは律法を、神の恵みの契約(永遠の契約)に対する補足条項と見ているのです。

 

 

 

違反を明らかにする」はパウロの律法理解をよく知った上での意訳です。

 

 

 

ある注解者は、「逸脱のために」と訳して、次のように解説しています。「ここでは契約に期待される誠実さからの逸脱である」(浅野淳博『NTJ新約聖書注解』P291)と。

 

パウロは、イスラエルの人々が金の子牛を偶像礼拝した罪を念頭に置いているのです。モーセはシナイ山に登りました。そこで彼は、神より十戒の石の板二枚を授かりました。ところが、シナイ山のふもとではイスラエルの人々は金の子牛を偶像礼拝していたのです(出エジプト記32章)。

 

 

 

だから、永遠の契約における神の民の生き方を示すために、神はモーセを通して彼らに律法を授けられたのです。

 

 

 

恵みの契約は神の救いの歴史でもあります。神がモーセを通して神の民に律法を与えられたことは、神の救いの計画の一部でした。

 

 

 

神の恵みの契約、すなわち、神の救いの歴史は、キリストによって実現します。だから、パウロは「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで」という律法の有効期限を述べているのです。律法は、キリストが来られるまでは有効なのです。要するに契約(約束)は永遠ですが、律法は一時的で、有効期限があります。

 

 

 

パウロは、律法の制定の方法を、次のように述べています。「天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。」。これは、ユダヤ教の伝承です。神は天使たちを通してイスラエルの人々に律法を与えられました。また、律法はモーセという仲介者を通して手を経て制定されました。

 

 

 

だから、パウロは、20節で次のように述べているのです。「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

 

」。パウロは、律法は天使や仲介者を経ているので、神の恵みの約束のように神からの直接啓示ではないと述べているのです。約束は、天使や人を経ない唯一の神の直接の御意志なのです。

 

 

 

また、律法は、イスラエルと異邦人に諸国民を分け隔てました。しかし、約束の子孫であるキリストが来られ、十字架を通してイスラエルと諸国民の隔たりを取り除かれました。これによって律法の制約は取り除かれ、約束が福音として今や世界中の人々に伝えられているのです。

 

 

 

このようにパウロが述べることを聞いたユダヤ人キリスト者たちが彼に、21節で「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。」と質問すると、彼は想定して、「決してそうではない。」と否定しています。

 

 

 

約束か、律法かと、二者択一に議論すれば、どちらかは不要となるでしょう。確かにパウロは、約束の優位性を述べてきました。

 

 

 

しかし、パウロは約束こそ神の救いの本質と理解しつつ、律法を神の民がその本筋に生きるための補足であると理解しているのです。だから、想定したユダヤ人キリスト者の「律法は神の約束に反するものなのでしょうか。」という質問に断固として否定するのです。

 

 

 

律法は、約束に取って代わることはできません。しかし、パウロにとって律法は神がイスラエルの人々に授けられたものであり、聖なるものであり、そして神の救いの計画の一部なのです。

 

 

 

パウロはその理解に立ち、律法の限界と有意義性を述べるのです。21節後半から24節前半です。

 

 

 

万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。

 

しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

 

信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。

 

 

 

 パウロは述べています。そんなことは万に一つあり得ませんが、神が人に永遠の命を与える律法を授けられたとすれば、確実に人は律法を守ることで、キリストの救いの御業なしに救い(永遠の命)を得たことだろうと。

 

 

 

 現実は、律法は人を生かすことができませんでした。「」とは、永遠の契約における神との正しい関係のことです。それを、わたしたちは「救い」と言っているのです。律法は、この点では無力です。

 

 

 

 ところ、パウロは面白いことを述べていますね。22節です。「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。」。パウロは、すべての者を罪に閉じ込めるのは律法ではなく、「聖書」であると述べています。実際にユダヤ教の伝承によれば、神がモーセを通してシナイ山で与えられた神の律法が中心となり、旧約聖書というユダヤ教聖典が生まれました。

 

 

 

 パウロの述べている「聖書」が何を意味するか、はっきりしていません。わたしは、初代教会の人々が用いていた旧約聖書であると思います。

 

 

 

 パウロは、この手紙の後に書いたローマの信徒への手紙の3章で「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」と述べて、旧約聖書の詩編1413節の御言葉を引用しています。

 

 

 

 パウロは、それを「聖書」と呼び、聖書が全人類を皆、罪の下に閉じ込めている、すなわち、すべての人に義人は一人もいないと宣言しています。

 

 

 

だから、パウロは、22節後半で「それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」と述べているのです。律法は人に義を与えることはできないし、すべての人は聖書によって罪に下にあると宣言されています。

 

 

 

だから、パウロは、人が頼れるのは神の約束しかないと言うのです。その約束はイエス・キリストを信頼することで、その人々に与えられると、パウロは述べています。

 

 

 

322節後半のパウロの御言葉は、314節の「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」という御言葉を言い換えているのです。

 

 

 

十字架の死により示されたキリストの真実(誠実)が、聖書が罪に閉じ込めたすべての人々を罪と律法から解放し、そして御自身はアブラハムの祝福、すなわち、すべての諸国民への祝福の源となられました。それゆえパウロは、言っているのです。今やこの主イエス・キリストに信頼する者はすべて、異邦人とユダヤ人たちすべてに、アブラハムの祝福の約束を与えることが実現したと。

 

 

 

23節と24節前半は、パウロが律法の目的を述べています。キリストの目的と混同しないためです。

 

 

 

23節と24節の「信仰」は、22節と同様に「信頼性」です。23節の「信仰が現れる前には」は、「信頼性が到来する前」ということです。すなわち、キリストの真実(誠実)が、あの十字架で示されたキリストの父なる神に対する真実(誠実)です。それが現れる前です。ユダヤ人も異邦人も皆、律法に監視されていました。

 

 

 

パウロは、「この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。」と述べています。「この信仰」は、22節後半のパウロの御言葉を考慮すれば、「この信頼関係」と意訳できると思います。「啓示される」とは、覆いを取り除くという意味です。キリストの十字架が現れるまでキリストとわたしたちの信頼関係は覆い隠されていました。その覆いが取り払われて、十字架によってキリストの信頼性(父なる神に従順に従われたキリストの信頼性)が永遠の神の契約の成就をなしたことが明るみに出されました。

 

 

 

それによって異邦人とユダヤ人は十字架のキリストに対する信頼のゆえに罪と律法から解放されました。

 

 

 

24節前半でパウロは、教育という例を用いて律法の目的を説明します。「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。」。

 

 

 

養育係」は、奴隷、あるいは解放奴隷の仕事でした。主人の子どもたちの通学と帰宅に付き添い、保護と監督の役割を果たしていました。それをパウロは、律法の目的の説明に用いたのです。

 

 

 

律法は、わたしたちをキリストへと導く養育係の務めをします。その目的は、24節後半です。「わたしたちが信仰によって義とされるためです。」。

 

 

 

十字架のキリストの真実(誠実)に対する信頼性によって、キリストが父なる神に従順に従われたように、わたしたちがキリストに従順に従い、永遠の契約における神との正しい関係を続けることなのです。

 

 

 

そして、この真実の実質的な姿が、わたしたちの主の日の礼拝であります。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第31924節の御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。

 

 

 

神の恵みの契約を学ぶことで、神の永遠の救いの計画に心向けることが許され感謝します。

 

 

 

わたしたちは、パウロの御言葉を聞くことで、聖書が神の永遠の救いのご計画を啓示するものであることを学びました。

 

 

 

その学びを通して、わたしたちが今ここで毎週の日曜日に礼拝を繰り返すごとに、わたしたちもまた、神の永遠の救いの一部であり、アブラハムの祝福の約束の相続者であることを知らされ、心より感謝します。

 

 

 

わたしたちは、アブラハム同様に神の恵みの約束、永遠の命を相続することを望み、十字架と復活のイエス・キリストに信頼して、礼拝で説教を聞き続け、聖餐の恵みにあずかり続けています。

 

 

 

どうか聖霊よ、今わたしたちはレントの季節をすごしています。十字架のキリストの受難に思いを寄せ、説教を聞くごとに、わたしたちの罪のために死なれたキリストへの信頼を確かなものとしてください。

 

 

 

イースターの伝道集会に、ひとりでも多くの方々を、わたしたちの家族を、導くことができますようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。