ガラテヤの信徒への手紙説教16       主の2019519

 

わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。

 

 

 

ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。

 

 

 

すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

 

 

 

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。

 

 

 

なぜなら、次のように書いてあるからです。

 

「喜べ、子を産まない不赴任の女よ、

 

喜びの声をあげて叫べ、

 

産みの苦しみを知らない女よ。

 

一人取り残された女が夫ある女よりも、

 

多くの子を産むから。」

 

 

 

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けいれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ、女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人にならないからである」と書いてあります。

 

 

 

要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。

 

 

 

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

 

            ガラテヤの信徒への手紙第421節-51

 

 

 

説教題:「自由の身の女から生まれる」

 

今朝は、ガラテヤの信徒への手紙第421節から51節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

パウロは、割礼を受けてユダヤ人となり、ユダヤ律法を守りたいと願っているガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに対話しようと呼びかけています。

 

 

 

対話するためには同じ土俵に立たなくてはなりません。そこで、パウロは彼らに旧約聖書の創世記1621章のアブラハムの相続の物語を要約して話しました。彼は女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルと自由な身であるサラから生まれた約束の子イサクとを対比し、彼らに律法の奴隷となるより、約束により自由を得る方が良いと説得しているのです。

 

 

 

42122節のパウロの対話の導入の御言葉を見てください。「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。

 

 

 

パウロの対話の前提は、この手紙の445節の御言葉です。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。

 

 

 

この御言葉を起点として、パウロは、「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち」と呼びかけ、「あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」と、彼らに問いかけて対話しています。

 

 

 

十字架のキリストが彼らを神々の奴隷状態から解放してくださいました。しかし、彼らは再び割礼を受けてユダヤ人になり、律法を守り、その奴隷になろうとしているのです。それゆえパウロは、彼らの誤りを女奴隷ハガルから生まれた子と自由な身の女サラから生まれた約束の子イサクとの対比で気づかせようとしているのです。

 

 

 

パウロは、彼らに「あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」と質問し、アブラハムの二人の息子の話、すなわち、旧約聖書の創世記1621章のアブラハムの相続の物語を要約して語り始めるのです。

 

 

 

パウロが21節で記している「あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」という文章は、モーセ律法の諸規定のことを述べているのではありません。旧約聖書のモーセ五書のことです。すなわち、旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書です。

 

 

 

このパウロの文章には、彼らが聖書の御言葉を聞いて、正しく理解し、彼らの誤りを悔い改めてほしいという、彼の思いが溢れています。

 

 

 

パウロは、モーセ五書の中の創世記1621章を要約して、こう話し始めます。「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。(22)

 

 

 

アブラハムの二人の息子とは、イシュマエルとイサクのことです。イシュマエルは、アブラハムの妻サラの女奴隷であるハガルという女から生まれました。イサクは、アブラハムの妻、自由な身であるサラから生まれました。

 

 

 

更にパウロは、続けて2324節前半で次のように述べています。「ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。

 

 

 

パウロは、彼らにパウロがアブラハムの二人の息子について話す真意を伝えようとしています。

 

 

 

女奴隷から生まれた子は「肉によって生まれた」のです。自由な身の女から生まれた子は、「約束によって生まれた」のです。前者は、自然の身体的プロセスを経て生まれました。この女奴隷から生まれた子は、この世に属するものでした。奴隷状態が続いているのです。

 

 

 

それに対して後者は、神の約束を通して生まれました。神はアブラハムと契約を結ばれ、彼を通して世界の諸国民を祝福すると約束されました。自由な身の女サラが産んだ約束の子イサクは、アブラハムを通して諸国民に祝福が及ぶという神の約束に対する真実、信頼性でありました。そして、イサクの子孫からキリストは生まれられ、キリストは神々と律法の奴隷状態にある者たちを贖い出され、解放し、自由を得させてくださいました。パウロはその福音を彼らに語りました。

 

 

 

さて、パウロは、「これには、別の意味が隠されています。(24節前半)と述べています。パウロは、彼らにアブラハムの相続物語を話すにあたり、二人の女から生まれた子の話は、「別の意味が隠されている」と述べて、24節後半から27節で次のように述べています。「すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

 

「喜べ、子を産まない不赴任の女よ、

 

喜びの声をあげて叫べ、

 

産みの苦しみを知らない女よ。

 

一人取り残された女が夫ある女よりも、

 

多くの子を産むから。」

 

 

 

 パウロは、「この二人の女とは二つの契約を表しています」と述べています。別の意味が契約ということです。パウロが彼らに話したいことは、アブラハムの契約の正当な相続者は律法を守る者たちか、キリストの信頼性に寄り頼む者たちなのかということです。その二者択一を迫るために、彼は女奴隷ハガルと自由な身の女サラが二つの契約を表すと語るのです。

 

 

 

パウロは、女奴隷ハガルから説明します。「子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。(24節後半―26)

 

 

 

子を奴隷の身分に産む方」とは、女奴隷ハガルのことです。奴隷の子は奴隷です。だから、ハガルの子イシュマエルは、アブラハムの相続者になれませんでした。母ハガルとイシュマエルは、アブラハムの家から追い出されました。

 

 

 

 パウロは、その奴隷の女ハガルが「シナイ山に由来する契約を表し」、「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。」と述べています。

 

 

 

ハガルは、出エジプトの時、モーセに神の民が導かれて、シナイ山に着き、そこで彼らは神とシナイ契約を結びました。ハガルがシナイ契約を表し、律法を意味するのです。

 

 

 

パウロがどうして「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります」と説明するのか、わたしにはよく分かりません。ただ、パウロの時代、エルサレムがユダヤ教の本拠地でした。つまり、律法主義の総本山でした。だから、今のエルサレムを母胎にして、そこから律法主義の偽教師たちが遣わされて、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちが割礼を受けてユダヤ人になり、律法を守り、律法の奴隷になっているのです。

 

 

 

だから、パウロは「今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです(25)と述べているのです。シナイ山でのシナイ契約をから始まった律法体制がユダヤ人たちを律法の奴隷状態にしました。十字架のキリストによってユダヤ人たちは律法の奴隷状態から解放されたのに、今なおエルサレムでは律法体制の下でユダヤ人たちが奴隷状態にあり、彼らは異邦人キリスト者たちに彼らの律法体制を押し付けて、律法の奴隷の子たちを生み出しているのです。

 

 

 

それとは反対にパウロは、自由の身の女サラについて、神の約束を表すと説明しています。「他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

 

「喜べ、子を産まない不赴任の女よ、

 

喜びの声をあげて叫べ、

 

産みの苦しみを知らない女よ。

 

 

 

 奴隷ハガルが今のエルサレムであれば、自由の身の女サラは「天のエルサレム」です。天のエルサレムは、天上に現存するところです。天国であり、御国です。そして、パウロはこの「天のエルサレム」を、「これはわたしたちの母です」と述べています。アブラハムの契約で始まりました諸国民の祝福は、十字架のキリストを通して異邦人たちにも注がれたのです。異邦人キリスト者たちは、アブラハムを信仰の父として持ち、サラを信仰の母として持ちました。

 

 

 

パウロは、十字架のキリストを通して律法体制にいるユダヤ人とキリストへの信仰に生きる異邦人が逆転したのだと宣言し、次のようにイザヤ書を引用しています。

 

 

 

喜べ、子を産まない不赴任の女よ、

 

喜びの声をあげて叫べ、

 

産みの苦しみを知らない女よ。

 

一人取り残された女が夫ある女よりも、

 

多くの子を産むから。(イザヤ54:1)

 

 

 

 預言者イザヤは、エルサレムの都を不妊の女にたとえています。そこに多くの異邦人たちが集うと喜び賛美しているのです。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会のキリスト者たちを、兄弟と呼びかけて、彼らを約束の子であるイサクに結び付けようとしています。

 

 

 

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けいれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ、女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人にならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。

 

 

 

パウロは、彼らに割礼を受けて律法を守るユダヤ人たちは、肉によって生まれたアブラハムの子孫たちであり、キリストの信頼性に寄り頼むわたしたちこそ約束のイサクの相続人であると述べています。

 

 

 

そしてイサクがイシュマエルにいじめられたように、キリストの信頼性に寄り頼む信仰に生きている者たちも、割礼を受けてユダヤ人になり、律法を守っている者たちから迫害を受けるでしょう。

 

 

 

しかし、パウロはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、キリストの信頼性に寄り頼んでいる兄弟たちに、迫害する彼らを教会から追い出し、決して一緒に相続人にならないように命じています。

 

 

 

そして、パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、再び兄弟よと呼びかけて、「わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」と宣言しているのです。

 

 

 

キリスト者は、キリストの十字架の贖いによって律法や罪や神々の奴隷状態から解放され、自由な身分を与えられた神の子なのです。

 

 

 

それゆえにパウロは、こう述べています。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません

 

 

 

再びパウロは、445節の御言葉に戻り、キリストの十字架によってわたしたちキリスト者が得た自由を二度と手放してはならないと述べ、神でない神々の奴隷にならないように警告するのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第4章21節から51節の御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。

 

 

 

今朝の御言葉を通して、わたしたちがキリストの十字架によって得ました自由の尊さを心に留めさせてください。

 

 

 

わたしたちは、自由の身の女サラから生まれた神の約束の子であります。キリストの十字架によって罪と律法と神々の奴隷状態から贖い出されて、自由を得、神の子とされ、アブラハムと神との契約のゆえに神の祝福を得、わたしたちの本国は天にありますという恵みを得ました。

 

 

 

どうか、罪のこの世にあっても、神とキリストから離れることなく、常に聖霊に信頼し、信仰から信仰へと歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙説教17       主の201962

 

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

 

ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いだいていた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

 

あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするなら、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまづきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそうのこと自ら去勢してしまえばよい。

 

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。           

 

      ガラテヤの信徒への手紙第5115

 

 

 

説教題:「キリスト者の自由」

 

前回パウロが奴隷の女ハガルと自由な女サラのたとえを用いて、わたしたち異邦人キリスト者たちがキリストへの信頼に基づく信仰によって「自由の身の女から生まれた子なのです」と語りましたことを学びました。

 

 

 

この自由を土台にして、パウロは、今朝のガラテヤの信徒への手紙51節でキリストの十字架と復活の御業の意義を、そしてパウロがガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに宣べ伝えてきた福音の真理を次のように告げ知らせています。

 

 

 

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(5:1)

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちにキリスト者の自由の在り方を勧めているのがガラテヤの信徒への手紙第5章です。

 

 

 

これまで使徒パウロは、十字架のキリストを通して福音の真理が啓示された、わたしたち異邦人キリスト者たちに明らかにされたと述べてきました。その福音の真理とは、キリストの十字架と復活によってユダヤ人キリスト者たちはモーセ律法の奴隷状態から解放されて自由の身とされ、異邦人キリスト者たちは神々の奴隷状態から解放されて自由の身とされたという喜びの福音でした。

 

 

 

ところが、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、パウロの後からやって来た偽使徒たちに欺かれて、福音の真理から逸脱してしまいました。キリストの信頼性に依拠した義、わたしたちが信仰義認と呼んでいるものを捨て、あるいはそれに付け足してユダヤ人のように割礼を受けて、ユダヤ人たちが守っている律法を熱心に守ろうとしたのです。

 

 

 

それは、パウロの目から見れば、折角キリストが十字架と復活を通して彼らの自由を得させ、律法と罪から解放して自由の神の子の身分にしてくださったのに、再び律法という奴隷の軛につながれることだったのです。

 

 

 

パウロは声を大にして、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と呼びかけたのです。

 

 

 

しっかりしなさい」は、文字通りに言うと「堅く立ち続けなさい」です。キリスト者の生活は「わたしがしっかりする」「わたしが頑張る」ことが重要なのではありません。キリスト者の生活にとって重要なことは、「わたしが堅く立ち続けること」です。聖書の御言葉に、キリストへの信頼に堅く立ち続けることです。この手紙では使徒パウロが語る福音の真理に堅く立ち続けることです。

 

 

 

それをパウロは、ここでガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちにキリスト者の自由という在り方で勧めたのです。

 

 

 

このキリスト者の自由の在り方と正反対の在り方が割礼でした。

 

 

 

使徒パウロは、26節で次のように述べています。「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いだいていた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

 

 

 

少しオーバーに日本語に訳していますが、文字通りにはこうです。「見よ、わたしパウロは言う。もし割礼を受ければ、キリストはあなたがたに何の益ももたらさない。重ねてわたしは割礼を受けようとする人すべてに証言する。その人は律法の全体を行う義務がある。だれでも律法によって義とされるなら、キリストから引き離され、恵みから落ちた。なぜなら、わたしたちは信頼性(信仰)に依拠した義の希望を霊によって待ち望んでいるからです。なぜなら、キリスト・イエスにあっては、

 

割礼にも無割礼にも何の意味はなく、愛によって働く信頼性(信仰)である。」

 

 

 

要するに、ここでパウロの言っていることは、こうです。割礼を受けてユダヤ人になり、熱心に律法を守り、自分で頑張っても、キリストは何の益もお与えくださらないということです。彼は、割礼を受けて、ユダヤ人になり、律法を守り、自分で頑張ろうとする者たちに重ねて警告します。律法を守って義を得ようとする者はすべて、律法一つだけを守ればよいのではなく、律法の全体を負う債務者になり、彼は頑張れば頑張るほど、益々キリストから切り離され、その恵みから落ちることになる。だから、キリスト者の生活にとって、割礼の有無は意味がないのだ。むしろ、愛によって働く信仰(信頼性)こそ意味があるのだ。

 

 

 

それは、パウロによれば、キリスト者が頑張れば得られるものではありません。聖霊によりキリスト者に与えられるものです。聖霊がキリスト者の体と心を通して、十字架のキリストの愛を働かせてくださるのです。キリストがわたしのために死なれたという愛を、聖霊はわたしたちキリスト者に隣人への愛へとむかわしめてくださるのです。

 

 

 

キリスト者の生活で大切なことは、割礼の有無という目に見える問題ではありません。キリスト者はキリストの十字架の愛によって自由を得、神の子とされ、キリストの所有、キリストの僕とされました。だから、キリスト者の自由の在り方はキリストに倣うということです。キリストは神の独り子、神でした。しかし、わたしたちのために人となり、十字架で死なれました。わたしのために死なれたのです。わたしたちキリスト者はその信頼性の中でキリストに従い、神を愛し、隣人を愛して生きるのです。

 

 

 

これは、まさにパウロが5節で「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」と述べていることです。わたしたちの頑張りでは不可能なことです。しかし、聖霊がわたしたちを助け、わたしたちの信仰を支え、導いてくださるのであれば、わたしたちは「愛によって働く信仰」を望むことができるのではないでしょうか。

 

 

 

パウロは、キリスト者の自由を妨害する反対者たちに712節で厳しく警告します。「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするなら、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまづきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそうのこと自ら去勢してしまえばよい。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに次の4つのことを述べています。第一は反対者たちの行動は教会の主キリストの御心ではない。第二どんなに少数であろうと、反対者たちの行動がガラテヤの諸教会全体の異邦人キリスト者たちに悪影響を与えている。第三にパウロが割礼を勧めていたら、十字架のつまずきはなく、迫害もなかった。第四にパウロは反対者に主の刑罰を告げ、教会から自ら除き去れと厳しく警告しています。

 

 

 

主イエスも全体に悪影響を及ぼすたとえにパン種を用いられました。教会の群れの中にひとりでも不品行な者がいるなら、その者によって教会全体が悪影響を受けるのです。だから、教会の中に戒規があります。

 

 

 

不品行な者、福音と異なることを教える者に従わないようにと、パウロは警告しています。パウロは、福音の真理に外れた教えは、キリストの十字架のつまずきがないと述べています。パウロは、堂々と十字架につけられたキリストを救い主、わたしたちの神とユダヤ人たちに宣べ伝え、異邦人たちに宣え伝えました。それゆえ、パウロの福音はユダヤ人たちのつまずきとなり、異邦人たちには愚かしいものとなりました。

 

 

 

しかし、聖霊によって「キリストはわたしのために死なれた」と信じる者たちには、罪と死と律法から、この世の神々の支配から自由の身を与えられました。

 

 

 

だから、パウロはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに1315節で次のようにキリスト者の自由の在り方について勧めているのです。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 

 

 

 

どうしてわたしたちは、主によって日曜日ごとにこの教会に集められるのでしょうか。

 

 

 

わたしたちは、51節でパウロが言うように「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。

 

 

 

わたしたちは、キリストの十字架と復活の御業を通して自由を得ました。主以外に何ものにも縛られることはありません。主以外に何ものをも恐れるものはありません。

 

 

 

しかし、パウロは、彼らにこのキリスト者の自由を「肉に罪を犯させる機会とせずに」と忠告していますね。

 

 

 

」とは、わが身のことです。わが身を満足させるために、この自由を利用しないということです。自分のために使わないということです。

 

 

 

むしろ、パウロは彼らに「愛によって互いに仕えなさい」と勧めています。キリスト者の自由の在り方は、自己満足ではなく、隣人愛です。

 

 

 

宗教改革者ルターは、彼が宗教改革を始めて3年目の1520年に『キリスト者の自由』という本を書きました。お読みになった方もあると思います。お読みになっていない方は、講談社の学術文庫にマルティン・ルターの『宗教改革三大文書』という文庫本がありますので、お読みになって見てください。

 

 

 

ルターは、『キリスト者の自由』の本文の冒頭でこう述べています。「キリスト者とは何だろうか。キリストが獲得し、キリスト者に与えてくれた自由とは何だろうか。聖パウロはこれについてさまざまなに書いているが、私たちもこのことを根本的に理解できるよう、私は二つの命題を提示することにしよう。

 

 

 

キリスト者はすべての上に立つ自由な主人なので、誰にも服従することはない。

 

キリスト者はすべてに仕えることができる下僕であり、誰にでも服従する」

 

 

 

ルターはこのキリスト者の自由を二つの命題に従って、霊と肉の面から考察しているのです。そして、彼はこの本の結末にキリスト者の自由とは、次のことであると結論に導いています。

 

 

 

「これらから引き出される結論は、以下の通りである。キリスト者は自分自身において生きるのではなく、キリストと隣人において生きる。キリスト者はキリストにおいて信仰に生きる。また、キリスト者は隣人において愛に生きる。キリスト者は信仰によって自らを超えて神の中に入り、愛によって神から出て再び自らに戻るが、他方で常に神と神の愛にとどまる。<省略>

 

見よ、これが真の霊的な、キリスト教的な自由であり、心を罪と律法と戒めから解き放つものであり、天が地からまったくかけ離れているように、他のすべての自由にまさる自由である。願わくは、神がこの自由を正しく理解する力をわたしたちに与えてくださるように。アーメン。」

 

 

 

ルターは、パウロの御言葉を深く考察し、わたしたちのキリスト者の自由が何かを問い、主人であり、しもべであるキリスト者がキリストによって与えられた自由を隣人愛へと、今日の言葉で言えば命を育む奉仕へと、わたしたちキリスト者の自由の在り方を方向付けているのです。

 

 

 

自由を、自分を満足させるために用いるのではなく、主のため、隣人のために用いることを、今、この世界の中でキリスト者として生きるわたしたちも、今朝の御言葉から求められているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝のガラテヤの信徒への手紙第51-15節の御言葉を学び、わたしたちがキリストによって与えられた自由について、思いを寄せる機会を得ましたことを感謝します。

 

 

 

キリストは、わたしたちに自由を得させるために、この教会に召し集められました。キリストの十字架と復活の御業を通して、わたしたちは罪と死と律法と、この国の神々や戒めから自由にされました。

 

 

 

その自由を、主を愛し、隣人を愛するために用いるように、今朝主は、パウロの御言葉を通してお勧めくださいました。

 

 

 

罪を赦された者でありますが、なお肉によって、罪によって、主よりもわが身を愛し、隣人を愛するより、自分の満足を求めている愚かさをおゆるしください。

 

 

 

どうか、聖霊に導かれ、わが身を主と隣人のために用いさせてください。わたし個人では何もできませんが、教会を通して宣教と執事活動を通して、世の人々にキリストの福音を伝え、献金を通して隣人を支え、今も震災で仮設住宅で暮らされている方々に寄り添っている兄弟姉妹たちを祈りによって支えることができるようにしてください。

 

 

 

これから聖餐式にあずかります。どうか聖餐にあずかりつつ、今朝パウロが述べましたように、「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」というパウロの信仰の希望をわたしたちの信仰の希望としてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。