マルコによる福音書説教01              2019721

 

神の子イエス・キリストの福音の初め。

 

預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

                   マルコによる福音書第118

 

 

 

  説教題:「洗礼者ヨハネ」

 

 本日よりマルコによる福音書を連続講解説教します。

 

 

 

 ある牧師はこう述べて、マルコによる福音書の連続講解説教を始めました。「わたしたちは今、福音のはじめのところに立っています。はじめということばに、わたしたちは聖書の中で何度か出会っています。しかし、最も感銘深いのは、聖書の第一ページの第一行目で読むことばでしょう。『はじめに、神は天と地を創造された。』」(渡辺信夫『マルコ福音書講解説教Ⅰ』新教出版社P9)

 

 

 

旧約聖書の創世記で神が創造されたこの世界の始まりを語るように、マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め。」を語り出します。

 

 

 

マルコによる福音書全体がイエス・キリストの福音です。その福音は洗礼者ヨハネから始まり、彼に洗礼を授けられた主イエスがガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え、エルサレムにおいて十字架刑で死なれ、そして復活し、ガリラヤで弟子たちとお会いになると約束された主イエス・キリストの福音です。

 

 

 

福音」とは、良い知らせという意味です。それが主イエス・キリストについての福音であります。

 

 

 

初代教会は主イエス・キリストの福音を宣教しました。それは、教会の礼拝の場でありました。使徒たちや彼の弟子たちが説教し、彼らの語る主イエス・キリストの福音は記録され、主イエスの言葉や奇跡の伝承としてまとめられていきました。こうして教会の中に主イエスの受難の物語、主イエスのお言葉を集めた物や奇跡の物語などが保存されました。それらは、マルコによる福音書の著者であるマルコは資料に用い、また、主イエスの生きた姿を描くために、ガリラヤで主イエスを物語る材料を集め、この福音書を書いたのです。

 

 

 

わたしたちにとって福音書という文学形式は珍しいことではありません。新約聖書の4つの福音書があるのは当たり前です。

 

 

 

しかし、初代教会のキリスト者たちにとっては、驚きであったでしょう。ある日、マルコという名の一人のキリスト者がある意図をもって初めて福音書という文学形式で「神の子イエス・キリストの福音」を一冊の書物にしたのです。

 

 

 

彼がこの福音書を書くまで、誰も福音書を書いたことはありませんでした。それまである有名な人物の伝記はありました。しかし、福音書は伝記でありませんでした。なぜなら、この福音書は、偉人伝のように、主イエスの誕生から始めて、彼の生涯の業績を年代順に追って記録していません。

 

 

 

主イエスの生涯は30年、あるいは33年と言われています。しかし、この福音書が記録する主イエスは1年間だけです。

 

 

 

マルコによる福音書の主イエス・キリストの福音は、初代教会のキリスト者たちの信仰から生まれたものです。彼らはメシアである主イエス・キリストとその御業を理解していたでしょう。マルコは、その理解に立って、主イエス・キリストの福音を、しかもこの歴史の中で実際にガリラヤアで生きて働かれた主イエスを、エルサレムで受難し十字架に死なれた主イエスを、葬られた墓が空であった主イエスを、福音書という文学形式をもって描いたのです。

 

 

 

さて、マルコによる福音書は第1113節がこの福音書の前書きであり、福音書の事の始まりです。

 

 

 

神の子イエス・キリストの福音の初め。」主イエスは福音をもたらすお方です(マルコ1:15)。同時に主イエスは福音そのものです。

 

 

 

18節は、洗礼者ヨハネの記事です。マルコによる福音書の事の始まりは、洗礼者ヨハネの活動から始まります。 

 

初代教会の福音の理解は、何よりも初代教会が主イエス・キリストに関して宣教する良き知らせです。その初代教会の福音宣教の「初め」は、主イエス御自身が彼の人格と御業を通してこの世にもたらされた良き知らせであります。

 

 

 

マルコによる福音書は、洗礼者ヨハネの活動を通して主イエス・キリストの到来を予告しています。だから、主イエス・キリストの福音は、メシアに先立って遣わされた洗礼者ヨハネの活動から始まっているのです。

 

 

 

マルコによる福音書は、2節で「預言者イザヤの書にこう書いてある。」と、23節で次のように旧約聖書の御言葉を引用しています。「「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 

 

 

これは、洗礼者ヨハネの活動がメシアである主イエスの活動に先立つものであることを証明しようとしているのです。

 

 

 

 イザヤ書からの引用は3節の御言葉だけです。2節の前半は出エジプト記2320節前半、後半はマラキ書31節からの引用です。これを混合引用と呼んでいます。

 

 

 

 2節の「あなた」はメシアであり、「使者」は先駆者です。「あなたの道を準備させよう」はメシアの道を準備することです。

 

 

 

 荒れ野で洗礼者ヨハネが活動し、その後主イエスが活動し、神の御国の福音を語る者の声が響く時、主なる神が意志され御計画された福音の時が開始されたのです。

 

 

 

 だから、マルコによる福音書は、4節で次のように記しています。「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

 

 

 

洗礼者ヨハネは、主なる神の御心と御計画に適って、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のです。

 

 

 

洗礼者ヨハネは、来るべきメシアの到来を告げ知らせ、彼の裁きから逃れるように自らの罪を捨て、心を変えて神に立ち帰るように勧めました。そして、罪を悔いて来るべきメシアに寄り頼む者たちに悔い改めの洗礼を授けたのです。

 

 

 

マルコによる福音書は、6節で洗礼者ヨハネの姿を次のように描写しています。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」。

 

 

 

旧約聖書の列王記下18節に預言者エリヤの姿が記されています。「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました。」洗礼者ヨハネが自分のことを再来のエリヤと自覚していたかどうかは分かりません。しかし、マルコによる福音書はわたしたち読者に洗礼者ヨハネが預言者エリヤの再来と紹介しているのです。

 

 

 

しかし、マルコによる福音書は、78節で洗礼者ヨハネが自分とメシアである主イエスを比較して、自分がメシアより劣った者であると証ししたことを記しています。「彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

 

 

 洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼を授けられた者たちに彼とは比較にならないほど優れたメシアの到来を告げ知らせました。彼は王であるメシアの靴の紐をほどく奴隷でもふさわしくなく、また彼は水で洗礼を授けるが、メシアは聖霊で洗礼を授けられると。

 

 

 

洗礼者ヨハネは、メシアの到来を現在形で予告しています。

 

 

 

マルコによる福音書にとってキリストの到来は現実の事なのです。初代教会は約束のメシアの待望をキリストの福音として宣べ伝えているのではありません。旧約聖書の約束のメシアは来られているのです。それが主イエス・キリストです。

 

 

 

こうしてマルコによる福音書がわたしたちに福音として語ります主イエスは、今ここにわたしたちと共に居てくださるお方です。礼拝における説教を通してわたしたちに己の罪を捨てて、主なる神に立ち帰るように促されるお方です。

 

 

 

礼拝における説教を通して福音として提供される主イエスを信じる者に、洗礼を通して御自身の聖霊を与えて、主イエスと共にこの世にあって生きる者としてくださるお方です。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、本日よりマルコによる福音書の連続講解説教をします。

 

 

 

どうか初代教会のキリスト者たちが主イエス・キリストの福音を聞いて、ガリラヤを歩まれる主イエス・キリストの生きた姿に触れたように、わたしたちおマルコによる福音書の説教に耳を傾け、福音として提供されている主イエス・キリストが今わたしたちと共に居てくださり、わたしたちの御救いをなされていることを、信仰によって見させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 マルコによる福音書説教02              201984

 

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

                   マルコによる福音書第1章9-11

 

 

 

  説教題:「主イエスの受洗」

 

マルコによる福音書には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という表題があります。わたしが時折引用します。「ザ ニューイングリシュ バイブル」の英訳聖書は、「ここに始まる、神の子イエス・キリストの福音」と訳しています。

 

 

 

マルコによる福音書は映画館で映画を見ているようです。最初に映画のタイトルが画面に映し出されます。「神の子イエス・キリストの福音の初め」、続いて物語が始まります。その物語は、福音書という文学形式で表現されています。

 

 

 

エジソンが映写機を発明し、わたしたち現代人は映画という全く新しい芸術文化を手に入れました。歴史を、人間を、信仰を、映像と音声によって物語るという表現方法を手に入れたのです。

 

 

 

それまでは文字で、絵画で、音楽で物語るという表現方法でした。中世から近世、そして近代、多くの書物と絵画と音楽によって、歴史を、人を、そして信仰を物語ってきました。

 

 

 

キリスト教も神の子、主イエス・キリストの福音を文字と絵画と音楽によって物語てきました。

 

 

 

マルコは、初めて福音書という文学形式で主イエス・キリストの受難物語と主イエスの御言葉と行われた行為を、一つの小さな書物に仕上げました。

 

 

 

それは、人物伝、偉人伝などの伝記という文学形式ではありませんでした。前回話しましたように、主イエスという一人の人物を年代順にその生涯の重要な出来事を記録し、彼の心理的成長と発展を記録するものではありませんでした。

 

 

 

また、福音書の中には多くの主イエスの御言葉が収集され、彼の教えが記述されています。しかし、福音書は主イエスの教えを体系化し、後のキリスト教のように主イエスの教えを伝えることが目的でもありません。

 

 

 

ある神学者がこう述べています。「初期キリスト教の信仰の中でイエスの全体像が把握され、その全体像がイエスの実際の生涯の記述を枠づけている。言わば、信仰と歴史とが奇妙な仕方で結合したのが福音書である。」

 

 

 

彼は、世界の中には福音書に似たものがあると言います。しかし、彼は続けて述べています。例えば仏陀の伝記、同じ文学形式で仏陀の生涯を物語っても、この福音書とは違ったものであると。彼はその違いこそが福音書を福音書にしているのであり、それが何かを探ることが福音書誕生の秘密を探ることに他ならないと(田川健三『原始キリスト教史の一断面』P12)

 

 

 

マルコはわたしたち読者にこの福音書によって「神の子イエス・キリストの福音」を今物語り始めます。彼が信仰によって理解した主イエス・キリストの全体像をこの福音書の設計図にして、ガリラヤで主イエスが語られた御言葉を、なされた御業を、神の御救いの御業を、主イエスの先触れである洗礼者ヨハネから物語り始めるのです。

 

 

 

洗礼者ヨハネの登場から始めて、主イエスの受洗と荒野におけるサタンの試み、そして主イエスのガリラヤ伝道への筋道は、すでに初代教会の礼拝の中で常に説教され、物語られていて、保存されていたでしょう。

 

 

 

マルコは、「神の子イエス・キリストの福音」という一つの構想をもってこの福音書を書きました。わたしたち読者が讃美歌187番にあるように、ガリラヤで福音宣教される主イエスから命の糧を得るために、今も主イエスの生ける御言葉を豊かにいただくために、彼はこの福音書を書き始めました。

 

 

 

わたしたちが主イエスから生ける糧、すなわち、永遠の命を得るために、マルコは、わたしたち読者にメシアの先触れとして神が遣わされた洗礼者ヨハネを紹介しています。

 

 

 

彼は悔い改めの洗礼を神の民に宣べ伝えました。それは、メシアに道を整えるためでした。だから彼は、彼の前に集まるユダヤの群衆に次のように宣言しました。「来られるメシアの道を歩もうとする者は皆、神の御前に自分の罪を告白し、わたしから水で洗礼を受けなければない」と。なぜなら、神に罪を赦されたことを認める者だけが、神の子イエス・キリストの福音を受け入れることができるからです。

 

 

 

9節の冒頭でマルコは、次のように書いています。「また次のことが起こった、それらの日々に」。彼は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を授けられたという出来事を物語ろうとしています。

 

 

 

そのころ」は、洗礼者ヨハネがヨルダン川の荒野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた日々です。

 

 

 

マルコは、続いて「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」と記しています。

 

 

 

イエス」は、「神は救い」という意味です。この名は主イエスが何者で、何をなさるのかを暗示しています。主イエスを通して、神は人を救われるのです。

 

 

 

主イエスは、「ガリラヤのナザレから来て」、洗礼者ヨハネから洗礼を授けられました。

 

 

 

ガリラヤ」は、エルサレムの都から遠く離れた辺境の地であり、異邦人たちが移住した地域で、ユダア人から異邦人たちの汚れた地と思われていました。ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスの領地でした。

 

 

 

ナザレ」は、ガリラヤ地方の村の一つでした。主イエスが人として30年間生活された場所です。彼は大工のヨセフの子として、ナザレで大工の仕事をされていました。土地を所有しない貧しい者の職業でした。マルコによる福音書は、神の子イエスが普通の貧しい人間としてナザレで30年間過ごした後、洗礼者ヨハネのところに来られたと記しているのです」。

 

 

 

ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」。主イエスは、ヨルダン川でヨハネから水に浸されたのです。本田哲郎氏の『小さくされた人々のための福音』という4つの福音書と使徒言行録の翻訳書では、このように訳されています。「そして、ヨハネからヨルダン川に身を沈めてもらった」。

 

 

 

主イエスが洗礼者ヨハネから罪の悔い改めの洗礼を受けられたことは、初代教会にとっては大きなつまずきであったのです。だから、マルコによる福音書の後に書かれたマタイによる福音書では洗礼者ヨハネが主イエスの洗礼を思い止まらせようとしたと記しています。ルカによる福音書は「洗礼者ヨハネから」という記述は省き、「イエスも洗礼を受けて」と簡潔に記しています。ヨハネによる福音書は洗礼者ヨハネが主イエスに洗礼を授けたという表現を省いています。

 

 

 

だから、マルコにとっても、主イエスが洗礼者ヨハネから罪の悔い改めの洗礼を授けられたという出来事は理解に苦しむものであったのではないでしょうか。しかし、彼はわたしたち読者に福音書でそのまま伝えたのです。

 

 

 

しかし、マルコの関心は次の事でした。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

 

 

マルコは、主イエスが誰であるかに関心がありました。ガリラヤのナザレの村で30年間も、普通の人として生きられた主イエスこそ神の御子であることに。

 

 

 

主イエスがヨルダン川でヨハネから身を浸されて、水の中から出られると、天が裂けました。そして、聖霊が鳩の姿で主イエスに降られ、天から神の御声が聞こえてきました。

 

 

 

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「あなたはわたしの子である。愛される者で、あなたでわたしは喜びを得た。」と訳すことも可能です。この天からの神の声は、神の子としての主イエスの身分を宣言するのです。主イエスは、メシア、神の子に他なりません。

 

 

 

主イエスは、普通の人間として、ガリラヤ地方のナザレの村からヨルダン川の荒野にいる洗礼者ヨハネのところに来られました。彼は貧しい家庭に育ち、人から軽蔑される大工の仕事をし、罪人たちの群れに加わられ、彼らと共に罪の悔い改めの洗礼を授けられ、ヨルダン川に身を沈められました。

 

 

 

マルコによる福音書は、その方が洗礼者ヨハネが預言し、旧約聖書の預言者たちが預言したメシアであり、神の子なのだと宣言するのです。

 

 

 

誰も想像できませんでした。洗礼者ヨハネでさえ、想像できなかったでしょう。だが、神の子主イエス・キリストは、その洗礼によって共に洗礼を受けた人々と、神の御前に罪人であることを告白し、神の罪の赦しを認めた者たちとひとつに連帯されたのです。

 

 

 

洗礼、すなわち、水の中に身を浸すことは、ある意味でその人の死を意味しています。主イエスがヨルダン川で水の中に身を浸されて、主イエスは同様に身を浸した者たちの罪の中に自分を沈められたのです。

 

 

 

そして、主イエスは、水の中から上がられました。普通の人である主イエスが人々の罪を贖うメシアとなられました。だから、天が裂けました。主イエスによって罪人たちに閉ざされていた御国が開かれたのです。そこから鳩の姿で聖霊が主イエスの上に降られました。神の霊が主イエスと一つになり、主イエスに仕え、主イエスのメシアの働きを助けられるのです。

 

 

 

神の御顔を見ることはできません。神の御声を聞くことはできます。神の御声は、主イエスが神の愛する息子であり、神から限りなく愛される者であり、神は主イエスで迷える罪人を救う喜びを得られると語り掛けているのです。

 

 

 

昔神は、アブラハムと恵みの契約を結ばれ、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と約束されました。神は、アブラハムに一つの試練を与えられました。約束の子、愛するイサクを神の犠牲に献げよという命令です。アブラハムはモリヤの山に愛する息子イサクを連れて行き、神に献げようとしました。しかし、神はイサクに代わり一匹の雄羊を備えてくださっていました。

 

 

 

その一匹の雄羊こそ神の子主イエス・キリストです。神は、イサクに代わり、神の愛する独り子主イエス・キリストをエルサレムの十字架に献げようとされているのです。

 

 

 

どうか、ここで洗礼が行われるごとに、主イエスの受洗を思い起こしてください。そして神は、わたしたちの罪のために愛する神の息子、神の子イエス・キリストを十字架に犠牲として献げられたことを繰り返し感謝しつつ、世の人々に宣べ伝えてください。

 

 

 

この教会の宣教を通してそれを聞く者たちの心に聖霊を通して信仰が生まれるのです。信仰は聞くことから、マルコによる福音書の神の子イエス・キリストの福音を聞くことから始まるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちにマルコによる福音書を通して、神の子イエス・キリストの福音を聞かせてください。

 

 

 

ガリラヤを歩まれる主イエスのお姿と救いの働きを、この福音書を通して思い起こし、今も福音宣教を通してわたしたちに豊かな命の糧を与えてくださっている恵みを、信仰によって見させてくださり、御言葉と聖礼典を通して味わわせてください。

 

 

 

マルコによる福音書の説教に耳を傾け、今福音としてわたしたちに提供されている主イエス・キリストを、わが救い主と信じ、主と共に今を生きる喜びで、わたしたちの心を満たしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。