マルコによる福音書説教31              2020712

こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆すべていやされた。

                  マルコによる福音書第65356

 

説教題:「病人を癒される主イエス」

今朝は、マルコによる福音書第65356節の御言葉を学びましょう。

 

前回は、主イエスがガリラヤ湖の湖上を歩かれた奇跡と12弟子たちの無理解について学びました。

 

マルコによる福音書は、映画やテレビドラマにたとえますと、6章で主イエスのガリラヤ宣教のハイライトを描いているのです。この福音書のテーマは、神の子イエス・キリストの福音です。マルコによる福音書は、主イエスが5000人に給食を与えられた奇跡と主イエスが湖の高波の上を歩かれる奇跡を通して力強く証ししているのです。

 

しかし、この福音書にはもう一つのテーマがあります。12弟子たちの無理解です。12弟子たちは、主イエスのパンの奇跡を見て主イエスを神の子と受け入れることができませんでした。それゆえに彼らは、主イエスが湖の高波を歩いて、彼らのところ来られた奇跡を見て、彼らは主イエスを幽霊と思って、心から驚き、恐れました。

 

さて、今朝の御言葉は、マルコによる福音書が新しい段階に移る橋渡しです。

 

マルコによる福音書は、7章で主イエスがファリサイ派の指導者たちを批判され、対立されたことと異邦人の地に行かれて、宣教され、癒しの奇跡をされたことを記しています。

 

主イエスは、5000人の給食の奇跡の後、12弟子たちを強いて舟に乗せられ、ベトサイダに向かわされました。しかし、舟は湖の真ん中で強風に遭い、ベトサイダに向かわず、ゲネサレトにたどり着きました。

 

ゲネサレトは、ガリラヤ湖の北西岸にあるカファルナウムの町から南方にある肥沃で、人口の多い平地です。ベトサイダは、カファルナウムの町からヨルダン川を渡ったところにありました。ヨルダン川はガリラヤ湖の北岸に流れており、その河口の東側にベトサイダの町がありました。

 

ですから主イエスと12弟子たちを乗せた舟は、ベチサイダの向こう岸であるゲネサレトに着いたのです。

 

興味がある方は、聖書地図を後で見てください。福音書が「向こう岸」と言います時、ガリラヤ湖を縦に割って、東岸から見れば、西岸が向こう岸です。東岸にベトサイダがあるので、西岸にゲネサレトがあります。

 

問題は、主イエスのパンの奇跡がベトサイダの近くにある荒れ野でなされたのか、それとも西岸のゲネサレトの近くの荒れ野でなされたのかということです。

 

正解はありません。マルコによる福音書は、主イエスと12弟子たちが舟で、一つの場所から他の場所に渡って行く場合に、決まり文句のように「向こう岸」と言っているのです。だから、聖書地図で主イエスと12弟子たちを辿ると、矛盾していると思われるかもしれません。

 

しかし、マルコによる福音書は、わたしたちにこう伝えたいのです。主イエスと12弟子たちがガリラヤ湖を中心としてガリラヤで福音宣教し、宣教の移動手段として舟を使ったのだということです。

 

マルコによる福音書の奇跡物語は、地名と結びついています。パンの奇跡はベツサイダと、湖を歩かれる主イエスの奇跡はゲネサレトと結びついています。

 

推測ですが、パンの奇跡はマルコによる福音書がベツサイダでの言い伝えを資料として使い、湖の上を歩く主イエスの奇跡はゲネサレトでの言い伝えを資料として使っているのではないでしょうか。

 

そして、今朝の御言葉も、ゲネサレトで言い伝えられていた主イエスの癒しの奇跡を記しているのでしょう。マルコによる福音書は、今朝の御言葉と7123節まではゲネサレトを場所として設定しているのです。

 

今朝の御言葉は、マルコによる福音が主イエスのゲネサレトでの福音宣教と癒しの奇跡をまとめて記しているのです。それは、主イエスのゲネサレトでの福音宣教を記録するためではありません。むしろ、この記述によってマルコによる福音書はわたしたちに主イエスがどんなに民衆たちに人気があったかを伝えようとしています。

 

そして、主イエスがゲネサレトで福音宣教されたとき、多くの群衆たちが主イエスのところに多くの病人たちを運んで来ました。彼らは主イエスに病人たちが主イエスの上着の裾を触れさせてほしいと懇願しました。あの長血を患った女性が主イエスの上着の裾を触って癒されたように(マルコ5:2534)、多くの病人たちが癒されたことを伝えているのです。

 

すぐに人はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。

 

この御言葉を読みますと、主イエスの人気ぶりが分かります。人気歌手を追いかけるフアンの行動とこの群衆たちの行動は似ていると思います。ゲネサレトの地方全体を主イエスは12弟子たちと歩き回られて、福音宣教されました。

 

群衆たちは主イエスと12弟子たちを追っかけたのです。ゲネサレトの地方の町や村や里、どこでもそこに主イエスがおられると噂を聞いたら、彼らは病気で苦しんでいる者たちを床に乗せて、癒してもらうために、主イエスのところに連れて来ました。

 

マルコによる福音書は、主イエスの癒しの奇跡のみに関心があるのではありません。マルコによる福音書は、656節でこう記しています。「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆すべていやされた。

 

主イエスの奇跡の御力は、群衆たちに信仰を生み出すものではありません。むしろ、群衆たちが主イエスに病人の癒しを懇願し、主イエスは彼らが信じたとおりに癒されました。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに群衆たちが12弟子たちとは対照的であったと伝えています。12弟子たちは主イエスがパンの奇跡をなさっても、主イエスが神の子であることに無理解したが、群衆たちは主イエスが病人を癒され、悪霊を追い出される力あるお方であると信じ、信頼したのです。

 

マルコによる福音書がわたしたちにどんなに主イエスが群衆たちに人気があったかを伝え、主イエスが群衆たちの懇願を聞かれて、病人たちが主イエスの上着の裾を触ると、皆癒されたと伝えているのには意味があります。

 

それは、マルコによる福音書がわたしたちに伝えている神の子イエス・キリストが復活され、今もわたしたちと共に居てくださるお方であるということです。

 

主イエスは、今もこの教会の礼拝にわたしたちと共に居てくださるお方です。このお方にゲネサレトの群衆たちのように、わたしたちも全幅の信頼を寄せるべきであるということです。

 

使徒ペトロがペトロの手紙一第189節でこう述べています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 

聖霊を通して、わたしたちの心に主イエス・キリストに対する信仰を得ているからです。信仰によって、マルコによる福音書がわたしたちに喜びとして語ります神の子イエス・キリストが今わたしたちと共に居てくださり、今のわたしたちの苦しみを癒してくださると、主イエス・キリストに全幅の信頼を置いているのです。

 

それは、すでにわたしたちが主イエス・キリストの十字架によって救われているからです。今、わたしたちは、この世において多くの困難があり、病気で苦しむことがあるでしょう。しかし、主イエスは十字架に死に、復活されました。そして、主イエスは、再びわたしたちのところに来られ、わたしたちは死から解放され、永遠に主イエスと共に御国に生きる希望が与えられています。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第65356節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

どうか今朝の御言葉がわたしたちの希望となりますように、お願いします。

 

何時の時代も、この世は罪の世です。死と病気、自然災害と、困難な状況が続きます。どうか主イエスよ、聖霊と御言葉を通して、わたしたちと共に居てください。

 

どうか、わたしたちの心を鈍くしないでください。聖霊がわたしたちの心を、群衆たちのように主イエスに向けさせてください。

 

どうかわたしたちの心を喜びで満たしてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教32              2020719日

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。—ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。—

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである。』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神のへの供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

                  マルコによる福音書7章1-23節

 

説教題:「人の心を見られる主イエス」

今朝は、マルコによる福音書第7章1-23節の御言葉を学びましょう。

 

前回は、主イエスと12弟子たちが舟でゲネサレトに着き、その地方全体を巡り歩いて、病人たちを癒されたことを学びました。

 

パンの奇跡で主イエスがどなたであるかを理解しない12弟子たちは、ガリラヤ湖の湖上を歩かれる主イエスを見て、心から恐れました。

 

ところが群衆たちは、主イエスが行かれるところへ追いかけて行きました。彼らは主イエスが病人たちを癒してくださると信じていました。だから、ゲネサレト地方の町々、村々に主イエスがおられると聞きますと、主イエスを追いかけて行き、病人たちを一緒に連れて行きました。そして、彼らは、主イエスに懇願しました。病人たちが主イエスの上着の裾に触れるだけでお癒しくださいと。すると、主イエスは、彼らの願い通りにされました。主イエスの上着の裾に触れた病人たちは皆癒され、病の苦しみから救われました。

 

さて、主イエスはゲネサレトで癒しの奇跡だけをなさっていたのではありません。同時に主イエスはエルサレムの都からやって来たファリサイ派の人々と数人の律法学者たちと宗教的清めについて論争し、群衆たちを呼び集められて、たとえ話を語られ、12弟子たちにはそのたとえ話の意味を教えられました。マルコによる福音書は、ここでも12弟子たちが主イエスの教えを理解できなかったと記しています。

 

まずは、主イエスとファリサイ派の人々と数人の律法学者たちとの論争について、見て行きましょう。113節です。

 

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。—ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。—

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである。』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神のへの供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 

エルサレムの都からゲネサレトにファリサイ派の人々と数人の律法学者たちがやって来ました。彼らは、主イエスの敵であります。

 

ファリサイ派の人々と律法学者たちは、神の律法を先祖からの言い伝えによって解釈し、それを生活に厳しく適用し、よく守っていることを誇りにしていました。彼らにとって律法はモーセ律法だけでありませんでした。人間の言い伝えも律法でありました。彼らは敬虔な人々でした。彼らの生活の全体を聖化しようと熱心に励んでいたのです。

 

しかし、主イエスと彼らとは水と油の関係でした。主イエスは、父なる神の御心に従われることによって神の御名を聖とすることが、主イエスの福音宣教の本質でした。他方ファリサイ派の人々と律法学者たちは人間の言い伝えを守ることで信仰の清さを求めようとしていたのです。

 

それが明らかになった出来事が、今朝の清めの論争でありました。

 

エルサレムの都からやって来ましたファリサイ派の人々と数人の律法学者たちの目に留まったのが、主イエスの12弟子たちが手を洗わないで食事をしている事でした。

 

彼らは、宗教的な汚れに目を留めました。なぜなら、彼らもユダヤ人たち皆が、手を洗わないで食事をすることは宗教的に汚れた行為であるとみなしていたからです。

 

だから、マルコによる福音書は、34節で次のようにユダヤ人たちが宗教的清めに熱心であったことを説明しています。彼らは先祖の言い伝えを守って、念入りに手を洗い、食事をしたこと、市場に行き、家に帰った時には水で身を洗ってから食事したこと、食事に使う杯、鉢、銅の器は水で洗って清めて使ったこと、それから寝台も水で清めたことを。彼らは、言い伝えを守って、その他にも多くのことを守っていたのです。

 

要するにユダヤ人たちには、宗教的清めを守るために、食前に手を洗うという習慣がありました。それを主イエスの12弟子たちが知ってか、知らずにか、守らなかったのです。

 

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちがそれを見過ごすはずがありません。彼らは、12弟子たちを非難するのではなく、彼らの師である主イエスに5節で、次のように質問したのです。「「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

 

その質問を主イエスは、2段階に分けて答えられました。68節と913節です。主イエスは、ユダヤ人たちが手を洗って食事をするという習慣の見た目の敬虔とは裏腹に、彼らの心が神の掟である律法を捨て、人間の言い伝えを固く守っているという偽善を見て、旧約聖書の預言者イザヤの御言葉を通して、彼らを批判されました。

 

主イエスは、旧約聖書のイザヤ書2913節の御言葉を引用して、彼らの偽善を批判されています。「「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 

彼らは、モーセ律法を守るために人の言い伝えである律法で垣根を設けました。彼らは神の民たちがそれによって戒めに違反しないように配慮しました。だれもが戒めに違反せず、救いを得るようにしようとしたのです。

 

その結果、人々は、うわべでは神の戒めに従っているようですが、彼らの心は主なる神から離れていました。なぜなら、主なる神の戒めではなく、人の言い伝えを固く守っているに過ぎなかったからです。

 

神の御言葉である聖書が重んじられないで、人の言い伝えである人の言葉が重んじられていたのです。それが敬虔な行為とされていたのです。

 

主イエスは、彼らの心が主なる神から離れて、人間中心になっている罪を御覧になられ、預言者イザヤが語りました神の御言葉によって批判されました。

 

それが主イエスの913節でのコルバンの批判であります。

 

主なる神は、神の民に十戒の第五戒で「父母を敬え」と命じられました。ですから、子が両親を敬い、養うことは義務でありました。

 

ところが、人の言い伝えである口伝律法は、抜け穴を設けていました。それが、913節で主イエスが彼らを批判されていることです。

 

更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである。』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神のへの供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 

主なる神はモーセ律法である十戒の第五戒に違反する神の民に対して死刑に処すべきであると厳しく命じておられます。

 

ところが、彼らは子が両親を扶養するために用いなければならないものを、「これはコルバン、神に供えるものです」と誓約するなら、両親への義務は免除されるという戒めを設けていたのです。

 

ですから「これはコルバンです」と誓約すれば、子は両親に対して何もしなくてよいのです。こうして、人の言い伝えの口伝律法によって、主なる神が神の民に命じられた十戒の第五戒が、主なる神の御言葉が無にされていると、主イエスは彼らを批判されました。

 

主イエスは、「また、これと同じようなことをたくさん行っている。」」と言われています。神の御言葉よりも人間の言葉が重んじられることがユダヤ人たちの中だけでなく、わたしたちの教会の中にもたくさんあるのです。見た目には熱心な信仰に見えて、心は神から離れていることがたくさんあると言われているのです。

 

宗教に清さと汚れは常に付いて回ります。主イエスは、ユダヤ人の手を洗うという習慣から彼らの偽善を見抜かれただけではありません。

 

主イエスはどんな食物を食べようと、人は汚れることはないと宣言されると共に、人を汚すのは食物ではなく、人の心であると宣言されました。1423節です。

 

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 

主イエスは群衆を呼び寄せて教えられました。マルコによる福音書は、12弟子たちだけでなく、群衆もまた主イエスの弟子です。

 

主イエスは旧約聖書のレビ記の食物規定を退けられました。人は、食べ物によって宗教的に汚れないと教えられました。何を食べても、人の心を汚すものはありません。さらにこれを延長して考えますと、食べ物で宗教的に汚れた者は誰もいません。

 

だから、この後主イエスは、異邦人の地に行かれています。食べ物で宗教的汚れがないという主イエスの教えこそ、異邦人への伝道に道を開くものでした。

 

さらにもう一つの問題は、主イエスはわたしたちの心を御覧になっているということです。外からわたしたちの内に入る食物は、わたしたちを汚すことはありません。

 

逆にわたしたちの内にある心から外に汚れたものが出て行き、隣人を傷つけて行くのです。そのリストを一つ一つ学ぶことは出来ませんが、次のことは心に留めてほしいと思います。

 

人の心から出る汚れこそ、罪であり、その罪はあらゆる不道徳、汚れとして、自分も隣人も傷つけ、主イエスをゴルゴタの十字架へと向かわせたものだということです。

 

12弟子たちは、彼らの心から出る罪が、主イエスをエルサレムへと、ゴルゴタの十字架へと向かわせることを知りません。

 

神の子イエス・キリストの福音によって新しい人間の生き方が生まれることをしりません。キリストの十字架によって罪を赦された人間の新しい生き方を知らないのです。

 

人の心に罪を宿していることを、主イエスは御覧になり、エルサレムの十字架へと歩まれていることを、マルコによる福音書はわたしたちに伝えようとしているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第7123節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

今朝の御言葉で主イエスは、わたしたちの心を御覧になり、十字架の道を歩まれたことを知りました。

 

何時の時代も、人はうわべだけで生きています。自分の都合の良いように考えています。熱心に振舞いますが、自分の心に罪にあることが見えていません。

 

できれば、都合よく救われたいと思ってしまいます。

 

どうか、わたしたちの心を鈍くしないでください。聖霊が今朝の御言葉を通して、主イエスがわたしたちの心を御覧になり、十字架の道を歩まれたことを覚えさせてください。

 

どうかわたしたちの心を清めてください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。