マルコによる福音書説教06              201998

 

一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の生者だ。」イエスが、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々まで広まった。

 

                   マルコによる福音書第12128

 

 

 

  説教題:「権威ある新しい教え」

 

 今朝は、マルコによる福音書第12128節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

先週は、主イエスがガリラヤ伝道を開始される時に、四人の漁師たちを弟子に召されたことを学びました。

 

 

 

主イエスは、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子に召されました。彼らは、すぐに主イエスに従いました。

 

 

 

そして、ガリラヤのカファルナウムの町で主イエスのガリラヤ伝道が始まりました。

 

 

 

それが21節です。マルコによる福音書は「一行はカファルナウムに着いた。」と記しています。

 

 

 

これは意訳です。そのままの文章はこうです。「そして彼らはカファルナウムに入って行く。」

 

 

 

主イエスは、四人の弟子たちを従えて、ガリラヤのカファルナウムの町に入られました。カファルナウムの町が最初の伝道地で、ガリラヤ伝道の拠点となりました。

 

 

 

何のためにカファルナウムの町に入られたのでしょう。続けてマルコによる福音書は、こう記しています。「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」これが、主イエスがガリラヤで福音宣教された具体的な内容です。

 

 

 

その日は安息日でした。主イエスはすぐに会堂に入られ、神の国の福音を教え始められました。そして、主イエスの御言葉は、今もこの教会の礼拝を通して語り続けられ、主イエスは教え続けておられるのです。

 

 

 

さて、主イエスが安息日に会堂に入り、教えられることは、その当時の律法学者たちの振る舞いでした。彼らは、人々に神の律法を教えました。ユダヤ人たちは、幼き頃より彼らからモーセ律法を学びました。彼らが神の律法を解釈し、先祖伝来の教えを、人々に教え、守らせました。

 

 

 

律法学者たちは、彼らの教える律法を守れない者たちを罪人と告発し、公然と非難しました。福音書に登場する罪人たちとは、律法学者たちに告発され、公然と非難されている人々です。

 

 

 

安息日」は、安息、すなわち、肉体的または精神的な労働を中断して、労苦と悩みから解放される日のことです。特に日常の労働を中断し、神の救いを思い起こすために、神が定められた日です。

 

 

 

今日、日曜日がキリスト教安息日です。ユダヤ教安息日は、週の第7日目の土曜日です。神は十戒の第四戒で安息日を守るようにお命じになりました。だから、ユダヤ人たちは安息日を規則正しく守るために町々や村々に会堂を建てました。

 

 

 

続いてマルコによる福音書はわたしたち読者にカファルナウムの人々が主イエスの教えに驚いたことを伝えています。

 

 

 

人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。(22)

 

 

 

人々が非常に驚いた理由は、第一に律法学者たちの教えと異なっていたからです。第二に「権威ある者としてお教えになったからである

 

 

 

主イエスは会堂に入られ、そこに備えられた旧約聖書の巻物から一つを取り、読まれました。そして主イエスは、読まれた御言葉が今実現したと宣言されました。だから、人々は主イエスの御言葉を聞いて驚きました。主イエスが語られる御言葉に権威があったからです。

 

 

 

さらに会堂で一つの驚くべき出来事が起こりました。

 

 

 

そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の生者だ。」イエスが、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。(2326) 

 

 

 

どうして会堂の中に汚れた霊たちに取りつかれた男が入れたのでしょう。よく分かりません。その男は、主イエスの教えに驚いた人々の中にいました。

 

 

 

だが彼は、主イエスの教えに驚嘆したのではないでしょう。むしろ、主イエスの御言葉に恐怖を覚えたのです。なぜなら、彼に取りついた悪霊たちが主イエスを恐れたからです。悪霊たちは大きな声で叫びました。

 

 

 

マルコによる福音書は「汚れた霊たちにつかれた人」と記しています。汚れた霊たちとは悪霊たちのことです。悪霊たちは、悪魔の支配の下で人に働きかけ、人の中に入り、人を精神的に、または肉体的に病的な状態にするのです。そうして人を神との交わりや礼拝から遠ざけようとするのです。

 

 

 

叫んだのは、彼に取りついていた悪霊たちでしょう。悪霊たちは言うのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と。

 

 

 

これは意訳です。文字通りに言えば、「ナザレのイエス、わたしたちとあなたとは何であるか」です。悪霊たちが主イエスに「どうしてわたしたちを煩わせるのか」と問うている言葉です。どうして悪霊たちは主イエスに言ったのでしょうか。主イエスが悪霊たちを滅ぼすために来たと思ったからです。そして悪霊たちは主イエスのことをはっきりと理解していました。主イエスは神の聖者であると。神の聖者は、神の呼び名です。

 

 

 

主イエスは、悪霊たちをお叱りになり、彼らの口をふさいで、その男から追放されました。すると、悪霊たちは男に痙攣を引き起こさせ、大声を上げて出て行きました。

 

 

 

主イエスは、御自身の権威により御言葉だけで悪霊たちをその男から追い出されました。

 

 

 

聖書の最初に創世記という書物があります。その1章に神が御言葉だけで、天地万物を創造され、神が命じられると、天と地、光、太陽と月、昼と夜、季節、そして、植物、動物、そして最後に人間が現れました。「現れる」とは存在するという意味です。

 

 

 

悪霊たちも神が創造された被造物です。悪霊たちは主イエスが創造主なる神であることを知っています。だから、キリストの御言葉の権威に逆らうことはできないのです。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが悪霊を追放されたのを見て、人々がどのように反応したのか伝えてくれています。「人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(27)

 

 

 

人々は、主イエスの御言葉に驚きました。悪霊たちに命じて従わせる力があるのを見たからです。

 

 

 

まことに主イエスの御言葉には驚かされます。神の律法を守れない罪人たちの罪を赦す権威があり、悪霊たちに取りつかれ、神の交わりと礼拝から遠ざけられた男を、悪霊から解放し、神との交わりと神礼拝を回復する力があります。

 

 

 

28節は、マルコによる福音書がわたしたち読者に主イエスの福音宣教がどのようにガリラヤ全体に驚くべき速さで広まったかを伝えています。

 

 

 

今朝、わたしたちが聴いている御言葉は、キリストの言葉です。だから、主イエスの御力があり、常に新しい教えです。なぜなら、この礼拝で聖霊と御言葉を通して罪人であるわたしたちもまた、主イエスが罪を赦すと宣言してくださるからです。「あなたのすべての罪は十字架のわたしによって赦される」と。

 

 

 

罪とは、わたしたちがこの世にあって神と人との関係を破ることです。真の神から逃れて、偽物の神を造ることです。真の神以外のものをおのが神として、貪欲になることです。人は貪欲によって神と隣人との関係においてもこの世で多くの問題を抱え込むのです。

 

 

 

三浦綾子さんの小説「氷点」をお読みになれば、原罪という言葉が出てきます。この罪のゆえに主人公の父親は、浮気した妻にわが子を殺した者の娘を育てさせます。彼の心に妻への復讐という思いがありました。しかし、彼には真の神を畏れる心がありませんでした。わたしは、彼の神を畏れぬ心に悪霊たちが働いて、彼の心、良心を鈍らせたと思うのです。

 

 

 

聖書は悪霊たちが今の世も働いていると言っています。だから、病気や貧困、憎悪等はどんなに科学技術が発達しても解決できません。むしろ、わたしたちは、科学技術の恩恵にあずかり、便利で快楽的な喜びを日々味わうほど、心にストレスを抱え込み、精神的に、肉体的に病むのです。また家庭や社会問題はますます複雑になり、陰湿になっています。

 

 

 

だから、人々は家でも学校や会社でもストレスに苦しみ、精神と肉体を病んでいます。クレジットで気軽に買い物ができます。その便利さに伴うように買い物依存症となる人々がおり、自己破産しています。インターネットは人々にスマホの便利な生活を与えた半面、個人の情報が見知らぬ人々に暴かれ、無名の人々によって人格を攻撃されます。貪欲がインターネットで拡散され、無制限に不幸になる人々が広がっています。

 

 

 

ますます病院がはやり、カード破産する人々が増えています。

 

 

 

その便利さの陰で、悪霊たちは人に働きかけ、人を教会から引き放そうとしています。教会はホームページを使って伝道していますが、訪問者は少ないです。人々は、神や教会よりもこの世に目を向けています。

 

 

 

だからこそ、この世にキリスト教会が存在すること、教会が持続することが大切だと思います。日曜日の礼拝ごとにキリストの福音宣教がなされることが大切だと思います。ここで主イエスの力ある御言葉、新しい教えを、わたしたちが聴き続けることが大切だと思います。

 

 

 

なぜなら、悪霊たちが恐れた滅びからの神の救いは、教会の礼拝で語られる十字架の主イエス以外に無いからです。この礼拝で十字架の主イエスが大きく手を広げて、わたしたちに「あなたの罪は赦された」と宣言されるので、この世界の中で死という恐怖、滅びるという恐怖が常に待ち構えているにも関わらず、わたしたちは救いという希望を持ち、死を超えた永遠の命を待ち望むことができるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第12128節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

主イエスは、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを連れて、カファルナウムの会堂に入り、神の御国を宣べ伝え、悪霊につかれた男を救われました。

 

 

 

わたしたちは、マルコ福音書を通して主イエスは神の子であり、主イエスの御言葉に神の権威があり、行いにもその権威があることを教えられました。

 

 

 

何よりも主イエスの御言葉はわたしたちの罪を赦す権威があり、主イエスはわたしたちを神とこの礼拝から引き離そうとする悪霊からわたしたちを解放する力があられることを学び、心より感謝します。

 

 

 

この教会がこの世にあることが世の光、救いであり、ここで今礼拝がなされ、わたしたちが主イエスの御言葉である説教を聴けることが、わたしたちの救いであることを心から感謝します。

 

 

 

どうか、わたしたちの家族を、この町の人々を、諏訪地方、伊那地方、松本地方の人々を、この教会へと導き、共に生けるキリストの御言葉にあずからせてください。

 

 

 

どうか、わたしたちの心がこの世のものだけにしめられ、便利さと快楽の中で心を病むことがないようにしてください。今も悪霊は働いていることを自覚させ、この教会の礼拝で主イエスの御言葉を聞くことが今日の悪霊払いであり、何よりもわたしたちの神がわたしたちの罪の赦しを宣告してくださっている場所であることを信じさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

マルコによる福音書説教07              2019915

 

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 

                   マルコによる福音書第12934

 

 

 

  説教題:「主イエス、悪霊の口をふさぐ」

 

今朝は、マルコによる福音書第12934節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

先週は、主イエスが4人の弟子たちと共にカファルナウムの町に入り、安息日に会堂で教えられ、ガリラヤで福音宣教を始められたことを学びました。

 

 

 

人々は主イエスの教えを聞いて、大変驚きました。第一に主イエスが律法学者たちの教えとは違って、権威があったからです。主イエスは、律法学者のようにモーセ律法を解説し、守らせようとされたのではなく、御自身の御言葉そのものが神の御言葉として力がありました。

 

 

 

第二に主イエスは御自身の御言葉の力によって悪霊たちにつかれた男から悪霊たちを追い出されました。人々は、主イエスが悪霊たちに命じて従わせられるのを見て、「これは新しい権威ある教えだ」と大変驚きました。

 

 

 

 先週に続きまして主イエスが安息日と翌日になさった悪霊たちを追放し、病める者と悩める者たちをいやされたことを学びましょう。

 

 

 

マルコによる福音は、「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。(29)と記しています。

 

 

 

すぐに」は、本来「そしてすぐに」という文章です。これはつなぎの言葉です。二つのことをつないでいます。主イエスが会堂でなさったこととこれからペトロとアンデレの家に行き、そこで主イエスがなさることです。

 

 

 

一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。(29)。この「行った」という言葉は、「来る」とも訳せる言葉です。主イエスがカファルナウムの町に来る、主イエスがペトロとアンデレの家に行く。このように「行く」「来る」と、どちらにも訳されます。

 

 

 

それは、主イエスの行為を、すなわち、主イエスがガリラヤで神の国の福音を宣べ伝えられていることを、この言葉で結び付けることで、マルコによる福音書はわたしたちに次のことを伝えようとしています。主イエスは言われる、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(15)。これは神の国の現実です。神の国が来ていることです。すなわち、主イエスが来ることで、神の支配の現実が来ているのです。

 

 

 

だから、マルコによる福音書は、わたしたちに物語っています。そして人々は主イエスのところに大勢の悪霊たちに取りつかれた人々を、悩みある人々、病める人々を連れて来ると。主イエスは彼らをいやされます。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたちに神の国が来ていると告げているのです。主イエスが来られ、神の国の来るのです。だから、主イエスは神の国の宣教されているのです。これが主イエスの教えの中心です。

 

 

 

主イエスが来られ、神の国は来る。昔主イエスは肉体を取り、この世に来られ、ガリラヤで神の国の福音を語られました。そして大勢の人々から悪霊を追い出され、病人たちを癒されました。今主イエスは聖霊を通してわたしたちのところに来られ、神の国は来ているのです。そして再臨のキリストが将来来られて、神の国は来るのです。

 

 

 

だから、主イエスは、弟子たちに主の祈りを教えられた時に、「御国が来ますように」と祈るように教えられたのです。

 

 

 

マルコによる福音書にとって主イエスが来る、神の国が来るということは、常に現在的な発言です。マルコによる福音書は、わたしたちに常に主イエスは来る、神の国、すなわち、神の支配、キリストの支配は今来ていると発言しているのです。だから、マルコによる福音書は、頻繁に現在形の動詞を用いて記すのです。

 

 

 

シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(3031)

 

 

 

早速」は「そしてすぐに」という言葉です。主イエスが4人の弟子たちと共にペトロとアンデレの家に来られたことと主イエスがペトロのしゅうとめから悪霊を追い出し、熱をいやされたことをつないでいるのです。

 

 

 

彼女は悪霊に取りつかれ、熱に苦しみ、床に伏せていたのです。人々が主イエスに彼女の苦しみを話したのです。それで主イエスは彼女のそばに行かれ、悪霊を追い出し、手を取って彼女を起こされると、彼女から熱が離れました。

 

 

 

先週悪霊たちは人に働きかけて、人を精神的にも肉体的にも病む者とするとお話ししました。ペトロのしゅうとめは、悪霊の働きで高い熱で病に伏せていたのです。主イエスが彼女のそばに来られ、彼女から悪霊を追い出され、手を取って彼女を起こされると、まるで熱が悪霊のように彼女から離れて行きました。

 

 

 

本田哲郎というカトリックの司祭が大阪の釜ヶ崎で日雇い労働者から学びつつ、4つの福音書と使徒言行録を翻訳されています。それを読むと、本田氏はこう訳しておられます。「イエスは彼女のところへ行き、手をしっかりにぎって起こした。すると熱は去り、彼女はみんなをもてなした。」

 

 

 

主イエスが病人の手をしっかりにぎられたという言葉に、わたしは強い衝撃を受けました。主イエスの深い愛と憐れみを感じました。

 

 

 

恥ずかしいことですが、わたしは、どうも人と接することが苦手です。握手することもハグすることもあまりありません。先日妻とお見舞いに行きました。見舞った方は眠っておられたので、そこでお祈りして、談話室で介護されていた奥様とお話して、聖書の詩編の御言葉をお読みし、またお祈りして帰りました。

 

 

 

「イエスは彼女のところへ行き、手をしっかりにぎって起こした」ように、わたしもしっかりお見舞いした方の手を握ればよかったと思ったのです。

 

 

 

もてなした」は、デアコニア、奉仕することです。おもてなし、すなわち、奉仕は、本来奴隷が主人の食卓の給仕をするという意味です。

 

 

 

キリストが来られて、神の国が来ました。キリストは、神の国の王です。彼は、この世の王のように力で民を支配しません。父なる神に仕え、神の民に仕えることで、支配なさるのです。

 

 

 

これがキリストと神の国の支配の中心です。だから、主イエスによって悪霊を追い出され、高い熱から解放され、神の御国の一員に入れられたペトロのしゅうとめは、主の弟子となり、人々をおもてなししました。

 

 

 

おもてなし、奉仕という言葉は、キリスト教会の重要な要素です。主イエス御自身の行為に由来するものです。主イエスがガリラヤ伝道されたすべての行為とエルサレムにおける十字架の死がまさにわたしたちを神の御国へと招くおもてなしであり、奉仕でありました。

 

 

 

マルコによる福音書はわたしたちに、ペトロのしゅうとめが床についている、おもてなしをするということを、過去から今まで教会の中で継続していることとして伝えているのです。

 

 

 

キリストがわたしたちのところに来られる。そこでキリストは聖霊と御言葉を通してペトロのしゅうとめのように罪に病むわたしたちを御自身の十字架の死によって赦してくださるのです。キリストはわたしたちに「あなたの罪は赦された」と宣言され、その者に洗礼を授けて御自身の弟子とし、神の御国の民としてくださるのです。

 

 

 

それがわたしたちキリスト者です。わたしたちはペトロのしゅうとめのようにキリストの支配下に置かれます。その姿がキリストへと人々をおもてなしすることです。

 

 

 

キリストがこの教会で聖餐の食事を通してわたしたちを神の御国へとおもてなししてくださいます。そのおもてなしを受けたわたしたちキリスト者は、キリストの全生涯と十字架の死を思い起こし、キリストがこの教会へと招かれた者たちを、わが家庭に招かれた者たちを、旅人をキリストの食卓へとおもてなしするのです。

 

 

 

そのためにキリストは、教会に神の御言葉を語り、洗礼と聖餐の礼典を執行する牧師を立てられ、キリストが招かれた者を弟子として訓練するために牧師と共に長老を立てて、教会の群れに仕えさせられ、教会の群れを指導するように導かれているのです。

 

 

 

土曜日に細田広司長老が教会を尋ねてくださいます。明日の礼拝の準備のために、あるいは何も用事が無くても尋ねてくださいます。しばらく連絡事項を伝え、雑談をします。そこで大事なことが出てきます。

 

 

 

教会のおもてなしです。飯田幸之助先生、辻幸宏先生がおられた頃は、よく昼食をし、多くの人が残りましたと。ところが、無牧になり、昼食をしなくなり、最近は残る人が少なくなりましたと。

 

 

 

わたしには少し耳の痛い話ですけれども、今朝のマルコによる福音書がわたしたちに伝えていることは、このおもてなしです。絶対に教会で昼食をしなければならないということではありません。牧師も長老も、そして信徒たちも主イエスがこの教会に招かれた者たちを、それぞれの家庭に招かれた者たちを、どのようにキリストへとおもてなしをするかは、よく考える必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたちに彼女がおもてなししていたペトロとアンデレの家でどのように主イエスが悪霊たちを追い出し、いろんな悩める人たち、病気の人たちをいやされたかを語っています。

 

 

 

夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし(3234節前半)と。

 

 

 

夕方になって日が沈むと」とマルコによる福音書は記しています。安息日が終わったということです。だから、主イエスがペトロとアンデレの家に来られ、そこに主イエスがおられるので、人々は大勢の病人や悪霊につかれた人々を連れて行きました。

 

 

 

また、マルコによる福音書は「町中の人が戸口に集まった(33)と記しています。これは誇張的表現です。大げさに言っているのです。主イエスの癒しの奇跡がどんなに素早くカファルナウムの町中に広まり、人々の関心になったかを伝えているのです。町中の人々が、主イエスのいやしの奇跡を見ようとしました。

 

 

 

連れて来た(32)という言葉は、マルコによる福音書が好んで用いる言葉です。マルコによる福音書は、主イエスの癒しの奇跡の導入として用いています。安息日が終わりましたので、人々は主イエスに癒していただきために、悪霊たちにつかれた人々を連れてきました。重い病気の人々を運んで来ました。

 

 

 

マルコによる福音書はわたしたちに、主イエスが悪霊たちの口をふさがれて、彼らが主イエスの正体を告げることを許されなかったと伝えています。

 

 

 

また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。(34節後半)

 

 

 

悪霊たちは、主イエスの正体を知っていました。主イエスが神の子であることを。しかし、主イエスは悪霊たちの口をふさがれ、彼らに沈黙を命じられました。

 

 

 

この御言葉は、マルコによる福音書の中でメシアの秘密が最初にほのめかされた個所として有名です。主イエスは、存命中ではなく、復活後に初めてメシアと認識されたと、ヴレーゼがマルコによる福音書には「メシアの秘密」というモチーフがあると主張しました。

 

 

 

この仮説を単純に信じる人はありません。

 

 

 

しかし、このモチーフを用いることなく、主イエスの福音宣教と十字架につけられ復活されたキリストを同時に証言するという、このマルコによる福音書の形式は生み出されなかったと思います。

 

 

 

主イエスは悪霊たちに、あるいは奇跡によって癒された者たちに沈黙を命じられます。神の国の到来についても隠された秘密としてたとえ話をされます。

 

 

 

なぜなら、マルコによる福音書は、同じように教会がキリストの福音を宣教しても、聞いて信じる者と信じない者がいることを知っています。ここでも同じです。主イエスが悪霊を追い出し、病人や悩める人々を癒されたと語りましても、聞いて皆が信じることはありません。今の科学の時代に悪霊が存在するはずがないと思っている人は多くいます。その人々には、主イエスがメシアであることは隠されたままです。

 

 

 

しかし、キリストの福音を聴いて、聖霊に導かれ主イエスが神の子の権威を持たれていると信じる者には、十字架の主イエスは人の罪を赦し、父なる神と和解させ、神の御国の子とする救い主です。

 

 

 

エルサレムの十字架の道へと歩まれる主イエスに、マルコによる福音書は神の御子の真の姿を見ており、悪霊たちによってこの世の貪欲に目を曇らせられた人々には、十字架のキリストはローマ人に政治犯罪者として十字架に処刑された哀れな人なのです。

 

 

 

神の子キリストの御前で悪霊たちは、キリストの真の姿を告白せざるを得ません。教会とキリスト者たちにはその悪霊の証言は必要ありません。聖霊の導きと聖書の御言葉だけで十分です。だから、聖書が悪霊の口をふさぎ、沈黙を命じられる主イエス御自身と彼の御言葉に、神の権威があることを証しすることを信じるのです。

 

 

 

主イエス・キリスト御自身が礼拝ごとにここに臨在下さり、聖霊と御言葉を通して御言葉を語られ、洗礼と聖餐の礼典を執行され、十字架のキリストこそまことにわたしたちを救う神であり人であることを明らかになさっているのです。

 

 

 

わたしたちは、この世界のどこにも神の存在を見出すことはできません。マルコによる福音書がわたしたちに伝えているのは、こうです。神の存在は、主イエス・キリストの中に、教会が宣教するキリストの福音の中に、十字架と復活のキリストの中に見出せるのだと。

 

 

 

だから、わたしたちの信仰は聞くことから、キリストの言葉を聴くことから始まるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第12934節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

主イエスは、ペトロとアンデレの家に行かれ、ヤコブとヨハネを伴い、ペトロのしゅうとめをいやされ、彼らの家に連れて来られた悪霊たちにつかれた者たち、病人や病める者たちをいやされました。

 

 

 

主イエスは御自身の出来事を通して、御自分が来られることが神の国の到来であることを教えてくださいました。感謝します。

 

 

 

わたしたちは、まさに主イエスが聖霊と御言葉を通してこの教会に来てくださり、ここに神の国が来ていることを信じます。

 

 

 

どうか、わたしたちもペトロのしゅうとめのように悪霊から解放され、主イエスの弟子としてこの教会で、わたしたちの家庭や住んでいる地域でおもてなしをさせてください。

 

 

 

わたしたちは、マルコ福音書を通してメシアの秘密について教えられました。どうして教会が同じようにキリストの福音を伝えても、この世の人々は神を信じないのでしょうか。また数は少なくても、キリストの福音を聴いて主イエスを神と信じる者がいるのでしょうか。

 

 

 

マルコによる福音書は、教会が宣教するキリストの中にしか、わたしたちキリスト者が伝えるキリストの中にしか、神を見出だせないと教えています。

 

 

 

どうか主イエスの御言葉と行いに神の権威があることを信じて、この世の人々に、わたしたちの家族にキリストの福音を語らせてください。

 

 

 

今年も12月にクリスマス月間でキリストのメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌います。世の人々に、キリストが来られ、神の国来たことを、伝えさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 マルコによる福音書説教08              2019106

 

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、悪霊を追い出された。

 

                   マルコによる福音書第13539

 

 

 

  説教題:「宣教し悪霊を追い出す」

 

今朝は、マルコによる福音書第13539節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

わたしたちは、前回、安息日が終わり、ペトロのしゅうとめの家の戸口に大勢の人々が集まり、主イエスが病に苦しむ多くの人々を癒し、悪霊に苦しむ多くの人々から悪霊を追い出し、福音宣教されたことを学びました。

 

 

 

今朝は、マルコによる福音書が主イエスの宣教がカファルナウムの町だけでなく、ガリラヤ全土に広げられたことを記しています。

 

 

 

ユダヤの一日は夕方から夕方までです。安息日が終わり、翌日夕暮れにペトロのしゅうとめの家の戸口に大勢の病人と悪霊につかれた者たちが連れて来られ、主イエスは休む暇もなく、病人を癒され、悪霊につかれた者たちから悪霊を追い出されました。

 

 

 

そして、マルコによる福音書は、35節で「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」と記しています。「朝早くまだ暗いうちに」は、「まだ真っ暗な/まだ夜が明けていない早くに」という意味です。朝早く、まだ真っ暗であったのに、「イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」のです。主イエスは起きて、ペトロのしゅうとめの家を出て行かれました。「人里離れた所へ」立ち去り、祈られるためでした。

 

 

 

人里離れた所」は、文字通りには「寂しい所」です。荒れ野のことです。主イエスが荒れ野に退かれたのは2度目です(マルコ1:1213)。そこで主イエスは祈りの時をお持ちになりました。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者に夜明け前に真っ暗な荒れ野で一人祈る主イエスの姿を、鮮やかにわたしたちの目に焼き付けるようとしています。

 

 

 

マルコによる福音書は、主イエスの祈りを三度記しています。ここと、646節、そして1432節以下のゲツセマネの祈りです。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの祈りを記すことで、次のことを伝えたいのです。主イエスの福音宣教と癒しの御業と祈りは不可分であるということです。

 

 

 

先週詩編107編を学びました。とても印象深い御言葉がありました。「主は御言葉を遣わして彼らを癒し 破滅から彼らを救い出された。(詩編17:20)。まさにマルコによる福音書は、この御言葉の成就を主イエスのガリラヤ宣教に見ているのです。

 

 

 

主イエスのガリラヤ宣教は、御言葉である主イエスを遣わされた主なる神の御業です。だから、主イエスは父なる神の御心をなさせてくださいと常に祈られたでしょう。

 

 

 

そして主イエスの弟子たちとわたしたちキリスト者もまた、主イエスに遣わされて、福音宣教をしているのです。教会がするすべてのことは、わたしたちを通して主がなさるお働きです。だから、わたしたちも祈りをもって礼拝を、祈祷会を、小会を、会員総会を、そして諸々の諸集会、活動、奉仕をするのです。主の御心をなさせてくださいと。

 

 

 

さらにマルコによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの弟子たちの無理解を伝えようとしています。

 

 

 

3637節です。「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。」「シモンとその仲間」は、マルコによる福音書独特の言葉です。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネが主イエスの後を追って、荒れ野に行き、主イエスを見つけて、カファルナウムの町に連れ戻そうとしたのでしょう。

 

 

 

37節に「見つける」と、マルコによる福音書は記していますね。「追う」と「見つける」は相補う言葉です。聖書の教える信仰にとって大切な言葉です。マルコによる福音書はこれらの言葉を対で、二つそろえて使い、次のことを教えています。主イエスは、わたしたちがペトロたちのように後を追い求めないと、見つけることはできないと。

 

 

 

それは、わたしたちもこの礼拝です。個々人のデェボーションです。家庭礼拝です。そこでわたしたちは聖書の御言葉を読み、また聞き、主イエスを追い求めているのです。そして、主イエスを見つけるのです。だから、主イエスは言われるのです。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる(マタイ7:7)と。

 

 

 

しかし、彼らは主イエスを捜し、主イエスを見つけたが、主イエスを理解していませんでした。なぜなら、彼らは、主イエスの御心を求めていなかったからです。他のことに関心がありました。

 

 

 

それは、彼らが主イエスに言った言葉で分かります。彼らは主イエスに言いました。「みんなが捜しています(37)。彼らの関心は、主イエスではなく、癒しを求めてイエスを捜している人々です。

 

 

 

主イエスは彼らの無理解を叱ることなく、御自身の使命を38節で次のように言われました。「イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」

 

 

 

主イエスは詩編107編の御言葉を成就するために、父なる神によってこの世に遣わされました。だから、主イエスはカファルナウムの町だけで福音宣教し病人を癒し悪霊を追い出されるのではありません。ガリラヤの全土にある会堂を歩き廻り、福音宣教し、病人を癒し、悪霊を追い出されるのです。

 

 

 

だから、わたしたちも主イエスを、限られた場所に留めようとすべきではありません。この教会の外にも主イエスは向かわれています。主イエスに救われる者たちがいます。主イエスは、こう言われています。「近くのほかの町や村へ行こう。」。「町や村」は聖書翻訳者の意訳です。「ほかのところにある近くの町々」です。

 

 

 

マルコによる福音書がわたしたち読者に伝えようとしていることは、次のことです。主イエスがガリラヤ全土で、また近い所にある町々で福音宣教し、病人を癒し、悪霊を追い出されたように、わたしたちも主がわたしたちを遣わされたこの諏訪地方で、近い所にある松本や伊那にいる人々に、キリストの福音を伝えよということです。

 

 

 

そういう意味でマルコによる福音書は、地方にある教会とキリスト者たちに大きな慰めと励ましを与え、地方で異教的宗教や習慣の中で生きるキリスト者たちを慰め、伝道へと励ます福音書であると、わたしは思います。

 

 

 

こうして主イエスは、「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し悪霊を追い出された」のです。

 

 

 

主イエスは朝早く起きて祈られ、御自身を遣わされた父と聖霊を通して交わられました。これが主イエスのガリラヤ全土で福音宣教し悪霊を追い出された命の源でした。

 

 

 

わたしたちも主イエスのようにしばしこの世から退き、祈りの時を持つことは霊的な恵みだと思います。大会役員修養会、信徒修養会、青年・学生たちの修養会、キャンプ、そして甲信地区の一日修養会、また諏訪地方のプロテスタント教会の集会などに参加し、共に祈り合い、そして祈りによって主イエスに結ばれている兄弟姉妹であるという喜びに満たされることは、地方にある小さな群れにとって大きな慰めであると、わたしは思います

 

 

 

それから今朝の御言葉からわたしたちがどんなに内にこもりやすい者であるかを教えられます。わたしたちはこの教会だけに、自分たちだけに目を向けやすい者です。主イエスはわたしたちにも言われます。「わたしはあなたがたから隣人に、あなたたちの教会から諏訪地方に、松本や伊那地方にある教会に行く。そこでわたしはわたしを遣わした者を通して福音を宣教し、悪霊に支配され、わたしを見えなくされている者たちの目を開こう」と。

 

 

 

主イエスはここに今おられます。目には見えませんが、御自身が遣わされた者の口を通して福音を語られ、御自身の十字架が罪の赦しであることを宣言され、わたしたちの体も心も救われます。これからわたしたちが味わいます聖餐は、主イエスの救いの保証です。わたしたちの信仰を強めるものです。

 

 

 

しかし、主イエスはここにのみ留まられず、わたしはほかの教会にも行き、同じように遣わした者の口を通して福音を語り、信じた者に洗礼を授け、聖餐の食事の恵みにすべてのキリスト者を招かれます。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第13539節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

主イエスは、荒れ野へと退かれ、父なる神との交わりを求めて祈られました。そして、今も主イエスは天においてわたしたちを執り成しの祈りによって支えてくださっていることを感謝します。

 

 

 

わたしたちの自己中心、心の狭き罪をお赦しください。どうかわたしたちの信仰の目を、主イエスの御後を追い求めさせ、わたしたちだけでなく、諏訪地方にある教会に、また教会の外にも主イエスの救いの御業を見せてください。

 

 

 

礼拝と教会の交わりを大切にすると同時に、改革派教会の交わり、諏訪地方にあるプロテスタント教会の交わりをも大切にできるように、わたしたちの心を広げてください。

 

 

 

わたしたちは、今主イエスが聖霊と御言葉を通してこの教会に来てくださり、御言葉の恵みと聖餐の恵みを通して、天国の前味を味わわせてくださることを感謝します。

 

 

 

どうか、この教会の外に主イエスの羊たちがいますので、彼らをこの教会へと招き、また、彼らとの主にある交わりを深めさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。