マルコによる福音書説教11              20191110

 

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

 

イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 

 

                   マルコによる福音書第21317

 

 

 

  説教題:「罪人を招く主イエス」

 

今朝は、マルコによる福音書第21317節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回、主イエスが中風の人を癒された事件を通して、主イエスと律法学者たちの論争を学びました。すなわち、主イエスに人の罪を赦す権威があるのかという論争です。

 

 

 

主イエスは中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言されました(マルコ2:5)。それを聞いた律法学者たちは心の中で非難したのです。人の罪を赦す権威は神だけがお持ちであり、イエスは神を冒涜していると(2:7)

 

 

 

主イエスは、御自身が神と同等であり、罪を赦す権威を持っていることを、彼らの心を見抜くことと中風の人を癒す奇跡を通して証しされました。

 

 

 

今朝は、主イエスとファリサイ派の律法学者たちとの第二回目の論争を学びましょう。

 

 

 

主イエスは再びガリラヤ湖のほとりを歩かれ、収税所に座っているレビ、すなわち、マタイによる福音書の著者であるマタイを御覧になりました。収税所がレビの仕事場でした。そこに官吏の詰め所があり、通行人の取り調べと税の徴収を行っていました。

 

 

 

そして、その仕事場でレビはペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ同様に「わたしに従いなさい(マルコ2:14)と、主イエスに召されました。

 

 

 

レビは主イエスの召しに立ち上がって、即答しました。彼もまた仕事を捨てて。そして主イエスの弟子として、従いました。

 

 

 

その後彼は、彼の家に大勢の徴税人たちや罪人たちを食事に招待しました。主イエスと彼の弟子たちも招かれました。ファリサイ派の律法学者たちはレビの家の食事に同席しませんでした。彼らは、主イエスの為さることを見守っていました。

 

 

 

ファリサイ派の律法学者たちは、主イエスの弟子たちに「どうしてあなたがたの先生は、宗教的に汚れている徴税人たちや罪人たちと食事をするのか」と質問し、主イエスの行為を非難しました(マルコ2:16)

 

 

 

すると主イエスは、彼らの非難を聞いて、答えられました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と(マルコ2:17)

 

 

 

以上が今朝の御言葉の筋であります。

 

 

 

では、もう少し今朝の御言葉を深く学びましょう。

 

 

 

マルコによる福音書は、13節に「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。」と記していますね。

 

 

 

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」という、この文章は116節の「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」という御言葉と関連付けられています。

 

 

 

主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩かれて、漁師のペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを御覧になり、「わたしに従いなさい」と命じて弟子とされました。同様に主イエスは再びガリラヤ湖のほとりを歩かれて、収税所に座っているレビを御覧になり、「わたしに従いなさい」と命じて弟子とされました。

 

 

 

それだけではありません。ガリラヤ湖のほとりを歩かれる主イエスの後を大勢の群衆たちがついて来て、彼を取り囲みました。「イエスは教えられた」とは、主イエスが大勢の群衆にユダヤ教の律法学者たちのように教えられたということです。しかし、主イエスの教えを聞く群衆たちは、主イエスが律法学者たちのようではなく、権威ある者として教えられるのを聞いて、驚いたことでしょう(マルコ1:27)

 

 

 

さて、マルコによる福音書を読んでいますと、主イエスが弟子を召されることに一つのパターンがあります。ガリラヤ湖のほとりを歩かれていること、仕事中のペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、そしてレビを御覧になったこと、主イエスは彼らに「わたしについて来なさい」と呼びかけられたこと、主イエスの呼びかけに、弟子たちは無条件に即座に応答し、すべてを捨てて、主イエスに従ったことです。

 

 

 

14節の「イエスに従った」は、主イエスへの信従を表す決まり文句です。誰かの後について行くという意味から、主イエスに信従するというキリスト教用語が生まれました。

 

 

 

マルコによる福音書は、15節で「実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」と、大勢の群衆が主イエスに信従していたことを伝えています。

 

 

 

マルコによる福音書は、12弟子たちだけでなく、大勢の群衆が主イエスに従うことを、信従者たちの群れになることを記しています。37節、41節にも同様の記述があります。

 

 

 

主イエスは、ガリラヤで福音宣教し、大勢の人々を教え、主イエスに信従する群れを形成されました。これがマルコによる福音書が描いている伝道と教会形成です。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者にレビが主イエスの弟子に召された事件を通して、二つのことを伝えています。

 

 

 

第一は、主イエスへの信従です。主イエスの「わたしに従いなさい」という招きに無条件で答えて、即座に主イエスに信従する、それが主イエスの弟子です。

 

 

 

第二は主イエスが徴税人たちと罪人たちと食事をされたことです。

 

 

 

マルコによる福音書は、15節でこう記しています。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」。

 

 

 

レビの家の食事は、主イエスが主人です。主イエスは、徴税人たちと罪人たちを同席されました。そして彼の弟子たちも同席していました。

 

 

 

主イエスと共に食事をするのは、徴税人たちと罪人たちです。徴税人はローマ帝国とガリラヤの領主ヘロデから税金の取り立てを委託された者です。ユダヤ人にとってローマ帝国の皇帝とガリラヤの領主ヘロデは異邦人の支配者です。ユダヤ人にとって異邦人はモーセ律法の食物規定を守らないので罪人であり、宗教的に汚れた者です。

 

 

 

徴税人たちは、その宗教的に汚れた異邦人たちのために働いていました。また、税金を取り立てる時に、水増しをして多く税金を取りたて、私腹を肥やしていたのです。ですからファリサイ派の人々は、彼らを売国奴、罪人と蔑(さげす)み、交わることで、宗教的に汚れることを、嫌いました。

 

 

 

ここでマルコによる福音が「罪人」と呼んでいるのは、モーセ律法を守ることの出来ない人々です。彼らは宗教的に身を汚して、エルサレム神殿の礼拝にあずかれませんでした。

 

 

 

だから、マルコによる福音書は、16節で彼らの主イエスへの非難をこう記しています。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

 

 

 

ファリサイ派の律法学者たちは、主イエスを心の中で非難することから、弟子たちに質問する形で、主イエスが徴税人や罪人と食事を為さったことを非難しました。

 

 

 

マルコによる福音書は、17節で「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と記しています。

 

 

 

「医者を必要とするのは、丈夫なひとではなく、病人である。」」は、主イエスの時代の人々の諺であったでしょう。

 

 

 

主イエスは、医師と病人の関係を教える諺を用いられて、ファリサイ派律法学者たちの誤った考えを正そうとされました。

 

 

 

医者の仕事は病人の病気を治すことです。だから、健康な人に医者は必要ありません。

 

 

 

主イエスは、命の医者です。罪を赦す権威を持たれた主イエスを、義人、正しい人は必要ありません。神の道から外れた罪人を招いて、その罪を赦し、神との関係を回復するために、主イエスはこの世に来られました。

 

 

 

マルコによる福音書が「罪人」と言うのは、わたしたちの罪人理解と少し違うように感じます。

 

 

 

わたしたちは使徒パウロの罪人理解です。自己の内面における罪意識を認める者のことです。

 

 

 

ところが、マルコによる福音書は、ファリサイ派の人々に対する罪人です。ファリサイ派の律法学者たちはユダヤ民衆の宗教的指導者であり、ユダヤ教という宗教の担い手でした。彼らは、ユダヤの民衆にモーセ律法を遵守させました。彼らは、律法を守らない者たちを罪人と軽蔑したのです。徴税人、売春婦、羊飼いたち、異邦人たちはその代表でした。 

 

 

 

主イエスが「わたしが来たのは」と言われたのは、主イエスが父なる神の御心に沿ってなされる御救いの全貌を表しています。神の民なのに神の律法を守れない者、神の律法の下で義人でなく、罪人と蔑まれている者を、御自身のところに招いて、彼らの罪を赦し、彼らを父なる神の子に回復するために、主イエスは神の子イエス・キリストとしてこの世に来られたのです。

 

 

 

だから、主イエスは、罪人である徴税人レビのところに来られました。主イエスは彼を弟子に招かれました。そして彼に家で大勢彼の仲間を招いて食事をされました。彼らは主イエスに罪を赦され、共に食事をし、もう一度神の民として生きる喜びを与えられました。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第21317節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

主イエスは、レビを弟子に召され、彼の家で大勢の徴税人たちと罪人たちと食事されました。

 

 

 

ファリサイ派の律法学者たちは、罪人たちと食事する主イエスを非難しましたが、主イエスは医者が必要なのは健康な人でなく、病人であるように、わたしは正しい人ではなく、罪人を招くために来たと言われました。

 

 

 

主イエスのみがわたしたちの罪を赦すことがおできになり、わたしたちを滅びから命へと救ってくださることを感謝します。

 

 

 

どうか主イエスよ、わたしたちもあなたに召され、あなたの食卓に招かれ、教会という船に乗って、御国へとお運びください。

 

 

 

上諏訪湖畔教会の礼拝において御言葉を聞き、心から救われた喜びを、わたしたちの国籍が天にあることを喜び、賛美させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

マルコによる福音書説教12              20191117

 

ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」

 

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継を当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 

                   マルコによる福音書第21822

 

 

 

  説教題:「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

 

今朝は、マルコによる福音書第21822節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回、主イエスが徴税人レビを弟子に召されたことを学びました。その事件を通して、再び主イエスとファリサイ派の律法学者たちとの間に論争が起こりました。その論争は、主イエスがレビの家で徴税人たちや罪人たちと一緒に食事をされたことが原因でした。 

 

 

 

ファリサイ派の律法学者たちは、ユダヤの民衆にモーセ律法を守らない者たちを罪人と教えていました。罪人の中に徴税人たち、悪霊につかれた者たち、病人たち、売春婦たち、安息日律法を守れない者たちがいました。律法学者たちは民衆たちに罪人たち宗教的に汚れた者たちであると教え、交際を禁じていました。

 

 

 

ところが主イエスは弟子たちを伴い、レビの家で彼らと食事を共にされました。そこでファリサイ派の律法学者たちは、主イエスの弟子たちに「どうして彼は宗教的に汚れた者たちと食事を共にするのか」と言って、主イエスを非難したのです。

 

 

 

彼らの非難を聞かれた主イエスは、彼らにこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。

 

 

 

主イエスが「わたしが来たのは」と言われたのは、主イエスが父なる神の御心に沿ってなされる御救いの全貌を表しています。主イエスは、神の民なのに神の律法を守れない者、神の律法の下で義人でなく、罪人と蔑まれている者を御自身のところに招いて、彼らの罪を赦し、彼らを父なる神の子に回復するために、神の子イエス・キリストとしてこの世に来られたのです。

 

 

 

今朝は、主イエスとファリサイ派の人々との断食論争を学びましょう。18節の「人々はイエスのところに来て言った」という文章は、今までの流れから、ファリサイ派の人々あるいはファリサイ派の律法学者たちと、わたしは推測できると思います。

 

 

 

マルコによる福音書は、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた」と記しています。

 

 

 

ヨハネの弟子たち」は洗礼者ヨハネの弟子たちです。マルコによる福音書145節に洗礼者ヨハネの宣教を次のように記しています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 

 

 

洗礼者ヨハネは荒れ野で罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を、ユダヤ人たちに施し、彼を中心に弟子たちのグループが形成されていました。弟子たちは、ヨハネから悔い改めの洗礼を受け、断食と清めの要求を守り、また、ヨハネから祈りを教えられていました。

 

 

 

ファリサイ派の人々」はユダヤ教の一派です。紀元前2世紀ごろハスモン王朝の時代にユダヤ教のファリサイ派が形成されました。その担い手はユダヤ社会の中流から下層の人々でした。ファリサイ派の律法学者たちは熱心に聖書と父祖たちの伝承を研究し、民衆に教えました。上流階級の祭司たちから成るサドカイ派とユダヤ教の宗教界を二分していました。ファリサイ派の人々は、ユダヤ民衆に安息日を守ること、断食、施しを行うこと、宗教的な清めを特に強調しました。律法を守らない罪人たちから自分たちを分離し、自らを敬虔な者と誇っていました。

 

 

 

マルコによる福音書は、洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、今も昔も継続して断食をしている。断食を欠かしたことがないと記しているのです。

 

 

 

断食する」はマルコによる福音書には、1820節に5回出てきます。ユダヤ教は律法によって断食が命じられていました。その日は贖いの日でありました。これはすべての神の民が守らなければなりませんでした。なぜなら、断食は、敬虔な人々にとって神の契約から神の民が脱落することに対する償いと悲しみを表すものであったからです。

 

 

 

この断食理解を離れては、今朝の主イエスと人々の断食論争は理解できないと、わたしは思います。

 

 

 

さて、マルコによる福音書は、18節後半をこう記しています。「そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

 

 

 

ファリサイ派の弟子たち」は、彼らの教師である律法学者たちから聖書と父祖の伝承について教えを受けていた者たちのことです。

 

 

 

ファリサイ派の弟子たちは、週に二度、月曜日と木曜日に断食していました。ところが、主イエスの弟子たちが断食している所を、この人々は見たことがありませんでした。ファリサイ派の人々にとって断食は、敬虔な者たちの功徳ある善行です。ですから人々は主イエスに「どうしてあなたの弟子たちは、洗礼者ヨハネの弟子たちやわたしたちのように断食しないのか」と非難しました。

 

 

 

主イエスは、人々の質問に次のようにお答えになりました。「イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」

 

 

 

主イエスは結婚式をたとえに挙げられました。結婚式の祝いの席に招待された客たちは断食できるだろうかと、主イエスは人々に尋ねられました。そして、自問自答され、主イエスは婚礼の客は花婿と喜びを共にするのだから、悲しみを表現する断食はできないと答えられました。

 

 

 

また、主イエスは続けて、「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」と答えられました。

 

 

 

洗礼者ヨハネが罪の赦しを得させる洗礼を宣べ伝えたのは、ユダヤの民衆たちがメシアに備えるためでした。メシアの審判に備え、彼らが罪を赦され、神の御国に入るためだったでしょう。洗礼者ヨハネがメシアを待ち望んでいたことを考えると、彼の弟子たちが断食するのは、メシアとメシアの国への準備のためだったと、わたしは考えます。

 

 

 

その考えから主イエスの婚礼のたとえを理解してみてください。「イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。

 

 

 

この「婚礼の客」は誰ですか。「花婿」は、誰ですか。婚礼の客は主イエスの弟子たちです。花婿は主イエスです。

 

 

 

結婚は喜びであり、祝福です。だから結婚式のその日に断食する招待客はいません。しかし、花婿である主イエスが奪い去られる日が来ると、主イエスは預言されています。 主イエスは御自身の受難を預言されています。御自身が十字架に死なれる時、弟子たちは悲しみで断食すると。

 

 

 

この主イエスのたとえを、よく考えてください。なぜ、主イエスは婚礼というたとえを用いられたかを。婚礼のたとえで主イエスは、わたしたちにメシア、神の子イエス・キリストがこの世に来られ、新しい事態が起こったということを伝えようとされているのです。

 

 

 

花婿である主イエス・キリストが彼の弟子たちと共に居て下さるインマヌエルという新しい事態が婚礼の場である教会の礼拝で起こったのです。

 

 

 

復活の主イエスは、マタイによる福音書の2820節で次のように宣言されました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

 

 

 

洗礼者ヨハネの弟子たちが断食によって待ち望んでいたメシアは、既に来られたのです。クリスマスの日が来て、神の独り子主イエスは人となられて、この世に来られ、今聖霊と御言葉を通して、主の日の礼拝に臨在され、わたしたちと共に居てくださるのです。だから、断食は、主イエス・キリストの弟子たちには問題にならないのです。

 

 

 

それを、主イエスは、次のたとえでもって説明されたのです。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継を当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 

 

 

古いと新しいという関係です。古い服の継当てに新しい服の布を使えば、新しい布切れが古い服を引き裂いて台無しにします。だから、新しい服には新しい布切れを継当てに使うべきです。

 

 

 

また、古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、新しいぶどう酒は古い革袋を裂き、ぶどう酒も革袋も台無しにします。だから、新しい革袋に新しいぶどう酒を入れるべきです。

 

 

 

主イエスは断食を否定されているのではありません。今主イエスが来られ、救いの時であり、新しい事態を迎えているということを、主イエスは伝えたかったのです。

 

 

 

ヨハネの弟子たちのように罪を悔い改め、メシアに備える準備をするために断食するということは古くなったのです。

 

 

 

キリスト教の断食は、主イエスが「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」と言われた日に行うようになりました。それは、具体的にはキリストが十字架で死なれた金曜日です。実際に初代教会では、受難週の金曜日に断食をしました。また、ユダヤ教が月曜日と木曜日に断食をしていましたので、初代教会の教会規程である「ディダケー」に、金曜日にキリスト教断食を行うことを定めています。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの断食論争を紹介してくれていますが、実はわたしたちにキリスト教的断食の実践を教えることより、この論争によって主イエスがガリラヤで福音宣教され、そしてエルサレムに向けて御自身の受難の道を、ゴルゴタの十字架への道を歩まれていたことを伝えようとしているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第21822節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

主イエスは、人々が「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食しているのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのか」と非難した時に、婚礼に招かれ、花婿と一緒にいる客は断食しないと言われました。

 

 

 

今わたしたちは、目には見えませんが、聖霊と御言葉を通して、ここにわたしたちと共に主イエスが居て下さり、神の救いの時、喜びの時にいることを、今朝の主イエス尾御言葉から教えられ感謝します。

 

 

 

今も熱心に断食する兄弟姉妹がいます。しかし、わたしたちは主イエスの弟子たちのように日常で断食することがありません。病気や体調不良で飲み食いできず、断食することがありますが、それ以外で断食することはありません。

 

 

 

今朝の主イエスの御言葉からわたしたちが今、断食しなくてよい神の救いの時を生きていることに感謝します。また、毎月の聖餐式を通してわたしたちが天国の前味を味わい、神の祝福の中に生かされていることを感謝します。

 

 

 

今は本当に良い時代です。迫害もありません。しかし、戦前の教会の罪、わたしたちの先輩たちが主イエスに服従できなかった罪を忘れることはできません。天皇の代替わりの大嘗祭の儀式が神道でなされ、人が神となる儀式に国費が使われ、日本キリスト改革派教会は抗議しますが、いつの日か主イエスが預言されたように、主イエスが奪い去られ、教会がキリストを礼拝できず、この世の偶像を礼拝させられるときが来れば、断食し、心から罪を悔い、十字架のキリストのみに教会とわたしたちを委ねることができるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。