ヨハネによる福音書説教70       主の2018318

 

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

 

そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」

 

イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。 

 

はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

 

女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。

 

ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

 

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。

 

今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。

 

         ヨハネによる福音書第161624

 

 

 

 説教題:「聖霊の働き」

 

 いよいよ次週より受難週が始まります。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に12章よりキリストの御受難を物語っています。

 

 

 

 主イエスは過越祭の六日前にベタニアの村でマリアからナルドの香油を注がれ(123)、その翌日にユダヤ人の王としてろばの子に乗り、エルサレムの都に入城されました(121215)。エルサレム神殿で主イエスはユダヤ人たちに教えられました。そこに過越祭に神殿に礼拝に来たギリシア人たちが主イエスにお会いしたいと訪ねて来ました(1220)。それから、13章より主イエスが12弟子たちの足を洗われ、過越祭の食事をされました。

 

 

 

その最後の晩餐において主イエスは12弟子たちにユダの裏切りを予告されました。そして裏切り者のユダは、そこから闇の中へと去りました。

 

 

 

その後主イエスは、残された11弟子たちに第一と第二のお別れ説教(1331節―1431節、151節―1633)をされました。

 

 

 

わたしたちは、第一と第二のお別れ説教で主イエスが11弟子たちにいろんなことを語られたそのお話を、これまで一つ一つ追いかけているように学んできました。そして、今朝の御言葉にたどり着きました。

 

 

 

さて、16節で主イエスは、11弟子たちにこう言われています。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。

 

 

 

今日、初めて教会に来られて、そして、今礼拝で主イエスのお言葉を聞かれた方は、まるで禅問答を聞いているという思いになられるのではないでしょうか。

 

 

 

実際に主イエスが語られる御言葉を聞いた11弟子たちは、そういう思いになりました。

 

 

 

17節と18節を御覧ください。

 

 

 

そこで、弟子たちのある者は互いに言った。『「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」とか、「父のもとに行く」とか言っておられるのは、何のことだろう。』」「また、言った。『「しばらくすると」』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。

 

 

 

11弟子たちは主イエスのお言葉を反復しながら、互いに言いました。彼らの理性だけでは、主イエスが何を言われているのかが分からないと。

 

 

 

19節で主イエスは、11弟子たちの思いを汲み取られて、次のように言われています。

 

 

 

イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。

 

 

 

11弟子たちが主イエスのお言葉に戸惑ったことはあきらかです。だから、彼らは主に質問したかったのです。ところが、誰もその勇気はありません。だから、彼らは主が言われた言葉を反復しながら、互いに「先生はわたしたちに何を言われているのだろう」と話し合っていたのです。

 

 

 

ここで一つの事実が明らかになります。11弟子たちは、主イエスが彼らの目の前から居なくなられることなど想像もできなかったということです。

 

 

 

ところが主イエスは、数日後に十字架で死なれ、そして、復活し、父なる神のみもとに帰られることを知っておられるのです。

 

 

 

すでに主イエスは、不信仰なユダヤ人たちにこう予告されていました。

 

 

 

そこで、イエスは言われた。『今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。』」(ヨハネ7:3334)

 

 

 

不信仰なユダヤ人たちは、主イエスのお言葉を聞いて、彼は外国にいる離散のユダヤ人たちのところでも行くのだろうと思いました。

 

 

 

ヨハネによる福音書にとって受難のキリストは父なる神のところに帰られる栄光のキリストです。そして、このお方だけが永遠の命をお持ちです。

 

 

 

だが、11弟子たちには、十字架のキリストは悲しみ以外のなにものでもありません。

 

 

 

なぜなら、主イエスが死んでしまえば、11弟子たちの人生は無となるからです。

 

 

 

わたしたちは想像する以外にありません。1718節で11弟子たちは何を互いに言い合っていたのだろうか。彼らは主イエスのお言葉を反復しながら、こう話し合ったでしょう。もし先生が我々から居なくなられたら、自分たちが先生を信じて、今日まで弟子として従って来たことはどうなるのだろう。

 

 

 

そこで主イエスは、19節で彼らが互いに話し合っていたことを、「わたしが言ったことについて、論じ合っているのか」と理解してくださいました。

 

 

 

ここで主イエスが「論じ合っているのか」と言われたギリシア語は、「ゼーテオー」です。「求める」「探求する」という意味の言葉です。

 

 

 

主イエスは、11弟子たちが無理解であることを責めておられません。むしろ、彼らが言い合っていることを好意的に受け留めて、御自分の言葉を彼らが求めている、探求していると言ってくださいました。

 

 

 

だから、主イエスは、彼らが質問したがっていることに、20節で真実に答えられました。

 

 

 

はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

 

 

 

ギリシア語の語順でそのまま訳すと、こうなります。「アーメン(まことに)、アーメン(まことに)、わたしはあなたがたに言う。泣き嘆くだろう、あなたがたは。しかし、世は喜ぶだろう。あなたがたは苦しむだろうが、あなたがたの苦しみは喜びになるだろう。」

 

 

 

主イエスは、11弟子たちにこれから起こることを真実なこと、確かなことして告げられました。

 

 

 

「泣き嘆く」は新共同訳聖書のように「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」ことです。葬儀で人が泣き哀悼していることを、主イエスは言われているのです。ユダヤ人たちは、葬儀のときに大声で泣き、大きな声で哀歌を歌いました。

 

 

 

十字架のキリストの死に11弟子たちは大声で泣き、哀歌を歌うだろう。反対に神に敵対するこの世、すなわち、不信仰なユダヤ人たちは、十字架のキリストの死を見て喜ぶだろう。

 

 

 

あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

 

 

 

 今朝の礼拝説教の題にしました。「苦しみが喜びになる」という題の方がより主イエスの思いに近いと思っています。

 

 

 

 ギリシア語の「ルペーオー」「ルペー」を、口語訳聖書は「憂える」「憂い」と、新共同訳聖書と新改訳聖書は「悲しむ」「悲しみ」と訳しました。

 

 

 

 だが、主イエスの21節のたとえとの整合性を考えると、「苦しむ」「苦しみ」が良いと、わたしは思います。

 

 

 

 だから、新共同訳聖書は21節では「ルペー」を「苦しむものだ」と訳しています。

 

 

 

21節で主イエスは次のように11弟子たちの苦しみをたとえられました。

 

 

 

女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。

 

 

 

この後に起こるであろうキリストの十字架の死は、11弟子たちに大きな苦しみを与えるでしょう。

 

 

 

主イエスは、その苦しみを女性が出産する時の陣痛の苦しみにたとえられました。

 

 

 

女性が出産することは陣痛を伴います。本当に大変なことであると思います。しかし、出産した子を抱く母親は愛する子がこの世に生まれてくれたことを感謝し、心からの喜びに満たされています。その喜びがあの激しい陣痛の苦しみを忘れさせるのです。

 

 

 

説教を準備します時に、いくつかの説教集を参考にします。

 

 

 

その中である牧師が次のように説教しています。「『あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。』これは大変有名な聖句です。ところが、この箇所は日本語に問題があるのではないかと思えます。というのは、ここで『変わる』という言葉が使われていますが、これはうっかりすると、信仰によるならばどんな悲しみも主によって喜びに変えられると読んでしまうかもしれません。でも、そうでしょうか。そんなに単純に信仰において、悲しみが喜びに変わってしまうのでしょうか」。

 

 

 

実は新共同訳聖書も新改訳聖書も「変わる」と訳しています。本田哲郎氏も「変わる」と訳しています。フランシス会訳聖書も同じです。だから、日本語に問題があると、その牧師は指摘するのです。

 

 

 

「変わる」のギリシア語は「ギノマイ」で、「なる」という意味です。主イエスは「苦しみが喜びになる」と言われました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、受難のキリスト、すなわち、十字架のキリストの死を、そしてそれに続くキリストの復活を、栄光と見ているのです。キリストが神の栄光を現わされたと見ているのです。

 

 

 

真の意味で11弟子たちの信仰は、主イエスが十字架の死によってその生涯を終えられたところから始まっているのです。

 

 

 

十字架のキリストの死という苦しみは、女性の陣痛の苦しみと同じです。女性は陣痛の苦しみの後にこの世に愛する一人の人間が生まれて、その喜びでそれまでの苦痛を覚えていないのです。すなわち、女性にとって出産の陣痛が愛する子が生まれることで喜びになっているのです。

 

 

 

同様に11弟子たちもキリストの十字架の死という苦しみが復活主イエスとの出会いで喜びになるのです。

 

 

 

だから、主イエスは11弟子たちに22節でこう言われました。

 

 

 

ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

 

 

 

ギリシア語の語順通りに訳せば、こうなります。

 

 

 

「そして、あなたがたも、そのように今、だが、苦しみを持っている。しかし、再びわたしはあなたがたと会うであろう。そしてあなたがたの心は喜び、そしてあなたがたの喜びをだれもあなたがたから引き離すことはない。」

 

 

 

十字架のキリストの御前で11弟子たちは、今主を裏切った、見捨てたという苦しみを持っているのです。しかし、主イエスは復活によって再び11弟子たちと会うと約束されるのです。

 

 

 

そして、復活の主イエスは11弟子たちに永遠の命を与えられ、主イエスによって彼らの苦しみが喜びに創造されるのです。

 

 

 

この世における11弟子たちは自分たちの罪の苦しみを持つままで、復活の主が彼らに罪の赦しと永遠の命を与えられることで、彼らの心が喜びで満たされるのです。

 

 

 

信仰を与えられるという祝福された人生を、11弟子たちはこれから生きるのです。

 

 

 

それが、2324節の主イエスが11弟子たちになさったお約束です。

 

 

 

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。

 

今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。

 

 

 

本当にうれしいことです。「その日」には、主イエスの復活の時には、もう11弟子たちは主イエスに質問することはありません。彼らには主の祝福があるのみです。

 

 

 

それは、主イエスの御名によって祈り願うことを、父なる神はすべて聞き届けてくださるのです。

 

 

 

復活の主イエスが11弟子たちの持つ苦しみの中に喜びを創造してくださり、それを聖霊が継続してくださるので、この世のキリスト者は苦しみを持ちつつ、罪の赦しと信仰を与えられ、心に喜びを産み出していただけるのです。

 

 

 

そしてその喜びを、11弟子たちから、そして、わたしたちキリスト者から引き離せるものはこの世には誰もいません。

 

 

 

この教会で復活の主イエスに出会った喜び、聖霊と御言葉を通して復活の主イエスに今、わたしたちは罪を赦され、神の子としていただいているという喜びを、わたしたちの心に生み出していただいています。

 

 

 

わたしたちのこの世の現実は、罪の苦しみ、この世での失敗の苦しみを持つものでしょう。しかし、復活の主イエスは、日曜日ごとに礼拝でわたしたちと会ってくださり、わたしたちの心に罪赦され、神に愛されて子とされた喜びで、わたしたちの心を満たしてくださいます。

 

 

 

そして、わたしたちキリスト者の人生は、この世にあって途上の人生、未完成の人生です。だからこそわたしたちは、主イエスの御名によって祈るのです。

 

「み名をあがめさせたまえ、み国を来たらせたまえ、天に成るごとく地にも成させたまえ」と。

 

 

 

主の祈りを祈るのです。その時に神に敵するこの世でわたしたちは、苦しみを持ち生きるのですが、その中にあってもわたしたちの心に復活の主が聖霊と御言葉を通して喜びを創造してくださるのです。

 

 

 

神が祝福された人生を創造し、そして永遠の御国へとわたしたちを引き上げてくださるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今わたしたちはレントの季節を過ごしています。日々受難のキリストを瞑想しています。

 

 

 

今朝も受難のキリストが最後の晩餐において11弟子たちに第二お別れ説教をなさったことを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

受難のキリストが十字架に死に、この世を去られることこそ、キリストの栄光の始まりであり、わたしたちの信仰の始まりであることを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

また復活の主が11弟子たちに再び会い、そして彼らに聖霊を遣わされて、ご自身のこの世における救いの働きを継続してくださっていることを感謝します。

 

 

 

わたしたちも11弟子たちと同じように、この世において罪という苦しみを持つ者であります。しかし、それを持ち、この礼拝に来て、今朝も聖霊と御言葉を通して復活の主イエスに出会い、主の御言葉をお聞きし、主イエスが今も11弟子たちと同様にわたしたちに語られ、わたしたちの罪を赦してくださり、神の子としてくださり、永遠の命の喜びを、わたしたちの心に満ちあふれさせてくださることを感謝します。

 

 

 

どうか、主イエスよ、11弟子たちと同様にわたしたちにも真実を言ってくださり、わたしたちが父なる神の祝福を歩めるようにしてください。

 

 

 

今朝の主イエスの御言葉に励まされ、この一週間を過ごさせてください。どうか苦しみを持つゆえに信仰につまずくことなく、むしろ、その苦しみを主がわたしたちの心の中で喜びとしてくださると信じて歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教71       主の201848

 

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日にはあなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

 

弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。

 

主イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。

 

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

          ヨハネによる福音書第162533

 

 

 

 説教題:「しかし、勇気を出しなさい」

 

 今朝の御言葉で、主イエスのお別れの説教は終わります。

 

 

 

 主イエスは、11弟子たちと最後の晩餐の食事をされ、そこで彼らにお別れの説教(1と第2)をなさいました。

 

 

 

 1625節で、主イエスが11弟子たちに「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。」と言われていますね。主イエスは、11弟子たちに語られたお別れ説教を一つの「比喩」として総括されているのです。

 

 

 

 「話してきた」は、「わたしは語って来た」という現在完了です。主イエスは、11弟子たちにお別れ説教をこれまで継続して語って来られました。

 

 

 

 既に主イエスは、ファリサイ派の人々にこの福音書の10章で比喩を用いて御自身が何ものであるかをお話しになっています。

 

 

 

そしてヨハネによる福音書は、106節で、それに対するファリサイ派の人々の反応を次のように記しています。

 

 

 

 「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」。

 

 

 

 ファリサイ派の人々は旧約聖書の専門家です。しかし、彼らは主イエスが比喩で話されたので、主イエスが何ものかを理解できませんでした。

 

 

 

主イエスは彼らに言われました。「わたしは羊の門である」「わたしは良き羊飼いである」と。

 

 

 

 ここでも主イエスは11弟子たちに比喩で語られたので、彼らは理解できないと思われたのでしょう。

 

 

 

 だから、主イエスは彼らに25節後半で、こう言われています。「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」と。

 

 

 

 その時は、ペンテコステの日に実現しました。26節の「その日」は、ペンテコステの日です。

 

 

 

 聖霊降臨の日に、父なる神と主イエスが聖霊をこの世に遣わされた日に、主イエスが彼らに約束された「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来」ました。

 

 

 

だから、その聖霊に導かれてヨハネによる福音書は、主イエスが比喩を用いずに語られた神について証言しています。

 

 

 

この福音書を通してわたしたち読者は、はっきりと神は主イエスの父であり、主イエスは父なる神の独り子であることを知らされています。そして、父なる神が御子主イエスをこの世に遣わされ、主イエスが聖霊をこの世に遣わされたことを知らされています。

 

 

 

ペンテコステの日以後、教会とキリスト者たちは主イエスが2628節で言われていることを、そのまま聖書を通して、ヨハネによる福音書を通して実体験しているのです。

 

 

 

わたしたちの祈りはどうですか。実際に主の御名によって父なる神に祈願していませんか。

 

 

 

その祈りの時に、主イエスは、わたしたちに「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる」と言われるでしょうか。

 

 

 

その必要はありません。なぜなら、聖霊がわたし心にキリストの執り成しを確信させてくださっているからです。

 

 

 

また、神の愛はどうですか。これも、ペンテコステの日以来聖霊が教会とキリスト者たちに、父なる神の愛を、御子キリストの十字架を通して知らせてくださっていますね。

 

 

 

聖霊がわたしたちに信仰をお与えくださり、主イエスが父なる神から出て、この世に遣わされ、わたしたち罪人のために十字架の道を歩まれたことを信じさせてくださっています。だから、わたしたちは、ヨハネによる福音書がわたしたちに証言する「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(316)という福音を信じているのです。

 

 

 

だから、ヨハネによる福音書が2930節で、主イエスの御言葉に対して11弟子たちの信仰を応答させていますが、この11弟子たちの応答は初代教会のキリスト者たちの信仰が反映していると思います。

 

 

 

弟子たちは言った。『今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。』

 

 

 

主イエスと11弟子たちの会話は、まるで信仰問答ですよね。

 

 

 

11弟子たちは信仰によって、主イエスに答えるのです。「あなたは少しも比喩を用いないで、はっきりと言ってくださった。だから、わたしたちはあなたがすべてをご存じで、もうあなたに尋ねる必要がないことが分かりました。これによって、あなたが父なる神のもとから来られたことを、わたしたちは信じております」と。

 

 

 

11弟子たちの信仰は初代教会のキリスト者たちの信仰です。そして、わたしたちの信仰でもあります。

 

 

 

ところが、主イエスは11弟子たちの信仰告白に対して31節で次のように答えられます。「主イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。』

 

 

 

ギリシア語新約聖書はネストレ版を底本としています。31節は、ネストレ版では疑問符を補っているのです。だから、わたしたちの日本語の聖書も、31節の主イエスのお言葉を疑問文で翻訳しているのです。

 

 

 

しかし、宗教改革者ルターは31節を平叙文で訳しています。彼はこう訳しています。「イエスは彼らに答えた。『今、あなたがたは信じている。』」

 

 

 

疑問文で訳すか、平叙文で訳すか。?(はてな)一つの問題ですが、読者であるわたしたちが受ける印象は随分と異なるのではないでしょうか。

 

 

 

わたしは、31節の主イエスの御言葉を聞いて、11弟子たちが主に叱責されているように聞こえます。

 

 

 

だが、ルターのように平叙文で、主イエスの御言葉を読みますと、むしろ、主イエスは彼らを誉めて、「今あなたがたはわたしを正しく信じているのです」と言われているように聞こえてきます。

 

 

 

この31節の御言葉を読まれて、あなたがたはどちらが良いと思われますか。

 

 

 

わたしは、主イエスは11弟子たちの信仰を、そして、復活の主イエスは初代教会のキリスト者の信仰を誉められたと思います。また、わたしたちの信仰を誉めて下さっていると思います。

 

 

 

だからこそ、主イエスは、11弟子たちの信仰がなくならないように、32節以下で御自身の御受難を予告され、彼らに迫る苦難を思われて、彼らを励まされたのです。

 

 

 

だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。

 

 

 

主イエスが予告される日が来れば、11弟子たちはそれぞれバラバラに自分たちの家、故郷に帰って行きます。

 

 

 

彼らは主イエスを見捨てるのです。

 

 

 

だから、彼らは主イエスをひとりきりするのです。

 

 

 

しかし、主イエスは、御自分はひとりではないと言われます。これから主イエスは十字架の道を、御受難の道を歩まれます。だが、その道は孤独な道ではありません。なぜなら、主イエスと共に父なる神がいてくださるからです。

 

 

 

主イエスは、ゴルゴタへと十字架の道を歩まれます。ユダの裏切りで、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、裁判にかけられ、そしてピラトの裁判で死刑の判決を受けて、ゴルゴタの処刑場へと歩まれます。それは孤独な道ではありません。受難の主イエスと共に父なる神がいてくださるからです。

 

 

 

どうして主イエスは11弟子たちにこんな予告をするのか、主イエスは33節で次のように言われています。

 

 

 

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

 

 

 

受難の主イエス御自身が11弟子たちに平和を得させることになると約束されています。

 

 

 

受難の主イエスの十字架によって11弟子たちは、彼らの罪を赦され、父なる神と平和を得ることになります。

 

 

 

それだけでありません。主イエスは、御自身と同じように11弟子たちもこの世で苦難に遭うと予告されています。

 

 

 

使徒パウロは言っています。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない(使徒言行録14:22)

 

 

 

主イエスは11弟子たちに「あなたがたには世で苦難がある」と予告されるだけでなく、逃れの道を用意されました。

 

 

 

神の御国に入るまで、この世で11弟子たち、初代教会のキリスト者たちはこの世で苦しみの連続であるわけです。そして、彼らの肉体は弱いのです。

 

 

 

だから、彼らは、受難の主イエスを捨てて、逃げました。

 

 

 

しかし、主イエスは彼らに約束されました。苦難の中にある彼らと共にいると。

 

 

 

だから、主イエスは11弟子たちを次のように励まされました。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

 

 

 

主イエスはこの世に勝利されているのです。受難の主イエス、十字架の主イエスは、ヨハネによる福音書にとっては栄光の主です。

 

 

 

世の勝利者、栄光の主イエス・キリストが御受難の時に、父なる神が共にいてくださったように、苦難の中にある11弟子たちと共にいてくださるのです。そして彼らの信仰がなくならないようにお守りくださいます。

 

 

 

だから、主イエスは、彼らに勇気を出しなさいと励まされたのです。

 

 

 

今、世に勝利された主イエスは、わたしたちと共にいてくださいます。初代教会のキリスト者たちがローマ皇帝の迫害の中で苦しんだ時、彼らが地下の墓地で礼拝する中に復活の主イエスは共にいて下さり、初代教会のキリスト者の信仰がなくならないように守ってくださいました。

 

 

 

そして、復活の主イエスは11弟子たちと同じように、「彼らに勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と励ましてくださいました。

 

 

 

今も一緒です。復活の主イエスはわたしたちを70年間守ってくださいました。教会の信仰がなくならないように、そして、わたしたちの信仰がなくならないように、毎週欠かすことなく主の日の礼拝を行い、聖霊を通してわたしたちに主イエスは語り続けてくださいました。そして、わたしたちが聖餐の恵みに欠かさずにあずかることができるようにしてくださったのです。

 

 

 

だから、わたしたちも常に聞いているのです。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。

 

 

 

この世で生きるキリスト者は11弟子たちのように、この世の苦難を避けることはできません。しかし、受難の主イエスが孤独でなかったように、わたしたちも孤独でありません。「しかし、勇気を出しなさい」と励してくださる復活の主イエスが共にいてくださるからです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今わたしたちは復活の主イエス・キリストの臨在の下、御言葉と聖餐の恵みにあずかることができて感謝します。

 

 

 

今朝も受難のキリストが最後の晩餐において11弟子たちに第二お別れ説教をなさったことを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

受難のキリストは孤独に十字架の道を歩まれたのではなく、父なる神と共に歩まれたことを学びました。そして、死に打ち勝ち、復活された主イエス・キリストはこの世の苦難の中にいるわたしたちと共に歩んでくださっていることを学びました。

 

 

 

どうか復活の主イエス・キリストの励ましにより、勇気を出して、キリストと共にこの世の苦難を歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

ヨハネによる福音書説教72       主の2018415

 

イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行なうようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

 

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」

 

           ヨハネによる福音書第1718

 

 

 

説教題:「キリストの栄光の時」

 

 本日よりヨハネによる福音書17章の主イエスの最後の祈りを数回に分けて、説教します。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、この世を去り行く主イエスが、父なる神に最後の祈りをされたことを記しています。

 

 

 

十字架の主イエスを、栄光の主として描くために、主イエスが父なる神に御自身がお持ちになっていた栄光を請い求められたことを記しています。

 

 

 

1節で主イエスは「父よ、時が来ました。」と祈り始められました。今、主イエスは、父なる神が定められた時、すなわち、御自身が十字架で死に、復活をし、父なる神のみもとに帰られる時が来たことを悟られました。

 

 

 

だから、主イエスは、父なる神に「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と祈られました。

 

 

 

「栄光」という言葉は、聖書の中では次のように用いられています。旧約聖書においてはほとんど神について用いられています。神の栄光は、神の御業と顕現、臨在を通して現わされています。たとえば、出エジプトの事件です。神の民は出エジプトの事件を通して神の栄光を見ました。そして、シナイ山で主なる神が顕現された時にも神の栄光を見ました。

 

 

 

新約聖書においては、神の栄光は主イエス・キリストと結びついて現わされています。たとえば、ヨハネによる福音書は114節で、「わたしたちはその栄光を見た」と証言し、「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と証言しています。

 

 

 

特に主イエスの十字架と復活を通して神の栄光が現わされたことを、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に証ししています。それを、一言で表現すれば、救いであり、永遠の命です。

 

 

 

だから、主イエスは、2節で次のように祈られています。

 

 

 

あなたはすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。

 

 

 

 主イエスが父なる神から与えられた「すべての人を支配する権能」は、政治的な権威ではありません。むしろ、人を救う御力です。父なる神がこの世から選び出して、御自身のものとされた者たちすべてに、主イエスは永遠の命を与えることがおできになります。

 

 

 

ヨハネによる福音書が記します「、永遠の命」は、主イエスの救いのことです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、次のように3節で永遠の命を定義しています。

 

 

 

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです

 

 

 

 主イエスの祈りの御言葉は、ヨハネによる福音書の時代が反映しています。

 

 

 

異邦人伝道が前提にあるのです。

 

 

 

11弟子たちよりも異邦人たちであるわたしたち読者に、ヨハネによる福音書は永遠の命、すなわち、救いを、神と主イエス・キリストを知ることと定義しているのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は異邦人たちに、主イエスの祈りを通して、聖書の神は唯一のまことの神であり、主イエス・キリストは神から遣わされた父なる神の子なる神であることを教えているのです。

 

 

 

 そして、子なる神主イエスは、ヨハネによる福音書を通して、わたしたちに語り掛けて来られます。

 

 

 

あなたたちは、父なる神によってこの世から選び出されて、この教会に召し集められたのです。そして、毎週の主の日の礼拝説教を通して聖書の神が唯一の生ける真の神であり、その神から主イエス・キリストはこの世に遣わされた子なる神であることを知らされたのです。

 

 

 

 そして、あなたたちは十字架の主イエス・キリストを神の子と信じることで、救われて、永遠の命を得、神の子とされるのです。

 

 

 

 これがヨハネによる福音書を通して、主イエスがわたしたちに提供されている福音であり、救いです。

 

 

 

 だから、主イエスは、174節で次のように祈られたのです。

 

 

 

 「わたしは、行なうようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。

 

 

 

 これは、1930節の御言葉を先取りしています。十字架の主イエスが「『成し遂げられたと言い、頭を垂れて息を引き取られた」のです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、それを振り返りつつ主イエスの最後の祈りを記しているのです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書で父なる神に最後の祈りをされている主イエスは、初代教会の礼拝に臨在される主イエスです。

 

 

 

 わたしたちの目には見えませんが、今、ここに、この礼拝に聖霊と御言葉を通して、信仰によって臨在される主イエスです。

 

 

 

主イエスは、5節で次のように言われています。

 

 

 

父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

 

 

 

わたしたちの礼拝に臨在される主イエスは、天地創造の前に御自身が永遠の栄光をお持ちになっていた神であられます。

 

 

 

だから、主イエスは、今わたしたちに永遠の命をお与えくださるお方なのです。

 

 

 

 そして、今ここで礼拝しているわたしたちを、ヨハネによる福音書は主イエスの祈りの口を通して、68節でこう言うのです。

 

 

 

 「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。

 

 

 

 今、この礼拝に現臨される主イエス・キリストにとって、わたしたちは父なる神がこの世から選んで御子主イエス・キリストの賜わった人々なのです。

 

 

 

 今主イエスがわたしたちに言っていくださっていることは、こうです。わたしたちが今あずかっている礼拝は父なる神と子なる主イエス・キリストとの永遠の命の交わりにあずかることであると。

 

 

 

そして、主イエスは、わたしたちに礼拝ごとに御自身の御名を現わされるのです。すなわち、わたしたちは、主イエスの御救いにあずかっているのです。

 

 

 

救いとは、わたしたちが神の所有となることです。神はキリストの十字架によりわたしたちを贖ってくださいました。神御自身のものとしてくださいました。そして、今神はわたしたちをキリストの所有としてくださったのです。

 

 

 

この喜びを、礼拝の説教を通して現臨の主イエス・キリストが毎週わたしたちに告げられているのです。その御言葉を、わたしたちは聴いて、この一週間の生活の中で守って生きていくのです。

 

 

 

こうして、この世でどんな苦難があろうとも、悲しみに心が押しつぶされようとも、わたしたちは神のものであり、キリストのものであるのです。

 

 

 

父なる神が御子主イエス・キリストに伝えられた御言葉を、現臨の主イエス・キリストが礼拝の説教を通してわたしたちに伝えられ、説教を聴きますわたしたちがその言葉を受け入れて、本当に神の子とされたわたしたちは主イエス・キリストが父なる神に遣わされた御子なる神であると信じるのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に臨在の主イエスがお告げになるこの信仰にこそわたしたちの確かな救いがあるのだと証ししているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝よりわたしたちは主イエス・キリストの最後の祈りを学びます。

 

 

 

キリストの最後の祈りを通して、父なる神が一方的な恵みによってわたしたちをこの世から選び、この礼拝にあずからせてくださったこと知りました。心より感謝します。

 

 

 

目には見えませんが、臨在の主イエスは、聖霊と御言葉を通して、今ここにいてくださることを感謝します。

 

 

 

わたしたちは、礼拝で説教を聴き続けることを通して、唯一のまことの神と神が遣わされる主イエス・キリストを知り、永遠の命の恵みにあずかっていることを本当に感謝します。

 

 

 

また、わたしたちは肉なる者に過ぎません。罪を犯し、失敗をし、日常生活において数々の試練があります。

 

 

 

しかし、主イエスはわたしたちの弱さを受け入れてくださり、わたしたちが主と共に生きることをお守りくださると約束してくださいました。

 

 

 

どうか、主の日の礼拝ごとにわたしたちが主イエスとの永遠の命の交わりに生きる喜びを見させてください。

 

 

 

主イエスの祈りに支えられて、この世の艱難に耐え、御国へと歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。