ヨハネによる福音書説教85       主の201892

 

その日、すなわち週の初め日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、許されないまま残る。」

 

      ヨハネによる福音書第201923

 

 

 

説教題:「聖霊を受けなさい」

 

ヨハネによる福音書は、20章で、まず主イエスを葬りました墓が空であった事実を記しています。そして、週の第一の日の朝に復活の主イエスがマグダラのマリアに現れたことを記しています。そして、今朝は、週の第一の日の夕方に主イエスが弟子のトマスを除く10人の弟子たちに現れたことを記しています。

 

 

 

さて、ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアが主イエスの弟子たちに「わたしは主を見ました。」と言い、彼女に復活の主が言われたことを告げ知らせたと記しています。

 

 

 

マリアは、主イエスの弟子たちに復活の主イエスの顕現とその復活の主イエスのお言葉を伝えたのです。

 

 

 

彼女が主イエスの弟子たちに伝えた復活の主イエスのお言葉を、ヨハネによる福音書は記していません。

 

 

 

しかし、わたしたちは推測できるでしょう。2017節で復活の主イエスがマリアに言われたお言葉です。

 

 

 

この復活の主イエスのお言葉で、ヨハネによる福音書は復活の主イエスの昇天を記しているのです。

 

 

 

彼女が主イエスの弟子たちに伝えたのは、復活の主イエスが父なる神の御元に昇天されることです。

 

 

 

だから、マリアの主イエスの弟子たちへのメッセージは、こう言い換えてよいと、わたしは思うのです。

 

 

 

「主イエスは復活された。わたしは復活の主イエスを見ました。そして、復活の主イエスは言われました。『わたしは天の父のところに上って行く。わたしの父はあなたがたにとっても父であり、神である』と」。

 

 

 

だから、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、今朝の御言葉で次のように記しているのです。

 

 

 

その日、すなわち週の初め日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(1920)

 

 

 

復活の主イエスは、同じ日の夕方に、すなわち、週報の第一の日、日曜日の夕方に、突然彼の弟子たちの前に現れたのです。しかし、しゅイエスの弟子たちは、それを驚かないし、復活の主イエスが彼らに手とわき腹の傷跡をお見せになると、彼らはマリアのように復活の主イエスを見て、喜んだのです。

 

 

 

十字架の主イエスの御前からヨハネを除いて10人の弟子たちは逃げました。そして、ヨハネを含めて11人の弟子たちは、エルサレムの都ある家を隠れ家にして、ユダヤ人たちの迫害を恐れて隠れていたのです。戸には鍵をかけて。

 

 

 

19節の「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」という文章は、今風です。分かりやすいですが、時代考証がなされていません。「鍵をかけていた」という言葉は、「ケクレイスメノーン」というギリシア語を現代風に訳しています。ギリシア語の「ケレイオー」という動詞の分詞の完了形の受け身です。直訳すると、「閉じられていた」と訳せます。単に家の戸が閉められていたという意味ではありません。「戸にしっかりとかんぬきをかけていた」という意味です。それほど主イエスの弟子たちはユダヤ人の指導者たちが彼らを迫害することを恐れていたのです。

 

 

 

だから、復活の主イエスは、全く閉じ込められた所に、10人の弟子たちがそこにいる真ん中に突然現れたのです。復活の主イエスは彼らの前に立たれました。そして、復活の主イエスは弟子たちに「あなたがたに平安があるように」と告げられました。

 

 

 

そして、復活の主イエスは、彼らに御自身が幽霊でないことを証明するために、御自身の手の釘痕とわき腹の槍の刺し傷を見せられました。

 

 

 

弟子たちは、復活の主イエスを見て、喜びました。この喜びは、ギリシア語の「カイロー」で苦しみの中にあっても喜びが浸みわたっているという意味の言葉です。

 

 

 

復活の主イエスが彼らに現れ、弟子たちの心に永遠の命という平和が与えられました。

 

 

 

復活の主イエスは、2123節で主イエスの弟子たちを宣教へと遣わされています。

 

 

 

2123節です。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、許されないまま残る。』

 

 

 

復活の主イエスは、二度彼の弟子たちのために平和を祈られ、彼らを特別な任務に就かせようとされています。

 

 

 

すなわち、父なる神が御自身をこの世に遣わされたように、11弟子たちをこの世に遣わすことです。

 

 

 

だから、主イエスの弟子たちは、復活の主の現れを見た限り、この家に隠れ続けることは許されません。そこを出て、彼らは復活の主イエスの証人として、この世のあちこちで、マリアのように「わたしたちは復活の主イエスを見ました」と、世の人々に伝えて行かなければなりません。

 

 

 

そのために、復活の主イエスは、彼らに息を吹き入れて言われました。「聖霊を受けよ」と。

 

 

 

これは、単なる神話的表現ではありません。ユダヤ人たちを恐れ、主を裏切り、霊的に死んでいた弟子たちを、復活の主イエスが霊的に生かされたことを、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に伝えているのです。

 

 

 

わたしは、ヨハネによる福音書が創世記27節の御言葉を前提に復活の主イエスのこの行為を記していると思います。

 

 

 

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

 

 

 

主イエスは、彼の弟子たちに聖霊をお与えくださいました。彼らは復活の主イエスに息を吹き入れられて、生きた者となりました。

 

 

 

こうして彼らは、ユダヤ人たちを恐れることなく、この世の人々に復活の主イエスの御救いを伝えるのです。

 

 

 

聖霊を受けて、復活の主イエスの弟子たちは、復活の主イエスから全権を委ねられた使者となるのです。

 

 

 

そして、使者に対して、復活の主イエスは次のように約束されています。

 

 

 

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、許されないまま残る。

 

 

 

だれの罪でも」とは、この世の人々はだれでも、主イエスを拒む不信仰の中にいるのです。復活の主イエスは、それを罪と言われています。

 

 

 

だから、弟子たちは、主イエスを拒む不信仰のゆえに、心に平安なく、ユダヤ人たちを恐れて、ある家の中で閉塞的状況に陥っていたのです。

 

 

 

復活の主イエスは、彼らの真ん中に立たれて、彼らに「平和があるように」祈られ、彼らから主イエスを拒んだ不信仰を取り除かれました。そして、彼らをこの世に遣わされるために、聖霊をお与えになりました。

 

 

 

だから、復活の主イエスは、御自身が弟子たちの不信仰を取り除き、彼らの罪を赦されるだけでなく、彼らの宣教を通して、彼らが伝えるキリストを受け入れる者たちのだれもの不信仰を取り除かれ、彼らの罪を赦されます。しかし、弟子たちの宣教を通してキリストを受け入れない者たちのだれもの罪を、主イエスはそのままに止め置かれるのです。

 

 

 

ギリシア語の「ハマルティア」を、わたしたちは「罪」と訳しています。意味は、「的外れ」「かけ離れている」です。

 

 

 

復活の主イエスの現れがわたしたちに示される現実とは、復活の主イエスと共にあるということです。

 

 

 

わたしたち人間は、神に造られ、神と共に生きる者とされましたが、アダムの罪により神と共にある人間が神から離れて行く、この世の悲惨さの中に置かれました。

 

 

 

そのようなこの世の人々に、ヨハネによる福音書が復活の主イエスの現れを伝えることで、次のように喜びの福音を語ろうとしているのです。

 

 

 

すなわち、わたしたち人間は、この世で哀れな罪人であり、常に神から離れて行くけれども、復活の主イエスが現れてくださり、また神のところに戻ることができるという喜びです。

 

 

 

塵で造られ、神の息を吹き入れられた人間は、神から離れるけれども、復活の主イエスはその者に、弟子たちのように命の息を吹き入れて、「聖霊を受けよ」と、永遠の命をお与えくださり、もう一度主イエスと共に生きることができるようにしてくださいます。

 

 

 

目には見えませんが、復活の主イエスは、今わたしたちの目の前に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われ、「今朝はわたしが与える聖餐にあずかれ」と言われます。

 

 

 

聖餐にわたしたちはあずかるときに、わたしたちは自分たちも主イエスの弟子たちのように聖霊をいただいた恵みを覚えるのです。主イエスを受け入れないで、不信仰に生きて、神から離れていたわたしたちが、この教会に招かれて、説教を通して復活の主イエスがわたしたちから不信仰を取り去り、そして主イエスを信じて、罪を赦され、聖霊をいただいて、復活の主イエスと共に生きる喜びを与えられています。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝は復活の主イエスが御自身の弟子たちに現れた出来事を学びました。

 

 

 

マグダラのマリアが主の弟子たちに「わたしは復活の主イエスを見ました」と告げ知らせたように、同じ日の夕方に復活の主イエスは弟子たちの真ん中に現れてお立ちになりました。

 

 

 

そして、復活の主イエスは彼らの不信仰を除き、罪を赦されました。神からかけ離れた弟子たちが、復活の主イエスの現れを通して、再び神と共に生きる者とされたことを学びました。

 

 

 

わたしたちも主の弟子たちと同じように、神からかけ離れた者であり、この世で罪の中にいました。しかし、教会の宣教を通して、主イエスを受け入れ、不信仰を除かれ、罪を赦され、今御言葉と聖餐の恵みにあずかり、神と共に生きる者とされていることを感謝します。

 

 

 

どうか、復活の主イエスよ、あなたの弟子たちのように、わたしたちをこの世に遣わしてください。一人でも多くの方々に復活の主イエスを伝え、この世の人々が主を受け入れ、不信仰を取り除かれ、罪を赦され、わたしたちと共に主イエスを崇め賛美するものとしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

ヨハネによる福音書説教86       主の2018916

 

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたたいは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 

 

 

さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 

 

 

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

      ヨハネによる福音書第202429

 

 

 

説教題:「見ないで信じる者は幸い」

 

今朝は、ヨハネによる福音書第202429節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

ヨハネによる福音書20章は、主エスを葬った墓が空であったこと、復活の主イエスが週の初めの日、日曜日の朝にマグダラのマリアに現れ、その夕に10人の彼の弟子たちに現れたことを記しています。

 

 

 

前回と今朝は、復活の主イエスが彼の弟子たちのところにやって来られて、弟子たちの隠れ家に現れたことを記しています。

 

 

 

主イエスの弟子たちはエルサレムのある家に隠れて集まっていました。彼らは、ユダヤ人たちの迫害を恐れて、家の戸口に鍵をかけていました。

 

 

 

すると、復活の主イエスが突然彼らの閉塞状況を打ち破られて、彼らの真ん中に現れて、彼らに言われました。2度も「あなたがたに平和があるように」と。

 

 

 

その時に復活の主イエスは彼の弟子たちに手とわき腹とをお見せになりました。彼の弟子たちは復活の主イエスに出会い、大変喜びました。

 

 

 

そして、復活の主イエスは、彼の弟子たちを祝福し、御自身の復活の体を見せて、彼らに御自分であることを示され、彼らを主イエスの宣教の業に遣わされました。主イエスは、彼の弟子たちを御自身の宣教の業に遣わすために、彼らに聖霊を授けられました。

 

 

 

こうして、復活の主イエスの聖霊を授けられた彼の弟子たちは、復活の主イエスから「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という権能を与えられて、主イエスの宣教の御業に遣わされるのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこれがこの世に宣教する教会とキリスト者の力であり、持っている祝福であると伝えているのです。

 

 

 

だから、使徒言行録の3章で使徒ペトロは、「美しい門」と呼ばれるエルサレム神殿の門に座っていた、生まれながらに足の不自由な者に言いました。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。彼は、生まれながらに足の不自由な者に、彼が復活の主イエスから聖霊をいただいて持っている力を、主イエスの聖名による罪の赦しを与えたのです。すると、「美しい門」で巡礼者たちから施しを乞うていた、生まれながら足の不自由な者は罪を赦され、そのしるしとして立ち上がり、歩き出したのです(使徒言行録3:110)

 

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエスの御名による罪の赦しを、復活の主イエスが彼の弟子たちを御自身の宣教に遣わすことに結び付けているのです。

 

 

 

さて、今朝の御言葉に目を止めてください。わたしが不思議に思いますのは、主イエスの10人の弟子たちが一週間過ぎてもエルサレムの町の彼らの隠れ家に閉じこもっていることです。

 

 

 

彼らは、復活の主イエスに出会って大変喜びました。彼らは、復活の主イエスを見ただけでなく、復活の主イエスから聖霊を授けられました。そして、復活の主イエスは彼らを御自身の宣教の御業に遣わされ、彼らにだれの不信仰の罪でも赦し、または赦さない力を与えられました。それないのに彼らは行動しないで、隠れ家に閉じこもっているのです。

 

 

 

これは、ヨハネによる福音書が読者であった初代教会のキリスト者たちの閉塞状況を、つまり、主イエスの弟子たちと同様にユダヤ人たちの迫害を恐れ、ローマ帝国の迫害を恐れて、身を隠している初代教会のキリスト者たちを暗示しているのではないでしょうか。

 

 

 

すなわち、いつの時代も教会は伝道の不振に直面するのです。そして、その原因はキリスト者たちが主イエスの弟子たちのように不信仰であるということです。それゆえこの世の迫害を恐れ、内に隠れ、外へと、主イエスの宣教の御業を担おうとしないのです。

 

 

 

だから、その教会とキリスト者たちの不信仰と閉塞状況を打破するために、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に今朝の御言葉を伝えているのです。

 

 

 

24節に「十二人の一人で」の「十二人」は、主イエスの12弟子で、後のキリスト教会の礎となる12使徒のことです。

 

 

 

その一人に「ディディモ」と呼ばれるトマスがいました。「ディディモ」という彼の名は双子という意味です。トマスは双子の兄弟の一人だったのでしょう。彼は勇敢な人でしたね。この福音書の1116節の御言葉を思い起こしてください。ラザロが死に、主イエスは彼の12弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。12弟子たちは主イエスにユダヤ人たちに迫害されますと言いました。主イエスは彼らに昼歩けば大丈夫と言われました。そして、主イエスは死んだラザロのところは行こうとされました。その時に「ディディモ」と呼ばれるトマスは、勇ましく主イエスと一緒に死のうと言いました。

 

 

 

トマスは、また疑い深いという性格を持っていました。神の律法には、3人の証言があれば、それは真実であると定められています。だから、復活の主イエスを、主イエスの10人の弟子たちが見たと証言したのですから、トマスは彼の仲間たちの証言を真実と受け止めるべきでした。

 

 

 

ところが、トマスは疑い深く不信仰でした。彼は仲間たちが「わたしたちは復活されたイエスを見た」と証言したことを信じませんでした。

 

 

 

それどころか、不信仰で疑い深い彼は言い張りました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。

 

 

 

何と心かたくなでしょうか。ヨハネによる福音書は、読者たちにこのトマスはあなただと伝えているのです。

 

 

 

あなたもトマスように、「わたしの目で主イエスの手の釘跡を見、わたしの手で主イエスのわき腹の傷跡を確かめない限り、信じない」と言っていると。

 

 

 

八日の後」とは一週間後の日曜日のことです。その夕に主イエスの弟子たちが彼らの隠れ家に集まっており、トマスも同席していました。そこに復活の主イエスが突然現れ、弟子たちに「平和があるように」に祝福されました。

 

 

 

そして復活の主イエスはトマスに御自身の手の傷跡、わき腹の傷跡を見せて、彼の目と手で確かめるようにと促されました。そして、主イエスはトマスに言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。

 

 

 

復活の主イエスはトマスに「不信仰者となるな。そうではなく、信仰者となれ」と強く命じられました。ギリシア語の「メエ」という否定語が伴う命令文です。

 

 

 

トマスのお話は、不信仰な者が信仰者になったという物語です。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にその出来事が日曜日の教会の集まりで起こったと伝えているのです。

 

 

 

すでに主イエスの10人の弟子たちは、復活の主イエスに出会い、信じていました。トマスはその場にいませんでした。だから、彼は、復活の主イエスを自分の目で見て、自分の手で確かめようとしました。

 

 

 

復活の主イエスは、トマスに現れて、御自身の復活の体を彼に示して、彼の不信仰と疑い深さを打ち破られたのです。

 

 

 

そして、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、真の信仰とは何かを伝えてくれました。それは、すでに復活の主イエスを信じた者たちの中で、彼らの証しを聞いて信じることです。ヨハネによる福音書の時代の初代教会は、主イエスの弟子たちのように復活の主イエスを見て信仰者になるのではなく、見ないで、むしろ、御言葉を耳で聞いて信仰者となっていました。

 

 

 

トマス同様に「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白していたのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、1章のプロローグ(114)で、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と述べていますが、まさに復活の主イエスの顕現こそ、父なる神の独り子である神が、御自身がすべての主イエスの弟子たちの「わたしの主、わたしの神」ということを示されたのです。

 

 

 

復活の主イエスは、トマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである。

 

 

 

この「見ないで信じる信仰」こそ、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えたい信仰です。復活の主イエスが昇天された後に、この世にある教会とキリスト者たちが持つべき信仰の在り方です。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、復活の主イエスが11弟子たちに現れて後、60年経って書かれました。すでに復活の主イエスは昇天され、地上におられません。ヨハネによる福音書は、読者であるキリスト者たちに、次のように伝えているのです。

 

 

 

誰も復活の主イエスを見て、キリスト者になった者はいません。誰もが初代教会の宣教を通して、また日曜日の礼拝での説教を通して、そしてキリスト者たちが証しするキリストの福音を聞いて、信じるという形で、キリスト者になったのだ。

 

 

 

だから、復活の主イエスは遣わされた者を通して、御自身の御名を知らせられ、聞く者の心に主イエスの対する愛を起こさせて、その者が見ないで主を信じ、愛するようにしてくださるのです。

 

 

 

どうか今朝の御言葉を聞いて、もう一度1章の御言葉に戻ってください。また、主イエスのお別れ説教の17章の最後の御言葉に戻ってください。

 

 

 

その時にわたしたちは、今ここで復活の主イエスに出会い、今ここでわたしたちは主イエスの救いを、主イエスが十字架によってわたしたちの罪を赦され、永遠にわたしたちを愛されていることを知らされるのです。

 

 

 

使徒ペトロは、言っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたの信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Ⅰペトロ1:89)

 

 

 

どうかいつまでも、この礼拝の集まりの中にとどまってください。ここで10人の復活の主イエスを信じた仲間と共にいたトマスのように、愛する兄弟姉妹たち、そして子供たち、友たちよ、主イエスを信じているわたしたちと一緒にこの教会に居てください。

 

 

 

わたしは、大学生のころに山中良知先生と春名純人先生に導かれて宝塚教会に行きました。その時に教会から、主イエスを信じている群れから離れないことの大切さを教えられました。

 

 

 

わたしもトマスと同じです。この目で見ることしか信じられませんでした。しかし、毎週トマスように主イエスを信じる信仰者一緒に教会で過ごし、説教を聞き続ける中で、復活の主イエスを見ていないのに信じる者とされました。そして、十字架の主イエスはわたしの罪のために死なれ、復活の主イエスはわたしの永遠の命の保証として復活されたと信じました。

 

 

 

そして、信じる信仰によって、初めて神の愛を知りました。わたしの心の内にキリストを通してわたしを愛される神を知らされたのです。

 

 

 

 わたしの人生において教会で見ないで主イエスを信じる信仰を得たことこそ幸いであったと思っています。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、どうかわたしたちに見ないで信じる信仰の喜びをお与えください。

 

 

 

愛する兄弟姉妹と子供たちと友たちと共に十字架のキリストを信じさせてください。わたしたちの心に罪を赦された喜びを、父なる神に愛されている喜びで満たしてください。

 

 

 

復活のキリストを、ここで見ないで信じさせてください。そして、わたしたちの心を永遠の命の喜びで満たしてください。

 

 

 

聖霊に導かれ、御言葉に励まされ、わたしたちが信仰から信仰へと歩ませてください。どうか教会という船に次々と乗り込む神の民をお与えください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

ヨハネによる福音書説教87       主の2018930

 

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

      ヨハネによる福音書第203031

 

 

 

説教題:「イエスの名によって命を得る」

 

今朝は、ヨハネによる福音書第203031節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

ヨハネによる福音書203031節は、ヨハネによる福音書全体を閉めくくるエピローグです。すなわち、この福音書の終わりの結びの文章であります。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書、すなわち、共観福音書と呼ばれているものを用いて、福音書を書きました。それだけでなく「しるし資料」(2章、46章、9章、11)と呼ばれる主イエスの奇跡物語を用いて書きました。

 

 

 

ある新約学者は、今朝の御言葉が「しるし資料」の結びの文章であったのではないかと推測しています。

 

 

 

その前提に立てば、主イエスがなされた奇跡物語はたくさんあったでしょう。その奇跡物語の中から「しるし資料」は、ある観点に従い主イエスがなさった奇跡物語を選択し、集録していたでしょう。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、そこからまた選択して、この福音書全体で主イエスがなされた御業を、彼が父なる神の独り子であるという栄光をあらわす「しるし(奇跡)」として描こうとしたのです。

 

 

 

この福音書20章で、わたしたちは主イエスが葬られた墓が空であり、復活された主イエスがマグダラのマリアの現れ、エルサレムの都にあるある隠れ家にいた主イエスの11人の弟子たちに現れたことを学びました。

 

 

 

この出来事は「しるし資料」になかったでしょう。復活の主イエスは、しっかりと入口の戸が閉められていたにもかかわらず、家の中にいた彼の11人の弟子たちの真ん中に立たれて、「平和があるように」と言われました。

 

この復活の主イエスの顕現の奇跡も、主イエスの奇跡の御業として、ヨハネによる福音書は彼の栄光を現わすしるしとして描いているのです。

 

 

 

しかし、ヨハネによる福音書が20章で結論としたことは、見ないで復活の主イエスを信じるものは幸いであるということです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、他の福音書よりも積極的に「しるし資料」を用いて、主イエスの数々の奇跡の御業を記し、あるいは復活の主イエスの顕現の奇跡を記しました。しかし、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に求めているは、主イエスの奇跡を見て、信じる信仰ではありません。むしろ、見ないで復活の主イエスを信じる信仰です。

 

 

 

要するに、マリアや11弟子たちのように復活の主イエスを見たという証言からヨハネによる福音書が生まれるまで、60年の時間が経ているのです。

 

 

 

そして、復活の主イエスを見たと証言したマリアも11弟子たちも、ヨハネによる福音書が書かれた頃には、ほとんどの証人たちがこの世を去っていたでしょう。

 

 

 

だから、ヨハネによる福音書の時代は復活の主イエスを見たというマリアや11弟子たちの証言で、復活の主イエスを信じるということができなくなっていました。

 

 

 

何よりもマリアと11弟子たちに現れてくださった復活の主イエス御自身が昇天され、この世から消え去られ、だれの目にも見えなくなられました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、私たち読者に見なくて復活の主イエスを信じる信仰こそがキリスト者の共同体の信仰なのだと伝えているのです。

 

 

 

さて、30節で、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に、次のように伝えています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさたが、それはこの書物に書かれていない。」と。

 

 

 

ヨハネによる福音書はわたしたち読者に、この福音書に書かれた主イエスの奇跡の御業がすべてではない、サンプル、見本にすぎないと伝えています。

 

 

 

要するにヨハネによる福音書は、わたしたち読者にどのようなやり方でこの書物が書かれたかを記しています。他の福音書に比べると多くの奇跡物語を記しています。しかし、ヨハネによる福音書が主イエスの奇跡物語を記していますのは、わたしたち読者に主イエスの奇跡物語を信じさせるためではありません。それならば、この書物以外に主イエスがなされた多くの奇跡があり、それらも記すべきだったでしょう。

 

 

 

だが、ヨハネによる福音書は、この福音書の終わりにそれを要約報告するのです。この福音書を読み終わろうとするわたしたち読者に、この福音書のしるしは、主イエスが父なる神の独り子としての栄光を現わされたサンプルであることを印象付けようとしているのです。

 

 

 

そして、この福音書はわたしたち読者に31節で次のように記しています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と。

 

 

 

ヨハネによる福音書はわたしたち読者にこの福音書の目的が何であるかを伝えているのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に初めから終わりまで主イエスはいったいどういうお方であるかを伝えようとしています。そしてこの福音書の最後に目的を記しています。

 

 

 

ある新約聖書学者は、31節をこう説明します。「ヨハネはそのエピローグを自分の福音書全体を読者(「あなたがた」)が『信じてイエスの名により命を受けるための』の語りかけ、メッセージ(使信)、そう、一つの大きな説教たらしめようとしている。」

 

 

 

ヨハネによる福音書は一つの大きな説教です。初心者に語られる説教ではありません。すでに主イエスが何者であるかを知っている者たちに、キリスト教信仰に入っている者たちに語られる説教であります。

 

 

 

この福音書を説教として聞き、第一に主イエスが神の子であると信じるためです。第二にこのヨハネによる福音書のしるしの出来事を通して示される、すなわち、主イエスの御名により示される永遠の命を受けるためです。

 

 

 

この福音書の目的を聞きますとき、わたしたちは知らされるのです。見ないで復活の主イエスを信じる信仰が成り立つところを、です。

 

 

 

プロローグのこの福音書の114節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と、キリスト賛歌が歌われておりました。そして、118節でも「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とキリスト賛歌を歌っております。

 

 

 

そののちこの福音書は、主イエスのしるし、奇跡の御業を物語り、その主イエスのしるしの出来事を通して、主イエスが神の子であり、彼の御名によって示されている永遠の命を、彼を見ないで信じる信仰によって受け取るように勧めているのです。

 

 

 

今朝の御言葉を読み、わたしが思いますことは、この世においてどんな状況になろうと、また、益々主イエスの十字架と復活の出来事から時間的に遠くなろうとも、このヨハネによる福音書が教会の中で説教される限り、そこに目で見ることの出来ない復活の主イエスが、マグダラのマリアの前におられたように、この世から隠れていた11弟子たちの真ん中に現れて、「平和があるように」と言われたように、復活の主イエスは見ないで主イエスを信じている者たちと共におられるということです。

 

 

 

マリアや11弟子たちと同様に、今ヨハネによる福音書を説教として聞いています21世紀の上諏訪湖畔教会に、復活の主イエスは、神の子として、トマス同様にわたしたちの神、わたしたちの主として共にいてくださるのです。だから、このお方がわたしたちのキリスト、救い主なのです。

 

 

 

この見ないで信じる信仰によって、すでにわたしたちは、主イエスの御名によって、すなわち、この主イエスのおかげでわたしたちは永遠の命を得ているのです。だから、わたしたちはこの教会で、毎月第一主の日に、クリスマスに、イースターに、ペンテコステに、宗教改革記念礼拝で、そして、わたしたちの教会の創立70周年記念礼拝で、天国の前味である聖餐式にあずかるのです。

 

 

 

この聖餐式を真に喜びとするのは、復活の主イエスを見ないで信じる信仰であります。

 

 

 

見ないで主イエスを信じる者がこの礼拝に集います時、永遠の命を得た者たちが復活の主イエスと共にいるのです。そして、世の人々に「わたしたちは復活の主と共にいる」と証ししているのです。それが、主の日の礼拝です。

 

 

 

世界は変わります。文化も生活も社会も人も変わります。この世の価値観も変わります。どんどん変わっていきます。変化するこの世の現実を否定することはできません。

 

 

 

しかし、見ないで復活の主イエスを信じる信仰はかわりません。そして、その信仰が成り立つために教会の礼拝で聖書が読まれ、説教され、洗礼式がなされ、聖餐式がなされ、神の御言葉が語られることは変わらないのです。

 

 

 

この世にキリスト教会は主イエスの御名によって永遠の命を持つために存在しているのです。だから、教会が大きい、小さいは関係がありません。教会に若者が多いか、高齢者が多いか関係がありません。

 

 

 

教会に命があるか、ないかが問題です。一人の命が、見ないで信じる信仰によって、復活の主イエスと共にあるならば、教会はこの世の暗闇に光を放つことができるでしょう。そして、教会に10人の命が見ないで信じる信仰によって、主と共にいるならば、さらに大きな光がこの世に輝くことでしょう。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこの世の教会こそ見ないで信じる信仰によって、復活の主イエスとの永遠の交わりに生きることができると証しているのです。

 

 

 

その証しが真実であることを、どうか御自身の見ないで信じる信仰によって、上諏訪湖畔教会の礼拝での復活の主イエスとの交わりを通して、確認してみてください。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、ヨハネによる福音書を学べる喜びを感謝します。

 

 

 

2000年の時間の隔たりがありますのに、わたしたちに見ないで復活の主イエスを信じる信仰をお与えくださり、感謝します。

 

 

 

この世は変化し、わたしたちも子供たちも変化の目まぐるしい時代に生きています。わたしたちと子供たちとでは明確に価値観が異なります。

 

 

 

しかし、この世に教会という存在があることを感謝します。聖書が読まれ、説教がなされ、聖礼典が行われていることを感謝します。聖霊と御言葉によって復活の主イエスが今わたしたちと共にいてくださると信じることができることを感謝します。

 

 

 

どうか、毎週の礼拝で、また、聖礼典がなされるときに、見ないで信じる信仰によって、ここに復活の主イエスが共にいてくださることを信じさせてください。そして、ヨハネによる福音書がわたしたちに約束します主イエスの御名によってわたしたちを、そして、この教会を永遠の命の喜びで満たしてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。