詩編説教101             主の2019217

 

          ダビデの詩。賛歌。  ダビデの賛歌

 

慈しみと裁きをわたしは歌い 慈しみと裁きを、わたしは歌おう、あなたに、

 

主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。主よ、わたしはほめ歌おう。

 

完全な道について解き明かします。 わたしは心を向けよう、全き道に。

 

 

 

いつ、あなたは いつ、あなたは来られるのか、わたしのところに。

 

わたしを訪れてくださるでしょうか。 

 

わたしは家にあって わたしは行き来します、全き心で、わたしの家の中を。

 

無垢な心をもって行き来します。 

 

卑しいことを目の前に置かず  わたしは置きません、わたしの両目の前に、

 

背く者の行いを憎み  ベリヤール(「魔」「破滅」)の言葉を。違反を行うこと

 

まつわりつくことを許さず を、わたしは憎み、それはわたしにくっつかない。

 

曲がった心を退け ひねくれた心はわたしから離れる。

 

悪を知ることはありません。 わたしは悪を知ることはない。

 

隠れて友をそしる者を滅ぼし 隠れたところで隣人を中傷する者たちを、わた

 

傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。しは滅ぼします。目の高い者、心の広い者、彼をわたしは耐えられない。

 

わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め わたしは地の忠実な者たちに

 

わたしと共に座に着かせ 目を向ける、わたしと共に住むために。

 

完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。全き道を歩む者は、わたしに仕

 

わたしの家においては  える。住まない、わたしの家の中に、欺きを行う者

 

  人を欺く者を座に着かせず は。嘘を語る者がわたしの目の前で固く

 

偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。立つことはない。

 

朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 朝ごとにわたしは地のすべて

 

悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。の悪者たちを滅ぼす。主の町から断ち滅ぼすために、不義を働くすべての者たちを。

 

 詩編第10118

 

 

 

説教題:「神の御前に正義を行う」

 

 

 

詩編第10118節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

101編は、「王の詩編」と呼ばれています。その内容は王の誓約です。

 

 

 

詩人の「わたし」は、王です。

 

 

 

詩人は王に即位した時、おそらくエルサレム神殿で主なる神を礼拝しました。そして、主なる神の慈しみと裁きをほめたたえて賛美しました。

 

 

 

詩人は12節で次のように賛美します。

 

 

 

慈しみと裁きをわたしは歌い 主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。完

 

全な道について解き明かします。いつ、あなたはわたしを訪れてくださるでし

 

ょうか。わたしは家にあって

 

 

 

サムエル記下の7章で主なる神はダビデと契約を結ばれました。主なる神は預言者ナタンを通してダビデの王国をとこしえに据えると約束されました。そして、主なる神はダビデと彼の後を継ぐ王たちの父となり、ダビデと彼の子孫の王たちは神の子となると約束されました。

 

 

 

 

 

主なる神は、その契約に基づいてダビデ王国に神の不変の愛を示されました。その不変の愛が「慈しみ」です。

 

 

 

同時に主なる神は、ダビデとの契約に基づいて王が主なる神に背いたときに、主なる神は親が愛を持って子を叱るように、王たちの罪を裁かれました。その度に主なる神は、預言者たちを王に遣わされて何度も何度も御自身に立ち帰るように招かれたのです。

 

 

 

この「裁き」を、主なる神の「公正」「公義」と呼んでいます。主なる神が正しい裁きを行われるということは、神の民イスラエルの根本的で、ゆるぎない信仰です。

 

 

 

主なる神は、神の民の中に士師を置かれ、王を置かれ、彼らを通して神の民を裁かれました。

 

 

 

だから、詩人・王は神の代理人として、主なる神に誓いを立て、王の職務である裁き人の務めを果たすと誓うのです。

 

 

 

詩人・王は、2節で「完全な道について説き明かします」と誓います。

 

 

 

完全な」とは、「無垢な心」の「無垢な」と同じ言葉です。分裂のない円満、完全を表す言葉です。この言葉の反対が4節と7節で歌われている「曲がった心」「欺き」「偽り」の偽りの悪徳です。「偽り」とは、「心情の分裂」「全心をかけないこと」「いい加減なこと」を意味しています。

 

 

 

説き明かします」は、心を向けるという意味の言葉です。だから、詩人・王は、「わたしは、心を向けよう、完全な道に」と歌っているのです。

 

 

 

詩人・王は、王に即位しました時、神の法を授かりました。だから詩人・王は彼自身の清き心情と授かった神の法に従順に従うことを誓っているのです。

 

 

 

詩人・王が「いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します」と賛美しています。

 

 

 

詩人・王は、主なる神の到来、あるいは現臨を待ち望んでいます。彼は、王宮で裁き人の職務をするのですから、その職務を果たすためにも、彼は偽りのない心で、主の御力と助けにより頼もうとしたのではないでしょうか。

 

 

 

では3節以下8節までの王の誓約の内容を見て行きましょう。

 

 

 

3節で詩人・王は「卑しいことを目の前に置かず 背く者の行いを憎み」と歌っていますね。

 

 

 

卑しいこと」とは、何でしょうか。これは、「ベリヤールの言葉」を意訳したのです。「ベルヤールの言葉」を、そのまま日本語にすると、「魔の言葉」「破滅の言葉」となります。昨年12月に出版された聖書協会共同訳聖書は「邪悪なもの」と意訳しました。

 

 

 

その意訳の根拠としたのは、旧約聖書の申命記159節です。主なる神がモーセを通して神の民たちに7年目には同胞の負債を免除するように命じられて、こう警告されています。「『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることがないように注意しなさい。

 

 

 

この「よこしまな考え」は、ある伝染力を持った悪です。まるでウイルスでインフルエンザが流行するように、神の民たちの中に広がる悪です。7年目は負債を免除しなければなりません。だから、邪悪な考えの者は貧しい同胞が助けを求めても無視しようと、何の利益もないのだからと、貧しい者たちを切り捨てるのです。その悪を主なる神が見過ごされるはずがありません。神の民の共同体に災いをもたらす悪を、主なる神はモーセを通して神の民に捨てるように警告されました。

 

 

 

旧約学者の関根正雄氏は、この「よこしまな」を、本来「無益である」という意味であると言います。そして、偶像を表す「空しい」という言葉を用いています。それに応じて「背く者の行い」を、その者の心の問題と理解し、神の民が主なる神を捨て、偶像を礼拝するために神像を作り、それを詩人である「わたしは憎む」というふうに意訳しています。

 

 

 

いやしいこと」、「背く者の行い」は、偶像礼拝の罪です。詩人・王は授かった神の法、すなわち、十戒の第1戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない(出エジプト20:3)と第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない(出エジプト20:4)に堅く立ち、偶像礼拝の罪を心から憎みました。だから、詩人・王は、彼の身の回りの生活の中に偶像礼拝の罪の痕跡はないと証ししています。彼の心は主なる神にのみ向けられています。

 

 

 

偶像礼拝の罪は、曲がった心から生まれます。その心は神と富とに仕えようという心の分裂です。分裂した心は、目をこの世に奪われ、貪欲の罪が生まれます。そして、隣人のものを欲しがり、むさぼりの罪に陥り、その悪は伝染力を持って神の民たちに広がり、主なる神が定められた道を踏み外すのです。

 

 

 

詩人・王は、そのような主なる神に背く者たちを憎み、彼らから遠ざかり、悪を知ろうとしないと歌っています。

 

 

 

5節で詩人・王は、「隠れて友をそしる者を滅ぼし 傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。」と歌っています。密かに隣人を中傷することも、高慢な態度も、心の中の問題です。この世の裁判の裁きの対象ではありません。しかし、詩人・王は、人の内心の思いを問題にしています。まるでマタイによる福音書で主イエスが山上の説教をなさった、その御言葉を聞いているという感じになります。

 

 

 

 この詩人・王は、主イエスと同じ心を持つ王です。まるで彼は、主イエスのように自らが主なる神の法に従順に従い、悪を憎み、そこから離れた聖なる領域を作り出そうとしているようです。主イエスは、それを神の国と表現されました。そして、主イエスは、ガリラヤでその御国の福音を告げられました。

 

 

 

傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。」は、意訳です。詩人・王は「目の高い者、心の広い者、彼にわたしは耐えられない」と歌っているのです。

 

 

 

 イザヤ書113節で主なる神が預言者イザヤを通して、「災いを伴う集いにわたしは耐ええない」と言われています。「許しません」は「わたしは耐ええない」という意味です。詩人・王は、主なる神と同じ思いを持ち、王国を治めています。

 

 

 

 詩人・王は6節で、「わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め わたしと共に座に着かせ 完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます」と歌っています。

 

 

 

詩人・王は、この国に忠実な人々に目を向けるのです。それは、彼と共に彼らがエルサレムの都に住み、彼に仕えるためです。詩人・王はある意味で彼が王に即位した時に授けられた神の法に従う理想的な国造りをしようとしています。だから、彼が造ろうとする国に忠誠を尽くそうとする者たちに目を注ぐのです。王の臣下は神の法に全心で従う者たちです。

 

 

 

それと反対なのが7節です。「わたしは家においては 人を欺く者を座に着かせず 偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。

 

 

 

詩人・王は、まことに主イエスと同じまなざしで生きています。人の外見よりも人の心を問題にしています。心の曲がった者は、王に仕えることはできません。偽り、欺く者はこの王と衣食住を共にすることはできません。王は、心に偽りを持つ者を、王国から、エルサレムの都から追放するのです。

 

 

 

王と共に王国に住み、エルサレムの都に住む者は、王と同じように清い心情を持ち、神の法に従順に従う者たちです。

 

 

 

詩人・王は、8節で「朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」と誓っています。

 

 

 

詩人・王は、主なる神の代理人として、毎日神の法に背く悪人を裁き、主なる神が住まわれるエルサレムの都から断つと誓っています。国と都を清めると誓います。

 

 

 

このように詩編101編を学びますと、この詩人・王に近い王はヒゼキヤ、ヨシヤでしょうか。特にヨシヤ王は申命記に基づいて宗教改革を実行し、エルサレムの都から南ユダ王国の全土、そしてすでに滅亡していた北イスラエル王国まで、すなわち、昔のダビデ王国の全土でバールの神像等を破壊しました。

 

 

 

しかし、預言者エレミヤは、ヨシヤの宗教改革は神の民の心まで改革できなかったと批判しています。

 

 

 

詩編101編の詩人が歌う理想の王は現実には存在しなかったということになります。

 

 

 

しかし、この詩人が歌う理想の王は、主イエスに似ています。詩人・王は2節で「いつ、あなたはわたしを訪れてくださるのでしょうか。」と歌っています。彼は、来るべきメシアを待ち望み、預言しているのではないでしょうか。

 

 

 

王の詩編と呼ばれるこの詩編は、王が即位する時、彼は主なる神の子として迎えられました。ダビデは詩編27節で「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ』」。

 

 

 

ダビデはメシアについて預言したのです。同様に詩編101編の理想の王はメシアです。詩人は、彼を待ち望んだのです。

 

 

 

主イエスは、この世に来てくださいました。そして、十字架の死に至るまで父なる神に従順でした。目の前のサタンの誘惑を退け、全心を父なる神に向けられ、すべての悪を遠ざけられました。そして神の御国を建て上げるために、そこに罪を清められた神の民を共に住ますために、十字架の道を歩まれたのです。

 

 

 

神の御国に入れる者は、心の貧しい者です。主イエス以外に頼る者を持たない者です。心へりくだる者です。

 

 

 

神の法に背く者、偽り者、おごり高ぶり、傲慢な者は入ることができません。

 

 

 

今主イエスは、天におられますが、再び来られ、この理想の王のようにすべての不法の者たちを裁かれるのです。そして、その裁きは、この教会から始まっているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編101編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

悪に満ちたこの世で、神の法に従い、清き生活を主なる神の御前に造ろうとするこの理想の王を通して、わたしたちは主イエス・キリストに心を向けることが出来て、感謝します。

 

 

 

わたしたちも詩人・王と共に、主の慈しみと裁きを誉め称え賛美させてください。

 

 

 

恵みの契約に基づいて変わらない愛を示される主イエス・キリストの父なる神をほめたたえます。

 

 

 

十字架の御救いのゆえに、神の御前に何の功績もありませんが、罪を赦され、神の子とされ、主イエスと共に御国に住める特権を与えられ、感謝します。

 

 

 

どうか、心高ぶることなく、この世のものに心を寄せて、貪欲にならず、物欲、色欲、名誉欲、主なる神からわたしたちの心を引き離すものから遠ざかり、全き心で主なる神を礼拝させてください。

 

 

 

どうか、神の御言葉が語られ、聞かれるこの礼拝に、わたしたちが詩人・王のように全き心で行き来するこの教会に、主イエスを聖霊と御言葉を通して訪れてください。

 

 

 

どうか、わたしたちの教会に神の民をお集めください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教102               主の2019317

 

          祈り。心挫けて、主の御前に思いを注 貧しい者の祈り。

 

          ぎ出す貧しい人の詩。彼が弱った時、主の御前で彼の嘆

 

主よ、わたしの祈りを聞いてください。 きを、彼は注ぎだした。主よ、聞き

 

この叫びがあなたに届きますように。たまえ、わたしの祈りを。わが叫びがあ

 

苦難がわたしを襲う日に なたのところに届きますように。隠さないでくださ

 

  御顔を隠すことなく、御耳を向け い、あなたの御顔を、わたしから、苦

 

あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。難の日に。傾けてください、あな

 

たの耳を、わたしに。わたしが呼ぶ日に、早くわたしに答えてください。

 

わたしの生涯は煙となって消え去る。まことに消え失せる、煙の中に、わが 

 

骨が炉のように焼ける。 日々は。わが骨は炉のように焼けたのです。

 

打ちひしがれた心は、草のように乾く。 打たれた、草のように、わが心

 

わたしはパンを食べることすら忘れた。 は。まことにわたしは忘れた、わ

 

わたしは呻き がパンを食べることすら。わが呻きの声によって、

 

骨は肉にすがりつき ひっついた、わが骨に、わが肉が。

 

荒れ野のみみずく わたしは似ている、荒れ野のみみずくに。

 

廃墟のふくろうのようになった。わたしはなった、廃墟のふくろうのよう

 

屋根の上にひとりいる鳥のように に。わたしは目覚めています、屋根の

 

わたしは目覚めている。上にひとりでいる小鳥のようです。

 

 

 

敵は絶えることなくわたしを辱め 一日中、わたしを嘲る、わが敵たちは。

 

嘲る者はわたしによって誓う。わたしを嘲ける者たちは、わたしによって

 

わたしはパンに代えて灰を食べ 誓う。まことに灰をパンのようにわたし

 

飲み物には涙を混ぜた。 は食べた。わが飲み物に、わが涙を、わたしは

 

  あなたは怒り、憤り 混ぜた。あなたの憤りと怒りのゆえに。

 

わたしたちを持ち上げて投げ出された。なぜなら、あなたはわたしを持ち

 

わたしの生涯は移ろう影 上げ、投げ落としたから。わが日々は傾いた

 

草のように枯れて行く。影のよう。わたしは草のように枯れてしまった。

 

 

 

主よ、しかし、あなたは、主よ、

 

あなたはとこしえの王座についておられます。永遠に座しておられます。

 

御名は代々にわたって唱えられます。御名は代々に唱えられます(あなたの

 

どうか、立ち上がって 記憶は代々に)。あなたは立って

 

  シオンを憐れんでください。 シオンを憐れまれる。

 

恵みのとき、定められたときが来ました。まことにそれを恵む時、まことに定

 

あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み の時が来ました。まことに愛し

 

塵をすら、どれほど慕うことでしょう。ている、あなたの僕らは、シオンの石を。その塵すら慕うのです。

 

国々は主の御名を恐れ 畏れますように、諸国の民は、主の御名を。

 

地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。すべて地の王たちは、あなたの

 

主はまことにシオンを再建し 栄光を。まことに主がシオンを建て、

 

栄光のうちに顕現されます。栄光のうちに現れられた。

 

主はすべてを喪失したものの祈りを顧み 彼は御顔を向けた、棄てられた者の

 

その祈りを侮られませんでした。祈りに。軽んじなかった、彼らの祈りを。

 

 

 

  後の世代のために 書かれるように、これが、後の世代のために。

 

    このことは書き記されねばならない。

 

  「主を賛美するために民は創造された。」民が創造された、主をほめたたえ

 

                     るように。

 

主はその聖所、高い天から見渡し まことに彼は見下ろす、彼の聖なる高みか

 

大空から地上に目を注ぎ ら。主は、天から地を見られた。

 

捕らわれ人の呻きに耳を傾け 捕らわれた人の呻きに耳を傾け、死に渡された

 

死に定められていた人々を 者を解き放つために。

 

  解き放ってくださいました。

 

シオンで主の御名を唱え 語り、シオンで、主の御名を。

 

エルサレムで主を賛美するために その誉をエルサレムで、

 

諸国の民はひとつに集められ 集められる時、諸国の民が一緒に。

 

主に仕えるために 諸王国が主に仕えるために。

 

  すべての王国は集められます。

 

 

 

  わたしの力が道半ばで衰え 彼は、道半ばでわが力を衰えさせ、

 

  生涯が短くされようとしたとき わが日々を短くする。

 

  わたしは言った。 わたしは言う、

 

  「わたしの神よ、生涯の半ばで わが神よ、わたしを上げないでください、

 

  わたしを取り去らないでください。わが日々の半ばで。

 

  あなたの歳月は代々に続くのです。あなたの年は、代々の世代に。

 

  かつてあなたは大地の基を据え 以前に()地にあなたは基を置かれた。

 

  御手をもって天を造られました。天はあなたの両手の御業。

 

  それらが滅びることはあるでしょう。これらは滅びる。

 

  しかし、あなたは永らえられます。 しかし、あなたは立たれる。

 

  すべては衣のように朽ち果てます。彼らは皆、衣服のように古びる。

 

  着る物のようにあなたが取り替えられると 上着のように、あなたがそれ

 

  すべては替えられてしまいます。 らを取り替えると、それらは変わる。

 

  しかし、あなたが変わることはありません。しかし、あなたはあなたであ

 

  あなたの歳月は終わることがありません。」(あなたは同じ)。あなたの年

 

                      は終わることがない。

 

あなたの僕らの末は住むところを得 あなたの僕らの息子たちは住まい、

 

子孫は御前に固く立てられるでしょう。彼らの子孫があなたの御前に固く立つ

 

                  ように。

 

 詩編第102129

 

 

 

説教題:「貧しい者の祈り」

 

 

 

詩編第102129節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

見出しに「祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。」とあります。

 

 

 

 「貧しい人」の祈りの詩編です。

 

 

 

「心挫け」は、この詩人が弱った時です。病苦に、敵の迫害に、孤独に、生活の困窮に、彼は弱りはて、心も体も衰えてしました。

 

 

 

 彼はサムエル記のサムエル少年の母ハンナのように、魂を注ぎだして、彼の嘆きを、ヤハウェ、主に向かって祈りました。

 

 

 

 彼の祈りは、彼個人の祈りを越えて、神の民の祈りとなり、今やキリスト教会の祈り、キリスト者であるわたしたちの祈りとなっています。

 

 

 

 だから、キリスト教会は、伝統的にこの詩編を、「七つの悔い改めの詩編」の一つ、その5番目のものとして、大切にしてきました。

 

 

 

詩人の祈りから3つのことを学びましょう。

 

 

 

第一は、212節の御言葉です。詩人の嘆きの祈りを学びましょう。詩人は悩み苦しみを主なる神への祈りという形で告白しています。

 

 

 

 第二は、1323節の御言葉です。シオンの再建を願う神の民の祈りを学びましょう。詩人はシオンが再建され、神の民が新しく創造され、諸国の民をひとつに集められて、そして諸国の王たちを御自身に仕えさせられる主なる神の主権性を賛美しています。

 

 

 

 第三は、2429節です。詩人は人の命のはかなさ、移ろいやすさと永遠に変わらない主なる神を対比して祈っています。その祈りを学びましょう。再び詩人は自分の現実の苦しみに目を向け、自分と人の人生のはかなさ、移ろいやすさを、主に嘆き訴えて祈り、主が永遠にいますことを賛美しています。

 

 

 

以上の三つを学ぶ前に、この詩人の詩編の特色を見ましょう。

 

 

 

彼は、他の詩編の御言葉、祈りをとても多く引用しています。それは、神の民の祈りには決まり文句、定型句があるからです。

 

 

 

病苦と孤独、迫害と生活の困窮を、主に嘆き祈る詩人に、耳を傾けましょう。

 

 

 

2節で詩人は、「主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように」と祈ります。これは、祈りの定型句です。ダビデが主に詩編171節で「主よ、正しい訴えを聞き わたしの叫びに耳を傾け 祈りに耳を向けてください」と祈っています。

 

 

 

詩人は、ダビデと同じように主に訴えて、祈っているのです。その時には2節の御言葉を、ダビデの祈りのように冒頭に置くことが、神の民たちの祈りの習慣なのです。

 

 

 

3節の御言葉も同様です。「苦難がわたしを襲う日に 御顔を隠すことなく、御耳を向け あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。

 

 

 

ダビデは、詩編132節で祈っています。「いつまで、主よ わたしを忘れておられるのですか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。

 

 

 

 神が人から御自分の御顔を隠されるとは、神がその人を「忘れる」「棄てる」という意味を表す決まり文句なのです。神はその人と関係を絶たれて、恵みをお与えくださらないのです。

 

 

 

 「あなたを呼ぶとき、急いで答えてください」という詩人の祈りも、神の民が主なる神に訴える時の決まり文句です。

 

 

 

 詩人はダビデのように神の民が主なる神に訴える祈りをしているのです。

 

 

 

 詩人の主への訴えが412節の御言葉です。最初の4節と最後の12節で詩人は自分の命のはかなさ、移ろいやすさを訴えています。その訴えに囲まれるように今の詩人の病苦と敵の迫害と生活の困窮の状態を述べています。

 

 

 

 詩人は、この祈りで第一に彼の生涯のはかなさ、移ろいやすさを語っているのです。

 

 

 

彼の生涯は、はかなく、移ろいやすいです。だから、46節で彼はまず病苦を訴えています。ある注解者は、46節の詩人の症状は熱病を誇張表現していると説明します。

 

 

 

この詩編の前にヨブ記という書物があります。そこで主人公のヨブが彼の体の病気の苦しみを次のように言っているのです。「わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち 骨は熱に焼けただれている。(ヨブ30:30)と。そして、ヨブは、こう続けて言います。「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく 命はパンをいとい 魂は好みの食べ物すらいとう。肉は消耗して見えなくなり 見えなかった骨が姿を現し 魂は滅亡に 命はそれを奪うものに近づいてゆく。(ヨブ33:1922)

 

 

 

 詩人は、ヨブが言う病気で苦しみ、死に至る病に苦しんでいたのではないでしょうか。

 

 

 

 病苦に、社会的な困窮が詩人に追い打ちをかけました。79節の御言葉です。詩人は敵の迫害で社会的に孤立状態に陥っていました。彼は、バビロン捕囚の民の一人だったのではないでしょうか。

 

 

 

敵とはバビロンの異邦人たちかもしれません。聖なる都を離れ、詩人は宗教的に汚れた異教の地に住んでいたでしょう。そして、異邦人から「お前たちの神がどこにいるのだ。どうしてお前たちの神はお前を助け、お前たち神の民を助けられないのだ」と嘲られていたでしょう。だから、詩人はまるで荒れ野に住むみみずく、フクロウであると告白しているのです。

 

 

 

 1012節は、詩人にはさらに深刻です。神の刑罰の中に彼は置かれていると告白しているからです。「わたしはパンに代えて灰を食べ」とは、詩人が灰の中に身を伏して悔い改めたという意味です。ヨブが「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。(ヨブ42:6)と告白しています。詩人は、まさにヨブに似た人生を生きたのです。

 

 

 

 まさに捕囚の地の四面楚歌の中で、彼はヨブのようにどん底の中から主なる神に嘆き訴えて、助けを祈り求めました。

 

 

 

 13節から23節は、詩人が自分のことから祈り求める主なる神にテーマを移しています。個人の祈りが神の民の祈りに変わっています。そこで彼は、主なる神の主権性を賛美します。

 

 

 

 13節で詩人は、主なる神が王座に就かれて、世界を、すなわち、諸国の民たちを代々に支配されていると賛美しています。

 

 

 

 そして、詩人は1419節で主なる神にシオンの回復を祈り求めています。シオンとはエルサレム神殿です。詩人は、1415節で神の民の恵みの時、主が定められたエルサレム神殿を再建する時が来たと預言しています。

 

 

 

そして、詩人は、主に神の民たちが破壊された神殿の跡、残された石をどんなに慕っているか、そこに神殿を再建したいと願っているかを訴えています。

 

 

 

1617節で詩人は、シオンの回復が主の栄光のためであると述べています。詩人は、エルサレム神殿が再建され、主の栄光が現わされ、主なる神が王として諸国の民たちを支配され、諸国の王たちや民たちがエルサレム神殿に集められて、神の御名を賛美するように祈っています。

 

 

 

19節は、詩人が自らは捕囚の地で死ぬことを自覚し、彼は次の世代に望みを託したのでしょう。

 

 

 

詩人は2023節でバビロン捕囚からの解放を賛美しています。主なる神が天からバビロン捕囚の神の民たちに助けの手を伸ばされ、彼らを死の地から解放されます。エルサレムに帰還させ、エルサレム神殿を再建し、主なる神を礼拝し、賛美させるためです。そして、再建されたエルサレム神殿に諸国の王たちが主に仕えるために集まると、詩人は預言しました。

 

 

 

 だが、詩人は、その栄光を見ることはできなかったでしょう。それゆえに再び詩人は、彼の嘆きを主なる神に訴え祈るのです。

 

 

 

しかし、詩人は、前のように神の怒りと憤りについて触れてはいません。詩人は、主なる神の永遠性に目を向けています。そのために彼の生涯と神が造られたこの世界のはかなさと移ろいやすさを嘆いているのです。

 

 

 

 詩人の命とこの世界の命は、衣服のように古びて、滅んでしまいます。また、わたしたちが毎日衣服を着替えるように、神の造られたこの世界も替えられてしまいます。詩人たちの世代は、次の新しい世代と交替するのです。この世界も四季の移り変わりの中で、前のものは消え去り、新しいものが芽生えてきます。そして、新しく芽生えたものも、古びて滅びゆくのです。

 

 

 

 しかし、詩人は告白します。主なる神は変わられないと。永遠にいますと。

 

 

 

そして、詩人は、彼の次の世代の神の民たちが主なる神との契約の中で神と共に生きることを祈り、願っているのです。

 

 

 

貧しい者の祈りとは、神の民の祈りです。永遠にいます神に祈る者です。そして、この詩人から学ぶことは、神の永遠性こそが詩人のこの世の現実の苦しみを解決するカギであるということです。

 

 

 

今、わたしたちはレントの季節を過ごしております。この詩人から、この詩人の御言葉の一節から、その喜びを学べれば感謝です。

 

 

 

今朝の詩人の祈りに耳を傾けて、わたしたちの心で捕えるのは、二つのことでないでしょうか。一つはわたしたちの命の短さです。人は誰でも道半ばでその命は失われるというはかなさ、移ろいやすさを知っています。それに対して詩人は主なる神は永遠のお方であり、永遠にいますお方であることを知っています。

 

 

 

この二つの真実から、詩人は一つの希望を見出しました。いつの時代も神の民は永遠の神、主と共に生きてきたという事実です。

 

 

 

その事実が、詩人に次のように祈れる希望を与えてくれました。詩人が18節で祈るように、「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み その祈りを侮られませんでした。

 

 

 

詩人は、主なる神とアブラハムとの契約を思ったでしょう。主なる神とモーセがシナイ山で恵みの契約を更新したことを思ったでしょう。彼らは、今この世に存在していません。しかし、彼らと契約を結ばれた主は、永遠に生きておられます。だから、彼らの祈りを覚えて下さり、その契約を実行して、シオンを再建し、諸国の王たちや民たちがエルサレム神殿に集めて下さいます。バビロンから帰還した神の民たちを通して諸国の王たち、民たちが神の祝福にあずかるのです。

 

 

 

さらに異邦人たちの救いを保証してくれるお方は、主イエス・キリストです。

 

 

 

主イエスは、永遠に生きる主です。アブラハムとモーセ、そしてダビデと恵みの契約を結ばれた主です。

 

 

 

彼らが死んだ後も、主は生きて、神の民と共に歩まれ、時が来たとき、人この子としてこの世に来られ、死の暗黒に住んでいたわたしたち異邦人を、罪と死から解放するために、罪の世に来てくださいました。そして、詩人の恐れた神の怒りと憤りを、主イエスはあの十字架の上で受けてくださったのです。それによって罪ゆえに死と涙の谷を生きなければならなかったわたしたちは、罪と死から解放されました。そして、わたしたちはキリストと共に生きる永遠の命をいただき、神の子とされました。

 

 

 

主イエスが死んで、復活されたゆえに、詩人が賛美する後の世代であるキリスト教会はその主イエスを賛美するために創造されたのです。

 

 

 

だから、わたしたちは、毎日曜日ごとに喜んでこの教会に集まり、主を賛美し、主に仕えて、永遠の主、イエス・キリストと共に神の御国へと歩んでいきましょう。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編102編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

この教会でわたしたちが主を崇め、礼拝し、賛美し、仕えることができる幸いを感謝します。

 

 

 

どうか永遠の神、主に心を向け、わたしたちがはかない、移ろいやすい生涯であることに気づかせてください。そして、詩人と共に、永遠の神主と共に生きてきた神の民の歴史に、歩みに、そして彼らの祈りに、わたしたちの歴史と歩みと祈りを重ね合わすことが出来る用意してください。

 

 

 

そしてその重なり合うところに主イエス・キリストの十字架と復活の御業があることを心に留めさせてください。

 

 

 

アブラハムの恵みの契約に基づいて永遠の神主が神の民に変わらない愛を示され、主イエス・キリストの十字架によって、永遠の神の愛がわたしたちに及ぶことを覚えて、永遠の神をほめたたえます。

 

 

 

どうか、イースター伝道礼拝を祝してください。毎週の主の日の礼拝を祝してください。詩人が祈りましたように、諸国の民をわたしたちの教会にお集めください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。