詩編説教101             主の2019217

 

          ダビデの詩。賛歌。  ダビデの賛歌

 

慈しみと裁きをわたしは歌い 慈しみと裁きを、わたしは歌おう、あなたに、

 

主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。主よ、わたしはほめ歌おう。

 

完全な道について解き明かします。 わたしは心を向けよう、全き道に。

 

 

 

いつ、あなたは いつ、あなたは来られるのか、わたしのところに。

 

わたしを訪れてくださるでしょうか。 

 

わたしは家にあって わたしは行き来します、全き心で、わたしの家の中を。

 

無垢な心をもって行き来します。 

 

卑しいことを目の前に置かず  わたしは置きません、わたしの両目の前に、

 

背く者の行いを憎み  ベリヤール(「魔」「破滅」)の言葉を。違反を行うこと

 

まつわりつくことを許さず を、わたしは憎み、それはわたしにくっつかない。

 

曲がった心を退け ひねくれた心はわたしから離れる。

 

悪を知ることはありません。 わたしは悪を知ることはない。

 

隠れて友をそしる者を滅ぼし 隠れたところで隣人を中傷する者たちを、わた

 

傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。しは滅ぼします。目の高い者、心の広い者、彼をわたしは耐えられない。

 

わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め わたしは地の忠実な者たちに

 

わたしと共に座に着かせ 目を向ける、わたしと共に住むために。

 

完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。全き道を歩む者は、わたしに仕

 

わたしの家においては  える。住まない、わたしの家の中に、欺きを行う者

 

  人を欺く者を座に着かせず は。嘘を語る者がわたしの目の前で固く

 

偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。立つことはない。

 

朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 朝ごとにわたしは地のすべて

 

悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。の悪者たちを滅ぼす。主の町から断ち滅ぼすために、不義を働くすべての者たちを。

 

 詩編第10118

 

 

 

説教題:「神の御前に正義を行う」

 

 

 

詩編第10118節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

101編は、「王の詩編」と呼ばれています。その内容は王の誓約です。

 

 

 

詩人の「わたし」は、王です。

 

 

 

詩人は王に即位した時、おそらくエルサレム神殿で主なる神を礼拝しました。そして、主なる神の慈しみと裁きをほめたたえて賛美しました。

 

 

 

詩人は12節で次のように賛美します。

 

 

 

慈しみと裁きをわたしは歌い 主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。完

 

全な道について解き明かします。いつ、あなたはわたしを訪れてくださるでし

 

ょうか。わたしは家にあって

 

 

 

サムエル記下の7章で主なる神はダビデと契約を結ばれました。主なる神は預言者ナタンを通してダビデの王国をとこしえに据えると約束されました。そして、主なる神はダビデと彼の後を継ぐ王たちの父となり、ダビデと彼の子孫の王たちは神の子となると約束されました。

 

 

 

 

 

主なる神は、その契約に基づいてダビデ王国に神の不変の愛を示されました。その不変の愛が「慈しみ」です。

 

 

 

同時に主なる神は、ダビデとの契約に基づいて王が主なる神に背いたときに、主なる神は親が愛を持って子を叱るように、王たちの罪を裁かれました。その度に主なる神は、預言者たちを王に遣わされて何度も何度も御自身に立ち帰るように招かれたのです。

 

 

 

この「裁き」を、主なる神の「公正」「公義」と呼んでいます。主なる神が正しい裁きを行われるということは、神の民イスラエルの根本的で、ゆるぎない信仰です。

 

 

 

主なる神は、神の民の中に士師を置かれ、王を置かれ、彼らを通して神の民を裁かれました。

 

 

 

だから、詩人・王は神の代理人として、主なる神に誓いを立て、王の職務である裁き人の務めを果たすと誓うのです。

 

 

 

詩人・王は、2節で「完全な道について説き明かします」と誓います。

 

 

 

完全な」とは、「無垢な心」の「無垢な」と同じ言葉です。分裂のない円満、完全を表す言葉です。この言葉の反対が4節と7節で歌われている「曲がった心」「欺き」「偽り」の偽りの悪徳です。「偽り」とは、「心情の分裂」「全心をかけないこと」「いい加減なこと」を意味しています。

 

 

 

説き明かします」は、心を向けるという意味の言葉です。だから、詩人・王は、「わたしは、心を向けよう、完全な道に」と歌っているのです。

 

 

 

詩人・王は、王に即位しました時、神の法を授かりました。だから詩人・王は彼自身の清き心情と授かった神の法に従順に従うことを誓っているのです。

 

 

 

詩人・王が「いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します」と賛美しています。

 

 

 

詩人・王は、主なる神の到来、あるいは現臨を待ち望んでいます。彼は、王宮で裁き人の職務をするのですから、その職務を果たすためにも、彼は偽りのない心で、主の御力と助けにより頼もうとしたのではないでしょうか。

 

 

 

では3節以下8節までの王の誓約の内容を見て行きましょう。

 

 

 

3節で詩人・王は「卑しいことを目の前に置かず 背く者の行いを憎み」と歌っていますね。

 

 

 

卑しいこと」とは、何でしょうか。これは、「ベリヤールの言葉」を意訳したのです。「ベルヤールの言葉」を、そのまま日本語にすると、「魔の言葉」「破滅の言葉」となります。昨年12月に出版された聖書協会共同訳聖書は「邪悪なもの」と意訳しました。

 

 

 

その意訳の根拠としたのは、旧約聖書の申命記159節です。主なる神がモーセを通して神の民たちに7年目には同胞の負債を免除するように命じられて、こう警告されています。「『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることがないように注意しなさい。

 

 

 

この「よこしまな考え」は、ある伝染力を持った悪です。まるでウイルスでインフルエンザが流行するように、神の民たちの中に広がる悪です。7年目は負債を免除しなければなりません。だから、邪悪な考えの者は貧しい同胞が助けを求めても無視しようと、何の利益もないのだからと、貧しい者たちを切り捨てるのです。その悪を主なる神が見過ごされるはずがありません。神の民の共同体に災いをもたらす悪を、主なる神はモーセを通して神の民に捨てるように警告されました。

 

 

 

旧約学者の関根正雄氏は、この「よこしまな」を、本来「無益である」という意味であると言います。そして、偶像を表す「空しい」という言葉を用いています。それに応じて「背く者の行い」を、その者の心の問題と理解し、神の民が主なる神を捨て、偶像を礼拝するために神像を作り、それを詩人である「わたしは憎む」というふうに意訳しています。

 

 

 

いやしいこと」、「背く者の行い」は、偶像礼拝の罪です。詩人・王は授かった神の法、すなわち、十戒の第1戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない(出エジプト20:3)と第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない(出エジプト20:4)に堅く立ち、偶像礼拝の罪を心から憎みました。だから、詩人・王は、彼の身の回りの生活の中に偶像礼拝の罪の痕跡はないと証ししています。彼の心は主なる神にのみ向けられています。

 

 

 

偶像礼拝の罪は、曲がった心から生まれます。その心は神と富とに仕えようという心の分裂です。分裂した心は、目をこの世に奪われ、貪欲の罪が生まれます。そして、隣人のものを欲しがり、むさぼりの罪に陥り、その悪は伝染力を持って神の民たちに広がり、主なる神が定められた道を踏み外すのです。

 

 

 

詩人・王は、そのような主なる神に背く者たちを憎み、彼らから遠ざかり、悪を知ろうとしないと歌っています。

 

 

 

5節で詩人・王は、「隠れて友をそしる者を滅ぼし 傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。」と歌っています。密かに隣人を中傷することも、高慢な態度も、心の中の問題です。この世の裁判の裁きの対象ではありません。しかし、詩人・王は、人の内心の思いを問題にしています。まるでマタイによる福音書で主イエスが山上の説教をなさった、その御言葉を聞いているという感じになります。

 

 

 

 この詩人・王は、主イエスと同じ心を持つ王です。まるで彼は、主イエスのように自らが主なる神の法に従順に従い、悪を憎み、そこから離れた聖なる領域を作り出そうとしているようです。主イエスは、それを神の国と表現されました。そして、主イエスは、ガリラヤでその御国の福音を告げられました。

 

 

 

傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。」は、意訳です。詩人・王は「目の高い者、心の広い者、彼にわたしは耐えられない」と歌っているのです。

 

 

 

 イザヤ書113節で主なる神が預言者イザヤを通して、「災いを伴う集いにわたしは耐ええない」と言われています。「許しません」は「わたしは耐ええない」という意味です。詩人・王は、主なる神と同じ思いを持ち、王国を治めています。

 

 

 

 詩人・王は6節で、「わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め わたしと共に座に着かせ 完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます」と歌っています。

 

 

 

詩人・王は、この国に忠実な人々に目を向けるのです。それは、彼と共に彼らがエルサレムの都に住み、彼に仕えるためです。詩人・王はある意味で彼が王に即位した時に授けられた神の法に従う理想的な国造りをしようとしています。だから、彼が造ろうとする国に忠誠を尽くそうとする者たちに目を注ぐのです。王の臣下は神の法に全心で従う者たちです。

 

 

 

それと反対なのが7節です。「わたしは家においては 人を欺く者を座に着かせず 偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。

 

 

 

詩人・王は、まことに主イエスと同じまなざしで生きています。人の外見よりも人の心を問題にしています。心の曲がった者は、王に仕えることはできません。偽り、欺く者はこの王と衣食住を共にすることはできません。王は、心に偽りを持つ者を、王国から、エルサレムの都から追放するのです。

 

 

 

王と共に王国に住み、エルサレムの都に住む者は、王と同じように清い心情を持ち、神の法に従順に従う者たちです。

 

 

 

詩人・王は、8節で「朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」と誓っています。

 

 

 

詩人・王は、主なる神の代理人として、毎日神の法に背く悪人を裁き、主なる神が住まわれるエルサレムの都から断つと誓っています。国と都を清めると誓います。

 

 

 

このように詩編101編を学びますと、この詩人・王に近い王はヒゼキヤ、ヨシヤでしょうか。特にヨシヤ王は申命記に基づいて宗教改革を実行し、エルサレムの都から南ユダ王国の全土、そしてすでに滅亡していた北イスラエル王国まで、すなわち、昔のダビデ王国の全土でバールの神像等を破壊しました。

 

 

 

しかし、預言者エレミヤは、ヨシヤの宗教改革は神の民の心まで改革できなかったと批判しています。

 

 

 

詩編101編の詩人が歌う理想の王は現実には存在しなかったということになります。

 

 

 

しかし、この詩人が歌う理想の王は、主イエスに似ています。詩人・王は2節で「いつ、あなたはわたしを訪れてくださるのでしょうか。」と歌っています。彼は、来るべきメシアを待ち望み、預言しているのではないでしょうか。

 

 

 

王の詩編と呼ばれるこの詩編は、王が即位する時、彼は主なる神の子として迎えられました。ダビデは詩編27節で「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ』」。

 

 

 

ダビデはメシアについて預言したのです。同様に詩編101編の理想の王はメシアです。詩人は、彼を待ち望んだのです。

 

 

 

主イエスは、この世に来てくださいました。そして、十字架の死に至るまで父なる神に従順でした。目の前のサタンの誘惑を退け、全心を父なる神に向けられ、すべての悪を遠ざけられました。そして神の御国を建て上げるために、そこに罪を清められた神の民を共に住ますために、十字架の道を歩まれたのです。

 

 

 

神の御国に入れる者は、心の貧しい者です。主イエス以外に頼る者を持たない者です。心へりくだる者です。

 

 

 

神の法に背く者、偽り者、おごり高ぶり、傲慢な者は入ることができません。

 

 

 

今主イエスは、天におられますが、再び来られ、この理想の王のようにすべての不法の者たちを裁かれるのです。そして、その裁きは、この教会から始まっているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編101編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

悪に満ちたこの世で、神の法に従い、清き生活を主なる神の御前に造ろうとするこの理想の王を通して、わたしたちは主イエス・キリストに心を向けることが出来て、感謝します。

 

 

 

わたしたちも詩人・王と共に、主の慈しみと裁きを誉め称え賛美させてください。

 

 

 

恵みの契約に基づいて変わらない愛を示される主イエス・キリストの父なる神をほめたたえます。

 

 

 

十字架の御救いのゆえに、神の御前に何の功績もありませんが、罪を赦され、神の子とされ、主イエスと共に御国に住める特権を与えられ、感謝します。

 

 

 

どうか、心高ぶることなく、この世のものに心を寄せて、貪欲にならず、物欲、色欲、名誉欲、主なる神からわたしたちの心を引き離すものから遠ざかり、全き心で主なる神を礼拝させてください。

 

 

 

どうか、神の御言葉が語られ、聞かれるこの礼拝に、わたしたちが詩人・王のように全き心で行き来するこの教会に、主イエスを聖霊と御言葉を通して訪れてください。

 

 

 

どうか、わたしたちの教会に神の民をお集めください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。