詩編説教091             主の2018422

 

 

 

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ いと高き者の隠れ場に住む者は

 

全能の神の陰に宿る人よ 全能者の陰に宿っている。

 

主に申し上げよ 主に、わたしは言う。

 

「わたしの避けどころ、砦  「わたしの避けどころ、そしてわたしの砦

 

わたしの神、依り頼む方」と。わたしの神よ、わたしは彼に依り頼む。」

 

 

 

神はあなたを救い出してくださる まことに彼はあなたを救い出す、

 

仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。仕掛ける者の罠から、滅びの疫病から。

 

神は羽をもってあなたを覆い 彼は彼の羽によってあなたを覆い

 

翼の下にかばってくださる。そして、彼の翼の下に、あなたは避け所を得る。

 

神のまことは大盾、小盾。  神のまことは大盾と小盾。

 

夜、脅かすものをも  あなたは恐れることはない。夜の怖いものを

 

昼、飛んで来る矢をも、怖れることはない。昼間に飛び交う矢を。

 

暗黒の中を行く疫病も 暗黒の中を歩く疫病を。

 

真昼に襲う病魔も  真昼に荒らしまわる悪疫を。

 

 

 

あなたの傍らに一千の人 倒れる、あなたの傍に千人が、

 

あなたの右に一万の人が倒れるときすら そして、あなたの右に万人が。

 

あなたを襲うことはない。 あなたには近づかない。

 

あなたの目が、それを眺めるのみ。 ただあなたの目であなたは見るでしょう。

 

神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。そして悪人たちの報いを、あなた

 

あなたは主を避けどころとし は見るでしょう。まことにあなたは、主、わた

 

いと高き神を宿るところとした。 しの避け所です。あなたはいと高き神をあ

 

あなたには災難もふりかかることがなく なたの住まいとした。あなたには災

 

天幕には疫病も触れることがない。いが臨まないだろう。またあなたの天幕に

 

主はあなたのために、御使いに命じて 疫病が近づかないだろう。まことに彼

 

あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。の御使いたちに彼はあなたの

 

彼らはあなたをその手にのせて運び ために命じる。「あなたのすべての道で、

 

足が石に当たらないように守る。あなたを守るように」。両の手で彼らはあなた

 

あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり を運ぶだろう。あなたの足が石に打ち付け

 

獅子の子と大蛇を踏んで行く。えないようにするだろう。あなたは獅子と毒蛇

 

                   

 

「彼はわたしを慕う者だから  を踏み、若獅子と竜を踏みつけるだろう。彼

 

彼を災いから逃れさせよう。はわたしを慕う。それでわたしは彼を救う。

 

わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。わたしは彼を高く上げよう。

 

彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え なぜなら、彼はわたしの名を知って

 

苦難の襲うとき、彼と共にいて助け いるから。彼はわたしを呼ぶ。それでわ

 

彼に名誉を与えよう。 たしは彼に答える。わたしが彼と共に、苦難

 

生涯、彼を満ち足らせ の中で、彼を救い出し、彼を尊ぶだろう。日々の長さ

 

わたしの救いを彼に見せよう。」でわたしは彼を満ち足らせ、彼にわたしの

 

               救いを見せるだろう。

 

                  詩編第91116

 

 

 

説教題:「神のもとに身を寄せて隠れ」

 

詩編第91116節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編91編は、表題がありません。

 

 

 

90編と91編と92編はよく似た思想の表現があります。たとえば90編の1節と91編の1節と92編の14節です。主なる神を、「わたしたちの宿るところ」「全能の神の陰に宿る人」「主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります」。

 

 

 

90編の詩人は、「主よ、あなたこそわたしたちの住まいです」と告白し、91編の詩人は、「いと高き者の隠れ家に住む者たちは、全能者の陰に宿っている」と告白し、92編の詩人は、「主の家の中に移植された者たちは、わたしたちの神の中庭で花を咲かせる」と告白しています。

 

 

 

このように9092編には、主なる神は神の民たちの住まいであるという、よく似た思想の表現があります。

 

 

 

90編がバビロン捕囚期に作られ、91編は第二イザヤが活躍していたバビロン捕囚期の終わりごろに作られ、92編はエルサレムへの帰還後に作られたと考えられています。

 

 

 

9092編の詩編を編集した者は、一つの意図をもっていたと思います。それは、紀元前539年にペルシアの王キュロスが神の民たちをバビロン捕囚から解放し、神の民たちが約束の地エルサレムの都に帰還した出来事を、詩編の編集者は第2の出エジプトと見ているのです。

 

 

 

だから、91編を90編と92編の間に入れ、この詩編には表題がありません。

 

 

 

9116節の「生涯、彼を満ち足らせわたしの救いを彼に見せよう」と詩人が歌っている「わたしの救い」とは、バビロン捕囚からの解放のことです。

 

 

 

説教題のとおりに、91編の詩人は、次のように賛美します。主なる神の御許に自分の避け所を得ている者たちは、生涯どこにいても主なる神に守られ、神の祝福を得る幸いな者であると。

 

 

 

90編の詩人は、人は罪ゆえに神の御前に人の生涯は空しく、絶望的な状況にあることを歌っておりました。紀元前586年に主なる神が新バビロニア帝国のネブカドネツァルを用いて、南ユダ王国の神の民たちの罪を裁かれました。彼らは、故国と愛するエルサレムの都と神殿を失いました。そして異教の地バビロンに捕囚されたのです。90編にはその頃の時代背景が歌われています。

 

 

 

ところが、捕囚の地で50年経ますと、一人の無名の預言者が現れ、主なる神が異邦人の王を「わたしの牧者」として遣わし、神の民たちをバビロンから解放されるという慰めのメッセージを語りました。

 

 

 

91編の詩人も第二イザヤと呼ばれる無名の預言者と同じ時代に生きる者としてバビロン捕囚の神の民たちに神の慰めを賛美しました。

 

 

 

いと高き主なる神を避け所、住まいとする者たちは、すなわち、神に信頼する敬虔な者たちは、神の特別な守りと祝福を得て、どこにいても安全であると。

 

 

 

さて、91編は、12節で人間の信仰宣言に始まり、1416節で主なる神が御自身に信頼を寄せる者たちに次のように約束された御言葉で終えられています。主はバビロン捕囚の苦難の中にいる神の民たちと共に居て、彼らが主を求めるならば、彼らに答えて、彼らをバビロン捕囚から解放し、約束の地エルサレムへと帰還させて、御自身の救いを彼らに見させると。

 

 

 

第二イザヤがバビロン捕囚の神の民たちを慰めの主に向けさせたように、91編の詩人は捕囚の中にいる神の民たちの目を主の救いへと向けさせています。

 

 

 

91編は、内容を二つに分けることができます。18節と916節です。18節は、主なる神への信頼の歌です。916節はその信頼に主なる神が応答された歌です。特に1416節は、神御自身の御言葉です。主なる神は御自身を信頼する者と共に居て、苦難の中でも彼らを守り、そして、彼らに御自身の救いを見せ、長き日々に彼らを御自身の祝福で満ち足らせると約束されています。

 

 

 

いと高き神、全能の神は、神の呼び名であり、属性です。この呼び名と属性は、次のことをわたしたちに伝えています。

 

 

 

捕囚の神の民を救ってくださる主なる神は、全能の御力を持たれているという確信です。

 

 

 

だから、バビロン捕囚の地で敬虔な神の民たちは、他の神々ではなく、主なる神を彼らの避け所、彼らの住まいとして信頼を寄せると賛美しているのです。

 

 

 

バビロンの捕囚の地で主なる神を信じて、敬虔に生きる者たちは、自らの力で生きているのではありません。主なる神のもとに身を寄せて隠れ、神の陰に宿っているのです。宿るとは、天幕を張って住むことです。神を住まいにしているのです。要するに神に守られている者たちなのです。

 

 

 

だから、彼らは神を「わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方」と、神を信仰告白するのです。

 

 

 

38節は、捕囚の地にいる敬虔な者たちが信頼を寄せている、自分の住まい、避けどころとしている主なる神が、彼らをどのように守ってくださっているかを、詩人は歌っています。

 

 

 

神は、捕囚の神の民を救ってくださいます。3節で「仕掛けられた罠から」、すなわち、獲物を捕るために罠を仕掛ける狩人のように、バビロン捕囚の地にあのエステル記のハマンのように神の民たちを滅ぼそうと罠を仕掛ける者たちがいるのです。

 

 

 

「陥れる言葉から」は、ヘブライ語聖書を見ますと、「滅びの疫病から」と記されています。新共同訳聖書は70人訳のギリシア語訳旧約聖書を参考にして、訳しています。これは、恐ろしい伝染病のことを指しているのです。人に破滅的な死をもたらす疫病です。

 

 

 

詩人は4節で、二つのたとえで死の危険にある神の民たちを主なる神は守ってくださると賛美します。

 

 

 

1はわしが翼で雛を覆い守るように、神の民を守ってくださいます。第2は神が大盾と小盾となって神の民たちを命の危険から守ってくださいます。

 

 

 

58節は、詩人が出エジプトの事件を思い起こして、賛美しています。主なる神は、エジプトを十の災いで撃たれました。

 

 

 

そして、過越しの夜に主なる神はエジプトの全土の家の長子を打たれました。しかし、家の門に犠牲の動物の血を塗った神の民たちの家は災いを逃れました。

 

 

 

そして、出エジプトした神の民たちは、モーセに率いられて40年間火の柱、雲の柱に守られて、すなわち、昼も夜も主なる神に守られて、約束の地へと旅を続けたのです。

 

 

 

そして、荒れ野の旅で、神の民たちは自らの不信仰で、多くの者たちが病に倒れました。しかし、敬虔な神の民たちはどんな時にも主に守られ、主に逆らう者の滅びをその目で眺めたのです。

 

 

 

916節で詩人は、敬虔な神の民たちに主の守りがあることを歌っています。特に1112節で主なる神は御使いたちを遣わして、神の民たちがこの世で歩むすべての道を守られることを歌っています。

 

 

 

そして、1416節で詩人は、神の御言葉として神が神を礼拝する者たちに救いと祝福を約束されたことを伝えているのです。

 

 

 

礼拝は神に招かれた者が神に呼びかけ、その呼びかけに神が答えられ、彼らに御自身の救いをお見せになるのです。

 

 

 

例えば、この礼拝です。今朝は説教だけですが、常にわたしたちは聖餐へと招かれています。そこでわたしたちは、御言葉と聖餐を通してわたしたちの主イエス・キリストの死と贖いにあずかるのです。

 

 

 

だから、この礼拝で主なる神がバビロン捕囚の神の民たちに詩人を通して「生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」と約束されたことは、今実現しているのです。

 

 

 

彼らは、礼拝の中で主なる神がバビロン捕囚から彼らを解放されることを見させられました。

 

 

 

それは、第二の出エジプトの出来事であり、来るべき主イエス・キリストの十字架の贖いの予型でありました。

 

 

 

そして、詩編91編の1112節から、わたしたちはキリストの十字架の贖いが確かにわたしたちの救いのためであったことを確信させられるのです。

 

 

 

ローマカトリック教会は、1112節の御言葉を守護天使の教理として教えています。神の民たちに特定の天使が付いて守ってくれると。

 

 

 

91編の詩人は、主なる神が教えられる神の御使いの任務を賛美しているのです。神の御使いたちの任務は、神の民たちがこの世で歩むすべての道を守ることでした。

 

 

 

「足が石に当たらないように守る」とは、石につまずくことがないように守ることです。

 

 

 

しかし、荒れ野で主イエスを誘惑しましたサタンは、12節の神の祝福の言葉を悪用して、主イエスを悪に誘おうとしました。

 

 

 

悪魔は、巧みに12節の御言葉を曲げて、神の御使いが父なる神に信頼している主イエスを守ってくれるから、神の子であれば助かるだろうだから、この高い建物から飛び降りて見ろと命じたのです。

 

 

 

そこで主イエスはサタンに「神を試みてはならないとある」と言われて、彼の誘惑を退けられました。

 

 

 

それによって主イエスは、御自身が神の子であるという特権を御自分のために用いないで、神と人のためにだけその生涯を捧げられました。

 

 

 

主イエスは、御自分の命を犠牲とし、わたしたちを罪と死から、悪魔のわなから救い出してくださったのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編91編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 詩人の祈りを通して、わたしたちは常に神を礼拝する者たちを神が守られ、救われる祝福を見せていただきました。

 

 

 

わたしたちは、世俗化という捕囚の中にあります。神を信じることが日本の社会の中で軽んじられています。

 

 

 

その中で今朝もわたしたちは、主に招かれて、この礼拝に来ました。

 

 

 

その者たちを、91編の詩人の祈りを通して、神は常に守り、どんな災いも近づくことないようにしてくださると約束してくださいました。

 

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

本当にあなたは生きて、わたしたちを救われる神です。

 

 

 

どうか、91編の詩人の祈りを、神が聞き届けてくださったことを、わたしたちの礼拝を通して、毎週御言葉を聞くことで、毎月聖餐式にあずかることで、また、わたしたちの教会で洗礼式が行われるごとに、主イエス・キリストの十字架の救いの喜びを実感させてください。

 

 

 

どうか、日曜日、わたしたちをこの教会にお招きくださり、主イエス・キリストが復活されたことを、共に喜び祝わせてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。