詩編説教111              主の2020223

 

ハレルヤ。 ハレルヤ(ヤハを賛美せよ)

 

わたしは心を尽くして主に感謝をささげる。わたしは主に感謝する、心のすべ

 

正しい人々の集い、会衆の中で。 てで(心を尽くして)。正しい者たちと会衆の

 

主の御業は大きく 中で。大きい、主の御業は。

 

それを愛する人々は皆、それを尋ね求める。 尋ね求められる、それらを喜ぶ

 

主の成し遂げられることは栄え輝き すべての者たちに。尊厳と威光が彼は働

 

恵みの御業は永遠に続く。 き。そして彼の義は永遠に立つ。 

 

主は驚くべき御業を記念するように定められた。彼は記念を作った、彼の

 

主は恵み深く憐れみに富み 不思議な御業を。 恵み深い憐れみ深い、主は。      

 

主を畏れる人に糧を与え 彼は糧を与える、彼を畏れる者たちに。

 

契約をとこしえに御心に留め 彼は永遠に覚える、彼の契約を。

 

御業の力を御自分の民に示し 彼の諸々の御業の力を、彼は彼の民に告げ

 

諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる 諸国の嗣業を、彼らに与える。

 

御手の業はまことの裁き 彼の両手の御業は、まことと裁き。

 

主の命令はすべて真実 彼の命令のすべては、確かである。

 

世々限りなく堅固に とわに永遠に支えられる。

 

まことをもって、まっすぐに行われる。行われる、まことをもって、真っすぐ

 

主は御自分の民に贖いを送り に。贖いを、彼は贈った、彼の民に。

 

契約をとこしえのものに定められた。 彼は命じた、永遠に、彼の契約を。

 

御名を畏れ敬うべき聖なる御名。 聖なる、そして畏れるべき彼の御名。

 

主を畏れることは知恵の初め。 知恵の初めは主への畏れ。 

 

これを行う人はすぐれた思慮を得る。 良い思慮がこれを行うすべての人々に                    

 

主の賛美は永遠に続く。 ある。彼への賛美を永遠に立つ。

 

                   詩編第111110

 

 

 

説教題:「神の驚くべき御業を記念する」

 

今朝は、詩編111110節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編111編と次の112編は、「アルファベットによる詩」と、括弧して表題が付されています。アルファベットによる詩で有名なのは119編です。ヘブル語22文字のアルファベットで詩が作られています。日本で言えば、いろは歌です。ヘブライ語の22文字のアルファベットの順に22行の詩を作っています。1節の「ハレルヤ」を除くと、22行になります。「ハレルヤ」は、この詩が作られた後に、付け加えられたと、考えられ、いろは歌に本来属していませんでした。

 

 

 

アルファベットによる詩のように技巧的な詩は、バビロン捕囚期、あるいはそれ以後に作られたと考えられています。アルファベットによる詩に対する評価は、二分されています。評価する人と評価しない人に。ヘブル語22文字の順に詩を書くという技巧的制約があることを、ある人はこの詩の欠点と見なします。反対にその制約にもかかわらず優れた詩であると評価する人がいます。

 

 

 

アルファベットによる詩なのですから、技巧的制約は避けられません。また、ある程度の決まり文句で詩を書くことも避けられません。この111編を繰り返しお読みになると、まず言葉に豊かさを感じられないと思います。詩人の言葉が豊かにあふれ出ているという感じはありません。むしろ、ウェストミンスター小教理問答書を読んでいるという感じです。詩人が日常生活で使う言葉ではなく、信仰の言葉で、もっと言えば教理の言葉で主なる神を褒め称えているという感じがします。

 

 

 

神を褒め称える共同体が存在するのです。「ハレルヤ」と。主を賛美せよと。

 

 

 

詩編は、冒頭と最後に頻繁に「ハレルヤ」が出てきます。111編のように冒頭に出て来るのは、10編あります。112編、113編も冒頭に出てきます。詩編の最後に出て来るのは、13編あります。113編は冒頭と最後に出てきます。

 

 

 

特に詩編113118編はハレルヤ詩編と呼ばれ、過越の祭に歌われたと言われています。過越の祭に主イエスが12弟子たちと最後の食事をされ、一同が賛美の歌を歌ってから、オリーブ山に行かれました。その時に歌われた詩編歌が詩編113118編のハレルヤ詩編でした。

 

 

 

新約聖書ではヨハネ黙示録1916節にハレルヤ賛美があります。

 

 

 

旧約でも新約でも主をハレルヤと賛美しますので、教会の礼拝の中でも主をハレルヤと賛美したいです。

 

 

 

残念ながら、教会の備え付けのジュネーブ詩編歌抄には、詩編116117編しかありません。いつかジュネーブ詩編歌150編を教会に備え付け、教会の礼拝で、受難週や聖餐式の時に主をハレルヤと賛美できたらと願っています。

 

 

 

詩編111編は、個人の賛美の歌であります。詩人は、過去のおける主なる神の驚くべき御業を記念して、心に覚えて、主をハレルヤと賛美しているのです。

 

 

 

詩人は、1節で「ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる。」と主を褒め称え、10節で「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。」と主を褒め称えています。それは、詩人個人の救いの体験を、主に感謝しているのではありません。29節の主なる神の救いの歴史における偉大な御業を褒め称えているのです。

 

 

 

それがこの詩編のテーマです。神の救いの歴史の賛美です。

 

 

 

詩人が4節で「主は驚くべき御業を記念するように定められた。」と賛美していますね。

 

 

 

旧約のイスラエルの神の民たちは、神の救いの歴史における神の大いなる御業を、過越の祭、ペンテコステの祭、仮庵の祭でそれぞれ記念して祝いました。過越の祭は、出エジプト、奴隷の地から主なる神に贖われたことを覚えて祝いました。ペンテコステの祭ではシナイ山で主なる神がモーセを通して神の民に十戒の石の板を授けられ、主なる神と契約したことを覚えて祝いました。そして仮庵の祭は、神の民たちが荒れ野の40年の生活を覚えて、神の祝福を祝いました。

 

 

 

この詩編はバビロン捕囚後エルサレムに帰還した神の民たちが再建された神殿で歌われました。

 

 

 

しかし、最初にこの詩編はウ小教理を読んでいるみたいだと言いましたね。旧約の神の民たちは、神の救いの歴史を家長である父親が家庭で子供たちに教えました。

 

 

 

2節の「主の御業は大きく それを愛する人々は皆、それを尋ね求める。」とは、家長である父親が子供たちにそれぞれの家庭で神の救いの御業である出エジプト、シナイ山での主と神の民との契約、そして荒野の40年の生活を教えていたことを背景としていると思います。

 

 

 

詩人は、子供の時から父親に教えられていたことを言葉にして、主なる神の救いの歴史における神の御業の偉大さを、主なる神の驚くべき御業を記念して、この詩編を歌ったのだと思います。

 

 

 

わたしたちがウェストミンスター小教理問答を用いて契約の子たちを教育するように、旧約時代の契約の子供たちは父親から神の救いの歴史における神の偉大な御業を教えられました。そして、それが子供たちの信仰の言葉になりました。彼らは、神の民イスラエルの父祖たちのように出エジプトという救いの体験はありません。シナイ山で主なる神に十戒の石の板を授けられて、主なる神と契約を結んだという体験はありません。荒れ野の40年という生活の体験もありません。しかし、父から子へと伝えられた教えを通して、子供たちに信仰の言葉、教理が与えられ、それが子供たちの心に堅く据えられました。

 

 

 

神の民たちは、親から子へと神の救いの歴史における偉大な神の御業を伝えることによって、その信仰の遺産によってバビロニア帝国からペルシア帝国へと中近東世界が大変動する時代を生き抜いたのです。

 

 

 

次々と中近東世界は、帝国の興亡が続きました。その中で多くの弱小国は滅び、民族も消えました。しかし、神の民たちは国が滅ぼされ、エルサレムの都と神殿が破壊され、そして彼らはバビロンに捕囚され、世界へと離散しても、生き残ることができました。

 

 

 

彼らは、神の救いの歴史における驚くべき神の御業を常に褒め称えました。バビロンに捕囚されても、ペルシア帝国の支配下に置かれても、主なる神を褒め称えることを止めませんでした。

 

 

 

なぜなら父から子へと伝えられた信仰が、すなわち、出エジプトによる贖い、シナイ山での十戒の授与と神との契約、荒れ野の40年の生活と約束の地カナンを嗣業として与えられたこと、これらが常に彼らの信仰の客観的な保証となりました。

 

 

 

詩人も同じです。父から教えられた信仰によって彼は、バビロン捕囚からエルサレム帰還、そして神殿の再建を経験したでしょう。彼にとってバビロン捕囚からの解放は第二の出エジプトだったでしょう。

 

 

 

彼は、父親に教えられた信仰の言葉によって、バビロン捕囚後の混乱した社会を生きたのです。再建されたエルサレムの神殿で共に礼拝する者たちと共に生きました。

 

 

 

1節の「正しい人々」は信仰を自覚した者という意味です。神の契約の子たちは、父から子へと信仰が伝えられた信仰の言葉によって、主なる神の驚くべき御業を知らされます。そして、聖霊によってその信仰が生きたものとなり、教えられた神の偉大な御業を生きた事実として主体的に受け取り、主なる神のみを信じて生きるようになるのです。

 

 

 

だから、正しい人々は信仰を自覚した者です。彼は父から教えられた神の偉大な御業を喜ぶ者となり、生涯追い求める者となるのです。その者たちの集いである神の民の礼拝共同体で、偉大な神の御業が知らされ、そして、記念されるのです。

 

 

 

今日、毎週の日曜日の礼拝で、神の偉大な御業が語られ、知らされています。詩人が賛美したシナイ山における主なる神と神の民との契約の内容は、キリストです。出エジプトと第二の出エジプトであるバビロン捕囚からの解放を為された主なる神は、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して、わたしたちを罪の奴隷から贖い出されて、神の子とし、神の御国の相続人としてくださいました。

 

 

 

こうして詩人たちの信仰とわたしたちの信仰は、神の契約を通して、キリストにあって一つとされているのです。

 

 

 

旧約の神の民たちに荒れ野でマナを与えられた恵みと憐れみに富まれる主は、今わたしたちにパンとぶどう酒をお与えくださり、神の恵みの契約を心に留めさせ、キリストの十字架と復活の驚くべき御業をわたしたちに知らせてくださっています。それによって神の民がカナンの地を得たように、わたしたちは御国を相続させていただけるのです。

 

 

 

9節の「贖い」は、神の民が奴隷状態のエジプトから救出されたことを意味します。これが旧約の神の民たちの信仰の土台です。主なる神の一方的な恩寵によって神の民たちは、主なる神と特別な関係に入りました。主なる神は彼らの神となり、彼らは神の民となりました。それが契約です。

 

 

 

主なる神は、主権的に彼らと契約を結ばれました。

 

 

 

わたしたちも同じです。父なる神が一方的にキリストをこの世に遣わされ、彼の十字架と復活の御業によって、わたしたちは罪と死から贖われ、神の子とされました。

 

 

 

9節の御言葉は、主なる神の主権的行為を賛美しているのです。今日も主なる神は主権性によって日曜日に礼拝をなさせ、神の民を集め、主イエス・キリストの十字架と復活の驚くべき御業を知らせて、恵みの契約を実行し、神の民を贖われているのです。

 

 

 

主なる神は聖なるお方で、義なるお方です。憐れみ深く慈しみ深いお方です。そのお方が驚くべき御業によって神の契約を常に遂行し、この世から神の民を贖われ、神の子とされているのです。

 

 

 

だから、詩人は最後の10節でこう言うのです。「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

 

 

 

関根正雄氏は「それらを行なう者みなに良き終わりあり」と意訳されています。

 

 

 

詩人は、父から信仰を学び、「主を畏れることは知恵の初め」という教訓を得ました。人間として生きる幸いの一歩は主なる神を敬い礼拝し、賛美することです。同時にその者は良き終わりを得ているのです。だから彼は永遠に神を賛美します。

 

 

 

この10節の御言葉は、わたしたちにウェストミンスター小教理問答の問1と答を思い起こさせないでしょうか。

 

 

 

「人のおもな目的は何ですか。」「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

 

 

 

詩人は、わたしたちの目的を、神を畏れること、神礼拝というのです。人生のどこにおいても、日曜日の礼拝だけでなく、日常生活において神を礼拝し、賛美することと歌っているのです。その者の最後は良き終わりです。神を永遠に喜び、賛美する終わりです。

 

 

 

どうか、ここに居るわたしたちも神の契約の中に置かれ、神を褒め称え、終わりが御国の喜びであることに感謝しようではありませんか。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編111編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

親から子へと伝えられる信仰に生きる者に、主の祝福を祈ります。どうか主よ、わたしたちの子供たちを憐れみ、わたしたちの信仰に、ウェストミンスター小教理問の信仰に生かしてください。

 

 

 

何時の時代も大変動が起こっております。今、新型肺炎の流行で、世界も経済も混乱しています。

 

 

 

しかし、この詩編111編の詩人が歌っているように、主なる神の偉大な御業に、キリストの十字架と復活の御業を心に留めさせてください。

 

 

 

キリストのみに信頼し、今の世を生かしてください。聖書の神の啓示に、その教えである信仰によって、今この世界に神の救いの歴史があり、実際に神の御救いがあることを確信させてください。

 

 

 

旧約時代の神の民たちが主なる神の導きで、大国間を、大国の興亡の中を生き抜いたように、わたしたちの小さな群れが今の時代に急激な変化する世界と社会の中を生き抜くことができるようにしてください。

 

 

 

教会がキリストの偉大な御業を覚えて、記念し、世の人々に告げ知らせる限り、主はこの教会を正しい者の集いとしてくださることを感謝します。

 

 

 

主が主権的にこの教会の群れをお集めくださり、キリストを通しての神の契約が今も生きており、わたしたちが御国の相続人とされていることを感謝します。

 

 

 

どうか、聖霊に寄り頼み、ここで神の御言葉を聴き続けさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教112               主の2020322

 

ハレルヤ。 ハレルヤ(ヤハを賛美せよ)

 

いかに幸いなことか  幸いである、

 

主を畏れる人 主を畏れる人は。

 

主の戒めを深く愛する人は。 彼の戒めを、彼は非常に喜ぶ。

 

彼の子孫はこの地で勇士となり 地で勇士となる、彼の子孫は。

 

祝福された真っすぐな人々の世代となる。 正しい者たちの世代は祝福される。

 

彼の家には多くの富があり 財産と富が彼の家の中にある。 

 

彼に善き業は永遠に堪える。彼の義は立つ、永遠に。

 

まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。輝き昇る、暗闇の中に光が、正しい者      

 

憐れみに富み、情け深く、正しい光が たちに。恵み深い、憐れみ深い、義し

 

憐れみ深く、貸し与える人は良い人 善い人は、憐れみ、貸す。

 

裁きとき、彼の言葉は支えられる。 裁きにおいて彼の言葉を支持する。

 

主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。 まことに、永遠に彼は揺るがな

 

彼はとこしえに記憶される。 い。義人は永遠に記憶される。

 

彼は悪評を立てられても恐れない。 悪い評判を、彼は恐れない。

 

彼は悪評を立てられても恐れない。 彼の心は、固く主に信頼している。

 

彼の心は堅固で恐れることなく 堅く支えられて、彼の心は恐れない。

 

ついに彼は敵を支配する。 彼が彼の敵たちを見るところまで。

 

貧しい人々にはふるまい与え 彼は極貧の人々にはふるまい与える。

 

その善い業は永遠に堪える。 彼の義は永遠に立つ。

 

彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。 畏彼の角は高く上げられる、栄光の 

 

神に逆らう者はそれを見て憤り 中で。悪人は見て、怒る。                    

 

歯ぎしりし、力を失う。 つ彼の歯で歯ぎしりする。そして彼は溶ける。

 

神に逆らう者の野望は滅びる。 悪人の欲望は滅びる。

 

                   詩編第112110

 

 

 

説教題:「幸いなる人」

 

今朝は、詩編112110節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

先月学びました詩編111編と同じくいろは歌の形式で、すなわち、ヘブライ語のアルファベットの順で、神を賛美した詩編です。

 

 

 

詩編第1編と同様に、「いかに幸いなことか」と112編の詩人は神に賛美しています。この御言葉は、知恵文学に結びついていると考えている学者がいます。

 

 

 

知恵文学は、旧約聖書の文学の一つの形です。一般には人間の日常的経験に基づく知恵を取り扱う文書を指しています。旧約聖書で有名な知恵文学の文書は、ヨブ記、箴言、コレヘトの言葉です。旧約聖書外典の中には知恵の書とシラ書が有名です。

 

 

 

ヘブライ語で知恵のことを「ホクマー」と呼びます。格言や諺、隠喩などの形式によって表現された文章です。隠喩は修辞法の一つで、たとえを言うのに、「・・・のようだ」という言葉を用いないものです。女性の肌の白さを言うときに、「雪の肌」と表現し、人の冷たさを、「氷の刃」と表現することです。

 

 

 

知恵文学は、日常生活の問題を処理する人間の処世術を言うに留まりません。旧約のイスラエルの民たちは、この知恵文学によって世界の根底にある秩序を言い表そうとしたのです。

 

 

 

彼らは、ヨブや箴言の著者、コレヘトのように知恵をもってこの世界、自然の不思議を論じ、現実の不条理に向き合いました。

 

 

 

現実の不条理に向き合うときには、詩編112編の詩人のように、悪人が最後には滅びるという応報の思想を強調し、神の民たちがこの世で直面している苦難に忍耐するように慰めました。

 

 

 

旧約聖書の知恵文学は、エジプトやメソポタミアの知恵文学を取り入れ、預言者活動と結びついて、捕囚期以後に知恵文学として形づくられたと考えられています。

 

 

 

詩編112編の詩人は、幸いな義人と不幸な悪人を対比しています。神に祝福される人と神に裁かれる悪人の人生を対比しています。

 

 

 

これは、詩編第1編と同じです。要するに詩編は、ただ神を賛美する詩ではありません。義人と悪人の人生の末路を教える教訓詩でもあるのです。

 

 

 

詩編112編の詩人は、神に祝福される義人と悪人を対照的に記していますが、29節まで幸いな人、すなわち、神に祝福される義人とはどんな人かを歌っています。悪人については10節で神が義人を祝福することを見て、悔しがり、滅びると言うのみです。

 

 

 

昔、高校の古文の時間に、鴨長明の『方丈記』の冒頭の一節を覚えさせられました。「行く川の流れは絶えずして、留まるためしなし。」この世界は常に流転し、空しいものであると教えられました。

 

 

 

それに加えて不条理な世界でもあります。条件を満たせば、必ず報いられる世界ではありません。

 

 

 

詩人は、一見応報思想で一人の義人の幸いと一人の悪人の滅びを歌っているように見えるでしょう。

 

 

 

詩人は、人の長くて80年の生涯をうたっているのではありません。神が神の民イスラエルの先祖アブラハムを選ばれて、彼と恵みの契約を結ばれて、彼の神となられ、彼と彼の子孫が神の民となってから、およそ1500年の歴史を踏まえて、この詩編を歌っているのです。

 

 

 

世界が時代と共に移り変わり、また、神の民にとって不条理な世界であろうと、天地万物を創造された神は、この世界の中からアブラハムを選ばれて、神を畏れ、礼拝する民を起こされ、アブラハムによって世界の諸国民が祝福される秩序を作られたのです。

 

 

 

その幸いな人こそ、1節の御言葉です。「いかに幸いなことか 主を畏れる人 主の戒めを深く愛する人は。

 

 

 

詩人は、「幸あれ、主を畏れる人、主の戒めを非常に喜ぶ人は」と賛美しています。

 

 

 

神は、アブラハムを召され、奴隷の地エジプトからアブラハムの子孫たちを贖い出されて、彼らにシナイ山で十戒を授けて、神の民イスラエルを創造されました。

 

 

 

そして神は、彼らの主なる神として彼らと彼らの子孫と共に歩まれたのです。

 

 

 

幸いな人とは、神の契約の民です。彼らは、神を主として礼拝し、十戒を非常に喜んで守ろうとしました。

 

 

 

旧約聖書の申命記において主なる神は、指導者モーセを通して神の民イスラエルに神を礼拝し、十戒を守り行う者に祝福を、主なる神に背を向けて偶像を神として拝み、十戒に従わない者に呪いを宣告されました。

 

 

 

そして、詩人が2節で「彼の子孫はこの地で勇士となり 祝福された真っすぐな人々の世代となる。」と賛美するように、神の民イスラエルの12部族は、約束の地カナンを戦い取り、神の嗣業の地としました。

 

 

 

真っすぐな人々」とは、正しい者たちのこと、義人のことです。主なる神を礼拝し、主の戒めを喜び守っていた神の民の世代は、主なる神が約束通り祝福してくださいました。

 

 

 

彼らは約束の地で神の嗣業地を分け与えられ、財産と富が彼らの家々の中にありました。

 

 

 

3節の「彼の善い業」とは、「彼の義」のことです。「」は主なる神との関係のことです。「永遠に堪える」とは永遠に立つことです。神を礼拝し、神の戒めを守る者たちには、神との関係が永遠に成り立つと、詩人は賛美します。

 

 

 

4節の真っすぐな人、すなわち、正しい者たち、義人たちは、神の民イスラエルのことです。4節の「闇の中」とは、バビロン捕囚のことです。彼らは、異教地バビロンで70年間捕囚生活を送りました。

 

 

 

しかし、ペルシア帝国の王キュロスがバビロニア帝国を滅ぼし、捕囚の地から神の民イスラエルを解放しました。

 

 

 

主なる神は、神の民イスラエルを憐れみ、アブラハム契約を忘れることなく、預言者イザヤやエレミヤらが主なる神の御言葉を預言した通りに、神の民をエルサレムに帰還させ、神殿の再建とエルサレムの城壁を補修させて、主なる神を礼拝し、神の戒めを守る神の民を復興してくださいました。

 

 

 

このように幸いな人は、神を礼拝し、神の契約に生きる神の民です。

 

 

 

更に詩人は、5節で幸いな人は、隣人愛の人であると賛美します。具体的には、神の民がすべて豊かであったわけでありません。この世は不条理な世界です。神の民も没落して、貧しくなり、奴隷になる者もいました。

 

 

 

幸いな人は、貧しい同胞を憐れみ、見返りを求めないで施しました。その幸いな人もこの世の不条理で隣人に訴えられることがあります。その裁きの場で彼の弁明の言葉が支持を得ると賛美しています。

 

 

 

69節において幸いな人が「主に従う人」と呼ばれています。義人のことです。

 

 

 

幸いな人は義人です。この場合の義人は、神との関係概念です。彼は神と神との契約の共同体との関係にある者です。

 

 

 

わたしたち日本人キリスト者の信仰は、どちらかと言えば個人的です。本人の信仰によって義とされるという考え方です。だから、義人と言えば、キリスト者本人のことです。

 

 

 

しかし、詩人にとって義人は、神と神の民イスラエルとの関係概念です。神の民イスラエルの共同体の中で神を礼拝し、神の戒めを守る契約の民が義人です。

 

 

 

だから、義人とは、キリスト者本人が義人であるというよりも、神との契約に応じる在り方が義と呼ばれ、神の契約に従って主なる神を礼拝し、主なる神の戒めを守る神の民を義人と呼んでいるわけです。

 

 

 

主なる神は、恵みの契約の中でとこしえにアブラハムを、イサクを、ヤコブを記憶され、モーセと神の民イスラエルを記憶され、ダビデを記憶されます。そして、キリストを通して神の恵みの契約に入れられた新約のキリスト教会を記憶してくださいます。

 

 

 

だから、わたしたちは、神の民イスラエルと同様に、信仰において揺らぐことはありません。第一と第五の主の日の礼拝で使徒信条を信仰告白しています。そこで第三項で聖霊を信じ、公同の教会を信じると告白しています。

 

 

 

この世の不条理の中でこの世にある教会が世の悪評に晒されることは、よくあることです。しかし、教会は常に使徒信条を告白し、はハイデルベルク信仰問答を、ウェストミンスター小教理問答を告白します。それによって詩人が7節で「彼は悪評を立てられても恐れない。彼は悪評を立てられても恐れない。」と賛美している御言葉を、この世の人々に証しするのです。

 

 

 

89節は、幸いな人である神の民イスラエルとキリスト教会の勝利を、詩人は賛美します。神の恵みの契約の中にある教会は、神との関係で常にこの世にあって堅固で恐れることはありません。8節後半の「ついに彼は敵を支配する」は、意訳です。教会の敵を敵として正確に見ることができるという意味だと思います。教会の働きを、神の敵であるサタンが常に妨害していることを、教会が正しく見る時、教会はこの世の誘惑や迫害に耐えることができ、永遠に神との関係を堅持できるのではないでしょうか。

 

 

 

この世に堅く立つ教会、世の光、地の塩となる教会こそ、悪人が最も悔しがることであり、彼らの滅びのしるしなのです。

 

 

 

今朝の御言葉からわたしたちが励まされることは、どんなに小さな教会であっても、神の恵みの契約の中で神礼拝を続け、神の戒めを守ろうとする教会は、この世の変動の中でも、不条理な中でも、主なる神が御自身との関係を固く立ててくださるのです。

 

 

 

そのしるしがキリストの十字架と復活です。神の子キリストが十字架に死なれ、死人の中から復活されることで、世界の諸国民が今、罪の赦しと永遠の命に与る喜びを得たのです。そして、その喜びを今朝も、わたしたちの教会とこの世にある教会がこの世の人々に神礼拝を通して、主の戒めに生きる日常生活のキリスト者たちの証しを通して告げ知らせているのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編112編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

神の恵みの契約を通して、アブラハムから4000年、教会は神を畏れ、すなわち、神を礼拝し、神の戒めを守り続けてきました。

 

 

 

その間世界は変動し、この世の不条理の中で教会も神の民も苦難を受けてきました。

 

 

 

しかし、主なる神は常に神の民との契約を覚えていてくださり、神の民を苦難の中から救われ、神を礼拝し、神の戒めをまもり、神の契約の中に生きる神の民を創造してくださいました。

 

 

 

今朝は、幸いな人が、神の恵みの契約に生きる神の民であることを教えていただき感謝します。

 

 

 

神の民アブラハムからわたしたちの教会まで4000年間、主なる神は恵みの契約によりこの世に神の民、教会を造り、成長させてくださり、感謝します。

 

 

 

わたしたちは、小さな群れでありますが、恐れることなく、神礼拝を続け、神の戒めを守り、親から子へと神との関係に生きる者として祝福してください。

 

 

 

またアブラハムの恵みの契約に従い、日本の国民がキリストの御救いに与れるようにお導きください。

 

 

 

どうか、聖霊に寄り頼み、これからもこの世で命が続く限り、この教会で神を礼拝し、神の御言葉を聴き続けさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教113               主の2020426

 

ハレルヤ。 ハレルヤ(ヤハを賛美せよ)

 

主の僕らよ、主を賛美せよ  賛美せよ、主の僕らよ。

 

主の御名を賛美せよ。 賛美せよ、主の御名を。

 

今よりとこしえに 主の御名が祝福されるように

 

主の御名がたたえられるように。 今から永遠まで

 

日の昇るところから日の沈みところまで 太陽の昇り口から沈み口まで

 

主の御名が賛美されるように。 ほめたたえられる、主の御名は。

 

 

 

主はすべての国を超えて高くいまし 高い、すべての国々の上に、主は。

 

主の栄光は天を超えて輝く。天の上に彼の栄光は。     

 

わたしたちの神、主に並ぶ者があろうか。 だれが比べられよう、わたしたち

 

主は御座を高く置き の神、主に。座するところを高くし、

 

なお、低く下って天と地を御覧になる。 低く下って見る方、天においても、

 

弱い者を塵の中から起こし 地においても。乏しい者を塵の中から起こし、

 

乏しい者を芥の中から高く上げ 屑の中から彼は、貧者を高く上げる。

 

自由な人々の列に 貴人たちと共に、

 

民の自由な人々の列に返してくださる。 民の貴人たちと共に座らせるために。

 

子のない女を家に返し 不妊の女を家に住まわせる方、

 

子を持つ母の喜びを与えて下さる。 息子たちを喜ぶ母として。

 

ハレルヤ。  ハレルヤ(ヤハを賛美せよ)

 

                   詩編第11319

 

 

 

説教題:「わたしたちの神、主に並ぶ者はない」

 

今朝は、詩編11319節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

今朝から学びます詩編113編から詩編118編は、「過越のハレル」と呼ばれています。

 

 

 

「ハレル」とは「ほめたたえよ」という意味です。

 

 

 

1節の「ハレルヤ」は、「主をほめたたえよ」という意味です。この詩編は、主を賛美する歌です。

 

 

 

マルコによる福音書は、1426節で過越の祭の日に主イエスと12弟子たちが最後の食事をし、その食事が終わりますと、「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」と記しています。

 

 

 

詩編113編がハレルヤで始まり、詩編114編で出エジプトの出来事が賛美されています。それゆえに出エジプトの出来事を記念した過越の祭でハレル詩編が歌われました。

 

 

 

出エジプトの出来事は、今から3500年昔に主なる神が旧約時代の神の民イスラエルを、エジプトの奴隷生活から解放し、救われた出来事です。主なる神は、彼らを救われて、シナイ山に導かれ、そこで彼らと契約を結ばれました。すなわち、主なる神は彼らの神となり、彼らは主なる神の民となるという約束です。主なる神は彼らにその約束を守らせるために十戒をお与えになりました。

 

 

 

そして主なる神は、彼らが子々孫々出エジプトの出来事を記念するように、過越の祭を毎年祝うように定められました。

 

 

 

毎年3月から4月に過越の祭を祝いました。そしてその時に過越の食事をしました。その食事の前後に歌われたのが詩編113編から118編でした。

 

 

 

ユダヤ教の言い伝えによると、食事の前に詩編113編と114編が歌われ、食事の後に詩編115118編が歌われました。マルコによる福音書1426節とマタイによる福音書2630節は、主イエスと弟子たちが詩編115118編を歌いながらオリーブ山に出かけたと推測されています。

 

 

 

キリスト教会では、「過越のハレル」の詩編113編、114編、そして118編を、イースター(復活祭)の夕の礼拝で賛美するのが伝統となっていました。

 

 

 

旧約聖書の神の民イスラエルの信仰は、主なる神のみが唯一の神です。この神の他に神はなく、この神と比較できる者はこの全世界にはいません。

 

 

 

だから、詩人は13節でこの主なる神の御名をほめたたえよと、主なる神のみを礼拝するように招いているのです。

 

 

 

ハレルヤ 主の僕らよ、主を賛美せよ主の御名を賛美せよ。今よりとこしえに 主の御名がたたえられるように。日の昇るところから日の沈むところまで 主の御名が賛美されるように。(13)

 

 

 

詩人は、「主の僕らよ」と呼びかけて、彼らをエルサレム神殿の礼拝に招き、そこで主なる神の御名をほめたたえるように命令しています。

 

 

 

主の僕ら」は、主なる神の所有とされた者という意味です。だから、「」は奴隷です。しかし、旧約聖書の中で「」は奴隷を意味するだけでありません。仕えるという意味もあります。エルサレム神殿で礼拝する神の民イスラエルの会衆たちは、主なる神が選び礼拝に召された者たちです。彼らは、主なる神の御名を賛美するという奉仕に仕えるために、主が礼拝に召されたのです。

 

 

 

詩人は、今より永遠に、そして全世界で主の御名が賛美されるようにと賛美しています(23)

 

 

 

主の御名」とは、単に主のお名前という意味ではありません。礼拝に集う会衆に対する主の臨在を意味します。主なる神は、霊であられます。だから、人の目には見えません。また主なる神は天にいまし、人は地にいます。主なる神はいと高き者、超越者です。通常は今ここにおられませんが、主なる神は、礼拝する者たちのために、今ここに臨在してくださいます。これが主の御名であります。

 

 

 

主なる神は、今から永遠に、そして全世界で主なる神を礼拝する神の民に対して臨在してくださるのです。だから、今朝の教会の礼拝が主なる神の臨在によって成り立っているのです。

 

 

 

次に46節で詩人は、わたしたちの神、主の比類なさについて賛美しています。4節では、詩人が主なる神の超越性を賛美します。「主はすべての国を超えて高くいまし 主の栄光は天を超えて輝く(4)と。

 

 

 

5節で詩人は、こう賛美します。「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。

 

 

 

詩人にとって、わたしたちの神、主は唯一のお方です。この世界に主なる神と並び得るものはいません。主なる神は比類なきお方です。

 

 

 

十戒の第1戒は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない(出エジプト記20:2)です。

 

 

 

出エジプトの出来事を体験した神の民イスラエルにとって、主なる神は比類なきお方です。主なる神と比較できる者は誰もいません。

 

 

 

なぜなら、このお方だけが民の指導者モーセを通して神の民イスラエルに御自身を主なる神として顕され、彼らを数々の奇跡を通して奴隷の地エジプトから贖い出してくださったからです。

 

 

 

天にいます超越者なる主がどのようにして彼らを救われたのでしょうか。

 

 

 

詩人は5節後半から6節でこう賛美します。「主は御座を高く置き なお、低く下って天と地を御覧になる」と。

 

 

 

この世界を超えて高くにいます主なる神が自らを低くして、この世界に来られて、彼らを奴隷の地エジプトから救い出されたのです。

 

 

 

主なる神は天の天にいまし、御自身を低くされて天を御覧になり、更に身を低くして地を御覧になりました。

 

 

 

詩人は、主なる神が御自身を低くされて、神の民を救われたと賛美しているのです。これは、神の愛の証しです。

 

 

 

主なる神が身を低くされることで、出エジプトの出来事がこの世で起こりました。エジプトで奴隷であった神の民イスラエルが解放されたのです。

 

 

 

エジプトで貧しい者であった神の民イスラエルは、塵の中から、芥の中から救い出されました。

 

 

 

」は灰のことです。「」は泥のことです。ヨブ記28節はこう記しています。「ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」と。

 

 

 

古代社会では共同体から締め出された者たちは、町の外で塵塚に座らされました。「弱い者」「乏しい者」とは、疫病や貧しさのために村八分にされた者たちです。

 

 

 

主なる神は、御自身の身を低くされ、弱い者と貧しい者を救い上げて、「自由な人々の列に 民の自由な人々の列に返してくださる(8)のです。

 

 

 

「自由な人々」とは、高貴な人々のことです。「列に返してくださる」とは、住まわせてくださるという意味です。

 

 

 

9節で詩人は、「子のない女を家に返し 子を持つ母の喜びを与えてくださる」と賛美しています。

 

 

 

創世記のアブラハムの妻サラは、不妊の女性でした。古代オリエント社会では不妊の女性は夫から離婚を言い渡され、家から追い出されました。有名なハムラビ法典には「子を産まぬ妻と離縁できる」と定められていました。

 

 

 

主なる神の愛と慈しみによって、御自身の身を低くされ、不妊の女性にサラのように子を授けて、母の喜びを与えて、彼女が家に住むことができるようにしてくださるのです。

 

 

 

今朝の御言葉は、クリスマスのメッセージです。クリスマスは、高きにいます神の独り子主イエス・キリストが御自身の身を低くして、人間の身体を取られて、この世に来られ、罪によって滅ぶべきわたしたちを救うために、御自身がわたしたちの罪を背負われ、十字架に死なれました。

 

 

 

また、わたしたちを罪と滅びから引き上げるために、主イエスは十字架の死に至るまで父なる神に従順でした。そしてわたしたちに代わって神の義を獲得してくださいました。主イエスの十字架と復活の御業によって、わたしたちは神の御怒りによって滅ぶべき罪人から、神の御国の相続人である神の子に引き上げられました。

 

 

 

その喜びの中にあるわたしたちは、この詩編113編の詩人が招くこの教会の礼拝に集い、主の御名を賛美するのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編113編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

主なる神は、霊であられ、この世界を超越したお方です。しかし、わたしたちの神、主として、昔神の民イスラエルを、奴隷の地エジプトから救うために身を低くされ、今、わたしたちを救うために、神の独り子主イエスが人となり、わたしたちに代わって十字架に死んでくださいました。

 

 

 

今朝は、わたしたちの神、主は並ぶものなきものであり、同時にその方が身を低くされ、価値無き者たちを救われ、御国の民に引き上げてくださった主なる神の愛と慈しみを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

わたしたちも、神の独り子主イエス・キリストが身を低くされ、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われ、わたしたちの罪を担われ、わたしたちのために神の御前に義を得てくださり、滅ぶべきわたしたちが神の子とされ、御国の相続人されたことを感謝します。

 

 

 

どうか、主イエスの御救いに感謝し、主の日の礼拝ごとに主の御名を賛美させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。