詩編説教116               主の2020年7月26日

わたしは主を愛する。わたしは主を愛する。

主は嘆き祈る声を聞き まことに主は聞かれる、わたしの嘆き祈る声を。

わたしに耳を傾けてくださる。 主はわたしに耳を傾けてくださるから、

生涯、わたしは主を呼ぼう。 そしてわたしの日々、わたしは呼ぼう。

 

死の綱がわたしにからみつき わたしを取り囲んだ、死の縄が

陰府の脅威にさらされ 陰府の責め苦がわたしに臨んだ。

苦しみと嘆きを前にして わたしは苦しみと嘆きに出会った。

主の御名をわたしは呼ぶ。 そして主の御名を、私は呼ぼう。     

「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」「ああ主よ、わたしの魂を逃

れさせてください。」

主は憐れみ深く、正義を行われる。 主は恵み深く正しく、

わたしたちの神は情け深い。 わたしたちの神は憐れみ深い。

哀れな人を守ってくださる主は 主は未熟な者を守られる。

弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしは低められた。すると彼はわたし

わたしの魂よ、再び安らうがよい を救った。帰れ、わたしの魂よ、わたしの

主はお前に報いてくださる。 憩いの場に。主がお前に報いてくださるから。

 

あなたはわたしの魂を死から まことにあなたは助け出した、わたしの魂を死

わたしの目を涙から から。わたしの目を涙から

わたしの足を突き落とそうとする者から わたしの足をつまずきから。

助け出してくださった。 

命あるものの地にある限り わたしは歩もう、主の御前で、生ける者の地で。

わたしは主の御前に歩み続けよう。 

わたしは信じる わたしは信じた。

「激しい苦しみに襲われている」と言うときも わたしは「とても惨めである」

不安が募り、人は必ず欺く、思うときも。と言うときも。わたしは不安にから

                   れ、「人はすべて欺く」と言った時も。

主はわたしに報いてくださった。 何をわたしは返せるだろうか、主に。

わたしはどのように答えようか。 わたしの上に施された主の恵みのすべてに。

救いの杯を上げて主の御名を呼び 救いの杯を、わたしは上げよう。そして主

満願の献げ物を主にささげよう  の御名を、わたしは呼ぼう。わたしの誓願

主の民すべての見守る前で。を、主に、わたしは果たそう。さあ彼の民すべての前で。

主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。主の目に貴い、彼の聖徒たちの

どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。 死は。主よ、まことに

わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、わたしはあなたの僕、あなたの

わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。婢の子、わたしの枷を解いてく

あなたに感謝のいけにえをささげよう ださった。あなたにわたしは献げよう、

あ主の御名を呼び 感謝の犠牲を。そして主の御名を、わたしは呼ぼう。

主に満願の献げものをささげよう わたしの誓願を、わたしは果たそう。

主の民すべての見守る前で さあ彼の民すべての前で。

主の家の庭で、エルサレムのただ中で。主の家の前庭で、エルサレムよ、

ハレルヤ。  あなたの真ん中で。 ハレルヤ。

                   詩編第116119

 

説教題:「われらの死は主の目に価高い」

さて、今朝の詩編116編は、個人の感謝の歌であります。

 

 今朝の詩編116編は、詩人が経験した主なる神の恵み、救いに対して感謝の応答として、彼は生涯エルサレムの神殿で主なる神を礼拝し、賛美し、主の僕として仕え、服従して生きると歌っているのです。

 

34節と811節において、詩人が重い病と苦難から主なる神に救われた体験と彼がどんなに主なる神に信頼しているかを、57節、10節において歌っています。

 

そして、詩人は、主なる神の恵みの救いに対する感謝の応答を、神殿の礼拝において満願の献げ物を主なる神にささげることで、すると歌っているのです。

 

それが、2節、9節、1214節、1719節です。

 

詩人は、主なる神に瀕死の状態の時に、回復を祈りました。その祈りを、主なる神は聞き届けてくださり、彼を癒されました。また、彼は悪人(不信仰な者)に苦しめられました。命を狙われ、不安の中で、周りの人々には欺かれ、まさに四面楚歌の中で主なる神に苦難からの救いを祈りました。

 

主なる神は、5節で詩人が「主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。」と告白し、賛美していますように、彼の主なる神への信頼と祈りに答えてくださり、彼を苦難の中からヨブ記のヨブのように救い出してくださいました。

 

67節を御覧ください。「哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。」

 

「哀れな人」は、詩編198節と詩編119130節では「無知な者」(口語訳)と訳しています。昨年12月に聖書協会は新しい日本語訳聖書が出版しました。『聖書協会共同訳』です。それには、「未熟な者」と訳しています。「経験の足りない者」という意味です。

 

詩人は老人ではありません。若いと言っても、30代、40代だったでしょう。人生これからという若さで、重い病で瀕死の状態になりました。老いを重ねて、人の偽りを見抜く経験もなく、身を命の危険にさらしました。

 

「哀れな人」は意訳です。訳者が病める詩人、苦難の詩人をイメージしたのでしょう。若き日々を、重い病気で苦しみ、悪人に苦しめられて、人生の苦境に立ち、毎日死と向き合い、詩人は死の恐怖と涙で過ごしていました。そのイメージから「哀れな人」「弱り果て」という言葉が生まれたのでしょう。「弱り果て」は「低められ」「貶められ」(口語訳・新改訳)という意味の言葉です。

 

 詩人は、未熟な者で人生経験が足りなかったでしょう。若いのに重い病を得て、日々苦しみ、涙で過ごしたでしょう。また、悪人、すなわち、身近にいる不信仰な者たちに欺かれて、命の危険に陥ったでしょう。

 

しかし、彼は、1節で「わたしは主を愛する」という信仰体験をしたのです。詩人は感謝するのではない。主なる神を愛するという信仰体験をしました。

 

その主を愛するという信仰体験をした理由は、2節で「主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。」という彼の体験にあります。

 

彼は、明確に表現しませんが、わたしは、この詩人の「わたしは主を愛する」という告白を、こう理解します。彼が主を愛するのは、主が彼を愛されたからです。

 

詩人が瀕死の状態から回復され、命の危険から救い出されたのは、主なる神の憐れみであり、正義でありました。主なる神は神の民との契約を忠実に守られました。だから主は彼の祈りを聞き入れてくださいました。彼の病を癒され、彼を命の危険から救い出してくださったのです。主なる神が民との契約に忠実であられることこそ、神の真実であり、愛です。

 

主なる神は彼の先祖アブラハムと契約を結ばれました。彼と彼の子孫の神となられ、アブラハムと彼の子孫は神の民となりました。それから主なる神は、奴隷の地エジプトから解放した神の民イスラエルとシナイ山で契約を結ばれました。主なる神は彼らの神となられ、彼らは主なる神の民となりました。

 

こうして神の民が主なる神の御前に生きることこそ、彼らにとって命の道となりました。詩人は、救いの体験を通して契約の神である主が恵み深く、正義を行われ、誠実で、愛あるお方であると信じ、信頼したのです。

 

だから、彼は、主なる神を愛して、生涯、主の御名を賛美し、エルサレム神殿で主なる神を礼拝し続けると歌っているのです。それが、詩人にとって死から救われた者の命の道なのです。

 

この詩編からわたしたちが学びますことは、神への信頼はわたしたちの祈りが神さまに聞かれたという信仰体験にあることです。

 

詩人は、その信仰体験によって主なる神が神の民イスラエルの契約の神であることの恵みを体験しました。その告白が「主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い」です。だから、彼は、続けて10節でこう告白するのです。「わたしは信じる 『激しい苦しみに襲われている』と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。」

 

詩人は、主なる神が契約の神として、彼がどんな絶望の状態にあろうと、命の危険にあろうと、真実で、誠実で、愛あるお方であることを信じると歌っています。

 

話は脱線するかもしれませんが、わたしは口語訳聖書、新改訳聖書、そして新共同訳聖書を礼拝で使用する聖書として用いてきました。近年の聖書学の格段の進歩によってわたしたちは、聖書の原文に近い翻訳聖書を読めるようになりました。これは素晴らしいことです。しかし、わたしたちの心に響く信仰の言葉は学問の進歩とは関係がないようです。

 

56節の御言葉を、口語訳聖書は次のような日本語で訳しています。「主は恵み深く正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる。主は無学な者を守られる。わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。」

 

この詩編で次に学びますことは、真逆の真理です。わたしたちの幸福は、毎日が楽しいことですか。この世おいて富めることですか。人生で成功することですか。有名な大学に合格し、一流と呼ばれる企業に就職し、学者となり、博士となり、名誉を得ることですか。健康でスポーツができることですか。毎日自分の意志で自由に生きることですか。

 

主なる神に救われた詩人は、そのようなこの世の人々の求める幸せに背を向けています。この世の人々の全く関心のない神を礼拝する人生に幸いを見出だしています。

 

主なる神に瀕死の状態から回復され、命の危険がある苦難から救われたのに、彼はなおこの世において自分の身に苦難があり、不安がある時も、主なる神に信頼すると告白しています。

 

詩人は、自由であること、富めることを賛美していません。むしろ、1219節で詩人は、主なる神に救われた恵みに、どう答えようかと言って、主なる神に主の僕、すなわち、主なる神の奴隷として服従を誓っています。

 

主なる神のために、自分の身を不自由にして、主なる神の民として生涯生きると誓っています。

 

15節で詩人が「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。」と歌っていますね。聖書協会共同訳は、「主に忠実な人たちの死は 主の目に重い」と訳しています。原文に忠実な訳です。

 

「主に忠実な人たち」とは、聖徒たちのこと、神の民イスラエルとキリスト者たちのことです。主なる神の契約に忠実に従って生きている者たちのことです。詩人は、彼の癒しの体験と苦難からの救いの体験を通して、主なる神は御自身の契約に忠実に生きる神の民たちを空しく滅ぼすようなお方ではないと、信頼しているのです。

 

この世の人々が目を背けること、見たくないと思うもの、何よりもこの世の人々は自分が低められることを避けようとします。病気になること、貧しくなること、無視されること等です。

 

しかし、詩人は、神の民の死を、主なる神は尊ばれると歌っています。そして詩人は、続いて16節で主に救われた自分が主の奴隷であると告白します。彼は、主の御前に一生涯主の奴隷として低められた人生を生きると誓っているのです。

 

このようにお話ししていて、わたしがこの詩編を理解しているのかは、疑わしいです。健康が与えられ、身に危険がなく、ほどほどに自由に生き、悩みと言っても、死ぬほどの苦しみではなく、毎日涙を流すこともなく、不安に恐怖することもなく、今日の一日を感謝して、過ごしているのです。

 

しかし、幸いなことは、信仰の体験は自分が体験しないと理解できないわけではありません。わたしたちの感性は共感するという神の恵みの賜物があります。

 

ご存知の方もあると思います。ニューヨーク大学にあるリハビリテーション研究所の壁に、次のような詩があります。

 

大きなことを成し遂げるために/力を与えてほしいと神に求めたのに/謙遜を学ぶようにと弱さを授かった/偉大なことができるように/健康を求めたのに/よりよきことをするようにと病気を賜った/幸せになろうとして/富を求めたのに/賢明であるように/貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして/成功を求めたのに 得意にならないようにと失敗を授かった/求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞きとどけられた 神の意に添わぬ者であるにもかかわらず 心の中に言い表せない祈りは/すべて叶えられた 私は最も豊かに祝福されたのだ

 

詩編116編は、現代この詩によって再びわたしたちの心に届けられているのです。116編とニューヨーク大学の研究室にあるこの詩は、次代を越えて主なる神の契約に生きる神の民の幸いを教えています。それは、人が求めて得るものではなく、主なる神の愛に答えて、主なる神の祝福の中を生きることなのです。

 

そのために詩編116編とこの詩の間で神の愛を主イエス・キリストが現わしてくださいました。御自身の身を低くして、神の御子が十字架の死に至るまで父なる神に服従されました。そのキリストのヘリ下りによって、わたしたちはこの世で得られない永遠の命に祝福に与っているのです。

 

 お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編116編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

どうか、詩人のように、わたしたちも主なる神が祈りに答えてくださったという信仰体験を通して神を愛する信仰へ、神を信頼する信仰へとお導きください。

 

今朝の詩編の御言葉を通して、わたしたちは真逆の真理を教えられました。この世が求めるものが、わたしたちを幸いにするのではなく、幸いはわたしたちの低さに関わらず、神が与えてくださる祝福であるということを学び感謝します。

 

どうか、キリストの十字架の愛に答えて、主の僕として、この教会で礼拝生活を過ごさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教117             主の2020823

すべての国よ、主を賛美せよ。賛美せよ、主を、すべての国々よ。

すべての民よ、主をほめたたえよ。彼をほめたたえよ、すべての民よ。

主の慈しみとまことはとこしえに まことに、力強い、わたしたちの上に、

わたしたちを超えて力強い。 主の慈しみは。そして、主のまことは永遠に。

ハレルヤ。 主を賛美せよ。

                   詩編第11712

 

説教題:「世界の民よ、主なる神を賛美せよ」

 

今朝は、詩編第11712節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編は、讃美の詩編です。詩編150編の中で一番短い詩編です。しかし、この詩編の内容は、神の民イスラエルを超えて、全世界の民に向けられた壮大なものです。

 

「すべての国よ」「すべての民よ」とは、「世界の民よ」という意味です。どうして117編の詩人は、世界の民に主なる神を賛美せよ、ほめたたえよと命じているのでしょう。

 

確かに命令形ですが、世界の民を、主なる神への賛美へと招いていると言う方がより正確だと思います。

 

 詩人は、1節で「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。」と、全世界の民に呼びかけています。

 

 2節で、詩人は、1節で全世界の民が主なる神を賛美し、ほめたたえる理由を述べています。「主の慈しみとまことはとこしえに わたしたちを超えて力強い。」

 

 2節の「主の慈しみとまこと」の「慈しみ」は、ヘブライ語の「ヘセド」という言葉です。「慈しみ」「憐れみ」「愛」という意味の言葉です。選民イスラエルへの神の不変の愛を表す言葉です。

 

 旧約聖書において唯一の神である主なる神は、神の選びの民であるイスラエルに対して不変の愛を、契約という形で聖書の歴史を通して表されました。

 

 主なる神が族長アブラハムを召し出して、ウルからカナンへと導かれました。主なる神はアブラハムとそこで恵みの契約を結ばれました。「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と。そして、主なる神は、アブラハムを諸国民の祝福の源とされました。

 

こうして主なる神はアブラハムからモーセへと恵みの契約を更新されました。主なる神は奴隷の地エジプトからイスラエルの民を救い出されました。そしてシナイ山でモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれました。「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」そして、主なる神は神が選ばれた民イスラエルを、祭司の国とし、全世界の民の祝福の基とされました。

 

こうして神の民イスラエルは、荒れ野の40年の後、約束の地カナンに導かれ、相続地が与えられ、定住しました。

 

しかし、平和は長く続きませんでした。神の民イスラエルが主なる神を捨て、カナンの神々、大国の神々を偶像礼拝し、主なる神との契約を破ったからです。彼らは、主なる神との契約に不忠実でした。シナイ山で主なる神から賜った十戒を守ることができませんでした。

 

それゆえに主なる神の怒りと刑罰により、他国に侵略され、飢饉等の自然災害に遭い、ついには他国に捕囚されました。

 

しかし、聖書は神の民は主なる神に不忠実であったが、主なる神の民に対するヘセド、不変の愛は変わらなかったことを証ししています。

 

主なる神はカナンに定住した神の民が御自身を捨てて、偶像礼拝の悪を行うと、他国の民を用いて彼らを支配させ、罰せられますが、恵みの契約を覚えて、士師、すなわち、神の民の救世主を送って、彼らを救われました。また、ダビデを始め、王を立てて、彼らを守られました。

 

そして、神の民がなおも主なる神を捨て、他国の神々を偶像礼拝し、悪を行なうゆえに、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、神の民たちは捕囚され、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、エルサレムの都と神殿は破壊され、神の民たちはバビロニア帝国に捕囚されました。

 

しかし、主なる神の、神の民イスラエルに対するヘセド、不変の愛は変わりませんでした。主なる神はペルシア帝国の王クロスによってバビロニア帝国の捕囚の神の民を解放され、エルサレム神殿と都の城壁を再建、修復させられました。そして、主なる神は、神の民イスラエルと再びエルサレムの第二神殿の礼拝を通して交わりを回復されました。

 

このように選民イスラエルは、主なる神の不変の愛によってこの世に存在し続けて来たのです。

 

主なる神の「まこと」とは、ヘブライ語のエメトです。真実、真理、誠実のことです。偶像は偽りであり、主なる神は永遠に真実です。それゆえに神の民イスラエルが恵みの契約に対して不忠実でも、主なる神は誠実であります。

 

だから、詩人は、主なる神のまことが永遠であると賛美します。

 

詩人は2節で「わたしたちを超えて力強い。」と賛美していますね。岩波書店の旧約聖書翻訳委員会訳では、こう訳しています。「まことにかれの恵みはわれらを圧倒し、ヤハウェの真実(まこと)はとこしえに。」。

 

詩編117編は、歴史的背景がありません。いつの時代であるか、その手掛かりは、この詩人が全世界の民に向けて、すなわち、万国民に向けて主なる神を賛美するように促している点です。

 

選民イスラエルだけではなく、全世界の民が主なる神を礼拝する幻を、この詩人は描いています。

 

 どうして詩人は、主なる神が神の民イスラエルに示された不変の愛と真実のゆえに全世界の民を主なる神への賛美に招こうとしているのでしょうか。

 

 それは、主なる神こそが唯一の神であり、真実だからです。他の神々は偶像であり、偽りであるからです。

 

 神の民イスラエルを通して、主なる神は唯一のまことの神として、彼らに不変の愛をこの世界の中で圧倒的な力として示されました。出エジプトの出来事を、バビロン捕囚からの解放を、詩人は思い巡らせているでしょう。主なる神は唯一の神として、神の民の不誠実に対して、偶像の偽りに対して、不変の愛と真理をとこしえに示されています。

 

 そして、主なる神のヘセド、不変の愛とまことが、今や主イエス・キリストの十字架を通して実現しているのです。

 

 なぜなら、恵みの契約は、選民イスラエルを通して、世界の諸国民に神の祝福が及ぶものであるからです。主なる神は神の御子主イエス・キリストの受肉と十字架と復活の御業を通して、圧倒的な恵みを、この世界と歴史の中に現わされました。

 

 主なる神は、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という約束を、主イエス・キリストの受肉によって、「神我らと共にいます」という圧倒的な恵みを示されました。

 

 そして、我らと共にいます神、主イエス・キリストは、人として、神の律法を守れず、滅び行く者に代わって、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われて、義を得、そして、彼らの身代わりの罪の刑罰を御自身の身に受けられました。

 

 この神の圧倒的な恵みによって、罪に滅ぶべきわたしたちが、主イエスを救い主と信じて、主イエスが得られた義をいただき、そしてわたしたちの罪は主イエスが十字架に負われたのです。

 

 こうしてわたしたちは、主なる神の不変の愛によって、憐れみによって罪と死から救われ、永遠の命を与えられたのです。

 

 このように主なる神のヘセドとエメトが永遠であることが、神の民の不誠実と弱さにもかかわらず、そしてわたしたちキリスト者の不誠実と弱さにもかかわらず、勝ち得てあまりある圧倒的な恵みの御力なのです。

 

 主イエスのヘセドとエメトがとこしえに絶えないものであるゆえに、わたしたちは主イエスの受肉と十字架と復活にわたしたちの救いを確信することが許されています。

 

 旧約の民も新約のわたしたちも、この詩人の呼びかけに答えて主なる神を、主日礼拝ごとに賛美しましょう。

 

使徒パウロもローマの信徒への手紙第1511節で詩編1171節を引用して、こう言っています。「異邦人が神をその憐れみゆえにたたえるようになるためです。」「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ。」そして、パウロは、こう結んでいます。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ15:13)

 

 わたしたちは、主日礼拝を小さな群れで守っていますが、わたしたちが主なる神を賛美しますとき、わたしたちの教会は世界の教会の神賛美と一つとなり、主イエス・キリストの救いの御業を褒め称え、神の恵みの圧倒的な勝利の中にいるのです。

 

 お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編117編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

小さな詩編の中に主なる神の圧倒的な恵みが隠され、わたしたちの思いを超えた神の救いの御業を見聞きさせていただき、心から感謝します。

コロナウイルスと夏の猛暑の中、体調を損ねて礼拝を休まれる方ががいますが、主に守られて、今朝の詩編の御言葉を通して、主なる神の恵みの圧倒的な御力を、今信仰体験できたことをうれしく思います。

 

小さな群れですが、大きな声で主なる神を賛美させてください。今わたしたちだけではなく、世界中の教会が主イエス・キリストの圧倒的な恵みを覚えて、わたしたちと共に神賛美をしています。

 

教会とキリスト者が主なる神のヘセドエメトゆえにこの世において神の恵みの勝利の中にあることを、喜びをもって覚えさせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教118               主の2020年9月27

恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。感謝せよ、主に。まことに

イスラエルは言え。 慈しみはとこしえに。永遠に彼の慈しみは。さあイスラ

アロンの家は言え。 慈しみはとこしえに。エルは言うように、まことに永遠

主を畏れる人は言え。  慈しみはとこしえに。に彼の慈しみは。さあアロン

家は言うように、まことに永遠に彼の慈しみは。

苦難のはざまから主を呼び求めると さあ言うように、主を畏れる者は、まこと

主は答えてわたしを解き放たれた。に永遠に彼の慈しみは。苦難の中からわた

主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。しは主を呼んだ。わたしに答えた、

人間がわたしに何をなしえよう。広い所で主は。主がわたしに、わたしは恐れ

主はわたしの味方、助けとなって ない。何を行うわたしに、人は。主がわた

わたしを憎む者らを支配させてくださる。しに、わたしを助ける者たちの中に

人間に頼らず、主を避けどころとしよう。だからわたしは、わたしは見るわた

しを憎む者たちを。良い、主の中に

国々はこぞってわたしを包囲するが 逃げ込むことは、人に頼るよりも。すべ

主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。ての国々はわたしを囲んだ。主

彼らは幾重にも包囲するが の名によって、まことにわたしは彼らを断ち切る。

主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。彼らはわたしを囲んだ。またわ

蜂のようにわたしを包囲するが たしを囲んだ。主の名によって、まことに

茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。わたしは彼らを断ち切る。彼らはわたし

主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。を囲んだ、蜂のように。揺らめ

いた茨の火のように。主の名によって、

激しく攻められて倒れそうになったわたしを まことにわたしは彼らを断ち切

主は助けてくださった。る。お前はわたしを押しに押した、わたしを倒すため

主はわたしの砦、わたしの歌。に。しかし、主はわたしを助けた。わたしの力

主はわたしの救いとなってくださった。と賛美、主は。そして彼はわたしのた

御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。めに救いとなった。歓喜と救

主の右の手は御力を示す。いの声が義人たちの天幕の中に。主の御手は御力を

主の右の手は高く上がり 為す。主の右手は高く上がる。

主の右の手は御力を示す。主の右手は御力を為す。

 

死ぬことなく、生き長らえて わたしは死なない。まことにわたしは生きる。

主の御業を語り伝えよう。そして主の御業を物語ろう。

主はわたしを厳しく懲らしめられたが わたしを懲らしめに懲らしめた主は。

死に渡すことはなさらなかった。しかし、死に、彼はわたしを渡さなかった。

 

正義の城門を開け 開けよ、わたしのために義の門を。

わたしは入って主に感謝しよう。わたしは入ろう、それらの中に。感謝しよう、

これは主の城門 主に。これは主の門。

主に従う人々はここを入る。義人たちはその中に入る。

わたしはあなたに感謝をささげる わたしはあなたに感謝する。

あなたは答え、救いを与えてくださった。まことにあなたはわたしに答え、

わたしのために救いになられた。

家を建てる者の退けた石が 建てる者たちが蔑んだ石が

隅の親石となった。 隅の頭になった。

これは主の御業 主からである、それは。

わたしたちの目には驚くべきこと。それは、わたしたちの目には不思議。

今日こそ主の御業の日。これは今日、主が行なった。

今日を喜び祝い、喜び踊ろう。わたしたちは喜び踊ろう、そして喜ぼう、主に

どうか主よ、わたしたちに救いを。あって。ああ主よ、どうか救い給え。

どうか主よ、わたしたちに栄えを。ああ主よ、どうか繁栄させ給え。

 

祝福あれ、主の御名によって来る人に。祝福されるように、主の御名によって

わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。入る者は。わたしたちは祝福

主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。するあなたたちを、主の家から。

祭壇の角のところまで 主は神、そして彼は照らした、わたしたちを。縛れ、

祭りのいけにえを綱でひいて行け。祭のいけにえを、綱で。祭壇の角まで。

あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。あなたはわたしの神である。

わたしの神よ、あなたをあがめる。わたしはあなたに感謝する。わたしの神、わたしはあなたをあがめる。

恵み深い主に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。感謝せよ、主に。なぜなら良い、まことに永遠に、彼の慈しみは。

                   詩編第118129

 

説教題:「恵み深い主に感謝せよ」

 

今朝は、詩編第118129節の御言葉を学びましょう。

 

イングリシュバイブルは、1節と29節を、次のように英訳しています。「主に感謝することは善いことです。なぜかというと、彼の愛は永遠に続くから」。

 

1921節で詩人が歌っているように、主に従う神の民たちがエルサレム神殿で主なる神に感謝することは、善いことである、と詩人は賛美します。その理由は、主の慈しみが永遠に続くからです。

 

詩編118編は、神の民が過越の祭の時に賛美した詩編113編からのハレルヤ詩編の最後のものであります。

 

この詩編は礼拝用の詩編として用いられました。とても洗練された、整えられたものです。1節と29節の御言葉がこの詩編全体を取り囲み、主なる神への感謝の賛美が歌われています。

 

詩人は、神の民に呼びかけています。エルサレム神殿で主なる神に感謝することは、善いことであると。高らかに呼びかけています。その理由は、神殿の礼拝こそが神の慈しみ、すなわち、神の愛がまことに永遠に続くからです。

 

詩人が主なる神に「感謝せよ」と呼びかけるのは、2節の神の民、イスラエル、3節のアロンの家である神殿の祭司たち、そして4節の「主を畏れる人」である異邦人たちです。

 

神殿で礼拝を司る祭司が「恵み深い主に感謝せよ」と神殿に集まりました神の民全体に呼びかけます。すると、神の民全体、すなわち、会衆が「慈しみはとこしえに」と答えるのです。

 

これは、礼拝の交読文です。14節と29節の前半を祭司が読み、後半を会衆が読んだのでしょう。

 

紀元前515年にゼルバベルと大祭司ヨシュアの指導の下、バビロン捕囚から帰還した神の民たちは、かつてのソロモン王が建立したエルサレム神殿のところに第二神殿を建て上げました。

 

それから60年後の紀元前445年に総督ネヘミヤがエルサレムに帰還し、エルサレムの都の城壁を修復しました。

 

おそらくこの詩編は、バビロン捕囚からの解放と神殿とエルサレムの都の再建という背景の中で作られたと思います。

 

この詩編は、二つの内容から成り立っています。518節と1928節です。

 

518節で、主なる神に救われた「わたし」、すまわち、神の民イスラエルの体験を、詩人が報告しています。

 

1928節で、祭司と会衆の代表者が交唱しています。主なる神が神の民を救われたという彼らの救いの経験に基づいて、神の民たちの主なる神への感謝を、礼拝という形でなしています。

 

5節の「苦難のはざまから主を呼び求めると 主は答えてわたしを解き放たれた。」という御言葉は、出エジプト記の22325節の御言葉が思い起こされます。詩人は、出エジプトの事件を思い起こし、讃美しています。

 

詩人の先祖たちは、エジプトで奴隷生活を体験しました。彼らは、重い労働のゆえに主なる神に向けて呻き、叫びました。主なる神は彼らの助け求める声を聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされました。そして主なる神は彼らのところに訪れられ、モーセを通して彼らを奴隷状態から解放されました。

 

詩人は、自分たちのバビロン捕囚からの解放を、出エジプトの先祖たちの信仰体験に重ねているのです。

 

詩人は、バビロンでの苦難の中から彼らが助けを叫び求めると、主なる神が答えてくださったと言っています。

 

主なる神は、ペルシャ帝国のクロス王を起こして、神の民イスラエルをバビロンから解放されました(紀元前539)

 

出エジプトした神の民たちが主なる神とモーセを信頼したように(出エジプト記14:31)6節で詩人は主なる神を信頼すると、告白します。

 

主なる神は出エジプトした神の民の味方になられました。だから、エジプトの王もエジプトの軍隊も何もできませんでした。彼らは、紅海の海に沈み滅んでしまいました(出エジプト記15:121)

 

同じように主なる神は、バビロンからエルサレムに帰還した神の民イスラエルの味方です。だから、周りの諸国の敵たちが神の民に何もできません。

 

7節後半の「わたしを憎む者らを支配させてくださる」は、意訳です。文字通りには、「わたしは敵を見る」です。イングリシュバイブルは、7節を次のように英訳しています。「主はわたしの味方、わたしの助け手、そしてわたしはわたしの敵たちを満足して眺めるだろう」。

 

だから、89節で詩人は、主なる神の救いに対する神の民の応答として、主を頼り、主を避けどころとし、人や王を頼らないと言うのです。

 

詩人、すなわち、神の民たちは、出エジプトとバビロン捕囚からの主なる神の救いという体験を通して、次のことを学びました。主なる神を信頼することこそが、この世のあらゆる困難や敵に打ち勝つ勝利であると。

 

1016節で詩人は、再び苦難からの主なる神の救いを報告しています。そして続いて詩人は神の民たちの喜びの声を、15節で伝えています。

 

この事件は、南ユダ王国のヒゼキヤ王の時代に起こったことです(列王記下18:1337)。ヒゼキヤ王がアッシリア帝国に反旗を翻し、アッシリア帝国がエルサレムの都を包囲しました。ヒゼキヤ王は、主なる神のみに信頼を寄せました。

 

アッシリア帝国の軍隊が蜂のように大勢で群れをなし、エルサレムの都を攻撃に攻撃を加えました。主なる神はヒゼキヤ王と神の民たちを助けられました。主なる神はアッシリア帝国の軍隊を一夜にして185000人打たれました。

 

救われた神の民たちは歓喜しました。このように主なる神は、常に神の民たちに御自身の右の手の御力を、神御自身の御力をお示しになりました。

 

同様に主なる神は、バビロニア帝国のネブカドネツアル王を道具に用いられ、神殿と都を破壊し、多くの神の民たちの命を奪われました。しかし、主なる神は、神の民を憐れみ、残りの者を取って置かれました。神の民を懲らしめに懲らしめられましたが、滅ぼし尽くされませんでした。主なる神は、バビロン捕囚で神の民を残して置かれました。

 

詩人は、神の民が苦難を通して神の慈しみを知りました。17節で詩人は、次のことの意味を理解しました。神の民たちがバビロンの地で死ぬことなく、生き長らえて、再びエルサレムの都に帰還できたことです。主なる神の慈しみに裏打ちされた神の民への刑罰であったと。

 

だから、神の民たちと詩人は生きなければなりません。どんなにこの世が過酷で苦難に満ちていようと、生き長らえなくてはなりません。どんなに主なる神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約に忠実で、神の民をまことに永遠に慈しまれていることを、後の世代に伝えるためです。その中心がエルサレム神殿での礼拝なのです。そこで主なる神に感謝することなのです。

 

そこで詩人は、1925節で神の民の代表者の言葉を語っています。

 

神の民の代表者が19節で「正義の城門を開け わたしは入って主に感謝しよう」と、おそらく神殿の祭司に呼びかけているのでしょう。

 

「正義」とは、義、すなわち、主なる神の救いです。主なる神の救いの門を開けよと、神の民の代表者が祭司に呼びかけています。

 

わたし(神の民イスラエル)は神殿の義の門から内庭、すなわち、神の民が主なる神を礼拝するところに入って、主なる神に感謝の献げ物を供えて、礼拝しようとしているのです。

 

主イエスが次のように言われていますね。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす人は少ない。」(マタイ7:1314)

 

どのように主イエスの御言葉とこの詩人の言葉が結びつくのでしょうか。命に至る門は一つしかありません。

 

それは狭い門です。主に従う人しか入れないからです。

 

よくいろんな宗教があることを、山の登山にたとえる人がいます。登リ口は違っていても、山の頂上は一つだというたとえで、宗教は違っていても、行き着く神さまは同じだと言うのです。

 

ところが、聖書と主イエスは、永遠の命に至る門、すなわち、入口は一つであり、門を間違えれば、命に至らず、滅びに至ると言います。

 

なぜなら、聖書の神は隠れた神ではありません。神は御自身を主なる神として、神の民に顕されました。そして、わたしたちには、イエス・キリストとして顕されました。

 

だから、詩人は、永遠の命に至る門は、主に従う人が入るエルサレム神殿の義の門だと言います。主なる神に感謝し、主なる神を崇めて礼拝する門に入る者だけが、永遠の神の愛に、神の命に満たされるのです。そこでこそ神に救われた喜びがあるのです。

 

主イエスの言われる「狭き門」も、主イエスに従う人が入る門です。教会の門に入り、主イエスを礼拝し、主イエスに救われたことを感謝し、主イエスのみがわたしの救い主だと公に告白するのです。

 

だから、詩人が17節で「主の御業を語り伝えよう」と歌っているのは、具体的にいうと、旧約の神の民たちはエルサレム神殿で礼拝することであり、新約のキリスト者たちは教会で毎週日曜日に礼拝することです。

 

ですから、詩人は、彼自身が神の民の代表として、エルサレム神殿の義の門を通り、神殿の中庭で主なる神に感謝の犠牲を献げて、主なる神を崇めて、礼拝することこそ救いであると言っているのです。

 

さて、神の民の代表は、21節で主なる神の救いに対して感謝を意思表示しています。そして2225節で彼は主なる神の御救いの御業を報告しています。

 

有名な隅の親石のたとえです。エルサレム神殿の礎です。土台のことです。神殿を建築する時に、建てる者たちがこの石は不要であると言って、棄てたのです。ところがその石は神殿の門を支える要石だったのです。

 

ここでは、詩人は、一度主なる神に捨てられた神の民イスラエルのことをたとえているのです。今や神の民イスラエルは第二神殿を中心とする共同体の礎となっているのです。

 

そして、主イエスが、この御言葉を御自身に当てはめておられます。マルコによる福音書12章で主イエスは、神殿の境内で祭司長や律法学者、長老たちにぶどう園と農夫のたとえ話をされました。ぶどう畑で働く農夫たちが主人の遣わした僕たちを殺し、主人の跡継ぎの子どもも殺して、ぶどう園を奪いました。そして主イエスは、彼らに主人は農夫たちをどうするかと尋ねられました。そして御自分でお答えになり、主人は農夫たちを殺して、別の農夫たちにぶどう園を任せるだろうと言われました。そして、主イエスは彼らに今朝の詩編118編の2223節の御言葉を読んだことがないのかと尋ねられました。

 

主イエス・キリストは捨てられ、ゴルゴタの丘の上で十字架刑によって死なれ、墓に葬られました。ところが、主なる神は主イエス・キリストを墓の中から復活させられ、キリスト教会の礎とされました。

 

キリストとそのキリストの福音が教会の土台であり、預言者と使徒たちも教会の土台であると言われます。

 

旧約の時代では、神の民イスラエルが捨てられ、バビロンへと捕囚されました。諸国の民は彼らを嘲りました。しかし、主なる神は、彼らを再びエルサレムに帰還させられました。そして彼らによってエルサレム神殿を再建させ、エルサレムの都の城壁を修復させて、ユダヤ教共同体の礎とされました。

 

神の民のバビロン捕囚からの解放と神殿の再建、エルサレムの城壁の修理とユダヤ教を中心とする神の民の共同体の形成は、まさに主なる神の驚くべき御業でありました。

 

誰が思ったでしょうか。バビロニア帝国に徹底的に神殿と都を破壊され、神の民がバビロンに捕囚されたのに、彼らが再びエルサレムに帰還し、神殿を再建し、都の城壁を修理し、主なる神を礼拝する共同体を再建するとは。

 

しかし、主なる神の救いの御業によって、世界の諸国民がエルサレム神殿の礼拝を通して命に至る礎が据えられたのです。

 

こうして主イエス・キリストが来られるまで、エルサレム神殿の礼拝を通して、あるいはシナゴグの会堂を通して主なる神を信じる人々が主なる神に感謝し、主なる神を崇めて、礼拝することを通して、主なる神の救いと命が与えられたのです。

 

そして、神の御国の福音がユダヤ民族からキリスト教会に移されます。

 

その事件が主イエス・キリストの十字架の死と復活であります。

 

主イエス・キリストは、ユダヤ人たちに見捨てられ、ゴルゴタの十字架刑で殺され、墓に葬られました。しかし、主なる神は彼を三日目に復活させられました。主イエス・キリストは死に勝利し、復活し、キリスト教会の礎となられました。

 

主なる神は、まことに信じられない奇跡をなさいます。本当にわたしたちの目には信じられない、驚くべきことです。

 

詩人にとって、神の民イスラエルにとって、土曜日の安息日は「今日こそ主の御業の日」です。主なる神は、諸国から神の民をエルサレムの神殿に招かれます。そして主に従う人々は神殿で主なる神に感謝をし、動物犠牲を献げ、主なる神を礼拝します。それを通して、主に従う人々は、まさに自分たちが主なる神に救われた喜びを、主なる神の命の恵みに生きている喜びを賛美したのです。

 

同じことがわたしたちのこの教会の礼拝において起こっているのです。主なる神、わたしたちの父なる神は、主イエスを死者の中から復活させ、わたしたちの主イエス・キリストとしてくださいました。

 

教会は、毎週の日曜日に礼拝をし、主イエス・キリストとその福音を人々に伝えております。

 

誰がキリストの十字架の死がわたしの罪のためであったと信じたでしょうか。誰が主イエス・キリストはわたしたちの永遠の命の保証として復活させられたと信じたでしょうか。

 

この教会で今主イエス・キリストを礼拝していること、主イエス・キリストの福音を聞いていること、そしてわたしたちが主イエス・キリストの救いを信じて、主イエスを救い主として信頼し、今ここで主イエス・キリストに感謝し、主イエスを・キリストをわたしたちの神と崇めていること、何よりもわたしたち罪人が今神の御前で義人とされていること、その喜びにわたしたちの心が躍ることは、まさに神の奇跡の御業であるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編118編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

わたしたちの思いを超えた主なる神の救いの御業を今朝もこの礼拝で見聞きさせていただき、心から感謝します。

 

今朝で9月の最後の主日礼拝となりました。コロナウイルスと夏の猛暑に守られ、今朝の詩編の御言葉を通して、主なる神の永遠の慈しみを見聞きさせていただき、うれしく思います。

 

小さな群れですが、この上諏訪湖畔教会を、主なる神がお守り支えてくださりありがとうございます。

 

この教会がある限り、ここで主イエスに感謝し、礼拝する者がいる限り、そしてこの教会で主イエス・キリストとその福音が語り続けられる限り、今ここに主なる神の御救と永遠の慈しみがあることを、今朝の御言葉によって確信させてください。

 

礼拝できることが主なる神の奇跡です。キリストの十字架によってわたしたちの罪が赦され、キリストの復活によってわたしたちに永遠の命が保証されていることを、この礼拝で確信させられる度に、どうか、わたしたちが救われたことだけではなく、もっと多くの方々が主イエス・キリストの御救いに与れるように祈り、救われた喜びを、多くの人々に伝えるために、わたしたちに勇気をください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

詩編説教119-1          主の20201025

いかに幸いなことでしょう 幸いだ

まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。完全な道、主の律法を歩む者たちは。

いかに幸いなことでしょう 幸いだ

主の定めを守り 彼の定めを守る者たちは。

心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 心を尽くして彼を求める。

彼らは決して不正を行わず  事実彼らは不正を行わず

主の道を歩みます。彼の道を歩く。

あなたは仰せになりました あなたは命じた、

あなたの命令を固く守るように、と。あなたの指図を、固く守るように。

わたしの道が確かになることを願います どうかわたしの道が堅固であって、

あなたの掟を守るために。 あなたの掟を守れるように。

そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても その時わたしは恥じない。

恥じ入ることがないでしょう。あなたのすべての戒めを、わたしが目にしても。

あなたの正しい裁きを学び わたしはあなたに感謝する、真っすぐな心で。

まっすぐな心であなたに感謝します。わたしがあなたの義の裁きを学ぶ時に。

あなたの掟を守ります。あなたの掟を、わたしは守るでしょう。

どうか、お見捨てにならないでください。わたしを決して見捨てないで下さい。 

                   詩編第11918

 

説教題:「いかに幸いなことでしょう」

本日は、宗教改革記念礼拝を守り、共に御言葉と聖餐の恵みに与り、宗教改革の恵みを覚えて、主に感謝し、主を誉め称えましょう。

 

今朝から、詩編第119編をヘブライ語のアルファベット22文字に従って、8節ずつ学びます。

 

詩編の中で一番長い詩です。また最も巧みな言葉と構成で表現された詩です。

 

神の啓示は、モーセ五書、すなわち、旧約聖書の最初の五つの書、「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」においては通常「律法」と訳されています。

 

しかし、神の啓示を意味するヘブライ語は「律法」だけではありません。神の啓示を意味する8つの同義語があります。同じヘブライ語の中に発音は違うのですが、意味が同じヘブライ語が8つあります。

 

「教え(律法)」「ことば」「仰せ(命令)」「掟」「法」「定め」「諭し」「指図(示し)」です。

 

詩人は、その8つの類義語を、8節ずつのアルファベット順の詩の中に「あなたの・・・」という形で入れているのです。しかし、今日伝えられた詩編119編には入っていない段落もあります。

 

この119編をアルファベット順に8節ずつ学びます。各段落の間に意味や関連、あるいは展開は見られません。我が国のいろは歌かるたのように一種の格言集、教訓詩と考えられます。

 

また詩編119編には、「守る(護る)」「教える」「忘れない」等の律法に対する態度を表わす言葉が頻繁に8つの類義語と一緒に使われています。

 

詩人は、バビロン捕囚期、あるいはエルサレムへの帰還後に活躍したと考えられています。

 

表題はありません。注解書には、様々な表題がつけられています。「おきて」「律法の不思議なみ業」「わたしの心にあなたの言葉を」「神の教えは、命の源」等々です。

 

「おきて」という表題があるように、この詩編119編は神の律法の問題だけを扱っています。

 

しかもこの詩編119編は、詩人の信仰体験に裏打ちされた詩です。神の律法を、この詩人は誰から、どこで、どのような態度で、何をテキストにして学び、実践したのか、彼の信仰とその人生を歌っているのです。

 

詩人は、神の僕です。祈りの人です。119編は詩人の祈りです。彼が学ぶのは神です。神が彼の教師です(3339)。神の創造が、彼が学ぶ教室です(73節、8991)。生徒は「あなたの僕」です(17節、23節他)。学ぶテキストは「あなたの律法」です(97100)。詩人が神の律法を学ぶのは、知識を得るためではありません。神の律法に従って歩むという彼の生き方にあります(917)

 

以上がこの詩を学ぶために益となるものです。彼の信仰と彼が神の律法を人生の羅針盤にして、どのように彼は神の律法を通して、神の僕として生きようとしているかを、この詩編119編から学べるでしょう。

 

神の律法は、神の御言葉です。わたしたちキリスト者が唯一の権威として、信仰と生活の規範としている聖書です。

 

聖書の神の御言葉こそがわたしたちを神に、キリストに向けさせる力です。

 

この詩人にとっては神の律法を学ぶことが喜びであり楽しみです。キリスト者であるわたしたちも聖書を学ぶことが喜びであり、楽しみです。

 

詩編119編の詩人は、礼拝を通して神の御言葉である聖書を学ぶわたしたちの模範であるのです。なぜなら、彼は、わたしたちに人が神の律法に従って歩むべき信仰の道を伝えようとしているからです。

 

それは、幸いの道です。神の祝福の道です。

 

詩編全体が神の律法に従って歩むべき幸いなる信仰の道を教えようとしています。だから、詩編第1編で詩人は「いかに幸いなことか」と賛美するのです。詩人は「主の教え」、すなわち、神の律法を愛する者の幸いを賛美します。神の律法を毎日口ずさむ者の幸いを賛美します。神の律法に従って生きる者にのみ神の祝福があるからです。

 

主なる神が永遠であるように、神の律法もとこしえに続くのです。そして神の民を、主なる神に向けさせ、永遠の命を与えるものです。

 

聖書の神の御言葉も永遠に続きます。そしてわたしたちを主イエス・キリストに向けさせ、キリストの命を与えてくれるのです。

 

だから、詩人は、13節で次のように神の律法に従って歩む者の祝福を祈っているのです。「どうか神の律法に従って神の道を踏み外さない者に神の祝福をお与えください」と。

 

「どうか神の律法を守り、心を尽くして神を求め続ける者に、神の祝福をお与えください」と。

 

「どうか、義人の道を歩む者に、神の祝福を与えてください」と。

 

4節と5節で詩人は、こう歌っています。「あなたは仰せになりました あなたの命令を固く守るように、と。わたしの道が確かになることを願います あなたの掟を守るために。」

 

詩人は、主の道に生きることを、信仰の道を願っています。その願いを実現するために、詩人は自らに依り頼むことを捨てているのです。自力で生きるのではなく、主なる神に寄り頼むのです。彼は、神の御前に義人として生きるために、神の律法を、神の御言葉を求め続けているのです。

 

それは礼拝人生、神中心の人生を生きるということです。

 

それこそが、詩人から恥を取り去ると、6節でこう言うのです。「そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても 恥じ入ることがないでしょう。」

 

詩人は苦難の人です。貧しい人です。だから、富める者から、権力者たちから迫害された義人なのです。バビロン捕囚から解放され、エルサレムの都に帰還した神の民たちは、異邦人たちの支配の中に置かれました。富める者たちは、異邦人の支配者たちと手を組み、同胞の貧しい者たちを搾取したのです。また、彼らは神の律法を捨て、異教の民と結婚しました。

 

詩人は、富める者たちに迫害されても、神の律法を守り、神に従って歩もうとしたのです。だから、詩人はどんな苦難の中でも、主に恥じることはないと歌うのです。

 

そして詩人は、78節でこう賛美します。「あなたの正しい裁きを学び まっすぐな心であなたに感謝します。あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください」。

 

詩人は、礼拝において主なる神の正しい裁きを学び、主に感謝すると歌っています。

 

そして、主なる神に身を寄せて、神の律法に従って歩む義人を、わたしをお見捨てにならないで下さいと祈っているのです。

 

詩編119編の詩人は、苦難の神の僕です。貧しい人です。祈りの人です。それは、まさに主イエス・キリストの姿に似ていないでしょうか。

 

神の律法に従って歩んだ義人が主なる神に「わたしを見捨てないでください」と祈る姿は、十字架の主イエスを思いこさないでしょうか。使徒パウロが賛美していますように、十字架の主イエスは死に至るまで父なる神の従順に従われました。

 

119編の詩人は、143節で「苦難と苦悩がわたしにふりかかりますが あなたの戒めはわたしの楽しみです。」と賛美しています。

 

ある旧約学者は、「これは人間の心理としては不可能である」と言っています。しかし、十字架の主イエスはまさにその境地だったのではないでしょか。

 

今朝からこの長い詩編を学びます。どうかこの詩人を通して十字架の主イエスに出会ってください。この詩編を通して十字架の主イエスの招きに与ってください。

 

終りに今朝の宗教改革記念礼拝を覚えましょう。

 

この詩編の詩人と同じく、宗教改革者たちは苦難の神の僕でした。祈りの人でした。貧しい人でした。

 

聖書のみが彼らが寄り頼む権威でした。だから、彼らはこの詩人のように、聖書を通して語られる神にのみ従おうとしました。

 

ローマカトリック教会の権威もローマ法王の権威も認めませんでした。キリストのみの命令に従ったのです。

 

この詩人は神に従った義人の道に生きるために、神の律法に寄り頼みました。彼は毎日律法の神の言葉口ずさみました。それが彼を主なる神に向けさせ、彼に命を得させ、彼の義の道、神に従って生きることを確かなものにしました。

 

宗教改革者たちも信仰義認に生きるために、聖書に、聖書が証しするキリストに寄り頼みました。彼らは自分たちが罪人であると自覚していました。彼らの生涯が、ルターが言うように悔い改めの毎日でした。しかし、聖書が証しするキリストが罪人の彼らを義とされるだけでなく、聖霊によってキリストに従う道を、信仰の道を歩ませてくださったのです。

 

宗教改革者ルターは、宗教改革が広まり、急進的な改革者が現れ、町と教会が混乱した時、国家権力によって命の保証を得られなくなっており、身を隠していました。しかし、彼は、身の危険を冒して、混乱した町と教会に戻りました。そして、彼が始めたのは説教でした。彼は、聖書の御言葉を説き明かし、群衆たちをキリストへと向けさせました。神の御言葉が民たちにキリストへと向けさせ、人に動かされるのではなく、神の御言葉に動かされることが正しいと理解したのです。

 

この詩人のように、宗教改革者たちが信仰義認に生き続けるために、自分たちの内に力を求めるのではなく、神の律法、すなわち聖書の御言葉に、その証しである説教の神の御言葉に求めたのです。

 

そして、彼らが礼拝で語り、民衆たちが聞き続けた神の御言葉によって教会だけでなく世界が変革されました。

 

それから500年以上経ち、今世界はコロナウイルスの災禍の中で世界も教会も混乱しています。しかし、詩編119編の詩人と宗教改革者たちが今のわたしたちに伝えるメッセージは、神の律法、聖書の御言葉だけがわたしたちが聞き従うべき唯一の権威であるということです。

 

神の御言葉だけがわたしたちを主イエス・キリストに向けしめ、わたしたちを信仰の道を固く確実なものとしてくれるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

今朝は宗教改革記念礼拝を守り、共に聖餐の恵みに与れることを感謝します。

 

また今朝の礼拝から月一度詩編119編の御言葉を学べる事を感謝します。

 

詩編119編の詩人の生き方を通して、主イエスの受難の道を、宗教改革者たちの信仰に、思いをはせることができて感謝します。

 

今コロナウイルスの災禍の中で教会も世界も混乱しています。どうか宗教改革者たちのように、聖書の神の御言葉に堅く立ち、信仰と礼拝を続けさせてください。

 

今年は諏訪地方で宗教改革を覚えて、プロテスタント諸教会が集まることができませんが、それぞれの教会で宗教改革を覚えて礼拝がなされていると思います。祝福してください。

 

改革派教会においても宗教改革記念礼拝がなされ、聖餐がなされている教会があると思います。どうか祝福してください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-2             主の20201122

どのようにして、若者は  何によって清く保てるでしょう。

歩む道を清めるべきでしょうか。 若者は、彼の道を。

あなたの御言葉どおりに道を保つことです。守ること,あなたの御言葉に従って

心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。 わたしの心の全てでわたしは

あなたの戒めから あなたを尋ね求めます。わたしを迷わせないでください。

迷い出ることのないようにしてください。 あなたの命令から。

わたしは仰せを心に納めています。わたしは心の中に蓄えます。あなたの

あなたに対して過ちを犯すことがないように。 御言葉を。わたしが罪

主よ、あなたをたたえます。 を犯さないために、あなたに対して。ほむべき、

あなたの掟を教えてください。あなた、主よ。わたしに教えてください。

あなたの口から与えられた裁きを あなたの掟を。わたしの唇で物語る。

わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。あなたの口の裁きすべてを。

どのような財宝よりも あなたの証しの道をわたしは喜びます。すべての

あなたの定めに従う道を喜びとしますように。 財宝にまさって。

わたしはあなたの命令に心を砕き あなたの命令を、わたしは思い巡らし、

あなたの道に目を注ぎます。 わたしは見つめたい、あなたの道を。

わたしはあなたの掟を楽しみとし あなたの定めを、わたしは楽しみましょう。 

御言葉を決して忘れません。 わたしは忘れないでしょう、あなたの御言葉を。

                   詩編第119916

 

説教題:「神の御言葉を楽しむ」

先月から詩編第119編を学び始めました。

 

前回お話ししました。詩編119編はアルファベットの詩です。8節ずつアルファベット順に、ヘブライ語22文字に従って歌われています。8掛ける22文字で、176節の大変長い詩編です。

 

アルファベットに従ってヘブライ語の22文字の順に、8節ずつ学びたいと思っています。

 

詩編119編の詩人がこのように8節ずつにしたのは、前回お話ししました。「律法」を表わす8つの言葉を各節に一つずつ入れるためです。

 

それは、「律法」、「法」、「言葉」、「掟」、「命令」、「定め」、「指図」、「仰せ」です。それに「あなたの」あるいは「彼の」という、主なる神を表わす代名詞が付されています。

 

原則は8節にこの8つの言葉を使うことです。しかし、8節にこの8つの言葉がすべて使われているのは、アルファベット文字の5つだけです。他は、同じ言葉が反復されています。

 

前回は、ヘブライ語の22文字のアルファベットの最初、アレフでした。今朝は二番目のベトです。

 

さて、119編の詩人は、神の僕です。祈りの人です。彼にとって、主なる神がシナイ山でモーセを通して神の民にお与えくださった神の律法は、知恵の源泉であり、人を祝福する主なる神の羅針盤です。だから、詩人は神の律法を通して、神の僕として生きようとしているのです。

 

まさにこの詩編は、実践的教訓詩と言えます。彼だけではなく、共に神の民たちにも、神の律法に従って生涯を生きてほしいと願っています。

 

どのようにすれば、その生涯を神の律法に従って歩めるのか。まさにそれは義人の道です。義人は、その人が正しいという意味ではありません。主なる神と常に関係して生きている人です。

 

詩編119編の詩人は、どうしたら人は主なる神の御前に正しくあり得るのかと問い続けているのです。

 

主なる神の御前で正しい者であり続けるために、彼が寄り頼むものは彼自身ではありません。主なる神に寄り頼むのです。もっと正確に言いますと、主なる神が神の民に賜った神の律法に信頼を寄せているのです。

 

この詩人の姿勢は、わたしたちキリスト者にとって模範です。わたしたちも主イエス・キリストに服従して生涯を生きたいと思っています。その道こそがキリスト者にとって幸いの道です。

 

その道に生きる規準、規範がわたしたちキリスト者は聖書です。詩人は神の律法から教えられ、学ぶように、わたしたちは聖書から教えられ、学びます。

 

詩人はエルサレム神殿の礼拝を通して、神の律法を学びました。わたしたちは、この主日礼拝を通して聖書を学んでいます。

 

そこから引き出されることは、詩人とわたしたちは共に主イエス・キリストから幸いな生き方を学んでいるのです。

 

言い過ぎになるかもしれませんが、神の律法の言葉は主イエス・キリストであり、聖書は主イエス・キリストを証しするものです。

 

だから、詩人は神の律法の御言葉を学ぶことが喜びであり楽しみだと何度も告白しています。わたしたちも聖書の御言葉を学ぶことが喜びであり、楽しみです。

 

そういうわけで、今朝の説教題を「神の御言葉を楽しむ」と付けました。

 

9節を見てください。で詩人は、こう歌っています。「どのようにして、若者は 歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。」

 

この「若者」は、詩人のことです。彼は、自分のことを遜って言っているのです。「何によってわたしは、自分の道を清く保つことができるでしょうか。」

 

自分の道とは、主なる神との関係です。主なる神との関係で、詩人は何によって正しさを保って生きることができるのかと問うているのです。

 

そして、詩人は、自問自答しているわけです。「あなたの御言葉どおりに道を保つことです。」と。

 

「あなたの御言葉」は、律法のことです。神の律法を守り抜くことであると、詩人は答えているのです。

 

主の御言葉である神の律法に従って歩まない限り、詩人は主なる神との正し関係を保って生きることはできないと考えているのです。

 

そこで10節で詩人は、こう歌っているのです。「心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから 迷い出ることがないようにしてください。」

 

「心を尽くして」は、「わたしの心の全てで」という言葉の意訳です。主なる神との関係を正しく保つために、彼は全身全霊で神の律法を尋ね求めるのです。

 

「あなたの戒め」は、6節に出てきました。「命じる」からの派生名詞で、命令です。戒めは神の命令です。すなわち、神の律法のことです。

 

だから、詩人は主なる神との正しい関係に生きるために、全身全霊で神の律法を研究します。だから、神の律法からわたしを離れさせないでくださいと、主なる神に祈っているのです。

 

詩人が神の律法から離れて、主なる神と正しい関係に生きられないように、わたしたちも聖書を離れて、主イエス・キリストとの正しい関係に生きることはできません。

 

詩人の律法に対する研究熱心は、わたしたちの聖書の学びに対する熱心さに通じているでしょう。

 

さらに詩人は、律法を研究するだけでありません。神の律法の言葉を心に納めて、罪を犯さないと、11節で次のように歌っています。

 

「わたしは仰せを心に納めています。あなたに対して過ちを犯すことがないように。」

 

「仰せ」という言葉は、「言う」からの派生名詞です。これも律法のことです。「心に納めます」は、詩人の心に蓄えることです。神の律法の教えを自分の宝として、詩人は心の中に蓄えていると歌っているのです。

 

神の律法の教えを彼の心に蓄え、宝とすることで、彼は常に主なる神の御心に生きようとし、罪から守られるのです。

 

同じようにわたしたちも聖書の教えを心に蓄えるのです。

 

その効用は、罪から守れるためです。

 

神の律法の教えは、詩人を神賛美に導きました。そして詩人は、主なる神が彼に律法を教えてくださるように祈り求めているのです。

 

12節です。「主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください。」

 

「たたえます、あなた、主」です。「掟」は「刻み付ける」からの派生名詞です。律法のことです。詩人は、主なる神に「あなたの掟をわたしに教えてください」と祈っています。

 

これもわたしたちが聖書を読みます時、説教を聞きます時に、わたしたちが主をほめたたえ、「主よ、御言葉をください。」「主よ、聖書のこの御言葉を教えてください」と祈ることと似ています。

 

詩人もわたしたちも主なる神に教えられなければ、神の律法も聖書も理解できないことを、そしてそれを実行できないことを知っています。

 

詩人にとって神の律法を聞くことは、詩人が人々に神の裁きを伝え、証しする道です。

 

ですから、詩人は13節と14節でこう歌っているのです。「あなたの口から与えられた裁きを わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。どのような財宝よりも あなたの定めに従う道を喜びとしますように。」

 

「あなたの口から与えられた裁き」は、文字通りには「あなたの口の法」です。7節の「あなたの正しい裁き」と同じ言葉です。

 

それは、「あなたの義に基づく法」ですので、主なる神の裁きのことです。詩人は、人々に神の律法を語り伝え、人々に神の口から出る裁きを伝えようとしました。そして、彼は、人々に神の律法に従って歩む道を証しすることを喜びとしていたのです。

 

「あなたの掟に従う道」は、文字通りには「あなたの証しの道」です。

 

わたしたちは、詩人のように人々に神の律法を語り伝えてはいません。人々に神の裁きを伝えていません。福音を伝えています。

 

「あなたの口から与えられた裁き」は、キリストの十字架です。わたしたちの罪の身代わりに死なれたキリストを語り伝えているのです。そして、十字架のキリストをわたしたちの主として証ししているのです。

 

詩人がどんな財宝より神の律法が喜びであるように、わたしたちはどんな財宝よりも十字架の主イエス・キリストが宝であります。

 

詩人は常に主なる神の律法を思い巡らすと言っています。そして主なる神の道に目を注いでいます。

 

15節で詩人は、こう歌っています。「わたしはあなたの命令に心を砕き あなたの道に目を注ぎます。」

 

この「命令」は、「指示する」「顧みる」「試す」「罰する」などの意味がある動詞からの派生名詞です。「指図」です。これも律法です。

 

「心を砕き」は思い巡らすことです。「あなたの道」は主なる神を示す道です。これも律法のことです。

 

詩人は、神の律法に思いを巡らし、主なる神を示す道に注目します。わたしたちは、キリストの十字架に思いを巡らし、キリストの受難の道に注目するのです。

 

詩人にとって神の律法を思い巡らすことは、楽しみであり、決して神の律法を忘れることはできませんでした。

 

16節で詩人はこう歌っています。「わたしはあなたの掟を楽しみとし、御言葉を決して忘れません。」

 

未来形です。「わたしはあなたの掟を楽しむだろう。御言葉を決して忘れないだろう。」

 

詩人は神の律法を宝のように大切にし、それを心から楽しもうとする心に溢れています。だから、彼は、決して神の律法を忘れないだろうと歌っているのです。

 

私たちにとっても聖書は宝物です。聖書が証しする主イエス・キリストとの信仰の交わりを、わたしたちは楽しむでしょう。主イエス・キリストを証しする聖書を、わたしたちも決して忘れることはないでしょう。

 

詩人は、この世の富よりも神の律法を重んじて、これを喜び楽しんでいます。神の律法を心から喜び、それに従って生きようとしています。

 

それは、わたしたちが十字架のキリストと共に死に、復活のキリストと共に新しい命に生きることに通じてはいないでしょうか。彼にとって神の律法は、キリストではないでしょうか。彼は、律法を愛し、神の口から出る裁きによって死に、再び神の律法によって生かされているのではないでしょうか。

 

わたしたちは、彼からキリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きる喜びを教えられないでしょうか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119編を続けて学べる喜びを感謝します。

 

詩人が心から神の律法を愛し、楽しむように、わたしたちも心から聖書を愛し、楽しむことを得させてください。

 

キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生かされている喜びで満たしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-3           主の20201227

あなたの僕のためにお計らいください 報い給え、あなたの僕を。

わたしは命を得て、御言葉を守ります。わたしは生き、守りたい。あなたの言

わたしの目の覆いを払ってください。葉を。わたしの両目の覆いを払い給え。

あなたの律法の驚くべき力に わたしは目を注ぎたい。あなたの律法の中から

わたしは目を注ぎます。 の数々の不思議を。

この地では宿り人にすぎないわたしに わたしはこの地で寄留者です。

あなたの戒めを隠さないでください。 隠さないでください、あなたの戒めを。

あなたの裁きを望み続け わたしの魂は粉々に砕け散ります。

わたしの魂はやつれ果てました。 いつもあなたの裁きを切望して。

呪われるべき傲慢な者をとがめてください 𠮟りつけてください、呪われる高

あなたの戒めから迷い出る者を 慢な者たちを、あなたの戒めから迷い出た者

辱めと侮りをわたしの上から払ってください たちを。覆いを取り給え。わた

あなたの定めを守っているのですから。しの上から辱めと侮りを。まことに

地位ある人々が座に就き あなたの定めを、わたしは守っています。たとえ

わたしのことを謀っていても 高官たちが座に就き、わたしについて語り

あなたの僕は あっても、あなたの僕は

あなたの掟にのみ心を砕いています。 あなたの掟を語るだろう。 

あなたの定めはわたしの楽しみです。 あなたの定めこそわたしの楽しみです。

わたしに良い考えを与えてくれます。 わたしの良き助言の人々。

                   詩編第1191724

 

説教題:「あなたの定めはわたしの楽しみです」

先月から詩編第119編を学び始めました。

 

前回は詩編119916節の「ベト」のアルファベットで始まる詩を学びました。今朝は、第三番目の「ギメル」のアルファベットで始まる1724節の詩を学びましょう。

 

詩編119編を学びます時に、「律法」を表わす8つのヘブライ語の言葉を心の留めてください。

 

それは、「律法(教え)」、「法(裁き)」、「言葉」、「掟」、「命令(戒め)」、「定め」、「指図」、「仰せ」です。

 

1724節においてこの8つの言葉の内、「指図」と「仰せ」という二つの言葉が欠けています。その代わりに「命令」と「定め」という言葉が繰り返し使われています。「命令」は、新共同訳聖書では「戒め」と訳されています。

 

119編の詩人は、神の僕です。ですから自分のことをヘリ下り、17節と23節で「あなたの僕」と告白しています。

 

」は、他者に従って任務を行う者のことです。聖書の場合は、神に従って生きる者のことです。

 

ですから主の僕は、第一に主なる神を信頼し、正しく生きる人々です。旧約聖書ではアブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデ等を思い起こすでしょう。わたしたちキリスト者たちも、この詩人と同じく主の僕です。

 

第二に主の僕は、主なる神より特別の使命を与えられ、遣わされた人です。旧約聖書では祭司、預言者、王です。主の器として用いられたネブカドネツァル王も主の僕です。新約聖書では12使徒たち、使徒パウロ、そしてわたしたちキリスト者たちも主より特別の使命を与えられ、この世に遣わされた主の僕です。

 

詩編119編の詩人は、主なる神を信頼し、神の律法を通して、主の僕として生きているのです。

 

だから、詩人は17節でこう告白するのです。「あなたの僕のためにお計らいください わたしは命を得て、御言葉を守ります。」

 

「お計らいください」は、「報いてください」という言葉です。詩人は、主なる神に恵みを請うているのです。

 

その理由を、詩人は「わたしは命を得て、御言葉を守ります。」と告白しています。詩人は、主なる神の恵みに生かされて、御言葉、すなわち、神の律法を守り抜きたいのですと、告白しているのです。

 

この詩人は、同じ主の僕であるわたしたちキリスト者の模範です。わたしたちもこの詩人と同じように、主イエスを信頼し、聖書の御言葉に従って主の僕の道を歩みたいと願っています。

 

そのためにわたしたちもこの詩人のように、まず神の恵みを請うべきです。神の恵みにわたしたちが生かされて、初めて聖書の御言葉に生きることが可能となるからです。

 

詩人は、18節でこう告白します。「わたしの目の覆いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力に わたしは目を注ぎます。」

 

「わたしの目の覆いを払ってください」は、「わたしの目を開いて、よく見せてください」という祈りです。聖霊の照明を求める祈りです。

 

詩人が律法を読む時、彼は聖霊の照明を祈るのです。聖霊が彼の目を開いてくださり、神の律法から出る「驚くべき力」を見させてくださることを祈り求めているのです。

 

「あなたの律法の驚くべき力」とは、神の律法の内から出て来る数々の不思議な御業であります。詩人は、神の律法には彼を救う御力があると、信じているのです。

 

これは、わたしたちキリスト者も同じでしょう。聖書を読む時、説教を聞く時、わたしたちは聖霊の照明を祈り求めます。それは、わたしたちが聖書の御言葉に、説教の御言葉に、わたしたちを救う御力があると信じているからです。

 

だから、詩人は神の律法に、広く言えば、旧約聖書の御言葉に、彼の目を集中するのです。同様にわたしたちも聖書の御言葉に集中します。

 

詩人は、19節でこう告白します。「この地では宿り人にすぎないわたしに あなたの戒めを隠さないでください。」

 

詩人の告白は、神の民の告白です。ダビデは、詩編3913節で、こう告白しています。「主よ、わたしの祈りを聞き 助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙しないでください。わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人。」

 

ダビデ同様に詩人は、主なる神による保護を必要とすることを自覚しています。詩人は、人の人生のはかなさを知っているのです。

 

23節で詩人は、「地位のある人々が座に就き わたしのことを謀っていても」と告白するように、身分の高い人々から虐げられた人です。主なる神だけを、彼は信頼し、助けを求めているのです。

 

だから、彼は、「あなたの戒めを隠さないでください」と祈るのです。神の律法だけが彼の救いであり、彼の助けであるからです。

 

詩人は20節でこう告白します。「あなたの裁きを望み続け わたしの魂はやつれ果てました。」

 

「あなたの裁き」は、「あなたの法」です。詩人は、神の律法にあこがれ続けて、彼の魂が擦り切れるほどであると言っているのです。

 

「ベト」の916節で詩人が神の律法に寄せた思いを、更に強めて告白しているのです。

 

わたしたちは、聖書に対して、この詩人のような強いあこがれを持っているでしょうか。

 

詩人は、2123節でこう告白します。「呪われるべき傲慢な者をとがめてください あなたの戒めから迷い出る者を 辱めと侮りをわたしの上から払ってください あなたの定めを守っているのですから。地位ある人々が座に就き わたしのことを謀っていても あなたの僕は あなたの掟にのみ心を砕いています。」

 

詩人は苦難の中に置かれています。23節の「地位ある人々」は、君主、高官でしょう。身分の高い人々が神の律法を守らず、貧しい神の民を搾取し、虐げていたのでしょう。詩人は彼らから辱めと侮りを受けていたのでしょう。

 

詩人はどんなに苦難の中にあっても、神の律法から離れなかったのです。主なる神の御心に従っていたのです。

 

23節は、受難のキリストを思い起こします。サンヘドリンの会議で、ポンティオ・ピラトの裁判で沈黙しておられる主イエスを思い起こします。ユダヤ人たちやポンティオ・ピラトが主イエスの刑を協議していた時、主イエスは父なる神の御心に従順に従われていました。

 

詩人は、24節でこう告白します。「あなたの定めはわたしの楽しみです。わたしに良い考えを与えてくれます。」

 

詩人にとって、神の律法は彼の楽しみ、喜びでした。また神の律法は、彼の助言者でした。「良い考え」は、「わたしの助言の良き人々」です。

 

聖書がわたしたちにとって楽しみであり、喜びであり、聖書はわたしたちのよき助言者であり、相談相手であるのです。

 

わたしたちがキリストと出会えるのは聖書です。キリストの御言葉を聞くのも、聖書です。わたしたちは、詩人のように聖書を通してキリストと出会い、キリストをわたしたちの良き相談相手にしているのです。

 

ラテン教父アウグスティヌスは、詩編をキリストの言葉として繰り返し読むように奨励しました。詩編の御言葉を、主イエスは愛されて、よく引用されています。何よりも詩編の御言葉は、わたしたちを十字架のキリストへと導いてくれています。

 

アドベントが終わり、新年を迎えようとしています。コロナウイルスの災禍の中での一年でしたが、主はわたしたちの教会を、そしてわたしたちをお魔織りくださいました。地方の小さな教会であるがゆえに、1年間欠かさず礼拝を行い、祈祷会を、諸集会、諸活動を行うことができました。

 

また長老が与えられ、小会の活動が継続できて感謝でした。長老の提案で、初めて教会員の誕生日を祝うことができました。

 

社会が急激に変化する中で、教会が平常通りにイスター伝道集会とクリスマス礼拝も行なうことができました。祈祷会と聖書の学びの集い。教理の学びを行うことができて、感謝でした。

 

文集「風」を7月と12月に発行できて、感謝でした。

 

教会の財政も支えられて感謝でした。今年度は大幅の赤字を予想していましたが、黒字で繰越できます。本当に詩人が祈るように、わたしたちは主の恵みに生かされて、この教会での礼拝を行い、キリスト者の生活を続け、主に恵みの応答としての献金をなすことができて、感謝です。

 

来年も主の恵みに生かされて、この教会の礼拝のために、わたしたちの交わりのために励みましょう。そして礼拝のオンライン化を通して諏訪地方、伊那地方、松本地方の人々にキリストの福音を伝えましょう。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年一年間詩編の御言葉を学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

詩編119編の詩人が神の律法を愛したように、わたしたちも聖書を愛し、楽しむことができるようにしてください。

 

キリストと共にこの一年歩めたことを感謝します。どうか、キリストと共に新しい年を歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。