25/7/27
「遂げようとしている最後」ルカによる福音書9章28~36節
序
4:31から「ガリラヤの町カファルナウムに下って」巡回伝道での記事が並べられてきました。主にイエスによる業を中心に宣教が進められます。9:51「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあって、ここからルカ福音書では「メシアの教え」の段落に入ります。そこで今朝の箇所を瞑想するにあたり、少し振り返って4:31からの記事を思い出していただきたいと思います。メシアの業とはガリラヤから始まる巡回伝道の中で明らかになりました。それで福音書は悪霊追放の記事から始めます。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じる、出て行くとは。」4:36という人々の驚きの言葉でそれを伝えているのです。「網を降ろして、漁をしなさい5:4/清くなれ5:13/罪は赦された5:20、起きて歩け5:23/わたしに従いなさい5:27/手を伸ばしなさい6:10」と印象深い言葉を業が紹介されます。続く12人の使徒選出から、イエスの業がどのような結果をもたらすのか、その業の性質というものがわかる出来事が並びます。「使徒と名付け」(つまり“派遣される”)6:12、「いやしていただくため」6:18、「父が憐れみ深いように」6:36、「母親を見て、憐れに思い」7:13、「貧しい人は福音を」7:22、「罪まで許すこの人は」7:49。そして8章は神の国の宣教をテーマに“御言葉”とそれが嵐を静め、霊界をも支配し、命をも救うという記事(弟子の湖渡り8:22~、ゲラサでの悪霊追放8:26~、ヤイロの娘と回復と出血の女性のいやし8:40~)で並んでいます。この業の段落の最後が9章になります。いよいよ福音宣教は12人の使徒の派遣によって手広く行われます。その噂にヘロデが「何者だろう/こんなうわさのぬしは」?と紹介し、これに答えるかのように五千人養いの記事が並べられています。こうしてここまでの記事を振り返れば誰でも分かるように、この方こそ「わたしの子、選ばれた者」35メシアなのです。しかしこの最後9章の段落の記事はこうしたイエスの業が証しするところのメシアの正体が、結局のところ地上の人々に理解されなかったことを伝えているのです。それで18節からのイエスの問いかけに弟子だけが「神からのメシアです」と告白し、イエスはその告白するところのメシアを教えるために受難と復活の予告を弟子にだけ教えます。今朝の山上の変貌では残念なことにその弟子でさえも「何を言っているのか、分からなかった」という変貌での体験を伝えているわけです。山から下りてきた時の弟子と群衆の状況を嘆くお話がそれに続いて「信仰のない、よこしまな時代」から人を救出するためにはメシアの受難は避けられない!それで再度受難予告が繰り返されます。9:44「この言葉をよく耳に入れておきなさい。/人の子は/引き渡されようとしている」のです。今朝の山上の変貌ではイエスが相談して選び取る栄光の道と、イエスの輝く姿にペトロがみる栄光とが大きくずれていたことが詳細に記されています。そこで私たち信仰読者はこの箇所からもう一度、神の栄光とは何であるのか、イエスがメシア「人の子」として「遂げようとしている最後」とは何であったのかを見つめ直したいと思います。
1、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた。」29~31
「福音」こそ神による救いを待ち望む者にとってメシア到来の喜びの知らせなのです。しかし、その知らせに「わが主」と告白できないことがメシアの受難を避けて通れないものとします。12人の使徒を派遣しても、集まった群衆をメシアの糧で満腹にしても、神への悔い改めもイエスへの「わが主」告白も出てきません。イエスのジレンマはいかほどのものだったでしょうか。今朝の山上の変貌はそうした中での出来事でした。山から下りてきた時も民衆の訴えに「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」とつぶやかれました。山上で確認してきた受難復活の道を再度弟子たちに予告し「この言葉をよく耳にいれておきなさい」と念を押して伝えられました。よく分からなくても理解出来るときを見越して、受難予告も山上の変貌の話もその意味を悟るための大切な話として伝えられたのです。この変貌の出来事は実はイエスの祈りによって引き起こされた出来事でした。「祈るために山に登られた」とある通りです。イエスにとってまさにメシアの道に進む大きな節目だったのでしょう。ですから姿も「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」し、旧約を代表するモーセとエリヤも到来します。「二人は栄光に包まれて現れ」ました。彼らが去る時には「雲が現れて彼らを覆った」のです。旧約の昔から雲は神の臨在のしるしです。出来事の流れからすればイエスの祈り、モーセとエリヤとの話し合い、雲の現れと天来の父の声「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。つまりイエスは祈りの中でメシアとしての道を父の御心に従って確認し、まさにその御心のとおりに使命を選びとったのです。その祈りの中からの決心に父も御自身の御心に適っているとの応答をされたのです。「わたしの子、選ばれた者(メシアという意味)。(だから)これに聞」け(従いなさい!)。でもこの流れだけでは選び取られたメシアの使命がわかりません。それを明らかにするため「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」と記しているのです。原文では「“エクソドス”について」と記します。これは聖書では出エジプト記(Exodus)の表題です。辞典では①出て行くこと、脱出すること、そこから②死、逝去のことを意味します。それで翻訳では「最期」と表記しています。イエスの人生の最期のことを直接は指しますが、意味としてはメシアとして成し遂げられるところの罪からの脱出を指しています。御自身の命を代償にして人をその罪を贖い、この代償を信じるものに与えられる救い(脱出)を祈りの中で確認していたのです。それは旧約の時代からモーセによるエジプト脱出の出来事で示され、エリヤを代表とする預言によってメシアによる罪からの解放の約束が繰り返し伝えられてきました。人が時代に応じて成長し環境が変化しましても、神の前で罪人であるということには進化も変化もありません。現実に戦争は繰り返され残虐な行為が国家の名前や民族の名前で正当化されているではありませんか。戦争だけではありません。戦争のない国であっても「悔い改める」といった行為がなされたことがあるでしょうか? だからパウロもロマ書の中で「人には弁解の余地はない」「滅び去るものに取り替えた」(だけ)と言ってきたのです。
2 、「その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。」33
その例証としてペトロは自分でもわけの分からぬ言葉をわざわざここに記録し、伝えられてきました。この理解できないペトロの発言の誤りは大きく二つあります。一つは「ここにいるのはすばらしい」としたこと。もう一つは三つの仮小屋すなわちイエスをモーセとエリヤと並ぶ同格とみたことです。山を下りずに「ここにいる」ことを願うのが人間の考える栄光です。そしてイエスがメシアであるということがわからないことです。私たちを罪から脱出して救うために①輝く姿を捨て、みすぼらしい②人間の姿に変貌をとげ、御子本来の場所である天上の③「ここにいる」ことも捨て、堕落して盲目であるエルサレルで「遂げようとしている最期」に向かって④降りてこられるところに、私たちが敬い崇めるところの真実な「神の栄光」があります。恩師の榊原康夫先生は以下のように記しています。「同じ無理解は、旧約預言者がしきりに語ったメシア的出エジプトの約束を、バビロンからシオンへの帰還という政治的レベルに格下げしてきたユダヤ教会の現世主義に見られます。それはまた、第二次世界大戦後のユダヤ民族聖地復帰を『栄光への脱出』とするユダヤ教にも、あるいは社会的福音と称するキリスト教運動にも通ずる無理解ではありますまいか。人間の根源的罪からの脱出をいつもシオンへの脱出帰国にすりかえる政治的メシア待望-その本山ともいうべき「エルサレム」からの出エジプトこそ、イエスが成し遂げる独自の栄光なのです。」牢屋から逃亡するというのではありません。罪から脱出すなわち解放されることを“最期”と伝えているのです。この最も大切な脱出こそ聖書が“救い”と伝えるものです。私たちはそれを祈り求めているでしょうか?
父なる神様、私たちは歴史の中で何度となく滅び去るものを崇めてきました。どうか我らを憐れみ、十字架に現されたあなたの栄光を仰がせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。