4月27日 主日礼拝

説教

              25/4/27

   「福音の種蒔き」ルカによる福音書8章4~18節

 前回のテーマはメシア職の性質でした。メシアによる神の国到来は”遣わされる”福音宣教によって到来します。この福音は癒しの業と共に進展します。イエスの大説教では神の国の福音がどのような人に幸をもたらすのかが明らかにされ、裁きよりも和解を求め、敵対よりも神の憐れみをもたらすものでした。異邦人(百人隊長)であっても救われます。福音の権威を信じる信仰のみが救いをもたらすのです。やもめの息子が生き返る業をしてその信仰さえも後のことであって、救いはメシアの一方的な憐れみによることが示されます。こうしてこの方がどのような救いをもたらすメシアであるのか、洗礼者ヨハネの告白と罪深い女性の涙で読者に示されたのです。

 今朝は3番目の段落です。(8章全体)いよいよ「神の国の福音宣教」というテーマでお話が展開します。マルコ福音書では十字架上のイエスを見守る姿で紹介された①女性たちがここではイエスと12使徒団の福音宣教に奉仕をする者として紹介されます。(813)神の御国は軍事力ではなく兵士でもなく、使徒とそれを“支える奉仕”で進展します。②種蒔かれた人々のたとえ(418)で、この御国宣教がイエスの業として教えられ、③「神の言葉を聞いて行う」家族を生み出します。(1921)④突風をも従わせ(2225)、⑤目には見えない霊の世界では人を悪霊から解放し(2639)、⑥死んだ娘、死の病の女性を生き返らせることをして死の悲しみにうちひしがれる人々に命の喜びを回復します(4056)。神の国の福音宣教はそれを聞く人々の内にイエスの業による結実をもたらして、地上の世界、霊の世界そして死の絶望の淵に希望をもたらすという、まさに”神の”国としか言い表すことができない驚きと喜びをもたらすのです。ここでも6つの話で展開されています。

こうしたお話の展開を振り返ってみますと、“神の”国というものがどのようなもので、どうやって進展していくのかを大雑把に理解することができます。宣べ伝えるという一見非力に思える業、あるいは「12人」の使徒と呼ばれる働き人を派遣することで行われますが、ここでもその一行の働きに奉仕する人たちをあえて紹介しています。福音宣教は収穫と違って忍耐と苦労の多い働きです。奉仕する人たちの支えがあってなされるものです。しかし耕しても不毛という堕落した世界の中にあって(創31718)百倍の実を結ぶという常識を超越した喜びが実ります。その意味で肉親の家族を超越した深い結びつきをもった家族とされ、それが自然界や霊界さらには地上の生死の世界にまで、つまり私たちが怯えるような様々な世界にまで力と救いをもっています。一見イエス・キリストの教えと福音宣教などわかりきったように思ってしまいますが、実は何も知らないということをこの箇所の展開は読者に教えています。確かに私たちに蒔かれた福音の種が結実に至るには地上の人生を通しての「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して」という成長を待たなければいけませんが、この言葉を共有する者は肉親の家族以上の深い結びつきがあって、人生の荒波突風の中においても目に見えない霊界のような世界において、そして何よりも命の瀬戸際においても大きな力を持っていることを私たちは教えられ知っているのです。

 

1.「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」15 「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えら、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」18

 地上の世界とは違う”神の”国は聖書が記すところの「福音」によってもたらされ進展します。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら」8:1とはそのことを意味します。このテーマの最初に有名な「種蒔かれた人々の譬え」話が掲載されて、神の国の進展は蒔かれた種、すなわちイエスの告げ知らせる福音の言葉によって進められることが教えられています。ですからこの譬えは、もう一つ加えられた「ともし火の譬え」で結論を述べています。すなわち「どう聞くべきかに注意しなさい」です。イエスの業によって進められた御国の進展、福音宣教なのになぜ神の選民イエスラエルにはなかなか届かないのか、なぜあんなにも喜んで信仰に入った信徒たちの中から離れてしまう者が出てくるのか、という問題意識がこの聖書箇所で扱われているのです。蒔き方が悪かったのでしょうか? あるいは蒔かなかったからでしょうか? つまり蒔いた方に落ち度があったのでしょうか? 逆に自分たちが信仰に留まっているのは自分たちが「良い土地」「立派な善い心」だったからでしょうか? こうした神や教会への中傷や信仰者のうぬぼれを戒めて、人間的な理解を正そうとしているのです。「どう聞くべきかに注意せよ」という結論に追加して「持っている人、持っていない人」が教えられています。この一節はのちに19:11以下の「ムナの譬え」の結論19:26にも引用されます。これは賜物のお話です。どう聞くべきかという注意はすなわち自分がきちんと自分の内に「持っているか、持っていないか」という吟味に繋がります。何を「持つ」のかと言えば自分の心に蒔かれた福音の種への信仰と信頼のことではないでしょうか? しかしこれも「賜物」なのです。つまり自分の能力や品性で掴みとったものではなくて神から”賜った”ものなのです。私たちはこの種蒔かれた人々の譬えからイエスが伝えたかった結論「どう聞くべきかに注意せよ」「持っている、持っていない」の吟味と、なぜ自分がそれを「持っている」のかという意味を考えなければいけません。イエスはイザヤ預言の言葉を引用して「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが」という神の恵み・憐れみによるという秘密を教えます。

 たとえ話はまず最初に蒔き方が悪かったのでも蒔いた方に問題があったのでもないことを示しています。むしろ蒔かれた土地のほうに問題があります。これを「人たち」と説明しています。12「道端のものとは・・・人たちである」。続けて4つの例が紹介されます。種は神の御言葉、道端は「聞くが信じて救われないように悪魔が御言葉を奪い去る」つまり「信じない」聞き方のことです。石地とは「聞くと喜んで受け入れるが根がない」つまり芽や葉は出るがその心に根付かないので「試練に遭うと身を引いてしまう」姿です。茨の中とはきちんと根をはり芽も出て成長しますが、「途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて」結実しない姿のことです。そして最後に良い土地とは「善い心」「よく守る」「忍耐」して御国の命へと結実します。ちなみにルカ福音書では結実の有無だけが大切であって「何倍」かは問題にしていません。このお話の難しさは「悟ることが許されている」という神の憐れみによるのですが、その成長結実が私たちの聞き方によって変わる点にあります。一見私たちの聞き方の行為で決定するかのように思えますが、だったら自己責任となってしまいます。そうではなくて神の憐れみというものが私たちの聞き方までも含めたものなのでしょう。だから自らのへの神の憐れみを認識することがどう聞くべきかの注意や持っているかという吟味にも繋がるのでしょう。

 

、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」8:10

 繰り返しますがこうした結実の有無は確かに私たちの「聞き方」に左右されます。もっと言えば「持っているか、持っていないか」です。これは蒔かれた福音の言葉への畏れと信頼のことです。しかし先にも説明したようにこれは神様から「賜った」ものなのです。決して自分の心が最初から「立派で善い」のでも「忍耐」できる努力家だったからでもありません。それが弟子の質問への答えで明らかにされています。すなわち「あなたがたには・・・許されている」のです。他の人には譬えで話す理由としてイザヤ書6:9の警告を引用します。福音が拒絶されるのは神を捨てた不信であってその不信が審判となって跳ね返った結果です。聞く・聞けない、持つ・持たないは私たちの心に応答される神の憐れみの業によって「与えられ」もし「取り上げられ」もします。すなわち私たちは神の憐れみによって父なる神様、御子イエスへの信頼を持つことができるようになったのです。高ぶってはいけませんし自分なんかにはわからないのだと卑屈になってもいけません。ローマ11:17以下「折りとられた枝に対して誇ってはなりません。」「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」「彼らも不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。」イエスによる神の国の福音宣教は神の憐れみの業なのです。私たちはこの業にあずかって「持つ」ようになったのです。この憐れみの深さと大きさを考えることが「どう聞くか」に注意をもたらします。宣教へ信頼を持ち続けるべきなのです。

 なる神様、私たちを憐れんでくださり感謝します。どうか私たちに届けられた福音をいつまでも喜び感謝することができますように。

 

 主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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