コリントの信徒への手紙一説教37     主の2015年2月1日

兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。
 聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがただけ来たのでしょうか。
 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行ないなさい。
           コリントの信徒への手紙一第14章26-40節

説教題:「集会の秩序」

 使徒パウロがコリント教会のキリスト者たちにコリントの信徒への手紙一を書き送りましたのは、彼らが熱心にキリストの体なる教会を建て上げるためであります。
 
  それで、使徒パウロは26節でコリント教会のキリスト者たちに親しく「兄弟たちよ」と呼びかけて、どうすればだれもが、霊的なカリスマを競い合うことなく、ここにまことに神がおられると人々がほめたたえる教会を建て上げることができるだろうか、そのためにわたしたちはどうすればよいだろうかと質問したのです。
 
  パウロのこの質問は、必ずしもその答をコリント教会のキリスト者たちに求めてはいません。なぜなら、最初からパウロには、彼の根本方針があり、そのための具体策が用意されていたからです。
 
  彼の根本方針とは、26節の「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」というパウロの御言葉です。パウロは14章12節で「教会を造り上げるために」コリント教会のキリスト者たちに霊的な賜物を熱心に求めなさいと勧めています。「あなたがたを造り上げること」と「教会を造り上げること」は、同じことです。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちにコリント教会を造り上げるという目標の下に、40節でコリント教会のすべての集会を「すべてを適切に、秩序正しく行ないなさい」と命じています。
 
  わたしたちはここ何年も「聖書的教会の形成を目指して」という教会の目標を掲げて来ました。「聖書的教会の形成」とは、パウロの「あなたがたを造り上げる」「教会を造り上げる」「キリストの体なる教会を造り上げる」ということでしょう。そこでパウロは、聖書的教会を形成するために、26節で「あなたがたが集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのです」と述べています。
 
  パウロの時代の教会と現代のわたしたちの教会は、時代の制約があります。たとえばパウロの時代の教会は、コリント教会のように異言を語ることを、それを解釈する者がいれば、許されました。しかし、ウェストミンスター信仰告白が第1章の「聖書について」の第1節で聖書が完成したときに、「神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている」と告白していますように、わたしはコリント教会で問題になった異言は今日では停止していると信じています。
 
  だから、わたしたちの教会では、礼拝の中でも、他の集会でも「異言を語る」ことはありません。
 
  「啓示を告げたり」とは、預言者が語る言葉です。使徒言行録の中でも、アガボという預言者が自分の手足を縛り、エルサレムでパウロが捕らえられると語りました(使徒言行録21:11)。この神の啓示も、聖書の完成で直接に預言者が神の啓示を語ることは停止されました。「教え」とは、使徒や教師が教えることです。その中に当然説教が含まれます。
 
  だから、今わたしたちは、聖書的教会を建て上げるために、この教会に集まり、詩編を歌うこと、聖書朗読、説教、礼典である洗礼と聖餐式を執行すること、献金すること、祈ること、信仰告白すること等を行なっているのです。そして、今朝のパウロの御言葉から、聖書的教会を形成することとわたしたちが礼拝のプログラムの内容を検討し、礼拝改革を行なうことは関係していると教えられるのです。
 
  何よりもパウロは、礼拝プログラムについて、教会の秩序、集会の秩序を保つという面を重視しています。
 
  コリント教会の礼拝では、異言が語られていました。パウロは、教会を建て上げるために礼拝の中で異言を語ることを認めました。その時にパウロは、コリント教会の礼拝の秩序を重んじました。そこでパウロは、27と28節でコリント教会のキリスト者たちに、異言は解釈する者が必要であるから、2,3人が集会の中で順番に異言を語り、異言を解釈できる者に解釈させなさいと勧めました。解釈できる者がなければ、教会の中で沈黙し、密室で自分自身と神に対して語るように勧めました。理解できない異言は、教会を形成できません。むしろ、教会の中を混乱させ、手に負えなくさせるのです。
 
  次に預言する者の場合も、29と30節で次のように指示しています。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに預言を語る賜物を熱心に求めるように勧めました。しかし、信者の集まりでは、2,3人が預言するようにと、パウロは集会の秩序正しく守るように、人数を制限しました。そして、勝手に預言するのではなく、順番に預言し、先に語る者は、聖霊に導かれて後に語る者に譲るように勧めています。
 
  パウロは、預言を聞く聴衆たちに2,3人の預言する者たちの預言を検討しなさいと勧めていますね。パウロは、12章10節で「ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力」と述べています。説教を見分ける、識別する能力を、聖霊は説教を聞く者たちに与えられています。ですから、2,3人の者が預言したら、聞きました聴衆たちが3つの預言の直接の関連性を確かめるように、パウロは勧めています。
 
  わたしたちの改革派教会の教会規程の政治規準の55条(治会長老の任務)の6項に「説教の結ぶ実を、注意深く見守ること」とあります。長老は、按手を受けました時に、聖霊により「霊を見分ける力」を授けられたのです。説教を語る者が、福音を語っているのか、自分の話をしているのか識別する力を、聖霊から得ているのです。ですから、オランダ改革派教会では、長老たちは説教を終えました牧師を迎え、その牧師が福音を語っているなら、聴衆たちの前で握手し、牧師が福音を語らなかったなら、握手しませんでした。こうして礼拝の秩序が守られました。
 
  またわたしたちの教会では、礼拝で牧師だけが御言葉を語りますが、パウロの時代、コリント教会のキリスト者たちは皆、預言、すなわち、説教できました。ですから、説教していても、次の者が聖霊に導かれて説教を始めると、先の者は預言する者から静かに預言を聞く者にならなければなりません。次々と預言がなされると、聞く者が理解できず、集会が混乱するからです。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちに31節で共に学び、共に御言葉から慰められ、励まされるように、すべての者が預言できるようにしなさいと命じています。
 
  このパウロの命令は、教会を形成する上で大切なことです。使徒や牧師だけが預言できるのではありません。洗礼を受け、聖霊にあずかるキリスト者は皆、預言することができます。聖霊に導かれて共に聖書を学び、共に聖書の御言葉から慰めと励ましを得、その喜びを他の者に伝えることができます。ですから、日曜日の礼拝で説教を聞くことだけが、わたしたち信徒の務めではありません。聞いた説教を、そして教会で兄弟姉妹と共に学んだ聖書の御言葉を、家族に、友人に、出会った人に伝えることが務めです。
 
  「預言者に働きかける霊」とは、「預言者たちの霊」であり、パウロが熱心に追い求めるように勧めた「霊の賜物」であります。知恵である聖霊が、わたしたちに預言する賜物をお与えくださり、わたしたちの思いをくみ取り、機会をとらえて、わたしたちが家族に、知人に、出会う人々にキリストの福音を語らせてくださいます。
 
  33節後半から36節でパウロは、コリント教会のキリスト者たちに集会中の婦人の振る舞いについて勧めをしています。
 
  パウロは「婦人たちは教会では黙っていいなさい」と命じています。11章の「礼拝でのかぶり物」のところで、パウロは「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に」と述べて、婦人が集会で異言の祈りをし、預言することを認めております。その後でこのように「婦人たちは、教会では黙っていなさい」と命じていることは、何か奇妙な感じを受けます。
 
  しかし、パウロが命令するには、それだけの理由があるはずです。理解の鍵は、29節と35節です。パウロは、29節で預言を聞いた者は、それを検討しなさいと命じました。35節では、パウロが婦人たちに何か知りたいことがあれば、家で夫に質問しなさいと勧めています。それから、パウロは、「婦人にとって教会の中で発言するのは恥ずべきことです」と述べています。
 
  パウロの言葉から次のことが推測できます。コリント教会の婦人たちは、礼拝で語られた説教について質問したのでしょう。パウロが吟味しなさいと命令したことを、そのとおりに実行しました。ある婦人は、礼拝で預言がなされている最中に、預言を中断させる形で預言する者に質問したのではないでしょうか。こうして集会の秩序が乱されたのでしょう。
 
  そこで34節でパウロが次のように婦人たちに命じています。「婦人たちは従う者でありなさい」と。婦人たちも集会の規律に服従しなさいと、パウロは命じています。
 
  正直にこのパウロの御言葉は、理解困難です。しかし、教会を形成するためには、集会の秩序を重んずることが大切です。昔、引退教師の鈴木英昭先生が、ある本に大学紛争のころ、ある教会が礼拝を対話集会にしました。御言葉の権威、牧師の権威を排して、礼拝を自由な討論の場にしたそうです。その教会は、その後閉鎖されました。神の主権性が廃され、御言葉の権威が棄てられ、討論の場となった教会は、もうキリストの教会ではありません。
 
  最後にパウロは、14章全体を要約しています。
 
  37と38節でパウロは、コリント教会のキリスト者たちにパウロの使徒としての権威を主張しています。
 
  そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちの中で自分が預言する者であること、霊の人であることを自慢している者に、異言を語れることによってそれを証明するのではなく、パウロが37節で「わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい」と命じていることに服従することで証明しなさいと命じています。
 
  教会を造り上げるために、集会を秩序あるものとすることは、主イエスの御命令であると、パウロはコリント教会のキリスト者たちに宣言しました。ですから、使徒パウロの命令が、死人の中から復活し、今天にいます主イエスのご命令であることを認めない者は、その人が霊的な人であること、キリスト者であることを認められないのです。
 
  要するに12章から14章でパウロが述べてきました霊の賜物の問題は、パウロの見解ではなく、主イエスご自身の命令でした。主イエスご自身が、わたしたちに聖書的教会形成を命じられています。教会を造り上げるために、わたしたちが集まります教会の集会を、秩序あるものとし、わたしたちが熱心に預言の賜物を求めて、共に聖書を学び、共に聖書から慰めと励ましを得て、その喜びをわたしたちの家族、友人、出会う人々に伝えることを、パウロは主イエスの御命令として、わたしたちに命じています。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、どうかわたしたちに預言の賜物をお与えください。わたしたちに委ねられた聖書的教会の形成を目指し、教会の礼拝や集会を整え、わたしたちの心を、主イエス・キリストに向け、共に集まり、礼拝をし、共に賛美し、祈り、聖餐にあずかり、ささげものをし、心から神に感謝させてください。そして今朝の礼拝の喜びを、共に聖書を学び、共に聖書から慰めと励ましを得た喜びを、わたしたちの家族やわたしたちの町の人々に伝えさせてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈りますアーメン。

 

 

コリントの信徒への手紙一説教38     主の2015年2月8日

 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打のない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
           コリントの信徒への手紙一第15章1-11節

説教題:「生活のよりどころとしている福音」
 本日よりコリントの信徒への手紙一第15章に入ります。15章は、新しい問題に移ります。その背景は、15章12節です。コリント教会のキリスト者たちの中に「キリストが死者の中からの復活した」という福音のメッセージを否定する者たちが現れました。その理由は、彼らが死者の復活が信じられなかったからです。

 そこで使徒パウロは、15章12節以下で死者の復活を証明し、35節以下で復活の性質がどのようなものであるかを説明し、50節以下で神がキリストによって神の民に罪と死に対する勝利を賜ることを賛美しています。そして58節でパウロはコリント教会のキリスト者たちに復活の希望を再確認させ、キリストに結ばれている者の教会生活がどんなに労苦があろうとも無駄に終わることがないと奨励しています。

 使徒パウロは、復活についての主題に入る前に、その前提としての教会とキリスト者たちが「生活のよりどころとしている福音」について再確認しています。

 「よりどころとしている」とは、「立っているところの」、つまり、使徒パウロがローマの信徒への手紙11章20節に「あなたは信仰によって立っています」と述べていることです。
 
  「生活のよりどころとしている福音」の「福音」とは、「良き知らせ」であります。一般には「王の誕生と即位」、「戦に勝利した」という布告や告知を福音と言いました。それをキリスト教は用いて「主イエスが死に打ち勝ち、死人の中から復活し、主またキリストとして立てられた」というメッセージを、良い知らせ、福音と呼びました。
 
  この福音を聞いて、受け入れ、そして他者に福音を伝えることで、キリスト教会とキリスト者が生まれ、広がりました。1節の「わたしがあなたがたに告げ知らせた福音」とは、この手紙で次のように記されています。1章23節の「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」、2章2節の「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も語るまいと心に決めていたからです。」、6章14節の「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」。

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに彼が伝えました福音を再確認させるために、3-9節でもう一度その福音を語っています。それは、この福音こそが生活のよりどころであり、救いに至る道であるからです。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに彼らが信じた福音を思い起こさせています。

 さらにパウロは、2節で「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」と述べています。「しっかり覚えていれば」とは、「しっかり握っていれば」という意味です。

  パウロがわたしたちにここで言いたいことは、次のことです。パウロは、福音が現実に無駄になると思ってはおりません。福音は無駄になることはありません。なぜならキリストの霊である聖霊が福音を通してこの世に教会を立て、キリスト者たちを起こされているからです。
 
  しかし、どんなに教会の礼拝で福音であるキリスト教教理、すなわち、使徒信条が唱えられても、わたしたちが生活のよりどころとし、しっかりと握っていませんと、わたしたちはその福音を、他の人に喜びの知らせとして伝える事が出来ないので、わたしたちがこの世の人々に無駄であることを示すことになります。
 
  伝えられた福音は、キリスト教教理であり、使徒信条、ウェストミンスター信条、ハイデルベルク信仰問答、ジュネーブ信仰問答等があります。わたしたちの教会は、初代教会から宗教改革を経て、伝えられた福音を持っています。それを忠実に、根気よく学び、「どんな言葉で」それを伝えるか、その言葉の意味をよく知って、伝えられた福音を堅く守らないと、教会もキリスト者もこの世に堅く立つことはできないと、パウロはわたしたちに教えているのです。
 
  パウロは、3節で「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたことは、わたしも受けたものです」と述べています。パウロは、11章において聖餐式について述べたところで、11章23節で「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と述べています。
 
  使徒パウロは、直接主イエス・キリストの啓示を通して受けた福音がありました。たとえば、主イエスが復活の主であるという福音は、パウロ自身がダマスコの途上で復活の主イエスに出会うことで受けたものであり、何度も彼はその福音を公で語りました。ここでも8節と9節で語っています。
 
  他方で、主イエスのガリラヤ伝道における教えや受難週の出来事、主イエスの復活と弟子たちへの顕現は、パウロが直接に体験した使徒ペトロやヤコブ、12使徒たちやバルナバ等から聞いて、受け入れたことです。それをパウロは、コリント教会のキリスト者たちに伝えたのです。
 
  ここでパウロが福音の中で最も大切なこととして、彼が受け入れ、コリント教会のキリスト者たちに伝えたことは、3-9節です。第1に聖書に書いてあるとおり「キリストがわたしたちの罪のために死んだ」ことです。第2に死んで墓に「葬られた」ことです。第3に聖書に書いてあるとおり「三日目に復活」したことです。第4にキリストがケファ、すなわち、ペトロに顕現され、主イエスの弟であるヤコブに顕現され、12使徒や他の使徒たち、そして、500人以上のキリスト者たちに顕現され、最後に使徒パウロにもダマスコ途上で顕現されたことです。
 
  初代教会では、この4つの福音については、どこの教会でも、またキリストス者たちの間で一致していました。
 
  旧約聖書のイザヤ書53章3-12節で預言者イザヤが預言しています通りにキリストはわたしたち罪人の身代わりに十字架の上で死なれ、墓に葬られました。旧約聖書のホセア書6章2節とヨナ書2章1節で預言者ホセアとヨナが預言しました通りに、主イエス・キリストは3日目に死人の中から、墓の中から復活されました。そして、復活の主イエスは、ペトロに復活し現れたところを見られ、12使徒も他の使徒たちも、そして500人以上のキリスト者たちに現れたところを見られました。そして最後に生前の主イエスの弟子でなかったパウロ、すなわち、キリストの証人としては未熟なパウロに、しかも神の教会の迫害者であり、使徒の資格もないようなパウロに、ダマスコ途上で復活の主イエスは現れ、パウロに見られました。
 
  以上の4つの福音が大切なのは、次の通りです。第1のキリストの死は、十字架の死です。わたしたちの罪のための贖罪の死であり、代理の死です。主イエスの歴史における1回限りの死です。パウロは、コリントの信徒への手紙二5章14節で十字架の死を、キリストのわたしたちへの愛と教えています。キリストの十字架の死は、キリストの愛、神の愛、神の和解の出来事です。
 
  第2の「葬られ」は、キリストの死の事実を証言しています。それによってキリストがわたしたちの罪のために死なれたことを確証しています。
 
  第3の「キリストの復活」は旧約聖書の証言の通りにキリストが3日目に復活されました。死と葬りは1回限りの出来事でしたが、キリストの復活は今も継続された出来事であります。「復活した」とは、キリストが神の全能の御力によって復活させられたことを証言しています。天地を創造された全能の父なる神は、無から御言葉で世界を創造されたように、全能の御力で死人の中からキリストを復活させられました。
 
  第4の「キリストの顕現」は、キリストの復活を証言するものです。復活の主イエスは、ペトロに現れ、12使徒たちに現れ、他のすべての使徒たちに現れ、そして、主イエスの弟ヤコブに現れ、そして、パウロに現れられました。この出来事によってキリストの復活が確証されています。
 
  最後に使徒パウロは、9-11節で次のように自分のことを証言しています。彼がダマスコで復活の主イエスに出会って、どんなに変えられたか、どんなに豊かに神の恵みの中を生きて、働くことができたかを。パウロは、10節で「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と、キリストが復活し、ダマスコでパウロに現れてくださってので、今の使徒パウロという存在があると証言しています。
 
  パウロは、3-8節の福音を通して復活のキリストを通して神の恵みと力にあずかりました。キリストがパウロの罪のために十字架で死なれ、パウロを救うために死人の中から復活され、パウロにダマスコへの途上で現れ、そして、神の教会を迫害したパウロを、使徒として用いてくださいました。それによって神は、恵みの神であり、どんな罪人も愛して、キリストの十字架のゆえに罪を赦し、和解してくださることを明らかにされました。
 
  さらにパウロは、神の教会を迫害した罪を赦されただけでなく、使徒としてキリストのために多くの仕事をする神の恵みを得ました。彼は復活の主イエスに出会い、その後の人生を神のために、キリストのために生きました。それを、パウロは神の恵みの中を生きたと証言するのです。
 
  パウロのようにダマスコの途上で復活の主イエスに直接に出会うという体験は、今のわたしたちにはあり得ません。しかし、わたしたちもパウロのように神の恵みに中に生きていることを証しすることはできるのです。
 
  この世に教会があり、キリスト者が集まり、そこで礼拝がなされる限り、死人の中から復活されたキリストは、聖霊と御言葉を通してわたしたちの中に臨在されます。

 だから、礼拝する者は臨在のキリストに出会います。その証人がわたしたち一人一人です。わたしは、宝塚教会の礼拝を通して、聖書と説教を聞き続けました。目でキリストを見たわけではありませんが、臨在されるキリストはわたしを変えてくださいました。自己中心に生きる人生からキリストを、神を中心にする人生へと。自分が醜い人間であることは知っていましたが、神の御前に罪人であることは知りませんでした。礼拝を続ける中で、ただ神の恵みにより、天地の造り主なる父なる神を信じ、キリストが神の御子であり、人となり、わたしたちの罪ために十字架に死なれたことを受け入れました。そして、天地を創造された父なる神の全能の御力で、キリストが死人の中から復活され、わたしたちも神の全能の御力でキリストのように死人の中から復活することを信じ受け入れました。

  伝道者に召され、パウロほど多くの働きはできませんが、どこの教会に遣わされても、そこにキリストが臨在され、神の恵みの中で聖霊が御言葉と共に働かれて、一人のキリスト者を生みだされることを見させていただけることは本当に感謝なことであります。

  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちの教会で礼拝において使徒信条が唱えられ、ウェストミンスター小教理問答が唱えられていることを心より感謝します。それらの福音によってこの教会が立ち、わたしたちがキリスト者として存在している神の恵みを感謝します。
 
  使徒信条とウェストミンスター大小教理問答が聖書に書いてあるとおりに、天地万物を創造された神を信じ、神が創造された人と世界を摂理されていることを信じ、キリストがわたしたちの罪のために十字架に死なれたことを信じ、キリストが死人の中から復活されたように、わたしたちキリストを信じる者は、キリストと共に永遠の命に復活することを信じることができるようにお導きください。
 
  ただ、パウロが「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と告白していることは、本当にアーメンであります。わたしたちもいろいろな困難や悩みがありますが、神の恵みによってキリスト者であることを許され、歩めるようにお導きください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈りますアーメン

 

 

 

 

コリントの信徒への手紙一説教39     主の2015年2月15日

 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証ししたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたといわれるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
  そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。
           コリントの信徒への手紙一第15章12-34節

説教題:「死者の復活」
 本日は、コリントの信徒への手紙一第15章12-34節の御言葉を学びましょう。

  この御言葉の背景は、15章12節です。使徒パウロが開拓伝道し、建て上げたコリント教会の中のあるキリスト者たちが「死者の復活などない」と主張していました。彼らは、死者の復活を信じることができませんでした。なぜなら、この世の人々の考えに従っていたからです。当時のギリシア人たちは人間の肉体という牢獄に魂が囚われていると考えていました。だから、魂が肉体から解放されることが救いでした。ところが、その体が復活し、そこに自分の魂が再び囚われるなら、救いでなくなります。ですから、コリント教会のキリスト者のある者たちが、死者の復活を否定しました。

 そこで使徒パウロは、彼らに13節以下で死者の復活を証明し、キリスト教の救いについて教えようとしたのです。

  ここで使徒パウロが死者の復活を証明しようとしている相手は、コリント教会のキリスト者たちであります。次の3つによって死者の復活を説得しています。すなわち、信仰と復活のキリストとキリスト者と彼の証しであります。

 パウロは、第1に13-19節で、信仰によって死者の復活を証明しようとしています。

 パウロは、死者の復活を否定するキリスト者たちに信仰によって証明しています。13節で死者の復活がなければ、キリストの復活もないと論じています。当然です。キリストは十字架で死なれて、3日目に死者の中から復活されました。死者の復活を否定することは、そのキリストの復活を否定することです。この議論で、パウロは死者の復活を否定するキリスト者たちの矛盾を指摘するのです。キリスト者とは十字架と復活のキリストを信じる者だからです。

 さらにパウロは、死者の復活を否定するキリスト者たちに「あなたがたの信仰すら根拠がなくなりますよ」と、次のように議論を進めています。14節です。キリストが復活しなければ、パウロがコリント教会のキリスト者たちに福音宣教したことに意味がなく、それを聞いてキリスト者になった彼らの信仰も意味がなくなります。

 パウロは、死者の復活を否定するキリスト者たちがどんなに惨めな者であるかを次のように指摘します。15節でパウロは彼らを神の偽証人であると指摘します。そして16節でその理由を次のように述べています。死者の復活がないなら、キリスト者は死者の中から復活しなかったキリストを復活したと、神に反して証ししているからです。

  神の偽証人であるだけではありません。17-18節でパウロは、死者の復活を否定する者たちの信仰をさらに無意味にする惨めさを次のように指摘します。すなわち、彼らは今なお自分たちを罪の中に置いていると。わたしたちキリスト者は今もなお罪の中に留まり、キリストを信じて死んだ者たちは滅びてしまったということになります。
 
  パウロは、19節で次のように死者の復活を否定するキリスト者の信仰の惨めさを指摘します。彼らの信仰は夢、幻になります。キリストが復活されないならば、キリストの再臨もありません。その再臨に向けて生きているキリスト者は、だれよりも惨めであります。
 
  だから、パウロは、第2に20-28節でキリストの復活によって死者の復活を証明しようとしています。
 
  パウロは、20節で実際にキリストは死者の中から復活し、死者の復活の初穂となられたと宣言しています。
 
  21節と22節でパウロは、アダムとキリストを対比しています。アダムは全人類の代表者であり、キリストは神の選民であるわたしたちキリスト者の代表者であります。アダムの罪により全人類に死が入りました。同じようにキリストの従順と復活によりキリストにあって選ばれたすべてのキリスト者たちに永遠の命が与えられました。
 
  パウロは、23節から26節でわたしたちキリスト者が救われる順序を述べています。最初がキリストの復活です。この出来事で死者の復活が保証されました。キリストを信じるわたしたちが死人の中から復活し永遠の命を得る事が保証されました。次のキリストの再臨です。キリストを信じたすべてのキリスト者を、キリストは死人の中から復活させられます。そして世の終わりがきます。その時にキリストは、悪魔や敵対勢力を滅ぼされ、父なる神に御国を渡されます。復活し、天に昇られ、神の右に座されて、再臨まで支配されたキリストは、その支配を父なる神にお渡しになり、最後の敵である死が滅ぼされて、永遠の御国が完成するのです。
 
  27-28節でパウロは、最後の敵である死が滅ぼされたときに、仲保者キリストの務めを終えられます。そして御子であるキリストは、永遠に父なる神に服従されます。このようにパウロは、死者の復活がなければ、キリストの復活もなく、神の御国の完成がなされないことを示し、死者の復活をキリストの復活によって証明しようとしました。
 
  最後にパウロは、キリスト者と彼の証しによって死者の復活を証明しようとしています。
 
  パウロは、29節でコリント教会のキリスト者たちが死者のために洗礼を受けていたことを取り上げています。代理洗礼のことであると考えられています。コリント教会ではある者が洗礼を受ける前に亡くなり、家族か友人かがその者のために代理受洗する習慣があったと考えられています。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちが代理洗礼を実践していた事実に注目させ、死者の復活がなければ、この習慣は無意味ではないかと論じました。
 
  さらに30節で、パウロはキリスト者の殉教に言及しています。キリスト者たちは、日々キリストのために苦しむことを喜びました。それは、復活と御国の喜びを信じていたから、その苦しみに耐え、喜ぶことができました。しかし、死者の復活がなければどうでしょうか。キリスト者は受難に耐える事が出来るでしょうか。
 
  最後にパウロは、31-32節で次のように彼の信仰の戦いを証ししています。洗礼を受けてキリストと一つとされたパウロは、日々キリストのために苦闘していました。自分の名誉のために戦っていたのであれば、それは彼の信仰にとって意味がなかったでしょう。そして、死者の復活がないのであれば、キリスト者の信仰の戦いに意味がありません。なぜなら、キリストは復活されなかったし、再臨されません。彼の信仰の戦いを正しく評価する者はいません。それならば、この世で楽しくおかしく、自分の好きなことをして過ごす方がよいでしょう。人間はだれもが明日は死ぬのですから。
 
  だが、パウロは、死者の復活を信じ、キリストの復活を信じています。彼は、復活のキリストに出会い、使徒に召されたのです。そこで死者の復活を否定するコリント教会のキリスト者たちに「思い違いをしてはいけない」と警告しました。
 
  復活を否定していたキリスト者たちは、世俗的な生活に流されていたのではないでしょうか。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」とは、聖書の御言葉ではありません。コリントの町で人々がよく口にしていたのではないでしょうか。処世訓であります。「悪いつきあい」を復活の教理を否定するキリスト者たちの世俗的な生活であると理解し、「良い習慣」を教会の礼拝生活と理解すれば、わたしたちにも教訓になるのではないでしょうか。
 
  この世の生活に流されるキリスト者と子供たちは、神を教会で礼拝するという良き習慣を台なしにします。
 
  34節で、パウロがコリント教会のキリスト者たちに警告している通りです。「正気になって身を正しなさい。」とは、「ちゃんと酔いを覚ませ」という意味です。キリスト者であるのは、キリストと結びつき、教会と礼拝と結びついている限りです。キリストを離れ、教会と礼拝を離れても、自分はキリスト者であると思うのは、酔っ払いと同じです。「罪を犯してはならない」とは、「罪を犯し続けてはならない」です。キリストを離れ、教会と礼拝を離れ、この世の生活を続けてはいけないと、パウロは警告したのです。
 
  どうしてでしょうか。「神について何も知らない人がいるからです。」パウロは、「神の無知を持つ人がいるからです」と言っています。パウロは、コリント教会のキリスト者に向けて警告しているのですから、「神について何も知らない人」、「神の無知を持つ人」は、コリント教会のあるキリスト者たちのことです。
 
  そしてパウロがコリント教会のキリスト者たちに警告したのは、彼らを恥じ入らせるためです。それは、コリント教会のキリスト者たちをへりくだらせることではありません。むしろ、彼らが、どのような心構えで信仰生活をすべきかを教えるためでした。
 
  わたしたちの教会で死者の復活を否定する者はおりません。だから、今朝のパウロの御言葉はわたしたちの教会には必要がないとは言えません。むしろ逆です。死者の復活こそがわたしたちの信仰と救いの中心であることを今一度心に刻みましょう。
 
  なぜなら、死者の復活を信じることは、キリストの復活を信じ、今キリストが教会を通して世界を支配し、来るべきキリストの再臨により、わたしたちキリスト者を復活と永遠の命を与え、そして神の御国が完成することを信じることになるからです。
 
  この信仰によってわたしたちは、この世に埋没することなく、わたしたちの国籍は天にあることを確信し、この世にあっていろいろな困難の中で確かな希望に支えられて生きる事ができるからです。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝は使徒パウロがわたしたちキリスト者に死者の復活を証明しようとしたことを学ぶことができて感謝します。キリストが死人の中から復活され、わたしたちが罪と死から解放され、永遠の命を得たという福音によってわたしたちの教会がここに立っています。
 
  死者の復活を信じるゆえに、キリストの復活を信じ、今も生きるキリストが教会を通して世界を支配し、再臨され、世の終わりにわたしたちが死人の中から復活させられ、永遠の命にあずかり、神の御国が実現することを信じることができる事を感謝します。
 
  願わくは、常に教会の礼拝にあずかり、神の御言葉を聞き続けることができるようにしてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈りますアーメン。



      コリントの信徒への手紙一説教40     主の2015年3月1日

 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉にも同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるとき朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときに弱いものでも、力強いものに復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
           コリントの信徒への手紙一第15章35-49節

説教題:「復活のからだ」
 本日は、コリントの信徒への手紙一第15章35-49節の御言葉を学びましょう。

 今朝の御言葉は、パウロが死者の復活を否定するコリント教会のキリスト者たちの疑問を想定して、それに答える形で、どのように死者のからだが復活するかを具体的なたとえを用いて論じています。
 
  35節の御言葉は、パウロが想定した質問であります。パウロは、死者の復活を否定するコリント教会のキリスト者たちが次のように質問すると想定しています。すなわち、「死者はどのように復活するのか。またどんな体で来るのか」という質問です。
 
  この質問は、死者の復活が本当にどのようなものであるかを知りたくてしている質問ではありません。復活の教理を反対する議論として、この質問をしているのです。
 
  コリント教会の中で死者の復活に否定する者たちは、死者のからだの復活を考えることも、まして信じることなどあり得ませんでした。なぜなら、当時のギリシア人たちは、からだ、すなわち、肉体は魂の牢獄であると考えていたからです。魂が肉体から解放されることを救いと信じる者にとって、からだの復活は受けいれることができませんでした。
 
  36節でパウロは、死者の復活を否定する者たちを「愚かな人だ」と答えています。それはパウロが次のように考えたからです。死者の復活を否定する者たちは、死者の復活を死んだ人間が再生することと考えていると。死んだ者の死体が埋葬され、その後に死体を構成する物質そのものが再生することを、からだの復活と理解しました。パウロは、死者の復活をこのように考えている者を「愚かな人だ」と言っています。
 
  そこでパウロは、彼らに次のように答えています。「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」主イエスも、ヨハネによる福音書12章24節で「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われています。パウロは、死者の復活の仕方を論じるために、植物の種子のたとえを用いました。すなわち、死者の復活は、種から新しい植物が成長するように起こるのだと。
 
  パウロは、37節で種は土に蒔かれて死に、新しい命が芽生えることを、次のようにたとえています。「あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。」このパウロのたとえのポイントは、種から新しい植物の命の連続性と種と新しい植物が異なっている点であります。復活も同じです。わたしたちのからだは死んで葬られます。そして死者の復活のからだは、わたしの命という連続性はありますが、今のわたしのからだと復活のわたしのからだは異なるものであります。
 
  さらにパウロは、38節で神が死者から新しいからだを創造することを教えています。「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種に体をお与えになります。」死者の復活のからだは、神の創造であります。神は御心に従って、わたしたちひとりひとりにふさわしい復活のからだを創造して与えてくださいます。
 
  39節でパウロは、天地万物を創造された神が多種多様な肉を創造されたことを教えています。たとえば、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉です。これらは、それぞれ異なっています。
 
  ところが、パウロは、40-41節で人間の肉だけを、神は朽ちないものに替えようとされている点の違いを指摘します。すなわち、人間のからだは、地上のからだと天上のからだがあり、地上のからだと天上のからだは「輝き」、すなわち、「栄光」が異なります。神が創造された宇宙においても太陽の輝きと月の輝きと星の輝きは異なり、星と星の間の輝きも異なります。神は、無限の多様性で創造された世界を支配されています。
 
  42-43節でパウロは、神が創造された被造世界が多様であるように、神が創造された死者の復活のからだも多様であることを教えています。すなわち、わたしたちの地上のからだは朽ちるものですが、神が創造されるわたしたちの復活のからだは朽ちません。わたしたちのからだは卑しい、すなわち、栄光のないからだですが、神が創造される復活のからだは輝かしい栄光です。わたしたちの地上のからだは、弱いものですが、神が創造された復活のからだは力強いものです。
 
  パウロが44節で「自然の命の体」と言うのは、「地上の生を表す生来のからだ」であります。それに対して「霊の体」とは、復活の生を表す終末の栄光のからだであります。
 
  さらに45-49節でパウロは、最初の人アダムと最後のアダムキリストとを対比してわたしたちの地上のからだと復活のからだの区別を論じています。最初のアダムは、神が塵で人の形を造られ、神の息を吹き込まれると生きた者となりました。最後のアダムキリストは、命を与える霊となられ、わたしたちは死者の中から復活し、復活のキリストのからだにあずかるのです。最初にわたしたちの地上のからだがあり、次に霊の体、すなわち、復活のからだがあります。すなわち、最初の人アダムは、土の塵で造られ、地に属する者であり、第2のアダム、キリストは、天から来られ、天に属する者であります。
 
  自然にこの世に生まれた者は皆、土から創造されたアダムに等しいのです。アダムが罪によって死ぬように、死んで地に葬られます。それに対して洗礼によってキリストと結ばれたキリスト者は、天に属するキリストに等しいものです。キリストが死者の中から復活されたように、復活のキリストに似た者、天の栄光のからだに復活するのです。
 
  今朝の御言葉がわたしたちに伝える喜びは、復活のキリストがわたしたちキリスト者に永遠の命を与え、栄光のからだにわたしたちを復活させてくださるという喜び希望であります。わたしたちは、洗礼を受けてキリストに結びついています。キリストが死者の中から天上の栄光のからだに復活されたように、わたしたちもやがてこの体は死に、墓に葬られますが、キリストが再び来られて、死んだわたしたちのからだを栄光のからだに復活させてくださいます。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝は使徒パウロがわたしたちキリスト者に死者の復活の仕方を教えてくれたことを学ぶことができて感謝します。キリストが死者の中から復活されたように、わたしたちキリスト者もこの体が死んで墓に葬られようと、必ず再臨のキリストがわたしたちを栄光のからだに復活させてくださることを信じることがゆるされて心より感謝します。
 
  願わくは、レントの季節にキリストの受難と十字架に心を向けつつ、死者の中から復活されたキリストのイースターの喜びへとわたしたちをお導き下さり、今朝聖餐の恵みにあずかり、来るべき御国を待ち望ませてください。この願いと祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。