ジュネーヴ教会信仰問答11           主の202191                                                                   

聖書箇所:マタイによる福音書第11823(新約聖書P12)

第一部    信仰について

 第五聖日

30 さあ、第二の部分へ進みましょう。

答 こんどは「われらの主、神の独り子、イエス・キリストを信ずる」ことです。                               

31 ここにはどういうことが含められていますか。

答 神の御子が私たちにとって救い主であられることなのですが、同時に、私たちが死から贖われて命を得た方式がここで説明されます。

32 あなたが彼を呼ぶ「イエス」という名はどういう意味ですか。

答 ギリシャ語の「ソーテール(救い主)」が意味するものでありますが、ラテン語にはその意義を十分に表わす適切な言葉がありません。それで「救い主」(サルヴァトール)という語が一般に用いられます。さらに、御使いが神の御子にその名を与えたのは、神御自身の、命令によってであります。

 

今日から、ジュネーヴ教会信仰問答の第五聖日(第五課)、問3039と答を学ぼう。第五聖日(第五課)から第十三聖日(第十三課)が使徒信条の第二部分、キリスト論である。主イエス・キリストとその救いを扱っている。

 

2829と答で、私たちは、ジュネーヴ教会信仰問答から次のことを学んだ。創造主で、全能の父なる神は、不敬虔な者たちと悪魔を御自身の摂理によってではなく、裁きの権能によって服従させられており、それゆえこの神認識によって私たちが次の益を得ていると。すなわち、神御自身が特別に不敬虔な者たちや悪魔から私たちの守り手となられ、私たちは常に神の救いと保護の中に置かれているという慰めと平安である。

 

では、使徒信条の第二の部分に進もう。使徒信条の第二の部分の表題は、「われらの主、神の独り子、イエス・キリストを信ずる」である。

 

第五聖日(第五課)の問3039と答は、問3031と答で、使徒信条の第二の部分の総論を述べている。問30と答は使徒信条の第二の部分の表題である。問31と答はその表題にどういう意味が、そして、私たちがどのような方法で「われらの主、神の独り子、イエス・キリストを信ずる」という表題を学ぶべきかを述べている。

 

そして、問32と答から、「われらの主」の学びが始まっている。その学びは、第五聖日(第五課)と第六聖日(第六課)である。問3244と答である。

 

3233と答は、私たちの主の御名「イエス」について述べている。問3439と答は、「キリスト」という主イエスの職務について、その職務の名の由来と意味と、そしてキリストを預言者、祭司、王という職務に関連づけて説明している。その説明は、第六聖日(第六課)の問4045と答まで続いている。

 

以上が「われらの主」を説明しているのである。

 

さて、ジュネーヴ教会信仰問答は、問31の答で「神の御子が私たちにとって救い主であられることなのですが、同時に、私たちが死から贖われて命を得た方式がここで説明されます。」と述べている。誰もがこの問答で主イエス・キリストの御降誕を思い起こすだろう。

 

主イエスは、聖霊によって処女マリアの胎より生まれられ、「神の子」と呼ばれる(ルカ1:35)。天使は夫のヨセフにマリアが産む男の子の名を「イエス」と名付けるように命じている。この男の子が自分の民を罪から救うからである(マタイ1:2122)

 

ギリシャ語の「イエス」という御名は、ヘブライ語の「ヨシュア」に由来する。「主は救い」という意味である。

 

「主」は、ヘブライ語で「ヤハゥエ」で、主なる神はモーセに御自身を「わたしはある。わたしはあるという者だ」と啓示された(出エジプト記3:14)。そして主なる神は、モーセに「わたしは主である」と啓示された(6:2)。主なる神は、モーセに御自身を永遠の自存者、不変の絶対的存在として啓示され、過去においてはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れ、今も生きて働かれ、アブラハムとの恵みの契約を守られて、神の民を救い、助け、祝福されている。

 

主なる神は、神の子、人の子としてこの世に生まれられた。それが主イエス・キリストである。主イエスは、救い主、天地の一切の権能を与えられた絶対的主権者である。

 

われらの主」とは、ローマ帝国の支配下にあった世界がローマ皇帝を主と告白したことに対して、主イエスこそ真の神であり、支配者であるという信仰告白なのである。

 

 

主イエスこそ十字架と復活の御業によって私たちを罪と死から贖われ、永遠の命を与えるという仕方で、御自身を私たちの主として現わされたのである。だから、主イエスを私たちの主と認識することは、私たちがどのようにして主イエスによって罪と死から救われたか、私たちの贖いをよく知ることなのである。主イエスという御名は、私たちを罪から救う救い主という意味である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答12           主の202198                                                                   

聖書箇所:マルコによる福音書第1115(新約聖書P61)

第一部    信仰について

 第五聖日

33 それは人々が彼に名を付けた以上に大事なことではありませんか。

答 全くそうであります。御子がこの名で呼ばれることを神が欲したもうたのですから、全面的にその通りである必要があります。                               

34 次に「キリスト」という名は何を意味しますか。

答 この言葉は彼の職務をさらに良く表わすものです。すなわち、彼は御父から、王として、祭司として、預言者として、「油を注がれたもうた」ことを意味します。

35 どういうふうにして、あなたはそのことを知っているのですか。

答 聖書ではこの三つの役目に油注ぎを適用するからです。そして、私たちのいうこの三職はしばしばキリストに帰されています。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第五聖日(第五課)、問3335と答を学ぼう。第五聖日(第五課)の問34と答から第六聖日(第六課)の問45と答まで「キリスト」についての解説である。「キリスト」の意味、キリストの職務とその益についての解説である。

 

33と答は、私たちの救い主を「イエス」と名付け、呼ぶことの重要性を述べている。救い主を「イエス」と名付け、呼ぶのは人々である以上に、父なる神が御自身の御子を、「イエス」と名付け、呼ぶように願われたのである。神の御子イエス・キリストによって、父なる神は御自身の民を罪から贖うことを御計画され、聖霊によって清められたマリアの胎を通して生まれられた御子を、「イエス」と名付けられたのである(マタイ1:21)

 

「イエス」は、ヘブライ語の旧約聖書では「ヨシュア」である。旧約聖書のヨシュア記を読むと、ヨシュアは神の民イスラエルの指導者モーセの後継者として、神の民を約束の地カナンに導く者である。主なる神が神の民イスラエルの先祖アブラハムに約束されたカナンの地に、彼が神の民を導くのである。ヨシュアは、主イエス・キリストの予型である。ヨシュアが神の民を約束の地に導くように、神の民を罪から贖われたイエスは、神の民を御国へと導く者である。「イエス」はこのように父なる神が主イエス・キリストを救いの器として用いられるので、私たちにとって人々が「イエス」と名付け、ヨブ以上に大事なのである。

 

では、「われらの主、神の独り子、イエス・キリストを信ずる」という表題の「キリスト」について学ぼう。問34と答は、「キリスト」という名の意味である。ジュネーヴ教会信仰問答は「この言葉は彼の職務をさらに良く表わすものです。」と述べている。「キリスト」は、職務を表わす名称である。主イエスの称号である。主イエスの御名が神の啓示であるように、この「キリスト」という称号も同じである。

 

キリストは、ヘブライ語の旧約聖書では「メシア」である。この問答が「すなわち、彼は御父から、王として、祭司として、預言者として、「油を注がれたもうた」ことを意味します。」と述べているように、キリストは、メシア、すなわち、「油注がれた者」という意味である。問答が「王として、祭司として、預言者として」と述べるように、旧約聖書において主なる神は王、祭司、預言者という重要な職務に就ける者に油を注いで任職させられました(サムエル記上10:1、出エジプト記29:36、列王記上19:16)

 

主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。水から上がられると、天が裂けて聖霊が鳩のように、御自身に降られるのを、見られた。天から父なる神の御声が聞こえた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と(マルコ1:911)

 

主イエスは、聖霊の油を注がれてキリストすなわち、王、祭司、預言者としての職務に就かれた。そして、その職務を通して、神の民を罪から贖われたのである。

 

旧約聖書においては、アッシリア帝国が北イスラエル王国を滅ぼし(紀元前722)、バビロニア帝国が南ユダ王国を滅ぼし(紀元前586)、亡国の苦難の中で神の民たちは、王であり祭司であり預言者であるメシアを待望した。メシアによってイスラエルの再建を願ったのである。そのメシアは、エリヤやエリシャのように奇跡を行う預言者、ダビデ王のような王、そして、主なる神に神の民を執り成す祭司である。

 

だから、主イエスは、預言者として神の国の奥義を語られ、エリヤとエリシャのように奇跡をなし、ユダヤの王として十字架刑で死なれ、その十字架において主イエスは、神の民の罪のために御自身を犠牲とし、祭司として彼らを父なる神に執り成されたのである。

 

この問答が問35と答で述べるように、旧約聖書において王、祭司、預言者の三職に、油が注がれ、預言者は主なる神の御言葉を民たちに語り、王は神の民を統治し、祭司は主なる神に神の民たちを執り成す役目をはたした。

 

そして、キリストは、御自身がメシア、キリストとして、この三職のお働きを通して、神の民の救いを成し遂げられたのである。

 

イエス・キリストを信ずる」とは、四福音書が証しするこの地上に来られ、預言者として神の国の福音を語られ、病人を癒され、ユダヤの王として十字架で死なれ、御自身を神の民たちの罪の犠牲として、父なる神に神の民を祭司として執り成された主イエスを、キリストと信じるということである。

 

 

ジュネーヴ教会信仰問答13           主の2021915                                                                 

聖書箇所:イザヤ書第61111(旧約聖書P11621163)

第一部    信仰について

 第五聖日

36 しかし、どのような種類の油を彼は注がれたもうたのでしょうか。

答 それは目に見える油ではありません。昔の王たち、祭司たち、預言者たちを聖別するに当たって用いられたのは、そのような目に見える油でしたが、それよりも優れた油、すなわち聖霊の恵みであります。それは外的な油注ぎの指し示す真理そのものです。                               

37 あなたが挙げた彼の王権はどのようなものですか。

答 それは霊的で、神の言葉と聖霊とからなる支配であって、義と命を齎らすものであります。

38 では祭司職はどうですか。

答 これは恵みを獲得するために神の御前に出頭する職務であり、特権であり、さらに神に受け入れられる犠牲を捧げて御怒りを宥めるものであります。

39 ところで、あなたがキリストを預言者と呼ぶのは如何なる意味ですか。

答 彼はこの世にくだりたもうた時、御自身が人々に対する御父の使節また代弁者であると宣言したもうたからであります。この職は彼において終わり、御父の意志は十分に説き明かされ、全ての啓示と預言に終結がつけられたのであります。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第五聖日(第五課)、問3639と答を学ぼう。第五聖日(第五課)の後半の部分である。キリストの油注ぎの「油」の種類(36と答)、キリストの王・祭司・預言者の職務についての解説である(3739と答)

 

ヘブライ語の「メシア」、ギリシア語の「キリスト」は、「油注がれた者」という意味である。この称号は、旧約聖書においては王(イザヤ45:1)と祭司(ゼカリヤ4:14)と預言者(イザヤ61:1)を指して用いられている。だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、「昔の王たち、祭司たち、預言者たちを聖別するに当たって用いられた」と解説する。その油は、目に見えるオリーブ油であった。しかし、主イエス・キリストは聖霊を注がれた(マルコ1:911)。天が裂け、霊が彼の中に降った。

 

イザヤ書6113節は、第三イザヤという無名の預言者の召命と派遣の記事である。第三イザヤである「わたし」を主なる神が召されて、預言者とされた。彼は油注がれ、主なる神の霊に支配された。彼の使命は、貧しい者に福音を宣べ伝えることである。この貧しい者とは経済的困窮者ではない。バビロン捕囚以後において困窮の中にいる神の民たちである。自由を奪われ、絶望の中にいる者たちである。彼らに自由と慰めの福音を伝えることが第三イザヤの預言者としての使命であった。

 

そして、彼は来るべきメシアの予型でもある。主イエス・キリストは、第三イザヤが指し示す実体である。真理そのものである。だから、主イエスは、神の民を罪から救う救い主として、聖霊を注がれ、預言者として悪霊と罪に捕らわれていた神の民たちに神の国の福音を宣べ伝え、彼らの病を癒し、彼らから悪霊を追い出された。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問37と答でキリストの王権を解説する。キリストの王権はこの世のものではない。「霊的で、神の言葉と聖霊とからなる支配」である。キリストの王権は、この世の王のように目に見えるものではない。目には見えない神の支配である。神は、聖霊と御言葉によって神の民を統治される。それは、具体的には、この世における教会という姿である。

 

主イエス・キリストは、教会の神礼拝と福音宣教を通して聖霊と御言葉によってこの世から神の民を集め支配される。キリストの十字架の福音が語られ、罪の赦しと義と永遠の命が主イエスを信じる神の民に与えられる。

 

38と答においてジュネーヴ教会信仰問答は、キリストの祭司の職について解説する。大祭司は年に一度至聖所に入り、主なる神に神の民の罪を執り成しました。また、神の民たちが携えて来た動物を主なる神にささげて、神の怒りを宥めました。主イエス・キリストは、祭司が指し示す実体であり、真理そのものである。主イエス御自身が罪無き、無傷の犠牲として、わたしたちの罪の犠牲として父なる神にささげられた。そして、御自身が十字架の死に至るまで父なる神に完全に服従された義を、わたしたちに与えて下さった。主イエス・キリストによって罪を赦され、神の御前に義とされ、神の子とされ、永遠の御国の相続人とされたのである。

 

39と答においてジュネーヴ教会信仰問答は、キリストの預言者職について解説する。主イエス・キリストが預言者であるのは、彼が御父なる神の「使節または代弁者であると宣言された」からである。「使節」は、御父から委託を受けた使いのことである。主イエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言された(マタイ28:18)。主イエスは、御父の「代弁者」である。仲介人、御父の御言葉を神の民に取り次ぐ人である。預言は、主イエスが御父から御言葉を与り、わたしたちに告げられることである。そして主イエスを通して告げられた神の御言葉は、聖霊が聖書によって完結されているのである。

 

 

キリストの王と祭司と預言者としての職務は、キリストが受肉し、神人という二性一人格を取られ、十字架と復活の御業を通して、御自身の低き状態と高き状態において、父なる神に完全に服従され、そして昇天し、神の右に座されている今も遂行されているのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答15           主の2021929                                                                 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第4716(新約聖書P356)

第一部    信仰について

 第六聖日

42 彼が王であることは私たちに何をもたらしますか。

答 まことに、私たちは彼の恵みによって良心の自由を得て、敬虔で聖い生活を営むようにされ、また彼の霊的な豊かさに与からせられ、魂に絶え間なく戦いを挑む、罪、肉、サタン、この世に打ち勝つに足る力をもって武装されるのです。                               

43 それでは祭司職は何の益になりますか。

答 第一に、この務めによって彼は私たちを御父と和解させる仲保者であられます。第二に、御父に近づく道は彼によって私たちのために開かれました。こうして、私たちは信頼をもって御父の前に進み出、己れ自身と、己れの物すべてを、供え物として御父に捧げるのであります。また、このようにして、私たちは祭司職に関しある意味で彼の同僚とされるのであります。

      へブル七、八、九、十章、十三・十三―十六

44 預言が残っています。

答 神の御子にこそ神の民の間における教師の務めが授けられたのです。その目的は父についての真の認識によって彼らを照らし、彼らに真理を教え、神の家の内弟子にすることであります。

45 それでは、あなたの言ったことの全体を纏めると、キリストという名には三つの職務が含められ、その職務の力と実りを民らに注ぎ移すために、御父が御子にこれらを委ねたもうたということになります。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第六聖日(第六課)、問4245と答を学ぼう。第六聖日(第六課)の前半の部分(4041と答)を、前回学んだ。キリストの三職については、第五聖日(第五課)で学んだ。第六聖日(第六課)は、キリストの三職から私たちが受ける益について学ぶのである。キリストの三職が私たちに幸いをもたらすのである。なぜなら、キリストは、私たちに豊かな賜物を授けるために、御父から賜物を授けられたのである。キリストが私たちの賜物の源泉である(40と答)。そして、キリストの賜物は、聖霊を通して私たちに与えられるのである。だから私たちの霊的賜物は、キリストを源泉とするのである(41と答)

 

私たちは、キリストを源泉とする霊的賜物を、私たちの信仰という器をとして受領するのである。その時に御父が秤によって、私たちにキリストの賜物を授けられるのである。御父は聖霊を通して、キリストからある者には多くの賜物を、ある者にはわずかな賜物を授けられる。主イエスがタラントのたとえ話をされた通りである(マタイ25:1430、ルカ19:27)。私たちは、御父から授けられた賜物の多少に関係なく、それを忠実に活用しなければならないのである。

 

さて、問4245と答は、各論である。問42と答は、キリストの王職が私たちにもたらす益である。キリストが神の民の王として、私たちを統治されることが、私たちにどんな益をもたらすのかを問い、答えている。

 

キリストは、十字架と復活によって私たちをサタンと罪と死の奴隷状態から解放してくださったのである。だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、その結果として「私たちは彼の恵みによって良心の自由を得て、敬虔で聖い生活を営むようにされ」と述べている。奴隷的意志ではない。神の子としての良心の自由を得て、「敬虔で聖い生活」、すなわち、キリスト者の生活を営むようにされたのである。それは、礼拝と祈りと善き生活である。

 

復活のキリストは、私たちが礼拝と祈りと善き生活を営むために「彼の霊的な豊かさに与からせられる」のである。具体的には、キリストの王職に与らされるのである。王職をキリストと共有し、「魂に絶え間なく戦いを挑む、罪、肉、サタン、この世に打ち勝つに足る力をもって武装される」のである(エフェソ6:1020)。キリストの王職によって、私たちに御自身の御力を授けて、サタン、罪、死、この世に対して勝利するために私たちを武装させられるのである。

 

キリストの祭司職(43と答)は、私たちに次のような益をもたらすのである。第一に私たちは、御父との和解者である仲保者主イエス・キリストを得る。キリストの十字架によって、私たちは罪を赦されただけではなく、キリストの従順によって義を得て、神の子とされ、キリスト同様に私たちが父なる神への捧げものとされている(ヘブライ8、9、10)。私たちは、大祭司キリストが私たちを父なる神に執り成されたように、万人祭司として家族、隣人をキリストへと執り成す伝道に励むのである。キリストの預言者職(44と答)は、私たちに次のような益をもたらす。それは私たちが教える賜物を得ることである。復活の主イエスは11弟子たちに大宣教命令をされ、11弟子たちが内弟子を作るために、彼らと主イエスの弟子たちに教える賜物を与えられた(マタイ28:1920)

 

キリスト者は万人祭司であり、万人預言者である。教会に牧師という聖書についての専門の教師がいる。しかし、信徒も両親に子供への教育が委ねられ、未信者に聖書と信仰を教えることが委ねられている。信徒は信徒伝道者である。自らが礼拝で聖書と神とキリストの救いを知り、教えるのである。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答16           主の2021106                                                                 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第11418(新約聖書P163)

第一部    信仰について

 第七聖日

46 神は私たちすべてを子という呼び名にふさわしいとされるのに、あなたはなぜ彼を神の「独 

り子」と呼ぶのですか。

答 私たちが神の子であるのは、生れながらではなく、ただ子として受け入れられ、そして恵みによってのみ、神が私たちをこのようなものと看做したもうからです。ところが、主なるイエスは御父の本質から生まれ、御父と本質を一つにし、最も正当な権利をもって「神の独り子」と呼ばれたもうのです。すなわち、本性によって子であるのは彼だけだからです。 

                         エフェソ1章、ヨハネ1・1-18,ヘブライ1章                              

47 それでは、この誉れは本性上正当にこれが帰せられるべき彼に固有のものであって、私

たちは彼の体の肢である限りにおいて、この誉れを恵みによる特典として伝達される、とあなたは理解しているわけですね。   

答 そうです。したがって、私たちにこのようにして与からせられていることを考慮して、聖書の他の箇所で彼は「多くの兄弟のうちの長子」と呼ばれています。

                                   ローマ829、コロサイ115

48 彼が私たちの「主」であられることを、あなたはどのように理解しますか。

答 彼はその主権のもとに私たちを掌握し、天においても地においても神の支配を遂行し、また人間と御使いの首となるために、御父によってこのように立てられたもうたのです。

                          エフェソ523、コロサイ115以下

今日よりジュネーヴ教会信仰問答の第七聖日(第七課)、問4654と答を学ぼう。第六聖日(第六課)でキリストの三職から私たちが受ける益について学んだ。問答は問45と答で第6聖日の全体をまとめる。キリストという御名には三職が含められており、そのキリストの職務の実りと益を、父なる神は神の民に与える。そのために御父は御子に天と地の一切の権能を委ねられたのである(マタイ28:18)

 

第七聖日は、父なる神の独り子キリストについて(46と答)、主キリストについて(4748と答)、聖霊によるキリストの受肉について(4954と答)教えている。

 

4648と問4954に分けて学ぼう。第七聖日は父なる神の独り子、私たちの主について、その父なる神の独り子が聖霊によって処女マリアの胎から生まれられ、人となられたことを教えている。使徒信条の「独り子、我らの主」と「聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」の告白部分を解説している。

 

46と答で、主イエスとキリスト者は共に「神の子」と呼ばれるが、その内実は天と地の差があると教えている。真の意味で父なる神から生まれられた神の独り子は主イエス・キリストのみである。

 

キリスト者が神の子と呼ばれるのは、ジュネーヴ教会信仰問答が告白するように「ただ子として受け入れられ、そして恵みによってのみ、神が私たちをこのようなものと看做したもうからです。

 

私たちは「生れながら神の怒りを受けるべき者でした(エフェソ2:3)。主イエスが十字架で身代わりに死なれることで、私たちを罪から贖われたのである。贖いとは神の所有とすることである。神は私たちを子として受け入れてくださったのである。私たちは養子縁組によって神の子の身分をいただいたのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、「ところが、主なるイエスは御父の本質から生まれ、御父と本質を一つにし、最も正当な権利をもって「神の独り子」と呼ばれたもうのです。すなわち、本性によって子であるのは彼だけだからです。」と述べている。主イエスは、御父から、御父と同じく神の本質をもって生まれられた父なる神の独り子である。だから真実の意味で、正当な権利によって、主イエスのみが神の独り子と呼ばれるのである。

 

47と答で、本来主イエス・キリストのみが神の子であり、私たちは信仰と洗礼によって主イエス・キリストと結び合わされ、キリストの体である教会の肢である限りにおいて、神の子としての誉れと特権を与えられていると教えている。

 

使徒パウロはその喜びをこう記している。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。(ローマ8:29)

 

48と答は、主イエスが「私たちの主」であるという告白を、私たちがどのように理解しているかという問いである。主イエスは主権者である。父なる神は主イエスに天と地の一切の権能を授けられた。だから、御父なる神が主イエスを、教会と万物の主、人と天使の主としてお立てになったのである。そして、この恵みは、教会とキリスト者が万物の主によって保護されていることである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答17           主の20211013                                                                 

聖書箇所:マタイによる福音書第11825(新約聖書P12)

第一部    信仰について

 第七聖日

49 そのあとに続くことは彼にとって何を意味するのでしょうか。

答 私たちの救い主となるため、御子が御父によって油を注がれたもうた方式を示しています。すなわち、ここで唱えられる通り、私たちの肉を採り入れ、私たちの救いのために必要であった一切のことを果たされたのであります。                              

50 「聖霊によって受胎され」、「処女マリヤより生れ」という二つの句によって何を言おうとするのですか。   

答 彼は預言者の預言で予め示されていたように、ダビデのまことの子孫となるために、処女の胎内で彼女の本質をもって形作られたまいました。しかし、それは御霊の奇跡的な・そして隠された力によってであり、男性との結合なしでなされたのであります。

                         詩編百三十二・11、マタイ一章、 ルカ一・2638

51 それならば、彼が私たちの肉を纏うことは必要だったのでしょうか。

答 極めて必要でした。なぜなら、神に対して人間によって犯された不従順は人間の本性において償われることが必要だったからです。それ以外の方法では、私たちのために神と人との和解を遂行すべき仲保者になることは出来ませんでした。

                       ローマ五・1219、Ⅰテモテ二・5以下、へブル四・15

今日はジュネーヴ教会信仰問答の第七聖日(第七課)、問4951と答を学ぼう。聖霊による主イエス・キリストの処女降誕という教理を教えている。

 

そのあとに続くことは」とは、主イエス・キリストが「我らの主」という告白に続くことである。ジュネーヴ教会信仰問答は、「彼にとって何を意味するのでしょうか。」と問うている。そして、こう答えている。「私たちの救い主となるため、御子が御父によって油を注がれたもうた方式を示しています。」この「方式」を、渡辺信夫氏が「油を注がれた方式、と言っているのは、受肉の初めから贖いの業の完了までの出来事のことである」と解説している。「方式」とは主イエス・キリストの出来事である。しかも、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時に、聖霊が鳩の形で主イエスに降られ、聖霊の油注ぎの儀式を受けられた出来事、あるいは主イエスの葬りの用意をした女性が香油を主イエスの頭に注ぎかけた事件を示しているのではない。主イエス・キリストの受肉から十字架の死と葬り、そして復活に至るまでの地上に於ける全生涯が、御父からキリストが油注がれた出来事であるということである。

 

「ここで唱えられる通り」とは、使徒信条の第二項主イエス・キリストについての告白である。「主は聖霊よりやどり、処女マリヤより生れ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」。問答は、この主イエスの地上における私たちの主としての全生涯が、父より油を注がれた出来事であると述べている。

 

だから、問答は、「私たちの肉を採り入れ、私たちの救いのために必要であった一切のことを果たされたのであります。」と述べているのである。すなわち、受肉から十字架の死と復活の御業による贖いの完了まで、主イエスの地上の生涯は、御父からキリストが油注がれた出来事である。

 

50は、使徒信条の「聖霊よりやどり、処女マリヤより生れ」の解説である。キリストの処女降誕は、旧約聖書の預言者の預言の成就である(イザヤ7:149:5)。マタイによる福音書の第1章の主イエス・キリストの系図にあるように、問答は「ダビデのまことの子孫となるために、処女の胎内で彼女の本質をもって形作られたまいました。」と述べている。詩編13211節で「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。『あなたのもうけた子らの中から 王座を継ぐ者を定める。』」。主なる神は、ダビデの王座を継ぐ者として、彼の子の中からソロモンを王に選ばれた。しかし、「永遠に あなたの王座につく者(132:12)とは、メシア、キリストである。

 

主イエス・キリストは、ダビデの子孫となるために、処女マリアの胎から、マリアと同じ人間性を採って生まれられたのである。そして、問答は、その誕生を通常ではなく、聖霊による奇跡だと述べている。「それは御霊の奇跡的な・そして隠された力によってであり、男性との結合なしでなされたのであります。」このように主イエス・キリストは父なる神の独り子であるが、聖霊によってマリアの胎から生まれられ、まことの人間として、私たちと同様に肉体を採って、生まれられたのである。だから、使徒パウロは、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ(ローマ1:3)と述べている。

 

 問51は、主イエス・キリストの受肉の必要性である。問答は、はっきりと肯定する。その理由は、神に対する人の罪を、人は自ら償うことが出来ないからである。旧約の時代、神の民は自らの罪の身代わりに動物を犠牲とした。傷のない動物の頭に彼らの手を置き、その犠牲の動物の血によって彼らは罪を赦された。そして、その犠牲の動物こそキリストの予型であったのである。

 

 

 それゆえに問答は、「なぜなら、神に対して人間によって犯された不従順は人間の本性において償われることが必要だったからです。それ以外の方法では、私たちのために神と人との和解を遂行すべき仲保者になることは出来ませんでした。」と述べているのである。主イエスは受肉によって、神と人の唯一の仲保者、和解者となられたのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答18           主の20211020                                                                 

聖書箇所:ルカによる福音書第12638(新約聖書P100)

第一部    信仰について

 第七聖日

52 では、キリストが人とならねばならなかったのは、いわば私たちの代わりになって、わたしたちの救いの務めを全うするためであったとあなたは言うわけですね。

答 そのように考えます。すなわち、私たちに無いものは、すべて彼から借りるほかなく、それ以外の方法ではなしえないからです。                              

53 しかし、何故このことが聖霊の力によって行われ、一般の通例の出生方式によらなかったのですか。   

答 人間の種が徹底的に腐敗しているため、神の御子の誕生には聖霊の御業が介在することが適切でありました。それは、彼が汚れに染まず、最も完全な純潔を備えるためであります。

54 そのようなわけで、私たちは以上のところから、他の者らを聖化する御方は一切の汚染から潔く、かつ人類の如何なる汚点にも汚されず、残りなく神に捧げられるため、いうならば始源の状態の人間性を母の胎から備えておられたと教えられるのであります。

答 私はそのように理解します。

 

今日はジュネーヴ教会信仰問答の第七聖日(第七課)、問5254と答を学ぼう。主イエス・キリストがどうして聖霊によって処女マリアの胎から人間性を採って生まれられたかを教えている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問52で父なる神の独り子主イエス・キリストが人として生まれられたのは、私たちの罪の身代わりとなり、神の救いを成し遂げるためであるのかと、問うている。キリストは代替贖罪のために、処女マリアから生まれられたのである。

 

私たちに無いものは、すべて彼から借りるほかなく」とは、無罪性、義、永遠の命である。罪の赦し、義と父なる神との和解、そして永遠の命を得ることは、主イエス・キリストに依り頼むほかはない。罪無き主イエス・キリストが父なる神に従順に服従されて、神の義を得られ、その義を私たちにお与えくださり、私たちの罪を身代わりに引き受けてくださり、十字架で父なる神の怒りの刑罰を受けてくださる、この方法以外に私たち罪人が罪を赦され、義とされ、神との和解を得て、救われる道はない。主イエス・キリストの復活なしに、私たちが神の子の身分を得て、神の御国の相続者とされ、永遠の命に至る道はない。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問53と答で、主イエス・キリストの出生が通常の出産ではなかったことを教えている。問答は「一般の通例の出生方式によらなかった」と述べているように、主イエス・キリストの御降誕は、通常の人間の出産ではない。奇跡である。問答は「聖霊の力によって行われ」と述べているように、聖霊なる神が御力によって神が人として生まれるという御業を遂行された。

 

聖霊によるキリストの誕生の奇跡を、問答は答で「人間の種が徹底的に腐敗しているため、神の御子の誕生には聖霊の御業が介在することが適切でありました。」と述べている。普通の出生では、人間はアダムの原罪のゆえに全的に堕落している。だから、人は生まれながらに罪人である。しかし、主イエス・キリストは、聖霊によって罪と腐敗から守られて、罪のない、清い人間として生まれられた。だから、「最も完全な純潔を備えるためであります。」とは、主イエスが罪無き小羊として御自身を犠牲として献げることがお出来になるということである。すなわち、人に代わり罪を償うことがお出来になるのである。

 

問答は問54と答で、次のように結論へ導く。第一に御自身以外の私たち人間を聖化する主イエスには罪の汚れが一切ない。第二に人類の如何なる汚点にも汚されることはない。すなわち、主イエスに人間の罪と腐敗が及ぶことは一切ない。第三に主イエスは、御自身を犠牲として神に献げるために、神に最初に造られた人間の罪無き状態を、処女マリアの胎から備えておられた。

 

始源の状態の人間性」とは、主なる神が創造された人間の状態である。原罪の前のアダムの状態である。ジュネーヴ教会信仰問答は、キリストの贖いによる救いの面から、主イエス・キリストが罪無き、汚れなき、純潔な人間として生まれられたことを強調する。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、カトリック教会のように処女マリアの無罪性を述べてはいない。処女マリアは、罪人である。しかし、聖霊が彼女の胎にいる主イエスを罪無き、純潔な人間として守られた。

 

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、「他の者らを聖化する御方」と、処女マリアから生まれられる主イエスについて述べている。主イエスは、「私たちの代わりになって、わたしたちの救いの務めを全うする」。それは、罪の贖罪の御業だけではなく、キリスト者の聖化も含まれているのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答19           主の20211027                                                                 

聖書箇所:イザヤ書第53112(旧約聖書P11491150)

第一部     信仰について

 第八聖日

55 どうして全生涯の歴史を省いて、降誕から直ちに死に移るのですか。

答 ここでは私たちの贖いに固有な、したがって或る意味でその本質を含むことしか論じていないからです。                              

56 ただ一語で「死なれた」と言わないで、そのもとで苦しみを受けられた時の総督の名を付け加えるのはなぜですか。   

答 これは単に歴史としての確実さを言おうとしただけでなく、彼の死が有罪宣告と結びついていることを私たちに知らせるためであります。

57 それをもっと明快に説明してください。

答 彼が死にたもうたのは、私たちの負うべき刑罰を果たし、こうして私たちを刑罰から免れさせるためでありました。しかし、私たちは皆このように罪人でありまして、神の審きを受けねばなりませんから、彼は私たちの代わりとして、地上の裁判官の前に出頭し、その口から有罪宣告を受け、それによって天上の神の法廷で私たちが無罪宣告を獲得するようになることを欲したもうたのであります。

58 それにもかかわらず、ピラトは彼の無罪を宣告し、したがって彼を犯罪人として有罪判決に処してはいません。

 答二つの点に注意すべきであります。すなわち、この裁判官は彼の潔白を証明し、こうして彼が御自身の悪の故にではなく、私たちの悪の故に罰せられたことを証ししました。しかも一方、彼はこの同一裁判官の宣告によって、正規の手続きを経て有罪判決を受け、こうして私たちが受けねばならなかった審判に、いわば私たちの引き取り人として赴き、私たちを被告の地位から解放したもうたことが明らかにされるのです。

       マタイ二七・二三、二四、ルカ二三・四、一四以下、二二

59 よく言えました。すなわち、もしも彼が罪人であったなら、他の人を罪の刑罰から解放すべき引き取り人に相応しくないのです。けれども、彼の有罪判決が私たちにとっての無罪判決となるために、彼は悪をなす者のうちに数えられねばなりませんでした。

 答 そのように私は理解します。

 今日はジュネーヴ教会信仰問答の第八聖日(第八課)、問5559と答を学ぼう。問4954と答において使徒信条の「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」についての条項を学んだ。本日はそれに続く「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて」についての条項を学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問55と答で使徒信条が「処女マリヤより生まれ」から主イエス・キリストの全生涯を省いて、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで」と、すぐに主イエス・キリストの死について告白しているのは、なぜかと問うている。

 

新約聖書の四福音書には、主イエス・キリストの御降誕後の生涯について記している。ルカによる福音書には主イエスの少年時代のエピソードがある。他の福音書も一年間宣教活動された主イエスを、あるいは三年間宣教活動された主イエスを記している。

 

しかし、使徒信条は主イエス・キリストの御降誕の後、主イエスの全生涯を省いて、ポンテオ・ピラトの裁判と十字架刑と死について告白しているのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、その理由を「ここでは私たちの贖いに固有な、したがって或る意味でその本質を含むことしか論じていないからです。」と答えている。使徒信条は、主イエス・キリストについてその生涯を語ることではなく、私たちの贖いという救いの本質から主イエスの御降誕に続いて、主イエスがポンテオ・ピラトの裁判に就かれ、ピラトの無罪判決にもかかわらず、私たち罪人を罪から解放するために、有罪判決の手続きを取られて、死なれたことを告白するのである。

 

 

キリストの死は罪の刑罰である有罪宣告に結びついている。使徒信条は、キリストの十字架の死を私たちの贖罪として理解するのである。贖いは、売った土地を買い戻すこと、奴隷状態からの解放を意味する。旧約時代人主なる神は人と動物の最初の子を聖別するように命じられた。その聖別のために贖いが必要であった。また、人が罪を犯したとき、動物犠牲がささげられた。この償いによる罪の赦しを贖いと言う。このように贖いには動物犠牲をささげて罪を償い、罪を赦し、神と隣人との間に和解を得るという思想がある。新約聖書は、キリストの十字架の死によって罪人である私たちの贖いが完成したと教えている。本日は、使徒信条がキリストの贖いを視点に告白されていることを学んだ。次回から更に詳しく第八聖日の問5659と答を学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答20           主の2021113                                                                 

聖書箇所:マタイによる福音書第271126(新約聖書P5657)

第一部     信仰について

 第八聖日                          

56 ただ一語で「死なれた」と言わないで、そのもとで苦しみを受けられた時の総督の名を付け加えるのはなぜですか。   

答 これは単に歴史としての確実さを言おうとしただけでなく、彼の死が有罪宣告と結びついていることを私たちに知らせるためであります。

57 それをもっと明快に説明してください。

答 彼が死にたもうたのは、私たちの負うべき刑罰を果たし、こうして私たちを刑罰から免れさせるためでありました。しかし、私たちは皆このように罪人でありまして、神の審きを受けねばなりませんから、彼は私たちの代わりとして、地上の裁判官の前に出頭し、その口から有罪宣告を受け、それによって天上の神の法廷で私たちが無罪宣告を獲得するようになることを欲したもうたのであります。

58 それにもかかわらず、ピラトは彼の無罪を宣告し、したがって彼を犯罪人として有罪判決に処してはいません。

 答二つの点に注意すべきであります。すなわち、この裁判官は彼の潔白を証明し、こうして彼が御自身の悪の故にではなく、私たちの悪の故に罰せられたことを証ししました。しかも一方、彼はこの同一裁判官の宣告によって、正規の手続きを経て有罪判決を受け、こうして私たちが受けねばならなかった審判に、いわば私たちの引き取り人として赴き、私たちを被告の地位から解放したもうたことが明らかにされるのです。

       マタイ二七・二三、二四、ルカ二三・四、一四以下、二二

59 よく言えました。すなわち、もしも彼が罪人であったなら、他の人を罪の刑罰から解放すべき引き取り人に相応しくないのです。けれども、彼の有罪判決が私たちにとっての無罪判決となるために、彼は悪をなす者のうちに数えられねばなりませんでした。

 答 そのように私は理解します。

 今日はジュネーヴ教会信仰問答の第八聖日(第八課)、問5659と答を学ぼう。前回は、問55と答で、どうして主イエスの生涯を省いて、誕生から「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて」という条項に移っているのかを学んだ。その理由は、使徒信条が私たちの贖いという視点から救いの本質を告白しているからである。

 

さて、問56と答を学ぼう。ジュネーヴ教会信仰問答は、使徒信条が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白する理由を問うている。

 

主イエス・キリストは、受肉(誕生)され、人間性を採られて、苦しみ、死なれた。これは歴史的事実である。主イエスが苦しみ、死なれたのは、御父なる神に服従されたからである。私たちの罪の贖いであった。主イエスは、サタンと罪と死と戦われ、勝利するために十字架の道を歩まれた。

 

信仰告白は、主イエスの受難が歴史的事実であることを明らかに述べている。しかし、信徒信条は歴史ではなく私たちの信仰に視点を置く。すなわち、私たちの贖いのために主イエス・キリストが苦しまれたことを告白する。

 

ポンテオ・ピラト」は歴史上の人物である。彼はローマの総督である。紀元2636年にユダヤの総督という地位に就いていた。新約聖書の四福音書は、特にヨハネによる福音書はピラトが主イエスに対して十字架刑の有罪宣告するに至った出来事を記している。彼は主イエスを釈放しようとした。問58と答で信仰告白が述べているように、ピラトは主イエスを無罪放免にしようとした。そしてガリラヤの領主ヘロデに主イエスの身柄を送った。しかし、ヘロデは主イエスをピラトにところに送り返した。そこでピラトはユダヤの慣例に従い、一人の罪人を釈放することにした。ユダヤの民衆は指導者たちに先導され、主イエスではなく、強盗殺人を犯したバラバの釈放を要求した。そして彼らはピラトに主イエスの十字架刑を要求した。ピラトはユダヤ人たちの騒動を恐れ、彼らの要求を受け入れた。ピラトはまさに保身に走るローマ帝国の官僚であり、無罪の主イエスに有罪宣告し、十字架刑に処した。

 

 

問答がピラトの名を挙げたのは、主イエスの死がピラトの有罪宣告と結びついていることを私たちに知らせるためである。それを問57と答で説明する。論点は、主イエスが有罪宣告を受けられ、十字架刑に処せられたのは、私たちの身代わりであったということである。私たち罪人は、本来神の法廷で有罪宣告を受けて、永遠の死を宣告される。しかし、神の独り子主イエスが受肉し、ピラトの裁判の下で有罪判決を受けられ、私たちを永遠の死から贖われたのである。だから、信仰問答は、問57の答で「彼は私たちの代わりとして、地上の裁判官の前に出頭し、その口から有罪宣告を受け、それによって天上の神の法廷で私たちが無罪宣告を獲得するようになることを欲したもうたのであります。」と述べているのである。問58と答で主イエスの無実と主イエスが正規の手続きを経て十字架刑で死なれたことを述べている。主イエスは、私たちの贖いの保証人になられた。