マタイによる福音書説教067            主の201263

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を心に留め、理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせ、主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

 

 ペトロは口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

 

 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

 

                   マタイによる福音書第17113

 

 

 

 説教題:「主イエスの姿が変わる」

 

 マタイによる福音書は、わたしたちにペトロの信仰告白からおよそ1週間後の出来事を紹介しています。「イエスの山上の変貌」と呼ばれている出来事です。

 

主イエスは、12弟子たちの中から、3人の弟子たちだけを連れて、ある高い山に登られました。3人の弟子たちとは、キリスト告白をし、主イエスが受難予告されると、主イエスのエルサレム行きを止めようとして、主イエスに叱られたペトロと、それからヤコブとヨハネ兄弟たちです。

 

 高い山に登ると、3人の弟子たちの目の前で、突然主イエスに驚くべき異変が起こりました。

 

マタイによる福音書は、わたしたちに「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」と証言しています。3人の弟子たちの目の前で、主イエスが変身されたのです。主の顔は太陽にように輝きました。主イエスが着られていた服は、光のように白くなりました。

 

 3人の弟子たちがさらに見ていると、彼らは信じられない光景を目にしました。その彼らの驚きが173節の冒頭の言葉に記されています。わたしたちの聖書は、「見ると」とありますね。それは、「そして、見よ」という言葉です。マタイによる福音書は、わたしたちにこれまで何度も「そして、見よ」という言葉によって、主イエスの弟子たちや群衆たちが経験した、人の理解を超えた驚くべき出来事を証言して来ました。

 

ここでも同じです。3人の弟子たちは、突然彼らの目の前で主イエスが変身されたことに驚かされました。さらに驚かされたことは、信じられないことでした。旧約時代の神の民の指導者モーセと偉大な預言者エリヤが彼らの目の前に突然現れて、主イエスと共に話し合っている姿を見たのです。

 

ペトロは、主イエスがモーセとエリヤと話し合われている中に、割って入り、主イエスに次のように言いました。「わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに三つの仮小屋を建てましょう。あなたとモーセとエリヤのために」。

 

「仮小屋」とは、主なる神がお住みなる幕屋のことです。ペトロは、自分たちが生きたままに主イエスと共に天上界に移され、モーセとエリヤを見ることができた素晴らしさに感動し、主イエスが望まれるならば、この事を記念として主イエスとモーセとエリヤのために3つの幕屋を造りましょうと提案したのです。

 

だが、3人の弟子たちの驚きは、さらに続きました。ペトロが主イエスと話している途中で、3人の主イエスの弟子たちに父なる神が現れられたのです。

 

175節です。マタイによる福音書がわたしたちに伝えているままに言うと、次のようになります。「彼がまだ話しているうちに、見よ、輝く雲が彼らを覆った。そして、見よ、雲の中から声が言った、『これはわが愛する子、我、この者を喜ぶ。これに聞け。』」

 

「輝く雲」は、昔出エジプトした神の民イスラエルにシナイ山で主なる神が現れた光景と同じです。主なる神は、雲と雷鳴の中からイスラエルの民たちにお声をおかけになりました。

 

それと同じことを、3人の弟子たちは体験したのです。彼らの前に父なる神は現れられ、お声をかけられました。3人の弟子たちは父なる神の御声を聞いてひれ伏し、非常な恐れに襲われました。

 

神の民たちは、だれでも主なる神を見た者は死ぬと信じていたのです。だから、3人の弟子たちは生きた心地がしなかったです。顔を地面に堅く伏して、死の恐怖のために自ら顔を上げることができませんでした。

 

弟子たちが地面に伏している間に、主イエスは元の姿に戻られていました。そして、3人の弟子たちの肩に手をお触れになり、「起きなさい。恐れることはない」と慰め、励ましてくださいました。3人の弟子たちが顔を上げて、周りを見回すと、モーセもエリヤも、だれも周りにはいませんでした。

 

179節以下は、マタイによる福音書がわたしたちに高い山を、主イエスと3人の弟子たちが下山した時に、主イエスが3人の弟子たちに再来するエリヤが洗礼者ヨハネであると教えられたことを伝えています。

 

主イエスは、3人の弟子たちに「ここで見たことを、わたしが復活するまでだれにも告げてはならない」と厳しく命令されました。

 

その時に3人の弟子たちは、主イエスに質問しました。「どうして律法学者たちは、メシアが来る前に、最初にエリヤが来るはずだと言っているのですか」と。

 

主イエスは、3人の弟子たちの質問に答えて言われました。「確かに、エリヤが来て万物を元どおりにする。しかし、わたしはあなたがたにはっきりと言う。エリヤは既に来た。しかし、人々は彼を認めないで、勝手気ままに殺してしまった。そして、今人の子であるわたしも、人々に苦しめられるだろう。」

 

その時に3人の弟子たちは、次のように理解しました。主イエスは、彼らに再来のエリヤが洗礼者ヨハネであると教えておられると。

 

これが、今朝の御言葉の粗筋です。何のためにマタイによる福音書は、わたしたちに3人の弟子たちの前で主イエスが変わられた出来事を伝えているのでしょうか。

 

そのヒントは、既に学んだペトロのキリスト告白と主イエスの受難予告にあります。ペトロは、主イエスに「わたしを、だれと言うか」と問われて、「あなたこそ生ける神の子です」と信仰告白しました。

 

主イエスは、ペトロとヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちの前で突然に変身され、御自身がペトロの告白した神の子であることを証しされました。ヨハネの黙示録116節に天上におられる神である主イエス・キリストの姿を次のように証言しています。「右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」と。

 

主イエスは、3人の弟子たちの目の前で突然本来の主なる神である御自身に変わられたのです。

 

3人の弟子たちが目の前で見た主イエスとモーセとエリヤとの会見は、何を意味するのでしょうか。主イエスの受難予告に関係しているのです。モーセは、律法の代表であり、エリヤは預言者の代表です。そして、律法と預言者とは、旧約聖書のことであります。

 

モーセはイスラエルの民に申命記1815節において次のように預言者、メシアを預言しました。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者が立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない」と。

 

また預言者エリヤは苦難の預言者でした。彼は、国の王と神の民に悔改めを迫り、バアルの神々を捨てて、主なる神に立ち帰るように迫りました。そして、バアルの預言者たちに勝利しました。しかし、国の王と妃はエリヤに憎しみを向けて、彼の命を奪おうと迫害したのです。彼は、主イエスのように死んだ子を生き返らせる奇跡をし、重い皮膚病のアラムの将軍ナアマンを癒し、最後は弟子のエリシャたちが見ている前で昇天しました。

 

主イエスとモーセとエリヤの会見は、主イエスが受難予告の通りにエルサレムに行かれ、指導者たちに迫害され、十字架に殺され、3日目に復活し、そして昇天されることの確かな証しでした。

 

何よりも、父なる神御自身が、3人の弟子たちの前に現れ、主イエスが神の子であり、主イエスが受難し、復活すると予告されたことをよしとすると告げられたのです。それが、5節の御言葉です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」。父なる神は、言われました。「これはわが愛する子なのだ。彼は、わが思いを成し遂げるだろう。エルサレムで殺されることによって、罪に死んだ者を、命に至る道へと導くだろう。彼が言うことに、心から聞き従いなさい」。

 

3人の弟子たちは、父なる神の御声を理解できたか、マタイによる福音書はわたしたちに何も告げてはいません。彼らは、父なる神の御臨在に非常な恐怖に捕らえられ、主イエスの慰めと励ましの言葉によってその恐怖から解放されました。

 

そして、主イエスは、3人の弟子たちに山を下る途中において山上において体験したことを、御自身が復活するまでだれにもしゃべられないように厳しく命令を下されました。

 

ところが、3人の弟子たちの関心は、預言者エリヤの再来のことでした。律法学者たちは、メシアが来る前に、エリヤが再来すると教えていました。エリヤが来て、地上のすべてに神の秩序を回復するのだと教えていました。

 

しかし、主イエスは、メシアとしての御自身の受難と復活を予告されました。3人の弟子たちは、主イエスに律法学者たちの教えはどうなりますかと質問しました。

 

主イエスは、彼らの質問にお答えになり、言われました。11節と12節の御言葉です。「確かにエリヤは来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」

 

主イエスがここで3人の弟子たちに言われたのは、こうです。律法学者たちは、これからエリヤが来て、この世に神の秩序を回復するように教えているが、それは間違っているということです。なぜならエリヤは既に再来したからです。しかも、彼はすべてを正すどころか、むしろ人々には再来のエリヤと認められないで、人々の身勝手によって好きなようにあしらわれ、殺されてしまったのだと。

 

主イエスは、さらに3人の弟子たちに言われました。再来のエリヤである洗礼者ヨハネが、メシアの道を備えるために、ガリラヤの領主ヘロデに処刑にされたのであれば、その洗礼者ヨハネがメシアとして人々に紹介したわたしは、神の子として、罪と暗黒の世界にいる者たちを、モーセのように御国に導くためにこれから苦しまなければならない。

 

マタイによる福音書は、わたしたちに今朝の御言葉を通して伝えていることは、次のことです。主イエスは、わたしたちの罪のために死なれ、わたしたちに永遠の命を得させるために復活されました。この真実の上にわたしたちの教会が建てられ、罪に滅ぶべきわたしたちが教会に集められ、主イエスを神として喜んで礼拝をし、聖餐に与っています。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、主イエスは、わたしたちを救い得る唯一の救い主です。主イエスの十字架と復活を通して、わたしたちは罪を赦され、永遠の命を与えられ、この教会において永遠の命の喜びに生きることが許されていることを心より感謝します。今から聖餐の恵みに与ります。今朝の御言葉を、聖餐を通して強く確信させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教068            主の2012610

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を心に留め、理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。(主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせ、)主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 一同が群衆のところに行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこへ移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

 

                   マタイによる福音書第171420(21)

 

 

 

 説教題:「小さな信仰であっても」

 

 マタイによる福音書は、16章のペトロのキリスト告白によって一つの頂点に達しました。そして、その後、主イエスが12弟子たちに受難予告をなさって、ゴルゴタの十字架へと主イエスは下って行かれるのです。

 

主イエスは、キリスト告白した12弟子たちに御自身のことを、苦難を受けるメシアであるとお教えになりました。それが、17章における主イエスが3人の弟子たちの目の前で姿を変えられた出来事でした。

 

主イエスは3人の弟子たちをある高い山にお連れになりました。そこで主イエスは、3人の弟子たちの目の前で御自身の姿を変えられました。3人の弟子たちは、主イエスの神の子の姿を見、さらに主イエスがモーセと預言者エリヤと話し合われている姿を見ました。そして、彼らは父なる神の御臨在に触れ、その御声を聞きました。父なる神は、3人の弟子たちに「わが子に聞け」と言われました。主イエスが弟子たちにお教えになっている受難予告を聞いて、従うようにお命じになりました。

 

さて、主イエスと3人の弟子たちがある高い山で神の栄光に包まれていた時、それとは対照的に麓に残された9人の弟子たちは、悪霊につかれて癲癇を起こしていた子を癒すことができないでいました。

 

マタイによる福音書は、わたしたちに主イエスが神の栄光の世界からこの世の不信仰と罪の世界に来られたと記しています。その世界を、悪霊が支配していました。

 

「ある人」とは、「一人の人間」という言葉です。それは、神の創造された人間です。彼に神は妻を与え、子を与え、家庭を与えられました。ところがある人は、不幸でした。愛する息子が悪霊につかれていたからです。

 

悪霊が愛する息子に癲癇を起こさせ、両親が目を離すと、しばしば火の中に息子を倒れさせ、またしばしば水の中に倒れさせました。何度も息子は死ぬ目にあいました。ある人は、息子の父として、あらゆる手を尽くして息子を助けようとしたでしょう。

 

彼は、主イエスと弟子たちが悪霊を追い出し、病人をいやされているという噂を聞きました。彼は息子を、山の麓に残された弟子たちのところに連れて行きました。しかし、弟子たちは、その子から悪霊を追い出して、その子を救うことができませんでした。

 

その時です。主イエスと3人の弟子たちが、山を下り、大勢の群衆が集まっているところに来ました。

 

ある人は、主イエスを見つけました。すぐに主イエスのところに近寄りました。そして、彼はひざまずきました。彼は、主イエスを神として拝みました。そして、主イエスに彼は、愛する息子を救ってくださいとお願いしました。「主なる神よ、息子を憐れんでください」と。

 

 彼は、愛する息子の苦しみを訴えました。弟子たちに息子を救ってくれるようにお願いしたが、息子を助けられなかったと言いました。

 

 主イエスは、父親である「ある人」の訴えを聞かれました。父親の熱心な主イエスへの信頼に応えて言われました。

 

「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」

 

 主イエスは、第1に神を離れたこの世、この時代を嘆かれました。第2にその人々にキリストの福音を伝える使命を与えられている弟子たちを叱責し、彼らの信仰を励まされました。第3に悪霊につかれた子供を癒されました。

 

主イエスは、今、受難のメシアとして十字架の道を進まれています。そして、十字架に死に、その後復活されます。さらに主イエスは、天に昇られます。ある意味で主イエスはこの世界から不在となられます。それを、マタイによる福音書は教会の時代と考えています。今のわたしたちの時代であります。

 

キリストが不在でも、教会はこの世にあり続けなければなりません。教会があり続ける時代と世界は、まさに主イエスが嘆かれる「信仰のない、よこしまな時代」です。

 

 主イエスが嘆かれた「信仰のない、よこしまな時代」というお言葉は、イスラエルの民を奴隷地エジプトから導き出した指導者モーセがイスラエルの民について嘆いた言葉です。「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ、その傷のゆえに、もはや神の子らではない。」(申命記325)

 

 教会は、神が創造された人間たち、しかも彼らは造り主なる神を捨て、神々と姦淫し、神の御前であらゆる罪と不品行を行っている者たち、「神の子」と呼べない者たちにキリストの福音を伝えることが使命です。

 

 今主イエスは、いつまでも弟子たちと共におれないのです。十字架が迫っているからです。同時に御自身が不在となっても、弟子たちに、しっかりと信仰によってどんな困難も乗り越えてほしいと願っておられます。そのために主イエスは、弟子たちに忍耐と寛容によってその信仰の大切さを教えなければなりませんでした。その主イエスの思いが「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」というお言葉となったのです。何としても主イエスは弟子たちに彼らが人々に福音を伝えるためには信仰が大切であることを教えようとされました。

 

 マタイによる福音書は、わたしたちに主イエスと弟子たちの対話を通して、信仰の大切さを教えています。

 

 主イエスが、弟子たちに「ある人」の息子を連れて来させ、主イエスが子供に取りついた悪霊を叱られると、悪霊は子供から離れて行きました。そして、子供の癲癇は癒されました。

 

 弟子たちは、大勢の群衆たちの前では主イエスに「どうして自分たちは悪霊が追い出せなかったのか」と聞けませんでした。そこで大勢の群衆たちの見ていないところで、彼らから離れて、聞いたのです。

 

 主イエスは弟子たちにひと言、「信仰が薄いからだ」と答えられました。わたしは誤訳だと思います。カトリックのフランシスコ会訳聖書も同じように訳しています。主イエスは、弟子たちに「あなたがたの小さい信仰のゆえに」と言われました。弟子たちは信仰が薄いのではなく、小さいのです。

 

 要するに弟子たちは主イエスが不在中において悪霊を追い出せませんでした。主イエスは彼らに言われました。「あなたがたの信仰は、わたしがいないと何もできないほど、小さなものだ」と。

 

 そして、主イエスは弟子たちに信仰の大切さを、次のように教えられました。「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこへ移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

 

 主イエスが弟子たちに「はっきり言っておく」と言われていますのは、「よく聞きなさい。大切な教えだ」と言われているのです。

 

 主イエスの時代、「からし種」の一粒は、「ごく小さいもの代表」でした。その反対に山は大きなものの代表です。主イエスは、弟子たちに「あなたがたにからし種の一粒ほどの信仰があれば、山を動かすことができるほど、信仰はどんなに小さくても大切だよ」と教えられました。

 

 マタイによる福音書は、わたしたちにある人が主イエスは主なる神であると信頼し、人には不可能であった息子の救いを得たことを伝えながら、からし種一粒の信仰の重要性を主イエスが教えられたことを伝えています。

 

 信仰の重要性は、信仰の大小という量の問題ではありません。信仰はあるか、ないかの問題ではないでしょうか。主イエスが弟子たちに教えられたことは、ある人のようにからし種一粒の信仰であっても、彼のように「イエスは主なる神だ。きっと息子を治してくれる」という、それが信仰と言えるのかと、人は言っても、確かに山のように大きな存在者、まさに神の子主イエスを動かして、人には不可能だった息子のいやしを、彼は実現しました。

 

 それに対して弟子たちの信仰は、主イエスに強くしてもらわなければならないものでした。主イエスが不在であれば、力のないものでした。それは、初めから無いと言われても、仕方のないものです。

 

 主イエスは、わたしたちに今朝の御言葉を通して次のように問いかけられています。「今わたしが不在であるが、あなたとあなたの教会にからし種一粒の信仰があるのか」と。それは、ある人のようにどんなに小さな信仰であっても、本当にわたしたちが心から主イエスをわたしたちの神と信じて、信頼しているならば、その信仰は、ある人のように主イエス御自身の御意志に連動し、人には不可能な息子の救いを実現させたのです。

 

 使徒ヨハネは、ヨハネの手紙一51415節で次のように言っています。彼は、神の子キリストを信じているわたしたちとキリスト教会に永遠の命を得させるために、こう述べています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」

 

 お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちに小さくても、心から主イエスに信頼を寄せる信仰をお与えください。悪霊が働き、人々の心が天地を造られた神よりも、この世の偶像に心を向け、神に遠ざかっている人々に、わたしたちの教会が、からし種一粒の信仰を持ち、主イエスが聖霊を通してわたしたちの信仰に結び付き、わたしたちの願いを、家族やこの町の人々の救いを実現してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教069            主の201271

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせ、主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。

 

 一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

 

                   マタイによる福音書第172227

 

 

 

 説教題:「父なる神の子主イエス」

 

 主イエスと12弟子たちがガリラヤに集結しました。

 

マタイによる福音書は、22節に「一行がガリラヤに集まったとき」と記しています。これは、主イエスと12弟子たちが自然に集まったという意味ではありません。主イエスが、12弟子たちをガリラヤに招集されました。軍隊用語の「兵を招集する」という言葉です。12弟子たちは、それぞれ別のところで伝道活動していたのでしょう。主イエスがこの時12弟子たちを1か所にお集めになりました。

 

わたしたちの週報をみますと、礼拝順序がありますね。その最初に「招詞」があります。「一行がガリラヤに集った」は、この意味であります。わたしたちは、各地で平日の六日間働いてきました。主イエスは日曜日の朝にわたしたちを招集し、定められた場所に、定められた時刻に一か所にお集めになりました。マタイによる福音書は、わたしたちにそのキリスト教会の礼拝の原型を見せてくれています。

 

12弟子をお集めになった主イエスは、彼らに御自身の御受難と復活をお語りになりました。第2回目の主イエスの受難予告であります(第1回目はマタイ1621)

 

今のわたしたちから見ますと、主イエスの受難予告は喜びのメッセージです。キリストの十字架と復活によってわたしたちは罪と死より救われました。キリストのように私たちも罪に死に、永遠の命に甦らされます。

 

ところが12弟子たちはこの喜びを理解できませんでした。彼らにとっては、主イエスの受難予告は非常な悲しみ、悩みのメッセージになりました。

 

12弟子たちは、主イエスをメシアと信じています。主イエスは今からエルサレムの都に行かれ、王となられ、ダビデ王のようにユダヤ人たちを外国の支配から解放してくれると期待していたのです。

 

ところが、主イエスは、彼らの思いとは反対に、今からエルサレムの都に行き、「人々」、すなわち、ユダヤの指導者たちやローマ総督ピラトの手に渡されて、十字架刑で殺され、3日目に復活すると言われました。

 

弟子たちは、主イエスが言われたことを理解できず、大変悲しみ、悩みました。「先生はわれわれに何を言おうとされているのだろうか。もしやわれわれが先生を引き渡すとお考えなのだろうか」と。

 

さて、24節から27節は、少し話が変わります。主イエスは、父なる神の御子であるので、エルサレム神殿に税金を支払う必要がないことを教える記事です。

 

マタイによる福音書は、わたしたちに主イエスの第2回目の受難予告とこの事件が関係していることを暗示しています。

 

なぜなら、主イエスが予告された「人々の手で殺され」の「人々」の中にエルサレム神殿の宗教的権威者たちも含まれているからです。エルサレム神殿の祭司長たちはファリサイ派の人々や律法学者たちと手を組み、主イエスをローマ総督の手で十字架刑に処し、殺すことを決めておりました。

 

そこで主イエスと12弟子たちがガリラヤのカファルナウムの町に戻って来ました時に、彼らは、主イエスを殺す口実を見つけるために、エルサレム神殿の神殿税を集める者たちを遣わしました。そして、主イエスが神殿税を納めるか否かを探らせました。

 

聖書には「神殿税」と記してありますが、マタイによる福音書は、「2ドラクマ」を集める者たちと記しています。

 

旧約聖書の出エジプト記301116節に主なる神がモーセを通してイスラエルの民に各自の命の代償を主に支払うようにお命じになりました。聖所のシェケルで銀半シェケルです(旧約聖書P144)。それがエルサレム神殿の神殿税の起源です。

 

エルサレム神殿の神殿税は、主イエスの時代、人々の2日分の労賃でした。それが2ドラクマでした。金持ちも貧しい者も主の御前に命を贖われて生かされている「命の代償」である2ドラクマを支払わなければなりませんでした。当時の羊1匹が1ドラクマであり、子牛が5ドラクマでした。

 

神殿税を納める義務があるのは、20歳以上の成人男子です。毎年納めなければなりませんでした。神殿税は、村ごと、町ごとで集められたので、納めないと、近所の人々にすぐに知れ渡りました。外国に住むユダヤ人たちも納めていました。

 

さて、神殿税を集める者たちは、ペトロのところに行きました。そして彼らはペトロに尋ねました。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのか」と。

 

聖書はペトロが彼らに「納めます」と、ペトロが断言したかのように記していますね。マタイによる福音書には、ペトロが「はい」と言ったと記しています。

 

ペトロは、主イエスの2回目の受難予告を聞いていて、先生が彼らに誤解されないように、「もちろん、納めますよ」と答えて、事を穏便にすませようとしました。

 

彼らが帰ると、ペトロは家の中に入りました。そこに主イエスはおられました。そして、主イエスの方から御自分と弟子たちが神殿税を支払う必要のないことをお語りになりました。

 

主イエスがシモン・ペトロにこの世の王のお話しをされた目的は、主イエスが父なる神の御子であり、弟子たちは神の子たちであるということを教えることです。それ故に神殿税を支払う必要がないのです。

 

主イエスは、ペトロにそれを理解させるために、次のように質問されました。「地上の王たちはだれから税金を取り立てているか、王の子供たちか、それともほかの人々か。」ペトロは、「ほかの人々からです」と答えました。

 

すると主イエスは、ペトロに言われました。「王の子たちは納めなくても良いわけだ。」主イエスが言わんとされていることは、こうです。王の子は、王の権威を帯びているので、直接税であれ、間接税であれ、支払う必要はないと。

 

主イエスは、父なる神の御子であり、わたしたち人間の命の贖い主です。わたしたちの命を御自身の十字架によって贖ってくださったお方です。当然支払う必要はありません。

 

さらに主イエスは、ペトロに「子供たちは神殿税を納めなくても良いわけだ」と言われていますね。「子供たち」とは主イエスの弟子たち、キリスト者たちのことです。

 

キリスト者たちも神殿税を主イエス同様に納める必要はありません。主イエスの弟子たちは、主イエス御自身が十字架と復活を通して彼らの命を贖われました。だから、エルサレム神殿は必要でなくなりました。そこで自分の命の贖いのために動物犠牲をささげる必要がなくなりました。弟子たちとキリスト者たちは、キリストによって天の父の子たちとされました。

 

最後に主イエスは、ペトロにガリラヤ湖へ行って釣りをするように命じられます。そして、主イエスはペトロに次のように言われました。「あなたが釣りをし、最初に釣れた魚の口を開くと、あなたは銀貨1枚を見つけるでしょう。それをわたしとあなたの分として神殿に納めなさい。」

 

主イエスは、父なる神の御子です。神殿税を支払う義務はありません。しかし、主イエスは神の御子に固執しないで、人としてこの世に来てくださいました。神殿税は、人の命の代償でありました。つまり、人は皆罪があり、主なる神に罪を贖われる必要がありました。主イエスが人としても神殿税を支払う必要がなかったということは、罪無きお方であったということです。

 

マタイによる福音書は、わたしたちに主イエスが人をつまずかせないために、主とペトロの2人分の神殿税を納められたと記しています。罪無き主イエスが、御自身を罪人して十字架につかれました。主イエスがそれほどまでに御自身を低くして、わたしたちを罪より救うために十字架の道を歩んでくださったのです。それによって今のわたしたちとわたしたちの教会がこの世に生まれました。

 

マタイによる福音書は、わたしたちに神殿税を納め、人につまずきを与えないように配慮された主イエスを語り、18章において「教会生活に関する主イエスの説教」への導入としているのです。お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、父なる神の御子主イエスが、御自身をへりくだらせて、十字架の道を歩まれ、わたしたちの命を贖い、わたしたちを主の御前に生きる者としてくださり感謝します。今から聖餐の恵みにあずかります。御言葉と聖餐の恵みを通して、わたしたちが神の子とされた喜びを心より賛美させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。