詩編説教020                  主の2012520

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、今朗読される詩編の御言葉とその説き明かしである説教を心に留め、今主がわたしたちに伝えようされている御旨を理解させてください。今福音において提供されている主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

                指揮者によって。賛歌。

 

                ダビデの詩。

 

苦難の日に主があなたに答え 「あなたに答えるように、主が、苦難(逆境、窮地)の日に」

 

ヤコブの神の御名があなたを高く上げ「あなたを高く上げるように、ヤコブの神の御名が」

 

聖所から助けを遣わし 「送るように、あなたの助けを、聖所から」

 

シオンからあなたを支えてくださるように。「またシオンから、あなたを支えるように」

 

 

 

あなたの供え物をことごとく心に留め 「心を留めるように、すべてのあなたの供え物を」

 

あなたのいけにえを快く受け入れ 「またあなたの燔祭を、脂肪を受けるように」

 

あなたの心の願いをかなえ 「与えるように、あなたに、あなたの心に従って」

 

あなたの計らいを実現してくださるように。「またすべてのあなたの計画を満たすように」

 

 

 

我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ 「我らは喜び叫ぼう、あなたの救いによって」

 

我らの神の御名によって 「そして我らの神の名によって」

 

  旗を掲げることができるように。「我らは旗を掲げよう」

 

主が、あなたの求めるところを 「満たすように、主がすべてのあなたの求め(願望)を」

 

  すべて実現させてくださるように。

 

 

 

今、わたしは知った 「今こそ私は知る」

 

主は油注がれた方に勝利を授け 「主は主が油注がれた者を勝利させる(救われる)ことを」

 

聖なる天から彼に答えて 「彼に答える、彼の聖なる天から」

 

右の御手による救いの力を示されることを。「力強い業によって、彼の右の手の救いの」

 

 

 

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが「ある者たちは戦車で、またある者たちは馬で」

 

我らは、我らの神、主の御名を唱える。「しかし、我らは、我らの神、主の名で唱える」

 

 

 

彼らは力を失って倒れるが 「彼らは屈する、また倒れる」

 

我らは力に満ちて立ち上がる。「しかし、我らは立つ、そして奮い立つ」

 

 

 

主よ、王に勝利を与え 「主よ、王を救い給え」

 

呼び求める我らに答えてください。「彼が我らに答えるように、我らが呼ぶ日に」

 

                   詩編第20110

 

 

 

 説教題:「主よ、わが願いを聞きたまえ」

 

 詩編第20110節の御言葉を学びましょう。この詩編を、「王の歌」と名付ける人がいます。ダビデ王と民たちが戦いに出陣する際に、主なる神を礼拝し歌ったものと推測しています。あるいは、ダビデ王が王に即位した時に、ダビデ王と民たちが歌ったものであると推測する人もいます。

 

戦争は、ダビデ王とイスラエルの民にとって、「苦難の日」であります。2節の「苦難の日」という言葉は、「逆境の日」、「窮地の日」とも言える言葉です。ですから、わたしはダビデ王と民たちが戦いに出陣する際に、主なる神を礼拝し賛美したものと理解しています。

 

この詩編は、表題に「ダビデの詩」とありますが、ダビデ王個人の賛美ではありません。ダビデ王と民たちが交互に賛美した歌です。

 

 26節を見ますと、イスラエルの民が、ダビデ王のために主なる神に執り成しの祈りをし、賛美しています。

 

イスラエル民たちは、「苦難の日に主があなたに答えて」くださるようにと祈り、賛美します。「あなた」とは、ダビデ王のことです。

 

国境を接する外国のペリシテの国が攻めて来たのでしょうか。あるいはアラムの国がイスラエルの国に攻めて来たのでしょうか。ダビデ王とイスラエルの民にとっては、戦争は苦難の日、悩みの日、逆境と窮地の日です。イスラエルの民たちは、主なる神に「願わくはこの苦難の日にダビデ王をお救いください」と執り成しの祈りをし、賛美しました。

 

イスラエルの民たちが祈ります主なる神は、「ヤコブの神の御名」と呼ばれています。民たちは、ダビデ王のために「ヤコブの神の御名があなたを高く上げ」と祈ります。

 

「ヤコブ」とは、イスラエルの民の先祖です。族長ヤコブです。彼の生涯は苦難の日々でした。そのことを知っています民たちは「苦難の日々にヤコブを守り続けられた主なる神」がダビデ王をこの苦難の日にお守りくださるようにと、執り成しの祈りをし、賛美しています。

 

主なる神は、ヤコブが生まれる前、母の胎にいる時から彼を愛し、「ヤコブの神」となられました。ヤコブは兄のエソウを出しぬき、長子の権利と祝福を奪いました。そのことで兄から深い憎しみを買いました。そしてヤコブは身一つで逃げ出しました。故郷を遠く離れ、母の実家まで逃げました。こうして彼の苦難の日々が始まりました。

 

ヤコブが逃走していた時に、神はヤコブに現れました。「あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神である主である」と、神は彼に告げられ、彼にカナンの土地と多くの子孫を約束し、祝福されました。

 

主なる神は、ヤコブとの約束に忠実でした。ヤコブは彼の伯父ラバンのところで、二人の妻と二人の側女が与えられ、彼女たちにより13人の子供たちを得ました。そして多くの家畜と財産を得ました。ラバンの家で20年間、彼は苦難の日、悩みの日を過ごしました。その間主なる神はヤコブ共に居て、彼を守り、再び生れ故郷のカナンに彼を戻してくださいました。主なる神は、ヤコブの一生涯を祝福し、彼のすべての苦しみ、悩み、逆境から彼を救い出されました。

 

イスラエルの民たちが主を「ヤコブの神の御名」と呼びかけるとき、彼らは族長ヤコブの生涯を思い起こしました。そして、「ヤコブの神の御名」が戦争という苦難の日にダビデ王を、族長ヤコブのように守り、救い、敵に対して勝利をお与えくださるようにと、執り成しの祈りをし、賛美しました。

 

族長ヤコブに現れた主なる神は、ダビデ王の時代にエルサレムにある聖所に常にいてくださいました。ダビデ王とイスラエルの民たちは、エルサレムに幕屋を設けて神の箱を運び入れました。そして主なる神を礼拝し、主なる神に犠牲をささげました。

 

民たちが3節に「聖所から助けを遣わし シオンからあなたを支えてくださるように」と、ダビデ王のために執り成しの祈りをしていますね。この祈りは、ダビデ王の時代のイスラエルの民たちの信仰の確信を賛美しています。

 

ダビデ王も民たちも、神の「助け」、すなわち、神のお守りと救いのお働きがエルサレムの聖所から、後のエルサレム神殿から来るということを確信していたのです。

 

ダビデ王は、民たちを代表して主なる神に犠牲をささげ、勝利を祈願しました。旧約聖書のレビ記の1章と2章に主なる神がモーセを通して民たちに焼き尽くすささげものと供え物をお命じになっています。

 

4節の「供え物」は、レビ記の2章にあります。穀物の供え物のことです(レビ記2116)。「いけにえ」は、1章の全焼のいけにえのことです。動物の皮を除いて、動物犠牲の全体をすべて焼いて、主なる神にささげるささげものです。

 

「快く受け入れ」という言葉は、「脂肪を受ける」というヘブライ語です。レビ記を読みますと、主なる神がモーセを通して脂肪は、主なる神の食べ物であり、祭司が食べることができないと命じておられます。だから、祭司たちは脂肪をすべて燃やして神にささげました。だから、焼き尽くすささげものは、主なる神が「脂肪を受ける」という意味であり、そこから主なる神が民のささげる犠牲を、「よしとする」「快く受ける」という意味に転じました。

 

民たちは、信仰を持って、ダビデ王が民を代表して主なる神にささげた供え物と焼き尽くす動物犠牲を、主が喜んで受け入れてくださるようにと、執り成しの祈りをしました。

 

5節は、民たちが「願わくは主なる神がダビデ王の戦勝祈願を望み通りに与えて、ダビデ王の計画を実現してくださるように」と執り成しの祈りをしています。ダビデ王が戦争において神の民たちを導く計画が望み通りに実現し、ダビデ王が敵に対して勝利するように祈っているのです。

 

6節は、民たちがダビデ王の勝利を喜び、叫ぼうと歌っています。民たちがダビデ王の勝利を喜ぶのは、彼らがダビデ王を愛して、王と心を一つにしていたからです。そして、民たちは、次のように確信しています。戦いの勝利の栄光は、ダビデ王に帰するものではなく、主なる神に帰すべきであると。それ故に民たちは、「我らの神の御名によって 旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところを すべて実現させてくださるように」と執り成しの祈りをしています。

 

 

 

710節はダビデ王の賛美です。

 

ダビデ王は今知ったと、彼の信仰の確信を賛美します。それは、ダビデ王が神礼拝の中で体験した信仰の確信です。神礼拝において主なる神が民たちの執り成しの祈りを聞かれて、ダビデ王に次のようにお告げになりました。主なる神が油注いだ者は必ず主なる神に救われて、戦いに勝利を賜ると。

 

ダビデ王は、次のようにさらに告白しています。わたしは、預言者サムエルを通して主なる神から油注がれた者です。そしてこの事実そのものが、主なる神がいます聖なる天から力強い助けを得る保証であると。

 

さらにダビデ王は信仰の確信から、敵たちと神の民たちが信頼するものが違うことを告白しています。敵たちが信頼するのは、戦車や馬という兵器です。彼らは、戦車と馬を持って戦うことを誇っています。ダビデ王と民たちは「我らの神、主の御名」にのみ信頼しています。彼らが誇るのは、「我らの神、主の御名」です。

 

「我らの神」とは、彼のらの先祖アブラハム、イサク、ヤコブとの恵みの契約によって、イスラエルの神となってくださった主なる神のことです。「名を唱える」とは、名を称えることです。

 

「我らの神、主の御名を唱える」ことで、ダビデ王と民たちは主によって強くされました。ダビデ王にとって、イスラエルの救いの源は主なる神です。戦車や馬は救いをもたらさないと、ダビデ王は強く確信しています。

 

ダビデ王の確信は、現実に目をやると明らかです。主なる神に信頼しない者たちや彼らの国は、必ず力が衰えて行き、彼とその国は倒れてしまいました。ところが、主なる神に助けを得、守られている者とその国はどんな苦難の中からも、主によって立ち上がらされ、神の民たちと国は互いを支え合っていると。

 

最後の10節は、ダビデ王と民たちが一緒に主なる神に祈っています。ダビデ王に戦いの勝利を与えてくださいと祈り、今エルサレムの聖所において礼拝する者たちに、主なる神が答えてくださるようにと、祈っています。ダビデ王と民たちは、礼拝において主なる神に呼びかけ、「我らを救い給え」と祈りました。

 

このダビデ王と民たちの祈りに、主なる神はどのように答えられたのでしょうか。

 

宗教改革者カルヴァンが、今朝の詩編20篇を説き明かしし、次のようにわたしたちに教えています。「神が彼らに与えられた王の手とその導きによらずしては、その民は救われることはありえない、と神は約束しておられるからである。今日でも、キリストがわれわれに明示されているからには、この栄誉をキリストに帰し、キリストがその父からわれわれにもたらされる救い以外には、期待しないことを学ぼうではないか」

 

戦いに際して、民たちがダビデ王のために執り成しの祈りをしたのは、主なる神はダビデ王の手を通して、イスラエルの民たちを救うことを約束されたからです。

 

ダビデは、神の民を救いに導く王として、主なる神に選ばれました。だから、民たちは主なる神に熱心にダビデ王のために執り成しの祈りをしたのです。

 

そして、ダビデ王は、神の民たちを正しく主なる神に導くために、主なる神に忠実に歩みました。彼は、主なる神のみ心に従って忠実にエルサレムの聖所において主なる神に焼き尽くす犠牲と供え物をささげました。

 

しかし、ダビデ王は、メシアではありません。来たるべきメシアである主イエス・キリストを示す者として、主なる神がお用になった人物です。

 

ダビデ王と民たちの祈りに答えて、主なる神はメシアを遣わされました。神の民たちを御国に導く王として、メシアである主イエス・キリストはこの世に来てくださいました。洗礼者ヨハネから水で洗礼をお受けになられたキリストに、天から聖霊が下り、父なる神がキリストを「わたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と宣言されました。

 

キリストは、神の小羊として、わたしたちの罪を贖い、御国に導くために、御自身を犠牲として十字架の上にささげられました。そして、3日目に御国王として復活されました。天地のすべてを支配する王として御国に昇天し、父なる神の右に座されました。

 

キリストは、御自身の民を御国に導くために聖霊をお送りくださいました。そして、この地にキリスト教会を建てられました。そして、教会に聖書を与え、わたしたちを神の民として訓練し、御国へと導かれています。

 

ダビデ王と民たちにとって「苦難の日」があるように、地上のキリスト教会にも苦難の日があります。迫害、戦争、内戦、飢饉、天災に人災があります。キリストは、昨日も今日も、いつまでも地上の教会のために父なる神に執り成しの祈りをされています。悪魔とあらゆる誘惑、試練から、キリストはわたしたちの王として教会を守り支えてくださいます。

 

カルヴァンは、わたしたちに次のように励ましています。「永遠の犠牲奉献者であられるキリストが、われわれの王であって、神に向かって執り成しを止められないゆえに、教会全体はその祈りにおいて、キリストと心を合わせることが大切である。われわれが艱難の中にあるとき、イエス・キリストがわれわれの悩みをご自身のものとみなされるということは、われわれの悲しみを和らげるに少なからず慰めである。」

 

十字架のキリストが、わたしたちの教会の王として、この世において罪に苦しみ悩み、病に苦しみ、人間関係に悩むわたしたちの支配者として、今この教会の礼拝を通してわたしたちを救い、守ってくださっています。

 

聖霊は、使徒パウロを通して教会とわたしたちキリスト者に「わたしたちが神の国に入るのは、多くの苦しみを経なくてはならない」と教えておられます(使徒言行録1422)。年老いたこと、病気であること、礼拝に出られないこと、上手く人と付き合えないこと、経済的に困っていること、仕事がないこと、将来に不安を覚えること、いじめられていること、セクハラされていること、孤独であること、大きな災害にあっていること。

 

このようにこの世において神の民と教会は、日々苦難の日を過ごしているのです。ダビデ王が民の苦難の日に彼らを守り、主の御下に導いたように、今は復活のキリストがわたしたちを御国へと導かれています。主イエスは、「わたしはこの囲いの外にもわたしの羊たちがいる」と約束してくだしました。だから、わたしたちは、わたしたちの兄弟姉妹のために、教会の外にいるわたしたちが知らない神の民のために、キリストのみが救ってくださるように祈るのです。民たちがダビデ王を通して民を救われる主なる神の御業を求めて祈りましたように。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、ダビデ王と民たちが主なる神にのみ信頼し、御救いを求めたように、わたしたちもキリストの十字架を覚えて、キリストの十字架を通して示された神の愛と罪の赦しと和解にのみ心を向けて、この世の苦難の日々を歩ませて下さい。王なる主イエスよ、弱きわたしたちとこの教会を、憐れんでください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

詩編説教021                  主の2012624

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、今朗読される詩編の御言葉とその説き明かしである説教を心に留め、今主がわたしたちに伝えようされている御旨を理解させてください。今福音において提供されている主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

                       指揮者によって。賛歌。

 

                       ダビデの詩。

 

主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 主よ、あなたの力により、喜ぶように、王は

 

御救いのゆえに喜び躍る。 またあなたの救いにより どれほど喜び躍るように、大いに

 

あなたは王の心の望みをかなえ 彼の心の欲求を あなたは与える、彼に。

 

唇の願い求めるところを拒まず そして彼の唇の欲求を あなたは拒まない。

 

彼を迎えて豊かな祝福を与え まことにあなたは迎える、数々の良き祝福で

 

黄金の冠をその頭におかれた。あなたは置く、彼の頭に純金の冠を

 

願いを聞き入れて命を得させ 命を、彼があなたに求める。あなたは彼に与える。

 

生涯の日々を世々限りなく加えられた。 日々の長さを、永遠に、そして永遠に。

 

御救いによって王の栄光は大いなるものになる。彼の栄光は大きいあなたの救いによって

 

あなたは彼に栄えと輝きを賜る。 威光と栄誉を、あなたは置く、彼の上に。

 

永遠の祝福を授け、御顔を向けられると  まことにあなたは彼を永遠の祝福とすると、

 

彼は喜び祝う。 彼をあなたの御顔と共に喜びを持って楽しませると、

 

王は主に依り頼む。まことに王は、主に依り頼む。

 

いと高き神の慈しみに支えられ いと高き方の慈しみの中で

 

決して揺らぐことがない。 彼は揺るがない。

 

 

 

あなたの御手は敵のすべてに及び 見つける、あなたの手は、すべてのあなたの敵どもを

 

右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。あなたの右の手は見つける、あなたを憎む者たちを

 

主よ、あなたが怒りを表されるとき あなたは彼らを・・する。火の炉のように、

 

彼らは燃える炉に投げ込まれた者となり              あなたの顔の時に

 

怒りに飲み込まれ、炎になめ尽くされ 主は彼の怒りで、彼らを呑み込む。また火が

 

その子らは地から 彼らの子孫を、地よりあなたは滅ぼす。

 

子孫は人の子らの中から絶たれる。また彼らの子孫を、人の子孫から。

 

彼らはあなたに向かって悪事をたくらみ なぜなら彼らはあなたに悪事を向けた。

 

陰謀をめぐらすが、決して成功しない。彼らは彼らのできない謀略を企む。

 

かえって、あなたは彼らを引き倒し かえって、あなたは彼らを彼らの背に置く。

 

彼らに向かって弓を引き絞られる。あなたの弓の弦で、あなたは彼らの顔を狙う。

 

 

 

御力を表される主をあがめよ。 高く上がりたまえ。主よ、あなたの力で。

 

力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。我らは歌おう。また賛美しよう。

 

                              あなたの力強い業を

 

                          詩編第21114

 

 

 

 説教題:「主なる神を楽しみ喜ぶ」

 

 今朝の詩編第21篇は、詩編第20篇と同じように、「王の詩編」と呼ばれています。民が主なる神にダビデ王、ソロモン王のために感謝をささげた歌であります。

 

イスラエルの民たちは、自分たちの安全と幸せのために、主なる神に自分たちに王を与えてくださいと願いました(サムエル記上8)

 

主なる神は、民たちの願いに応えられ、イスラエルに王を与えてくださいました。サウル王であります。しかし、サウル王は、主なる神に依り頼みませんでした。主なる神は、サウル王を退けられました。そして、羊飼いの少年ダビデを、イスラエルの王に選ばれました。ダビデ王は、主なる神に依り頼み、ダビデ王国を打ち立てました。その息子ソロモンの時代に民たちは平和と繁栄を得ました。およそ400年間、ダビデ王国はバビロンのネブカドネツァル王に滅ぼされるまで続きました。

 

詩編20篇と21篇には、主なる神は、イスラエルの民たちの安全と幸いのために、彼らの望みに従ってダビデやソロモン、そして南ユダ王国の王を選ばれたという確信があります。それ故に民たちはエルサレム神殿の礼拝において主なる神に感謝しました。主なる神がダビデ王、ソロモン王たちを守り、王たちの願いを聞かれて、彼らを祝福し、王たちが主なる神を喜ぶ姿を見たからです。民たちのために主なる神が選ばれた王たちが、主なる神の守りと祝福を楽しみ喜ぶのであれば、民たちは外敵に守られ、平和を得、約束の地カナンに豊かに生きることができるでしょう。

 

28節は、民がダビデ王とその息子ソロモン王を祝福し、二人の王たちが主なる神に彼らの喜びを、主なる神に向けて響かせ、主なる神に依り頼む姿を、主なる神に感謝して歌っています。

 

 民は、「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 御救いのゆえに喜び躍る」(2)と賛美しますね。その「王」とは、ダビデ王でありましょう。「王はあなたの御力を喜び祝い」とありますが、ヘブル語の詩編は「主よ、あなたの力により、喜ぶように、王は」とあります。民たちが目にしたダビデ王は、主なる神の「力」の中で、喜んでいたのです。主なる神がダビデを救われ、民たちを救われたので、喜び躍りました。

 

「喜び躍る」は、ダビデ王の喜びを十分に伝えていません。ヘブル語の詩編は「どれほど喜び躍るように、大いに」とあります。民は、ダビデ王が主なる神の御力の中で、サウル王の迫害とペリシテの国の攻撃から守られて、ダビデの王国を建てました。その時にダビデ王が最初にしたのは、主なる神の契約の箱をダビデの町エルサレムに迎え入れることでした。ダビデ王は、主なる神の箱を迎え入れました時、主なる神の御前に裸になって踊りました。その姿が、この詩編を歌う民の目に焼き付いているのです(サムエル記下6)

 

3節と4節は、民がソロモン王のことを心に留めて賛美したのでしょう。ソロモン王は、父ダビデ王がエルサレム神殿の場所に定めたギブオンに行きました。そこで彼は主なる神を礼拝しました。その夜に主なる神はソロモン王に現れました。そして主なる神はソロモン王に「何事でも願うがよい。あなたに与えようと」告げられました。ソロモン王は、主なる神に「あなたの民を治める知恵をください」と願いました。主なる神は、ソロモン王の願いを喜ばれ、富も栄誉もすべて与えると約束してくださいました。「黄金の冠」は主なる神の祝福と繁栄のしるしです(列王記上3)

 

民たちは、ソロモン王の栄華を目にして、主なる神に感謝し、賛美しました。「あなたは王の心の望みをかなえ 唇の願い求めるところを拒まず 彼を迎えて豊かな祝福を与え 黄金の冠をその頭におかれた。」と。

 

57節は、民が次のことを心に留めて賛美します。主なる神は、預言者ナタンを遣わし、ダビデ王と契約を結ばれました。主なる神は、預言者ナタンの口を通してダビデ王に「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、ダビデ王国を永遠に祝福する」と約束されました。ダビデ王は、主なる神に彼と彼の家がとこしえに永らえ、祝福されることを心から感謝しています(サムエル記下7)

 

8節に民は、ダビデ王とソロモン王「は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ 決して揺らぐことがない。」と賛美しました。ダビデ王もソロモン王も、主なる神の恵みに依り頼みました。それを、民は「いと高き神の慈しみに支えられ」と歌っています。「慈しみ」とは主なる神が、ダビデ王との契約を忠実に果たされることを意味します。ダビデ王との契約を、主なる神が忠実に果たし、南ユダ王国の王たちに愛と慈しみを示し続けられたのです。

 

914節は、主なる神が敵を滅ぼされることを賛美しています。イスラエルの民たちは、主なる神に敵対した国々が主なる神の怒りによって、燃える炉の中に投げ入れられた者のように滅ぼされるようにと賛美しています。

 

そして、主なる神は、敵国がイスラエルの王に悪事を企み、陰謀を企てても、不成功に終わらせてくださると賛美します。

 

そして、民は、王と神の民を御力によって守られる主なる神をあがめ、主なる神の救いの御業を賛美すると歌っています。

 

さて、ダビデの王国は滅亡しました。それ以後ダビデの王国は再建されていません。主なる神がダビデ王となさった約束は果たされなかったのでしょうか。

 

そうではありません。ダビデとソロモンを、イスラエルの民の王として選ばれた主なる神は、わたしたちの父として、わたしたちのために、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエス・キリストを、教会の王として、頭として、お選びになりました。イエス・キリストは、父なる神の御子です。しかし、人としてこの世に来られ、父なる神と聖霊なる神の御力の中で、十字架の道を歩まれました。

 

父なる神は、洗礼者ヨハネより洗礼を受けられた主イエス・キリストを「わたしの愛する子」と宣言されました。そして、主イエス・キリストの願いを拒まれませんでした。主イエス・キリストは、御自身の十字架を通して、神の怒りのなかで滅ぶべきものであった、神の敵であった異邦人のわたしたちを罪と死から救われることを願われたのであります。

 

悪魔は、異邦人のポンティオ・ピラトを動かし、ユダヤの指導者たちに主イエスを殺す陰謀を企てさせました。しかし、十字架は、救い主イエスの救いを不成功に終わらせることができませんでした。むしろ、十字架の死は、父なる神に完全に依り頼まれたキリストの勝利でありました。

 

その勝利によって、主なる神が御怒りをもって裁かれる地に、主なる神に敵対した異邦人の地、神に敵対しているこの世にキリストを通して神の罪の赦しの福音がもたらされ、わたしたちの教会が建てられました。

 

教会は、天に昇られた栄光のキリストが、ダビデ王やソロモン王のように天において父なる神を喜び楽しまれているのを、イスラエルの民たちのようにこの世において信仰を通して見ています。次週は聖餐式を通して、その恵みを共に味わいましょう。お祈りします。

 

御座天の父なる神よ、王の詩編を学ぶ恵みを得まして感謝します。イスラエルの民のためにダビデとソロモンをイスラエルの王として選ばれた主なる神は、わたしたちの父として、イエス・キリストをわたしたちの教会の王、頭としてお選びくださいました。父なる神は、聖霊なる神を通して主イエス・キリストを守り、キリストは十字架の贖いを成し遂げら、死から復活し、今天におられます。わたしたちは、教会を通してキリストの救いの恵みにあずかり、神を喜び、楽しむ祝福の中にあることを感謝します。この世の多くの人々に、キリストの救いを伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 詩編説教022                  主の2012722

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、今朗読される詩編の御言葉とその説き明かしである説教を心に留め、今主がわたしたちに伝えようされている御旨を理解させてください。福音において提供されている主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

                      指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わ

 

せて。賛歌。ダビデの詩。

 

わたしの神よ、わたしの神よ        「暁は夜明け」

 

なぜわたしをお見捨てになるのか。 「なぜわたしを見捨てた」

 

なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 「遠い わたしの救いとわたしの叫びの言葉から」

 

呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

 

わたしの神よ                                 い」

 

昼は、呼び求めても答えてくださらない。「わたしは叫ぶ、昼間に。しかしあなたは答えな

 

夜も、黙ることをお許しにならない。 「また夜に、またわたしに沈黙がない」

 

                      

 

だがあなたは、聖所にいまし 「しかしあなたは聖なる イスラエルの賛美に座している

 

イスラエルの賛美を受ける方  方」

 

わたしたちの先祖はあなたに依り頼み  「あなたに先祖たちは依り頼み」

 

依り頼んで、救われて来た。「彼らが依り頼んだ。するとあなたは彼らを救い出した」

 

助けを求めてあなたに叫び、救い出され 「あなたに彼らは叫んだ。そして救い出された」

 

あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。「あなたに彼らは依り頼んだ。そして彼らは恥なかった」        

 

わたしは虫けら、とても人とはいえない。「しかしわたしは虫である。人間ではない」

 

人間の屑、民の恥。「人の恥、また民の卑しめられた者」

 

わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 

 

唇を突き出し、頭を振る。「彼らは唇を大きく開ける。彼らは頭を振る。」

 

「主に頼んで救ってもらうがよい 「主に向かって転がせ 彼を救い出す」

 

主が愛しておられるなら 「彼を救うであろう。なぜなら主は彼を愛している。」

 

  助けてくださるだろう。」

 

 

 

わたしの母の胎から取り出し 「なぜならあなたは、胎内からわたしを取り出した方」

 

その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。「わたしを母の乳房の上に委ねた方」

 

母がわたしをみごもったときから 「あなたの上にわたしは子宮から投げ出された」

 

  わたしはあなたにすがってきました。

 

母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。「わたしの母の胎内からあなたはわたしの神」

 

わたしを遠く離れないでください。「遠ざかり給うな。わたしから。なぜなら苦難が近い」

 

苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。「なぜなら助ける者がいない」

 

 

 

雄牛が群がってわたしを囲み 「わたしを囲む。多くの雄牛たちが」

 

バシャンの猛牛がわたしに迫る。「バシャンの猛牛たちがわたしを包囲する。」

 

餌食を前にした獅子のようにうなり「わたしに向かって彼らの口を大きく開く。獅子は

 

牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。  引き裂き吠える。

 

わたしは水となって注ぎ出され 「水のようにわたしは注ぎだされる。」

 

骨はことごとくはずれ 「わたしの骨はすべて外れる」

 

心は胸の中で蝋のように溶ける。「わたしの心は蜜蝋のようにわたしの腸の中で溶ける」

 

口は渇いて素焼きのかけらとなり 「わたしの力は陶片のように乾いている。」

 

舌は上顎にはり付く。 「またわたしの舌はわたしの顎にくっつく。」

 

あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。「そして死の塵にあなたはわたしを置く。」

 

 

 

犬どもがわたしを取り囲み 「まことに犬どもがわたしを取り囲む」

 

さいなむ者が群がってわたしを囲み 「悪を行う者たちの群れがわたしを取り囲む」

 

  獅子のようにわたしの手足を砕く。「獅子のようにわたしの両手とわたしの両足を」

 

骨が数えられる程になったわたしのからだを「わたしはわたしの骨をすべて数える」

 

  彼らはさらしものにして眺め 「彼らはじっと見る。彼らはわたしを見る」

 

わたしの着物を分け 「彼らは自分たちのためにわたしの着物(複数形)を分ける」

 

衣を取ろうとしてくじを引く。「そしてわたしの衣(単数形)について彼らはくじを投げる」

 

 

 

主よ、あなただけは 「しかしあなたは、主よ」

 

  わたしを遠く離れないでください。「遠ざかり給うな」

 

わたしの力の神よ 「わたしの力よ」

 

  今すぐにわたしを助けてください。「わたしの助けのために急ぎ給え」

 

わたしの魂を剣から救い出し 「救い出したまえ。剣からわたしの魂を」

 

わたしの身を犬どもから救い出してください。「犬の手からわたしの唯一のものを」

 

獅子の口、雄牛の角からわたしを救い 

 

わたしに答えてください。    ※ここから詩人は嘆きから賛美に転換する。

 

 

 

わたしは兄弟たちに御名を語り伝え「わたしは語ろう。あなたの名をわたしの兄弟たちに」

 

集会の中であなたを賛美します。「会衆の中でわたしはあなたを賛美しよう。」

 

主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。

 

ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。「ヤコブのすべての子孫よ、彼を敬え」

 

イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。「そして彼を恐れよ、イスラエルのすべての子孫よ」

 

 

 

主は貧しい人の苦しみを「まことに彼は侮辱しない。また忌み嫌わない。貧しい者の

 

  決して侮らず、さげすまれません。  苦痛(困窮者の惨めさ)を。」

 

御顔を隠すことなく 「そして隠さない。彼の顔を彼から」

 

助けを求める叫びを聞いてくださいます。「そして彼が叫ぶ時、彼に向って彼は聞く。」

 

それゆえ、わたしは大いなる集会で 「あなたと共にわたしの賛美は多くの会衆の中で」

 

  あなたに賛美をささげ              彼を畏れる者たちの真向かいで」

 

神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。「わたしの誓いをわたしは果たす。

 

貧しい人は食べて満ち足り 「へりくだる人たちは食べる。そして満腹する。」

 

主を尋ね求める人は主を賛美します。

 

いつまでも健やかな命が与えられますように。「生きるように、あなたがたの心が永遠に」

 

                     「あなたがたの心は永久に生きよ。」

 

地の果てまで 「思い起こして、主に立ち帰るように 地の果てのすべて」

 

  すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り           すべての家族は」

 

国々の民が御前にひれ伏しますように。「またひれ伏すようにあなたの御前に異邦人たちの

 

王権は主にあり、主は国々を治められます。「まことに王権は」「彼は異邦人たちを支配」

 

命に溢れてこの地に住む者はことごとく「地の肥えた者たちはことごとく食べてひれ伏す」

 

  主にひれ伏し

 

塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。「塵に下る者はことごとく彼の面前で屈む」

 

 

 

わたしの魂は必ず命を得(70人訳聖書を採用) 「そして彼の魂を彼は生かさない」

 

  子孫は神に仕え

 

主のことを来たるべき代に語り伝え 「語られる。わたしの主の事が代々に」

 

成し遂げてくださった恵みの御業を 「彼らは来る。そして告げる。彼の義を。」

 

  民の末に告げ知らせるでしょう。「生れてくる民に、彼らが成したことを」

 

                          詩編第22132

 

 

 

 説教題:「絶望の中から神に助けを求める」

 

 今朝は、詩編22篇の御言葉を学びましょう。

 

この詩編22篇にも表題がありまして、2つのことを指示しています。第1に、「暁の雌鹿」に合わせて、この詩編を歌えと指示しています。「暁の雌鹿」は歌の題であります。この名で始まる歌があり、その旋律でこの詩編を歌うようにと指示しています。残念ながら、今日では「暁の雌鹿」がどのような歌であり、どんな旋律であったかは分かりません。

 

2にこの詩編は「ダビデの賛歌」と記しています。イスラエルの王でありますダビデが賛美した歌であります。いつ、どのような時にダビデ王がこの詩編を賛美したか、この詩編の表題にはその背景を記していません。

 

 この詩編は、ダビデ王の嘆きの歌と賛美の歌が合わさったものであります。1節から22節の1行目までがダビデ王の嘆きの歌であります。22節の2行目から32節がダビデ王の賛美の歌であります。

 

 まずは、この詩編の前半のダビデ王の嘆きの歌から学びましょう。

 

 詩編は、ひと言でいえば、信仰者が神に語りかける言葉です。詩編22篇は、ダビデ王が主なる神に語りかける言葉です。

 

ダビデ王は自らを7節に「わたしは虫けら、とても人とは言えない。人間の屑、民の恥」と告白しています。要するにダビデ王は、「自分は汚れた罪人です」と告白しています。

 

他方、ダビデ王が語りかける主なる神を、ダビデ王は4節に「だがあなたは聖所にいまし イスラエルの賛美を受ける方」と告白しています。「あなたは聖所にいまし」とは、ヘブライ語をそのまま日本語にすると「あなたは聖なる」という言葉です。主なる神は聖なるお方という意味です。そのお方が聖所に、イスラエルの神の民と共に居てくださいますので、「あなたは聖所にいまし」と日本語にしました。

 

 本来汚れた人間が聖である主なる神に語るべき言葉を持ち合わせてはおりません。だが、主なる神は御自身をへりくだり、「罪に汚れた人である」と告白しますダビデ王と契約を結ばれました。

 

 それゆえにダビデ王は、主なる神を2節と3節と11節で「わたしの神よ」と呼びかけることを許されました。

 

主なる神は、預言者であり、祭司でありましたサムエルという人物を通して羊飼いであったダビデ王に油を注ぎ、イスラエルの王とされました。そして、預言者ナタンという人物を通して主なる神はダビデ王と彼の家と契約を結ばれました。そして主なる神は、ダビデ王に約束されました。「わたしはあなたとあなたの家の神となり、あなたとあなたの家を永久に堅くする」と。

 

 それゆえにダビデ王は、主なる神に「わたしの神よ、わたしの神よ」と呼びかけて、心の底から「なぜわたしを見捨てたのか」と嘆き訴えているのです。ダビデ王は、絶望の状況の中で主なる神に切なる願いを持ち、主なる神に自らの絶望した状況を嘆き、主の助けを願っています。

 

 2節にダビデ王は2度「なぜ」という疑問符を述べていますね。この疑問符は、神の民が主なる神に見捨てられた嘆きに結び付く時の疑問符です。この実例は、すでに詩編101節で学びました。そこでもダビデ王は、「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」と嘆いています。

 

 そしてここでもさらにダビデ王は、主なる神に「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」と重ねて嘆き訴えています。

 

 ただしダビデの嘆きは、彼が主なる神に絶望しているということではありません。彼自身が12節に「苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです」と告白していますように、人からの助けを得られない絶望状況に陥っているのです。

 

絶望した状況にあるダビデ王にとって、ただ一つの希望は、彼と契約を結んで「わたしの神」となってくださった主なる神が彼を助けてくださることなのです。

 

 だから、ダビデ王は主なる神を「わたしの神よ」と呼びかけ、主なる神がダビデ王を見捨てることなく、彼を救ってくださいと願い、嘆き訴えているのです。

 

 3節に「昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」と、ダビデ王は告白していますね。彼は、絶望の中で、主なる神の御心を尋ね求めました。昼間は預言者ナタンを通して、あるいは祭司たちを通して、主の御心を、主の助けを求めたのでしょう。しかし、預言者の口を通しても、祭司のエポデを通しても主なる神は答えてくださいません。だから夜も必死で主なる神にお答えくださいと嘆き祈りました。それを、ダビデ王は「黙ることをお許しにならない」と訴えています。

 

 そうした絶望の中でも、ダビデ王は主なる神との契約に、主なる神がダビデ王に「わたしはあなたとあなたの家の神となる」と約束してくださったことを信じ、「わたしの神」である主なる神にのみ救いの根拠を置いています。

 

 46節でダビデ王は、彼が主なる神に救いの根拠を置く、その確かさを主なる神がイスラエルの民を救われた歴史に見ています。

 

 主なる神は、神の民イスラエルと常に共に居てくださいました。イスラエルの民たちの先祖アブラハム、イサク、ヤコブたちと主なる神は契約を結ばれました。そして主なる神は彼らと彼らの子孫の神となり、先祖たちは主なる神の約束を信頼して全生涯を歩みました。また出エジプトにおいて主なる神は、指導者モーセを通してイスラエルの民を奴隷の地エジプトから救い出されました。そして、シナイ山で契約を結ばれました。主なる神はイスラエルの民に「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と約束してくださいました。そして主なる神は先祖たちを約束されたカナンの地に導かれました。そしてイスラエルの民にその地を与えられました。しかし、先祖たちは、しばしば主なる神の御前に罪を犯しました。そして、外国に攻撃され、苦難に遭いました。その時先祖たちが自らの罪を悔いて、主なる神に依り頼めば、主なる神は先祖たちを苦難の中から救い出してくださいました。6節にダビデ王が告白するように、主なる神の方から約束を破り、イスラエルの民を裏切られたことはありませんでした。

 

 79節は、ダビデ王が絶望の中でイスラエルの王としての尊厳を失っている惨めな姿を告白しています。「虫けら」とは、植物を食い荒らし、マナを腐らせる害虫のことです。ダビデ王は、まるで恐ろしい伝性病を患った者のように神の民たちから蔑まれています。その絶望の中でダビデ王を助ける者がおりません。むしろ、「お前は神に愛されている者だろう。神に助けを求めるがよい。助けてくださるだろう。」道行く人々は皆、ダビデ王に「唇を突き出し、頭を振り」、彼を侮辱しました。

 

 1012節は、ダビデ王がそのような絶望の中でも彼が主なる神を「わたしの神」と信じる根拠を告白しています。ダビデ王にとって主なる神は、助産婦のような存在です。主なる神がダビデ王を母の胎から取り出してくださいました。ダビデ王は、生まれた赤ちゃんが助産婦に膝の上に抱きかかえられるように、生まれた時からダビデ王は、彼の助産婦である主なる神を「わたしの神」として信頼し続けて来たと告白しています。それ故にダビデ王は、主なる神に離れないでくださいと懇願します。自分の絶望状況から救ってくれる者はいないのです。

 

 1322節は、雄牛、バシャンの猛牛、獅子、犬という動物を用いて敵がダビデ王を攻撃し、ダビデ王が絶望状況に陥ったことを述べています。サウル王の迫害でしょうか。敵がダビデ王を攻撃し、ダビデ王を包囲しました時、ダビデ王は全くの無力な状態であり、惨めな状態でした。主なる神だけが助けであり、生きる希望であるから、ダビデ王は主なる神にわたしから離れないでくださいと訴えています。

 

 23節から32節は、ダビデ王の感謝の賛美であります。嘆きの歌と感謝の賛美の歌の間に一定の時間的隔たりがあります。主なる神は、ダビデ王の「わたしの神」として、ダビデ王の嘆きに答えてくださり、ダビデ王の絶望の状態から助け出してくださいました。ダビデ王は、主なる神に救われた喜びを、共に主なる神を礼拝する会衆たちに伝えて、主なる神に感謝の献げ物をし、会衆たちと共に主なる神を喜び賛美しています。

 

 23節でダビデ王は、礼拝に来た会衆たちに主を賛美しようと勧めています。会衆たちは、主を畏れ敬う信仰者たちです。先祖の族長ヤコブ、イスラエルが主なる神と契約を結び、主に祝福された者たちは主に栄光を帰し、主を賛美しようと勧めています。

 

 2527節は、ダビデ王が主なる神に誓ったことを述べています。貧しい者の苦しみとは、主なる神を信じている者の苦しみです。主なる神は、「わたしの神」として主なる神を信じる貧しい者たちのこの世の苦難を決して無視されません。彼らが主に助けを求めるならば、出エジプトの時に奴隷の地エジプトで苦しみ、主なる神に嘆いたイスラエルの民たちの声をお聞きになった主なる神は、ただちに聞いてくださり、答えてくださり、助け出してくださいます。

 

 また貧しい者は、主なる神を尋ね求める者です。彼らは主なる神との交わりの中でとこしえの命を得ると、ダビデ王は賛美しています。

 

 2832節は、ダビデ王の主なる神への賛美の歌であります。ダビデ王にとって救いは、主なる神の御業であります。それゆえに賛美は主なる神にのみささげるものです。

 

 詩編22篇は、十字架のキリストが口にされた御言葉です。わたしたちキリスト者は、この詩編22篇を、キリストの十字架の苦しみと切り離して、読むことはできません。わたしたちの罪の身代わりに十字架につかれたキリストは、だれもが聞き取ることができる大きな声で「エリ、エリ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ2746)

 

 神であられたのに、人となり、この世に来られたキリストの目的は、罪と死に嘆くわれわれ罪人を、主を賛美する者に変えることでありました。ダビデ王が、主に嘆く者から主なる神の御救いによって主を賛美する者に変えられたように、です。

 

 わたしたちは、十字架のキリストによって罪を贖われ、今この教会の礼拝を通して主イエス・キリストとその救いの御業を賛美し、主のとこしえの命にあずかり、御国に向けて歩み続けているのです。お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、詩編22篇の御言葉を学び、十字架のキリストの御救いにお思いを向ける恵みを得まして感謝します。ダビデ王が、主なる神の御救いによって嘆きから賛美に変えられたように、わたしたちも主イエス・キリストの十字架の贖いにより罪を赦され、罪を嘆く人生から主を賛美する礼拝人生に変えられたことを感謝します。礼拝を通して主なる神を喜び、主を賛美し、キリストの御救いを世の人々に、わたしたちの家族に伝えることができるようにお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。