主の2024年12月1日
聖書テキスト:コヘレトの言葉第11章7-10節
説教題: 「人生の楽しみ」
本日よりアドベント、待降節に入ります。教会や家の玄関にリースが飾られ、既にクリスマスに向けての準備が始まっています。アドベントカレンダーを用いてクリスマスを一日一日楽しみ待つ家庭もあるでしょう。教会もイルミネーションを飾り、玄関に降誕セットを置き、クリスマスツリーを飾りつけるところあるでしょう。今日からクリスマス礼拝に人々を迎える準備をしましょう。それと共にアドベントは、再臨のキリストをお迎えする時でもあります。
主イエスはご自身の弟子たちにご自身の再臨の時にこう言うと告げておられます。マタイによる福音書第十章32-33節です。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」この主イエスのお言葉は、初代教会の信仰告白となりました。既に初代教会はユダヤ人たちに、ローマの官憲に迫害されていました。主イエスの御言葉はそのことを前提としています。だから、「人々の前で」とは地上の法廷です。そこで自分のことを主イエスの仲間と告白する者を、主イエスは「天の父の前で」、すなわち天上の法廷でその者を自分の仲間と宣言してくださるのです。反対に主イエスを拒む者を、主イエスは再臨の時、天上の法廷でその者はご自分の仲間でないと宣言されるのです。
本日からアドベントが始まります。どうか主イエスのお言葉を瞑想しつつ、クリスマスに備えましょう。そして今日のコヘレトの言葉第11章7-10節の御言葉を学びましょう。
わたしたちの新共同訳聖書は見出しがありません。聖書協会共同訳聖書は見出しがあります。「造り主を心に刻め」という見出しです。聖書協会共同訳聖書はコヘレトの言葉11章7節から12章8節までを、「造り主を心に刻め」という題で一つにまとめています。新改訳聖書2017は見出しがありません。岩波書店の旧約聖書翻訳委員会訳は、11章7節から12章2節までを「青春の日々に」という見出しを付けて一つにまとめています。わたしが参考にしたのは、フランシスコ会聖書研究所訳注です。それは、今日の説教題と同じで、同じところです。「人生の楽しみ」という見出しです。
前回はコヘレトが11章1-6節で人生がいかに不確実であるかを提言し、常に知恵を働かせ賢明に生きることが大切であると説きましたところを学びました。続いてコヘレトは今日のコヘレトの言葉11章7-10節で人生を楽しむことが大切であると説いています。
7節でコヘレトは言います。「光は快く、太陽を見るのは楽しい。」「光」と「太陽」は同じ意味です。人生の美しさと楽しみを表現しています。わたしは説教題を「人生の楽しみ」と付けましたが、コヘレトは「光は快く、太陽を見るのは楽しい。」と述べて、人生の美しさと彼が生きているという喜びに感嘆しているのです。わたしは、この教会の牧師を辞職しまして、富士見町で家族と共に住み、犬の散歩がわたしの日課となりました。毎朝朝日が出るころに犬と散歩しています。太陽が昇る手前から空が明るくなり、光が射すのを見るのは、本当に心地よいですね。コヘレトも夜明けの光輝く美しさに心を打たれたのでしょうか。わたしは、毎日朝日を見るだけで、何か心に爽快さを感じます。コヘレトが「光は快く」と感嘆するのは、彼が光に美しさと生きる喜びを感じるからでないでしょうか。これまでコヘレトは、わたしたちに繰り返し人生の空しさとその限界を語ってきました。人とこの世界の存在が昔から同じであり、どんなに不確実であるかを語ってきました。人は人生に幻滅し、悲哀があることを語ってきました。しかし、コヘレトはわたしたちにそれだけではないといつも語り掛けるのです。
創造主なる神は天地を創造されました。はじめ天地は闇に覆われていました。創造主なる神は創世記一章3節で「光あれ」と言われました。こうして光が存在したのです。光は闇の対極にあるものです。命であり、愛であり、秩序であり、救いです。これらすべての総称です。創造主なる神は光を創造され、良しとされました。創造主なる神は造られた光をご覧になり、それを肯定し、承認され、神は光を善きもの、美しきものと御覧になりました。だから、コヘレトも光を見て、快いと肯定しているのだと、わたしは思うのです。
コヘレトは、続けて「太陽を見るのは楽しい」と言っています。わたしはコヘレトにとって「太陽を見る」とは生きているということの実感だと思うのです。実際にこの世に生きている者だけが太陽を見ることができるのです。だから、コヘレトにとってこの世に生きていることは楽しいのです。人は生きることに苦しみがあり、絶望があり、不安があるかもしれません。しかし、人は生きているという実感があれば、喜びを感じるのではないでしょうか。コヘレトは、この世に生きているという喜びの実感を、「光は快く、太陽を見るのは楽しい。」という言葉で、感嘆しているのだと、わたしは思います。
コヘレトはこの世に生き、人生を楽しむことを、創造主なる神が許された恵みと理解しています。同時にコヘレトは人が永遠に太陽を見続けることができないことも知っているのです。だからコヘレトは、8節でこう述べているのです。「長生きし、喜びに満ちているときにも 暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべては空しい。」コヘレトは、わたしたちに死を忘れるなと警告しているのです。
「暗い日々も多くあろう」とは、人間の死とその後のことです。ヨブ記10章21節と22節でヨブが死後の世界をこう述べています。「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国に わたしが行ってしまう前に。その国の暗さは全くの闇で 死の闇に閉ざされ、秩序はなく 闇がその光となるほどなのだ。」コヘレトは言います。「どんなに長生きしても、太陽を見て喜びの中に生きていても、死を忘れるな。あなたは死ねば、死者の国に行き、そこは闇の世界である」と。「暗い日々」を、病気を患う日々とか、老後の日々とか、解釈できます。しかし、コヘレトは、人間の日々の長短を、あるいは人の未来を誰も予言することはできないと思っています。死は予言しなくても、誰にでも必ず訪れるのです。コヘレトの時代は人々の寿命が平均30-40代であったと考えられています。コヘレトには人の人生は短いという認識が徹底していました。それに対して幸いにもわたしたちの時代は超高齢社会です。平均寿命が80歳を超え、多くの方々が90歳を超えています。コヘレトは、わたしたちの時代を想像することはできません。彼は40歳を越えて長生きしていても、人はいつまでも太陽を見続け、人生を楽しめない時が来ると言うのです。コヘレトはわたしたちに死を忘れるなと警告します。コヘレトは、人間の死を前提に、人が生き、楽しめる時間を考えているのです。
日本の諺にも「一寸先は闇である」とあります。超高齢社会の日本ですが、私たちは長生きして人生を楽しみ続けることはできません。いつ死が訪れるのか、いつ不慮の事故に遭うか、わたしたちの人生は不確かであるからです。だから、コヘレトはわたしたちに人生における最悪の事態を想定して、それを避けるために知恵を働かせ賢明に生きよと忠告しているのです。コヘレトにとって賢明に生きるとは、将来の最悪の状況を想定し、それを回避するために、今最善を尽くすことです。徹頭徹尾現在にこだわるのです。宗教改革者マルティン・ルターは「明日世の終わりが来ても、わたしは今日リンゴの木を植える」と言ったそうです。コヘレトは、ルターの言葉に手を叩いて「その通りだ」と賛成するでしょう。明日を心配するよりも、今日自分がすべきことをする、これがコヘレトの教えだと、わたしは思うのです。
続けてコヘレトは、9節で次のように言っています。「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい 神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれると。」コヘレトは快楽主義者ではありません。彼には、生きる戦略があります。将来の不確実性をよく認識して、今知恵を働かせて賢明に生きることです。明日が不確実でも、今日農夫は種を蒔き、借り入れをし、自分の務めを果たすべきです。コヘレトの言う「空しい」とは時間の短さのことです。人生は空であるとは、つかの間であるということです。コヘレトは20歳の青年が後どれだけ生きられるのか、ほんのわずかな年月だろうと想定し、青春は短く束の間であるから、その若さを楽しみ、短い青春時代を楽しく過ごせと勧めるのです。
コヘレトは若者に創造主なる神の賜物である「お前の若さを喜ぶがよい」と勧めます。彼は青年に青春時代を楽しめと勧めます。そして彼は若者に「心にかなう道を、目に映るところに従って行け。」と勧めます。「心にかなう道」とは若者の心が若者を幸いにする道です。要するにコヘレトは若者に自分が思うままに生きよと勧めます。「目に映るところに従って行け」とは、そういうことだと思います。今のわたしたちの時代であれば、「青年よ、今を楽しめ。自由に生きよ。」ということでしょう。
しかし、コヘレトにとって賢明なことは、若者が自分の人生における最悪の事態に備えることです。だから、コヘレトは若者に言うのです。「知っておくがよい 神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれると。」「知っておくがよい」とは、「知れ」という命令形です。ヘブライ語の「知る」は単なる頭の知識ではありません。経験することです。人が人生で経験した知のことです。創造主なる神に創造された人間が人生の最後に経験することは、神の裁きの座に連れて行かれ、そこで人間は創造主なる神に前に自分がこの世でしたすべてのことを申し開きしなければならないのです。
コヘレトは、人生を飲め食え、楽しめ、自由に生きよと言っているのではありません。創造主なる神に与えられた命を、肯定しているのです。飲み食い楽しむことは、神からの賜物と考えているのです。だから、今を生きることに意味があります。人は生きて、創造主なる神の御前で農夫は農夫としての責任を果たし、商人は商人としての仕事を果たさなければなりません。だから、コヘレトは農夫に11章6節で「朝種を蒔け、夜にも手を休めるな」と勧めたのです。
若さはいつの時代も人生における最も喜びの時です。自由があり、人にとっての可能性があります。だから、若者は常に自分の心の赴くままに、自由に生きたいと思うのです。コヘレトは若者の生き方を肯定するのです。しかし、生きるということは、わたしたちに命を与え、生かしておられる創造主なる神がおられるということです。そのお方の御前に生きるとは、神に造られた人間としての責任を負って生きるということです。
神の民の命は、一人、あるいは個人の命ではありません。一人、気ままに好き勝手して生きる人生ではありません。創造主なる神を畏れ、神の民たちと共同して生きるのです。その中で神が与えられた命を生き、楽しむのです。
10節でコヘレトは「心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい」と言っています。コヘレトは、人生を楽しむためには健康であれと勧めます。心と体の一切の苦しみを取り除けと勧めます。今日健康は、人生をエンジョイするためには欠かせません。特に日本の超高齢社会で老後を楽しんで生きるためには、心も体も健康である必要があります。ですから、高齢の方々が朝早くジョギングをし、散歩をされています。高齢者から若者までジムに通い、健康の維持に余念がありません。
しかし、人の命は短いのです。コヘレトは言います。「若さも青春も空しい」と。若さも青春時代も束の間です。超高齢者社会、100歳時代と言っても、人の人生は束の間です。コヘレトは人の人生が束の間であると知って、そこから今を大切に生きようと考えているのです。食べて、飲んで、人生を楽しむ人こそ、コヘレトは創造主なる神に与えられた命を感謝して生きる人だと考えています。人生を楽しむ人は、自分の死を常に心に留めて、今自分に与えられた責任を果たすために生きるのです。そしてコヘレトにとって死は、単なる人生の終わりではありません。最後にすべて神に造られた人間は、彼の人生を裁かれるお方の前に立たなければなりません。
神の審判がわたしたちの人生の最後にあるのです。死んだらすべてが終わるという考えは、無責任な人生観です。この世に生まれたからには、人は皆創造主なる神に対してこの世に生きてきた責任を問われるのです。アドベントは、わたしたちを、人類を裁くためにキリストが再臨されることに、わたしたちの教会が備える期間です。
わたしは、70歳になり、牧師を定年退職しました。92歳まで生きて、日本キリスト改革派教会の百年を見たいと願っています。22年創造主なる神が命をお与えくださるならば、コヘレトの言葉から学んだことを生かしたいです。今を生きる恵みに感謝し、家族と共に生きる恵みを楽しみ、引退牧師としての務めを果たして、教会のために仕えて生きたいと思うのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『コヘレトの言葉』を学ぶ機会が与えられ感謝します。
コヘレトの言葉から人生を生きる喜びについて学びました。コヘレトの時代は、今のわたしたちの時代より人の平均寿命がとても短いです。しかし、コヘレトは人生の短さ、常に死を覚えて彼の人生を積極的に生きています。
人の人生の価値と意味は長いか、短いかではありません。わたしたちがこの世で与えられた命をどのように生かして生きるかです。何よりも命を与えてくださった創造主なる神に対してわたしたちは生きる責任を負っており、人は皆、人生の最後に神の審判の前に立ち、どのように生きたかを弁明しなくてはなりません。
どうか、アドベントの期間、再臨のキリストを心に留めさせてください。キリストの十字架のみがわたしたちをキリストの御前に立たせることを、わたしたちの心に強く覚えさせてください。
今から共にあずかる聖餐を祝してください。パンとぶどう酒をいただき、キリストの命にあずかる恵みに心から感謝させてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コヘレトの言葉説教17 主の2024年12月8日
聖書テキスト:コヘレトの言葉第12章1-8節
説教題:「死を忘れるな」
本日よりアドベントの第二週に入ります。いよいよクリスマスが近づいてきました。今年はどんなクリスマスになるのか、今から心がワクワクとします。さて今日は、引き続きコヘレトの言葉第12章1-8節の御言葉を学びましょう。
コヘレトの言葉も最後の十二章に入ります。わたしたちの聖書には見出しが付いていません。聖書協会共同訳聖書は、十一章7節のところに見出しがあり、「造り主を心に刻め」とあります。フランシスコ会聖書研究所訳注は、十二章1節のところに「人生の最後の日々」という見出しが付いています。
わたしは、「死を忘れるな」という説教題を付けました。コヘレトの言葉は、十一章7節から10節で青春と壮年時代を語り、十二章1節から8節で老いと死について語っています。人の老いが季節の冬に喩えられています。人は青春の光から老いの冬を迎え、そして死の暗闇へと行くのです。コヘレトはそれを印象深く詩的に表現しています。
コヘレトは、人生が若さから老いに、そして死に至るという移ろいを感傷的に眺めているのではありません。人にとっては楽しみの多い青春時代は束の間であり、やがて人は老いという人生の冬を迎え、そして体も心も衰えて行き、最後は死という暗闇に入ることをリアルに伝えているのです。
だからコヘレトはわたしたちに十二章1節でこう言うのです。「青春の日々こそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」コヘレトはわたしたちに勧告しているのです。「あなたは楽しみの多い青春時代である今を心から楽しめ。しかし、楽しみが失せる老いが訪れる前に、わたしたちの命の創造者である造り主なる主をあなたの心に刻め」と。コヘレトは知恵者です。知恵ある者として彼はわたしたちが人生の老いとその後の死という最悪のリスクに備えさせているのです。そこでコヘレトはわたしたちに人の老いと死というリスクにおいてどう生きればよいかを考えよと勧めるのです。
そこでコヘレトはわたしたちに青春時代が束の間であり、やがて人生の冬である老いが訪れ、死に至ることを知れと言っています。コヘレトはすべての人に老いと死が訪れることを、「苦しみの日々」と言っています。なぜなら、人は皆、老いを迎えて、同時に体も心も衰えて行き、死を迎えるからです。コヘレトはわたしたちに「「『年を重ねることに喜びはない』という年齢になる前に」」と勧告するのです。これは勧告というよりも、老いる者の嘆きの声を、コヘレトが代弁しているのです。老いて体も心も衰え、生きる希望を失い、後は死が待つのみだという老人の気持ちを、コヘレトは代弁しています。老いは確実にわたしたちの人生の生涯を死によって断ち切るのです。老いそして死ぬということ、この事実に人は皆、自分の人生に空を感じるのでないでしょうか。
しかし、コヘレトはわたしたちに「あなたは老いたら、人生を諦めろ」と諭しているのではありません。むしろ、コヘレトはわたしたちに「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と勧めています。わたしたちが老いに至り、人生を絶望しないためです。コヘレトは7節で「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」と述べていますね。旧約聖書の創世記二章7節で主なる神が人を土の塵で造られ、命の息を吹き入れられ、人が生きた者となったことを、こう記しています。「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。人の死は創造主なる神が御手によって土の塵で形づくられ、命の息を入れられた人を、再び塵に帰されることです。その時にコヘレトは「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」と言っているのです。コヘレトには復活という信仰はありません。しかし、コヘレトには人は死に、その霊が創造主のところに帰るという希望を持っていたのではないでしょうか。コヘレトは四章6節で「ひとりよりもふたりがよい」と言っていますね。コヘレトはわたしたちに老い死ぬとき。わたしたちは一人ではないと言うのです。わたしたちが若き日に心に刻んだ創造主が共にいてくださると。わたしたちの霊が創造主のところに帰るのだと。それは、闇に世界に一人で行くのではなく、光の世界に行くということではないでしょうか。
コヘレトの結論を先に言ってしまいましたが、コヘレトは2節から7節で老いと死の苦しみの日々をいろんな比喩を使って詩的に表現しています。コヘレトは、わたしたちの老いを2節で冬にたとえてこう言っています。「太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻らないうちに。」これはコヘレトが冬の情景を老いに喩えているのです。冬は光が薄れ、空は曇り、雨が止んでも青空にはならず、灰色の雲が厚く垂れこめる陰鬱さが増し加わる季節です。そして草木は枯れ、一見死の世界になります。コヘレトは、それを老いと死に喩えています。
さらにコヘレトは3節でこう言います。「その日には 家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ 窓から眺める女の目はかすむ。」「その日には」老いを迎えた時です。「家を守る男も震え」とは老いによる男の膝の震えです。体力が衰えて行くのです。「力ある男も身を屈める」とは、老いによって男の腰が曲がり、力仕事ができなくなるのです。「粉ひく女の数は減って行き、失われ」とは、老いにより女の歯が抜け落ちて、容貌が衰えることです。「窓から眺める女の目はかすむ」とは、老いによって白内障による視力の低下が起こることです。女はその力と美しさを失うのです。
コヘレトは4節で「通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上っても、歌の節は低くなる」と言います。「通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。」とは、老いのゆえに耳が遠くなり、聴力が低下するという意味です。「鳥の声に起き上っても、歌の節は低くなる」とは、老いになると朝の目覚めが早くなり、高音で歌えなくなるという意味です。このようにコヘレトは老いて体力が衰えることを詩的に表現しています。
コヘレトは5節でこう言います。「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。」コヘレトは老いが体力の衰えだけでなく、その結末が死へとつながると述べています。「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。」とは、老いると歩くにも息切れがして、坂道を登るのが大変になり、足の自由が利かなくて、立ち往生してしまうという意味です。「アーモンドの花は咲き」とは、老いると頭の髪の毛が真っ白になることです。「いなごは重荷を負い」とは老いると背骨が曲がって姿勢が前かがみになることです。「アビヨナは実をつける」とは老いると性的能力が低下するという意味です。アビヨナは性欲亢進の媚薬として用いられました。だからある人は「アビヨナは萎む」と訳しています。コヘレトはわたしたちに老いるとわたしたちの肉体は衰え、ついには「人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る」と述べています。ユダヤの葬列の行進の描写です。人は老いてその肉体は衰え、死に至るのです。
コヘレトは6節でこう言います。「白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。」「白銀」、「黄金の鉢」、「壺」、「井戸」の四つの名詞は「断たれ」、「砕ける」、「割れ」、「落ちる」の四つの動詞を伴って死を指すための比喩となっています。人は老いて死に、墓に葬られるのです。このようにコヘレトは、人間が老い肉体が衰えて死んでいく姿をリアルに描いています。コヘレトのこの表現の意図は何でしょうか。コヘレトはわたしたちに人間の死をリアルに表現することで、「死を忘れるな」と警告しているのではないでしょうか。
今日本は超高齢化社会です。100年時代と言われています。しかし、人は皆、個人差はありましても、老いて死に行く者です。コヘレトはわたしたちに「死を忘れるな」と勧告し、常に死を念頭にして生きることを勧めています。いつ死んでもよい準備をしなさいということです。コヘレトは三章10節で創造主なる神は人に永遠を思う心を与えられたと言っています。この世の生のただ中でわたしたちは永遠からほんの一歩のところで死にさらされているのです。老いて死に至るわたしたちの人生は束の間です。しかし、コヘレトは「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」と言っています。コヘレトはわたしたちが死の時、肉体は墓に葬られるのですが、わたしたちの霊は創造主なる神に帰ると考えているのです。コヘレトには、肉体の復活という思いはありません。しかし、彼の霊は創造主と共に永遠にあると考えていたのではないでしょうか。彼にとって死は一人、死の世界に、闇の世界に行くことではなく、創造主なる神と共に生きることだったのではないでしょうか。
わたしたちも死を準備し生きるべきです。明日わたしは死のうと、今日自分の与えられた仕事をするという風に毎日を生きることが大切だと思います。そしてこの世でわたしたちがどれだけ生きられるかは自分で決められません。コヘレトに従えば、わたしたちのこの世におけるすべての生は創造主なる神がわたしたちに与えてくださった賜物です。わたしたちは今日一日与えられた命を感謝して生きるだけです。創造主なる神は、わたしたちに命と召しをお与えくださいました。だから、わたしたちは明日自分の死が訪れても、今日神に与えられた仕事をし、今日一日を楽しみ飲み食いするのです。だから、わたしは自分が神の召しを果たせる限り、説教を通して教会に仕えたいです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『コヘレトの言葉』を学ぶ機会が与えられ感謝します。
今日はコヘレトの言葉から「死を忘れるな」ということを学びました。コヘレトは、わたしたちに老いて死ぬ時が来ることを前もって準備しなさいと教えてくれています。その準備は、わたしたちが今のうちに創造主なる神を自分の心に刻むことです。
死は、わたしたちに命をお与えくださった創造主なる神に立ち帰ることだと学びました。どうか、わたしたちが自分たちの死を覚え、準備し、日々を生きることができるようにしてください。
アドベントの第二週を迎えました。再臨のキリストを待ち望ませてください。永遠の神の御国を待ち望ませてください。
今から共にあずかる聖餐を祝してください。パンとぶどう酒をいただき、キリストの命にあずかる恵みに心から感謝させてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コヘレトの言葉説教18 主の2024年12月29日
聖書テキスト:コヘレトの言葉第12章9-14節
説教題:「最後の言葉」
本日は、今年最後の主日礼拝です。最後の主日礼拝でコヘレトの言葉第12章9-14節の御言葉を学びましょう。本日をもって『コヘレトの言葉』の講解説教は終わります。
コヘレトの言葉第12章9-14節の御言葉は本書の結びであります。本文は12章8節で終わり、9-14節は本書を最終的に編集した者が書き加えた文章と考えられています。
この文章はコヘレトの研究と本書の出版への労苦を称え、本書の教えの要約を述べています。その内容は三つに分けられます。第一は9-10節です。『コヘレトの言葉』を最終的に編集した者が著者であるコヘレトの知恵と彼の研究の熱心と本書の出版の労苦に対して称賛しています。第二は11-12節です。賢者の教えの尊さを説いています。彼の知恵はひとりの牧者、主なる神に由来し、彼がいかに研究熱心な者であったかを称えています。第三は13-14節です。これは本書の教えの要約であり、人の本分です。最後に最終的編集者が神の裁きを告げています。
「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。」(9-10節)。
コヘレトは主なる神から知恵の賜物を与えられた者です。2章26節でコヘレトは「神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる」と述べています。コヘレトは「知恵を深めるにつれて」と言われていますね。1章16-18節でコヘレトがこの世界や自然や人を探求し、観察することで知恵を深めたことを記しています。そしてコヘレトは2章26節で知恵と知識を楽しみ、すなわち、幸福と密接に結びつけています。だから、彼は知恵でもって民を教え、民に知識を与え、彼らを幸福に導こうとしました。そのために彼はソロモン王のように神に賜った知恵と洞察力を用いて「望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした」のです。それが本書です。「望ましい語句」とは神の民が関心を持って聞くことができる言葉です。コヘレトはそれを見いだそうと苦心しました。「真理の言葉を忠実に記録しようとした」とは、コヘレトが彼の体験と思索によって得た真理を神の民たちに伝えようと記録に残したということです。このように最終的編集者はコヘレトをほめたたえているのです。
「賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。」
「賢者の言葉はすべて、突き棒や釘」とは、コヘレトの言葉が神の民の現実に支えとなり守りとなっているという意味です。「突き棒」は羊飼いが羊の群れを行く先に導く棒のことです。その棒のようにコヘレトの言葉は、神の民がこの世を生き抜くときに、彼らを正しい道に導いてくれるのです。「釘」は神の民がコヘレトの言葉を釘のように彼らの人生に突き立てて、彼らが人生を安易に流されることを防ぐのです。彼の知恵は「ただひとりの牧者に由来し」とありますように、神の民の牧者である主なる神の賜物です。「収集家が編集した」とは、この最後の文章を付け加えた者がコヘレトの言葉を集めて、本書を最終的に編纂したということでしょう。このようにこの文章を付け加えた編集者は『コヘレトの言葉』が主なる神にその源があることを証言しているのです。
「それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。」とは、どういう意味でしょうか。ある註解書には、最終的編集者がわたしたち読者に知恵者の賢明さと慎み深さを勧告していると記していました。確かに多くの書物を書いても切りがないでしょう。勉強しすぎると体が疲れるでしょう。ほどほどがよいと、わたしも思います。しかしコヘレトは命ある限り、本書を書き続け、神の知恵を探求し続け、この世界を、自然を、人を観察し続けたのではないでしょうか。
わたしはコヘレトならこの文章をどう思うだろうと考えました。そして一つの結論に達しました。この文章を、コヘレトなら反語とすると思います。どんなに書物を書き続けることに限りなく、どんなに神の知恵を探求し、観察することに体が疲れようと、コヘレトはそれが知恵者としての本分であるから、わたしは神の知恵を探求し、観察し続けるだろうと。
わたしは牧師を引退し、この5か月間、毎日旧約聖書の創世記から読み始めて、今日イザヤ書を読み終えました。またギデオン協会の新約聖書を1章ずつ毎日読み続けて今ローマ書を明日読み終えます。そして毎日リジョイスを読み、祈っています。それから今フォンラートの旧約聖書神学を毎日読んでいます。パッカーの『ピューリタン神学総説』という本も並行して読んでいます。このようにして引退後も説教を作り、教会に奉仕しています。現役の時も今も説教のために、本を読み、勉強を続けることは、切りがないし体が疲れますが、それでも神の御言葉を探求し、この世を観察し続けることを止めれば、わたしはもう説教を作れなくなると思うのです。それが牧師の本分だと、わたしは思うのです。それが何の役に立つのか、それはわたしには分からないのです。それでもコヘレトが自分の限界を知りつつも、空と唱えつつも、神を求めたように、わたしも自分の終わりまで神の御言葉を追い求めて行きたいと思うのです。
13節に本書の要約が記されています。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」本書に耳を傾けて得た結論が次の二つであると、本書の最終的編集者は述べています。それは、「神を畏れ」と「戒めを守れ」です。
これはすべての人間の本分でないでしょうか。コヘレトは創造主、主なる神の存在を信じています。創造主、主なる神が世界を造られ、人間を造られました。だから、コヘレトはすべての人間が創造主、主なる神を敬い、崇める義務があり、戒めである主なる神の御意志に服従する義務があると信じているのです。そして本書の最終的編集者は、これが本書の要約であると言うのです。
最後に最終的編集者は14節で「神は、善をも悪をも 一切の業を、隠れたこともすべて 裁きの座に引き出されるであろう」と述べています。神の裁きについて語っています。コヘレトは11章9節で「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい 神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれると」と述べています。コヘレトが若者に創造主を心に留めさせるために警告をしていました。コヘレトは神の存在を信じていますし、神が人の善悪を裁かれることも信じています。
この最後の言葉は、最終的編集者の老婆心の忠告であると思います。『コヘレトの言葉』を読み、コヘレトがすべては空と結論づけていると理解する者があるかもしれません。神はこの世界で何もされず、人は善人であれ、悪人であれ、皆死ぬのであれば、人は勝手気ままに好きに生きればよいと考える者が出るかもしれません。そこで最後に神がおられ、人の隠れた行為を見ておられ、善悪によって裁かれると警告し、本書によって神の道から逸れる者がないようにしているのでしょう。
これで『コヘレトの言葉』の講解説教は終わりです。コヘレトは歴史における神の救済については何も語りません。ある意味でキリストの救いをこの書物で見いだすのは難しいでしょう。しかし、コヘレトは神の創造されたこの世界と自然と人間を、知恵によって探求し観察することで神に創造された世界と自然の人の悲惨さを、何よりも人間の罪深さを伝えていると思うのです。コヘレトが見る世界と人間は、今のわたしたちが見る世界と人間であります。コヘレトにはキリストという救い主は見えませんでしたが、私たちには見えているのです。そしてコヘレトには見えなかったし、理解できなかった神の知恵であるキリストによって、わたしたちは神の救いを見せていただいています。神の裁きだけではなく、その後に永遠の御国があることを見させていただいているのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、本日で『コヘレトの言葉』の講解説教を終えることができて感謝します。キリストの救いも神がわたしたちの歴史の中で救ってくださる話も出てきませんでした。ただ空であること、一切が空であることを、コヘレトはわたしたちに伝えてくれました。
それゆえにキリストにある命の尊さを教えていただきました。人は皆死ぬ。これがこの世の現実です。その現実の中で父なる神は御子をこの世に遣わされ、御子の十字架の死と復活によってわたしたちの罪と死が贖われ、永遠の命の喜びにあずかれたことを知らせてくださいました。
次週の礼拝から新しい年の礼拝が始まります。心から神に感謝し、キリストの命にあずかる恵みに喜びをもって生かしてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。