ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。
息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。
ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「おまえはどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。
「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終わらないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終わらないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終わらないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」
サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。
彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。
ヨブ記第一章1節-第二章13節
説教題:「事の起こり(1)」
本日から旧約聖書の『ヨブ記』を学びましょう。本日はヨブ記の第一章から第二章の御言葉をお読みしました。本日の説教題「事の起こり(1)」とありますように、第一章だけを説教しようと思います。
昨年『コヘレトの言葉』を学びました。この『ヨブ記』も『コヘレトの言葉』と同じ知恵文学に属しています。知恵文学はそれ以外に『箴言』があります。聖書続編付きの聖書をお持ちの方は『知恵の書』と『シラ書(集会の書)』が知恵文学に属しています。知恵文学は形式と内容に共通性があり、オリエントの知恵文学とつながりがあります。国際的な性格を有するものです。
知恵文学が前提にする知識は、人生や宇宙の理論的知識を習得することではありません。わたしたちがこの世で出会う問題の具体的な解決にかかわる慎重、適切な行為のことです。それによってわたしたちは神の創造の秩序に自らを適用させて、わたしたちの人生の経験を習得するのです。それは実際的目的のための賢さであり、経験であります。創世記のヨセフは忍耐強い、自制力ある、慎重な人物として知恵者の理想でありました。これから学びます『ヨブ記』の主人公ヨブもヨセフと似た人物だと、わたしは思うのです。
さて、『ヨブ記』は主人公のヨブの紹介から物語ります。一章1節から3節です。「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。」
『ヨブ記』の一章と二章がこの物語の序曲です。「ウツの地にヨブという人がいた」と、『ヨブ記』の作者は主人公ヨブを紹介します。しかし、作者は「ウツの地」がどこであるか、詳しくは語りません。3節で「彼は東の国一番の富豪であった」と語るのみです。『ヨブ記』の作者はヨブがどこの人かよりどんな人物かに関心があります。ヨブは創世記の族長アブラハムのように義人で富裕者、豊かなものを所有しています。
『ヨブ記』の作者は読者であるわたしたちにヨブを「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と紹介します。これはヨブと神さまとの関係を語っています。ヨブは神さまとの関係において完全で、まっすぐな人でした。だから彼は神を畏れ、「悪を避けて生きていた」のです。彼は道徳的な悪を避けるだけではなく、主なる神のみを礼拝し、それ以外のこの世のものに依り頼まない人であったということです。
ヨブは七人の息子と三人の娘が与えられ、とても多くの家畜と使用人を所有していました。彼は東の国、恐らくはアラビア半島のどこかでしょう。そこで一番の富豪でありました。
続いて4‐5節で『ヨブ記』の作者はわたしたち読者にヨブの幸いな日々を次のように紹介しています。「息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。」
『ヨブ記』の作者はわたしたち読者にヨブが知恵者として慎重な人であることを紹介しています。彼の七人の息子たちはそれぞれ自分の家を持っています。彼らは順番に他の兄弟たちや姉妹たちを招待して宴会を開き、食事を共にし、人生を楽しんでいます。ヨブは息子たちの宴会が一巡りするごとに息子たちの罪のために神さまに償いの燔祭をささげました。
ヨブは「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからです。ヨブは息子たちのために予防線を張っているのです。彼は息子たちの心の罪を心配しています。それはわたしが推測しますのに、彼の息子たちが贅沢三昧に暮らし、多くの貧しい人がいることを忘れているとヨブが心配したからです。息子たちは宴会するごとに「神さま、これはありがたいことです」と神さまをほめたたえたかもしれないと、ヨブは思ったのです。これはヨブにとって神さまを呪うに等しいことです。だからヨブは息子たちのために先回りして神さまに罪を償う犠牲をささげたのです。
しかし、『ヨブ記』の作者はわたしたち読者にヨブの予防線は何の役にも立ちませんでしたと暗に伝えているのです。
『ヨブ記』は6-12節で舞台をこの地上から天上に移しています。ヨブはこの天上における主なる神さまとサタンの会話を知りません。主なる神さまのところに神のみ使いたちが集まり、サタンもやって来ます。『ヨブ記』の作者は主なる神さまとサタンの会話を次のように記しています。「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「おまえはどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。」
『ヨブ記』においてサタンは神のみ使いたちと同列です。サタンは神さまの目として地上を巡回していました。主なる神さまはほうぼうを巡回して地上の人々を視察したサタンにヨブを誇られました。「あなたは気づいたか。ヨブほどの敬虔で義人な者はいない」と。
サタンは主なる神の御言葉に疑問を投げかけました。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」。このサタンの言葉は「ヨブは理由なしに神を畏れるでしょうか」と反論しているのです。これが『ヨブ記』を理解する重要なカギの言葉です。『ヨブ記』の作者はわたしたち読者にこのサタンの言葉によって人は誰でも理由があるから神さまを信じているのではないかと問いかけているのです。
サタンはそれを証明するために主なる神さまに10-11節で次のように提案しています。サタンは主なる神さまに言います。「あなたがヨブの財産を、子供たちを守られ、祝福されています。だからヨブは地において満たされています。どうかあなたがヨブから彼の財産と子供たちを失わせてください。ヨブはきっとあなたに面と向かって呪いの言葉を口にするでしょう」。
主なる神さまはサタンの提案を許可されます。ただし主なる神さまはサタンにヨブには手を出すなと命じられました。
『ヨブ記』の作者は13-19節でヨブに四つの災いが下ったことを記しています。第一の災いはシェバ人がヨブの牛とろばをすべて奪い、多くの牧童を殺しました。一人生き残った者がヨブに報告しました。第二の災いは羊の群れと羊飼いたちが雷に打たれて焼け死にました。生き残った一人がヨブに報告しました。第三の災いはカルデア人がらくだの群れを襲い、すべてのらくだを奪い、多くの牧童たちを殺しました。生き残った一人がヨブに報告しました。第四の災いは長男の家で宴会していた息子たちと娘たちが大風で長男の家が倒され、皆死にました。生き残った一人がヨブに報告しました。
不幸の知らせを聞いたヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏しました。ヨブの行為は悲しみの表現です。地にひれ伏すことはヨブの沈黙と神への服従の現れです。
ヨブはサタンが期待しなかったことを口にしました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」ヨブは死が人生のすべてのものを無にすることを認めています。しかしヨブは主なる神への信頼を告白するのです。ヨブは彼の悲劇が偶然に起こったのではなく、主の御旨に従ってなされたと理解しました。ヨブは子供たちと彼の所有財産を失いましたが、サタンが願ったように主なる神を非難することはありませんでした。非難するとは、ヨブが「これは不条理である」と神に訴えかけることです。
ヨブは罪を犯すことなく、理由なしに神を畏れ敬いました。サタンの目論見は失敗しました。
今日は「事の起こり」の一です。次回はその続きを学びたいと思います。この説教を終えるにあたり、今わたしが日々読んでいますカルヴァンの『キリスト教綱要』の第三編、8章から一節を紹介します。
「自らの弱さを感じ取るのは、自己に信を置かぬことを学ぶためである。己れ自身に信を置かぬのは、信を神に移すためである。心から信頼をもって神に依り頼むのは、神の助けに縋って終わりまで挫けずに耐え忍ぶためである。神の恵みに固く立ち抜くのは、その約束が真実であることを理解するためである。神の約束の確かさを確認するのは、希望が強められるためである。」(綱要ⅢP188)。
カルヴァンの言葉は、『ヨブ記』や他の聖書の御言葉から得られるわたしたちキリスト者の知恵であると、わたしは思うのです。ヨブの無垢さとまっすぐには、カルヴァンの言う「心から信頼をもって神に依り頼むのは、神の助けに縋って終わりまで挫けずに耐え忍ぶためである」という思いが、わたしはあると思うのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日より『ヨブ記』を学べる機会を得ましたことを感謝します。
どうか『ヨブ記』を学ぶことを通して、カルヴァンが言う「心から信頼をもって神に依り頼むのは、神の助けに縋って終わりまで挫けずに耐え忍ぶためである」という知恵を学ばせてください。
どんなときにも理由なく主を畏れ、敬い、賛美させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨブ記説教01 主の2025年8月3日
またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」
サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。
彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。
ヨブ記第二章1-13節
説教題:「事の起こり(2)」
本日はヨブ記の第二章1-13節の御言葉を学びましょう。本日の説教題は「事の起こり(2)」です。第一章の御言葉の続きを学びましょう。
『ヨブ記』の一章と二章がこの物語の序曲です。物語の最初に『ヨブ記』の作者は、わたしたち読者に主人公ヨブを紹介します。ヨブは「ウツの地」に住み、「東の国一番の富豪で」ありました 。またヨブ記の作者はわたしたち読者にヨブを「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と紹介します。ヨブは神さまとの関係において完全で、まっすぐな人でした。だから彼は神を畏れ、「悪を避けて生きていた」と、ヨブ記の作者は紹介しています。ヨブは義人であり、知恵ある者でした。彼は道徳的な悪を避けるだけではなく、主なる神のみを礼拝し、それ以外のこの世のものに依り頼まない人でありました。
幸福に生きていた義人ヨブに突然理由のない苦難が襲い掛かりました。その原因を、ヨブは知りません。それは天上における主なる神さまとサタンとの会話にあるからです。
ある日主なる神さまのところに神さまのみ使いたちが集まり、サタンも来たのです。主なる神は世界の至るところを巡りましたサタンにヨブを自慢されました。主なる神さまはサタンにヨブほどの義人はいないと。サタンは主なる神さまに答えました。「ヨブは理由なしに神さまに服従しているのではありません。あなたはヨブを祝福で囲われています。ヨブの持ち物を奪ってごらんなさい。彼はあなたを呪うに違いありません。」主なる神さまはサタンにヨブの持ち物をすべて奪うことを許されました。しかし、主なる神さまはサタンにヨブの身に危害を加えることを許されませんでした。
そこでサタンは主なる神さまのもとを離れ、この地でヨブが持っているものをすべて奪いました。ヨブには七人の息子と三人の娘がおり、とても多くの家畜と使用人たちを所有していました。
『ヨブ記』の作者はわたしたち読者にヨブに四つの災いが下ったことを記しています。第一の災いはシェバ人がヨブの牛とろばをすべて奪い、多くの牧童を殺しました。第二の災いは羊の群れと羊飼いたちが雷に打たれて焼け死にました。第三の災いはカルデア人がらくだの群れを襲い、すべてのらくだを奪い、多くの牧童たちを殺しました。第四の災いは長男の家で宴会をしていた息子たちと娘たちが大風で長男の家が倒され、皆死にました。
突然の不幸の知らせを聞いて、ヨブは深く悲しみました。しかし彼は沈黙し、神に服従しました。そしてヨブはサタンが期待しなかったことを口にしました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
ヨブは本来何も持たないでこの世に生まれたし、裸でこの世を去ると告白しました。だからヨブに物を与えるのも奪うのも主なる神さまの主権であると、彼は信仰告白しました。ヨブは子供たちと彼の所有財産を失いましたが、サタンが願ったように主なる神さまを呪うことはありませんでした。むしろヨブは主なる神さまを賛美しました。こうしてサタンの目論見は失敗しました。
本日の第二章は「事の起こり」の続きです。ヨブ記の作者はわたしたち読者に2章1節から6節で再び天上の出来事を紹介しています。「またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」」
また別の日に天上において主なる神さまのところにみ使いたちが集まり、サタンもやって来ました。主なる神さまはサタンに「お前はどこから来た」と言われ、サタンは主なる神さまに「地上を巡回しておりました。ほうぼうを巡っていました」と答えました。主なる神さまは地上を巡り歩きいろいろな人々を見て来たサタンにヨブのことを誇られました。これほどの人物はいないと自慢されたのです。主なる神さまはサタンにヨブほど正しく生きている者はないと自慢されました。
そして主なる神さまはサタンに「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」と言われました。これは主なる神さまが次のことを認めておられるのです。ヨブにとっては理由もない苦難であり、ヨブは神さまが自分を呑み込む敵対者であると。それだのにヨブは主なる神さまに背を向けないでまっすぐに神さまに服従したと、誇られたのです。
ところがサタンは主なる神さまに彼の持ち物を奪うだけでは、彼の本心を導き出せないと答えました。「「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」」
「皮には皮を」とは諺のようです。本来の意味は不明です。ある人が次のように考えています。わたしも同意します。主なる神はエデンを追われたアダムとエバが裸であるので、それを保護するために毛皮を与えられたことです。それによって人は命を守られました。人にとって命ほど大切なものはありません。それゆえサタンは思ったのです。人は自分の命のためには財産を差し出す者であると。だから、ヨブの骨と肉を打撃するなら、彼に命の危険を知らしめるならば、彼は本心を表して神を呪うに違いないと。
主なる神さまはサタンにヨブの骨と肉に打撃を与えることを許されました。ただし主なる神さまはサタンにヨブの命を奪うことを禁じられました。ヨブ記の記者は次のように記しています。「サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」
サタンは主なる神さまのもとを離れ、地上のヨブに打撃を与えました。ヨブは足の裏から頭の天辺まで重い皮膚病で苦しめられました。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしりました。ヨブは重い皮膚病で苦しめられただけではありません。ヨブ記の読者であるユダヤ人たちは、重い皮膚病でヨブが肉体の苦しみだけではなく、宗教的な汚れによって社会から疎外されたことを知ったでしょう。ヨブが灰の中に座ったのは、町の外に追い出されたのです。彼は汚れた者として町の外にあるごみ捨て場の灰の上に座ったのでしょう。ヨブは健康を失っただけではありません。人間としての尊厳も奪われ、まるでごみのような存在となりました。人々に嘲られ、蔑まれる者となりました。
ヨブの妻は、ヨブに「「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」」と言いました。彼の妻は夫の悲惨な姿を見るに忍びませんでした。妻の目にも夫は義人でした。まっすぐに神さまを礼拝し、神さまの御前に彼と子供たちの罪を思い、神さまに犠牲を欠かさなかった夫、その夫の悲惨な姿を彼女は直視できませんでした。だから彼女は、夫に「あなたは高潔さを貫いておられる。そうであれば、神さまを称えて死んだらどうですか」と言いました。妻は夫の悲惨な姿に死を願ったのです。
妻の言葉に対してヨブは、次のように言いました。「「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」」ヨブにとって妻の言葉は愚かでありました。愚かとは知性がなく、倫理感も欠如しているということです。妻はヨブを理解できませんでした。ヨブは神さまから与えられた命を絶つことは、神さまへの反逆と思ったでしょう。
だからヨブは妻に言いました。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」ヨブは妻に「わたしたちは神さまに幸福をいただいたのだから、今不幸もいただき、神さまに服従しよう」と言いました。「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。」と、ヨブ記の記者は記しています。
ヨブ記の作者は第一回目には「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」と記し、第二回目には「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。」と記しています。ヨブ記の作者がわたしたち読者に訴えていることは、ヨブが終始神さまに服従したことです。ヨブは理由のない突然の不幸に対して神さまを非難することも、口で罪を犯すこともありませんでした。ヨブは理由がない不幸であっても、それを甘んじて受け、神さまに罪を犯さず服従する模範的信仰者として、ヨブ記の記者はわたしたちに紹介しています。
それからヨブの苦難は天上における主なる神さまとサタンとの会話に由来します。その会話で主なる神さまはサタンに唆されて、ヨブに苦難を与えられます。しかし最初から神さまはサタンにヨブを誇られています。そして主なる神さまはサタンからヨブの命を守られています。地上におけるヨブの苦難は神さまの御守りの中にあり、神さまの許された中での出来事です。
ここにわたしたち信仰者の苦難を考えることができると思うのです。その時わたしたちはヨブが理由なしに苦難を受け入れたことに心留めるべきです。この世における苦難に理由はありません。あるとしてもヨブ記のように天上における主なる神さまとサタンの会話です。それはわたしたちに分からないことです。ヨブは理由のない苦難を、神さまの摂理に委ねたのです。神さまの摂理によって人は母の胎から何も持たずに生まれ、最後は裸でこの世を去ります。神さまが摂理によってわたしたちに与え、奪われるのです。だからわたしたちもヨブのように神さまの摂理を通して幸福も不幸も受けようではないかと。ヨブが理由なく神さまに服従しました時、サタンの目論見は失敗に帰しました。
最後にヨブ記の作者は2章11-13節で次のように記しています。「さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。」
これはヨブ記の三章から始まりますヨブとヨブの三人の友だちとの論争へと導く御言葉です。ヨブの不幸を知り、三人の友だちが互いに誘い合わせて慰めに来ました。しかし、あまりにもヨブの悲惨な姿に友だちたちは一週間沈黙しました。
次回から第三章のヨブの独白を学びましょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、『ヨブ記』の第二章を学べる機会を得ましたことを感謝します。
どうか『ヨブ記』を学ぶことを通して、カルヴァンが言う「心から信頼をもって神に依り頼むのは、神の助けに縋って終わりまで挫けずに耐え忍ぶためである」という知恵を学ばせてください。
どんな苦難のときにもヨブのように理由なく主を畏れ、敬い、賛美させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨブ記説教02 主の2025年8月10日
やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。
わたしの生まれた日は消えうせよ。
男の子をみごもったことを告げた夜も。
その日は闇となれ。
神が上から顧みることなく
光もこれを輝かすな。
暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。
密雲がその上に立ちこめ
昼の暗い影に脅かされよ。
闇がその夜をとらえ
その夜は年の日々に加えられず
月の一日に数えられることのないように。
その夜は、はらむことなく
喜びの声もあがるな。
日に呪いをかける者
レビヤタンを呼び起こす力ある者が
その日を呪うがよい。
その日には、夕べの星も光を失い
待ち望んでも光は射さず
曙のまばたきを見ることもないように。
その日が、わたしをみごもるべき腹の戸を閉ざさず
この目から労苦を隠してくれなかったから。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
なぜ、膝があってわたしを抱き
乳房があって乳を飲ませたのか。
それさえなければ、今は黙して伏し
憩いを得て眠りについていたであろうに。
今は廃墟となった町々を築いた
地の王や参議ら共に
金を蓄え、館を銀で満たした諸侯と共に。
なぜわたしは、葬り去られた流産の子
光を見ない子とならなかったのか。
そこでは神に逆らう者も暴れ回ることをやめ
疲れた者も憩いを得
捕らわれ人も、共にやすらぎ
追い使う者の声はもう聞こえない。
そこには小さい人も大きい人も共にいて
奴隷も主人から自由になる。
なぜ、労苦する者に光を賜り
悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
彼らは死を待っているが、死は来ない。
地に埋もれた宝にもまさって
死を探し求めているのに。
墓を見いだすことさえできれば
喜び踊り、歓喜するだろうに。
行くべき道が隠されている者の前を
神はなお柵でふさがれる。
日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。
湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。
恐れていたことが起こった
危惧していたことが襲いかかった。
静けさも、やすらぎも失い
憩うこともできず、わたしはわななく。
ヨブ記第三章1-26節
説教題:「ヨブの独白」
本日はヨブ記の第三章1-26節の御言葉を学びましょう。ヨブ記の第三章はヨブの独白を記しています。
ヨブ記三章から文体が詩文になっています。ただし、三章1節と2節は散文です。ヨブの独白の導入の御言葉となっています。「やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った」。新改訳聖書2017は「そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。ヨブは言った。」と訳しています。七日間の沈黙を破り、ヨブは自分の生まれた日を呪いました。
「呪った」とは彼が誕生した日を拒否したということです。普通であれば、誕生日は祝いの日です。ところが理由なき苦難を苦しむヨブにとって、自分の誕生日を祝うことは受け入れられませんでした。ヨブは自分の生まれた日を否定するだけでなく、自分の存在そのものを根源から否定したのです。それがヨブの三章3節から10節の御言葉です。
「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく 光もこれを輝かすな。暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。密雲がその上に立ちこめ 昼の暗い影に脅かされよ。闇がその夜をとらえ その夜は年の日々に加えられず 月の一日に数えられることのないように。その夜は、はらむことなく 喜びの声もあがるな。日に呪いをかける者 レビヤタンを呼び起こす力ある者が その日を呪うがよい。その日には、夕べの星も光を失い 待ち望んでも光は射さず 曙のまばたきを見ることもないように。その日が、わたしをみごもるべき腹の戸を閉ざさず この目から労苦を隠してくれなかったから。」
ヨブの最初の独白の言葉は、「わたしの生まれた日は消えうせよ」です。聖書協会共同訳聖書もほぼ同じです。新改訳聖書2017は「私が生まれた日は滅び失せよ」と訳しています。ヨブは七日間の沈黙を破り、突然「滅びよ、わたしの生まれた日は」と言いました。この「滅びよ」は彼の誕生日だけではありません。「男の子をみごもったことを告げた夜も」です。ヨブの誕生の日だけでなく、ヨブの懐妊を告げた夜も、ヨブは滅び去れと言いました。ヨブは日も夜も消え去ることを願ったのです。
ヨブは自分の生まれた日と自分の懐妊を告げられた夜を消し去るために、4節以下で神の創造そのものを撤回してほしいと願うのです。4節の「その日は闇となれ」とは神の創造の否定です。創造主なる神は『創世記』第一章で「光あれ」と言われました。それによってこの世界に光が存在しました。ヨブはその神の創造をなかったことにしてほしいと願うのです。それはヨブが自分の誕生日を構成する暦を抹消するためです。この世の暦からヨブの誕生の日と懐妊を告げた夜を抹消するためには、その根源である神がこの世界を創造されたことをなかったことにと願うのです。
ヨブは神の創造以前の混沌に戻すように願っているのです。どうしてか。神の創造によって人間が造られ、ヨブがこの世に生まれ、今理由のない苦難を受けているからです。ヨブはこの日と夜を消し去るために、ヨブのこの世におけるカレンダーを消し去るために、もう一度この世界が混沌となるように、レビヤタンを呼び起こす力ある者を願っています。レビヤタンは神の創造伝説に由来します。神がレビヤタンという怪獣を滅ぼし、この世界に創造の秩序を与えられたのです。
このようにヨブは、3-10節で自分の誕生に関わった特別の日と夜を打ち消すために、神の創造そのものの撤回を願うのです。これはとても極端なヨブの願いだと、わたしは思うのです。
さらにヨブは自分の死を願い、陰府に降ることを願っています。11節から19節です。「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに 死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、膝があってわたしを抱き 乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し 憩いを得て眠りについていたであろうに。今は廃墟となった町々を築いた地の王や参議ら共に 金を蓄え、館を銀で満たした諸侯と共に。なぜわたしは、葬り去られた流産の子 光を見ない子とならなかったのか。そこでは神に逆らう者も暴れ回ることをやめ 疲れた者も憩いを得 捕らわれ人も、共にやすらぎ 追い使う者の声はもう聞こえない。そこには小さい人も大きい人も共にいて 奴隷も主人から自由になる。」
ヨブはこの世に生まれず死産を願います。どうして母の胎の中で死ななかったのかと嘆くのです。あるいは生まれてすぐに死ななかったのかと嘆きのです。ヨブは今自分が生きている現実とは反対のことを仮定して、彼の人生を否定するのです。
ヨブは陰府という言葉を使っていませんが、この世の生者の国より陰府の死者の国に行くことを願っています。ヨブは生まれて来た自分を膝に抱く者がなく、乳を授ける者がなければ、自分はすでに陰府で安らかに眠りについていたのにと嘆くのです。
ヨブは陰府が死者の行く国であると思っています。そこには神の裁きがありません。理由なき苦難はありません。富める者も貧しい奴隷も共に憩いを得て安らぐところです。この世で悪人が騒ぎ立てることは陰府ではありません。だからヨブは葬られた流産の子のように光のない陰府に降り、既に死者となったこの世の支配者や富める者たちと共に安らかに居ることを願うのです。
ヨブの陰府の理解は、そこは誰もが平等です。この世で疲れた者は陰府では憩いを得られます。牢に捕らわれた人も平安を得、借金に追い立てられる者もいません。身分の高い者も低い者も平等です。奴隷は主人の強制労働から自由にされています。
ヨブにとって死と陰府に降ることは理由なき苦難から解放され、安らぎを得る唯一の避難場所でした。ところがヨブは主なる神が彼を生に閉じ込められていると嘆いています。20-23節です。「なぜ、労苦する者に光を賜り 悩み嘆く者を生かしておかれるのか。彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にもまさって 死を探し求めているのに。墓を見いだすことさえできれば 喜び踊り、歓喜するだろうに。行くべき道が隠されている者の前を 神はなお柵でふさがれる。」
ヨブは苦しみから解放されたいと願っています。それが死と陰府に降ることです。しかし神はヨブを生に閉じ込められているのです。ヨブは死を待つのに、死はヨブのところに来ないのです。神がこの世の生にヨブを閉じ込められているからです。
ヨブやこの世で苦難ある人々には、ヨブは死が最高の喜びであると言っています。だからヨブは「地に埋もれた宝にもまさって 死を探し求めているのに」と言うのです。また、「墓を見いだすことさえできれば 喜び踊り、歓喜するだろうに」と言っています。ヨブは墓泥棒が墓に埋められた宝を掘り起こすように、死を探すのですが、神はヨブが死に、陰府に降ることを許されないのです。ヨブは主なる神がサタンにヨブの体に打撃を与えることを許されたが、ヨブの命をサタンが奪うことは許されなかったことを知りません。だからヨブには自分に死が訪れないことが神の恵みではなく、呪いと思われたことでしょう。
そしてヨブの独白は彼の恐れで終わるのです。彼は私の恐れていた恐れが来たと言っています。24-26節です。「日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。恐れていたことが起こった 危惧していたことが襲いかかった。静けさも、やすらぎも失い 憩うこともできず、わたしはわななく。」
ヨブは自分に襲いかかる苦しみを訴えて、彼の独白を終えています。人にとって「日ごとのパン」は生きる上で欠かせません。ところが今のヨブにとって日ごとのパンに代わって嘆きが日々欠かせないものとなりました。またヨブにとって呻きが毎日涙となりました。ヨブは神に命を守られていましたが、理由なき苦難のゆえに彼の日々は嘆きであり、呻き涙するものでした。
そこでヨブは「恐れていたことが起こった 危惧していたことが襲いかかった」と言っています。ヨブは彼が何を恐れ、何を危惧していたのか、明らかに言っていません。これはヨブに下った四つの災いのことではないでしょう。ヨブの存在そのものが脅かされているというヨブの恐れ、危惧ではないでしょうか。ヨブは理由なき苦難に苦しめられ、自分の存在そのものも否定し、神の創造をも否定しようとしました。
アウグスティヌスが『告白』という書物の中で「あなたはわたしをあなたに向けてお造りになりました。だから、わたしはあなたに憩うまで安らぎを得られないのです」と告白しています。わたしは、理由なき苦難の中でヨブが求めていたのは、死ではないと思います。彼は、っ神との関係の回復を願っているのではないでしょうか。それを得ることのできない今の自分の存在の危うさに恐れを抱き、おののいているのだと思うのです。どうすれば、神はもう一度ヨブの神となってくださるのでしょうか。
これからヨブと三人の友人たちとの対話を学びますが、このヨブの独白を常に思い起こしつつ学びたいと思います。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、『ヨブ記』の第三章を学べる機会を得ましたことを感謝します。
どうかヨブの独白を学ぶことを通して、神に向けて造られたわたしたちのこの世における苦難を学ばせてください。
ヨブのようにわたしたちも理由ない苦難に遭うかもしれません。どうかヨブのように苦しみを正直に神に訴え、神にのみ平安と憩いを見いだすことができるようにして下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨブ記説教03 主の2025年8月31日
4
テマン人エリファズは話し始めた。
あえてひとこと言ってみよう。
あなたを疲れさせるだろうが
誰がものを言わずにいられようか。
あなたは多くの人を諭し
力を失った手を強めてきた。
あなたの言葉は倒れる人を起こし
くずおれる膝に力を与えたものだった。
だが、そのあなたの上に何事かふりかかると
あなたは弱ってしまう。
それがあなたの身に及ぶと、おびえる。
神を畏れる生き方が
あなたの頼みではなかったのか。
完全な道を歩むことが
あなたの希望ではなかったのか。
考えてみなさい。
罪のない人が滅ぼされ
正しい人が絶たれたことがあるかどうか。
わたしの見てきたところでは
災いを耕し、労苦を蒔く者が
災いと労苦を収穫することになっている。
彼らは神の息によって滅び
怒りの息吹によって消えうせる。
獅子がほえ、うなっても
その子らの牙は折られてしまう。
雄が獲物がなくて滅びれば
雌の子らはちりぢりにされる。
忍び寄る言葉があり
わたしの耳はそれをかすかに聞いた。
夜の幻が人を惑わし
深い眠りが人を包むころ
恐れとおののきが臨み
わたしの骨はことごとく震えた。
風が顔をかすめてゆき
身の毛がよだった。
何ものか、立ち止まったが
その姿を見分けることはできなかった。
ただ、目の前にひとつの形があり
沈黙があり、声が聞こえた。
「人が神より正しくありえようか。
造り主より清くありえようか。
神はその僕たちをも信頼せず
御使いたちをさえ賞賛されない。
まして人は
塵の中に基を置く土の家に住む者。
しみに食い荒らされるように、崩れ去る。
日の出から日の入りまでに打ち砕かれ
心に留める者もないままに、永久に滅び去る。
天幕の綱は引き抜かれ
施すすべも知らず、死んでゆく。」
5
呼んでみよ
あなたに答える者がいるかどうか。
愚か者は怒って自ら滅び
無知な者はねたんで死に至る。
愚か者が根を張るのを見て
わたしは直ちにその家を呪った。
「その子らは安全な境遇から遠ざけられ
助ける者もなく町の門で打ち砕かれるがよい。
彼らの収穫は、飢えた人が食い尽くし
その富は、渇いた人が飲み尽くし
その財産は、やせ衰えた人が奪うがよい。」
塵からは、災いは出てこない。
土からは、苦しみは生じない。
それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。
火花が必ず上に向かって飛ぶように。
わたしなら、神に訴え
神にわたしの問題を任せるだろう。
計り難く大きな業を
数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。
神は地の面に雨を降らせ
野に水を送ってくださる
卑しめられている者を高く上げ
嘆く者を安全な境遇に引き上げてくださる。
こざかしい者の企てを砕いて
彼らの手の業が成功することを許されない。
知恵ある者はさかしさの罠にかかり
よこしまな者はたくらんでも熟さない。
真昼にも、暗黒に出会い
昼も、夜であるかのように手探りする。
神は貧しい人を剣の刃から
権力者の手から救い出してくださる。
だからこそ、弱い人にも希望がある。
不正はその口を閉ざすであろう。
見よ、幸いなのは
神の懲らしめを受ける人。
全能者の戒めを拒んではならない。
彼は傷つけても、包み
打っても、その御手で癒してくださる。
六度苦難が襲っても、あなたを救い
七度襲っても
災いがあなたに触れないようにしてくださる。
飢饉の時には死から
戦いの時には剣から助け出してくださる。
あなたは、陥れる舌からも守られている。
略奪する者が襲っても
恐怖を抱くことはない。
略奪や飢饉を笑っていられる。
地の獣に恐怖を抱くこともない。
野の石とは契約を結び
野の獣とは和解する。
あなたは知るだろう
あなたの天幕は安全で
牧場の群れを数えて欠けるもののないことを。
あなたは知るだろう
あなたの子孫は増え
一族は野の草のように茂ることを。
麦が実って収穫されるように
あなたは天寿を全うして墓に入ることだろう。
見よ、これが我らの究めたところ。
これこそ確かだ。
よく聞いて、悟るがよい。
6
ヨブは答えた。
わたしの苦悩を秤にかけ
わたしを滅ぼそうとするものを
すべて天秤に載せるなら
今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。
わたしは言葉を失うほどだ。
全能者の矢に射抜かれ
わたしの霊はその毒を吸う。
神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた。
青草があるのに野ろばが鳴くだろうか。
飼い葉があるのに牛がうなるだろうか。
味のない物を塩もつけずに食べられようか。
玉子の白身に味があろうか。
わたしのパンが汚れたもののようになれば
わたしの魂は触れることを拒むだろう。
神よ、わたしの願いをかなえ
望みのとおりにしてください。
神よ、どうかわたしを打ち砕き
御手を下し、滅ぼしてください。
仮借ない苦痛の中でもだえても
なお、わたしの慰めとなるのは
聖なる方の仰せを覆わなかったということです。
わたしはなお待たなければならないのか。
そのためにどんな力があるというのか。
なお忍耐しなければならないのか。
そうすればどんな終わりが待っているのか。
わたしに岩のような力があるというのか。
このからだが青銅のようだというのか。
いや、わたしにはもはや助けとなるものはない。
力も奪い去られてしまった。
絶望している者にこそ
友は忠実であるべきだ。
さもないと
全能者への畏敬を失わせることになる。
わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。
流れが去った後の川床のように。
流れは氷に暗く覆われることもあり
雪が解けて流れることもある。
季節が変わればその流れも絶え
炎暑にあえば、どこかへ消えてしまう。
そのために隊商は道に迷い
混乱に踏み込んで道を失う。
テマの隊商はその流れを目当てにし
シェバの旅人はそれに望みをかけて来るが
確信していたのに、裏切られ
そこまで来て、うろたえる。
今や、あなたたちもそのようになった。
破滅を見て、恐れている。
わたしが言ったことがあろうか
「頼む、わたしのために
あなたたちの財産を割いて
苦しめる者の手から救い出し
暴虐な者の手からわたしを贖ってくれ」と。
間違っているなら分からせてくれ
教えてくれれば口を閉ざそう。
率直な話のどこが困難なのか。
あなたたちの議論は何のための議論なのか。
言葉数が議論になると思うのか。
絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか。
あなたたちは孤児をすらくじで取り引きし
友をさえ売り物にするのか。
だが今は、どうかわたしに顔を向けてくれ。
その顔に、偽りは言わない。
考え直してくれ
不正があってはならない。
考え直してくれ
わたしの正しさが懸かっているのだ。
わたしの舌に不正があろうか
わたしの口は滅ぼすものを
わきまえていないだろうか。
7
この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。
傭兵のように日々を送らなければならない。
奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ
傭兵のように報酬を待ち望む。
そうだ
わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。
労苦の夜々が定められた報酬。
横たわればいつ起き上がれるのかと思い
夜の長さに倦み
いらだって夜明けを待つ。
肉は蛆虫とかさぶたに覆われ
皮膚は割れ、うみが出ている。
わたしの一生は機の杼よりも速く
望みもないままに過ぎ去る。
忘れないでください
わたしの命は風にすぎないことを。
わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。
わたしを見ている目は、やがてわたしを見失い
あなたが目を注がれても
わたしはもういないでしょう。
密雲も薄れ、やがて消え去る。
そのように、人も陰府に下れば
もう、上ってくることはない。
再びその家に帰ることなく
住みかもまた、彼を忘れてしまう。
わたしも口を閉じてはいられない。
苦悶のゆえに語り、悩み嘆いて訴えよう。
わたしは海の怪物なのか竜なのか
わたしに対して見張りを置かれるとは。
「床に入れば慰めもあろう
横たわれば嘆きも治まる」と思ったが
あなたは夢をもってわたしをおののかせ
幻をもって脅かされる。
わたしの魂は息を奪われることを願い
骨にとどまるよりも死を選ぶ。
もうたくさんだ、いつまでも生きていたくはない。
ほうっておいてください
わたしの一生は空しいのです。
人間とは何なのか。
なぜあなたはこれを大いなるものとし
これに心を向けられるのか。
朝ごとに訪れて確かめ
絶え間なく調べられる。
いつまでもわたしから目をそらされない。
唾を飲み込む間すらも
ほうっておいてはくださらない。
人を見張っている方よ
わたしが過ちを犯したとしても
あなたにとってそれが何だというのでしょう。
なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。
なぜ、わたしを負担とされるのですか。
なぜ、わたしの罪を赦さず
悪を取り除いてくださらないのですか。
今や、わたしは横たわって塵に返る。
あなたが探し求めても
わたしはもういないでしょう。
ヨブ記第四章1節-第七章21節
説教題:「ヨブの回復への道」
本日はヨブ記の第四章1節から第七章21節の御言葉を学びましょう。ヨブは第三章で七日間の沈黙を破り、彼を見舞いに来た三人の友人たちの前で独白しました。彼は神に神の創造の撤回を願い、自分の生まれた日を呪い、生きるよりも死んで陰府に降ることを訴えました。
ヨブの独白に続いて、ヨブ記の第四章から二十七章までヨブと三人の友人たちとの議論が繰り広げられます。第一回目の議論が四章から十四章までです。ヨブと議論する三人の友だちのトップバッターが四章1節の「テマン人エリファズ」です。彼はヨブの三人の友だちの中で最年長者です。
エリファズは彼の長い人生の経験と知恵を踏まえて四章では彼の応報の思想を語り、第五章でそれをヨブに適用しています。
三章のヨブの独白は三人の友だちを驚かせました。彼らの知る敬虔なヨブの姿は微塵もなかったからです。ヨブの言葉を三人の友人は聞き捨てにできませんでした。そこでエリファズがヨブに「わたしはあなたに言いたいことがある」と語り始めました。
エリファズは穏やかに語り始め、まず3-4節でヨブがこれまで行っていた人々への諭し、弱者たちや困難の中にある者への導きを称賛します。ところが5-6節でエリファズはヨブに疑問を投げかけます。ヨブ自身が自分の災いにうろたえているとはどういうことだろうと。エリファズはヨブの独白を聞いて、ヨブが理性も信仰も失ったように見えたのです。だからエリファズはヨブに6節でこう問いかけるのです。「あなたの信仰はどこに行ったのか。あなたの高潔な人格はどこに行ったのか」。
エリファズはヨブに続けて7節で「考えてみなさい」と問いかけます。それによってエリファズはヨブに7-11節で自信を持って自分の応報思想を述べているのです。その中心が「罪のない人が滅ぼされ正しい人が絶たれることがあるかどうか」と8節の自業自得という考えです。これが彼の応報思想です。9-11節は彼の応報思想の事例を羅列しているのです。人もライオンも応報によって滅びるのです。
さらにエリファズは、12-21節で論調を変えて彼が夜に幻を見て、体験した恐ろしい光景を述べています。彼は夜夢を見ました。夢は神の啓示です。その内容が17-21節の御言葉です。彼の応報思想に神的な論拠を与えようとしているのです。エリファズが言いたいことは、人間は生まれながらに汚れた者であり、罪深き者であるということです。エリファズは人間を最低のところに置いています。その上で応報思想を構築するのです。神に従順な人間は神の恵みによって救いに与ることができると。また人間は自滅して当たり前であり、それは自業自得だと。
エリファズは5章で彼の応報思想をヨブに当てはめるのです。そこでエリファズはヨブに5章1節でこう言っています。「呼んでみよ あなたに答える者がいるかどうか。聖なるものをおいて、誰に頼ろうというのか。」「聖なるもの」とは天のみ使いです。エリファズはヨブに言うのです。天のみ使いがヨブに味方して神に取り次いでくれるのかと。4章18節で神は天のみ使いたちを信頼されませんので、エリファズがヨブに問うことは無意味です。2節のエリファズの言葉はヨブへの警告です。今のヨブは愚かな者や無知な者のように感情が高ぶっているので、エリファズは気を付けよと言っているのです。エリファズはヨブにこう忠告するのです。天のみ使いに執り成しを求めても無駄であり、応報思想を認めて、いらだつのを止めるように。
3-5節でエリファズは子供たちと財産を失ったヨブを対象にして語っています。エリファズはヨブに応報思想の立場から結果には原因があり、ヨブが子供たちや財産を失い、没落したのにはそれなりの原因あったはずだと言うのです。
ヨブの災難と不幸は彼に下った理不尽な災いです。天上における主なる神とサタンとのやり取りが原因です。だからヨブには理不尽な災いであり、不幸でした。しかしエリファズは人間には過ちが不可避であり、それゆえに下される災いを考えています。6-7節でエリファズは、人間がそのままで神に罰せられても仕方ない存在であると言っています。
エリファズはヨブに5章8節で「わたしなら、神に訴え 神にわたしの問題を任せるだろう」と勧告しています。エリファズはヨブに神の御心に謙虚に従えと言いたいのです。神がなされることを理不尽だというべきではないと勧告するのです。そして9-10節でエリファズは神を賛美します。宇宙の創造者としての神の偉大な御業を賛美します。11-14節は旧約聖書のサムエル記上の2章のハンナの祈りに似ています。神がこの世の幸福と不幸を逆転されます。悪人の滅びはエリファズの応報思想に合致しています。15-16節は貧しい者と無力な者が権力者の手から救い出されます。エリファズは神が不義の口を封ずると弱者に望みがあると言っています。ヨブも反対できないことを、エリファズは言っています。しかし、よこしまな者が自滅するという確信は、エリファズの知恵とそれに養われた応報思想の大きな特色です。
エリファズはヨブに17-27節で神の懲らしめを受け入れて幸福になれと勧告します。17節でエリファズはヨブに「見よ、幸いなのは 神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない」と勧告しています。エリファズがヨブに言いたかったことは、ヨブが苦難を通して神の戒めを受けたことはヨブにとって幸いなことであったということです。これが義人に対する神の教育であるからです。
エリファズはヨブに19-27節で神の懲らしめを受けた人は見返りに神の恵みに浴するのだと述べています。これも彼の応報思想です。そしてエリファズは神の見守りの恵みを並べ立てています。6度、7度の苦難はすべての苦難という意味です。神の懲らしめを受け入れる者はすべての苦難から神に守られると、エリファズは述べています。その結果、エリファズはヨブの天幕は祝福され、ヨブは充実した人生を終えることができると述べています。そしてエリファズは最後に自分の立場、応報思想が確かであると言い切っています。
六章はヨブのエリファズへの反論です。七章はヨブの神への訴えです。ヨブは三章で独白し、神に訴えて以来、三十一章で彼が語り尽くすまで、彼は神に訴え続けているのです。三人の友人たちと議論していても、ヨブが語りかける相手は神です。
だからヨブはエリファズに反論して、六章1節で「ヨブは答えた」で始まります。しかし、2-7節でヨブが訴えている相手はエリファズなのでしょうか。ヨブは彼の苦悩を主観的に語ります。彼の苦悩、彼を滅ぼそうとするものを秤にかけると、海辺の砂よりも重く、ヨブは言葉を失うと言っています。4節の「全能者の矢に射抜かれ」とは神の不正義がヨブの心を射抜いたということです。神の不正義はヨブの霊を殺す毒でした。5節でヨブは自分ののろばと牛にたとえて、自分は理由もなく嘆いているのではないと言っているのです。6節は苦痛に満ちたヨブの人生であり、7節はヨブの生きることへの嫌悪感を述べているのです。このヨブの訴えはエリファズには理解できないでしょう。だから、ヨブは神に訴えているのだと、わたしは思うのです。
6章8-10節はヨブの祈りです。ヨブの苦しみはエリファズには理解されません。だからヨブは神に祈ります。神に滅ぼしてくれるように。死による苦しみからの解放を祈るのです。ヨブは主なる神がヨブの命を守られていることを知りません。ヨブは10節で苦痛の中でも神の御前で誠実に生きてきたことを語っています。これがヨブの潔白です。しかし、ヨブの限界がきています。ヨブの体は重い皮膚病で覆われ、彼は死を実感しています。だから11-13節で彼の忍耐の限界を訴えているのです。ヨブは絶望の中にありました。
ヨブはエリファズに14-30節で今こそ絶望したわたしの真の友であってほしいと訴えています。ヨブは14節で「絶望している者にこそ 友は忠実であるべきだ。 さもないと 全能者への畏敬を失わせることになる」と言っています。意味は分かりません。ヨブの友への期待は空しく消滅したということでしょうか。そこで15-20節でヨブは友を砂漠で乾期に枯れてしまう川に、自分を砂漠の川の水を期待して裏切られるテマの隊商、シェバの旅人に譬えています。友たちは義人であるヨブにひどい災いが下るのを見て、恐れたのです。その恐れを隠してエリファズはヨブに勧告しました。しかし、ヨブは反論します。「いつわたしはあなたに助けを求めたのか」と。物質的な助けでは、ヨブのこの苦悩は解決できないのです。
そこでヨブはエリファズに24-30節でヨブの尊厳を回復するために、正面から向き合え、誠意を欠いた叱責をするなと言うのです。エリファズは言葉の端々にヨブに非があるはずだと責めました。ヨブには見覚えがありません。しかしヨブは自分に過ちがあるなら聞いて直す姿勢はありました。ヨブの潔白がかかっています。だからヨブは自分が人に尊大であったことを立証せよと訴えました。29節の「考え直してくれ」は、わたしと向き合ってくれという意味です。ヨブが自分の尊厳を回復する道は、彼の友が真剣にヨブと向き合ってくれることです。ヨブの苦難に向き合ってくれることです。
七章はヨブが神に訴えているのです。ヨブはエリファズの勧告が彼の恐れに基づく対応であり、絶望した友への裏切りであることを明らかにしました。
七章1-6節はヨブの独白です。ヨブはこの世の人生とは何のかと自問しています。この地上での人間の生活が1節では兵役に、傭兵に譬えられています。ヨブは人間の人生は苦役であると言うのです。2節では人間の人生が奴隷の生活に、傭兵が報酬を待ち望むことに譬えられています。ヨブは人間の人生の悲哀を語り、神に向けて自分の今の苦しみを語っています。奴隷も傭兵も過酷な人生ですが、彼らには夜の安らぎがあります。しかし、ヨブは夜も重い皮膚病のために苦しみ、夜明けを待つのです。ヨブは日々、一日中苦しんでいるのです。
7-16節はヨブの祈りです。ヨブの日々が苦痛であれば、彼の人生は一瞬に終わることが望ましいでしょう。しかしヨブの本心は神との応答です。それがかなわないことがヨブの深い悲しみです。だからヨブは神に7-8節で祈るのです。「忘れないでください わたしの命は風にすぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。わたしを見ている目は、やがてわたしを見失い あなたが目を注がれても わたしはもういないでしょう。」ヨブは祈りによって彼の心を神に向けているのです。彼の心が神に開かれ、ヨブの回復への道が開かれているのです。
ヨブが陰府に下れば、もう誰もヨブを思い起こすものはいません。だからヨブは11-16節で自分の空しい人生を拒むのです。彼の苦しみに沈黙することを拒否します。ヨブは遠慮なく神について口にします。神は自分を海の怪物か竜のように見張られていると。神は夜、夢や幻によってヨブを脅かされていると。このようにヨブは日中も夜も神に監視され、脅かされ、まことに過酷な現実を生きているので、生きる意欲も奪われました。
七章17-21節はヨブが神の監視と検査に絶え間なく服しています。神はヨブを監視し、絶え間なく検査し、唾を飲み込む間も放っておいてくださらないと嘆いています。そしてヨブは神に20-21節で「人を見張っている方よ わたしが過ちを犯したとしても あなたにとってそれが何だというのでしょう。なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。なぜ、わたしの罪を赦さず 悪を取り除いてくださらないのですか。今や、わたしは横たわって塵に返る。あなたが探し求めても わたしはもういないでしょう。」と訴えています。
ヨブの絶望は深いです。それはヨブが神との関係性を見出せないからです。だからヨブは自暴自棄になり、ヨブが罪を犯すことがあっても、それが神と何の関係があるのかとまで言うのです。
ヨブが神にこのように訴えているのであれば、エリファズがヨブに勧告した、ヨブが神に身を委ねることはあり得ないでしょう。
ヨブ記四章から七章を読んでいて、説教を作っていて、ヨブの苦しみに、キリストの十字架の苦しみが重なりました。キリストは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられた」と言われました。ヨブは十字架のキリストを知りません。しかし、ヨブの苦しみの訴えである「なぜ、わたしの罪を赦さず 悪を取り除いてくださらないのですか。」は、キリストの十字架によって実現したのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、『ヨブ記』の第四章から七章を学べる機会を得ましたことを感謝します。
どうかヨブと友達たちの議論を学ぶことを通して、ヨブの苦難を学ばせてください。
ヨブの理由ない苦難からわたしたちがキリストの十字架の苦しみを覚え、神にのみ平安と憩いを見いだすことができるようにして下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨブ記説教04 主の2025年9月7日
8
シュア人ビルダドは話し始めた。
いつまで、そんなことを言っているのか。
あなたの口の言葉は激しい風のようだ。
神が裁きを曲げられるだろうか。
全能者が正義を曲げられるだろうか。
あなたの子らが
神に対して過ちを犯したからこそ
彼らをその罪の手に委ねられたのだ。
あなたが神を捜し求め
全能者に憐れみを乞うなら
また、あなたが潔白な正しい人であるなら
神は必ずあなたを顧み
あなたの権利を認めて
あなたの家を元どおりにしてくださる。
過去のあなたは小さなものであったが
未来のあなたは非常に大きくなるであろう。
過去の世代に尋ねるがよい。
父祖の究めたところを確かめてみるがよい。
わたしたちはほんの昨日からの存在で
何も分かってはいないのだから。
地上での日々は影にすぎない。
父祖はあなたを教え導き
心に悟ったところから語りかけるであろう。
沼地でもない所で、パピルスが育とうか
水もないところで葦が茂ろうか。
芽を出すや否や、切られもしないのに
どんな草より早く枯れる。
すべて神を忘れる者の道はこのようだ。
神を無視する者の望みは消えうせ
頼みの綱は断ち切られる。
よりどころはくもの巣のようなもの。
家によりかかっても家はそれに堪えず
すがりついてもそれは立ちえない。
水があれば葦は太陽にも負けず
園に若枝を芽生えさせる。
根を石にまつわらせ
その石と石の奥にまで入り込み
その場所では吞み込まれたようでも
お前など知らない、と拒まれても
葦は、生き生きと道を探り
ほかの土から芽を出す。
そのように、無垢な人を退けることもせず
悪を行う者の手を取って
支えることもなさらない神は
なお、あなたの口に笑いを満たし
あなたの唇に歓びの叫びを与えてくださる。
あなたを憎む者は恥を被り
神に逆らう者の天幕は消えうせるであろう。
9
ヨブは答えた。
それは確かにわたしも知っている。
神より正しいと主張できる人間があろうか。
神と論争することを望んだとしても
千に一つの答えも得られないだろう。
御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。
神に対して頑なになりながら
なお、無傷でいられようか。
神は山をも移される。
怒りによって山を覆されるのだと誰が知ろう。
神は大地をその立つ所で揺り動かし
地の柱は揺らぐ。
神が禁じられれば太陽は昇らず
昼もまた、封じ込められる。
神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。
神は北斗やオリオンを
すばるや、南の星座を造られた。
神は計り難く大きな業を
数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。
神がそばを通られてもわたしは気づかず
過ぎ行かれてもそれと悟らない。
神が奪うのに誰が取り返せよう。
「何をするのだ」と誰が言いえよう。
神は怒りを抑えられることなく
ラハブに味方する者も
神の足もとにひれ伏すであろう。
わたしのようなものがどうして神に答え
神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
わたしの方が正しくても、答えることはできず
わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。
しかし、わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
わたしの声に耳を傾けてくださるとは思えない。
神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ
理由もなくわたしに傷を加えられる。
息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる。
力に訴えても、見よ、神は強い。
正義に訴えても
証人となってくれるものはいない。
わたしが正しいと主張しているのに
口をもって背いたことにされる。
無垢なのに、曲がった者とされる。
無垢かどうかすら、もうわたしは知らない。
生きていたくない。
だからわたしは言う、同じことなのだ、と。
神は無垢な者も逆らう者も
同じように滅ぼし尽くされる、と。
罪もないのに、突然、鞭打たれ
殺される人の絶望を神は嘲笑う。
この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。
神がその裁判官の顔を覆われたのだ。
ちがうというなら、誰がそうしたのか。
わたしの人生の日々は
飛脚よりも早く飛び去り
幸せを見ることはなかった。
葦の小舟に乗せられたかのように流れ去り
獲物を襲う鷲のように速い。
嘆きを忘れよう
この有様を離れて立ち直りたいと言ってみても
苦しみの一つ一つがわたしに危惧を抱かせ
無罪と認めてもらえないことがよく分かる。
わたしは必ず罪ありとされるのだ。
なぜ、空しく労することがあろうか。
雪解け水でからだを洗い
灰汁で手を清めても
あなたはわたしを汚物の中に沈め
着ているものさえわたしにはいとわしい。
このように、人間ともいえないような者だが
わたしはなお、あの方に言い返したい。
あの方と共に裁きの座に出ることができるなら
あの方とわたしの間を調停してくれる者
仲裁する者がいるなら
わたしの上からあの方の杖を
取り払ってくれるものがあるなら
その時には、あの方の怒りに脅かされることなく
恐れることなくわたしは宣言するだろう
わたしは正当に扱われていない、と。
10
わたしの魂は生きることをいとう。
嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう。
神にこう言おう。
「わたしに罪があると言わないでください。
なぜわたしと争われるのかを教えてください。
手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて
あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。
それでいいのでしょうか。
あなたも肉の目を持ち
人間と同じ見方をなさるのですか。
人間同様に一生を送り
男の一生に似た歳月を送られるのですか。
なぜわたしをとがめ立てし
過ちを追及なさるのですか。
わたしが背く者でないと知りながら
あなたの手から
わたしを救いうる者はないと知りながら。
御手をもってわたしを形づくってくださったのに
あなたはわたしを取り巻くすべてのものをも
わたしをも、呑み込んでしまわれる。
心を留めてください
土くれとしてわたしを造り
塵に戻されるのだということを。
あなたはわたしを乳のように注ぎ出し
チーズのように固め
骨と筋を編み合わせ
それに皮と肉を着せてくださった。
わたしに命と恵みを約束し
あなたの加護によって
わたしの霊は保たれていました。
しかし、あなたの心に隠しておられたことが
今、わたしに分かりました。
もし過ちを犯そうものなら
あなたはわたしに目をつけ
悪から清めてくださらないのです。
逆らおうものなら、わたしは災いを受け
正しくても、頭を上げることはできず
辱めに飽き、苦しみを見ています。
わたしが頭をもたげようものなら
あなたは獅子のように襲いかかり
繰り返し、わたしを圧倒し
わたしに対して次々と証人を繰り出し
いよいよ激しく怒り
新たな苦役をわたしに課せられます。
なぜ、わたしを母の胎から引き出したのですか。
わたしなど、だれの目にも止まらぬうちに
死んでしまえばよかったものを。
あたかも存在しなかったように
母の胎から墓へと運ばれていればよかったのに。
わたしの人生など何ほどのこともないのです。
わたしから離れ去り、立ち直らせてください。
二度と帰って来れない暗黒の死の闇の国に
わたしが行ってしまう前に。
その国の暗さは全くの闇で
死の闇に閉ざされ、秩序はなく
闇がその光となるほどなのだ。
ヨブ記第八章1節-第十章22節
説教題:「ヨブの挑戦」
本日はヨブ記の第八章1節から第十章22節の御言葉を学びましょう。エリファズが応報思想によって見事な議論をしましたが、ヨブはエリファズの議論に納得できませんでした。ヨブはエリファズの勧告を謙虚に聞けませんでした。ヨブは神が自分を不当に苦しめられることを述べ、彼の空虚な人生を終わらせてほしいと、神に訴えました。
ヨブの嘆きを聞いた二人目の友人であるシュア人ビルダドが第八章で議論を買って出ました。ビルダドはエリファズより年少者です。彼の議論はエリファズの半分です。ビルダドも応報思想の持ち主です。
ビルダドはヨブがエリファズに六章26節で「絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか」と言った言葉を聞き逃しませんでした。彼はヨブに2節で「いつまで、そんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ」と述べていますね。ビルダドはヨブが神の不当な行為を批判し続けていることに対してヨブの言葉を激しいい風だと揶揄したのです。
ビルダドはヨブに反論します。彼は3節で神は裁きと正義を曲げられないと主張します。そして4-7節で彼の応報思想を論じているのです。4節でビルダドはヨブに「あなたの子らが神に罪を犯したので、神は彼らを罪の手に委ね、彼らは災いに遭ったのではないか」と主張しました。これは応報思想です。そしてビルダドはヨブに5節で神に憐れみを乞いなさいと勧めています。ビルダドは6-7節で彼の応報思想を展開し、神は正しい者に報いると述べて、次のように言っているのです。ヨブに罪がなければ、神は必ずヨブに報いてくださり、ヨブは家を再建し、その再建の初めは小さいけれど、終わりは非常に大きくなるだろうと。7節の過去と未来は始めと終わりです。
ビルダドは彼の応報思想の拠り所を父祖たちの知恵に求めています。彼はヨブに8-10節で父祖たちが究めた真理に聴きなさいと諭します。ビルダドはエリファズとは違い、父祖たちが経験によって究めた真理を拠り所にし、彼の応報思想を論じています。これは知者の基本的条件です。知者たちは父祖たちの経験知から人生を学ぶのです。なぜなら、ビルダドはヨブに言います。わたしたちの人生は浅く、経験も乏しいのだから、父祖たちの経験に学ぶ努力と謙遜さを持つようにと。
ビルダドはヨブに11-19節で神を忘れる者、神を無視する者、すなわち不敬虔な者たちの望みは水枯れのパピルスや葦のように神の取り去られると述べています。不敬虔な者たちは人生に確かな土台がありません。彼らの頼みの綱は切られ、彼らの拠り所はクモの巣のようなものです。蜘蛛の巣には寄りかかることができません。またビルダドはこの世で幅を利かせている不敬虔な者を、岩場に根を張るある植物に譬えています。岩場に根を張り、自前で水分を得て繁殖する植物のように、不敬虔な者たちはまるで自分で建てた石造りの家を喜んでいます。しかし神がお前など知らないと言われたら、すなわち神が彼らを滅ぼされたら、彼らはこの世からいなくなるのです。不敬虔な者たちの記憶はこの世から消し去られて、他人が来て彼らの廃墟を再建するのです。
20-22節はビルダドの議論の結論です。ビルダドが20節で「そのように、無垢な人を退けることもせず悪を行う者の手を取って支えることもなさらない神」と言う時、彼はヨブを無垢な者とは思っていません。彼は21節でバビロン捕囚からの解放の喜びを歌った詩編126編の2節、「そのときには、わたしたちの口に笑いが舌に歓びの歌が満ちるであろう」という賛美を用いて苦難から解放された者の喜びを歌っています。そして彼は22節で応報思想に基づいて不敬虔な者は恥を被り、不敬虔な者の天幕、すなわち彼らの財産と繁栄は消えうせると述べています。
ビルダドはこの世の経験知に捕らわれて、ヨブの苦しみが理解できませんでした。ヨブが無垢な者であり、理由のない苦しみに苦しんでいることに気づきませんでした。彼の議論に正しいことがあっても、ヨブを理解しない議論に何の益があるでしょうか。
ヨブはビルダドに反論します。エリファズへの反論と同様に、ヨブは神に訴えています。ヨブが神に挑戦できないことはヨブ自身分かっています。だからヨブはビルダドに九章2節で「それは確かにわたしも知っている」と反論します。ヨブがビルダドに反論するのはこの言葉だけです。あとは、ヨブは神に訴えているのです。
ヨブは2-4節で効果的な言葉を用いてヨブが神に挑戦できないと述べています。ヨブは友だちが言う応報思想を全く否定するわけではありません。神が正しい者に報われ、不敬虔な者を裁かれる応報思想を受け入れています。しかしヨブは人には正しさの限界があり、神に挑戦しても無傷にいられないことも知っているのです。人が神に対抗できるはずのないことを、ヨブは知っているのです。
エリファズは、五章9-16節で神の創造の不思議とその恵み、そして神がこの世の不正義を正される神の統治を褒め称え、賛美しました。ヨブは九章5-12節で神が創造者であり、破壊者であると述べているのです。神は既に創造された山々を破壊され、大地の基である柱を揺り動かされます。神の破壊行為の動機は怒りです。しかし、怒りの理由を、ヨブは説明しません。
天体の星と星座は神の創造物です。神は人間には想像もできない不思議な御業を成し遂げられます。しかし神は御自分の思いのままにそれを成し遂げられ、ヨブには神に異議申し立てをすることはできません。だからヨブは13節で「神が奪うのに誰が取り返せよう。『何をするのだ』と誰が言いえよう」と述べているのです。これは、ヨブが神に挑戦することは無謀であると知りつつも、神と顔と顔を合わせて自分に対する神の不当な扱いを物申したいと思っているのです。
しかし、ヨブは神の御前に無力な存在です。神の御力は圧倒的で、ヨブは自分の無力を思い知らされています。それが13-21節のヨブの神への訴えです。13節のラハブは海の怪獣です。神が創造された宇宙の秩序を破壊するものです。しかし神の怒りにラハブも抵抗できません。だから、ヨブはラハブを味方につけても、神に屈服せざるを得ないのです。ヨブは神の怒りを静めても神に自分の正しさを答弁できません。神がヨブに耳を傾けてくださるとも思えません。実際神は小さな存在であるヨブにまるで嵐をもって傷つけ、理由もなく傷つけて、苦しみに苦しみを加えられます。神の圧倒的な前にヨブは神に自分の正義を訴えることができません。訴えても彼の証人がいません。今のヨブは、自分は無垢だと主張しても曲がった者とされ、彼は真に無念の中に苦悩しているのです。
無力の中でもヨブは神に正義を訴えるのです。それが、ヨブがヨブとして生きることだからです。ヨブは自分の正義を主張しますし、神が正義であることを訴えています。そこにヨブがヨブであることが懸かっているからです。だからヨブは22節で「だからわたしは言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる、と」ヨブは神の無差別な破壊に抗議するのです。無垢な者とはヨブのことです。ヨブは無垢な者なのに、神は罪のないヨブに突然に不幸と災いをもたらし、絶望しているヨブを冷淡に笑われていると訴えています。そしてヨブは彼の理由のない苦難だけではなく、24節で社会的不正義についても神が裁判官の目を曇らせておられるからではないかと述べているのです。
ヨブの嘆きと独白は続きます。ヨブの焦りは募ります。神はヨブの訴えを聞き届けてくださらないからです。それどころか、神はヨブを有罪と思われているのです。それが25-31節の御言葉です。ヨブは重い皮膚病を患っています。ヨブは神がサタンにヨブの命を奪うことを許されなかったことを知りません。彼は死が目前にあると思っています。彼は死を目の前にして神に自分は無罪であると認めてほしいと願っています。しかし、彼の願いはかなわないのです。彼は自分は潔白であると自分の手を清めても、神は彼の努力を無視され、彼を汚物の中に投げ込まれるのです。なぜならヨブの重い皮膚病が癒されない限り、彼が神の御前で罪ありとされるからです。そして神がヨブを汚物の中に沈められるので、ヨブは自分の着ている着物さえ厭わしいと述べています。これはわたしたち読者にヨブの屈辱と孤独感を伝えているのです。
ヨブは屈辱と孤独感の中でも、自分が人間として扱われなくても、なお彼は神の御前で。神の裁きの前で自分の潔白を訴えたいのです。それが32-35節の御言葉です。彼は神に訴えるために自分と神との間を仲裁する者がいないかと訴えています。仲裁者がいるなら、ヨブは彼の正当性を、彼が無罪であることを神に訴えることができるのです。
しかし、ヨブが願う神とヨブとの間を仲裁し、ヨブの無罪を神に訴えてくれる者はいません。だからヨブは、十章1節で「わたしの魂は生きることをいとう」と告白しています。ヨブは神の御前で自分の潔白を証しできる場がありません。ヨブに残されているのは、ヨブの嘆きを、彼の魂の苦しみを、神に訴える他ありません。ヨブは2-7節で神はわたしの無実を知っておられるはずだと訴えています。彼は神に自分に罪があると争わないでくださいと訴えています。ヨブは神にあなたが造られたわたしを虐げ退けられ、神に背いている者たちに光が当てられてよいのかと訴えています。ヨブは神にあなたにわたしの魂が見えないのなら、あなたは人と変わらないのではないかと訴えています。ヨブは神に創造者は造られた者の真実を知られており、自分の無実も知っておられるはずであるのに、なぜ神は自分を有罪とされ、御自分が痛めたヨブを救い出す者がいないことを知りながら平然とされているのかと訴えるのです。
ヨブの神への訴えは激しくなります。しかしヨブにとって神は「あなた」です。ヨブは神との人格的関係を捨てたのではありません。ある注解者は、信仰者の神に対する恐れと、率直に神に向かって発言する自由は共存すると言っています。
ヨブは8節で「御手をもってわたしを形づくってくださったのにあなたはわたしを取り巻くすべてのものをもわたしをも、呑み込んでしまわれる」と述べています。創造者である神が御自分の造られた者を、ヨブ自身もすべて破壊されると、ヨブは言っているのです。ヨブは神にわたしを塵に帰そうとされるのかと訴えているのです。しかし、ヨブは神が人間をどんなに注意深く造られたのかを知っています。そして神が造られた人間に命と恵みを約束され、ヨブの霊を見守って来られたことを知っています。
しかし、今のヨブは神の見守りの中にあるより、監視の下に置かれているのです。14-17節の御言葉です。神の創造されたヨブは神の見守りの中にありました。しかし、今やヨブは罪を犯した者のように神の監視の下に置かれています。神は無実のヨブを追い詰められています。ヨブは神に目をつけられ、常に神の監視の中に置かれ、神に逆らうなら災いを受け、正しくても神に頭を上げることができません。毎日辱めと苦しみを受けています。ヨブを追跡する神は獅子のように荒々しく、ヨブを有罪とする証人を送り込まれ、いよいよ激しく怒り、ヨブに新たな苦役を課されるのです。
ヨブは不本意の苦難を拒みます。そして彼が三章で独白した自分の誕生を呪い、取り消しを願ったことに回帰しています。ヨブは神にわずかな間でも、わたしから離れてほしいと願っているのです。三章ではヨブは陰府に下り安息を得ることを願いましたが、ここではヨブは願っているのではなく、彼は陰府に自分が下ることが運命であると確信しているのです。
ヨブとビルダドとの議論は不毛なものです。しかし、ヨブの言葉には、わたしたちの心を動かすものがあります。ヨブが神の御前で自分の無罪を証しするために仲介者を求める姿に、わたしたちは心打たれないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストという仲保者のお陰で、神の御前でわたしたちの罪が赦されるだけでなく、神との和解を得られたのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、『ヨブ記』の第八章から十章を学べる機会を得ましたことを感謝します。
どうかヨブと友人たちの議論を学ぶことを通して、ヨブの苦難を学ぶだけではなく、神との和解に仲保者が必要であることを学ばせてくださって感謝します。
どうかわたしたちに仲保者キリストの十字架の苦しみを覚えさせてください。そこにわたしたちの救いと平安を見いだすことができるようにして下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨブ記説教05 主の2025年9月14日
11
ナアマ人ツォファルは話し始めた。
これだけまくし立てられては
答えないわけにいくまい。
口がうまければそれで正しいと
認められるだろうか。
あなたの無駄口が人々を黙らせるだろうか。
嘲りの言葉を吐いて
恥をかかずに済むだろうか。
あなたは言う。
「わたしの主張は正しい。
あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」と。
しかし、神があなたに対して唇を開き
何と言われるか聞きたいものだ。
神が隠しておられるその知恵を
その二重の効果をあなたに示されたなら
あなたの罪の一部を見逃してくださったと
あなたにも分かるだろう。
あなたは神を究めることができるか。
全能者の極みまでも見ることができるか。
高い天に対して何ができる。
深い陰府について何が分かる。
神は地の果てよりも遠く
海原よりも広いのに。
神が傍らに来て捕らえ、集めるなら
誰が取り返しえようか。
神は偽る者を知っておられる。
悪を見て、放置されることはない。
生まれたときには人間も
ろばの子のようなものだ。
しかし、愚かな者も賢くなれる。
もし、あなたも正しい方向に思いをはせ
神に向かって手を伸べるなら
また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ
あなたの天幕に不正をとどめないなら
その時こそ
あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく
恐怖を抱くこともないだろう。
その時、あなたは労苦を忘れ
それを流れ去った水のように思うだろう。
人生は真昼より明るくなる。
暗かったが、朝のようになるだろう。
希望があるので安心していられる。
安心して横たわるために、自分のねぐらを掘り
うずくまって眠れば、脅かす者はない。
多くの人があなたの好意を求める。
だが、神に逆らう者の目はかすむ。
逃れ場を失って
希望は最後の息を吐くように絶える。
12
ヨブは答えた。
確かにあなたたちもひとかどの民。
だが、死ねばあなたたちの知恵も死ぬ。
あなたたち同様、わたしにも心があり
あなたたちに劣ってはいない。
だれにもそれくらいの力はある。
神に呼びかけて
答えていただいたこともある者が
友人たちの物笑いの種になるのか。
人の不幸を笑い、よろめく足を嘲ってよいと
安穏に暮らす者は思い込んでいるのだ。
略奪者の天幕は栄え
神を怒らせる者
神さえ支配しようとする者は安泰だ。
獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。
空の鳥もあなたに告げるだろう。
大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。
海の魚もあなたに語るだろう。
彼らはみな知っている。
主の御手がすべてを造られたことを。
すべての命あるものは、肉なる人の霊も
御手の内にあることを。
耳は言葉を聞き分け
口は食べ物を味わうではないか。
知恵は老いた者と共にあり
分別は長く生きた者と共にあるというが
神と共に知恵と力はあり
神と共に思慮分別もある。
神が破壊したものは建て直されることなく
閉じ込められた人は解放されることがない。
神が水を止めれば干ばつとなり
水を放てば地の姿は変わる。
力も策も神と共にあり
迷うこと、迷わせることも神による。
神は参議をはだしで行かせ
裁判官を狂いまわらせ
王の権威を解き
腰の帯をもって彼らをつながれる。
祭司をはだしで行かせ
地位ある者をその地位から引き降ろされる。
信任厚い者の口を閉ざし
長老の判断を失わせ
自由な者に嘲りを浴びせかけ
強い者の帯を断ち切られる。
神は暗黒の深い底をあらわにし
死の闇を光に引き出される。
国々を興し、また滅ぼし
国々を広げ、また限られる。
この地の民の頭たちを混乱に陥れ
道もなく茫漠としたさかいをさまよわせられる。
光もなく、彼らは闇に手探りし
酔いしれたかのように、さまよう。
13
そんなことはみな、わたしもこの目で見
この耳で聞いて、よく分かっている。
あなたたちの知っていることぐらいは
わたしも知っている。
あなたたちに劣ってはいない。
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
あなたたちは皆、偽りの薬を塗る
役に立たない医者だ。
どうか黙ってくれ
黙ることがあなたたち知恵を示す。
わたしの議論を聞き
この唇の訴えに耳を傾けてくれ。
神に代わったつもりで、
あなたたちは不正を語り
欺いて語るのか。
神に代わったつもりで論争するのか。
そんなことで神にへつらおうというのか。
人を侮るように神を侮っているが
神に追及されてもよいのか。
たといひそかにでも、へつらうなら
神は告発されるであろう。
その威厳は阿多たちを脅かし
恐れがふりかかるであろう。
あなたたちの主張は灰の格言
弁護は土くれの盾にすぎない。
黙ってくれ、わたしに話させてくれ。
どんなことがふりかかって来てもよい。
たとえこの身を自分の歯にかけ
魂を自分の手に置くことになってもよい。
そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。
だが、ただ待ってはいられない。
わたしの道を神の前に申し立てよう。
このわたしこそ
神は救ってくださるべきではないか。
神を無視する者なら
御前に出るはずはないではないか。
よく聞いてくれ、わたしの言葉を。
わたしの言い分に耳を傾けてくれ。
見よ、わたしは訴えを述べる。
わたしは知っている。わたしが正しいのだ。
わたしのために争ってくれる者があれば
もはや、わたしは黙って死んでもよい。
ただ、やめていただきたいことが二つあります
御前から逃げ隠れはいたしませんから。
わたしの上から御手を遠ざけてください。
御腕をもって脅かすのをやめてください。
そして、呼んでください、お答えします。
わたしに語らせてください、返事をしてください。
罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。
わたしの罪咎を示してください。
なぜ、あなたは御顔を隠し
わたしを敵と見なされるのですか。
風に舞う木の葉のようなわたしをなお震えさせ
乾いたもみ殻のようなわたしを追いまわされる。
わたしに対して苦い定めを書き記し
若い日の罪をも今なお負わせられる。
わたしに足枷をはめ、行く道を見張り続け
一歩一歩の跡を刻みつけておかれる。
このようにされれば
だれでもしみに食われた衣のようになり
朽ち果てるほかはありません。
14
人は女から生まれ、人生は短く
苦しみは絶えない。
花のように咲き出ては、しおれ
影のように移ろい、永らえることはない。
あなたが御目を開いて見ておられるのは
このような者なのです。
このようなわたしをあなたに対して
裁きの座に引き出されるのですか。
汚れたものから清いものを
引き出すことができましょうか。
だれひとりできないのです。
人生はあなたが定められたとおり
月日の数もあなた次第。
あなたの決定されたことを人は侵せない。
御目をこのような人間からそらせてください。
彼の命は絶え
傭兵のようにその日を喜ぶでしょう。
木には希望がある、というように
木は切られても、また新芽を吹き
若枝の絶えることはない。
地におろしたその根が老い
幹が朽ちて、塵に返ろうとも
水気にあえば、また芽を吹き
苗木のように枝を張る。
だが、人間は死んで横たわる。
息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。
海の水が涸れ
川の流れが尽きて干上がることもあろう。
だが、倒れ伏した人間は
再び立ち上がることなく
天の続くかぎりは
その眠りから覚めることがない。
どうか、わたしを陰府に隠してください。
あなたの怒りがやむときまで
わたしを覆い隠してください。
しかし、時を定めてください。
わたしを思い起こす時を。
人は死んでしまえば
もう生きなくてもよいのです。
苦役のようなわたしの人生ですから
交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。
呼んでください、わたしはお答えします。
御手の業であるわたしを尋ね求めてください。
その時には、わたしの歩みを数えてください。
わたしの過ちにもはや固執することなく
わたしの罪を袋の中に封じ込め
わたしの悪を塗り隠してください。
しかし、山が崩れ去り
岩がその場から移され
水が石を打ち砕き
大地が塵となって押し流される時が来ても
人の望みはあなたに絶たれたままだ。
あなたは人をいつまでも攻め、追いやられる。
あなたは彼の顔かたちを変えて、追い払われる。
その子らが名誉を得ても、彼は知ることなく
彼らが不幸になっても、もう悟らない。
彼はひとり、その肉の痛みに耐え
魂の嘆きを忍ぶだけだ。
ヨブ記第十一章1節-第十四章22節
説教題:「ヨブが相手にする神」
本日はヨブ記の第十一章1節から第十四章22節の御言葉を学びましょう。本日はヨブと議論する友人の第三番手が登場します。ナアマ人ツォファルです。三人の友人の中で最年少者でしょう。
ツォファルの目に留まったヨブは多弁で、饒舌な男です。ヨブは友人が一言いえば二言も三言も返しました。それを見たツォファルはヨブと議論しないわけにいきませんでした。彼は箴言の10章19節で「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する」と言われている知恵を知っています。だから、彼はヨブの多弁と饒舌を非難して、それでヨブの正しさが認められるか、むしろヨブの言葉は人に信用されないのではないかと言いました。4節でツォファルはヨブが友人たちに「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」と説得することを、高慢な口を叩くと思っているのです。そこでツォファルは5節でヨブの言葉ではなく神の御言葉を聞きたいものだと言います。ツォファルはヨブが口を閉ざし、神の御言葉に耳を傾ければ、ヨブは二倍賢くなり、神がヨブの罪を見逃されていたことを理解するだろうと言っています。ツォファルはヨブに罪があり、ヨブはそれによって神の災いを受けているという思いを隠していません。
ツォファルはヨブに7-9節で人は神の知恵を知り得ないと主張しています。ヨブは理由のない苦難をどうして神が彼に与えたのかを、神と対面し聞きたいと願っています。ツォファルはヨブに人間が神の限界を知ることはできないし、それゆえヨブが神と対面しようとすることは無意味だと言うのです。
ツォファルはヨブに10-20節でヨブが不法を遠ざければ、ヨブに希望の朝が来るし、神に逆らう者は人が最後に息を吐くように、滅び去ると応報思想を述べます。10-12節でツォファルはヨブに神は偽る者を捕らえて神の裁判にかけて獄に入れ、悪を放置されることはないと言います。これはツォファルがヨブに「あなたはその中にいるのではないか」と暗に言っているのです。12節の「賢くなれる」とは心が動くことです。ツォファルはヨブに13-15節でその心を整え、神に向かって祈り、不法から離れ、不正を生活の場にとどめないなら、ヨブは何も恐れることなく堂々と生きることができると言っています。16-19節でツォファルはヨブにその時ヨブは労苦を忘れ、災いと悩みの夜は去り、彼の人生は真昼のようになり、彼は生活に安心を得て、多くの人々が彼に好意を得ようとしてやって来ると言っています。しかし、ツォファルはヨブに神に逆らう者の最後は滅びであると警告しています。
ツォファルも先の二人の友人同様に応報思想です。彼の信仰は安心立命です。人生を安心、安全に生きることです。三人の友人たちの応報思想は、ヨブとは違い、サタンが神に主張したことを裏付けるものです。天上における神とサタンとの会話でサタンが神にヨブの信仰を批判した時に、ヨブは自分の安心立命のために、彼が自分の身の安全と繁栄のために神を信仰しているのだと主張しました。理由なしに神を畏れる者はいないというサタンの声に、三人の友人の応報思想は賛成するものです。
12-14章がツォファルに対するヨブの反論です。ヨブはツォファルに反論して十二章2-6節で三人の友人たちにあなたがたは見えていないと言います。三人の友人たちは知恵者です。彼らが死ねば、彼らの知恵も死にます。彼らと知恵は一蓮托生です。知恵は人の心が整えられることで生まれます。人が理性を働かせ、彼らの人生の経験知によって知恵を形成するのです。その意味でヨブにも心があり、彼は理性を働かせ、彼の経験知によって友人同様に知恵者です。
ところが今神に従う者であるヨブが人々の物笑いの種になっています。ヨブは身の潔白を主張し続けますが、神は答えてくださらず、彼は重い皮膚病で日々悩まされ、罪人として生きています。ヨブは三人の友人たちに理解されません。ましてやこの世の人々は他人であるヨブの不幸を笑ってもよいと思っています。神に従う者が物笑いの種となり、その不幸を笑われ、略奪者の天幕は繫栄し、神を怒らせる者、神を支配しようとする者が安泰であることがヨブには理解できません。
ヨブはビルダドが八章8節で「過去の世代に尋ねるがよい。父祖の究めたところを確かめてみるがよい」と勧告したことに対抗して7-11節で獣、空の鳥、大地、海の魚に真実を聞けと呼びかけています。ヨブは友人たちに人の権威よりも自然界に真理を求めた方がよいと言っているのです。獣も空の鳥も大地も海の魚も神の造られた被造物です。人の命も神が造られた自然界のすべての命も神が造られ、支配されています。だから人もこの世界のすべての被造物も神の所有であり、神の統治されているものです。ヨブは人の権威によってではなく、自分の目と耳で真実を聞き分けよと言っているのでしょう。
ヨブは13-25節で神の知恵と御力の恐るべきことを告げています。理不尽な現実に置かれているヨブには神の恐ろしい面だけが見えているのです。神は町を廃墟にし、再建されません。人を投獄し釈放されません。神は天の水を閉ざされ、大地は干ばつとなり、水を放たれると、川は氾濫し大地は荒廃します。自然だけでなく、歴史も神と共にあります。人と国が迷うことも、迷わせられることも神によるのです。この世の権力者の世界に起こることに、わたしたち一般人は手出しできません。しかし、神は王、参議、裁判人、祭司等の権力者を、バビロンに捕囚し彼らを屈辱に落とされます。長老たちから知恵を奪われます。神は世界の深みから暗闇を取り出されて、この世界の光を覆われます。神は国を興され、滅ぼされます。帝国が生まれ領土を拡大しますが、帝国の拡大に神は限界を設けられます。目を見開いて世界と歴史を見れば、世界の秩序が乱れ、混乱しています。神がこの世の支配者であるなら、どうして神の造られた世界に戦争があり災害があるのだろうか。どうしてわたしたち人類の未来は明るいものではなく、闇と暗闇で、先が見えないのだろうか。ヨブの見る世界は不条理であり、残酷です。
十三章から十四章6節までヨブは彼の真の議論の相手は友人たちではなく、神であるとはっきり宣言し、神の立場で語るという友人たちの議論の偽りを指摘しています。十三章1-4節でヨブは三人の友人たちにヨブが相手にするのは神であり、友人たちではないと言い切ります。ヨブが対話したいのは全能者です。ヨブは神に向かって自分の潔白を主張したいのです。これこそがヨブがヨブであるということです。友人たちは役に立たない医者です。彼らはヨブを正しく診断し、正しい処方箋ができません。
だからヨブは友人たちに5-12節で「あなたがたは神に代わって語っているつもりか」と問いかけ、神に追及されてもよいのかと問いただすのです。これはまことに厳しい糾弾の言葉です。ヨブは友人たちに13-19節で「今からわたしは殺されてもよいので神の法廷に出て、神の御前で自分の正しさを訴えよう。君たちは黙ってわたしの言い分に聞いてくれ」と言います。人が神と対面することは命にかかわります。16節でヨブは自分が神の御前に出る資格があると思っています。ヨブは18節で神の法廷で自らの正しさを神に訴えられると思っています。しかしヨブは19節で神との議論に勝つことができないと思っています。だから彼に代わって神と議論してくれる者がいれば、彼は神の御前で黙って死んでもよいと言うのです。
もうヨブは神を議論の相手とし、ヨブは語り続けます。20-28節でヨブは神に二つの願いをし、神がヨブの願いを聞き届けてくだされば逃げ隠れしないと訴えています。願いとは第一に神がヨブに災いを下すことを止めてくださることです。ヨブは財産を奪われ、子供たちを失い、体に重い皮膚病を患いました。これ以上災いを下さないでくださいとお願いしています。第二にヨブは神の脅かしを止めてくださいとお願いしています。神が災いによってヨブを脅かされる限り、ヨブは恐怖に脅かされて神との対話ができないからです。
ヨブは22節で神との対話を切実に願っています。しかしヨブに神は返事を下さいません。だからヨブは神がどうしてヨブに怒りを持たれているのか分からないのです。理由の分からない神の怒りこそヨブの大きな悩みです。そこでヨブは神に23節でどれほどの罪があるのか、ヨブの罪をお示し下さいと願っているのです。24節でヨブは神が彼に御顔を隠され、彼に怒りと敵意を持たれていると述べています。そしてヨブは25節で神が吹き散る落ち葉や乾いたもみ殻のような彼を追いまわされる仕打ちが許せないと思っています。ヨブは26節で自分の気づいていない若き日の罪について神が災いを下されたのかと問うています。こうして27-28節でヨブは神が常にヨブの落ち度を見張られ、告発しようとされているので、彼は神の攻撃を受けて、しみに食われた衣のようになり、朽ち果てるばかりだと嘆いているんです。
ヨブは次々と神がヨブを攻撃されることを嘆きましたが、十四章1-6節でヨブは本来人間は神がまともに相手にする存在ではないと述べています。人ははかない人生で、苦しみが絶えません。人は花のようにしおれ、影のように移ろいやすく、はかない存在です。ヨブは神が見られる人はそのような存在であり、こんな者を神の裁きの場に引き出せましょうかと問うています。4節はあり得ないことの願望です。神が法廷で人間を相手にすることなどあり得ないと言っているのです。5-6節でヨブは人間の生涯の日数は限られているので、傭兵がその日を喜ぶようにヨブの状況をそのようにしてくださいとお願いしています。ヨブは神が目をそらして監視を止められ、ヨブに一息が付けるようにして下さいと願っているのです。
ヨブは傭兵の日々を願いましたが、ヨブは重い皮膚病に犯され、死を迎え、無力になる日が近づいていることを自覚しているのです。だから7-10節で木には希望があるが、人間は死ねば希望はないと言うのです。木は切られても新しい芽を出します。木は枯れても、水気があれば新芽を吹き、苗木のように枝を張ります。人間は死ねばそれで終わりです。11-12節でヨブは、海は涸れ、川は干上がっても回復は可能であるが、人間の死は決定的で、生き返ることはないと言っています。神が創造された天地が続くかぎり、死んだ者が新しい命に復活することはないのです。
ヨブは神に13-17節で神の怒りが消えるまで、自分を陰府に匿ってくれと願っています。ヨブは神に陰府にいるヨブを思い起こしてくださいと願っています。ヨブは神が陰府でヨブを保護し、さらにヨブと対話してくださいと願っています。ヨブは死ねば無力な存在になります。自分から神に働きかけることはできません。だから陰府にいるヨブを神が呼びかけ、御自身が御手で創造されたヨブを尋ねてくださいとお願いしています。ヨブは苦難の時から解放の時に交替するのを期待しています。この期待は神がヨブに現れ、呼びかけてくださらないと起こらない希望です。その時理由のない神の怒りの原因であるヨブの罪が消され、隠されるのです。
しかし、18-22節でヨブは再び彼の望みは神に脅かされていると言っています。ヨブの願いは打ち消され、今や神の破壊行為が現れます。神が創造された山も岩も時の流れの中で崩され、風化し、神は塵に変えられるのです。ヨブは神が造られたこの大地が塵となって押し流される時が来ても人の望みは神に絶たれたままであると言っています。ヨブは自然だけが神によって変貌するのではなく、ヨブも重い皮膚病で神に攻められ、追いやられて、昔の姿は失われ、顔かたちが変えられ、死へと追いやられると言っています。そしてヨブは死者が入る陰府に下ると、ヨブの子らがこの世で名誉を得ても、彼は知ることができず、彼の子孫が不幸になっても、それを理解できないと言っています。人は死んだら、誰も自分の子孫の繁栄と没落を知り得ないのです。
最後に22節でヨブは「彼はひとり、その肉の痛みに耐え 魂の嘆きを忍ぶだけだ」と言うのです。ヨブのこの御言葉がわたしの胸に刺さりました。ヨブは神に攻められて、重い皮膚病で肉体の苦しみに耐えています。肉の苦しみと共にヨブの魂が嘆いています。体と魂はヨブの一個の人間を表しています。義人が苦難に遭い、肉体と魂に、彼の全人格が悲しみと苦痛に陥り、神に見放された孤独の中にあるのです。わたしはまさにヨブは十字架のキリストの予型だと思うのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、『ヨブ記』の第十一章から十四章を学べる機会を得ましたことを感謝します。
ヨブの苦難を通してキリストの十字架の苦しみへとわたしたちを導いてくださり感謝します。
ヨブの体と魂の痛みと苦しみ、ヨブが神に見捨てられた孤独からわたしたちの仲保者キリストの十字架の苦しみを覚えさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨブ記説教06 主の2025年9月21日
15
テマン人エリファズは答えた。
知恵ある者が空虚な意見を述べたり
その腹を東風で満たしたりするであろうか。
無益な言葉をもって論じたり
役に立たない議論を重ねたりするであろうか。
あなたは神を畏れ敬うことを捨て
嘆き訴えることをやめた。
あなたの口は罪に導かれて語り
舌はこざかしい論法を選ぶ。
あなたを罪に定めるのはわたしではなく
あなた自身の口だ。
あなたの唇があなたに不利な答えをするのだ。
あなたは最初の人間として生まれたのか。
山より先に生まれたのか。
神の奥義を聞き
知恵を自分のものとしたのか。
あなたの知っていることで
わたしたちの知らないことがあろうか。
わたしたちには及びもつかないことを
あなたが悟れるというのか。
わたしたちの中には白髪の老人もあり
あなたの父より年上の者もある。
神の慰めなどは取るに足らない
優しい言葉は役に立たない、というのか。
なぜ、あなたは取り乱すのか。
なぜ、あなたの目つきはいらだっているのか。
神に向かって憤りを返し
そんな言葉を口に出すとは何事か。
どうして、人が清くありえよう。
どうして、女から生まれた者が
正しくありえよう。
神は聖なる人々をも信頼なさらず
天すら、神の目には清くない。
まして人間は、水を飲むように不正を飲む者
憎むべき汚れた者なのだ。
あなたに語ろう、聞きなさい。
わたしに示されたことを告げよう。
それは賢者たちの示したところ
それを彼らの父祖も隠さなかった。
これらの父祖にのみ、この地は与えられており
異国の者が侵すことはなかった。
さて、悪人の一生は不安に満ち
暴虐な者の生きる年数も限られている。
その耳には恐ろしい騒音が響く。
平安のさなかに略奪者が彼を襲うのだ。
暗黒を逃れうるとはもう信じられない。
彼の前には剣が待つのみだ。
彼はパンを求めてどことも知らずにさまよい
暗黒の訪れる時が間近いことを知る。
苦しみと悩みが彼を脅かし
戦いを挑む王のように攻めかかる。
彼は神に手向かい
全能者に対して傲慢にふるまい
厚い盾をかざして
頑に神に向かって突進した。
顔は脂ぎって
腰にはぜい肉がついていたが
滅ぼされた町、無人となった家
瓦礫となる運命にある所に
彼は住まねばならないであろう。
再び富むことなく、力も永らえず
その家畜は地に広がらない。
彼は暗黒から逃れられない。
熱風がその若枝を枯らし
神の口の息が吹き払う。
惑わされてむなしいものを信じるな。
その報いはむなしい。
時が来る前に枯れ
枝はその緑を失う。
未熟な実を荒らされるぶどうの木
花を落とすオリーブの木のようになる。
神を無視する者の一族に子は生まれず
賄賂を好む者の天幕は火に焼き尽くされる。
彼は苦しみをはらみ、災いを生む。
その腹は欺きをはぐくむ。
16
ヨブは答えた。
そんなことを聞くのはもうたくさんだ。
あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる。
「無駄口はやめよ」とか
「何にいらだって
そんな答えをするのか」と言う。
わたしがあなたたちの立場にあったなら
そのようなことを言っただろうか。
あなたたちに対して多くの言葉を連ね
あなたたちに向かって頭を振り
口先で励まし
唇を動かすことをやめなかっただろうか。
語っても苦しみはやまず
黙っていても、それは去りません。
もう、わたしは疲れ果てました。
わたしの一族をあなたは圧倒し
わたしを絞り上げられます。
このわたしの姿が証人となり
わたしに代わって抗議するでしょう。
神がわたしを餌食として、怒りを表されたので
敵はわたしを憎んで牙をむき、鋭い目を向ける。
彼らは大口を開けて嘲笑い
頬を打って侮辱し
一団となってわたしに向かって来る。
神は悪を行う者にわたしを引き渡し
神に逆らう者の手に任せられた。
平穏に暮らしていたわたしを神は打ち砕き
首を押さえて打ち据え
的として立て
弓を射る者に包囲させられた。
彼らは容赦なく、わたしのはらわたを射抜き
胆汁は地に流れ出た。
神は戦士のように挑みかかり
わたしを打ち破り、なお打ち破る。
わたしは粗布を肌に縫い付け
わたしの角と共に塵の中に倒れ伏した。
泣きはらした顔は赤く
死の闇がまぶたのくまどりとなった。
わたしの手には不法もなく
わたしの祈りは清かったのに。
大地よ、わたしの血を覆うな
わたしの叫びを閉じ込めるな。
このような時にも、見よ
天にはわたしのために証人があり
高い天には
わたしを弁護してくださる方がある。
わたしのために執り成す方、わたしの友
神を仰いでわたしの目は涙を流す。
人とその友の間を裁くように
神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。
僅かな年月が経てば
わたしは帰らぬ旅路に就くのだから。
17
息は絶え、人生の日は尽きる。
わたしには墓があるばかり
人々はなお、わたしを嘲り
わたしの目は夜通し彼らの敵意を見ている。
あなた自ら保証人となってください。
ほかの誰が
わたしの味方をしてくれましょう。
彼らの心を覆って目覚めることのないようにし
彼らを高く上げないでください。
「利益のために友を裏切れば
子孫の目がつぶれる。」
この格言はわたしのことだと人は言う。
わたしは顔につばきされる者。
目は苦悩にかすみ
手足はどれも影のようだ。
正しい人よ、これに驚け。
罪のない人よ
神を無視する者に対して奮い立て。
神に従う人はその道を守り
手の清い人は更に勇気をもて。
あなたたちは皆、再び集まって来るがよい。
あなたたちの中に知恵ある者はいないのか。
わたしの人生は過ぎ去り
わたしの計画も心の願いも失われた。
夜は昼となり
暗黒の後に光が近づくと人は言うが
わたしは陰府に自分のための家を求め
その暗黒に寝床を整えた。
墓穴に向かって「あなたはわたしの父」と言い
蛆虫に向かって「わたしの母、姉妹」と言う。
どこになお、わたしの希望があるのか。
誰がわたしに希望を見せてくれるのか。
それはことごとく陰府に落ちた。
すべては塵の上に横たわっている。
ヨブ記第十五章1節-第十七章16節
説教題:「ヨブ、証人を求める」
本日はヨブ記の第十五章1節から第十七章16節の御言葉を学びましょう。本日からヨブと友人たちの議論が二回り目に入ります。15章で最年長者のテマン人エリファズはヨブの激しい言葉に答えて、何度も疑問を述べて、ヨブに非を認めさせようとしています。
エリファズの第一の疑問は2-3節です。「知恵ある者が空虚な意見を述べたりその腹を東風で満たしたりするであろうか。無益な言葉をもって論じたり役に立たない議論を重ねたりするであろうか。」エリファズはヨブが知恵者であることを疑っています。エリファズにはヨブの言葉が空虚な意見であり、腹を満たすこともできない風であるからです。ヨブが無益な言葉を語り、役に立たない議論をし、エリファズは彼が知恵ある者と言えるだろうかと言っています。そしてエリファズはヨブに4節で神への敬虔を捨て、神に祈ることを捨てていると断言するのです。それゆえエリファズはヨブに5-6節でヨブが自分で罪ありと宣言していると断言します。
続いてエリファズは7-9節で第二の疑問を述べています。「あなたは最初の人間として生まれたのか。山より先に生まれたのか。神の奥義を聞き知恵を自分のものとしたのか。あなたの知っていることでわたしたちの知らないことがあろうか。わたしたちには及びもつかないことをあなたが悟れるというのか。」エリファズのこの疑問はヨブの知恵が格段すぐれたものではないという批判です。エリファズはそれを証明するために古代の神話を利用します。彼はヨブに最初に生まれた人間のように特別な知恵があるのか、神が創造された山よりヨブは先に生まれたのか、ヨブは天上の神の御計画を聞き、神の知恵を自分のものとしたのか、ヨブの知ることはエリファズも知っており、ヨブがエリファズたちの思いもよらないことを理解しているのか。エリファズは10節で自分たちが白髪の老人で、ヨブの父より年上で人生に豊かな経験を持つ者で、ヨブに優ると言うのです。
エリファズの第三の疑問は11-12節です。「神の慰めなどは取るに足らない 優しい言葉は役に立たない、というのか。なぜ、あなたは取り乱すのか。なぜ、あなたの目つきはいらだっているのか。」エリファズはヨブを責めています。ヨブの友人たちはヨブに神の慰めを語り、ヨブに優しい言葉を語りました。しかし、ヨブには小さな事だったのです。エリファズはヨブが理性を失い、判断力を失っていると思っています。だからエリファズはヨブに13節で「神に向かって憤りを返し そんな言葉を口に出すとは何事か。」と言い、身の程をわきまえないヨブが自分を正しいと信じ込んでいることを非難するのです。
エリファズの第四の疑問は14-16節です。「どうして、人が清くありえよう。どうして、女から生まれた者が正しくありえよう。神は聖なる人々をも信頼なさらず天すら、神の目には清くない。まして人間は、水を飲むように不正を飲む者憎むべき汚れた者なのだ。」エリファズは四章17-19節で彼が語った持論をもう一度ここで繰り返しています。彼はヨブに人間は生まれながらに汚れた者であり罪深き者であり、正しくも清くもあり得ないと言いました。エリファズはヨブにここでも神に造られた人間は清くも正しくもあり得ないと言います。彼はヨブに持論の人間の不正と汚れを持ち出して、ヨブも同じ人間であり、不正と汚れがあるのだから、身を低くせよと警告しているのです。
そしてエリファズはヨブに17-23節で邪悪な者はいずれ破滅すると彼の応報思想を主張しています。この応報思想はエリファズが神の啓示として示されたものであり、賢者たちが教えてきたものです。そして純粋に彼らの父祖と彼らの土地を通して伝えられてきたものです。
20-23節でエリファズは悪人の一生が恐ろしい暗黒、すなわち死の国の脅威に満ちたものだと言っています。エリファズがヨブに悪人の一生、悪人が陥る悲惨な運命を語るのは、ヨブに非を認めさせようとしているからです。悪人は自分が破滅することが確実だと予知し、苦しむのです。
24-35節でエリファズはヨブに不敬虔な者たちの集いは実を結ばないと主張しています。エリファズはヨブに苦しみと悩みが悪人を脅かし、王のように威嚇を開始すると述べています。エリファズはヨブを想定して悪人について語っているのです。ヨブの激しい言葉はまるで悪人が神に手向かい、全能者に傲慢に振舞っているのと変わりません。悪人が勇者のように厚い盾を持ち、神に突進するようにヨブも神に対抗しようとしています。しかし、悪人は滅ぼされた町、無人となった家、死の国に住まなくてはなりません。権勢も地に落ち、彼の財力は地から消えてしまいます。彼は暗黒である陰府に下ることを逃れられません。エリファズはヨブの自業自得によってヨブの子供たちが滅びたことを暗に言っています。エリファズの応報思想によれば不敬虔であるヨブは自業自得で実を結ぶことなく、子供たちも財産も失い、墓穴を掘ったのです。
十六章と十七章はエリファズに対するヨブの答えです。ヨブは二回目のエリファズの議論を聞いて彼が全くヨブの苦しみを理解していないと知りました。友人たちの議論は彼らの応報思想の擁護であり、ヨブの苦しみへの同情に欠けるものでした。だからヨブは友だちたちの議論を聞けば聞くほど、彼の心が傷つきました。だからヨブは2-3節で友だちたちの議論にうんだりしました。彼らの議論はヨブの心を傷つけるものだったからです。そこでヨブは4‐5節で立場を入れ替えて語ってみたいと言いました。友だちたちがヨブの苦しみを理解するために、言葉の交換では無意味なので、互いの心を交換する以外にないと。
6-17節はヨブの独白です。ヨブは友だちではなく、神に独白しているのです。ヨブは自分の苦しみに目を向けます。神に追跡され、脅かされて、神に訴えても沈黙してもヨブの苦しみは続きました。ヨブは自身の苦しみだけではなく、友人も妻も彼を理解してくれないことに疲れ果てました。8節は読んでも今一つ理解できません。ヨブに敵対する証人がいるのです。その証人はヨブに問題があると攻撃するのです。その証人とは苦しみです。「わたしの姿」です。それが証人となり、ヨブに罪があるのではないかとヨブを揺さぶるのです。
ヨブは9-17節でヨブを苦しめる敵の背後に神がおられると言います。ヨブは神の無慈悲によって引き裂かれているのです。神は悪を行う者にヨブを引き渡されます。ヨブは平穏に暮らしていたのに突然神はヨブとヨブの子供たちと財産を打ち砕かれました。神は弓を射る者にヨブを包囲させ、容赦なくヨブのはらわたを射抜かれました。15節の粗布は大きな悲しみの時に身に付けるものです。ヨブ人々は大きな悲しみによって落胆し、気力を失いました。16節の死の闇はヨブに死の兆候が表れているのです。それでもヨブは神に17節で自分の無実を、彼の祈りの清さを訴えています。
17節で自分の無実を確認したヨブは18-22節で神とヨブとの仲裁者を求めています。ヨブは大地が神に流された無実のヨブの血を叫び、神の裁きを要求しています。今悲惨な状況にあるヨブの潔白を弁護してくれる者を求めています。この弁護者がヨブの友となり、神に立ち向かってくれることをヨブは願っているのです。
十六章22節から十七章1節でヨブは死が目前に迫っていると思っています。ヨブは神に自分の無実を訴えても、神が答えるまでに死んでしまうのではないかと思っているのです。神に見放された人としてヨブは死に、墓に葬られると思っているのです。
ヨブは2-4節で死を目前にして人々に嘲られたまま死ぬことができないと思っています。ヨブは彼を嘲る人々に対してヨブの正しさを保証してくれる者を願っています。そしてヨブは嘲る人々が社会的な栄誉を得られないようにわたしにして下さいと言っています。
ヨブは5-16節で絶望の中で死を覚悟しています。ヨブは人々に嘲られ、神に呪われた者として笑いの種になっています。そのように導かれたのは神です。ヨブの目は苦悩で見えなくなり、手足は影のようになりました。これは神が黙認されたからです。ヨブは神の正義が崩壊し、友人たちが説く応報思想は意味がなくなったと思っています。だから8節でヨブはこの事実に正しい人、罪のない人よ、驚けと言うのです。8節後半から9節は応報思想の友人たちの考えです。彼らには神を無視する者に敵対し、神に従う人がその神の道を守り、手の清い人が力を増し加えるのは当然です。しかし、彼らはヨブの苦難を理解できません。
ヨブは10-16節でわたしをよく見てくれと訴えています。ヨブは友だちたちに彼らの応報思想ではなく、ヨブの現実に目を向けてくれと訴えています。ヨブは11節で私の人生は終わったと言っています。終わったということは彼の心の願いも企てもすべてが消滅したということです。ヨブの終の棲家は陰府です。この世の光は失せて闇となります。ヨブの願いは闇に覆われ、ヨブは死にゆく者の国に横たわるのです。死者には家族の交わりがありません。だから墓穴は死者の身近な存在となります。死ねば蛆がわき、土となります。だからヨブは蛆虫が我が母、わが姉妹、身近な存在であると言うのです。ヨブはそう独白してもそれが望みではありません。彼の望みは神と応答することです。神の御前に生きることです。ヨブは「誰がわたしに希望を見せてくれるのか」と言っています。
ヨブは人間の現実としてはこの世に終わりがあり、人は皆陰府に下るという現実を知っています。しかし、ヨブはそれに満足できません。陰府を我が家としても、そこに何の慰めもないからです。ヨブは苦しみ、神に訴え、神との交わりに生きることを願っています。たとえヨブは今死んでも、陰府に下っても、神がヨブを神との交わりに回復してくださることを願っています。ヨブの命は神がヨブに現れ、答えてくださることにかかっています。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、『ヨブ記』の第十五章から十七章を学べる機会を得ましたことを感謝します。
ヨブの苦難を通してわたしたちが神との交わりを持つことの大切さを学びました。
ヨブ同様に、わたしたちも死ぬ身です。しかし、わたしたちも神との交わりを切に願っています。どうかわたしたちの仲保者キリストによって神との交わりを回復してください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨブ記説教07 主の2025年10月5日
18
シュア人ビルダドは答えた。
いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。
まず理解せよ、それから話し合おうではないか。
なぜ、わたしたちを獣のように見なすのか。
その目に愚か者とするのか。
怒りによって自らを引き裂く者よ
あなたのために地が見捨てられ
岩がその場から移されるだろうか。
神に逆らう者の灯はやがて消え
その火の炎はもはや輝かず
その天幕の灯は暗黒となり
彼を照らす光は消える。
彼の力強い歩みも弱まり
自分自身の策略に倒れる。
足は網に捕らえられ
落とし穴に踏み込む。
かかとは罠にかかり
仕掛けられた網に捕まる。
綱が地に隠されて張り巡らされ
行く道に仕掛けが町伏せている。
破滅が四方から彼を脅かし
彼の足を追い立てる。
その子は飢え
妻は災いに遭う。
死の初子が彼の肢体をむしばみ
その手足をむしばむ。
彼はよりどころとする天幕から引き出され
破滅の王に向かって一歩一歩引き寄せられる。
彼の天幕には他人が住み
その住みかには硫黄がまかれる。
下ではその根が枯れ
上では枝がしおれる。
彼の思い出は地上から失われ
その名はもう地の面にはない。
彼は光から暗黒へと追いやられ
この世から追放される。
子孫はその民の内に残らず
住んだ所には何ひとつ残らない。
未来の人々は彼の運命に慄然とし
過去になった人々すら
身の毛のよだつ思いをする。
ああ、これが不正を行った者の住まい
これが神を知らぬ者のいた所か、と。
19
ヨブは答えた。
どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ
言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
侮辱はもうこれで十分だ。
わたしを虐げて恥ずかしくないのか。
わたしが過ちを犯したのが事実だとしても
その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。
ところが、あなたたちは
わたしの受けている辱めを誇張して
論難しようとする。
それならば、知れ。
神がわたしに非道なふるまいをし
わたしの周囲に砦を巡らせていることを。
だから、不法だと叫んでも答はなく
救いを求めても、裁いてもらえないのだ。
神はわたしの道をふさいで通らせず
行く手に暗黒を置かれた。
わたしの名誉を奪い
頭から冠を取り去られた。
四方から攻められてわたしは消え去る。
木であるかのように
希望は根こそぎにされてしまった。
神はわたしに向かって怒りを燃やし
わたしを敵とされる。
その軍勢は結集し
襲おうとして道を開き
わたしの天幕を囲んで陣を敷いた。
神は兄弟をわたしから遠ざけ
知人を引き離した。
親族もわたしを見捨て
友だちもわたしを忘れた。
わたしの家に身を寄せている男や女すら
わたしをよそ者と見なし、敵視する。
僕を呼んでも答えず
わたしが彼に憐れみを乞わなければならない。
息は妻に嫌われ
子供にも憎まれる。
幼子もわたしを拒み
わたしが立ち上がると背を向ける。
親友のすべてに忌み嫌われ
愛していた人々にも背かれてしまった。
骨は皮膚と肉とにすがりつき
皮膚と歯ばかりになって
わたしは生き延びている。
憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ
神の手がわたしに触れたのだ。
あなたたちはわたしの友ではないか。
なぜ、あなたたちまで神と一緒になって
わたしを追い詰めるのか。
肉を打つだけでは足りないのか。
どうか
わたしの言葉が書き留められるように
碑文として刻まれるように。
たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され
いつまでも残るように。
わたしは知っている
わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも
この身をもって
わたしは神を仰ぎ見るであろう。
このわたしが仰ぎ見る
ほかならぬこの目で見る。
腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。
「我々が彼を追い詰めたりするだろうか」と
あなたたちは言う。
この有様の根源がわたし自身にあると
あなたたちは言う。
あなたたちこそ、剣を危惧せよ。
剣による罰は厳しい。
裁きのあることを知るがよい。
ヨブ記第十八章1節-第十九章29節
説教題:「わたしを贖う者は生きたもう」
本日はヨブ記の第十八章1節から第十九章29節の御言葉を学びましょう。ヨブと友人たちとの議論は二回り目に入りました。本日はシュア人ビルダドとヨブが激しい議論をしています。ビルダドはヨブに十八章2節で「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。」と言っています。ビルダドはヨブと二人の友人たちの議論を聞いていて決着がつかないことにいら立ちを覚えています。彼はヨブとの議論に終止符を打ちたいのです。そこでビルダドは議論に終止符を打つために、ヨブに「まず理解せよ、それから話し合おうではないか」と提案します。ビルダドにとって理解する能力こそ人間の条件です。だから互いに理解し、議論しょうと、ビルダドは提案するのです。
ビルダドはヨブに十七章4節で神が友人たちを知的に目覚めないようにされたとヨブが論じたことを取り下げてほしいのです。そこでビルダドはヨブを3節で「なぜ、わたしたちを獣のように見なすのか。その目に愚か者とするのか。」と非難するのです。ヨブが十六章9-10節で友人たちをまるで獣のように述べたこと、あるいは十二章7節でヨブが友人たちに獣に尋ねよ、教えてくれるだろうと言って、彼らを獣と同等に扱ったこと、これは人間と獣とは違うと考えているビルダドにとっては愚か者と見なされる屈辱であったのです。
4節の「怒りによって自らを引き裂く者」とはヨブのことです。ビルダドには友人たちに向かって不遜な言葉を語り、神に向かって不遜に振舞うヨブは、彼の怒りで彼を引き裂いているのです。ビルダドにはヨブの苦しみは自業自得でした。
5節の「神に逆らう者」とは悪人のことです。ビルダドはヨブに彼の応報思想によって5-14節で悪人の行く末の悲惨について説き証しします。悪人の灯、光は消え、6節の「天幕」は悪人と彼の家族です。神が彼らの光を消されるので、彼らは闇となります。悪人とその家族には恐ろしい運命が待ち受けているということです。7-10節で悪人とその家族に待ち受けている恐ろしい災難を猟師が獣を罠で捕らえるたとえを用いて述べています。その結果11-14節で悪人とその家族は破滅が四方から襲い、脅かし、彼らを陰府の死へと追い立てると述べています。12節の「その子は飢え 妻は災いに遭う」とはヨブの妻と子らのことでしょう。14節の「破滅の王」とは神話における陰府の死の王のことです。
ビルダドはヨブに15-19節で悪人の子孫はこの地上から消え去ると述べています。悪人が住んでいるところは他人が住む所となり、彼の記憶は消し去られ、陰府へと追いやられ、彼の子孫もこの地上から消え去るのです。20-21節はビルダドの総括の言葉です。ビルダドは完璧に悪人の消滅を述べて、応報思想を説いているのです。
十九章はヨブの応答です。ヨブはビルダドに応答して2節で「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ 言葉をもってわたしを打ち砕くのか」と反論します。ヨブにとって理解と同情心を欠いたお説教ほど苦痛なものはありません。友人たちが言葉を重ねるごとにヨブの魂の苦しみが増すのです。ヨブは耐えられません。だから3節でヨブは友人たちに言うのです。「侮辱はもうこれで十分だ。わたしを虐げて恥ずかしくないのか。」
4節の「過ち」は無自覚に犯す罪のことです。これは人間ならだれでも犯します。十三章23節でヨブは主なる神に「罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪咎を示してください」と訴えています。神が責任を問うのは倫理的な罪です。十戒の違反です。それは個人にとどまる罪です。親の罪を子が負うことはありません。ヨブは自分の罪を認め、その責任を負う覚悟はもっています。しかし、ビルダドや友人たちは罪をヨブだけでなく、ヨブの家族や子孫まで負わせようとしています。
そこでヨブは友人たちに6節で「それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし 私の周囲に砦を巡らしていることを」と訴えました。ヨブは友人たちにはっきりと神がヨブを不当に扱っていると言いました。ヨブは神の不当な苦しみの囲いの中に入れられているのです。だからヨブは友人たちに見当外れな議論をしないでくれと言うのです。
7-12節は神の不当な扱いです。ヨブが神に「不法だ」と叫んでも、神は沈黙されています。ヨブにとってこの世は法と正義のない状態です。だからヨブが神に救いを求めても、公義を行われるべきである神が沈黙されているのです。ビルダドは悪人が神に道を塞がれ、前途に光を奪われ、暗黒の陰府の死へと導かれると説きました。しかしヨブは神によって行く手を塞がれ、神はヨブの前途に陰府の死を、暗闇を置かれているのです。ヨブは敵に取り囲まれて攻撃される町に自分をたとえています。ヨブは望みのない木です。神が引き抜かれて、ヨブの人生は終わるのです。神はヨブに怒りを燃やされ、ヨブを敵視されています。そして今敵軍が町を囲み攻め立てるように、神はヨブを攻め立てられているのです。
続いてヨブは13-19節で神に不当に扱われているだけではなく、身内や知人に疎外され、孤独であることを訴えています。これも神がヨブに与えられた不当な苦難でありました。ヨブは重い皮膚病を煩い、身内からも友人からも疎外されました。集団社会からも疎外されました。僕たちは主人のヨブを無視し、仕えなくなりました。ヨブが口から吐く息は臭いと、妻にも家族にも嫌われました。ヨブは孤独で、骨と皮だけでかろうじて生きているという状態でした。
孤独と悲嘆と絶望の中でヨブは友人たちに21-22節で憐れみを乞い求めています。「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ 神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって わたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか。」ヨブは憐れみを二度繰り返しています。ヨブの苦難は神の御手によるものです。ヨブは彼の三人の友に、神と一緒になってわたしを苦しめないでくれと願っています。
23-27節でヨブはヨブを贖う者への期待を述べています。ヨブ記のひとつの盛り上がりの箇所です。23節と24節でヨブは自分の言葉が碑文として書き留められ、いつまでも残るように強く願っています。それはヨブが自分の正しさを確信しているからです。今神は沈黙されているけれども、神が聞き届けてくださらないヨブの言葉を長く岩に刻んでおきたいと願っているのです。
そして25-27節の有名な御言葉にわたしたちは出会うのです。「わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようともこの身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」「わたしは知っている」とはわたしは確信するということです。ヨブは信じているのです。「わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。」ということです。ヨブはバビロン捕囚の民のように、理由のない苦難から神が彼を解放してくださるのを待ち望んでいるのです。ヨブにとって彼を贖う神は命ある、生きた神です。矛盾しますが、ヨブは彼を苦しめる神を、彼を贖う生きた神として期待しているのです。神以外にヨブを苦難から解放する者はいません。
昔からこの個所はキリスト預言として読まれました。「贖う者」はキリストです。キリストの来臨と再臨として読まれました。ヒエロニムスはラテン語訳聖書で25-26節を次のように翻訳したのです。「なぜなら、私は知っている。わが贖い主は生きており、最後の日に私は地から甦り、再びわが皮膚をまとい、わが肉において神を見るであろう。」ヨブは理不尽な苦難を神は放置することなく、彼を贖うために天から陰府まで降って来て下さると、期待するのです。このヨブの希望はわたしたちキリスト者の希望です。わたしたちも死後、自分たちを復活の主キリストが贖ってくださると信じています。ヨブの望みがかなえられるためにはキリストの復活が必要です。キリストの復活によってわたしたちが再び体が与えられ、肉眼でもって贖い主である神、キリストを仰ぎ見るのです。
ヨブは28-29節で友人たちがヨブを追及していることは、ブーメランとなって友人たちに返ってくると述べています。ヨブは友人たちとの議論を終えたいと思っています。友人たちはヨブの自業自得だと思っています。しかし、ヨブが主張することが正しければ、彼らは罪なき者に罪を被せたのですから、神の裁きを免れないと、ヨブは警告します。本日はここまでです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、『ヨブ記』の第十八章から十九章を学べる機会を得ましたことを感謝します。
ヨブが苦難を通して贖い主なる神への信仰に至ることができたことをわたしたちは学びました。
ヨブのように、わたしたちキリスト者もこの世に苦難があり、最後は死です。しかし、復活の主イエス・キリストの贖いのゆえに、ヨブ同様にわたしたちにも新しい命に生きる希望のあることに感謝します。どうかわたしたちも贖い主なるキリストは生きておられると心から信じ確信させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨブ記説教08 主の2025年10月12日
20
ナアマ人ツォファルは答えた。
さまざまな思いがわたしを興奮させるので
わたしは反論せざるをえない。
あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。
明らかにすることを望んで、答えよう。
あなたも知っているだろうが
昔、人が地上に置かれたときから
神に逆らう者の喜びは、はかなく
神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない、
たとえ彼が天に達するほど
頭が雲に達するほど上って行っても
自分の汚物と同様、永久に失われ
探す者は、「どこへ行ってしまったのか」
と言わなければならなくなる。
夢のように飛び去り
夜の幻のように消え失せ
だれも見いだすことはないだろう。
彼を見ていた目はもう彼を見ることなく
彼のいた所も二度と彼を見ない。
その子らは貧しい人々に償いをし
子孫は奪った富を反済しなければならない。
若さがその骨に溢れていたが
それも彼と共に塵の上に伏すことになろう。
悪が口に甘いからと
舌で抑えて隠しておき
惜しんで吐き出さず
口の中に含んでいれば
そのパンは胃の中に入って
コブラの毒と変わる。
呑み込んだ富は吐き出さなければならない。
神は彼の腹からそれを取り上げられる。
彼の飲んだのはコブラの毒。
蝮の舌が彼を殺す。
彼は蜂蜜と乳脂の流れる川の
その流れを見ることはない。
労して獲たものをも呑み込まずに返し
商いで富を得ても楽しむことはない。
なぜなら、貧しい人々を虐げ見捨て
自ら建てもしない家を奪い取ったから。
その腹は満足することを知らず
欲望から逃れられず
食い尽くして、何も残さない。
それゆえ、彼の繁栄は長く続かず
豊かさの極みにあって欠乏に陥り
すべて労苦する手が彼を襲う。
腹を満たそうとすれば
神は燃える怒りを注ぎ
それをパンとして彼に浴びせかける。
鉄の武器から逃れても
青銅の弓が彼を射抜き
矢は彼を貫いて背中に出る。
それは胆汁にぬれて光り
神の威力が彼を圧倒する。
暗黒が彼の宝を待ち構え
吹き起こされたのでもない火が彼をなめ尽くし
天幕に残っているものをも滅ぼし尽くす。
天は彼の罪を暴き
地は彼に対して立ち上がる。
神の怒りの日に、洪水が起こり
大水は彼の家をぬぐい去る。
神に逆らう者が神から受ける分
神の命令による嗣業はこれだ。
21
ヨブは答えた。
どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。
聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。
我慢して、わたしに話させてくれ。
わたしが話してから、嘲笑うがいい。
わたしは人間に向かって訴えているのだろうか。
なぜ、我慢しなければならないのか。
わたしに顔を向けてくれ。
そして驚き、口に手を当てるがよい。
わたし自身、これを思うと慄然とし
身震いが止まらない。
なぜ、神に逆らう者が生き永らえ
年を重ねてなお、力を増し加えるのか。
子孫は彼らを囲んで確かに続き
その末を目の前に見ることができる。
その家は平和で、何の恐れもなく
神の鞭が彼らに下ることはない。
彼らの雄牛は常に子をはらませ
雌牛は子を産んで、死なせることはない。
彼らは羊の群れのように子供を送り出し
その子らは踊り跳ね
太鼓や竪琴に合わせて歌い
笛を吹いて楽しむ。
彼らは幸せに人生を送り
安らかに陰府に赴く。
彼らは神に向かって言う。
「ほうっておいてください。
あなたに従う道など知りたくもない。
なぜ、全能者に仕えなければならないのか。
神に祈って何になるのか。」
だが、彼らは財産を手にしているではないか。
神に逆らう者の考えはわたしから遠い。
神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い
神が怒って破滅を下したことが何度あろうか。
藁のように風に吹き散らされ
もみ殻のように
突風に吹き飛ばされたことがあろうか。
神は彼への罰を
その子らの代にまで延ばしておかれるのか。
彼自身を罰して
思い知らせてくださればよいのに。
自分の目で自分の不幸を見
全能者の怒りを呑み干せばよいのだ。
人生の年月が尽きてしまえば
残された家はどうなってもよいのだから。
「人が神に知識を授けえようか。
彼は高きにいまし、裁きを行われる」と言う。
ある人は、死に至るまで不自由なく
安泰、平穏の一生を送る。
彼はまるまると太り
骨の髄まで潤っている。
また、ある人は死に至るまで悩み嘆き
幸せを味わうこともない。
だが、どちらも塵に横たわれば
等しく、蛆に覆われるではないか。
あなたたちの考えはよく分かっている。
わたしに対して不法にも悪を企んでいるのだ。
「あの高潔な人の館はどうなり
この神に逆らう者の住まいとした天幕は
どうなったのか」とあなたたちは問う。
通りかかる人々に尋ねなかったのか。
両者の残した証しを
否定することはできないであろう。
悪人が災いの日を免れ
怒りの日を逃れているのに
誰が面と向かってその歩んできた道を暴き
誰がその仕業を罰するだろうか。
彼は葬式の行列によって運ばれ
その墓には番人も立ち
谷間の土くれさえ彼には快さそうだ。
人は皆彼の後に続き
彼の前にも、人は数えきれない。
それなのに空しい言葉で
どのようにわたしを慰めるつもりか。
あなたたちの反論は欺きにすぎない。
ヨブ記第二十章1節-第二十一章34節
説教題:「現実は不公平」
本日はヨブ記の第二十章1節から第二十一章34節の御言葉を学びましょう。ヨブと友人たちとの議論は二回り目に入り、本日のヨブとナアマ人ツォファルとの議論が二回り目の最後の議論です。ナアマ人ツォファルはヨブがビルダドに十九章29節で「あなたたちこそ、剣を危惧せよ。剣による罰は厳しい。裁きがあることを知るがよい」と言って、三人の友人たちに警告した言葉を聞きました。ナアマ人ツォファルはヨブに答えて、2-3節で次のように言いました。「さまざまな思いがわたしを興奮させるので わたしは反論せざるをえない。あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。明らかにすることを望んで、答えよう」。ツォファルはヨブの弁論を聞き捨てにできませんでした。彼はヨブが無遠慮に神の剣の脅しが三人の友人たちに向けられていると言うのを聞いて、胸騒ぎと焦りを覚えました。彼はヨブに反論せざるを得ませんでした。ヨブがツォファルの応報思想を侮蔑し非難していると思ったからです。
3節後半の「明らかにすることを望んで、答えよう」は新改訳聖書2017では「悟りを与える霊がわたしに答えを促すのだ」と訳しています。ツォファルは彼の霊が彼に答えさせると言っているのです。それをわたしたちの聖書は「明らかにすることを望んで」と意訳しているのです。
ツォファルは応報思想の伝統主義に従って、すなわち昔の人の言い伝えに従って4-11節で彼の応報思想を主張しています。5節の「神に逆らう者」は悪人のことです。同じく「神を無視する者」は不敬虔な者のことです。ツォファルは悪人の繁栄は一瞬であり、不敬虔な者の楽しみはつかの間であり、悪人も不敬虔な者も彼らの滅びは間近であると主張します。5節がツォファルの応報思想です。
ツォファルは6-9節で5節の彼の応報思想を展開し、悪人の繁栄と驕りが滅びる様を描いて見せるのです。彼は言います、悪人は己を神の如くに驕り高ぶり、繁栄の極みにあろうとするが、彼が腹から出す汚物のように、彼の栄華は永久に消え去り、後の人が彼の栄華を探してもこの地上に残されていないと。また悪人の栄華は夢幻のように消え去り、この地上に悪人の痕跡は跡形もなくなると。そして悪人の子孫たちが彼の後始末をするのだと。子孫たちは悪人の罪を償い、不正に蓄えた富を返すことになると。11節の「骨」は生命の力の座のことです。悪人は若い時は生き生きとして力に溢れているが、悪人と共にその若さも陰府に、塵に下ることになるのです。
続いてツォファルは12-18節で悪人が悪行によって転落する様を食べ物のたとえで次のように語っています。悪が蜜のように甘いからと言って、悪人が彼の内に隠し持っているなら、それは悪人の内でコブラの毒となると。悪でもって不正にため込んだ富は腹から吐き出され、神が悪人から取り上げられると。そして悪人の悪は彼の内でコブラの毒となり、悪人は自分を自分で滅ぼすことになると。悪人は子孫の繁栄を見ることができず、神の豊かな祝福に与ることもないと。悪人は不正な稼ぎで富を得るので、その富を心から楽しむことができないと。
ツォファルは19-23節で悪人が繁栄の盛りで困窮に陥る様を述べています。彼は言います、悪人は貧しい人々を虐げて見捨て、彼らの生活をつぶして、彼らの家を奪うと。悪人の貪欲は満たされないと。ですから悪人は人から奪い取り、何も残さないと。そして悪人は豊かさの極みで、突然困窮に陥り、あらゆる災難が彼に降りかかり彼が蓄えた財産が消滅すると。
ツォファルは24-29節で悪人はとどめを刺されると述べています。悪人は恐ろしい神の裁きに遭います。神が悪人にとどめを刺すために行動されるからです。だから25節でツォファルは「神の威力が彼を圧倒する」と言うのです。神の武器は「鉄の武器」と「青銅の弓」です。神が積極的に行動され、悪人にとどめを刺されるので、悪人に恐怖が襲うのです。神は悪人の家と財産を滅ぼし尽くされます。26-27節でツォファルは神の別の武器である「暗黒」と「天からの火」が悪人の家の残りの者に下り、彼の子孫をも滅ぼし尽くすと述べています。そして天と地が応報原理を貫徹するために、悪人の罪を暴き、地が神の審判の日に洪水によって悪人の家をこの地上から消し去り、彼の子孫を滅ぼすと言っています。
29節は彼の結論です。悪人は滅びるという応報原理が悪人の神から受ける分であり、相続であると、ツォファルは述べています。神から受ける分と相続は神の民にとって神の祝福ですが、悪人にとっては呪いであるとツォファルは述べているのです。このようにツォファルは彼の応報思想を、悪人は滅びるということを一貫して擁護しているのです。
二十一章はヨブの反論です。ヨブはツォファルの応報思想に答えています。2-6節でヨブは三人の友人たちに「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ」と言っています。友人たちはヨブの言葉に耳を傾けないで、自分たちの応報思想をヨブに押し付けていたからです。ヨブは三人の友人たちの応報思想をストレートに反論しました。
ヨブは三人の友人に3節でヨブが話している時に、割り込まないでくれと言っています。そして4節でヨブは「わたしは人間に向かって訴えているのだろうか。なぜ、我慢しなければならないのか」と述べています。ヨブがこれまで嘆き訴えて来たのは友人たちを相手にしているのではありません。ヨブは神が問題であると言っているのです。ヨブは友人たちとの議論のすれ違いを言っているのです。ヨブは悪人の繁栄は神の問題であり、友人たちの応報思想は人間の問題です。だから友人たちが真剣にヨブに向き合うならば、彼らは口を閉じるほかないのです。
ヨブは6-16節で悪人の繁栄が神の問題であることを明らかにしようとしています。ツォファルの応報思想に反論し、ヨブは悪人が繫栄しているのに、神は悪人を裁かれないという事実がヨブに恐れと身震いを与えていると言っています。ヨブには神の正義が崩壊しているとしか思えないからです。
7-13節でヨブはツォファルの応報思想に対する反証を挙げています。神の裁きがなく悪人は幸福に生きています。悪人の子孫たちも繫栄しています。悪人はこの世で平和に暮らし、神の裁きもなく、彼の子孫の繁栄を目にしています。悪人の財産である家畜も子を産んで繁殖し、死産がありません。悪人は人生を楽しみ、幸福に生き、安らかに死を迎えています。悪人は人生の終わりに苦しむこともなく、陰府にくだっています。これはツォファルや他の二人の友人が主張する応報思想に合致しません。
14-16節は不敬虔な者たちの声です。彼らは公然と主なる神を無視して生きているのです。主への服従の道を捨てています。彼らにとって神は役立たずで、神への祈りは無意味です。それでも不敬虔な者たちは神に裁かれることなく、豊かな財産を持っています。この現実をヨブは認めても、16節後半でヨブは「神に逆らう者の考えはわたしから遠い」と告白しています。これはヨブが彼ら仲間ではないかと友人たちが疑っているからです。
ヨブは17-21節で神が悪人たちや不敬虔な者たちに報復されることを願っています。それはヨブの目にこの世で神が悪人や不敬虔な者に災いを下され、懲らしめられることがないからです。ヨブが突風によって子供たちを失ったように、悪人たちが災いに遭うことはありません。だからヨブは神に応報原理によって悪人たちに災いを下されるように願うのです。悪人への第一の災いは悪人たちが吹き飛ばされることです。第二の災いは悪人たちが子孫に残した財産を、子孫が悪人たちの償いに使うことです。第三の災いは悪人が全能者である神の怒りの杯を呑み干すことです。これはヨブの非現実的な願いです。実際のこの世においてはヨブの願い通りにはいかないのです。
なぜならこの世の現実は不公平だからです。だからヨブは22-26節でこの世の現実は不公平だと訴えるのです。この世の現実が不公平であることは、友人たちの応報思想が崩壊しているということです。友人たちは神が悪人を滅ぼすと主張しますが、ヨブは人は不公平に人生を送ると述べています。ある人は一生を安泰、平穏に過ごします。多くの財産を持ち、子孫も繁栄します。ところがある人はヨブのように死ぬまで悩みと嘆きの中で過ごします。幸せを味わうことがありません。しかし死は二人に平等に訪れるのです。
ヨブは27-33節で悪人がこの世で富者として栄えるだけではなく、その栄誉は死後にも続くと述べています。ヨブは友人たちが応報思想を自分に押し付けようとしていることを知っています。友人たちは神の裁きが下れば、悪人は滅び去り、彼らの地上における痕跡は消えると主張しました。しかしこの世の人々の見解は違います。悪人や不敬虔な者がこの世に残した証しを否定できません。悪人は災いの日を逃れ、神の裁きの日を逃れています。誰が悪人の歩んできた道を暴き、彼を罰する者がいるだろうかと、ヨブは言います。悪人は死後も栄誉を得て、豪華に葬られます。彼は葬られた墓でも威厳を保っています。応報思想のように悪人が神に裁かれ最後は悲惨であるということは、現実にはありません。
だからヨブは34節で3人の友だちの応報思想を批判して、こう言っているのです。「それなのにむなしい言葉でどのようにわたしを慰めるつもりか、あなたたちの反論は欺きにすぎない」と。ヨブが述べた現実の不公平を、応報思想を主張する三人の友人たちは見ようとしませんでした。友人たちの応報思想は現実に立脚したものではなく、彼らの願望に立脚したものだったからです。ヨブは二十一章でヨブの友人たちの応報思想を現実の不公平から真正面に批判しました。そして彼らの応報思想が彼らの願望に過ぎにことをはっきりと批判したのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、『ヨブ記』の第二十章から二十一章を学べる機会を得ましたことを感謝します。
ヨブがこの世の不公平な現実を見て、友人たちの応報思想が偽りであることを見抜きました。
ヨブのように、わたしたちもこの世の不幸な現実を見て、応報思想の偽りを見抜かせてください。復活の主イエス・キリストのみに、わたしたちの目を常に向かせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。