詩編説教 001                 主の2010年 425

 

 

 

 いかに幸いなことか

 

 神に逆らう者の計らいに従って歩まず

 

 罪ある者の道にとどまらず

 

 傲慢な者と共に座らず

 

 主の教えを愛し

 

 その教えを昼も夜も口ずさむ人。

 

 その人は流れのほとりに植えられた木。

 

 ときが巡り来れば実を結び

 

 葉もしおれることがない。

 

 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 

 

 

 神に逆らう者はそうではない。

 

 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。

 

 神に逆らう者は裁きに堪えず

 

 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

 

 

 

 神に従う人の道を主は知っていてくださる。

 

 神に逆らう者の道は滅びに至る。

 

                    詩編第1編-6

 

 

 

 説教題:「幸せな人」

 

 本日より月に一度、詩編の御言葉を学びましょう。わたしたちの教会は、昨年4月に教会設立しました。そして、東部中会より援助を受けないで、自分たちの献金で牧師とその家族を支え、教会を支えていきたいと願っています。

 

 そのためにわたしたちに何が必要であるかを、これまで小会、全員懇談会、会員総会等を通して話し合ってきました。それをまとめますと、二つです。教会の霊的深化と伝道です。

 

教会の霊的深化は、一言で言えば、「礼拝の充実」です。礼拝を豊かにし、そこから伝道の力が生まれ、それによってわたしたちの願いを実現する、その道筋を明らかにしていくために、礼拝の後、午後に全員懇談会を開き、「礼拝の充実」というテーマで懇談の時を持ちます。

 

ですから、今朝の礼拝説教を通して、実りある懇談になればと、わたしは願っています。

 

 わたしは、「霊的深化」、「礼拝の充実」、「礼拝の豊かさ」の源は、詩編の御言葉にあると思います。

 

 詩編は、古代イスラエルの神の霊感によって生まれた祈りと賛美の書です。5巻、150篇から成っています。

 

 ある詩編注解者は、詩編には二つの顔があると言います。神の御言葉としての顔と礼拝式文としての顔です。

 

詩編は神の御言葉であり、同時にダビデ王の賛美であります。そして、神を礼拝し、賛美し、祈るために、古代イスラエルの礼拝とキリスト教会の礼拝の中で式文として使われてきたのです。詩編を、教会の礼拝の中で、家庭と個人の礼拝に生かすことができればと願います。具体的には、詩編を学ぶことを通して、礼拝の中で詩編を賛美する喜びを共にできればと願っています。

 

 宗教改革者カルヴァンは、彼の詩編注解書の中で、詩編について次のように述べています。「わたしは、いつも詩編を人間の魂のあらゆる部分の解剖図であると言ってきた」と。それは、詩編が人間の心を写す鏡だからです。聖霊なる神が、わたしたちに、たとえばダビデ王や詩人たちを通して、人間のあらゆる悩み、悲しみ、恐れ、疑い、喜び、願い、望み、慰め、惑い等を描き出されているのです。カルヴァンは、詩編がわれわれの心を深く揺さぶることを語っています。

 

 さて、詩編第1篇を学びましょう。詩編第1篇は、詩編全体の序文です。一言で言えば、詩編第1篇は、詩編全体の顔であります。人間の顔はその人間の存在すべてを要約していますね。詩編も同じです。

 

 詩編全体がわれわれに伝えようとしているのは、人間を祝福する神と神に祝福された人間です。

 

 1節に「いかに幸いなことか」とありますね。ヘブライ語の聖書は、「祝福された、その人は」となっています。ニューイングリシュバイブルは、「ハッピーイズザマン」、「幸福である、その人は」と訳しています。

 

 4節に「神に逆らう者はそうではない。」とありますね。ヘブライ語聖書は、「そうではない、悪者は」となっています。

 

 神に祝福された、幸せな人が、そうではない神に逆らう者と比較され、論じられています。

 

 詩編第1篇がわれわれに伝えていることは、神の御前に生きる人間の人生は、二つに一つであるということです。神に祝福された、幸いな人の人生と神に呪われた、神に逆らう者の滅びの人生です。

 

 1節、4節、6節の「神に逆らう者」は、ヘブライ語は「悪者」です。誰の目にも神の命令に背いている者であることが明らかなので、わたしたちの日本語訳聖書は、「神に逆らう者」としました。

 

 神に逆らう者を、預言者イザヤは、イザヤ書572021節に次のように預言しています。「神に逆らう者は巻き上がる海のようで 静めることができない。その水は泥や土を巻き上げる。神に逆らう者に平和はないと わたしの神は言われる」。

 

 神に逆らう者は、1節と5節に「罪ある者」「傲慢な者」と言い換えられています。「罪ある者」は、「罪人たち」です。的を外れた生き方をしている者たちです。「傲慢な者」は「嘲る者」です。誇りと高ぶりに左右され、聖なることと正しいことを馬鹿にしている者です。

 

 詩人は、1節に宣言しています。神の御前にハッピーマン、幸せな人は、神に逆らう者と相談をしませんと。

 

「計らい」という言葉を、今日の言葉に置き換えますと「カンセリング」です。相談、助言です。だから、神に祝福された、幸せな人は、常に神の助言に耳を傾け、神に逆らう者を相談相手にしません。的外れな生き方をする人の道を歩きません。神の清さと正しさを馬鹿にする傲慢な人と同席しません。

 

異邦人のためにギリシャ語に訳された旧約聖書、70人訳聖書は、「計らい」というヘブライ語に「集い」、すなわち、集会を表すギリシャ語を当てはめました。そして、70人訳聖書は、初代キリスト教会の礼拝に用いられていました。

 

 だから、1節の御言葉を、初代教会のキリスト者たちは、神を敬い礼拝するキリスト者の道を教えていると理解したでしょう。

 

神を敬う者は、神の命令に背いて偶像礼拝する者らの集会に出席しないし、的外れな生き方をする者らの不道徳な道を歩まないし、神の聖と正しさを踏みにじる者たちと同席しないと。

 

 2節は、幸せな人の、神に祝福されている、その源を指し示しています。「主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。」

 

「主の教え」とは、神の律法です。「愛し」とは、喜ぶ生活です。神の律法を愛し喜ぶ生活に、幸せな人の、神に祝福される源があります。「口ずさむ」は、「思いめぐらす」とも訳すことが可能なことばです。

 

詩人がわれわれに伝えているメッセージとは、こうです。主なる神は、御自身の御言葉に、約束に忠実なお方です。神の律法は神の御心であり、そこに希望と願いを向ける者に失敗はあり得ないと。

 

3節は、神と幸せな人との豊かな命の交わりを述べています。

 

「流れのほとり」は、灌漑用水路の水のことでしょう。灌漑用水路の水によって豊かな実りを約束されている木のように、幸せな人は神との生きた交わりによって何をしても栄えるのです。

 

それに対して4節は、神に逆らう者の人生の空しさを述べています。

 

「もみがら」は、一時的な空しい幸せを表しています。古代のイスラエルの民は、麦の脱穀を四方から風が吹く小高い丘の上でしたそうです。殻が風に飛ばされていく姿を、神に逆らう者の人生に譬えています。彼らの不幸は、目先のものに人生の楽しみと喜びを求めて、永遠の命を見失っていることです。

 

だから、風が吹き籾殻が飛ばされるように、突然神の裁きが彼らに来れば、彼らは滅び、彼らの喜びと楽しみは風に吹かれる籾殻のようにむなしく消え去るのです。

 

5節は、神に逆らう者と罪ある者たちが神を敬う者たちの集会に出席し続けることができない理由を述べています。

 

「神に従う人の集い」は、定例の集会のことです。主日公同礼拝のことです。そこで主は、毎週礼拝者たちを集められ、彼らに罪の告白と悔い改めを求められます。礼拝は、神の裁きの前での集会であるからです。だから、神に逆らう者、的外れな生き方をする罪ある者に、主の日の礼拝は堪えられないと、詩人は言います。

 

 6節は結論です。詩編第1篇の結論です。神を敬う者の道は、主の導きと配慮があり、その終わりは主御自身に至る道ですが、神に逆らう者たちは神に捨てられ滅びに至る道であります。

 

 5節の「神に従う人の集い」は、ヘブライ語は「義人たちの集まり」です。ニューイングリシュバイブルは、「義人たちの集会」と訳しています。

 

 初代教会のキリスト者たちは、この詩編第1篇を読み、主の日の礼拝を「義人たちの集会」と理解したでしょう。集会は、定例の集会であり、集まる時刻が定められています。その集会は神の招きによって開かれ、そこで神の言葉が語られ、集まる者は神に罪を責められます。そして、神殿の動物犠牲が示すキリストの十字架の贖いにより罪を赦され、神に義とされた者たちの集いであることを、喜びをもって受け入れたでしょう。

 

 幸せな人は、神に祝福された人です。その人は毎週の主の日の礼拝に集います。そこで主の御言葉に生かされ、罪を赦され、神に義とされ、神との永遠の命に交わりに生きる者とされます。

 

 そのような集いが世界中に立て上げられ、神の支配が全地に実現することを、詩人は願いっています。

 

 「祝福された」「幸いである」というヘブライ語は、真直ぐに歩むという言葉です。真の幸せは、神に向かって真直ぐに歩むことです。それが、毎週の礼拝であります。その礼拝において、わたしたちは神の御言葉を聞き、わが罪を責められ、その罪のためにキリストが十字架に死なれ、わたしたちは罪を赦され、神の子とされ、神を賛美する幸せな人の人生を生きるように、聖霊と御言葉によって変えられたのです。お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、本日より月一度詩編を学びます。この学びを通して神の御前に祝福された人生を生きることができるようにお導きください。毎週の礼拝における聖書の解き明かしを聞くことに、わたしたちの幸いな人生の秘訣があることを学びました。わが罪を責められ、キリストの十字架の贖いを通して罪を赦され、神に義とされることの喜びを、世の人々に伝えることができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 詩編説教002                  主の2010523

 

 

 

 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち

 

 人々はむなしく声をあげるのか。

 

 なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して

 

 主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか

 

 「我らは、枷をはずし

 

 縄を切って投げ捨てよう」と。

 

 

 

 天を王座とする方は笑い

 

 主は彼らを嘲り

 

 憤って、恐怖に落とし

 

 怒って、彼らに宣言される。

 

 「聖なる山シオンで

 

 わたしは自ら、王を即位させた。」

 

 

 

 主の定められたところに従ってわたしは述べよう。

 

 主はわたしに告げられた。

 

 「お前はわたしの子

 

 今日、わたしはお前を生んだ。

 

 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし

 

 地の果てまで、お前の領土とする。

 

 お前は鉄の杖で彼らを打ち

 

 陶工が器を砕くように砕く。」

 

 

 

 すべての王よ、今や目覚めよ。

 

 地を治める者よ、諭しを受けよ。

 

 畏れ敬って、主に仕え

 

 おののきつつ、喜び踊れ。

 

 子に口づけせよ

 

 主の憤りを招き、道を失うことのないように。

 

 主の怒りはまたたくまに燃え上がる。

 

 

 

 いかに幸いなことか

 

 主を避けどころとする人はすべて。

 

 詩編第2篇112

 

 

 

 ペンテコステ礼拝説教題:「これはわたしの子」

 

 本日は、ペンテコステ記念日です。

 

ペンテコステは「五旬節」と呼ばれています。50日目の祭日という意味です。主なる神がイスラエルの民に制定された祭の一つです。

 

旧約聖書のレビ記2315節以下に大麦の初穂の束を奉納物として献げる日から数えて50日目に、この祭りが行われたことを記しています。

 

出エジプト記3422節には、主なる神がモーセを通してイスラエルの民に「七週祭を祝いなさい」と命じておられます。出エジプト記23章16節は、「七週祭」を「刈り入れの祭」と呼んでいます。大麦と小麦を収穫した後に祝われたからです。民数記28章26節は、「初物の日、すなわち七週祭」と呼んでいます。そして、申命記1616節に「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない」とあります。

 

 ペンテコステの祭は、主なる神が制定され、守るように命じられたものですから、その日には、労働を休み、聖なる集会に成人男子はすべて出席し、穀物の恵みに対する感謝を表し、主を畏れました。

 

エレミヤ書の524節に預言者エレミヤがこう記しています。「彼らは、心に思うこともしない。『我々の主なる神を畏れ敬おう 雨を与える方、時に応じて 秋の雨、春の雨を与え 刈り入れのために 定められた週の祭りを守られる方を』と」。

 

 後にユダヤ教の時代になると、五旬節は、シナイにおける律法の付与を記念するものと考えられました。

 

 新約聖書においては五旬節とは、聖霊降臨日です。使徒言行録の2章にありますように、キリストの復活と昇天後、五旬節の日に主イエスの弟子たちがエルサレムの家に集まり、祈っていますと、突然天からしるしを受けました。聖霊が彼らに下り、新しい命と力、そして恵みがもたらされ、弟子たちはいろんな国の言葉で主を賛美しました。こうしてキリスト教会が立てあげられ、伝道のための扉がユダヤ人だけでなく、世界の諸国民たちにも開かれたのです。

 

 そして、2000年後の今も、聖霊はわたしたちキリスト者の内に住まわれ、わたしたちを聖書の御言葉を通してイエス・キリストへと導き、わたしたちの口を通して「イエスは主なり」と告白させ、キリストに従うように導かれています。

 

 今朝は、聖霊に導かれて、詩編第2112節の御言葉を学びましょう。

 

「詩編」とは、ヘブライ語で「テヒリーム」、「たたえのうた」という意味です。「たたえのうた」の「たたえ」は、「ハレルヤ」(「主を賛美します」)の「ハレル」(「たたえる」)と同じ言葉です。

 

 旧約聖書が詩編を「たたえのうた」と呼んだのには、意味がありました。詩編は、神の民が主を賛美する歌です。その代表者の一人はダビデ王であります。

 

月2回の聖書を学ぶ会においてサムエル記上下を学んでいます。そこにダビデ王の生涯を物語っています。ダビデ王は、羊飼いから身を起こして、主に油を注がれてイスラエルの王となりました。そして、サウル王から命を狙われ、荒れ野の砂漠を逃げ隠れしました。ユダの王になりますとペリシテ人が攻めて来ました。ユダとイスラエルを統一して王になりますと、愛する子供アブサロムに裏切られ、信頼する友アヒトフェルにも裏切られました。ダビデ王ほどこの世において涙の谷を数多く渡った者はおりません。

 

しかし、ダビデ王は、常に主なる神を賛美しました。どんな試練や困難を通り過ぎて行っても、自らが罪を犯し、主なる神に懺悔したときも、必ず神を称える歌を口ずさみました。そして、ダビデ王は晩年主なる神に感謝の歌を歌って、最後を迎えました。詩編の賛美は、その多くがダビデ王の賛美の歌であります。

 

さて、先月の復讐になりますが、詩編の第1篇を学びましたね。詩編第1篇は、「いかに幸いなことか」という言葉で始まっていますね。そして、詩編150篇の終わりを見てください。「ハレルヤ」(「主を賛美します」)という言葉で閉じられています。

 

これだけで、この詩編がわたしたちに語ろうとしているメッセージを読み取ることができるのです。

 

主なる神と共に生きる人生は、幸いな人生なのです。ダビデ王のように、わたしたちも数え切れない嘆きと涙に暮れ、罪と懺悔を繰り返し、人生の辛酸をなめても、それが必ず主イエス・キリストへの感謝し、たたえのうたに終わる人生となるのです。だから、主なる神に向かって真直ぐに生きるように、詩編第1篇は、わたしたちに勧めてくれました。

 

詩編第2篇は王の詩編と呼ばれています。王が即位した時に歌われました。

 

新しい王が即位するとき、その政権の基盤は弱いのです。だから、諸国の民は、ダビデ王が王に即位したときに、イスラエルに侵略して来たのです。

 

サムエル記下第51725節にその出来事を物語っています。ダビデ王がユダの王となり、エルサレムに入りました。そのとき、主から油を注がれて王となったダビデのことを聞いて、ペリシテ人たちがイスラエルに攻めて来たと。

 

ですから、詩編213節は、ダビデ王が王に即位したことを聞いたペリシテ人が攻めて来たことを背景にしていると思います。2節の「主の油注がれた方」とは、ダビデ王でしょう。

 

ペリシテ人も、アマレク人も、モアブ人も、アンモン人も、諸国の民たちは、主なる神が油注がれたダビデ王に逆らい、ダビデ王を通して主なる神が支配されることを拒みました。

 

3節の「枷」と「縄」は、支配を象徴するものです。古代オリエント世界は、大きな帝国が現れると、イスラエルも周辺の諸国も、アッシリアやバビロン帝国に支配され、その奴隷とされました。だから、首に枷をはめられ、手を縄で縛られて、奴隷状態にされました。そして、大帝国に新しい王が即位し、その政権の基盤が弱い時に、隷属していた諸国は反乱を起こしました。

 

ダビデが言っていることは、イスラエルの周辺の諸国の王たちが、主なる神の支配を拒み、主に油注がれた者に反逆を企てたということです。1節の「騒ぎ立ち」、「むなしい声をあげ」、2節の「地上の王は構え」「結束して」「逆らうのか」という言葉は、神に反逆するこの世の王たちの姿を描いています。

 

ダビデは、1節の冒頭において神に反逆する地上の王たちの姿に、「なにゆえに」という疑問を述べています。それは、彼らが主なる神の御前にどんなに無力な存在かを明らかにするためです。

 

主なる神は、地上の王たちの反乱を笑われました。主が笑い、嘲られるという表現は、地上の王たちが主なる神の御前に無力であることを述べています。

 

地上の王たち、この世の支配者たちは、主なる神を計算に入れて政治を行いません。むしろ、自分たちを神として絶対的な権力を振るおうとしています。

 

しかし、彼らに、主なる神の怒りが下れば、彼ら恐怖の中で滅ぼされるのです。

 

そして、主なる神ご自身が、彼らに向かって真実の王は、主が「聖なる山シオン」、すなわち、エルサレムにおいて王として即位させたダビデだと宣言されました。

 

7-9節は、7節にダビデ王が語りますように、主なる神が彼に啓示を与えられたことに従って述べた言葉です。主がダビデに啓示されました。「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ」。これは、ダビデ王の即位のことでしょう。今日という王の即位の日に、ダビデ王は神の恵みによって神の子とされました。主なる神は、ダビデ王に全地を与えると約束されました。だから、ダビデ王を通して主は、諸国の民を裁かれます。

 

1012節は、地上の王たち、この世の支配者たちへの忠告と勧めです。主なる神は、職の王たちに、主が即させた王、ダビデに敬意を払い、主を畏れて主に仕えることが命と繁栄の唯一の道であると言われています。

 

主は、「畏れ敬って、主に仕え」と、言われていますね。ダビデ王に周辺の諸国の王たちが、政治的に服従することを、主なる神は求めておられません。ダビデの奴隷になれと命じられていません。主を畏れて、主を礼拝せよと勧められています。地上の王は、己を神として民衆を奴隷として支配することが彼の務めではありません。主を畏れて、礼拝し、主に仕えることこそ彼の務めであると言われています。

 

主なる神は、ご自身が王として即位させた「子」、ダビデに諸国の王が口づけし、和解し、従うように促されています。油注がれた神の子に逆らえば、地上の王もその国民も、神の怒りの下に命への道を失い、滅びるのです。そのようにならないように、主は地上の王たちに忠告されました。

 

こうして最後にダビデは、「いかに幸いなことか 主を避けどころとする人はすべて」と賛美します。

 

ダビデ王は、神が油注がれたメシアによって、わたしたちに幸いがもたらされることを自らの王の即位を通して賛美しています。

 

そして、ダビデのメシア預言は、約束の救い主主イエス・キリストが来られて実現しました。そして、主イエスは、ご自身こそが真のメシアでることを証言されて、ダビデが預言したのは、「わたしだ」と言われています。マタイによる福音書の2241節から45節です。

 

そして、教会は聖霊と御言葉に導きかれて復活の主キリストを王とする聖徒の国であります。ですから、わたしたちは、聖霊に導かれて、今朝の御言葉がわたしたちに指し示すキリストを主なる神として礼拝し、わたしたちの王として服従し、キリストの支配に身をゆだねることを通して永遠の命への道を歩む幸せをいただけるのです。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステを祝うために、わたしたちは今朝の礼拝に集まりました。聖霊が下られ、わたしたちひとりひとりのうちに住み、わたしたちに礼拝ごとに御言葉を通してわたしたちの罪を悟らせ、キリストの十字架がわたしたちの罪の身代わりであり、主イエスをキリストと信じるならば救われることを説得し、洗礼を受け、信仰告白し、毎月の聖餐の恵みにあずかり、主イエスと共に生きる平安を得るように導いて下さり感謝します。

 

聖霊によらなければ、イエスは主であると告白できません。どうか聖霊が働いてくださり、主イエスを信じる者を多く起こしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 詩編説教 003                  主の2010613

 

 

 

 賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき。

 

 主よ、わたしを苦しめる者は。

 

    どこまで増えるのでしょうか。

 

 多くの者がわたしに立ち向かい

 

 多くの者がわたしに言います

 

 「彼に神の救いなどあるものか」と。          [セラ

 

 

 

 主よ、それでも

 

 あなたはわたしの盾、わたしの栄え

 

 わたしの頭を高くあげてくださる方。

 

 主に向かって声をあげれば

 

 聖なる山から答えてくださいます。           [セラ

 

 

 

 身を横たえて眠り

 

 わたしはまた、目覚めます。

 

 主が支えていてくださいます。

 

 いかに多くの民に包囲されても

 

 決して恐れません。

 

 

 

 主よ、立ち上がってください。

 

 わたしの神よ、お救いください。

 

 すべての敵の頭を打ち

 

 神に逆らう者の歯を砕いてください。

 

 

 

 救いは主のもとにあります。

 

 あなたの祝福が

 

   あなたの民の上にありますように。          [セラ

 

 

 

 詩編第3篇1-9節

 

 

 

 礼拝説教題:「主よ、立ち上がってください」

 

 今朝は、詩編第319節の御言葉を学びましょう。

 

聖書に章、篇、節の番号が付けられたのは、16世紀以降のことです。篇と節の番号が無かった時代は、表題と「ハレルヤ」が篇の区切り目のしるしでした。「ハレルヤ」が前の篇に属するのか、後ろの篇に属するのかは見分けることが難しかったそうです。

 

 詩編の書名は、「諸讃歌」です。詩編の7220節に「エッサイの子ダビデの祈りの終り」とありますね。「ダビデの諸々の祈り」という詩が、第2篇の「王の即位の詩」から始まり、72篇の「王への祝福」で終わっています。

 

「ダビデの諸々の祈り」というのが、詩編の本来の書名でありました。しかし、「詩編」と名付けられたのは、ハレル詩集によってこの詩編が閉じられていることに関係します。

 

 漢字の「詩編」は、詩集を意味します。英語のサルムは、歌を意味します。西欧の教会は詩編を歌集と理解しています。詩編は神を賛美するためのものであります。カルヴァンは詩編歌を作って、礼拝で賛美しました。そして、カルヴァン以後、詩編歌は改革・長老教会の礼拝の中で賛美され、今日に至っています。

 

 日本では「詩篇」と呼ばれ、表題のように「ダビデの詩」と理解されてきました。礼拝の中で詩編を賛美することを意識し始めたのは、1990年代です。大会に讃美歌検討委員会が設置されました。最初の仕事は、現行の讃美歌の曲と歌詞を検討し、教会の礼拝で用いる推薦讃美歌を選びました。

 

次にジュネーブ詩編歌を翻訳し始め、教会の礼拝において賛美するために、詩編歌の普及に努めました。毎年オルガン講習会を開きました。詩編歌のCDを販売しました。そして、詩編歌全編を安田吉三郎引退教師が翻訳し、それに伴奏曲を作って、販売しました。残念ながら、詩編歌は絶版中で、再版の見通しがありません。

 

 さて、詩編の第3篇の御言葉に戻りましょう。「表題」がありますね。詩編150篇中、114篇にあります。表題は、幾つかのグループに分けられています。その中の代表的な例は、「ダビデの詩」です。「指揮者によって」というのもありますね。

 

 表題は、詩編という書物が完成した後に、付けられたものです。詩編がどのように生まれたかを知る手掛かりであり、古代のユダヤ教徒たちがこの詩編をどのように使用していたかを知る手掛かりになっています。

 

 詩編は、5つの巻物から成っており、巻物の終わりに「アーメン」に終わる頌栄の文章があります。第1巻は41篇の終わりにあります。第2巻は72篇、第3巻は89篇、第4巻は106篇に、それぞれあります。しかし、第5巻の終わりの150篇には頌栄と「アーメン」の文章はありません。150篇全体が頌栄だからです。

 

 第3篇の表題を見て行きましょう。表題に「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」とありますね。「ダビデの詩」の「詩」はありません。「賛歌、ダビデの」です。

 

旧約聖書のサムエル記下15章~18章に、ダビデ王の息子アブサロムが父に反逆したことを物語っています。ダビデ王が息子アブサロムと戦うことを避けて、エルサレム町からユダの荒れ野に逃れた故事に、この第3篇を関連付けています。

 

この詩編は、個人の嘆きの歌です。

 

23節は、ダビデ王の嘆きの歌です。息子アブサロムは、長年の陰謀により国民を父から奪い取りました。数百人の兵士たちをダビデは率いて、ユダの荒れ野に逃げました。逃げるダビデ王は、ベニヤミン族のサウル王家の一族、ゲラの子シムイに罵られ、石で追われました。

 

3節に「多くの者がわたしに言います」とありますが、ヘブライ語旧約聖書は、「多くの者がわたしの魂に言っています」とあります。

 

それが、「彼に神の救いなどあるものか」という敵の呪いの言葉です。「神の救いなどあるものか」とは、ダビデ王にどんな救いもないという意味です。

 

23節は、ダビデ王が今どんな危機的な状況にあるかを、主なる神に嘆き訴えているのです。

 

3節の本文の外に「セラ」という言葉がありますね。詩編の中によく出てきます。39の詩編の中に71回出てきます。詩編以外には旧約聖書の預言書、ハバクク書の第3章に出てきます。詩編歌を歌う上の区切りの記号です。段落の終りに一致します。70人訳聖書とラテン語のウルガータ聖書は、セラを間奏曲と理解しました。わたしたちの教会のオルガニストたちは、讃美歌の3節と4節の間に間奏曲を入れることはしませんが、わたしが説教奉仕をしました教会のオルガニストは讃美歌に間奏曲を入れて、演奏しました。それを初代教会や中世の教会は「セラ」と理解したのでしょう。詩編が礼拝の中で用いられる時の音楽上の符号としか、分かってはいません。

 

47節に、ダビデ王は、彼の危機的状況の中で主なる神への信頼を歌っています。シムイを代表として、その当時の多くの国民がダビデの敵となり、公然とダビデ王を呪いました。しかし、ダビデは「主よ、それでも」と祈り、主に信頼し、「あなたはわたしの盾、わたしの栄え」と告白しました。

 

「主」とは、約束の主、恵みの主です。主は、昔アブラハムに現れ、「恐れるな、アブラムよ、わたしはあなたの盾である」と約束されました(創世記151)。そして主はモーセを通してイスラエルの民に現れ、「イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。主はあなたを助ける盾、剣が襲うときのあなたの力。敵はあなたに屈し、あなたは彼らの背を踏みつける。」と約束されました(申命記3329)。その主がダビデ王に対して盾になってくださっているのです。詩編182節にダビデ王は「主よ、わたしの盾」と信仰告白しています。

 

ダビデ王は、サムエル記下1530節に「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った」とあります。イスラエルの王位から追い出され、恥と無一物になったダビデ王が、唯一心を寄せて信頼できたのは、主なる神でした。主は、ダビデ王にとって、「わたしの頭を高くあげてくださる方」だからです。主なる神だけが、屈辱に満ちたダビデ王の名誉を回復してくださるお方なのです。

 

だから、ダビデ王は、「主に向かって声をあげれば 聖なる山から答えてくださいます。」と賛美します。「わたしの声を、わたしが主に向けて叫び続けると、彼はわたしに答えられる、彼の聖なる山から」。

 

 ダビデ王は、オリーブ山の坂道を上りながら、繰り返して主に声をあげて、叫び続け、「主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と主に祈り続けました(サムエル記下1531)

 

「聖なる山はシオンの山、神の契約の箱が置かれている場所です」。ダビデが主に助けを呼びかけ、主が答えて、彼を救ってくださいました。ダビデ王が「神を礼拝する頂上の場所に着きますと、アルキ人フシャイがダビデを迎えた」とサムエル記下1532節に記されています。フシャイによってアヒトフェルのアブサロム王への助言は愚かなものとされ、ダビデはこの危機から救われました。

 

6節と7節は、ダビデ王が危機的状況の中で主にある平安を得たことを告白しています。神の聖所においてダビデ王は、主に支えられているという平安を得ました。だから、イスラエルの全国民が彼を取り囲み、彼の命を奪おうとしても、恐れないと、心から主に信頼できたのです。

 

8節は、ダビデ王が主に信頼し、主に求めて賛美しています。「主よ、立ち上がってください。」と。これは、ダビデ王が敵との戦いの主導権を、主ご自身がお取りくださいと願っているのです。主ご自身が、ダビデをこの危機的状況から救い出すために、出動してくださいと求めているのです。

 

ダビデ王は、息子アブサロムと彼に味方して、主が王に立てられたダビデに反逆した敵たちに、自ら復讐をしようとしてはいません。主に反逆した敵たちを、主ご自身が戦いの主導権を取って、彼らを裁かれ、「すべての敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください」と願っています。

 

ダビデ王は、わたしたちにわたしたちが敵に苦しめられたとき、すべて主に信頼し、主に裁きを委ねるように勧めています。使徒パウロが、ローマの信徒への手紙の中に「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」と勧めている御言葉を思い起こします。主は、ダビデに敵対したイスラエルの兵士たちを、2万人裁かれ、息子アブサロムも殺され、イスラエルの全軍は散り散りになり、自分たちの天幕に逃げ帰りました(サムエル記下18)

 

8節は、ダビデ王が、救いの源は主ご自身の内にあり、神の祝福がイスラエルの民の上にあることを祈り賛美しています。

 

わたしたちは、この詩編から何を学ぶことができるでしょうか。ダビデ王のように、わたしたちも信仰の危機に置かれることがあります。わたしたちの周りの人々を恐れる危機があります。そのときにわたしたちも、主がダビデ王を苦難の中で支えられたように、わたしたちを支えてくださることを信じる信仰が重要です。

 

アブサロムから逃れたダビデは、苦難と屈辱の中で涙しながら、主を礼拝するために、オリーブ山の山頂に上りました。そして、主を礼拝し、主に祈り、主に助けを求めました。主は、ダビデに答えて、彼を救われ、彼を支えられました。

 

どんなに目の前が絶望的な状況であっても、ダビデのように「主よ、それでも」とわたしたちが神に向かう時、救いは神の方からわたしたちに来るのです。祈りは、神に声をあげて、叫ぶこと、神の御名を呼び続けることです。それに神が答えてくださることを、聖書は救いと言うのです。

 

初代教会の時代、ローマ帝国のキリスト者たちは、激しい迫害を受けました。教会とキリスト者を迫害する敵が、増え続けました。敵たちは、キリスト者たちに「キリストがお前たちを救うものか」と罵りました。そのときにローマ帝国のキリスト者たちを、この詩編第3篇は勇気づけたでしょう。彼らは、ダビデ王が嘆きながら涙して、キドロンの谷を越えて、オリーブ山に上ったことを知っていました。そして、ダビデ王の苦しみは、十字架の道を歩まれる主イエスの苦しみの道であり、主の御後をたどりますキリスト者の苦しみの道であることを、そして、その道を主なる神がお支えくださり、涙をぬぐって、神の御国に導いてくださることを、ローマ帝国のキリスト者たちは知っておりました。

 

ダビデは、最後に主なる神に避けどころを求める神の民に、救いの源である主なる神の祝福があるようにと、祈ります。

 

ダビデが祈る「あなたの民」は、イエス・キリストの尊い血で贖われたキリストの共同体であります。そして、わたしたちは、救いが主イエス・キリストのもとにあり、今日、キリストはわたしたちと共に居てくださり、この詩編第3篇の御言葉をお与えくださいました。ダビデの祈りがわたしたちの上に実現し、「あなたの祝福」は今、御言葉が語られ、月一度聖餐の恵みが分かたれるこの教会にあります。

 

ダビデは、礼拝中に心地よく眠り、また、目覚めますと賛美しますね。礼拝の中で眠ることと目覚めることが信仰に深くつながることを指摘します。

 

ダビデは神礼拝の中で心からの平安を得て、肉体の疲れによって、深く眠りました。そして、聖霊によって信仰に目覚めさせられたのです。常に主の支えの中に生きている自分を見出すことによって、です。

 

今のわたしたちの世界は、「彼に神の救いなどあるものか」と、不信仰がわたしたちの日常生活を支配しています。わたしたちは馬車馬のように働かされ、あるいは仕事を奪われ、心から憩うところがありません。

 

しかし、教会は、「主よ、それでも」と、不信仰の世界の中に立ち続けています。そして、主を避けどころとする人々が、毎週日曜日に、礼拝に来て、神を礼拝しながら、平安の内に眠り、そして、聖霊によって心の目を開かれ、インマヌエル、主は常にわれらと共におられ、われらの人生を支えてくださっている、この喜びを、この福音を、ダビデの時代から今日まで聞き続けているのです。同時にこの世とサタンは、この喜びをわたしたちから奪おうとしているのです。

 

お祈りします。イエス・キリストの父なる神よ、教会が、主を避けどころとする人々のリゾートとなるようにしてください。日常生活の中で「おまえに神の救いなどあるものか」と、わたしたちの信仰に冷ややかな目を向ける者がおります。どうか、主よ、わたしたちを励まし、「主よ、それでも」という主に信頼する心をお与えください。肉体と心に疲れた者に心地よい眠りと聖霊による信仰の目覚めをお与えくださり、主に支えられて、生きている自分を見出させてください。教会こそ神の祝福の場所であることを、この場所がこの世の世俗化とサタンの攻撃によって奪われないようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 詩編説教 004                  主の2010725

 

 

 

          指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。

 

呼び求めるわたしに答えてください

 

わたしの正しさを認めてくださる神よ。

 

苦難から解き放ってください

 

憐れんで、祈りを聞いてください。

 

 

 

人の子らよ

 

いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか

 

むなしさを愛し、偽りを求めるのか。          [セラ

 

主の慈しみに生きる人を主は見分けて

 

呼び求める声を聞いてくださると知れ。

 

おののいて罪を離れよ。

 

横たわるときも自らの心と語り

 

  そして沈黙に入れ。                [セラ

 

ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。

 

 

 

恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。

 

主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。

 

人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。

 

それにもまさる喜びを

 

  わたしの心にお与えください。

 

平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。

 

主よ、あなただけが、確かに

 

わたしをここに住まわせてくださるのです。

 

 詩編第4篇1-9節

 

 

 

 礼拝説教題:「まことの平安」

 

 今朝は、詩編第4篇19節の御言葉を学びましょう。

 

 聖書の「詩編」という言葉は、ギリシア語の「プサルモイ」という言葉を日本語にしました。この「プサルモイ」という言葉は、弦楽器を「奏でる」という人間の行動から生まれました。礼拝の中で厳かに、かつ華やかに立琴を奏でるにぎわいのある光景を思い描いてみてください。

 

 「表題」に「指揮者によって」とありますね。詩編150篇のうち、55篇にこの表題があります。礼拝に関係している詩編という意味です。ダビデ王の時代にイスラエルの12部族の中から主に仕えるために選ばれたレビ族は、30歳以上の男子が「四千人はダビデが賛美するために作った楽器で奏でて、主を賛美する者となった」と、歴代誌上第234節に記しています。歴代誌下78節には、ソロモン王がエルサレム神殿を建て、ダビデ王が作った賛美を、レビ人たちが楽器を奏でて賛美したことを記しています。指揮者は、神殿の合唱隊を指揮する者です。

 

 「伴奏付き」は、音楽用語です。6つの詩編に「指揮者」という表題と共に出てきます。何をこの言葉で表しているのか、詳しいことは分かっていません。ヘブライ語をそのまま読めば「弦楽器で」となります。新共同訳聖書の「伴奏付き」という日本語は、わたしたちが礼拝の中でピアノやオルガンを奏でて、賛美する姿を思いながら、ヘブライ語を日本語にしたのではないでしょうか。

 

 第3篇の表題にも「賛歌。ダビデの詩」とあり、ヘブライ語聖書では「賛歌、ダビデの」となっています。詩編はダビデの賛歌です。ダビデ王が礼拝で主を賛美するために作ったものです。詩編は、礼拝で主を賛美するために作られた、だから礼拝で賛美するのがふさわしいのです。

 

 この詩編にも「セラ」という詩編を賛美する上で、区切りの記号がありますね。それは、段落の区切りに一致しています。23節、4-5節、6-9節です。

 

昔から詩編第3篇は「朝の祈り」、詩編第4篇は「夕の祈り」と呼ばれました。詩編3篇6節ではダビデ王が朝目覚めてベッドで祈り、第4篇9節ではダビデ王が寝る前にベッドの上で祈っています。そこからこれらの詩編の「朝の祈り」「夕の祈り」という名称が生まれました。

 

また、詩編第3篇と第4篇は、どちらもダビデ王の嘆きの歌であります。息子アブサロムが反逆し、ダビデ王が命の危険に陥った事件がこれらの詩編の背景にあります。

 

ダビデ王は、2節に次のように主なる神に訴えて祈ります。「呼び求めるわたしに答えてください わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください 憐れんで、祈りを聞いてください」。

 

ヘブライ語聖書は次のようにダビデが祈っています。「わたしが呼ぶ時、わたしに答えたまえ。神よ、わたしの義の。悩みの時に、あなたは広げる、わたしに。わたしを憐れみたまえ、また聞きたまえ、わたしの祈りを。」

 

「わたしが呼ぶ時、わたしに答えたまえ」というダビデの祈りは、神の民が神に訴える時によく使う言葉です。難しく言えば、「常套句」です。この常套句は、平たく言えば、ダビデが主なる神に救い給えと祈っているのです。

 

続けてダビデが救いを求める神について告白します。聖書は「わたしの正しさを認めてくださる神よ」とありますね。しかし、ヘブライ語聖書のダビデの祈りは「神よ、わたしの義の」です。

 

「わたしの正しさを認めてくださる神」は、たしかに「義」という言葉の一つの理解です。有名なのは、新約聖書のローマ書の使徒パウロの理解の「神が義と認める」という理解です。だから、パウロはダビデを神から義と認められた者として、族長アブラハムと共にわたしたちに紹介していましたね(ローマ4章)

 

しかし、「義」という言葉には他の意味もあります。詩編4篇では、この「義」を「救い」の意味で使っています。ダビデは、「神よ、わたしの救いの」と告白したのです。ダビデは、主なる神に敵からの救いを訴えています。だから、この場合の「義」は、「救い」という意味に近いのです。

 

2節前半で、ダビデは、「わたしを救い給え、わたしを救われる神よ」と祈り、そして、2節後半に救いの内容を、ダビデは語ります。「苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください。」

 

ヘブライ語の聖書にダビデは次のように賛美しています。「悩みの時に、あなたは広げる、わたしに。わたしを憐れみたまえ。また聞きたまえ、わたしの祈りを。」

 

日本語にすれば、「苦難」「悩み」「苦しみ」という言葉になりますヘブル語の言葉は、「ツァル」です。「狭い」という言葉から由来します。狭いから、逆境の時、窮地に陥った時という意味が生まれました。

 

「解き放つ」は、「あなたは広げる」という言葉です。そこからイメージする、すなわち、思い描くのは、次のことです。苦しみに出会うと、わたしたちは誰でも、狭いところに閉じ込められた思いになりますね。ダビデ王は、息子アブサロムの反逆によって、イスラエルの王から逃亡する犯罪者のように、国民に誉め称えられる王から、人々に呪わる者の立場に落とされました。まことに狭い所に閉じ込められた思いを味わったでしょう。しかし、ダビデには、神に祈る特権が与えられていました。彼は主が再び自分をこの狭いところから、苦しみから王の立場に回復し、救ってくださることを確信し、祈りました。

 

「憐れんで、祈りを聞いてください」というダビデの祈りも、「お助けください。お救いください。」という祈りのよく使われる表現であり、常套句です。苦しいときに、この祈りを常套句として祈れる者は、まことに幸いな者であります。

 

ダビデは、3節に王に反逆し、神に敵対する者たちに抗議して、次のように言っています。「人の子らよ いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか むなしさを愛し、偽りを求めるのか。」

 

 ヘブライ語聖書には、次のように記してあります。「子たちよ、人の。いつまでわたしの栄光を、恥辱の前に。おまえたちは愛する、虚無を。おまえたちは求める、虚偽を。セラ。」

 

 「人の子」は、身分の高い人たちのことです。ヘブライ語には、「人」という言葉が二つあり、「アダム」と「イーシュ」です。アダムは、普通の人であり、イーシュは、男と訳せますが、「身分の高い人」を指す言葉です。「人の子たち」は、息子のアブサロム、王の顧問アヒトフェルなど謀反を起こした身分の高い指導者たちでした。

 

 「わたしの名誉」は、「わたしの栄光」です。それは、イスラエルの王としての栄光であり、イスラエルの王は神の代理人でしたので、ダビデ王はその栄光に輝いていました。しかし、人の子たちは、ダビデ王の栄光を、彼の王としての立場を失わせたのです。

 

 イスラエルの王は、人が力や才能で得るのではなく、神の召しであり、神が与えられるものです。だから、詩編第2篇1節には、イスラエルの王に反逆する諸国民の王たちを、詩編は「人々は空しく声をあげるのか」と賛美します。

 

 神が定めた王ダビデを捨て、アブサロムを王にすることは、空しさを愛し、偽りを愛し、最後に失望に終わることであると、ダビデは身分の高い人々に抗議しました。

 

 さらにダビデは、敵に罪から離れるように悔改めの勧告をします。4節と5節です。「主の慈しみに生きる人を主は見分けて 呼び求める声を聞いてくださると知れ。おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り そして沈黙に入れ。」

 

 ヘブライ語聖書には、次のように記してあります。「それで知れ。分離することを、主は、敬虔な人を、自分のために。主は、聞く、わたしが叫ぶ時、彼に向って。」(4節)。「おののけ、そして罪を犯すな。言え。あなたがたの心の中で、あなたがたの寝床の上で、そして静まれ。セラ。」(5節)

 

 4節と5節をゆっくりと味わって読んでください。不思議な文章です。ダビデは、彼の敵に勧告しています。しかし、同時に彼の信仰の確かさを自らに語りかけているようにも思われます。まず「知れ」と命じていますね。ダビデは敵に言っているのでしょう。しかし、「知れ」の主語がありません。「あなたは」「あなたがたは知れ」と呼びかけていません。自分に向かって命令していると理解できます。

 

「主の慈しみに生きる人」とは、主がご自分のために愛し選ばれた敬虔な人のことです。神の愛する聖徒たちのことです。神は、聖徒たちをこの世から選び分かたれます。そして、聖徒たちは、神より確信を与えられます。それは、「呼び求める声を聞いてくださる」ということです。主は、聖徒が神に向かって叫ぶ時、その祈りを聞きいれてくださいます。神は愛する者の祈りを聞き入れて、お救いくださるのです。だから、神の民は、ダビデのように祈る人です。キリスト者も例外ではありません。祈らないキリスト者はいません。キリスト者は、神は御心に適う祈りを聞かれることを体験し、確信しています。

 

ダビデは、敵に「おののいて罪を離れよ」と呼びかけています。「罪を犯すな」です。王への反逆が神に対する大きな罪であることを、ダビデは敵に警告しています。夜床に就き、静かに一日を反省し、心に神を恐れ、罪を犯さなかったかを、静かに反省するように、ダビデは敵と自分自身に戒めています。

 

さらにダビデは、6節と7節に主を信頼するように勧告します。「ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。」

 

 6節は、ヘブライ語聖書にはこう記されてあります。「献げよ、生け贄を、義の。そして、より頼め、主に」。「ふさわしい」とは「義」です。義の献げ物とは、何でしょうか。それは、形ばかりの犠牲のことではありません。ダビデは敵に、主に反抗し、罪を犯す者に、主に対する悔改めを促し、反抗をやめるように勧めているのです。その流れから考えますと、神の義が神の救いであるように、義の生け贄も、救いのための生け贄であり、それは砕けた心です。ダビデ自身がバト・シェバとの姦淫の罪を犯したときに、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」と告白しています(詩編51:19)。そして、ダビデは、主を信頼することを勧めています。

 

 しかし、内乱の中で民は信仰を失っていたのです。7節を御覧ください。ヘブライ語聖書は次のように記してあります。「多くの者は言う。だれがわたしたちに見せる、善を。掲げたまえ、わたしたちの上に、あなたの御顔の光を。主よ。」

 

「多くの者」とは、民衆です。アブサロムの反乱で、ダビデ王国は混乱し、社会は乱れ、不信仰と不信が国中の民の心をおおっていました。

 

 ダビデ王は、神の祝福を祈り求めました。「あなたの御顔の光」とは、神の救いです。大祭司として、ダビデは罪の深みに苦しむ民が神の救いによって引き上げられるように祈ります。神よ、あなたの救いを民たちの上に高く掲げてくださいと。

 

 このダビデの大祭司としての祈りは、主なる神に聞き届けられたのでしょうか。この詩編の御言葉は、残念ながら沈黙しています。しかし、「あなたの御顔の光」である主イエス・キリストの救い、十字架が高く掲げられ、わたしたちは、キリストの十字架を通して神の愛を見たのです。キリストの十字架を通して神がわたしたちの罪を救われるという善を見ました。

 

 8節と9節は、主なる神がわたしたちにお与えくださる喜びとまことの平安を、ダビデが告白しています。

 

「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを わたしの心にお与えください。平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに わたしをここに住まわせてくださるのです。」

 

 ヘブライ語聖書は次のように記してあります。「あなたは与える、喜びを、わたしの心の内に。彼らの穀物と彼らのぶどう酒の増えた時よりも。平安の中で一緒にわたしは伏そう。そして眠る。なぜなら、あなたは、主よ、ひとり、安らかに、あなたはわたしを住まわす。」

 

 ダビデは、民に神の救いを高く掲げる喜びは、「穀物とぶどう酒」が象徴する物の豊かさの喜びよりも大きいと告白します。神に罪を赦される喜び、神との和解により、まことの平安を与えられる喜び。その喜びは、一日の終わりに夜を迎え、安らかに眠りにつくことができるまことの平安です。その喜び以上のものはありません。それは、神、お一人がお与えくださることのできる平安です。安らかに世を過ごすことのできる平安です。

 

 わたしは、自分たちの教会をイメージしますときに、いつもガリラヤ湖の嵐の中で、弟子たちと舟に乗られた主イエスが、眠っておられるのを思い起こします。本当に主イエスは、教会というわたしたちの舟の中で眠っておられます。わたしたちは、この世の悩み、家庭の悩み、仕事の悩みと次々の困難の中で、自分を狭く閉じ込めて、毎日あたふたとうろたえています。

 

 その時に、主イエスに、弟子たちのように「わたしたちは沈みそうです。なんとかしてください」と祈れるキリスト者は幸いです。今朝のダビが、わたしたちに主イエスだけが、お一人が安らかにこの世を住まわせてくださると慰めてくれるからです。

 

 9節に「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。」とありますね。ヘブライ語聖書は、「平安の中で一緒にわたしは伏そう。そして眠る」です。それを岩波書店の詩編は「平安に、臥すとすぐ私は眠る」と訳しています。

 

これがまことの平安です。まことの平安は、夜によく眠れることです。ダビデは、これが、この世の一番の幸せであると賛美します。だから、詩編第3篇と4篇は、共にダビデが主に与えられた平安の眠りを賛美しています。そして、わたしは、この詩編を味わい、思うのです。この世の富に恵まれなくても、自分の願いを実現しなくても、人の尊敬を受けることがなくても、この世で一人生きていても、毎夜平安に、主に床で祈り、臥すとすぐに眠りにつける者、この者こそ主にすべてを委ねて生きる者であり、まことの平安の中にあると。

 

 お祈りします。主イエス・キリストの父なる神よ、暑い夏の夜も、平安に、臥すとすぐに眠れるように、主よ、わたしたちをこの世に安らかに住まわせてください。わたしたちは、嵐の舟に主と共に乗る弟子たちと同じです。日々家庭に、仕事場に、学校に、地域の人間関係に、教会に、悩みと苦しみを抱え、自分の心を狭く閉じ込めています。どうか、主よ、わたしたちの前にキリストの十字架の愛を高く掲げて、わたしたちを罪より救われた神の愛に信頼を置く信仰生活を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩編説教 005                  主の2010822

 

 

 

          指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。

 

主よ、わたしの言葉に耳を傾け    

 

つぶやきを聞き分けてください。 「つぶやき」→「呻き」、「聞き分け」→「察したまえ」

 

わたしの王、わたしの神よ。     

 

助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。

 

あなたに向かって祈ります。

 

主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。→「聞きたもう」確信を示す。

 

朝ごとに、わたしは御前に訴え出て  →「わたしはあなたに備える」

 

あなたを仰ぎ望みます。

 

 

 

あなたは、決して

 

  逆らう者を喜ぶ神ではありません。  「逆らう者」→「悪」「不法」

 

悪人は御もとに宿ることを許されず    「悪人」→「悪」

 

誇り高い者は御目に向かって立つことができず 「誇り高い者」→「無法者」「高ぶる者」

 

悪を行う者はすべて憎まれます。 「悪を行う者」→「邪悪を行う者」、「悪事をなす者」

 

主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし     →「虚偽を語る者たちを」

 

流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。  「流血の罪を犯す者」→「殺人者」

 

 

 

しかしわたしは、深い慈しみをいただいて    →「あなたの豊かな慈しみの中で」

 

あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し

 

あなたを畏れ敬います。            →「あなたへの畏れをもって」

 

主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き →「わたしを導きたまえ、あなたの義によって」

 

まっすぐにあなたの道を歩ませてください。

 

わたしを陥れようとする者がいます。

 

彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで  →「彼らの口には真実がない」

 

喉は開いた墓、腹は滅びの淵。  「開いた墓」は滅びの象徴。

 

神よ、彼らを罪に定め   →「罪に定めたまえ」(偽証罪の罪によって)

 

そのたくらみのゆえに打ち倒してください。→「彼らは倒れる、彼らの謀略のゆえに」

 

彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。→「彼らの咎の多さのゆえに彼らを追い散らしたま

 

彼らを追い落としてください。      え。なぜなら彼らはあなたに反逆した」

 

 

 

あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い →喜びを表現する3つの動詞。「喜び祝い」

 

とこしえに喜び歌います。          「喜び歌い」「喜び誇り」。祭りを祝い楽

 

御名を愛する者はあなたに守られ        しむ。喜び歓喜する。大喜びする。

 

あなたによって喜び誇ります。

 

主よ、あなたは従う人を祝福し   →「なぜなら、あなたは義人を祝福する」

 

御旨のままに、盾となってお守りくださいます。→「大盾のように、恵みで、あなたは

 

                        彼を囲む」

 

 詩編第5篇113

 

 

 

 礼拝説教題:「幸いな人は主を避け所とする」

 

 今朝は、詩編第5113節の御言葉を学びましょう。ダビデ王の嘆きの歌です。いつ、どこで、ダビデがこの詩編を歌ったのか、その背景はわかりません。

 

しかし、23節を読みますと、ダビデが、朝、神の幕屋に入り、主に祈ったことを、歌ったものであることは分かります。ダビデは、エルサレムに神の箱を入れ、神の幕屋を建て、そこで主を礼拝しました。

 

ダビデは、主なる神に「わたしの言うことをお聞きください」と祈りました。最初ダビデは、主なる神に言葉で、彼の苦しみ、悩みを説明し、救いを求めました。 

 

 ところが、ダビデの悩みは口では言えないほど、深いものでありました。ダビデは、心の中につぶやきました。そして、主なる神に「つぶやきを聞き分けてください」と祈りました。

 

ヘブライ語の旧約聖書の詩編には「わが呻きを察してください」とあります。その呻きという言葉は、歯ぎしりのようなものです。ダビデ王は、主なる神に言葉にできないほどの悩み苦しみという感情を、「聞き分けてください」「察してください」と祈りました。

 

さらにダビデは、主なる神に3節で「助け求めて叫ぶ声を聞いてください」と祈りました。「助け求めて叫ぶ声」とは、ただ「わが叫ぶ声」です。

 

ダビデは、自分の理性を失うほどの悩み苦しみに、すなわち、自分が人間であることをやめ、獣になったように、ただ叫ぶ以外にありませんでした。そして、主なる神に彼の叫びに「わたしの王よ、わたしの神よ、耳をそばだててください。注意深く聞いてください」と訴えました。

 

驚くべきことは、これがダビデの祈りでありました。だから、「わが神よ、わが主よ、なぜならば、あなたに向かってわたしは祈っている」と歌っています。

 

4節にダビデは、朝、主の裁きの場に立っています。「朝ごとに」とありますね。ヘブライ語の聖書はただ「朝」です。「朝、あなたはわたしの声を聞く。朝、わたしはあなたに備えて、そしてあなたを待ち望む。」

 

ダビデは、主に願っているのではありません。確信しているのです。主は、朝にダビデの声を聞いてくださると。だから、ダビデは主に自分の正しさを証しする準備し、主の裁きを、希望を持って待ち望むのだと歌っています。

 

どうしてダビデは、主なる神に望みを持てたのでしょうか。57節にダビデは、神が悪を憎み、8節に神を畏れる者を愛されるという理由を挙げています。

 

5節の冒頭に「なぜなら」という理由を示す接続詞があります。ダビデが主なる神に希望を持つ第一のことは、神が悪を喜ぶ神ではないからです。「逆らう者」とは、ヘブライ語の「悪」という言葉です。だから、悪人は主の御許に宿ることはできません。6節の「誇り高い者」とは、「高ぶる者たち」であります。岩波書店の詩編は、「無法者ら」と訳しています。彼らは、神の御目の真正面にしっかりと立つことはできません。主なる神は、悪を行う者をすべて憎まれるからです。

 

そして、7節にダビデは、高ぶる者たちをはっきりと「流血の罪を犯し、欺く者」と述べています。これが、ダビデの敵であり、ダビデに悩みと苦しみを与え、ダビデを嘆かせている者たちです。

 

「流血の罪を犯す」とは、人殺しです。欺く者とは、偽りの証言をし、隣人を傷つけ、滅ぼそうとする者です。主なる神は、十戒の第9番目の戒めに「偽ることなかれ」とお命じなり、偽りの証言を禁じられています。ダビデは、主が偽りの証言をする者たちを裁き、滅ぼされますと宣言しています。

 

さらにダビデが、主なる神に望みを置く第二の理由は、8節と9節です。8節は、ダビデが主なる神は神を畏れる者を愛されることを歌っています。「しかし、わたしは、豊かなあなたの慈しみの中で、わたしはあなたの家に入り、わたしはあなたの聖なる神殿に向かって伏し拝む。あなたへの畏敬をもって」

 

「あなたの家」、「あなたの聖なる神殿」とは、ダビデがエルサレムに契約の箱を置きました神の幕屋のことです。そこでダビデが畏敬の思いをもって神を礼拝できるのは、彼が豊かな神の慈しみの中にいるからです。豊かに神に愛されている者だからです。

 

これは、今礼拝しているわたしたちへのダビデの素晴らしいメッセージです。神を礼拝する者は、神が豊かな慈しみに中に置かれています。神の大きな愛の中に置かれています。だから、神を礼拝できるのです。この豊かな神の慈しみは、新約聖書の御言葉の光に照らす時、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言われています(ヨハネ316)。主イエスを信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るために、この礼拝という豊かな神の慈しみの中にわたしたちを置いてくださいました。

 

ダビデは、「あなたの聖なる神殿に向かってひれ伏し」と歌っていますね。聖なる神殿、神の幕屋の至聖所に契約の箱が置かれ、大祭司は年に一度そこに入り、民の罪を執り成しました(ヘブライ97)。そして、大祭司キリストがただ一度ご自身をわたしたちの罪の身代わりの犠牲として、十字架にかかり、わたしたちの罪を執り成されました。それゆえにこの聖なる神殿は今ではこの世からなくなりました。

 

9節にダビデは、礼拝の本質をこう喜び歌っていますね。9節の「恵みの御業のうちに」という言葉は、ヘブライ語の「あなたの義によって」という言葉です。「わたしを導きたまえ。あなたの義によって。わたしを狙う者のために、まっすぐにしたまえ。あなたの道をわが面前に」と。

 

礼拝とは、第一に神の義によって導かれることです。それは、キリストの義です。キリストの従順の義です。そして、キリストの十字架の罪の赦しです。

 

ダビデは、幕屋の礼拝を通して、神に犠牲をささげるごとにキリストの義を仰ぎました。そして、来るべきキリストに従う道を学びました。

 

次に礼拝はわたしたちが敵から守られて、神の道をまっすぐに歩むために必要であります。礼拝ごとにわたしたちは、主の祈りを祈っていますね。その中で主イエスは、わたしたちに「御国を来たらせたまえ」と祈るようにお命じになりました。この罪のように、悪が満ちた世に、神の支配が実現するように祈りなさいと。神の支配が実現すれば、神によって悪は滅ぼされ、神の民に救いが実現するのです。

 

だから、10節以下に、ダビデは神の支配を祈っているのです。1011節に敵対者たちの罪が明らかにされ、彼らに主なる神が報復してくださるようにと願っています。ダビデの敵は、巧みな言葉を用いて偽りを語り、ダビデを傷つけて滅ぼそうとしていました。ダビデは、敵を主なる神が罪に定め、彼らの計略を打倒してくださいと祈りました。彼らは、主なる神に反逆する者であるので、主が裁かれるようにと、ダビデは祈りました。しかし、このダビデの祈りが、主なる神に聞かれて、敵たちが滅ぼされたことを、この詩編は証ししていません。

 

むしろ、1213節にダビデは、主を避け所とする人の幸いを喜び歌います。ダビデは3つの喜びを歌っています。第一は今主を礼拝する喜びです。第二は、永遠に喜び歌うことです。第三に躍り上がって大喜びすることです。

 

主を避け所とする人とは、神に頼り、神を礼拝して生きる人です。その人の生における特色は、喜びです。この世においては礼拝する喜びがあります。そして、その喜びは地上で終わりません。永遠に神を喜び歌い生きるのです。そして、その人は、神を愛する者として全生涯を主に守られ、主との交わりの中で喜び踊ると、ダビデは歌います。

 

サムエル記下第6章にダビデが契約の箱をエルサレムに持ち運ぶ物語があります。ダビデは民たちの中で裸になり、喜び踊ったことを物語っています。主を愛したダビデを、主なる神はサウル王とペリシテの王たちから守られて、イスラエルの王とされました。それゆえにダビデは、妻のミカルには民の中で王が裸で踊ったと蔑まれましたが、ダビデは妻に主のゆえに喜び踊ったことを証ししました。

 

最後にダビデは、神を愛する者たちが、主のゆえに喜び踊る理由を次のように喜び歌いました。「なぜなら、あなたは義人を祝福する。主よ、大盾のように恵みで、あなたは彼を囲む」。

 

神を避け所とする人は、神に頼り、礼拝に生きる者であります。主なる神は、恵みにより彼にキリストの義をお与えくださいます。義人として祝福してくださいます。そして、この地上の生涯において彼を大きな盾で取り囲み、彼の命と安全を守られるのです。

 

教会は、船にたとえられます。この世は、悪魔の巧みな偽りによって教会という船はいつも沈みかけています。神などいないという世の人々の声、そして神と関係のないこの世の生活、わたしたちは、家庭の中で、職場の中で、近隣との人間関係の中で、そして国家権力によってこの世に神はいないという偽りの言葉に、日々さらされています。だから、毎週の礼拝の中で神の御言葉を聞き続ける喜びを欠かすことはできないのです。

 

お祈りします。イエス・キリストの父なる神よ、月一度詩編の御言葉を学べることを感謝します。ダビデの祈りと嘆きを通して、主を避け所とし、神を礼拝できる祝福を感謝します。キリストの義を、豊かな神の慈しみの中でいただき、神を喜び礼拝できることを感謝します。どうかこの教会に神の選びの民をお集めください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。