ウェストミンスター大教理問答01       主の2014年9月17日

 聖書箇所:ローマの信徒への手紙第11章36節(新約P291),コリントの信徒への手紙一第10章31節(新約P313),詩編第73編24-28節(旧約P908-909),ヨハネによる福音書17章21-23節(新約P203)

 問1 人間のおもな、最高の目的は、何であるか。
 答 人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。

 今夜から、ウェストミンスター大教理問答を学びましょう。ウェストミンスター信条の作成された順序は、信仰告白(1646年)、ウ大教理問答(1647年10月)、ウ小教理問答(1647年11月)です。

 ウ小教理は、問答が全部で107でしたが、ウ大教理は196です。どちらも構造は同じです。ウ大教理問答の問5と答に「聖書はおもに何を教えるか。」答「聖書はおもに、人間が神について何を信じなければならないか、また神が人間に求められる義務は何であるか、を教える」とあります(ウ小教理問3と答)。ウ大教理は、問1-90で「聖書が教える信仰」を学び、問91-196で「神が人間に求める義務」を学びます。

 テキストに用いる日本キリスト改革派教会委員会訳には、目次があり、問1-5が「1.序説 人生と聖書」、問6-90が「2.信仰篇(使徒信条)」、問9Ⅰ-96が「3.生活編」に区分されています。

 「1.序説-人生と聖書」は、問1が「1.人生の目的」、問2が「2.神を知る道としての聖書」、問3-5が「3.聖書とは何か」に、さらに区分されています。

  今夜は、問1と答を学びましょう。引照聖句から見ましょう。ローマ11章36節は、「万物は神のために存在する」と記しています。万物は神に起源を持ち、神によって生成・発展し、また神に帰します。人間の人生も「神から発し、神によって成り、神に至るのです。」Ⅰコリント10章31節は、「全生活を通して神の栄光をあらわすのがキリスト者の義務である」と記しています。「ただ神の栄光をあらわす」のがキリスト者の人生の第一目標です。詩編73編24-28節は、「神はわたしたちにいかに神の栄光をあらわすべきかを教え、栄光をあらわすことにおいて神を喜びことができることを教えられる」ことを記しています。詩人にとって天にも地にも神だけが望みです。ヨハネ福音書17章21-23節は、「わたしたちの至高の目的は神の栄光をあらわし、神を喜ぶこと(神を礼拝すること)である」と記しています。キリストは、父から与えられた栄光を、わたしたちに与えてくださいました。それは、キリストの十字架と復活です。神の栄光を仰ぎ見て、心から神に救われたことを、わたしたちは喜ぶのです。
 
  「人間のおもな、最高の目的」とは、「人間の第一の、最高の目的」です。「あるものが存在するための目的です。」
 
  万物も人間も神に創造されました。神から発し、神の所有であり、神に帰するものです。人間は、特に神に似せて創造されました。神と交わり、神の栄光をあらわし、神を喜ぶ目的で、創造されました。
 
  「神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」と記されています。聖書は人間を、神の栄光をあらわし、永遠に神を「限りなく」、あるいは「この上なく」喜ぶために創造されたことを教えています。
 
  人間の真の幸福は、神が人間を創造された目的に従って生きることです。神は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶように人間を創造されたのですから、その目的から離れて堕落した人間を、キリストの十字架と復活によって贖い、もう一度創造の目的に生きることができるようにしてくださいました。それが、わたしたちキリスト者の人生であります。
 
  アウグスチヌスは、『告白』の中で「神よ、汝は我らを汝自身のために創造されたのである。だから我らの魂が汝自身の中に憩うまで我らの魂は安きはない」と記しています。
 
  人間の人生は、神礼拝の人生です。神を神として崇め、神の栄光をあらわし、永遠に神をこの上なく喜ぶために、神によって創造され、救われました。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答02       主の2014年9月24日

 聖書箇所:ローマの信徒への手紙第1章19-20節(新約P274),詩編19編2-4節(旧約P850),使徒言行録第17章28節(新約P248-249),コリントの信徒への手紙一第2章9-10節(新約P301),テモテへの手紙二3章15-17節(新約P394),イザヤ書59章21節(P1159)

 問2 神の存在は、どのようにして分かるか。
 答 人間のうちの本性の光そのものと、神のみわざが、神の存在を明らかに示す。しかし、神のみ言葉とみたまのみが、人間の救いのために、十分に、また有効に神を啓示する。

 ウ大教理を学びます時、どこに視点を置くべきでしょうか。礼拝です。問1と答で学びましたように、人間の人生は神礼拝の人生です。神はわたしたちを、神を礼拝するために創造されただけでなく、神はわたしたちに御自身を礼拝するようにお命じになっています(出エジプト記20:1-11,申命記5:6-11)。そしてその神礼拝は、神の御言葉である聖書に従って礼拝しなければなりません。聖書に従う礼拝、聖書に従う人生こそ「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」ことであります。

 ウ大教理の礼拝・人生観の源は、宗教改革者たちです。彼らは、キリスト教礼拝が聖書に啓示されているように、神の御言葉に従ってなされるべきであると考えていました(オルード『改革派教会の礼拝』)。そして彼らは、聖書を唯一の権威と理解しました。

 ウ大教理は、わたしたちに問2で「神の存在は、どのようにして分かるか」と問うています。「神の栄光をあらわし、永遠に神をこの上もなく喜ぶ」ためには、わたしたちが礼拝の対象である神の存在を知らなければなりません。

 引照聖句をご覧ください。ローマ1:19-20は、神に関する客観的知識はすべての人に明らかにされており、神は人間の本性の光と創造と摂理の御業を通して御自身を啓示されていることを記しています。詩編19:2-4は、自然における神の啓示を記しています。神が創造された自然界は、創造の初めから創造主の栄光を宣べ伝えています。使徒言行録17:28は、人間は神の子であり、神の被造物であることを記しています。Ⅰコリント2:9は、神は、自然啓示は不完全なので、神は聖書を通して御自身を啓示されていることを記しています。Ⅱテモテ3:15-17は、聖書の目的と聖書は救いのために十分な啓示であることを記しています。イザヤ59:2は、神の霊(聖霊)と神の御言葉が契約の神の民(キリスト者たち)に与えられることを預言しています(ペンテコステに成就)。

 ウ大教理は、聖書の教えからわたしたちが神の存在を知る二つの道を教えています。「自然啓示(人間の本性の光と神の御業)」と「特別啓示(聖書)」です。

 「人間の内にある本性の光そのものと、神の御業」とが、わたしたちに神の存在を明らかにしています。これを自然啓示と呼びます。「人間のうちの本性の光そのもの」とは、人間の理性であり、「神の御業」は、神の創造と摂理の御業であります。すなわち、人間の理性と自然と歴史が神の存在を明らかにしています。

 しかし、人間はアダムの罪により堕落し、人間の理性は腐敗し、神が創造され、摂理されている自然は虚無に服しています(ローマ1:21-23,ローマ8:20)。ですから今日自然啓示を通して、わたしたちが神を知るには不十分であります。

 そこで主なる神は、契約を通して神の民に聖霊と神の御言葉を与えて、「人間の救いのために、聖霊と神の御言葉だけが、人間に対して十分に、そして有効に神を啓示する」ようにされました。

  アダム契約(創世記2:17)、原始福音(創世記3:15)、ノア契約(創世記9:9-17)、アブラハム契約(創世記12:1-3,7,15:1,4-5,17:1-14,22:16-18等)、シナイ契約(出エジプト19:3-6)、ダビデ契約(サムエル記下7:8-16)、そしてキリスト自己啓示(新約聖書)、聖霊降臨(使徒言行録2章)。
 
  「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られましたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1)。

 

 

 

 

 ウェストミンスター大教理問答03       主の2014年10月1日

 聖書箇所:テモテへの手紙二第3章15-16節(新約P394),ヨハネによる福音書第16章13-14節(新約P200)

 問3 神の御言葉とは、何であるか。
 答 旧・新約聖書が、神のみ言葉、信仰と服従のただ一つの規準である。

 問4 聖書が神のみ言葉であるということは、どのようにしてわかるか。
 答 聖書は、その威厳と、純正さ、すべての栄光を神に帰する全部分の一致と全体の視野、罪人に罪を自覚させ、回心させ、信者を慰め、強くして救いにいたらせる、その光と力によって、自ら神のみ言葉であることを示す。しかし、聖書によって、聖書と共に、人間の心のうちにあかしされる神のみたまのみが、それが神の真のみ言葉でることを、十分に納得させることができる。

 ウ大教理は、問1-5までが、「序説」で、問1-3までで、「人生の目的」とその目的に生きるために、「神を知る道としての聖書」が必要であることを学びました。今夜は、その「聖書」とは何かを学びます。

 ウ大教理にとって「聖書」と「神の御言葉」は、同義語です。「聖書とは何か」とは、「神のみ言葉とは何か」であります。ですから、「神のみ言葉」は「旧・新約聖書」であります。

  『ウェストミンスター信仰告白』は、第1章で「聖書について」、1-10節にわたって詳しく論じています。そして、2節で、「聖書すなわちしるされた神のみ言葉という名の下に、今では旧新約のすべての書が含まれている。それらは次のものである」と記して、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合わせて66巻の書物の名称を記しています。そして、最後に「これらはみな、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準である」と記しています。

 ウ大教理は、ウ信仰告白の1章2節を前提にして問答がなされています。旧・新約聖書66巻のみが神のみ言葉であり、「信仰と服従のただ一つの規準であ」ります。

 聖書とは神のみ言葉を記した書物です。テモテも彼の祖母と母も、旧約聖書で信仰教育を受けました。テモテの信仰は、書かれた正統な信仰でした(Ⅱテモテ3:15)。聖書の目的は、「救いを受けさせる」ことにあります。救いとは、罪の赦しと永遠の命です。主なる神は、人類にその救いを与えるために、聖書を与えられました(Ⅱテモテ3:16)。そして、この聖書の土台の上にキリスト教会を建て上げるのです(エフェソ2:20)。

 問4と答は、聖書が神のみ言葉であるという証し(証明)であります。ウ大教理は、ウ告白の第1章「聖書について」の5節を前提にして論じています。「また内容の天的性質、教理の有効性、文体の尊厳、あらゆる部分の一致、(神のすべての栄光を帰そうとする)全体の目的、人間の救いの唯一の方法について行なっている十分な発表、その他多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さも、聖書自身がそれによって神のみ言葉であることをおびただしく立証する論証ではある。しかし、それにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中に証言して下さる聖霊の内的なみわざから出るものである」。

  ウ告白もウ大教理も、聖書が神のみ言葉であることを、外的証拠と内的証拠を挙げて、証ししています。外的証拠は、聖書の威厳、純正さです。聖書は超自然的な霊感の書であり、無謬の唯一の書です。聖書の中に真の矛盾はありません。書物の全体(66巻)が一致しています。神に栄光を帰しています。その目的は、わたしたち人類に救いを得させることです。40人以上の人々によって書物にされましたが、真の著者は、主なる神です。故に聖書には神の権威があります。
 
  しかし、聖書は神の霊感の書でありますが、それをわたしたちが確信できるのは、聖霊の導きです。聖書のみ言葉と共に聖霊がわたしたちの心に働きかけてくださり、聖書が神のみ言葉であることを、わたしたちに納得させてくださるので、わたしたちは聖書を神のみ言葉として受けいれ、それに服従するのです。
 

 

 

 ウェストミンスター大教理問答04       主の2014年10月8日

 聖書箇所:テモテへの手紙二第1章11-14節(新約P391)

 問5 聖書はおもに何を教えるか。
 答 聖書はおもに、人間が神について何を信じなければならないか、また神が人間に求められる義務は何であるか、を教える。

 ウ大教理の「序説」の最後の問答です。ウ大教理は、人の第一で、最高の目的が何かを問い(問1)、その目的に生きて、「神の栄光をあらわし、永遠にこの上もなく、神を喜ぶ」ために、わたしたちにその神を知るために「聖書」が必要であること(問2)を教えました。そして「聖書」とは神の「み言葉」であり、「信仰と服従の唯一の基準」であること(問3)を教え、聖書が神のみ言葉であることを、外的と内的に証明しました(問4)。すなわち、聖書そのものが外的には神のみ言葉であることを証明しています。聖書の威厳と純正さ、すべてを神の栄光に帰する聖書の全体の目的、聖書は罪人に罪を認めさせ、回心させ、救いに至らせるために、信じる者を励まし、立ち上がらせる、その光と力のゆえに神のみ言葉であることを自ら証明しており、また、何よりも聖霊の導きにより、わたしたちは聖書が神のみ言葉であることを、内的に証明されています(聖霊の内的照明)。

 「おもな」、「おもに」という言葉は、「第一の」、「第一に」という意味です。聖書は、66巻の書物から成っています。ジャンルもいろいろです。歴史があり、福音書物語があり、預言があり、詩があり、歌があり、手紙があり、知恵と教訓があります。その旧新約聖書全体を、一つの統一した神のみ言葉の書物として、第一に聖書がわたしたちに教えていることは、何でしょうか。

 ウ大教理は、暗黙の内に「聖書の教えを大きく二つに区分すると、何と何か」と問うています。

 だから、答は次のように聖書が教えることを記しています。「人間が神について何を信じなければならないか」と「神が人間に求められる義務は何であるか」。この二つを、聖書は教えていると、ウ大教理は答えています。

 ウ大教理は、新約聖書のテモテへの手紙二の第1章13節のみ言葉を、この区分の根拠として、引用しています。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。」

 神の御子キリストを通して、聖書の教えは、「信仰と愛(人の義務)」であることが啓示されました。キリストの啓示は、「わたしから聞いた健全な言葉」である聖書に記されております。「健全な言葉」とは「正統的な教義」という意味であり、パウロが説教し、教えていた聖書です。使徒パウロの言葉からわたしたちは、聖書は「信仰と愛」を教えていると理解できます。

 ウ大教理が区分する「信仰」とは、わたしたちが「信じなければならない真理の言葉」であります。また「愛」とは、わたしたちが「服従しなければならない義務」であります。ですから、「神が人に求められる義務」とは、キリストが12弟子たちに求められた「愛」であります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)。

  キリストは、愛を「わたしの掟」と言われ、弟子たちに彼らがキリストに服従する義務として「愛」を求められました。
 
  ウ大教理が「聖書の教える」2大区分を提示しました時、わたしはその根底にキリストが十戒を要約された、「神を愛し、隣人を愛せよ」との神の命令がその区分の土台にあると思います。
 
  わたしたちが「神を愛する」とは、「人間が神について何を信じなければならないか」に通じており、「隣人を愛する」ことは、まさに神が人間に求めておられる義務そのものであります。
 
  ウ大教理は、信仰と愛(人の義務)を、主イエスがたとえられた木と実の関係で理解しています。主イエスは「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と言われました。「良い木」とは正しい信仰です。「良い実」とは、キリスト者の正しい信仰に基づく愛の行為です。神を愛する行為から生まれる隣人愛であり、キリスト者の善き業であります。それゆえ信仰から始めるのです。

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答139 主の2017719

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問193 第四の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。

 

答 「われらの日用の糧をきょうも与えたまえ」という第四の祈願においては、わたしたちがアダムにあって、また自分自身の罪によって、この世のすべての外的祝福に対する権利を失っており、神によってそれらを全く奪われても、またそれを用いる時、わたしたちに対してのろわれたものとされても仕方がないこと、またそれらがそれ自体でわたしたちを支えることも、わたしたちがそれをかせいだり、自分自身の勤勉によって手に入れたりすることができず、むしろそれらを不合法に望み、手に入れ、用いようとしがちであることを認めつつ、自分自身と他人のために、次のことを祈るのである。すなわち、彼らもわたしたちも共に、合法的手段を用いるに当たって、日ごとに神の摂理に頼りつつ、神の自由な賜物から、また父らしい知恵に最善と思われるように、その正当な分を享受でき、またそれをきよく快く用いるに当たっては、それをわたしたちにとって継続的な祝福されたものとし、それに満足できること、またわたしたちのこの世での支えと慰めとに反するようなすべての事柄から守られることである。

 

 

 

 今夜は、続けてウ大教理問答の問193と答、すなわち、第4の祈願の「われらの日用の糧をきょうも与えたまえ」を学びましょう。

 

 

 

 ウ大教理は、わたしたちに第4の祈願において3つのことを祈るように勧めているのです。その祈りは、「自分自身と他の人々のため」です。13の祈願が神のため、46の祈願が自分自身と他の人のため。

 

 

 

 第1の祈りは、次の通り。「彼らもわたしたちも共に、合法的手段を用いるに当たって、日ごとに神の摂理に頼りつつ、神の自由な賜物から、また父らしい知恵に最善と思われるように、その正当な分を享受でき」る。

 

 

 

 宮崎訳では「彼らも私たちも共に、合法的手段を用いるにあたって、日ごとに神の摂理を期して待ち、神の無償の賜物から、父的祝福の相当な分を享受できるように」となっている。

 

 

 

 「合法的な手段を用いる」とは、何か。「合法的な手段を用いて日々に神の摂理を待ち望みつつ」(松谷訳)、「この表現は聖書の教えの美しい結晶である」(ヨハネス・ヴォス)。ヴォスは、この表現で二つの意味を指摘する。1.わたしたちとわたしたちの能力や行為に信頼を置かない。2.神の摂理がわたしたちの生活を支えており、神御自身に信頼する。父なる神が御知恵を持って神の子たちに最善と思うことに従って、神の無償の賜物から、この地上において相当な祝福を得られるように祈るのである。族長ヤコブは、神の摂理に信頼して最善の用意を整え、息子たちにベニヤミン委ねてエジプトに遣わしました。パウロは、盗みを働いていた者を戒め、労苦して自分の手で収入を得、困っている人を助けるように勧めました(エフェソ4:28)。神の摂理に信頼し、正当な働きで収入を得、困難な中にある隣人に援助する。そのためにこの世で神の無償の賜物から相当な外的祝福を得られるように祈るのである。

 

 

 

 第2の祈りは、「それをきよく快く用いるに当たっては、それをわたしたちにとって継続的な祝福されたものとし、それに満足できること」である。宮崎訳は「また、それをきよく有益なものとして用いて満足するときに、それを私たちにとって継続的で祝福された者としてくださるように」とある。

 

 

 

 「継続的な祝福」、神の祝福に「満足する」。わたしたちは、隣人と共に神の摂理に信頼し、「継続的な祝福」を願い、「満足する」ことを願うべきである。日々の労働は、罪ゆえに苦しみを伴う。地は呪われ、自然災害で労したことが無になることもある。しかし、神が造られたものは善き物であり、感謝していただくならば無益なものはない(Ⅰテモテ4:35)。裸で生まれ、裸で死ぬ。食物、飲物、着物、住居等はすべて神の賜物である。それに満足する者が神の摂理に信頼する者である(ヨブ1:21,Ⅰテモテ6:8)

 

 

 第3の祈りは、「またわたしたちのこの世での支えと慰めとに反するようなすべての事柄から守られることである。」である。宮崎訳は「さらには、私たちのこの世での支えと慰めとに反するようになあらゆることから守られるように」である。貧しくて主を呪うこと、冨みて主を無視すること、このような神の摂理に信頼しないことから遠ざけてくださいと祈るのである(箴言30:89)

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答140  主の2017726

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問194 第五の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。

 

答 「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という第五の祈願において、自分も他のすべての人々も、原罪と現実の犯罪との両方について有罪であり、そのために神の正義に対して負債者となっていること、また自分も他のどのような被造物も、その負債に対しては最低の償いも支払えないことを認めつつ、自分自身と他人のために、次のことを祈るのである。すなわち、神がその自由な恵みから、信仰によって理解され適用されるキリストの服従と償いを通して、わたしたちをとがからも罰からも共に免除して下さること、その愛するみ子にあってわたしたちを受け入れて下さること、そのいつくしみと恵みとをわたしたちの日ごとにいよいよ許しの確信を与えることにおいて、平和と喜びを満たして下さることである。この許しの確信は、わたしたちが心から他人の罪を許すという証しを自分自身のうちに持つ時、一層力強く求め、勇気をもって期待できるものである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問194と答、すなわち、第5の祈願の「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」を学びましょう。

 

 

 

 ウ大教理は、わたしたちにここでも一定の形式を用いて、主の祈りの第5の祈願について解説をしています。

 

 

 

まず、この祈願の前に立つ我々と他のすべての人々に対する現実の認識である。ウ大教理は、リアリズム(現実主義)の立場に立つ。すなわち、神の御前に立つ人間とは、我も他のすべての者も罪人である。

 

 

 

アダムの原罪以来、この世に生まれる人間は原罪があり、腐敗して生まれ、それゆえに実際にこの世にあって現実の犯罪を為し、神の御裁きの前で生まれながらの咎を有罪とされ、実際に犯した現実の罪を有罪と宣告される罪人である。

 

それゆえに聖にして、義なる神の御前に有罪を宣告された人間は、神の正義に対して負債者なのである。しかも、その負債に対してわたしも他のすべての罪人たちも最低の償いも支払えないのである。

 

 

 

真に神の御子であり、わたしたち罪人の仲間となられた主イエス・キリストの十字架の贖いがなければ、わたしも他のすべての罪人たちも聖にして義なる神の裁きにより滅びに至る以外にないのである。

 

 

 

 

 

宮崎訳は、「第五の祈願において、私たちは、自分も他のすべての人も、原罪と現行罪の双方において咎あるものであり、そのために神の義に対して負債ある者となっていること、また、その負債に対して自分も他のどのような被造物も、最小限の償いすらなしえないこと」と訳されている。

 

 

 

 聖書は神の天地創造から始まり(創世記1)、神が創造された善なる被造世界がアダムの原罪により罪へと堕してしまった、これが創世記3章の堕落物語である。神が造られた世界は本来善であった。人間の原罪によって被造世界に罪と悪が入ったのである(創世記4章以下、ローマ5:12)

 

 

 

 アダムの原罪により生まれながらの人間には咎があり、それゆえにカインのように神に反逆し、弟アベルを殺すという現行罪をなしたのである。カインは聖にして義なる神の御前で咎と弟殺しという現行罪を裁かれる者となったのである(創世記4)。しかし、神はカインを裁かれないで、彼が罪を悔いて、神に立ち帰るように、彼の額にしるしをし、彼に「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」という御言葉で、他の人々によってアベルの復讐を受けることがないようにカインを守られたのである。

 

 

 

 カインは町を作り、自分の身を守ろうとしたが、アダム同様に神の御前で犯した罪、神の義に対する負債を支払うことはなかったのである。聖書に登場するすべての罪人たちは、誰も義なる神に対する自分たちの負債を支払うことはなかったのである。だから、神はご自身が御子主イエス・キリストにあって選ばれた罪人たちの負債を支払うために、主イエスを十字架につけられたのである。この認識に立って主の祈りの第5の祈願について学ぶのである。

 

 

 

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答141 主の201782

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問194 第五の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。

 

答 「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という第五の祈願において、自分も他のすべての人々も、原罪と現実の犯罪との両方について有罪であり、そのために神の正義に対して負債者となっていること、また自分も他のどのような被造物も、その負債に対しては最低の償いも支払えないことを認めつつ、自分自身と他人のために、次のことを祈るのである。すなわち、神がその自由な恵みから、信仰によって理解され適用されるキリストの服従と償いを通して、わたしたちをとがからも罰からも共に免除して下さること、その愛するみ子にあってわたしたちを受け入れて下さること、そのいつくしみと恵みとをわたしたちの日ごとにいよいよ許しの確信を与えることにおいて、平和と喜びを満たして下さることである。この許しの確信は、わたしたちが心から他人の罪を許すという証しを自分自身のうちに持つ時、一層力強く求め、勇気をもって期待できるものである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問194と答、すなわち、第5の祈願の「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」を、先週に続いて学びましょう。

 

 

 

 前回は原罪と現行罪というわたしたちの罪責を学び、それによってわたしたちが神の義に対して負債者となっていることを知った。さらにこの負債を、わたしたちと他の人、そしてすべての被造物が神に償い得ないことを学んだ。

 

 

 

そして、ウ大教理はこの二つのことを認めて、わたしたちに「第5の祈願」が、次の4つことを祈るのであると教える。第1は、「神が、その無償の恵みから、信仰によって認識され、かつ適用されるキリストの服従と償いを通して、私たちが罪の咎と罰のいずれをも免れるようにしてくださること」(宮崎訳)である。

 

 

 

 神は、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みより無償で」(ローマ3:24)、わたしたちの罪の咎(神の義に対する負債)と罰(刑罰を負う義務)を免れさせてくださったのである。キリストの服従と償いは彼を信じる者のための贖いの業である(ローマ3:2526)。ウ大教理は、「キリストの服従と償い」は信仰によって認識され、適用されるものであると教えている。

 

 

 

 第2は、「愛する御子において私たちを受け入れてくださること、私たちに対して憐れみと恵みを継続してくださること」(宮崎訳)である。

 

 

 

 ウ大教理は、わたしたちに父なる神の和解と神の子とされる恵みを、「愛する御子において私たちを受け入れてくださる」と表現する。父なる神の和解と神の子とされる恵みは、決して一時的で、後で取り消されることはない。だから、ウ大教理は、わたしたちに神の和解と子とされる教理に基づき憐れみ(愛顧)と恵みを継続してくださるようにと祈ることを教えている。

 

 

 

 第3は、「私たちの日ごとの失敗を赦してくださること」(宮崎訳)である。

 

 

 

 宗教改革者たちは「信仰義認」を信じた。そして、罪赦されたキリスト者の聖化の歩みが、なお罪人の生涯であることを自覚していた。なぜなら、罪の残滓が残っており、それゆえに神の御前に失敗を繰り返すからである。だから、宗教改革者ルターは「キリスト者の生涯は悔い改めの生涯である」と言った。 

 

 

 

 第4は、「日ごとにいよいよ罪の赦しの確信を与えて、私たちを平和と喜びで満たしてくださること」(宮崎訳)である。

 

 

 

 ダビデは、自らの罪を主なる神に悔いて祈った。「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えて下さい」(詩編51:1214)と。聖霊のお働きなしに、罪の赦しを確信し、心に平和と喜びを得ることはできないのである。

 

 

 

 最後にウ大教理は、わたしたちに自分が他の人の罪と過ちを赦す証しを内に持つ時、大胆に期待して、以上の祈りを求めて、祈るように励まされると教えている。