フィリピの信徒への手紙説教11 主の2025年5月4日
では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
フィリピの信徒への手紙第三章1-11節
説教題:「パウロの転機」
本日はフィリピの信徒への手紙三章1-11節の御言葉をお読みしました。その中から7節から11節の御言葉を学びましょう。
使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに偽教師たちに警戒するようにという手紙を書き送りました。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と述べています。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに以前にも偽教師に警戒するようにという手紙を書き送っていたのでしょう。パウロは彼らに何度も繰り返し警告することで、彼らが偽教師に惑わされることがなく、福音の真理に立つことを願ったのです。
なぜなら割礼を身に付けた偽教師たちはパウロが語ります福音の真理よりも、人間の誇りを伝えていたからです。彼らは肉の思いで、すなわちこの世的なこと、人間的なことを誇っていたからです。そして彼らは神の教会を内から破壊しようとしたのです。
だからパウロは三章2節でフィリピ教会のキリスト者たちに「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と強い語調で述べているのです。偽教師たちは体に割礼の切り傷がありました。彼らはユダヤ人でした。彼らは生まれて八日目に割礼を受けました。彼らはその割礼を誇り、イスラエル人であることを誇りました。彼らは神の律法を守り、ユダヤ人の習慣を守っていることを誇りました。
そこでパウロも彼ら同様に肉の思いを誇ろうと思えば誇れると話しました。5節と6節です。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
これらについては前回お話ししました。パウロは六つのことを誇っています。最初の三つは生まれながら彼に与えられた誇りです。パウロは第一に生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民でありました。第二イスラエルの民の中でもベニヤミン族の出身でした。第三にヘブライ語を話すヘブライ人の中のヘブライ人でした。さらにパウロには彼が努力して得た三つの誇りがありました。第一に律法に関してはとても厳格なファリサイ派の一員でした。第二にその熱心さのゆえにパウロは教会の迫害者となりました。第三に彼はモーセ律法への忠実さという点では誰からも非難されるところがありませんでした。パウロはこのような人間的なことを誇り、神の律法を守ることに彼の救いの根拠を見出し、自らの力を頼りにしていたのです。
ところがパウロは7節で彼の回心の体験を次のように述べています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」キリストとの出会いでパウロは180度方向転換したのです。パウロはダマスコへの途上で復活の主イエスに出会いました。その出会いがパウロの人生を変えました。パウロは生まれて八日目に割礼を受けたイスラエルの民であるという誇りも、律法を守り自分の義に生き、栄誉を得ようとする人間的な誇りも、キリストのゆえに一切捨てたのです。これまで誇りであったものがパウロにとってキリストのゆえにすべて何の意味もないものになりました。それどころか、パウロにとって損失、マイナスになりました。それがパウロの回心の体験でした。
さらにパウロは8節でパウロの今の心境を次のように述べています。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。「そればかりか」は、7節の「しかし」と同じ言葉です。同じ言葉を「そればかりか」と訳したのはパウロの強い否定を言い表すためでしょう。今パウロはキリストを体験する素晴らしさのゆえに、「今では他の一切を損失とみています」と述べているのです。パウロはダマスコへの途上で復活の主イエスに出会ってから、この手紙を書いている今までキリストの素晴らしさを体験し続けて、この世に存在する価値ありと見なされるすべてのものを今では損と思っているのです。それはパウロがこの世に存在している価値あるものを手に入れられないからではありません。パウロが死人の中から復活された主イエスの素晴らしさを体験したからです。この世に存在する価値あるものはいつか失われてしまいます。ヨブ記のヨブが自然災害や禍で自分の子供たちや財産をすべて失った時に、彼は言いました、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」。わたしたちはこの世に存在する価値あるものを何ひとつ持ってこの世を去ることはできません。キリストに出会わなければ、キリストがわたしの罪のために死なれ、わたしの永遠の命を保証するために復活されたという、この素晴らしいわたしたちの信仰体験はありません。それどころか、わたしたちは自らの罪によってわたしたちの命さえ失ってしまうのです。
パウロは7節と8節で「見なす」という動詞を三度使っています。これは「思う」という動詞です。7節の「見なす」はパウロがダマスコへの途上で復活の主イエスに出会って以来、彼がキリストの素晴らしさを体験し続け、今に至るまで彼がこの世に存在する価値あると思ったものをすべて損であったと思っているのです。そして8節の二つの「見なす」という動詞は今パウロがキリストのゆえに損にしてしまっている事実を、今のパウロの状況下で述べているのです。パウロはキリストを体験した素晴らしさのゆえに、この世にある価値あるものすべてを損と思っています。パウロは損と思うだけでなく、今その思いで生きているのです。パウロは「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と述べていますね。パウロはキリストのために何もかもすべて失いましたが、言い方は悪いですが「そんなものは糞くらえだ」とパウロは思っていたと思います。
パウロにとって大切なことはキリストを得ることです。8節の終わりにパウロは「キリストを得」と述べていますね。これはキリストを宝物のように大切にしまっておくことではありません。むしろパウロの唯一の益であるキリストに向かって絶えずパウロが体を伸ばして、キリストを追い求めていく姿勢のことです。パウロはダマスコへの途上で復活の主イエスとの出会いという素晴らしい信仰体験をしたのです。その日以来彼はこの世のものには目もくれないで、ただキリストを、信仰を通して追い求めているのです。
パウロは9節で「キリストを得」ることを次のように述べています。「キリストの内にいる者と認められるためです。」パウロは自分がキリストの内にある者とされることを望んでいたのです。そのための道は神の御前に義とされる方法しかありません。パウロはキリストに出会う前には、ファリサイ派として神の律法を守って自分の義を神の御前に立てようとしたのです。しかし、その方法は不可能であることが明らかになりました。なぜなら罪人であるわたしたちの心には欲する善をなさず、悪をなすという罪があるからです。パウロはキリストを知り、キリストへの信仰による義を知りました。キリストはパウロやわたしたちに代わって神の律法を守られました。そして律法を守れないパウロとわたしたちの罪の身代わりとして十字架に死なれました。神はキリストを信じる信仰によってパウロとわたしたちを御自身の御前で義とする道を開かれたのです。しかもキリストへの信仰はパウロやわたしたちの功績ではなく、神がパウロとわたしたちに与えてくださる賜物です。
「神から与えられる義」を、パウロは10-11節でこう述べています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」パウロは義認を、すなわち、わたしたちキリスト者がキリストの内にいる者と認められることを、キリストとその御業において見ているのではないでしょうか。義認はわたしたちをキリストの十字架の死と復活との交わりの中に置くことではないでしょうか。それによって使徒信条が告白するようにわたしたちは「罪の赦しと体の甦りと永遠の命」にあずかるのではないでしょうか。
神の前に義とされることはただ一度のことです。ただ一度わたしたちはキリストを信じる信仰によって神の御前に義とされます。これをわたしたちはキリストの救いと言っているのです。しかしパウロは「キリストを得」ると言っています。義とされたキリスト者はキリストとの交わりの中に生き、キリストを追い求めるからです。
キリストの救いを経験したキリスト者は、パウロに言わせると「わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。パウロに言わせると、キリスト者は受難と死をくぐって復活されたキリストの生にあずかるのです。洗礼を受けたとき、受難と復活のキリストと一つにあわされるのです。このようにキリストの教会はこの世にあってキリストの御苦しみに参与するのです。そしてその苦しみの中でわたしたちはキリストの内にいる者と認められるのです。
しかし、この世における教会とキリスト者の苦難は御国への途上に過ぎません。キリストが受難と死から復活を通して御国へと昇られたように、パウロはキリスト者の救いの完成は復活を通して御国に至ることだと考えているのです。そしてパウロはキリストが墓の中から復活されたその神の御力によって、今わたしたちの教会とわたしたちは御国へと支えられているのだと言おうとしているのです。今日はここまでにします。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第三章7-11節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちの主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさをお教えくださり感謝します。
主イエスよ、わたしたちの教会は小さな群れです。小さいが故に常に困難があります。伝道が振るわないという困難があり、高齢化があり、礼拝の出席が困難な兄弟姉妹がいます。
主イエスよ、その困難な中でも毎週の礼拝が守られ、兄弟姉妹が共にあずかる礼拝説教の恵みにあずかれることを感謝します。
わたしたちも受難と復活の主イエス・キリストを知り、その御力にあずかり、御国へと歩ませてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
フィリピの信徒への手紙説教12 主の2025年5月11日
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかり立ちなさい。
フィリピの信徒への手紙第三章12-第四章1節
説教題:「パウロの目標」
本日はフィリピの信徒への手紙三章12節から四章1節の御言葉をお読みしました。その中から3章12節から16節の御言葉を学びましょう。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに三章12節で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と述べています。これまでパウロがフィリピ教会のキリスト者たちに三章2節から語っていた語調と違いますね。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに救いの根拠を、律法を守ることに求める偽りの教師たちに対して警戒するように厳しく教えてきました。しかし12節のパウロの御言葉はその警告とは異なるものです。わたしが想像しますにフィリピ教会のキリスト者たちの中に自分たちは既にキリストを得て、救われ完全な者となっていると考える者たちがいたのでしょう。
そして使徒パウロがフィリピ教会のキリスト者たちに三章10-11節で「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と述べていますね。その御言葉を、パウロは既に救われて完全な者となっていると思っている者たちが誤解するのではないかと思ったのでしょう。そこで既に救われ、完全な者となり、キリストを捕らえていると思っている者たちにその誤りを知らせるために、パウロはこの世におけるキリスト者の聖化を、パウロ自身の生きざまを通して教えようとしたのです。
だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と強く言わなければなりませんでした。ここでパウロが「既にそれを得た」と言い、「既に完全な者となっている」と言い、「捕らえよう」と言っていますが、パウロはこの三つの動詞の目的語を述べてはいません。パウロは何を得たのか、何を完全な者と言っているのか、そして何を捕らえようとしているのか、述べていないのです。述べていないのは、パウロに関心がなかったからだと思います。むしろ、これらの言葉は自分たちが既に救われ、完全な者となり、捕らえていると思い込んでいた者たちのよく口にする言葉だったのでしょう。そしてパウロは彼らと自分は反対の立場にあるのだと言おうとしているのでしょう。
パウロは十字架のキリストの苦しみと受難にあずかり、キリストの復活の御力を十分味わい、キリストを完全に知りたいと願っていました。しかし、それはこの世においては達成できません。すべてのキリスト者の努力目標なのです。そのようなキリスト者のこの世の生きざまを根拠づけているのが、パウロの言う「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」という御言葉です。
パウロの言う「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」という御言葉は、パウロがダマスコへの途上で復活の主イエス・キリストに出会ったことを指しているのでしょう。キリストとの出会いがパウロの人生を180度方向転換させ、キリストへの信仰へ、キリストの召しに答えることへと、パウロを追い求めさせたのです。
だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに13-14節で次のように述べています。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
パウロはキリストの救いを確信していないのではありません。むしろ、パウロはキリストの救いを確信している者は今に満足していないと言っているのです。なぜならキリスト者の救いが完成していないからです。パウロの言葉で言えば「死者の中からの復活に達したい」ということです。その時パウロはわたしたちの救いが完成するのだと言っているのです。
だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。」と述べているのです。カルヴァンは註解書において「彼は未だ彼の召命の目的に達していなかったが故に、もっと先へ進もうと努力した、ということを繰り返しているのである」と述べています。確かにパウロは復活の主イエスから異邦人への使徒として召されました。パウロはキリストに救われただけでありません。復活のキリストから異邦人たちにキリストを宣べ伝えるという召しを与えられました。
それゆえにパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに次のように述べているのです。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」パウロはキリストに召されて異邦人の使徒となった自分の生き方を競技場のアスリートに譬えているのです。競技場のアスリートにとって常に「なすべきことはただ一つ」です。競技に勝って賞を得ることです。同様にパウロもキリストに召された使徒として、キリストに「よくやった忠実な僕よ」という誉れを得るために、過去のことはすべて忘れ、ただ競技場のアスリートたちが前のゴールに向けて身体の全身を向けるように、御国へと召してくださるキリストの栄誉を得ようと、すべての異邦人にキリストの福音を伝えるという目標に向かって励むのです。
このパウロの信仰の姿勢からわたしたちが教えられることは次のことです。キリスト者はキリストへの信仰によって救われて終わりではないということです。パウロはこの世においてキリストに救われたキリスト者にはキリストの召しがあると教えているのです。パウロはこの世におけるキリスト者の生活を競技場に譬えています。わたしたちは御国へと召してくださるキリストから「よくやった忠実な僕よ」という栄誉を得るために、この世のあらゆる苦難と戦いの中でキリストに委ねられた召しを果たすために、全力で走りぬくのです。ゴールは御国です。キリスト者はだれでも御国にゴールできます。しかしキリストの栄誉をいただくのは、キリストの召しを忠実に果たした者だけです。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに15節で次のように述べています。「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」カルヴァンは註解書において次のように解説しています。「これは完全な者がすべて従わなければならない規準であるとパウロは言う。さて、規準は、われわれはキリストの義のみを誇り、すべてのものよりもこれを選んで、われわれを幸いな復活に導くキリストの苦悩に与ることを渇望するために、すべてのものを頼みとすることを捨てなければならない、ということである」と。
パウロが言う「完全な者」とは完全に救われている者という意味ではなく、パウロがコリントへの信徒への手紙一二章6節で述べている「信仰に成熟した人たち」のことです。彼らはパウロのように二心なくキリストを追い求めていたでしょう。そしてパウロと同様に彼らは御国に召されるキリストの競技のコースを走っている者であり、キリストに「よくやった忠実な僕よ」という誉れを得ていない未完成の者たちです。それゆえにキリストに捕らえられて、御国に召されるまでは、この世において絶えずキリストを繰り返し捕らえようとしなければならないのです。
しかしパウロとは異なる考えを持つ者たちにパウロは15節後半で次のように述べています。「しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」パウロは完全な者となっていると思っていますキリスト者たちに対して、遠回しにあなたがたの思いは間違っていると述べているのだと、わたしは思います。なぜなら自分は完全な者であると思っていたキリスト者たちは何らかの神の啓示によって特別な認識や悟りを自分たちは与えられていると思っていたようです。だからパウロは彼らに遠回しに言いました。「あなたがたが常々主張しているように、あなたがたに神の啓示が現実に与えられているのであれば、神は必ずこの問題を解決してくださるでしょう」と。しかし、パウロは自分がフィリピ教会のキリスト者たちに主張することが正しいと確信するのです。
パウロは間違いであっても、それは見解の違いであり、教会の一致に、教理の一致に違反しないことには寛大であると、わたしは思います。それは16節でパウロが次のように述べていることからも分かります。「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」パウロは白黒を付けることよりも、フィリピ教会のキリスト者たちの一致を大切にしたと思います。パウロはこの世でキリスト者の完全聖化はあり得ないと思っています。むしろキリスト者たちが御国に召されるキリストを追い求めて、救いの達成に努めてほしいと願っています。だから彼はあからさまに自分がキリストに召された使徒としての働きを続けているのかを証ししたのです。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに自分を模範にして歩んでほしいと思っているのです。
次回そのことを学びましょう。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第三章12-16節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちはキリストに捕らえられて、生涯キリストを追い求めて、御国へと至れる恵みを感謝します。
わたしたちはこの世において救いの完成を目指して歩む者です。この世は常に困難があります。しかしキリストに「よくやった。忠実な僕よ」とお褒めをいただけるように信仰の道を歩ませてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。