フィリピの信徒への手紙説教11 主の2025年5月4日
では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
フィリピの信徒への手紙第三章1-11節
説教題:「パウロの転機」
本日はフィリピの信徒への手紙三章1-11節の御言葉をお読みしました。その中から7節から11節の御言葉を学びましょう。
使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに偽教師たちに警戒するようにという手紙を書き送りました。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と述べています。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに以前にも偽教師に警戒するようにという手紙を書き送っていたのでしょう。パウロは彼らに何度も繰り返し警告することで、彼らが偽教師に惑わされることがなく、福音の真理に立つことを願ったのです。
なぜなら割礼を身に付けた偽教師たちはパウロが語ります福音の真理よりも、人間の誇りを伝えていたからです。彼らは肉の思いで、すなわちこの世的なこと、人間的なことを誇っていたからです。そして彼らは神の教会を内から破壊しようとしたのです。
だからパウロは三章2節でフィリピ教会のキリスト者たちに「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と強い語調で述べているのです。偽教師たちは体に割礼の切り傷がありました。彼らはユダヤ人でした。彼らは生まれて八日目に割礼を受けました。彼らはその割礼を誇り、イスラエル人であることを誇りました。彼らは神の律法を守り、ユダヤ人の習慣を守っていることを誇りました。
そこでパウロも彼ら同様に肉の思いを誇ろうと思えば誇れると話しました。5節と6節です。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
これらについては前回お話ししました。パウロは六つのことを誇っています。最初の三つは生まれながら彼に与えられた誇りです。パウロは第一に生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民でありました。第二イスラエルの民の中でもベニヤミン族の出身でした。第三にヘブライ語を話すヘブライ人の中のヘブライ人でした。さらにパウロには彼が努力して得た三つの誇りがありました。第一に律法に関してはとても厳格なファリサイ派の一員でした。第二にその熱心さのゆえにパウロは教会の迫害者となりました。第三に彼はモーセ律法への忠実さという点では誰からも非難されるところがありませんでした。パウロはこのような人間的なことを誇り、神の律法を守ることに彼の救いの根拠を見出し、自らの力を頼りにしていたのです。
ところがパウロは7節で彼の回心の体験を次のように述べています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」キリストとの出会いでパウロは180度方向転換したのです。パウロはダマスコへの途上で復活の主イエスに出会いました。その出会いがパウロの人生を変えました。パウロは生まれて八日目に割礼を受けたイスラエルの民であるという誇りも、律法を守り自分の義に生き、栄誉を得ようとする人間的な誇りも、キリストのゆえに一切捨てたのです。これまで誇りであったものがパウロにとってキリストのゆえにすべて何の意味もないものになりました。それどころか、パウロにとって損失、マイナスになりました。それがパウロの回心の体験でした。
さらにパウロは8節でパウロの今の心境を次のように述べています。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。「そればかりか」は、7節の「しかし」と同じ言葉です。同じ言葉を「そればかりか」と訳したのはパウロの強い否定を言い表すためでしょう。今パウロはキリストを体験する素晴らしさのゆえに、「今では他の一切を損失とみています」と述べているのです。パウロはダマスコへの途上で復活の主イエスに出会ってから、この手紙を書いている今までキリストの素晴らしさを体験し続けて、この世に存在する価値ありと見なされるすべてのものを今では損と思っているのです。それはパウロがこの世に存在している価値あるものを手に入れられないからではありません。パウロが死人の中から復活された主イエスの素晴らしさを体験したからです。この世に存在する価値あるものはいつか失われてしまいます。ヨブ記のヨブが自然災害や禍で自分の子供たちや財産をすべて失った時に、彼は言いました、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」。わたしたちはこの世に存在する価値あるものを何ひとつ持ってこの世を去ることはできません。キリストに出会わなければ、キリストがわたしの罪のために死なれ、わたしの永遠の命を保証するために復活されたという、この素晴らしいわたしたちの信仰体験はありません。それどころか、わたしたちは自らの罪によってわたしたちの命さえ失ってしまうのです。
パウロは7節と8節で「見なす」という動詞を三度使っています。これは「思う」という動詞です。7節の「見なす」はパウロがダマスコへの途上で復活の主イエスに出会って以来、彼がキリストの素晴らしさを体験し続け、今に至るまで彼がこの世に存在する価値あると思ったものをすべて損であったと思っているのです。そして8節の二つの「見なす」という動詞は今パウロがキリストのゆえに損にしてしまっている事実を、今のパウロの状況下で述べているのです。パウロはキリストを体験した素晴らしさのゆえに、この世にある価値あるものすべてを損と思っています。パウロは損と思うだけでなく、今その思いで生きているのです。パウロは「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と述べていますね。パウロはキリストのために何もかもすべて失いましたが、言い方は悪いですが「そんなものは糞くらえだ」とパウロは思っていたと思います。
パウロにとって大切なことはキリストを得ることです。8節の終わりにパウロは「キリストを得」と述べていますね。これはキリストを宝物のように大切にしまっておくことではありません。むしろパウロの唯一の益であるキリストに向かって絶えずパウロが体を伸ばして、キリストを追い求めていく姿勢のことです。パウロはダマスコへの途上で復活の主イエスとの出会いという素晴らしい信仰体験をしたのです。その日以来彼はこの世のものには目もくれないで、ただキリストを、信仰を通して追い求めているのです。
パウロは9節で「キリストを得」ることを次のように述べています。「キリストの内にいる者と認められるためです。」パウロは自分がキリストの内にある者とされることを望んでいたのです。そのための道は神の御前に義とされる方法しかありません。パウロはキリストに出会う前には、ファリサイ派として神の律法を守って自分の義を神の御前に立てようとしたのです。しかし、その方法は不可能であることが明らかになりました。なぜなら罪人であるわたしたちの心には欲する善をなさず、悪をなすという罪があるからです。パウロはキリストを知り、キリストへの信仰による義を知りました。キリストはパウロやわたしたちに代わって神の律法を守られました。そして律法を守れないパウロとわたしたちの罪の身代わりとして十字架に死なれました。神はキリストを信じる信仰によってパウロとわたしたちを御自身の御前で義とする道を開かれたのです。しかもキリストへの信仰はパウロやわたしたちの功績ではなく、神がパウロとわたしたちに与えてくださる賜物です。
「神から与えられる義」を、パウロは10-11節でこう述べています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」パウロは義認を、すなわち、わたしたちキリスト者がキリストの内にいる者と認められることを、キリストとその御業において見ているのではないでしょうか。義認はわたしたちをキリストの十字架の死と復活との交わりの中に置くことではないでしょうか。それによって使徒信条が告白するようにわたしたちは「罪の赦しと体の甦りと永遠の命」にあずかるのではないでしょうか。
神の前に義とされることはただ一度のことです。ただ一度わたしたちはキリストを信じる信仰によって神の御前に義とされます。これをわたしたちはキリストの救いと言っているのです。しかしパウロは「キリストを得」ると言っています。義とされたキリスト者はキリストとの交わりの中に生き、キリストを追い求めるからです。
キリストの救いを経験したキリスト者は、パウロに言わせると「わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。パウロに言わせると、キリスト者は受難と死をくぐって復活されたキリストの生にあずかるのです。洗礼を受けたとき、受難と復活のキリストと一つにあわされるのです。このようにキリストの教会はこの世にあってキリストの御苦しみに参与するのです。そしてその苦しみの中でわたしたちはキリストの内にいる者と認められるのです。
しかし、この世における教会とキリスト者の苦難は御国への途上に過ぎません。キリストが受難と死から復活を通して御国へと昇られたように、パウロはキリスト者の救いの完成は復活を通して御国に至ることだと考えているのです。そしてパウロはキリストが墓の中から復活されたその神の御力によって、今わたしたちの教会とわたしたちは御国へと支えられているのだと言おうとしているのです。今日はここまでにします。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第三章7-11節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちの主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさをお教えくださり感謝します。
主イエスよ、わたしたちの教会は小さな群れです。小さいが故に常に困難があります。伝道が振るわないという困難があり、高齢化があり、礼拝の出席が困難な兄弟姉妹がいます。
主イエスよ、その困難な中でも毎週の礼拝が守られ、兄弟姉妹が共にあずかる礼拝説教の恵みにあずかれることを感謝します。
わたしたちも受難と復活の主イエス・キリストを知り、その御力にあずかり、御国へと歩ませてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
フィリピの信徒への手紙説教12 主の2025年5月11日
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかり立ちなさい。
フィリピの信徒への手紙第三章12-第四章1節
説教題:「パウロの目標」
本日はフィリピの信徒への手紙三章12節から四章1節の御言葉をお読みしました。その中から3章12節から16節の御言葉を学びましょう。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに三章12節で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と述べています。これまでパウロがフィリピ教会のキリスト者たちに三章2節から語っていた語調と違いますね。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに救いの根拠を、律法を守ることに求める偽りの教師たちに対して警戒するように厳しく教えてきました。しかし12節のパウロの御言葉はその警告とは異なるものです。わたしが想像しますにフィリピ教会のキリスト者たちの中に自分たちは既にキリストを得て、救われ完全な者となっていると考える者たちがいたのでしょう。
そして使徒パウロがフィリピ教会のキリスト者たちに三章10-11節で「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と述べていますね。その御言葉を、パウロは既に救われて完全な者となっていると思っている者たちが誤解するのではないかと思ったのでしょう。そこで既に救われ、完全な者となり、キリストを捕らえていると思っている者たちにその誤りを知らせるために、パウロはこの世におけるキリスト者の聖化を、パウロ自身の生きざまを通して教えようとしたのです。
だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と強く言わなければなりませんでした。ここでパウロが「既にそれを得た」と言い、「既に完全な者となっている」と言い、「捕らえよう」と言っていますが、パウロはこの三つの動詞の目的語を述べてはいません。パウロは何を得たのか、何を完全な者と言っているのか、そして何を捕らえようとしているのか、述べていないのです。述べていないのは、パウロに関心がなかったからだと思います。むしろ、これらの言葉は自分たちが既に救われ、完全な者となり、捕らえていると思い込んでいた者たちのよく口にする言葉だったのでしょう。そしてパウロは彼らと自分は反対の立場にあるのだと言おうとしているのでしょう。
パウロは十字架のキリストの苦しみと受難にあずかり、キリストの復活の御力を十分味わい、キリストを完全に知りたいと願っていました。しかし、それはこの世においては達成できません。すべてのキリスト者の努力目標なのです。そのようなキリスト者のこの世の生きざまを根拠づけているのが、パウロの言う「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」という御言葉です。
パウロの言う「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」という御言葉は、パウロがダマスコへの途上で復活の主イエス・キリストに出会ったことを指しているのでしょう。キリストとの出会いがパウロの人生を180度方向転換させ、キリストへの信仰へ、キリストの召しに答えることへと、パウロを追い求めさせたのです。
だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに13-14節で次のように述べています。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
パウロはキリストの救いを確信していないのではありません。むしろ、パウロはキリストの救いを確信している者は今に満足していないと言っているのです。なぜならキリスト者の救いが完成していないからです。パウロの言葉で言えば「死者の中からの復活に達したい」ということです。その時パウロはわたしたちの救いが完成するのだと言っているのです。
だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。」と述べているのです。カルヴァンは註解書において「彼は未だ彼の召命の目的に達していなかったが故に、もっと先へ進もうと努力した、ということを繰り返しているのである」と述べています。確かにパウロは復活の主イエスから異邦人への使徒として召されました。パウロはキリストに救われただけでありません。復活のキリストから異邦人たちにキリストを宣べ伝えるという召しを与えられました。
それゆえにパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに次のように述べているのです。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」パウロはキリストに召されて異邦人の使徒となった自分の生き方を競技場のアスリートに譬えているのです。競技場のアスリートにとって常に「なすべきことはただ一つ」です。競技に勝って賞を得ることです。同様にパウロもキリストに召された使徒として、キリストに「よくやった忠実な僕よ」という誉れを得るために、過去のことはすべて忘れ、ただ競技場のアスリートたちが前のゴールに向けて身体の全身を向けるように、御国へと召してくださるキリストの栄誉を得ようと、すべての異邦人にキリストの福音を伝えるという目標に向かって励むのです。
このパウロの信仰の姿勢からわたしたちが教えられることは次のことです。キリスト者はキリストへの信仰によって救われて終わりではないということです。パウロはこの世においてキリストに救われたキリスト者にはキリストの召しがあると教えているのです。パウロはこの世におけるキリスト者の生活を競技場に譬えています。わたしたちは御国へと召してくださるキリストから「よくやった忠実な僕よ」という栄誉を得るために、この世のあらゆる苦難と戦いの中でキリストに委ねられた召しを果たすために、全力で走りぬくのです。ゴールは御国です。キリスト者はだれでも御国にゴールできます。しかしキリストの栄誉をいただくのは、キリストの召しを忠実に果たした者だけです。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに15節で次のように述べています。「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」カルヴァンは註解書において次のように解説しています。「これは完全な者がすべて従わなければならない規準であるとパウロは言う。さて、規準は、われわれはキリストの義のみを誇り、すべてのものよりもこれを選んで、われわれを幸いな復活に導くキリストの苦悩に与ることを渇望するために、すべてのものを頼みとすることを捨てなければならない、ということである」と。
パウロが言う「完全な者」とは完全に救われている者という意味ではなく、パウロがコリントへの信徒への手紙一二章6節で述べている「信仰に成熟した人たち」のことです。彼らはパウロのように二心なくキリストを追い求めていたでしょう。そしてパウロと同様に彼らは御国に召されるキリストの競技のコースを走っている者であり、キリストに「よくやった忠実な僕よ」という誉れを得ていない未完成の者たちです。それゆえにキリストに捕らえられて、御国に召されるまでは、この世において絶えずキリストを繰り返し捕らえようとしなければならないのです。
しかしパウロとは異なる考えを持つ者たちにパウロは15節後半で次のように述べています。「しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」パウロは完全な者となっていると思っていますキリスト者たちに対して、遠回しにあなたがたの思いは間違っていると述べているのだと、わたしは思います。なぜなら自分は完全な者であると思っていたキリスト者たちは何らかの神の啓示によって特別な認識や悟りを自分たちは与えられていると思っていたようです。だからパウロは彼らに遠回しに言いました。「あなたがたが常々主張しているように、あなたがたに神の啓示が現実に与えられているのであれば、神は必ずこの問題を解決してくださるでしょう」と。しかし、パウロは自分がフィリピ教会のキリスト者たちに主張することが正しいと確信するのです。
パウロは間違いであっても、それは見解の違いであり、教会の一致に、教理の一致に違反しないことには寛大であると、わたしは思います。それは16節でパウロが次のように述べていることからも分かります。「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」パウロは白黒を付けることよりも、フィリピ教会のキリスト者たちの一致を大切にしたと思います。パウロはこの世でキリスト者の完全聖化はあり得ないと思っています。むしろキリスト者たちが御国に召されるキリストを追い求めて、救いの達成に努めてほしいと願っています。だから彼はあからさまに自分がキリストに召された使徒としての働きを続けているのかを証ししたのです。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに自分を模範にして歩んでほしいと思っているのです。
次回そのことを学びましょう。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第三章12-16節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちはキリストに捕らえられて、生涯キリストを追い求めて、御国へと至れる恵みを感謝します。
わたしたちはこの世において救いの完成を目指して歩む者です。この世は常に困難があります。しかしキリストに「よくやった。忠実な僕よ」とお褒めをいただけるように信仰の道を歩ませてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
フィリピの信徒への手紙説教13 主の2025年6月1日
兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかり立ちなさい。
フィリピの信徒への手紙第三章17節-第四章1節
説教題:「パウロの模範」
本日はフィリピの信徒への手紙三章17節から四章1節の御言葉を学びましょう。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに自分を模範にして歩んでほしいと思っています。だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに17節前半で次のように命じているのです。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」パウロはフィリピ教会のキリスト者たちが皆共にパウロを模範とするように願っています。それはパウロがキリスト者の完全な模範であるからではありません。むしろ、パウロは自分が完全な者であるとは思ってはおりません。パウロは後ろのものを忘れて、前のものを得ようと全身で、キリスト・イエスによって上に召してお与えくださる神さまの栄誉を得ようと、その目標に向けてひたすら信仰生活を励んでいるのです。そのパウロの信仰の姿勢を、フィリピ教会のキリスト者たち一同が模範にして信仰生活に励んでくれることを願っているのです。
わたしは思うのです。キリスト者はこの世では御国を目指す旅人だと。だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに御国を目指してこの世のものを忘れ、キリスト・イエスによって神が御国へと召してお与えくださる栄誉をパウロと共に全身で受け取るために、ひたすら主イエス・キリストに目を向けて走り続けてほしいのです。
またわたしは思うのです。キリスト者だけが御国への旅人ではないと。この世におけるキリストの体なる教会そのものが御国への旅人でないでしょうか。この世におけるキリスト教会そのものが御国への途上にあるのです。だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに17節後半で次のように命じています。「また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」
この地上にあるキリスト教会は毎週の日曜日に主に招かれ、神の御言葉を聞き、聖餐の恵みを共にあずかり、御国へと一つの目標を目指して歩んでいるのです。地上の教会は未だ御国に達していませんし、救いの完成にも達していません。パウロはそのことを自覚しています。だから彼は主イエス・キリストを仰ぎつつ、ひたすら御国を目指し、自らの救いの達成を追い求めているのです。それはパウロだけではありません。この世にあるキリスト教会が、主イエスに結ばれたキリスト者たちがひたすら御国を目指して、自らの救いの達成のために同じ方向に、同じ思いを持ち、この地上の生涯を走っているのです。
わたしたちの教会は小さな群れです。それだけにただ自分たちのことで精一杯になるかもしれません。しかし、パウロが「あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と命じますときに、キリスト教会はここにあるだけではないことに気づかされます。甲信地区には他にも同じ信仰を持つ二つの礼拝共同体があります。山梨栄光教会と長野まきば教会です。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにテサロニケ教会やコリント教会のキリスト者たちを思い起こさせたでしょう。エフェソ教会のキリスト者たちを思い起こさせたかもしれません。わたしたちだけでありません。主日礼拝に集まり、神の御言葉を聞き、聖餐の恵みにあずかり、共に御国を目指して歩むキリスト者たちが多くいるのです。山梨栄光教会と長野まきば教会だけでありません。日本全国に日本キリスト改革派教会の諸教会・伝道所があります。そして日本キリスト改革派教会は2026年に創立80周年を迎えます。その時に四国中会の善通寺市の四国学院大学を会場にして記念信徒大会を開きます。まさにパウロが勧めますように全国から日本キリスト改革派教会の兄弟姉妹たちが集まり、修養会を開き、共に御国を目指して励まし合うのです。ここにパウロがいたなら、彼はわたしたちに声をかけて命じるでしょう。「あなたがたもその一人となりなさい」と。
しかし、パウロの命令の御言葉には光だけでなくて、影の部分もあります。キリストの十字架の光が射しこむこの世を旅する教会には影もあります。パウロが語りますキリストの福音の光を拒む者たちがいるからです。だから現実の教会とキリスト者にいろいろな困難があるのです。
その困難をパウロは、フィリピ教会のキリスト者たちに18節から19節で次のように述べているのです。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに何度も繰り返し警告してきたのです。そしてこの手紙を書いている今、パウロは声をあげて泣きながらキリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちについて語るのです。彼らは未信者でありません。フィリピ教会の偽りのキリスト者たちです。彼らは罪からの救いのために十字架の死を遂げられたキリストに敵対しているのです。なぜなら彼らは十字架のキリストの恵みよりも律法の遵守に救いの根拠を置き、口では自分たちは救いを達成した、完全な者であると吹聴していたのです。
このように十字架のキリストに敵対して歩む者は、パウロの言う後ろのものを忘れ、前のものに向かって全身を伸ばしつつ、上へと召される神の賞与を得ようという向上心は起こりません。御国を目指すよりもこの地上に満足しているのです。彼らは今のこの地上の生活に満足しています。そして彼らが究極に行き着く先を知らないのです。キリストの十字架以外に救いはありませんから、彼らは滅びる以外にありません。そのことを思うとパウロは涙なしに語れないのです。
キリストの十字架に敵対して歩む偽りのキリスト者たちは今この世の自分に満足しています。パウロは「彼らは腹を神とし」と言っていますが、パウロは腹を人の欲望と考えているのではないと思います。キリストの十字架以外に救いを求めることです。人を救う力のない事柄に心を向けることです。キリスト以外のこの世のものに、自分自身に救いの根拠を見出そうとすることです。パウロの目から見ると、彼らは自分たちが完全に救われていると思い、この世に置ける空しいことに頼り、「恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」ということになります。キリスト者にとってキリストの十字架以外のものに頼ることは恥ずべきことでないでしょうか。
よく考えてみてください。十字架のキリストは復活され、天に昇られました。それを使徒たちは見たのです。そして十字架のキリストを仰ぐキリスト者たちはこの地上にキリストを探そうとはしません。キリストの十字架に敵対する者たちだけがなおもこの世に、この地上に目を注ごうとするのです。
しかしパウロはわたしたちをこの世から、この地上から目を離して御国へと向けています。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに20-21節で次のように御国に目を向けて救い主イエス・キリストの救いを待ち望んでいると述べています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」
パウロはわたしたちキリスト者の行き着くところは天にあると言っています。「本国」は国籍です。キリスト者の国籍はこの世ではなく天にあります。しかしパウロは自らの力で天に至れるとは思っていません。御国からイエス・キリストがわたしたちの救い主として来てくださるのです。パウロは再臨のキリストの救いを待ち望んでいるのです。キリストは万物の創造者です。キリストはその御力によってわたしたちの死すべき体を、御自身が復活した御体に再創造してくださるのです。それによってキリスト者の救いが完成し、キリスト者は完全な者とされるのです。
再臨のキリストは御自身が死から復活された栄光の御体と同じ体にわたしたちの死すべき体を再創造してくださるのです。こうしてパウロが11節で「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と述べています救いの完成に至るのです。永遠の命と永遠の体が与えられ、わたしたちの救いは完成するのです。
パウロの4章1節の御言葉は、パウロがフィリピ教会のキリスト者たちに勧告してきた御言葉を総括しています。パウロが愛する、心から慕っているフィリピ教会のキリスト者たちに心からの励ましの言葉を述べているのです。本当にパウロにとってフィリピ教会のキリスト者たちは、彼の福音宣教によって得られた喜びであり、冠、すなわちパウロの誇りでありました。彼らは小さな群れであったのにパウロの宣教を助けてくれたのです。どんな苦難に遭っても、パウロと共にその苦難を共にしてくれたのです。パウロは彼らと共に御国から来られるキリストを待ち望みたかったのです。だから、パウロは彼らに「このように主によってしっかり立ちなさい」と励ましました。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに次のように言って彼らの信仰を励ましたかったのです。「愛する兄弟たち、わたしの喜びであり、誉れである兄弟たち、共に十字架のキリストのみを知ろうではないか。御国召してくださるキリストの恵みに目を注ごうではないか。十字架のキリストのみにわたしたちの救いがあるのだから、死から復活され、その御力によってわたしたちを救われる再臨のキリストを待ち望もうではないか。」
今日の学びはここまでです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第三章17節から第四章1節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちはこの世においては御国への旅人です。この世に満足することなく、御国からわたしたちの救いを完成させてくださる再臨のキリストを待ち望ませてください。
わたしたちはこの世においては死すべき者であり、朽ちてゆく者です。しかしわたしたちは御国にわたしたちの本籍があり、そこから再臨のキリストが来られて、わたしたちを、復活を通して救いへと導いてくださることを信じています。
どうか主イエスよ、速やかに来てください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
フィリピの信徒への手紙説教14 主の2025年6月8日
わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
フィリピの信徒への手紙第四章2-9節
説教題:「パウロの平和」
今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。五旬節とも言います。五旬節は五十日目の祭日という意味です。大麦の初穂の束をささげる日から数えて五十日目に行われたことからこのペンテコステという名称が生まれました。旧約聖書においては七週間経過するところから七週の祭りとも呼ばれていました。ペンテコステは過越や仮庵の祭りと共にユダヤの三大祭りとして、イスラエルの神の民たちは守っていました。その日はいかなる労働も禁じられ、聖なる会合が開かれ、イスラエルの成人男子は主の御前に出る義務がありました。また五旬節はシナイ山で神の民イスラエルが神の律法を付与された記念の日でもありました。過越の後の第一日曜から五十日目を五旬節として祝いました。
新約聖書では五旬節に聖霊降臨の出来事が起こりました。使徒言行録第2章にその出来事を記しています。主イエス・キリストは十字架に死なれて三日目に復活されました。復活の主イエス・キリストは四十日間十一弟子たちや他の弟子たちに現れ、天に昇られました。生前の主イエス・キリストは十二弟子たちにご自身が天に帰った後に聖霊を遣わすと約束されていました。その御言葉通りに主イエス・キリストが天に昇られて後、十日後のペンテコステの日に聖霊がエルサレムの教会に降るという出来事が起こりました。エルサレムの家の教会に集まりました主イエスの弟子たちに聖霊が燃える舌のように留まりました。するとそこに集まりました主イエスの弟子たちは聖霊に満たされ、新しい命を得て力と恵みによって神の偉大な御業をいろんな国々の言葉で語りだしました。
ペンテコステの祭りを祝うためにいろんな国々から人々がエルサレムに集まっていました。聖霊が降られた時に大きな音響が響きました。そしてエルサレム教会の主イエスの弟子たちが聖霊に満たされていろんな国の言葉でしゃべりました。それを見た人々は驚きました。自分たちの国の言葉でガリラヤ人たちが神の偉大な出来事を語っていたからです。しかし集まった人々の中には酒に酔っぱらっているのだと悪口を言う者たちもいました。
その時に十二使徒を代表してペトロが説教しました。ペトロは弁護して言いました、今は朝であり、この人たちは酒に酔っているのではないと。そして彼は旧約聖書の預言が実現したのだと、ペンテコステの日に聖霊が降ったのだと言いました。そして彼は集まった人々にキリストの福音を伝えました。彼はユダヤ人が十字架に付けたキリストがメシアであることを証ししました。そしてペテロの説教を聞いた人々の中で三千人が罪を悔い改め、洗礼を受け、エルサレム教会に加わりました。
こうして復活の主イエス・キリストがこの世に遣わされた聖霊がキリストの霊としてエルサレムの家の教会に集まった主イエスの弟子たちを生まれ変わらせ、新しい命を与え、キリストの福音を力強く人々に、ユダヤ人にも異邦人にも伝えさせたのです。
聖霊は今も地上の教会に共に居てくださいます。キリスト者一人一人の内に住まわれています。彼らを聖霊の宮としてくださっています。聖霊がキリスト者に信仰と主イエスに仕える御業の賜物をお与えくださいます。聖霊がキリストの福音の真理を保存するために、聖書を編纂させ、毎週の礼拝で説教者を立ててその聖書の御言葉の解き明かしをさせられます。だからわたしたちは今日もこの礼拝で聖書の説き明かしであります説教を通して神の御言葉を聞くことが許されています。そして聖霊が神の御言葉を聞くわたしたちの心を開いて、説教で語られるキリストを「わたしの救い主」として信じ、受け入れるようにして下さるのです。
こうしてペンテコステの日にキリスト教会が生まれました。ペンテコステは聖霊降臨日ですが、同時にキリスト教会の誕生日でもあると、わたしは思っています。
紀元30年にエルサレム教会が生まれました。49-50年にエルサレム会議が開かれました。この時キリスト教会は大きな転機となりました。キリストの福音が異邦人にも積極的に伝えられました。ユダヤ人以外の異邦人の教会が生まれました。そして使徒パウロが紀元36年ごろ回心しキリスト者になり、異邦人への使徒となりました。彼は三度伝道旅行をし、小アジアからヨーロッパのギリシアの異邦人たちにキリストの福音を伝えました。パウロは50年頃フィリピで福音宣教し、フィリピ教会を設立したでしょう。
フィリピ教会の設立後、4年経たころにこのフィリピの信徒への手紙を書いたでしょう。フィリピの信徒への手紙は一通の手紙になっています。しかし、よく読んでみると、複数の手紙を一通の手紙に編集したように思えます。一章から三章1節まで、三章2節から四章1節まで、四章2節から23節の終わりまでと、三つの手紙を合わせて、一つの手紙になっています。
本日学びますフィリピの信徒への手紙第4章2節から9節は聖書の表題にありますようにパウロの勧告の言葉です。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに主に結ばれた者としての特徴ある態度を勧めています。そこでパウロは第一にキリストにある一致を勧めます。この手紙の第2章でパウロがキリストの行動の原理を示しつつフィリピ教会のキリスト者たちにキリストにある一致を勧告しました。ここではパウロは二人の女性のキリスト者、エボディアとシンディアに勧告して、四章2節でこう述べています。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」
この二人のキリスト者たちはフィリピ教会の中で重要な役割をし、信徒の中で影響力があったのでしょう。だからパウロは二人の名を別々に呼んで、二人に勧告しているのです。パウロは二人に「主において同じ思いを抱きなさい」と勧告しています。「主において」は主に結ばれた者という意味です。「同じ思いを抱きなさい」はこの手紙の二章1-2節のキリストの行動の原理に従ったパウロの勧告です。キリストはいつも聖霊を通してわたしたちに愛の励ましと慰め、そして交わりをしてくださっています。聖霊はわたしたちに礼拝での説教と聖餐を通してキリストの愛と慰め、そして交わりに入れてくださっています。この恵みを通してわたしたちは愛と憐れみの心を得るのです。その同じ思いを持ちなさいと、パウロは二人に主に結ばれた者の一致を勧めるのです。
さらにパウロは彼の勧告によって二人が和解できるように、パウロのフィリピ教会の親しい者に二人を助けるようにお願いをしています。3節です。「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」。
二人の和解はフィリピ教会の一致に欠かせませんでした。だからパウロは「真実の協力者よ」とあるキリスト者に呼びかけて、「あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」と依頼しています。この真実の協力者が誰か、分かりません。「協力者」は同じ軛に繋がれた者という意味です。パウロと同じように福音の宣教者であったでしょう。パウロが「あなた」と呼びかけることができるほどパウロにとって親しく信頼できる者でしょう。
パウロは真実の協力者に彼女たちを助けることがフィリピ教会のためになると次のように述べています。「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」パウロは三章20節で「わたしたちの本国は天にあります」と述べています。「命の書」はその御国の住民票のようなものです。天の御国にはそこに入れる者の名簿があるのです。その命の書にクレメンスの名があります。この人物は他の伝道者たちと共にキリストの福音のために戦ったのです。そしてフィリピ教会の設立に貢献したのでしょう。その時にこの二人もクレメンスや伝道者たちに協力してキリストの福音のために、フィリピ教会の設立のために戦ったのでしょう。だからパウロはフィリピ教会の全体の一致のためにこの二人の和解を願ったのです。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに第二に主に結ばれた者として共に喜びなさいと勧告しています。キリスト教会はキリストの福音を聞き続け、キリストが再臨されるのを待ち続けるのです。福音は喜びの訪れです。キリストの十字架の福音は聞く者に死から命の喜びを与えるものです。聖霊はキリストの霊として教会に喜びをお与えくださいました。旧約の神の民にとって安息日の聖会は喜びの日でした。ネヘミヤ記八章10節で「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」とあります。キリストに結ばれたわたしたちは死から命に変えられたのです。喜びこそキリスト者のこの世に生きている意味です。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに第三に5節で「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」と勧告します。「広い心」とは何でしょうか。新改訳聖書2017と共同訳聖書は「寛容な心」と訳しています。広い心、寛容な心はキリスト者の特徴です。キリスト者は一致の心、喜びの心、そしてこの寛容の心を持つ者です。一致と喜びとこの寛容はキリスト者のアイデンティティです。神が旧約の神の民や私たちキリスト者に常に憐れみの心を持たれているように、わたしたちキリスト者の広い心、寛容の心とは憐れみの心です。パウロはわたしたちキリスト者に憐れみの心、広い心をすべての人々に知られるようにしなさいと述べているのです。
「主はすぐ近くにおられます」というパウロの言葉は、主は近い、主の再臨は近いという意味です。再臨のキリストを心に留める時、わたしたちの心が寛容となり、何事にもとらわれないで、広い心となるのでしょう。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに第四に6節で思い煩うなと勧告します。思い煩わないこともキリスト者の特徴です。パウロは6-7節でこう述べています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
パウロは勧告するだけではなく、実際にどんなことにも思い煩わなかったでしょう。パウロには神の平和があったからです。聖霊がわたしたちに与えてくださる賜物に祈りがあります。パウロは福音宣教のために苦闘しました。彼はキリストのために数多くの苦難を経験しました。その時彼はここで勧告するように、どんなときにも祈りました。ただ祈ったのでありません。「感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け」たのです。パウロの祈りには常に神への感謝が伴いました。それは彼が神の恵みに生かされていたからです。例えばパウロは次のようなことを述べています。彼の外見には人に嫌われるものがありました。彼は主にそれを取り除いてほしいと願いました。そうすればより多くの人々にキリストの福音を伝えることができると思ったのです。ところが主はパウロの祈りに対して、「わたしの恵みはあなたに十分だ」と言われました。
キリスト者はキリストの十字架によって罪と死から命への恵みに生かされた者です。わたしたちは今こうして生きていること自体が神の恵みであると知っています。これもキリスト者の特徴です。だから祈ります時、まずわたしたちは神に生かされている恵みを感謝し、自分の祈りと願いを神さまにささげるのです。困難な状況にあれば、今自分に必要なことを神さまに打ち明けるのです。
その時にキリスト者は誰でも、パウロの言う神の平和を経験するのです。それはわたしたちの思いもよらないものです。そしてわたしたちが常に主のためにと思い、考えていることを、聖霊が働いてわたしたちの心を守ってくださるのです。わたしたちの祈りは聖霊が主イエスと同じ思いになるようにして下さるのです。それをパウロは神の平和と言っているのです。
8節でパウロはこの世で徳と呼ばれているリストを挙げています。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことがあれば、それを心に留めなさい。」これらはギリシア人たちが大切にしていたものです。パウロはリストに挙げた徳に「すべて」と言っています。パウロはこの世の人々が大切にしていることを軽んじてはいけないと勧告しているのです。キリスト者は十戒を守ればそれでよいのではありません。この世の人々が重んじている真実、善いこと、正義、清いこと、愛、価値あることをすべて評価し、活用するように勧めているのです。
そして9節でパウロを模範にするように次のように勧めています。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」パウロは常にキリストを目標に生きていました。フィリピ教会のキリスト者たちはそのパウロからキリストについて、信仰について学びました。彼らはパウロから聖餐の恵みに、ある者は洗礼の恵みを受けました。彼らはギリシアや小アジアのキリスト者たちからパウロについて、彼の伝道について聞きました。パウロが常にキリストの僕としてキリストに従って生きている姿を学びました。
彼はフィリピ教会のキリスト者たちに自分を見習うように勧めています。彼の信仰の歩みには常に平和の神が共に居てくださいました。だからパウロはどんな苦難や患難の中でも、彼は主の恵みを覚えて感謝して主に祈り、願いました。そのたびに思いもよらない神の助けを与えられました。だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちにも平和の神と共に歩んでほしいと思ったのです。
最後にパウロの平和の神と共に歩む人生は聖霊に守られたパウロの人生だったと、わたしは思うのです。平和の神である聖霊は、パウロのように主のしもべとしてキリストに従って生きるキリスト者にどんな困難、苦難、患難の中でも主の恵みに感謝して祈ることを教えてくださり、救いの確信を強くしてくださると思うのです。本日はここまでです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第四章2 -9節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
今日はパウロの勧告からキリスト者の特徴を学ぶことができて感謝します。わたしたちは常に聖霊と共に生き、聖霊によってこの世でキリスト者として生きることができるのを感謝します。
願わくはパウロのようにキリストを目標として、御国を目指して歩ませてください。この教会において一致と喜びと憐れみ、思い煩うことなく、キリスト者のアイデンティティをもって生活させてください。
どうか再臨のキリストを待ち望ませてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。