ヘブライ人への手紙説教06 2022年2月20日
だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違反や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えられ、証しされておられます。
ヘブライ人への手紙第2章1-4節
説教題:「大きな救いに心を留めよ」
ヘブライ人への手紙第1章を学び終えて、本日より第2章を学びます。第1章を学ばれて、これは手紙ではなく、神学論文だと思われたお方もおられるでしょう。ヘブライ人の手紙は、三つの説教から成り立っています。そしてその説教は、まさに今日の神学論文のようなものだと思います。使徒パウロのローマの信徒への手紙と比較しても、決して劣るものではありません。
ヘブライ人への手紙が本当に手紙であると思えるのは、最終章の13章です。そこには励ましと慰めの言葉が、そして最後の挨拶があります。
使徒パウロの手紙のように、一つの教会から他の教会へと回覧されることを目的とした手紙ではないでしょう。まさに「ヘブライ人への手紙」という題があるように、特定の信者たちに、あるいは教会に宛てて書いた、まるで神学論文のような説教です。
単なる神学論文ではありません。文才のある文章です。今で言うと、文学的で、修辞的な文章です。想像力と言葉の力を借りて、キリストの福音を、十字架の救いを力強く表現しています。また70人訳旧約聖書の詩編等の御言葉を適切有効に用いて、また、修飾的な語句を巧みに用いて、御子キリストが天使よりも優れていることを、わたしたち読者に説得し、論証しようとしています。
わたしたちは、ヘブライ人への手紙の1章の冒頭の御言葉を聴き、そして今朝の2章1-4節の短い奨励の御言葉を聴くだけで、主日礼拝でわたしたちが聴き続けている礼拝説教の素晴らしさを、わたしたちの霊的な命であると、本当に有効に理解を得ることができるのです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちのように長年、10年も20年も主日礼拝で説教を聞き続けたキリスト者たちを励まし、慰めるために三つの説教を書いているのです。
第一の説教は、1章から4章13節までです。説教題を付けるなら、「神の御言葉に聴き従おう」でしょう。第二の説教は、4章14節から10章31節です。説教題を付けるのであれば、「信仰を固く守り、大祭司主イエスの恵みの御座に近づこう」です。第三の説教は、10章32節から13章17節までです。説教題を付ければ、「信仰によって忍耐し、礼拝からこの世へと出よう」です。
大祭司主イエス・キリストの十字架の下で信仰によって苦難と迫害に耐え、この世でキリストの福音を語り続ける教会、それがヘブライ人への手紙のキリストの教会なのです。
だから、わたしたちはこの世に押し流されてはならないのです。毎週の主日礼拝で聴き続けて来た説教に、いっそう注意を払わねばなりません。
なぜなら、神は今、御子主イエス・キリストを通して、わたしたちにお語りだからです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちに主日礼拝の説教を聞き続け、御子主イエスに服従することの大切さを教えるために、御子に劣る天使の役割を述べています。
2章2節です。「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違反や不従順が当然な罰を受けたとするならば」。
これだけでは、わたしたちに何のことだか分りません。昔の神の民には理解できたでしょうが、旧約聖書と神の民の歴史に疎いわたしたちには、何のことだか分りません。
分かることは、ヘブライ人への手紙が3節で「これほど大きな救い」と比較していることです。キリストの十字架の御救いとモーセ律法を比較して、キリスト教の救いを、「これほど大きな救い」と言っているのです。
使徒パウロがガラテヤの信徒への手紙3章19節で、こう述べています。「では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。」
使徒パウロは、旧約聖書の出エジプト記で神がモーセの手を通して神の民に十戒を与えられたことを述べているのです。ユダヤ人たちは、十戒を神が天使たちを通して、仲介者モーセの手を経て制定されたと教えられていたのです。
十戒は、神の民たちに神の命令に対する違反を教えました。そして違反した神の民たちは罪を罰せられました。天使を通して、仲介者モーセの手を経て、神の民たちの中で制定された十戒は、神の民の救いとなるどころか、彼らの罪を裁く基準となりました。
ヘブライ人への手紙は、使徒パウロと同じ理解でした。
ですから、神が御子主イエス・キリストを通して語られた福音の素晴らしさを語っているのです。天使を通して仲介者モーセの手を経て制定された神の律法は、罪によって人を裁くものとなりました。
反対に主日礼拝を通して、神が御子を通して語られる福音は、罪によって裁かれる者たちを、キリストの十字架によって救う喜びを語りました。
だからヘブライ人への手紙は、続けてこう述べているのです。「ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えられ、証しされておられます。」(3-4節)
モーセ律法は、神の民の救いにとって不十分なものでした。石の板2枚に記されましたが、神の民の心に記されず、彼らは守ることが出来ませんでした。それゆえ十戒は彼らの違反を裁くものとなりました。
キリストの十字架だけが罪によって裁かれる者の救いとなりました。この後ヘブライ人への手紙は、人にはただ一度死ぬことと死んだ後に神の裁きがあることが定まっていると述べます。この人の悲惨さからの救いは、罪あるわたしたちの身代わりに御子主イエス・キリストが神の刑罰である十字架に死ぬ以外にありません。
この福音を、キリスト教会は毎週の主日礼拝の説教を通して語っているのです。キリスト教会は、主イエスが「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と語られ、それを聞いた弟子たちは、ペンテコステの日に聖霊に満たされた使徒ペトロがエルサレム神殿で巡礼者たちに向かってキリストの十字架の説教をしました。そしてそれ以来、キリスト教会は十字架の福音を語り続けています。
使徒言行録を読みますと、使徒ペトロたちが福音宣教するだけではなく、数々の奇跡を行い、病人を癒し、目と体の不自由な者たちを癒しました。何よりも初代教会のキリスト者たちに聖霊が与えられました。聖霊が使徒たちの福音宣教を通して働かれました。福音を聞く者たちの心を開かれ、十字架の言葉を受け入れる信仰を与えられました。
ヘブライ人への手紙がわたしたちに今朝の短い奨励で言いたいことは、主日礼拝で説教を聴くことをないがしろにしてはならないということです。10章においても、主日礼拝の集まりを怠るなと、警告しています。
ヘブライ人への手紙もまた使徒パウロ同様に、救いは福音を、キリストの言葉を聞くことから来ると信じているのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝もヘブライ人への手紙第2章1-4節を学ぶ機会を得られたことを感謝します。
ヘブライ人への手紙は、今朝の短い奨励の御言葉を通して、主日礼拝でわたしたちが説教を聴くことの重要性を教えてくれました。
どうか、聖霊よ、礼拝をとして説教を聴きますとき、わたしたちの耳を開き、神の御言葉を聴かせてください。キリストの十字架の言葉を聞かせて下さい。
十字架のイエス・キリストを、聖霊よ、深く理解させてください。わたしたちの罪のために死なれたと、わたしたちの心で受け入れさせてください。
どうか、主日礼拝を怠り、この世の風潮に流され、主イエスの御救いから目を背けて、神の怒りの刑罰に自分の身を委ねることがないようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教07 2022年3月6日
神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある個所で、次のようにはっきり証しされています。
「あなたが心に留められる人間とは、何ものなのか。
また、あなたが顧みられる人の子とは、何ものなのか。
あなたは彼を天使たちよりも、
わずかの間、低い者とされたが、
栄光と栄誉の冠を授け、
すべてのものを、その足の下に従わせられました。」
「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
「わたしは、あなたの名を
わたしの兄弟たちに知らせ、
集会の中であなたを賛美します」
と言い、また、
「わたしは神に信頼します」
と言い、更にまた、
「ここに、わたしと、
神がわたしに与えて下さった子らがいます」
と言われます。ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスも同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大射しとなって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
ヘブライ人への手紙第2章5-18節
説教題:「御子キリストのヘリ下り」
ヘブライ人への手紙は、第2章に入り、短い第一の勧告を記しています。それは、御子の救いの使信を蔑ろにするなという勧告です。
1章14節と2章3節の「救い」という言葉が渡し言葉となり、「救い」という言葉が繰り返されて、1章と2章のつながりを強く印象付けています。ヘブライ人への手紙は、御子が天使にまさることを、1章で論じてきました。2章3節でも救いの告知において御子は天使にまさることを、ヘブライ人への手紙は述べているのです。
ヘブライ人への手紙の読者が教会の礼拝において聞かされる説教は、御子である主が最初に12弟子たちに語られた神の御言葉でした。1章2節でヘブライ人への手紙が述べていますように、教会の礼拝において私たちが聞かされる説教は、神が御子によって語られたことにその始まりがあります。ヘブライ人への手紙は、わたしたちにこう伝えているのです。神の救いは、最初に主が12弟子たちに語られ、12弟子たちが礼拝において主の救いを告げ知らせ、それを聴いた者たちが礼拝において主の救いを語り、わたしたちが今その主の救いの御言葉を聴いているのだと。
2章1節の「いっそう」という言葉は、1章4-14節において御子を天使と比較し、御子が勝ることを論証したことから、2章2-4節において御子と天使を比較して御子の救いが勝ることを述べているのです。だから、わたしたちは、毎週の礼拝において説教を通して聴かされる御子の救いを蔑ろにしてはならないのです。
2-3節でヘブライ人への手紙は、劣ったものともっと重要なものを比較して、すなわち、天使たちを通して語られた神の律法の言葉と御子を通して語られた神の御言葉を比較して、御子の救いの御言葉を蔑ろにする者に対する神の裁きの一層の厳しさを述べています。ヘブライ人への手紙は、わたしたちに主の日の礼拝とそこで語られる神の御言葉を蔑ろにする者がどうして神の裁きを逃れられるだろうかと勧告しているのです。
ヘブライ人への手紙は、2章3-4節で御子を通して語られた神の救いの御言葉がどのように読者に届き、有効なものであり、聖霊によって支えられているかを述べています。繰り返しますが、最初に主イエスが12弟子たちに語られました。主の口からきいた2弟子たちやその世代の人々によって教会の礼拝での説教を通して読者たちに届きました。それは、法的に有効なものであり、蔑ろにすれば神の裁きから逃れることはできません。そして主の御救いの言葉を、聖霊が支えられています。
主イエスは、神の御言葉を語られただけではありません。しるしである奇跡を行われ、病人を癒し、悪霊を追い出され、数々の救いをなさいました。そして、主イエスは復活し、昇天され、父なる神の右に座されると、聖霊を遣わされました。聖霊が教会に顕現され、主の救いの御言葉を聴く者たちの心を開かれて、彼らに主イエスを信じる信仰の賜物をお与えになりました。こうして聖霊は、主の救いの御言葉を聴く者たちを主イエス・キリストへの信仰と従順へと導かれているのです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者にこの短い勧告を通してモーセの律法に違反すること以上に、礼拝を通して語られる神の御言葉を蔑ろにすることは罪が重いのだと勧告しているのです。
この短い勧告に続いてヘブライ人への手紙は、第二の論証を述べています。第一の論証は、御子は天使にまさるということを述べました。第二の論証は、二つの部分から成っています。2章5-18節と3章1-6節です。前者は「御子の道」を述べ、後者は御子がモーセに勝ることを述べています。
第二の論証の2章5-18節の御言葉を三回に分けて、説教しようと思います。
2章5-9節、10-13節、そして14-18節です。
2章5-9節でヘブライ人への手紙は、御子の道を十字架の死に至りまでのヘリ下りの道として述べています。
ヘブライ人への手紙は、御子と天使との比較を述べながら、2章5節でこう述べています。「神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。」
これは、来るべき御国の支配において御子は天使にまさると述べているのです。神は1章2節で「この御子を万物の相続者と定め」、13節で「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と言われています。
御子は父なる神の代理人として将来の世界、すなわち、御子が相続される御国を統治され、すべてのものを御自身の足下に置かれます。天使には将来の世界、神の御国を支配する権限はありません。天使は支配する者ではなく、仕える者だからです。
ヘブライ人への手紙は、6-8節で70人訳の旧約聖書の詩編第8編4-6節の御言葉を引用し、彼が述べている事の正しさを証明しようとしています。
わたしたちの聖書は、詩編第8編5-7節です。
「そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう。
あなたが顧みてくださるとは。
神に僅かに劣るものとして人を造り
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたものをすべて治めるように
その足もとに置かれました。」
詩編第8編6-8節は、神の知恵を賛美しています。この世では人間も人の子も脆い存在です。死すべき存在です。しかし、神は人間と人の子に栄光を与えられました。神が創造されたすべてのものを統治することです。
この統治は、この世の支配といういみではありません。この世の為政者たちが暴力によって支配します。その支配は、弱い民を抑圧し、自然を破壊するものです。神が与えられた人の栄光とは、神が造られた世界を保護することです。
旧約聖書の創世記1章において神は、人に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ。」(創世記1:28)と命令されました。これを文化命令と言います。人は、神が造られた被造世界のすてを、「従わせる」「支配する」責任があります。その場合の「従わせる」「支配する」は、神の創造された被造世界をすべて保護するということです。だから、人はエデンで地を耕し、農耕によって神の造られた世界を保護しようとしました。
しかし、人の罪によって「従わせる」「支配する」ことが暴力によって、環境を破壊し、人と資源を搾取することでなされているのです。
根本的な人の悪は、神に造られた人間が神になろうとしたことです。人間は神に造られた存在です。脆く、死ぬべき存在です。神の御前にへりくだるべき者です。しかし、人は暴力的にすべてのものを支配しようとし、そのために戦争をし、人と資源を搾取しようとします。
その結果、今のロシアがウクライナを侵略し、暴力的に従わせようとして、ウクライナの国を、国民の命を破壊しているのです。
ところが、ヘブライ人への手紙は、70人訳聖書の詩編第8編4-6節を引用して、御子キリストのヘリ下りの道を述べているのです。
御子キリストは、神が造られたすべてのものを従わせることのできるお方です。実際にキリストが再臨されるとそうなります。しかし、ヘブライ人の手紙は、御子キリストが御自身の足下にすべてのものを置かれるのを見ていないと述べています。
御子キリストの道は、十字架の死に至るまでヘリ下りの道でした。9節でヘブライ人への手紙は、この述べています。「ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」
神の御子キリストが人となり、しかも十字架の死に至るまでヘリ下ってくださいました。それが神の恵みだったと、ヘブライ人への手紙は述べています。御子主イエスがすべての者のために十字架で死んでくださったからです。
人は皆、己の欲のために生きています。自己防衛をするために、人を己の下に置こうとしています。そのために権力という暴力支配を用いて神の造られた人と世界と破壊し、搾取するのです。
しかし、御子キリストは、神であるのに、人となられ、ヘリ下られます。この世で世の権力者のように暴力的支配ではなく、御自身が十字架で死ぬことで、神の造られたすべてのものを贖おうとされました。
この御子キリストのヘリ下りの道以外に、わたしたち罪人と神が造られたすべてのものが滅びから贖われる道はありません。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第一週を迎えました。御子主イエス・キリストの御受難を心に留めつつ、今朝のヘブライ人への手紙第2章5-9節の御言葉を学ぶ機会を得られて、感謝します。
どうか、御子キリストが神であられるのに、人となり、十字架の道を歩むほどに、身を低くされたことが、神の恵みであり、すべての人の救いであることを信じさせてください。
どうか、主日礼拝でわたしたちが御子の御受難の説教を聴くことの重要性を心に留めさせてください。
どうか、聖霊よ、御言葉と共に、この後の聖餐の恵みによって、キリストの十字架の死がわたしたちのためであったと信じさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教08 2022年3月13日
神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある個所で、次のようにはっきり証しされています。
「あなたが心に留められる人間とは、何ものなのか。
また、あなたが顧みられる人の子とは、何ものなのか。
あなたは彼を天使たちよりも、
わずかの間、低い者とされたが、
栄光と栄誉の冠を授け、
すべてのものを、その足の下に従わせられました。」
「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
「わたしは、あなたの名を
わたしの兄弟たちに知らせ、
集会の中であなたを賛美します」
と言い、また、
「わたしは神に信頼します」
と言い、更にまた、
「ここに、わたしと、
神がわたしに与えて下さった子らがいます」
と言われます。ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスも同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
ヘブライ人への手紙第2章5-18節
説教題:「御子は御救いの栄光への先導者」
ヘブライ人への手紙は、第2章に入り、短い第一の勧告がなされた後、第二の論証を述べています。それは、御子の道について述べているのです。
わたしたちは、前回「御子のヘリ下り」の道について学びました。主イエスは、神の御子です。御子は天使よりも高い地位にあられましたが、ヘリ下って真の人として、天使に劣る者として、この世界に来られました。
ヘブライ人への手紙は、2章9節で「ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」と述べています。
ヘブライ人への手紙は見ました。御子のヘリ下りと十字架の死と復活の出来事を通して、御子が罪に死すべきわたしたちの救いを完成されたことを。それは、現実では実現していません。しかし、ヘブライ人への手紙は、信仰によって将来の約束として確信しているのです。
罪ゆえに滅ぶべき人が救われるためには、御子がヘリ下り、人となり、十字架で死に、死から復活する必要がありました。神がすべての人を愛された故に、御子はすべての人のために死なれたのです。
さて、今朝はヘブライ人への手紙の御子の道について新たな面を見てみましょう。どうして御子はヘリ下って、十字架の道を歩まれたのでしょうか。
ヘブライ人への手紙は、9節の「苦しみ」と10節の「苦しみ」を渡し言葉として用いて、新たな主題を述べています。
10節で万物の目標であり、源である神が御子のヘリ下りと十字架の死の苦しみを通して、御子とわたしたちを一つに結び付けてくださったことを。
ヘブライ人への手紙は、10節で「というのは」という接続詞を用いて次のように説明しています。
「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」
9節の「すべての人」と10節の「多くの子ら」は同じです。「子ら」とは、神によって特別に選ばれた者たちを意味します。「多くの子らを栄光へと導くために」とは、神によって特別に選ばれた多くの者たちの救いを完成するために、という意味です。
「彼らの救いの創始者」は主イエスです。ヘブライ人への手紙は、神の目的を述べているのです。神は、この世における主イエスの御受難を通して、主イエスを救い主として完全な者とされました。
これは道徳的意味ではありません。主イエスがこの世での御受難を通して道徳的に完成されたという意味ではありません。
主イエスは、神の御子で、罪無きお方です。しかし、御子は、罪ある人を救うために、罪人と同じ様にならなければなりませんでした。罪無きお方が罪人と同じ経験をし、罪人として神の刑罰を受けなければなりませんでした。
「数々の苦しみを通して完全な者とされた」とは、主イエスは数々の御受難によって、罪人の救い主としての条件を完全に調えられたという意味です。御子主イエスの人としての御苦しみは、主イエスが罪人を死から救うために必要であったのです。
ヘブライ人への手紙は、9節の終わりで「万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」と述べています。これは、9節の「神の恵みによって」という言葉の言い換えです。
「万物の目標であり源である方」とは、使徒パウロがローマの信徒への手紙の11章36節で「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠に在りますように、アーメン。」と賛美しているのと同じです。
神は万物の創造者、保持者、完成者です。だから、神の創造も救済も同じ神の御業です。御子の道は、神の救済の仕方を示しているのです。
万物の源であり、目標であり、完成者である主なる神が目指されたのは、「多くの子らを栄光へと導くため」でした。主なる神が人を創造されたことも人を救われることも同じ目的でした。神の栄光のためです。
神の創造も神の救済も、わたしたちすべては神の所有です。御子もわたしたちも11節でヘブライ人の手紙が述べているように、「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。」
「人を聖なる者となさる方」とは、十字架で死に、復活された主イエス・キリストです。「聖なる者とされる人たち」とは、神の救いの対象としてのわたしたちです。御子もわたしたちも神という一つの源から出ているのです。御子は父なる神から生まれ、わたしたちは神に創造され、神に救われて、神の所有とされました。
しかし、ヘブライ人への手紙が「それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで」と述べていますのは、御子とわたしたちの違いです。
御子は、父なる神から生まれられたお方であり、御子なる神です。わたしたちは神に創造された被造物です。
このような大きな相違があるのに、御子主イエスは、わたしたちを兄弟と呼び、共に御国の相続者であることを恥と思われませんでした。なぜなら、御子はヘリ下って人となり、わたしたちの罪のために十字架で死なれたのです。
それゆえにヘブライ人への手紙が12節で70人訳の旧約聖書詩編22編23節を引用して御子と教会の礼拝に集まって主を礼拝する者たちの親密な関係を述べています。わたしたちが今この教会で礼拝できるのは、詩編のダビデのように主を賛美でいるのは、御子がヘリ下ってわたしたちのために十字架で死なれたからです。
そして、ヘブライ人への手紙は、13節で70人訳の旧約聖書のイザヤ書8章17節を引用して、神に信頼しつつ、将来の救いの完成を待ち望むと賛美しているのです。
今ここで主を礼拝しているわたしたちは、神が十字架の御子にお与えくださった神の特別に選ばれた子らなのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第二週を迎えました。御子主イエス・キリストの御受難を覚えて、今朝のヘブライ人への手紙第2章10-13節の御言葉を学ぶ機会を得られて、感謝します。
どうか、御子キリストのヘリ下りと十字架への受難の道を心に留めて、レントの日々を歩ませてください。
今朝、この礼拝で神の御言葉を聴き、主を賛美できる恵みを感謝します。十字架の主イエスの御苦しみのゆえに、わたしたちがこの教会の礼拝にいることを心に留めさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教09 2022年3月20日
神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある個所で、次のようにはっきり証しされています。
「あなたが心に留められる人間とは、何ものなのか。
また、あなたが顧みられる人の子とは、何ものなのか。
あなたは彼を天使たちよりも、
わずかの間、低い者とされたが、
栄光と栄誉の冠を授け、
すべてのものを、その足の下に従わせられました。」
「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
「わたしは、あなたの名を
わたしの兄弟たちに知らせ、
集会の中であなたを賛美します」
と言い、また、
「わたしは神に信頼します」
と言い、更にまた、
「ここに、わたしと、
神がわたしに与えて下さった子らがいます」
と言われます。ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスも同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
ヘブライ人への手紙第2章5-18節
説教題:「神の御子が人となられたことの意味」
今朝は、ヘブライ人への手紙第2章14-18節の御言葉を学びましょう。
神の御子がヘリ下り、十字架の死に至るまで苦しまれたのは、御子が救いの創始者として、多くの人々を神の御国の栄光へと導くためでした。
御子とわたしたちは、父なる神という一つの源から出ており、御子は御父からお生まれになったお方であり、わたしたちは神に創造された者たちです。
それで御子主イエスは、わたしたちを兄弟と呼ぶことを恥と思われませんでした。むしろ、御子は聖霊を通して、わたしたちをこの教会の礼拝へとお招きくださいます。常に礼拝で御自身の御名と救いの御業をわたしたちに語り続けてくださいます。わたしたちは礼拝で御子主イエスの御名と御救いの御業に対して感謝し、神を賛美しています。そしてわたしたちの御子に対する信頼、すなわち、親近性が深まり、神の御子がヘリ下り、わたしたちと同じ人間性を取り、わたしたちと同じ様になられたことを、「わたしたちのために」と信じています。
さて、ヘブライ人への手紙は、13節の「子ら」と14節の「子ら」を渡し言葉にして、繰り返し神の御子の受肉を、完全にわたしたちと同じ人間性を取られたことを、それがどんな意味があるかを述べています。
神の目的は、多くの子らを御子の受肉とヘリ下りによって御国へと導くことでした。神はその目的を成し遂げるために、摂理によって御子を真の人として、この世に遣わされ、御子はしばらく天使よりも劣る存在である人となられました。
御子は御自身によって救われるべき人間と同じ様になられました。だから、ヘブライ人への手紙は、2章14節でこう述べています。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスも同様に、これらのものを備えられました。」
「血と肉」は、人間性、人間存在を表します。これは、現実の死ぬべき人間の条件であります。滅ぶべき人間の物質的命を表しています。
御子は、本質において神です。しかし、御子は受肉によって人間性を取られました。百パーセント、わたしたちと同じ人間性を取られたのではありません。だから、ヘブライ人への手紙は「イエスも同様に」と述べています。「ほとんど同様に」という意味です。御子の備えられた人間性には、罪がありません。
ではなぜ、御子はわたしたちとほとんど同様の人間性を備えられたのでしょうか。その説明が14節後半から15節の御言葉です。「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」
共同訳聖書は、こう訳しています。「それは、ご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるためでした。」
御子主イエスは、御自分が十字架で死なれることによって、人間の死を断ち切られました。人は悪魔の誘惑によって罪を犯し、堕落しました。悪魔は人間に対して死の力を持つ者です。そして、わたしたちは自分が死ぬと思うと、自分ひとり暗闇に取り残されたような恐怖を覚えるのです。そして生涯、その死の恐怖の奴隷になります。
御子は御自身の死によって、その死の支配を無効にされました。御自身が死から復活され、それによってわたしたちを死から命へと移してくださるのです。わたしたちキリスト者は、今も血と肉を持ち、死ぬべき存在ですが、キリストの十字架と復活によって死の恐怖から解放されているのです。
ヘブライ人への手紙は16節でこう述べています。「確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。」
これは、2章5節からヘブライ人への手紙が述べてきたことの結論です。御子の救いは、天使ではなく、アブラハムと彼の子孫を救うことです。神が御子を通して語られた御言葉は、神の恵みの契約の実現です。神はアブラハムと彼の子孫と恵みの契約を結ばれ、「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と約束されました。この約束を、アブラハムの子孫として生まれられた御子が、御自身の死によって成し遂げてくださいました。
16節をもって、ヘブライ人への手紙は天使についての記述を終えています。御子のヘリ下りによって、主イエスの御救いはすべての人々に及びました。そして御子の御救いを受け入れることのできるのは、御子を救い主と信じるアブラハムの子孫である神の民なのです。
ヘブライ人への手紙は、キリストについて二つのことを述べています。第一に神の御子キリストです。第二に大祭司であるキリストです。
ヘブライ人への手紙は、4章13節から10章31節の第二の説教において偉大な大祭司キリストにつて述べています。
ヘブライ人への手紙は17節で大祭司キリストについてこう述べています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」。
「神の御前において」は、新改訳聖書2017と田川健三訳は、「神に関わる事柄について」「神に関する事柄について」と訳しています。
ヘブライ人への手紙は、「神の御前において」ではなく、「神に関する事柄については」、即ち、御子キリストは神の次元においては憐れみ深い、忠実な大祭司の役割を果たされるのだと述べているのです。
「憐れみ深い」とは、人々の弱さを自分のものとして引き受けることが出来るという意味です。だから、御子がわたしたちのための大祭司であると述べているのです。
「忠実な」とは、これは御子の神に対する態度です。御子は、十字架の死に至るまで父なる神に従順でした。
大祭司は、一年に一度至聖所に入り、神の民の罪を神に執り成しました。神の御子キリストは、十字架の死の後、復活し、昇天し、父なる神の右に座されて、大祭司としてわたしたちを父なる神に執り成して下さっているのです。
大祭司の働きは、神の民の罪を執り成すことです。大祭司は動物犠牲によって神の民の罪を執り成しました。動物犠牲は燃やされ、煙が神への宥めの香りとなりました。神の民の罪に対する神の怒りを、大祭司が動物犠牲をささげることで宥めたのです。
御子は大祭司として御自身の血を携えて、わたしたちの罪に対する神の怒りを宥めるために、天の聖所に入られました。
そのために御子は、あらゆる点でわたしたちと同じようにならなければなりませんでした。御子が受肉し、この世界に人として来られ、存在され、試練と苦難と十字架の死を経験されることは、救い主として必然のことでした。
ヘブライ人への手紙は、18節でこう述べています。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」
ヘブライ人への手紙の読者たちは、ユダヤ人キリスト者たちです。彼らは、ローマ帝国の官憲による迫害に耐えなければなりませんでした。また、キリスト者であるゆえに同胞のユダヤ人たちの迫害にも耐えなければなりませんでした。そしてローマ帝国の異邦人たちの迫害に耐えなければなりませんでした。
信仰の戦いによって彼らは、疲れを覚えたでしょう。信仰から脱落する者たちがいたでしょう。この世の誘惑や悩みがあったでしょう。
しかし、神の御子が人となって下さったのです。十字架の死に至るまで神に従順であられました。そしてわたしたちと同じように、それ以上に迫害と苦難を、何よりも人の罪に対する神の怒りを経験されました。そして、御子は死に打ち勝たれて、死に勝利されました。だから、罪と死の支配下にあるわたしたちを救うことがおできになるのです。
ウクライナの人々の苦難、東北の人々の苦難、そしてわたしたちの日々の悩みと苦しみに、御子は御自身の苦難の経験のゆえに助けとなることがおできになるのです。
十字架のキリストに、助けられない者はありません。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第三週を迎えました。御子主イエス・キリストの御受難を覚えつつ、今朝のヘブライ人への手紙第2章14-18節の御言葉を学ぶ機会を得られて、感謝します。
毎日、わたしたちはウクライナの戦争、コロナウイルスの感染、そして地震のニュースを聞かされています。この世界が今どんなに悲惨であるかを知らされています。そして、わたしたちができることは、それに対して耳をふさぐことです。
しかし、今朝ヘブライ人への手紙は、御子キリストがヘリ下り、人としてこの世に来られ、十字架への受難の道を歩まれて、同じように苦しみの中にある者を助けることがおできになることを学びました。
十字架の主イエスの御苦しみのゆえに、わたしたちがこの世界の苦しみの中から救われることを心に留めさせてください。
主なる神を、心から賛美させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教10 2022年4月3日
だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。
家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。
さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。
ヘブライ人への手紙第3章1-6節
説教題:「御子はモーセに勝る」
今朝は、ヘブライ人への手紙第3章1-6節の御言葉を学びましょう。
ヘブライ人への手紙は、第1章と2章で神の御子が預言者や天使たちに勝ることを述べてきました。第3章と4章では御子がモーセに勝ることを述べています。
3章1節の「だから」という接続詞は、2章の継続であると共に、第3章より新しいテーマが始まることを伝えているのです。
「大祭司」と「忠実」は渡し言葉です。2章17節と3章1‐2節で二つの言葉を繰り返し、3章からヘブライ人への手紙は新しい主題、すなわち、御子とモーセとの比較に移動しています。
ヘブライ人への手紙は、3章1節でこの手紙の読者たちに向かって「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかけています。この呼びかけは、キリスト者たちに向けての呼びかけです。
キリスト者は、天上における神の召しを共有する仲間であり、「聖なる兄弟たち」であります。
この呼び名は、教会における洗礼と聖餐という礼典を背景にしています。
ヘブライ人への手紙は、1章3節で「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」と、復活の主イエスが既に天に上げられたことを述べています。わたしたちキリスト者たちは、そこからキリストがわたしたちを召されることを待ち望み、今朝も聖餐の恵みに与かっているのです。
「聖なる」とは、神によって他のものから選び分かたれたという意味です。キリスト者は神によって他のものから天への召しに選び分かたれた者です。「兄弟」とは、同じ信仰持つ仲間のことです。
キリスト者を互いに結び付けているのは、この神の召しです。そして、聖餐を中心として「わたしたちの国籍は天にある」という仲間意識が「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちという呼びかけを生み出しているのです。
ヘブライ人への手紙は、天における神の召しを共有し、聖なる兄弟であるキリスト者たちに次のように命令しています。「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」
「わたしたちが公に言い表している」とは、わたしたちキリスト者の信仰告白のことです。ヘブライ人への手紙の読者である初代教会のキリスト者たちは、「使者であり、大祭司であるイエス」と信仰告白していました。
「考えなさい」は、「注目する」「考察する」という意味の言葉です。「考えなさい」の対象は、「使者であり、大祭司であるイエス」です。
「使者」という言葉は、神に遣わされた者、神の代理人を表わす「使徒」という言葉です。
ヘブライ人への手紙は、キリストの受肉に関連付けて、主イエスを使徒と呼んでいるのです。神の御子主イエスは、父なる神より特別な使命を与えられて、この世に遣わされました。
御子の使者としての特別の務めとは、わたしたち人間と同じように血肉を備えて、大祭司として、わたしたちの罪を贖うということです。
だから、「大祭司」という主イエスの称号は、主イエスの死と関連して使われています。旧約時代の大祭司は、年に一度、動物犠牲の血を携えて幕屋の至聖所に入りました。主イエスはただ一度御自身という犠牲の死を携えて、天の聖所に入られました(9章25節以下)。
「使者であり、大祭司であるイエス」という信仰告白は、主イエスがわたしたち人間に対して神の代表であられ、神に対してはわたしたち人間の代表であられるという意味です。御子主イエスは、神と人との真の仲保者であるのです。
ヘブライ人への手紙は、2節以下で神の御子主イエスとモーセを比較して、神の御子主イエスがモーセに勝ることを述べています。
神の御子主イエスとモーセは、共に使者と大祭司の役割を担っています。そしてヘブライ人への手紙は二人の忠実さを注目しています。「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。」
モーセは、神の家全体、すなわち、神の民に対して忠実でした。彼は神の民の側に立って、主なる神に神の民の罪を執り成しました。
ところが、神の御子主イエスの忠実さは、彼を使者と大祭司にお立てになられた主なる神に対するものでした。そして、ヘブライ人への手紙は、神の御子主イエスの忠実さが、モーセ以上のものであると述べているのです。
モーセは神の家の一員です。ところが、神の子主イエスはその家を建てる者です。主イエスは、教会の頭であり、神の家の建築者です。それゆえに、神の家よりも尊ばれ、神の家の一員であるモーセよりも大きな栄光をお受けになります。
3節でヘブライ人への手紙は「イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました」と述べていますね。
シナイ山でモーセは、直接に主なる神と話すことが許されました。その結果、彼の顔が栄光に輝きました。しかし、主イエスは神の栄光そのものであります。モーセは、どこまでも神の民の一員です。神の子主イエスは、主なる神であります。だから、ヘブライ人への手紙は、4節でこう述べています。「どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。」
神の子主イエスが神の家を造られました。それは、万物の創造者である主なる神の栄光のためでした。
ヘブライ人への手紙は、5節で神の子主イエスの忠実さとモーセの忠実さとの相違を述べています。「さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。」
モーセは、神の家の中で神の僕としての忠実さでありました。神の子主イエスは、その神の家の頭であり、神の家を支配するために忠実であられました。
モーセは神の民に仕える僕として忠実であり、神の御子主イエスは神の御子として神の民を支配するために忠実であられました。
更にヘブライ人への手紙は、モーセが来るべきキリストを証しするものであることを述べています。モーセと神の御子主イエスは、まるで影と本体の関係です。モーセは来るべきキリストを預言し、キリストは彼の預言の成就であります。
今や天に昇られ、父なる神の右に座された神の御子主イエスが、神の家を忠実に治められているのです。それがキリストの教会です。
だから、ヘブライ人への手紙は、6節で「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」と述べているのです。
「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば」とは、聖餐式のことだと、わたしは思います。そこでわたしたちは、常にキリストが私たちの罪のために死なれたことを、復活されたキリストがわたしたちを御国に引き上げるために再臨してくださることを確信し、希望に満ちた誇りを、すなわち、わたしたちの国籍は天にあることを確信し続けるのです。その時、この世の如何なる迫害の中にあろうとも、わたしたち、上諏訪湖畔教会が神の家であることを信じ続けることが出来るでしょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第五週を迎えました。次週は、受難週です。御子主イエス・キリストの最後の一週間を覚えつつ、過ごします。そして4月17日の朝イースターを迎えます。
毎日、わたしたちはウクライナの戦争、コロナウイルスの感染、そして地震等の悲しいニュースを聞かされています。
この世界が今どんなに悲惨であるかを、わたしたちは知らされています。
しかし、今朝の御言葉を通して、上諏訪湖畔教会が、わたしたちが神の家であることを確信させてください。
ヘブライ人への手紙の御言葉と共に、これから与る聖餐式を通して、ここが神の家であり、わたしたちの国籍が天にあることを確信させてください。
どうか、十字架への受難の道を歩まれた主イエスが死人の中から復活されたように、わたしたちもこの世の苦しみと死の後に、必ず復活し、天の国籍を得ると確信させてください。
心から十字架の主イエスを、賛美させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン