ヘブライ人への手紙説教41              202335

あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

主から懲らしめられても、

  力を落としてはいけない。

なぜなら、主は愛する者を鍛え、

子として受け入れる者を皆、

  鞭打たれるからである。」

あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。               ヘブライ人への手紙第124節-13

 

説教題:今の苦難は主の訓練である

今朝は、ヘブライ人への手紙12413節の御言葉を学びましょう。ヘブライ人への手紙は、11章で信仰について述べた後に、12章で最後の勧告をしています。旧約時代の信仰者たちの信仰を証しし、彼らの信仰の生涯がキリスト者たちの信仰の生涯を可能としてくれるのです。だから、ヘブライ人への手紙は、キリスト者たちに彼らの信仰を模範として、この世において信仰から信仰へと走り抜こうと勧めています。

 

1213節で信仰生活が陸上のトラック競走にたとえられました。4節では、ボクシングにたとえられています。

 

あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」「罪と戦って」の「戦って」という言葉は、試合をする、一騎打ちをするという意味のギリシャ語です。ローマ帝国時代のボクシングは、グローブが金具で裏打ちされていたので、しばしば拳闘選手たちは顔を殴られ、体を殴られて、血を流しました。

 

罪と戦って」とは、背教に対する信仰の戦いのことです。教会の中から背教者たちが現われ、激しい信仰の戦いが起こります。教会は、背教者たちを戒規に処し、まさにキリストの体から血が流れ出るのです。

 

ヘブライ人への手紙の読者である教会は、そういう状況でありませんでした。しかし、何時背教者たちが現われ、教会が混乱し、キリストの体である教会員たちが互いに血を流すほどに激しい信仰の戦いを経験するかもしれません。ヘブライ人への手紙は、読者たちにその時に備えるようにと、警告しているのでしょう。

 

教会にとって国家権力による迫害はとても恐ろしいことです。同様に教会の内にいる敵がいます。背教者という敵です。彼らは、キリストの体を腐敗させるのです。恐ろしい伝染病のように背教という罪が教会全体に広がるのです。この背教という罪との戦いは、ボクシングのように一騎打ちです。キリスト者が背教者とまるで血を流すほどに信仰的戦いをしなければなりません。

 

ヘブライ人への手紙は、56節で次のように勧告しています。聖書の御言葉の勧告を忘れていると。主なる神が我が子に語るように勧告された御言葉を忘れていると。「「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

 

旧約聖書の箴言31112節の御言葉です。「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように 主は愛する者を懲らしめられる。

 

ヘブライ人への手紙は、読者たちに背教という「罪」との戦いを、主なる神の懲らしめ、主の訓練と見るべきであるのに、忘れていると警告しているのです。箴言31112節の御言葉が自分たちの今の教会の状況に当てはまることを忘れていると、ヘブライ人への手紙は警告しているのです。

 

わが子」「かわいい息子」「主は愛する者」は、同じ意味の言葉です。「主の諭し」と「懲らしめる」は、同じことです。ヘブライ人への手紙が箴言31112節の御言葉を引用するのは、次のような意味です。わたしたちが神の子であるならば、背教という罪との戦いを主なる神の懲らしめとして軽んじてはならないし、それによって気を落ちしてならないということです。

 

教会とキリスト者にとって今ある苦難は、主の訓練の時であります。だから、ヘブライ人への手紙は、711節で次のようにお勧めをしています。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

 

ヘブライ人への手紙は、箴言31112節の御言葉を解釈して、711節でヘブライ人への手紙の読者たちに、読者たちの教会に適用しているのです。わたしたちがこの教会で聴く説教と同じことをしているのです。

 

ヘブライ人への手紙は、罪との戦いを、教会に背教者が起こるという今の苦難を、「これを鍛錬として忍耐しなさい」と命じています。自分たちの今の苦難を、主の鍛錬、すなわち、信徒を育成する訓練と見なければならないと諭しています。

 

前にも話ししましたように、ヘブライ人への手紙は、わたしたちに今の苦難を辛抱せよ、自分で忍耐しなさいと命じているのではありません。主なる神にとってわたしたちは御自身の子であり、かわいい息子であり、主の愛する者です。わたしたちは主なる神の保護の下で堅忍するのです。わたしたちの鍛錬、訓練は神がわたしたちをわが子として扱い守られているということです。わたしたちは、教会における主なる神との交わりの中で今の苦難を主の訓練として堅忍するのです。すなわち、主のお守りの中で今の苦難を主の訓練として耐え忍ぶのです。

 

ヘブライ人への手紙は、主なる神が我が子としてわたしたちとこの教会でお交わりくださいますと述べています。そして、ヘブライ人への手紙は、その交わりを、この世の父と子との関係にたとえています。この世の父は愛する子を、自分の後継者にするために、しつけをします。しつけしない子は、私生児です。主なる神も同じです。わたしたちの父として、御自身の御国を継がすために、わたしたちを御自身の聖なる思いに与らせようと訓練されます。

 

ヘブライ人への手紙は、この世の子が父を敬うように、わたしたちが子として天の父なる神に服従することは当然であると述べています。

 

しつけ、懲らしめ、すなわち、主の訓練は、この世におけるしつけ、訓練と同じように、最初は喜ばしいものでありません。むしろ苦しみです。何で自分だけがこんな苦しみを、と思えるでしょう。

 

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

 

親のしつけというものは、子供にとっては最初は苦痛です。どうして親がわたしを懲らしめるのか分らないからです。しかし、時が経ちますと、わたしたちもいろいろと人生経験を積み重ねて行きます。その時親がわたしをしつけ、懲らしめたことの意味を理解することがあります。

 

主の懲らしめ、今の苦難も同じです。今は悲しいことに思われます。しかし、それは今しばらくです。時が経るに従い、主の懲らしめがわたしたちの信仰を強めてくれるのです。主の懲らしめが信仰の実を結ぶことを、わたしたちは信仰的経験を通して知っているのではないでしょうか。

 

例えば、主の懲らしめが、わたしたちに罪の悔い改めを生じさせます。それによってわたしたちはキリストの十字架を見上げるのです。そこに神がわたしたちを愛され、わたしたちの罪を赦されるという義の実を得るのです。そして、その義の実によって、神とわたしたちとの和解の道が開かれて行きます。それは永遠の安息である御国へと続いています。

 

お祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、本日は、ヘブライ人への手紙第12411節の御言葉を学びました。

 

ヘブライ人への手紙は、わたしたちに今の苦難が主の訓練の時であると教えてくれています。

 

どうか、わたしたちが両親のしつけに親の愛を見るように、神の懲らしめに、神の父としての愛を見させてください。

 

どうか、わたしたちも背教の罪との戦いで、血を流したことはありません。しかし、何時か、その時が来ると警告していますヘブライ人への手紙に心を留めさせてください。

 

どうか、わたしたちが今苦難の時、主の懲らしめとして受け取り、神の愛の中に守られて、信仰から信仰へと強められていると信じさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

ヘブライ人への手紙説教42              2023312

だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。

                ヘブライ人への手紙第121217

 

説教題:まっ直ぐに歩もう

今朝は、ヘブライ人への手紙121217節の御言葉を学びましょう。ヘブライ人への手紙は、12411節で教会の今の苦難は、主の訓練であると勧告しました。ヘブライ人への手紙は、昔の神の民たちが荒野の40年間主の懲らしめによって神の民としての愛の訓練を受けたことを頭に置きながら、ヘブライ人への手紙の読者の教会に奨めをしているのでしょう。

 

神の懲らしめは、神の民を神御自身が子として訓練されたのです。親のしつけであったのです。子を愛する親は、わが子をしつけるものです。親が子を放任するのは、その子が私生児であるからです。だから、ヘブライ人への手紙は、子をしつける親を子が敬うように、教会員たちも懲らしめられる神に服従するようにと勧めているのです。

 

そして、親のしつけを、子が最初喜ばないように、神の懲らしめを、わたしたちも最初辛く感じるでしょう。しかし、神の懲らしめは、時を経て神の民たちにその意図を理解させるのです。子が親のしつけの意図を後になって知るように、わたしたちも今の苦難を、神の懲らしめを、後になって理解するのです。その時にわたしたちは、神との和解と交わりの実を結ぶことになるのです。ヘブライ人への手紙はその希望を述べています。

 

だから、12節よりヘブライ人への手紙は次の勧告に移っています。まっ直ぐに歩みなさいと。

 

ヘブライ人への手紙は、身体の不自由をたとえに用いて次のように勧告しています。1213節です。「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

 

ヘブライ人への手紙は、12節を旧約聖書のイザヤ書353節の御言葉を借りて勧告しているのです。わたしたちの新共同訳聖書は次のように翻訳しています。「弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ」と。

 

それから13節を旧約聖書の箴言426節の御言葉を借りて勧告しています。わたしたちの新共同訳聖書は次のように翻訳しています。「どう足を進めるかをよく計るなら あなたの道は常に確かなものとなろう。」と。

 

まっすぐな道を歩くとは、神の民の行進をイメージしています。出エジプトした神の民は、12部族が三組になって、行進しました(民数記2)

 

足の不自由な人が踏み外す」とは、集会を遠ざかっている者たちのことを指しています。教会は、神の御国に向けてこの地上を旅しています。教会の主日礼拝は、その行進です。主日礼拝から離れることは、御国に向けて行進している者が足を踏み外すことなのです。

 

だから、ヘブライ人への手紙は、12節で「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」と命じています。「萎えた手」と「弱くなったひざ」とは、精神的不活発さを意味するたとえです。まっ直ぐにするとは、行動に移れという意味です。

 

一たび休んでいた主日礼拝に出席しますと、わたしたちはこの教会がどこを目指しているのかを再び自覚するでしょう。そのためにわたしたちの足を強くし、この教会が向かっている道筋を真っすぐにしなければなりません。

 

この世におけるわたしたちは、多くの煩いがあります。自分のこと、家族のこと、仕事のこと、隣人との関係のこと等です。まるで曲がりくねった道を歩んでいるのが今のわたしたちの現実です。しかし、キリスト者の本国はこの世ではありません。キリスト者の本国は御国です。だから、今のわたしたちの足が道を外しているならば、軌道修正しなければなりません。そうしないと、わたしたちは、ヘブライ人への手紙が15節以下で警告していますように、御国への道から墜落し、この世で迷子になるでしょう。

 

そこでヘブライ人への手紙は、14節に見出しがありますように、たとえではなく、キリスト者の実際の生活の勧めをしているのです。具体的にキリスト者の聖化を求めよと。

 

すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。

 

聖なる生活」とは、キリスト者の聖化のことです。キリスト者は、この世においては平和と聖化を常に求めなければなりません。

 

すべての人との平和」とは、普通この世の人々との間で平和に暮らすことです。平和に暮らすことで、わたしたちは、隣人にキリストの福音を伝えることができるのです。だから、キリスト者はこの世の人々にキリストの福音を伝えることが使命ですから、何よりも平和を願うべきです。

 

しかし、ヘブライ人への手紙が「すべての人」と述べているのは、キリスト者のすべてという意味です。教会員の間に平和があるように、とヘブライ人への手紙は述べているのです。教会員の間に平和があるように、これは上諏訪湖畔教会が常に追求すべき神からの課題です。今年で上諏訪湖畔教会は創立77年です。この77年間は主の憐れみにとわたしたちの罪の歴史です。すべての教会員の間に平和がなかったという罪です。主イエスが憐れみ、この教会にわたしたちをお集めくださったのに、多くの者がこの教会を去り、今も離れているのです。だから、ヘブライ人への手紙は、わたしたちにも「すべての人との平和」を祈るようにと勧めているのです。

 

その平和以上に追求すべきは、「聖なる生活」、キリスト者の聖化です。神との交わりから得られるこの世におけるキリスト者の生活です。主日礼拝から始まるこの世におけるキリスト者の生活です。

 

わたしたちは、主日礼拝を通して父なる神、主イエス・キリスト、聖霊と交わります。聖霊は、わたしたちに信仰を与えて、直接に主イエスとの交わりを与えてくださいます。同時に礼拝を通して外的手段を用いて主イエスとの交わりをお与えくださいます。御言葉と礼典と祈りです。

 

わたしたちは、礼拝を通して御言葉を聴き、洗礼と聖餐の礼典に与り、そして祈りを通して主イエスの臨在に触れています。目には見えなくても、信仰によって主イエスを見て、その恵みに感謝し、目には見えなくても父なる神を崇めているのです。そして、目に見えなくても聖霊の導きに信頼するのです。

 

このように礼拝を通してでなければ、そして、わたしたちの信仰によってでなければ、この世において主を見るということはあり得ないのです。

 

ヘブライ人への手紙は、わたしたちに15節で三つのことを警告して、こう述べています。「神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。

 

第一の警告は、神の選びに対する正しい応答を求めているのです。わたしたちがこの教会の教会員になったのは、神の恵みによる選びです。父なる神がキリストにあってわたしたちを神の子として選ばれたからです。その神の恵みを無駄にしないようにという警告です。この神の恵みにわたしたちが正しく応答しないことは、神への背教となるのです。

 

第二の警告の「苦い根」とは、偶像礼拝です。異教への逆戻りが毒草の根にたとえられています。昔の話ですが、地方でキリストの福音が伝えられ、異教からキリスト教に改宗する者たちがありました。その時に問題になったのは、位牌、仏壇の処理です。キリスト教に改宗した者たちの中には、位牌と仏壇を蔵にしまい込む者がおりました。彼らが召されると、彼らの子たちは蔵から仏壇と位牌を持ち出して、先祖崇拝をするようになりました。異教に逆戻りしたのです。

 

第三の警告は、異教に逆戻りすることが偶像礼拝の罪であり、そこから貪欲が生じて、教会の他の者たちを汚すことに気をつけろということです。貪欲と世俗化とは深く結びついていると思います。御国よりもこの世を愛するのです。こうして教会の多くの者たちに不信仰の火が付いて、教会を汚していくのです。

 

ヘブライ人への手紙は、1617節で一杯の食物のために信仰を売り渡したエソウの失敗を実例に挙げています。

 

旧約聖書の創世記という書物に出て来るお話しです。創世記25章に族長イサクに双子が生まれ、兄のエソウは長子の権利を、弟のヤコブに一杯の食物のために売り渡しました。神によって約束された祝福よりも腹を満たす一杯の食物を選びました。エソウは神の祝福を拒んだのです。

 

ヘブライ人への手紙はわたしたち読者にエソウのようにみだらな者、俗悪な者にならないように警告しています。性的不品行な者、聖なる者を恐れないこの世の俗物とならないようにという警告です。

 

わたしたちは、エソウがその後どうなったかを知っています。彼は、弟ヤコブに祝福をだまし取られた時、父イサクに神の祝福が残っていないのかと懇願しました。涙を流して父イサクに自分にも神の祝福をと願いました。しかし彼は、神の祝福を得られませんでした。神に拒まれたからです。悔い改めても、彼は神の祝福を得られないという事態を変えることは出来ませんでした。

 

ヘブライ人への手紙は、エソウの実例を、この手紙の読者たちの教会の問題として警告しているのです。神の恵みを拒む者たちは、エソウと同じであると述べています。エソウのように後悔しても、事態を変えることは出来ません。神が拒まれたからです。

 

17節の御言葉は、神のわたしたちへの挑戦だと思うのです。わたしたちは、主イエスが福音書で求めるものは与えられると約束され、しつこく求めた者が罪赦された主イエスの話をよく知っています。何よりも使徒ペトロは主イエスを拒むという大きな罪を犯したのに、復活の主イエスは彼を赦してくださいました。主イエスは、ペトロが「何度赦すべきですか。七度までですか。」という質問しました時に、主イエスは彼に「七の七十倍赦しなさい」と言われました。

 

この聖書の教えとヘブライ人への手紙の背教した者はエソウのように神に拒まれ、どんなに悔い改めても事態は変えられないという主張とどのように関係するのでしょうか。

 

考えれば、難しいです。しかし、わたしは、解決の第一が神の主権性だと思うのです。赦すことと拒むことの主権は神にあります。だから神の憐れみこそがわたしたちの救いの始まりです。

 

鍵の第二はヘブライ人への手紙が問題にしていることです。手紙は神の恵みを拒むという罪の大きさを問題にしています。すなわち、背教です。そして、それが教会の中に起こると、まるで恐ろしい伝染病のように広がり、キリストの体なる教会が汚されるのです。だから、その背教という罪の大きさに対する神の厳しい裁きを告げることがヘブライ人への手紙の立場だったのでしょう。

 

少なくてもヘブライ人への手紙は、背教者を一方的に排除していないと思います。むしろ、教会から背教者が出ることを、教会の集会に出ない者を、わたしたちの教会の問題として考えようとしています。

 

キリストはただ一度わたしたちの罪のために死なれたのです。その神の恵みによって、今のわたしたちがこの教会にいるのです。だから、その神の恵みを、わたしたちが拒み、この教会を離れるならば、いったいわたしたちに何が残されるのでしょうか。ヘブライ人への手紙は神の厳しい裁きだと言うのです。

 

このヘブライ人への手紙の御言葉に、正直に躓きを覚える方がいるかもしれません。わたしたちの心が迷わされるかもしれません。

 

だからこそ、この手紙が勧めますように、わたしたちの萎えた手を、弱くなった膝を真っすぐに伸ばして、ただ教会が歩み続けている神の御国への道を、わたしたちの足が踏み外すことがないように、真っすぐにして歩もうではありませんか。

 

お祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヘブライ人への手紙第121217節の御言葉を学びました。

 

ヘブライ人への手紙は、わたしたちに今行動に移れと命じています。この教会の礼拝で示される御国への道筋を踏み外すことなく、真っすぐに進めと勧告しています。

 

どうか、わたしたちを憐れみ、守り、わたしたちを御国へとまっ直ぐに歩ませてください。

 

この教会の77年間は神の恵みと憐れみ、そしてわたしたちの罪の歴史です。わたしたちが兄弟姉妹を愛し、平和に過ごせなかった罪を赦してください。

 

どうか、わたしたちがこの世の煩いに悩まされないで、ただ神を礼拝し、神との交わりに生き、その結果神と共に生きる喜びを得させてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

ヘブライ人への手紙説教43              2023319

あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震ええいる」と言ったほどです。しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。

                ヘブライ人への手紙第121824

 

説教題:恐れることなく神に近づこう

今朝は、ヘブライ人への手紙121824節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ人への手紙は、読者たちに121217節で彼らたちが異教に逆戻りすることを警告しました。そして、旧約聖書のエソウが悔い改めの機会を得られなかったという実例を挙げて、彼らが異教に逆戻りするならば、すなわち、ユダヤ教に戻るならば、キリスト教に復帰する機会を神が与えて下さらないと警告しました。

 

ヘブライ人への手紙は、エソウの恐るべき実例に続いて、最後に古い契約と新しい契約を比較し、新しい契約がどんなに優れているかを証明しようとしています。それが、1824節の御言葉です。

 

古い契約と新しい契約は、共に主なる神の恵みの契約です。

 

古い契約は、主なる神がモーセを仲介者として神の民イスラエルと結ばれた契約です。主なる神は荒野のシナイ山で契約を結ばれました。1819節は、その時に神の民イスラエルが荒野のシナイ山で経験した恐ろしい出来事を記しているのです。

 

わたしたちの新共同訳聖書は、「近づいたのではありません。」という言葉が、19節の終わりにあります。ギリシャ語新約聖書では18節の最初にあります。この言葉の主語は、「あなたがた」です。読者たち、すなわち、キリスト者たちです。

 

1819節の御言葉は、旧約聖書の出エジプト記191619節、2018節の御言葉に基づいています。主なる神は火の燃えるシナイ山に顕現されました。神の民たちは、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、シナイ山が煙に包まれる有様を見ました。

 

だから、「手で触れることができるもの」とは、場所のことで、ここではシナイ山です。「燃える火」とは、主なる神がシナイ山に顕現された有様を描いています。シナイ山が燃え、全山が煙で包まれていました。「黒雲、暗闇、暴風」とは、主なる神が住まわれる場所を表わしています。「ラッパの音」は、主なる神の最後の顕現のしるしを表わしています。「聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声」とは、出エジプト記2019節の御言葉です。神の民たちは、モーセに言いました。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。

 

ヘブライ人への手紙は、読者たちにモーセと神の民たちがシナイ山で主なる神の顕現に出遭ったときのことを述べています。主なる神が神の民たちに直接に顕現されたのは、シナイ山だけです。

 

それは、神の民にとっては恐ろしい経験でした。だから、ヘブライ人への手紙は、続けて2021節でこう記しています。「彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。

 

20節は、出エジプト記1913節の御言葉の引用です。21節は、申命記第919節の御言葉の引用です。荒野で神の民たちが偶像礼拝をし、神の激しい怒りに触れました。21節は、その時のモーセの気持ちを記しています。引用と言いましたが、ヘブライ人への手紙の著者が直接に旧約聖書を紐解いて引用しているのではありません。以前に読んで覚えていたのでしょう。あるいは、だれかから聞いて覚えていたのかもしれません。

 

ヘブライ人への手紙がわたしたち読者に伝えたいことは、旧約時代の神の民たちはシナイ山での主なる神の顕現という恐ろしい経験を通して、主なる神が直接神の民たちに語られることを拒んだということです。だからヘブライ人への手紙は、読者たちに25節で次のように警告するのです。「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」。

 

2224節は、新しい契約です。主イエス・キリストを仲介者としてキリスト教会が主なる神と契約したものです。彼らが近づくのは、神の民イスラエルようにこの世ではありません。約束の御国です。神の民イスラエルは、救い主キリストを待ち望みました。キリスト教会は、キリストの御救いの完成の下に集められました。約束の御国に至るために、今教会はこの世において共に主なる神を礼拝し、神の御言葉を共に聴き、そして、天国の前味である聖餐の恵みに与り、主イエスにあって兄弟姉妹が聖なる交わりをしているのです。

 

ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストの十字架によって贖われ、聖霊に清められて、新しき人とされたキリスト者たちが将来直面する御国という恵みを、2224節で述べているのです。

 

古い契約がこの世のことであったのに対して、新しい契約は御国です。天上のことです。「シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム」とは、地上のことではありません。天上のことです。神の御国です。これは、キリスト者にとって約束であり、希望です。普通は、将来のことです。しかし、ヘブライ人への手紙は、現在完了形で述べています。すでにキリスト者はこの恵みに与っていると述べているのです。

 

御国には、「無数の天使たちの祝いの集まり」があります。「無数」は一万という数字です。一万の天使たちを、無数の天使たちに意訳しています。この時代、万が一番大きな数字の桁数でした。だから、この世で考えられる限りの一番大きな数字ということになるでしょう。

 

天に登録されている長子たちの集会」とは、天上の教会のことです。11章ですでに救いに約束された旧約の義人たち、そして、新しく生まれ変わった者であるキリスト者たちのすべてを意味しています。キリストにあって神に選ばれたすべての者たちです。

 

キリストが再臨され、「すべての人の審判者である神」が最後の審判を下されます。使徒信条で告白されていますように、「生ける者も死ねる者も審きたまわん」。全人類がこの世の終わりに主なる神の裁きの座の前に立たなければなりません。

 

神の裁きは、旧約時代の義人たちとキリスト者たちにとっては、祝福です。その時「完全なものとされた正しい人たちの霊」であるからです。キリストの再臨と御国の到来を待ち望む者たち、すなわち、旧約時代の義人たちやキリスト者たちは、キリストの十字架の贖いのゆえに救いの完成にあずかり、御国へと入れられるのです。

 

それを保証されるお方が「新しい契約の仲介者イエス」であり、その保証が「アベルの血より立派に語る注がれた血」、キリストの十字架の血です。

 

ヘブライ人への手紙は、読者に、そしてわたしたちに、将来における救いの約束を述べているのではありません。今ここでこの御言葉を聴くわたしたちに、今の救いを述べているのです。

 

古い契約がこの地上におけるものであり、新しい契約は天上におけるものであると述べて、地上と天上を対比して、新しい契約に生きるわたしたちは、仲介者キリストによって既に御国に入れられているのだと述べています。

 

義人アベルが流した血は犠牲の血です。しかし、キリストが流された血は、ただの犠牲の血ではなく、わたしたちを罪から救い、御国へと至らせるものであると、ヘブライ人への手紙は述べています。キリストは、ただ一度死なれました。その死によってキリストのわたしたちに対する救いが完成し、罪に死ぬべきわたしたちがその罪を赦され、御国に入れられ、永遠に神を褒め称えるのです。

 

その御国に至る喜びが、わたしたちのこの礼拝から始まっているのです。

 

お祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヘブライ人への手紙第121824節の御言葉を学びました。

 

ヘブライ人への手紙は、古い契約と新しい契約を対比して、どんなに新しい契約が優れたものであるかを述べています。

 

どうかわたしたちが日曜日の礼拝ごとに、ヘブライ人への手紙が述べていることを、わたしたちの喜びとして実感させてください。

 

教会の礼拝は、天国の前味です。同時に今ここにキリストの救いがあると信じさせてください。

 

今レントの季節を一日一日と生きています。どうか、キリストがただ一度死なれたことを瞑想させてください。多くの人の罪を負うために、十字架で死なれたことを瞑想させてください。

 

そして、そのキリストの御救いが現在完了形で、今の私の救いを完成し、わたしたちをこの世にあって御国の民としているという喜びで満たしてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

ヘブライ人への手紙説教45             2023416

兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。

「主はわたしの助け手。

わたしは恐れない。

人はわたしに何ができるだろう。」

                ヘブライ人への手紙第1316

 

説教題:兄弟として愛するとは

今朝は、ヘブライ人への手紙1316節の御言葉を学びましょう。

 

先週の週報ではヘブライ人への手紙第13125節までを聖書朗読すると予告していました。しかし、実際に御言葉を説き明かすのは、1317節ですので、聖書朗読の箇所を改めました。

 

さて、ヘブライ人への手紙は、使徒パウロの手紙とは違います。神学論文です。ところが最後の13章は違います。この手紙の終わりの部分です。使徒パウロの手紙と同じように、牧会的、倫理的奨励がなされ、個人的な挨拶があり、手紙は閉じられています。

 

新共同訳聖書は、13118節に「神に喜ばれる奉仕」という表題を付しています。しかし、今朝の御言葉の牧会的、倫理的奨励のテーマは、兄弟愛です。

 

ヘブライ人への手紙は、読者に131節で「兄弟としていつも愛し合いなさい」と勧めています。これは、意訳です。直訳すれば、「兄弟愛がとどまるように」です。

 

わたしの好きなイングリシュバイブルは、「決してあなたがたの仲間であるキリスト者たちを愛するのを止めてはならない」と意訳しています。

 

兄弟愛とは、わたしたちの仲間、キリスト者たちを愛することです。キリストにある兄弟姉妹として愛し合うことです。

 

だから、ある聖書注解者は、すべての人を愛する隣人愛とは区別されると説明しています。

 

ところが2節でヘブライ人への手紙は読者に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」と述べています。

 

旅人」はよそ者であり、一時的な寄留者です。兄弟愛がキリスト者仲間への愛であれば、「旅人をもてなすこと」は兄弟愛に当てはまらないのではないでしょうか。

 

ある注解者は、「旅人をもてなすことは、兄弟愛の特殊な面である」と解説しています。なぜなら、旅人をもてなすことは、初代教会のキリスト者たちに重んぜられていたからです。旧約聖書の創世記に族長アブラハムとロトが天使たちとは知らないで、旅人をもてなしたことを物語っています。アブラハムと妻のサラは、客である天使たちをもてなして、天使たちは彼らに一年後に息子イサクの誕生という祝福を得られると約束しました。

 

ロトは、客である天使たちをもてなし、主なる神がソドムとゴモラを滅される災いから彼と二人の娘が救われました。

 

田川健三氏が1節と2節を次のように訳しています。「兄弟愛が存在するようにせよ。よその人に対する愛も忘れるな。この愛があるから、気づかずに天使たちを客として受け入れた人もいたのだ。」

 

田川氏の理解では、ヘブライ人への手紙が述べている「兄弟愛」は、キリスト者同士の愛を越えた隣人愛です。

 

わたしは、新共同訳聖書もイングリシュバイブルも、読み込み過ぎているのではないかと思います。

 

確かに、兄弟愛は、キリスト者仲間の愛ということは、わたしたちの教会における常識です。主イエス御自身が12弟子たちに互いに愛し合いなさいとお命じになりました。だから、兄弟愛は、キリスト者の交わりの中心であり、キリスト教倫理の土台です。

 

使徒パウロもヨハネも、兄弟愛を、キリスト者仲間の愛として語っています。

 

しかし、わたしは、思うのです。ヘブライ人への手紙は、どうしてキリスト者仲間への愛をはっきりと言葉にして奨励していないのでしょうか。

 

3節でもヘブライ人への手紙が読者に「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」と勧めています。

 

逮捕され、牢に入れられている仲間を思いやりなさいと勧めてはいません。自分も牢に入れられたつもりで、不当に逮捕され、牢に捕らえられている人を思いやりなさいと勧めています。身内のことに親身になって勧めているという感じはしません。むしろ、キリスト者でなくても誰でも不当に逮捕され、牢に入れられている人たちを、自分のように思いやりなさいと勧めているように見えます。

 

実際にヘブライ人への手紙の読者たちは、1034節でヘブライ人への手紙が述べていますように不当に逮捕された人たちと苦しみを共にしています。また、彼らは御国の相続を信じていますので、この世の財産を奪われても、耐え忍ぶことができました。

 

わたしは、虐待されている人、悪を被っている人とは今のウクライナの人々だと思うのです。弱小国であるあるゆえに、大国ロシアの侵略によって、多くの人々の命が奪われています。戦争で老人たち、子供たち、女性たちの命が奪われています。まさにこの世における力ある者から虐待されている、悪を被っているのです。

 

ヘブライ人への手紙が「自分も体を持って生きているのですから」と言っていますのは、ウクライナの人たちもわたしたちと同じ人間だからという意味です。同じ人間として、自分のように思いやるのです。思いやりで、ウクライナの人々に直接何かを為すことはできないかもしれません。

 

しかし、同じ人間として思いやるなら、間接的に援助する道を、わたしたちは見つけることでしょう。国境なき医師団がウクライナに入り、医療活動をしています。ユニセフも子供たちのために活動しています。その他の団体も援助の手を差し伸べています。わたしたちは、寄付することで、この世において悪を被っている人々を思いやることができるのではないでしょうか。

 

ヘブライ人への手紙は、読者に4節で「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。」と勧めています。

 

イングリシュバイブルは、次のように訳しています。「結婚は尊敬に値する。わたしたちは皆、それを守りましょう。そして、結婚の絆は犯されてはならない。神の裁きが情交者と姦通者に下るだろうから。」

 

「・・・べきであり」という言葉はありません。ヘブライ人への手紙は、すべての人が結婚しなければならないと勧めているのではありません。旧約聖書の創世記218節で主なる神が「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言われ、アダムのためにエバを造られ、結婚という制度を定められました。だから、結婚は尊敬に値し、すべての人は結婚をした方がよいと、ヘブライ人への手紙は勧めているのです。

 

初代教会は、性的な禁欲主義者が多くいました。使徒パウロも独身を通しましたし、洗礼者ヨハネのように禁欲主義者がいました。ヘブライ人への手紙は、結婚を否定的にとらえる者に結婚した方がいいよと勧めているのです。

 

さらに結婚している者には、その絆を壊さないようにと、ヘブライ人への手紙は勧めています。結婚は、神が定められたものですから、結婚という制度を壊すみだらな者、姦淫する者は、神の裁きが下ると、ヘブライ人への手紙は読者に警告しています。

 

ヘブライ人への手紙は読者に5節で「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。」と勧めています。

 

イングリシュバイブルは、こう訳しています。「金を求めて生きてはならない。あなたの持っているもので満足しなさい。」

 

金銭に執着する生活とは、金を求めて生きることです。神を求めて生きるのではなく、金を求めて生きるのです。金を求めて生きる者は、金を神として、その金に仕えて生きているのです。

 

まさに今のわたしたちの世界は、人は皆金銭に執着して生きています。お金が神様になっています。なぜなら、わたしたちは、お金でわたしたちの欲望を満たしているからです。お金があれば、わたしたちは何でも手に入れられます。逆にお金がなければ、この世では何も手に入れることができません。

 

このようにお金に執着して生きることからわたしたちを解放してくれるのは、「今持っているもので満足」する心です。お金ではなく、わたしたちの心を満たしてくれるお方です。わたしたちの心をこの世の煩いから解放し、ただ一つの望みに導いてくれるお方です。

 

主イエスは、わたしたちの心をお金に執着することから解放し、この世の煩いから解放してくださいます。わたしたちに父なる神を追い求めさせ、この御方がわたしたちに必要なすべてをお与えくださっていると教えてくださいました。だから、わたしたちは、今与えられているもので満足するのです。

 

ヘブライ人への手紙は、読者に5節後半に「神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。」と慰めを語っています。

 

これは、旧約聖書の申命記316節の御言葉です。モーセは、約束の地カナンの目の前にして、今死ぬのです。彼は神の民イスラエルに勧告しました。それは彼の遺言の言葉でした。モーセは約束の地に入る彼らを励まして言いました。「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。

 

ヘブライ人への手紙は、確信しているのです。わたしたちキリスト者の究極の拠り所を。それは、「神、我らと共にいます」ということです。そして、神はわたしたちを見放されることも、見捨てられることもなく、常に共にいて助けて下さるのです。

 

だから、ヘブライ人への手紙は読者に6節でこう確信する御言葉を告げているのです。「だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。

「主はわたしの助け手。

わたしは恐れない。

人はわたしに何ができるだろう。」」。

 

旧約聖書詩編1186節の御言葉です。「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。

 

ヘブライ人への手紙は次のように述べています。主なる神が常に共にいて見放すことも見捨てることもないと約束して下さたので、わたしたちは勇気を得て、詩篇1186節の御言葉を、キリスト者の信仰告白として信仰告白できると。

 

同じように今のわたしたちも、ヘブライ人への手紙136節の御言葉を、わたしたちの信仰告白として信仰告白できるでしょう。

 

上諏訪湖畔教会の75年の歴史を、主イエスはわたしたちと共に歩まれ、見放すことも見捨てることもありませんでした。わたしたちは、75年間主の日の礼拝を守り続け、そこで牧師が語る神の御言葉を聴き続けて来たのです。幾度となく困難な時がありました。今のように教勢が減り、教会の火が消えそうになりました。しかし、主イエスは、わたしたちに「二人、三人、わたしの名によって集まるところにわたしもいる」と約束してくださいました。その約束のとおりに、主イエスが今ここにいてくださったのです。わたしたちは、見放されることもなく、見捨てられることもなく、今もここに集まり、主イエスを礼拝し、神の御言葉を聴いているのです。

 

だから、わたしたちも信仰告白しましょう。詩編1186節の御言葉を。「主はわたしの助け手、わたしは恐れることはない。人がわたしに何をなしえよう」。

 

お祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヘブライ人への手紙第1316節の御言葉を学びました。

 

先週はイースターを祝いました。主イエスが死人の中から甦られたことを心に留め、感謝しつつ一週間を過ごしました。一日一日が主イエスの復活によって新しく感じられ、心からイースターを祝うことができて、感謝でした。

 

今朝は、兄弟として愛することについて、ヘブライ人への手紙から瞑想する機会を得たことを感謝します。

 

ヘブライ人への手紙は、「兄弟愛にとどまれ」と勧めています。キリストは、ヨハネによる福音書で「この囲いの外にもわたしの羊がいる」と言われました。

 

兄弟愛は、キリスト者仲間の愛です。しかし、この教会の外にもわたしたちの仲間はいます。だから、わたしたちの教会の外にいる者たちを、わたしたちの愛する者として思いやる心を、わたしたちにお与えください。

 

ウクライナの人々に平和を祈らせてください。世界中で権力者によって搾取されている人々に思いやりを持たせてください。

 

主イエスの愛の心を、わたしたちの心に反映させてください。そして、わたしたちに愛する心をお与えください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。