フィリピの信徒への手紙説教06 主の2025年3月2日
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことも注意を払いなさい。
互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
フィリピの信徒への手紙第二章1-11節(2)
説教題:「パウロの賛美」
今日はフィリピの信徒への手紙第二章5-11節の御言葉を学びましょう。使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに教会の一致を勧めました。そのためにパウロは彼らが互いに同じ思い、同じ愛、そして心を合わせて思いを一つにしてほしいと願いました。それがパウロの喜びであったからです。そのためにパウロは彼らにへりくだりが必要であり、彼らが兄弟たちへの尊敬と配慮に注意を払うように勧めました。
続いて使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに5節で次のように勧告しました。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」。新改訳聖書2017は「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」と訳しています。わたしは訳が違うと思いますが、どちらも使徒パウロの思いをくみ取ろうとしていると思います。それはキリストのへりくだりという思いです。
この5節のパウロの御言葉は1-4節のパウロの勧告と6-11節のパウロが引用したキリスト賛歌を結び付けています。そしてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに12節以下でキリストへの従順と彼らの救いの達成に努めるように勧告しているのです。
さてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに3節で「へりくだって」と勧めていますね。わたしはこの勧めがパウロのキリスト賛歌を引用する動機になっていると思います。ある註解書を読んでいますと、次のように解説されていました。「一節から四節にかけて打ち出した勧告の内的原理、根拠、動機づけ、それに、模範を提供しようとしている。従って五節の句は『勧告』と「キリスト賛歌」を結びつける『つなぎの句』となる。パウロは単にキリスト者がとるべき態度の『模範』としてキリストの態度を指示しているのではない」。
わたしはこの文章を一度読んで、理解できませんでした。なぜなら注解書は「模範を提供している」と言いながら、「パウロは単にキリスト者がとるべき態度の『模範』としてキリストの態度を指示しているのではない」と述べているからです。どういうことなのでしょう。わたしはパウロがフィリピ教会のキリスト者たちにへりくだりを勧めていると思うのです。それはパウロが教会の一致のためにこのキリストのへりくだりがカギとなると思っているからです。だからパウロは、この手紙でキリスト賛歌を引用しているのではないでしょうか。
わたしは5節の「互いにこのことを心がけなさい」の「このこと」とはフィリピ教会のキリスト者たちのへりくだりだと思います。そしてパウロは「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と言って、このキリスト賛歌を引用したのだと、わたしは思うのです。
それからパウロはその前の2節で「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」と述べていますね。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにキリストのへりくだりを、形ばかりまねることを願っているのではありません。何よりもパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに教会の一致を、彼らが互いにキリストに思いを一つとしてほしいと願っているのです。
だからわたしはある注解書が解説しています「パウロは単にキリスト者がとるべき態度の『模範』としてキリストの態度を指示しているのではない」ということを理解したのです。わたしはパウロがフィリピ教会のキリスト者たちに5節で伝えたかったことは、キリストのへりくだりを模範にせよということではなかったと考えています。もしパウロがフィリピ教会のキリスト者たちにキリストのへりくだりを模範として示そうとしたのであれば、パウロがどうして9-11節でキリストの高挙の讃美歌を引用しているのか、その意味が分かりません。キリストのへりくだりの模範を示すだけであれば、6-8節で十分でありませんか。
パウロが願った教会の一致という根底にある大きな出来事を、パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにこのキリスト賛歌の引用によって知らせたかったのです。わたしはパウロが引用したキリスト賛歌に、キリスト者の今があり、わたしたちキリスト者は十字架のキリストに生かされて、今を生きているのではないかと思うのです。もうわたしたちキリスト者は自分を主体にこの世を生きているのではありません。わたしが自分で生きているのでなく、キリストがわたしの内に生きておられるのです。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにどのようにしてわたしたちキリスト者が今この新しい生を生きるようになったのかを示そうとしているのです。だからパウロはこのキリスト賛歌を引用しているのでないでしょうか。
このように推測しますと、パウロが6-11節でキリスト賛歌を引用し、キリストのへりくだりだけでなく、高挙も引用していることに、わたしは納得できるのです。このキリスト賛歌はパウロが作ったものでありません。初代教会の中で賛美されていたものです。それをパウロが少し手を加えて、引用しているのです。教会への一致を基礎づけるためです。
だからこのキリスト賛歌は二部構成になっています。6-8節と9-11節です。キリストのへりくだりと高挙に分けられています。6-8節はキリストのへりくだりです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」
6-8節はキリストが主語です。6節でキリストが「神の身分でありながら」と言われていますね。これはキリストが神の創造の前に神として存在されたこと、キリストが神であられたことを歌っています。「神と等しい者である」とはキリストは父なる神と等しい者であるということです。「固執しようとは思わず」とは、神であられたキリストが神であることにこだわらなかったということです。神であるキリストが7節で神であることにこだわらなかっただけでなく、へりくだり、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」と歌っています。いわばキリストは神であることを放棄して、当然神であることにこだわらず、わたしたちと同じ人間となられたのです。
8節はパウロの挿入句であると考えられています。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。神であられたキリストが十字架の死に至るまでわたしたちと同じ人間としてへりくだり、父なる神に従順であられたのです。それによってパウロは、この十字架の死に至るまでキリストが父なる神に従順であられたということを根拠にして、フィリピ教会のキリスト者たちに12節以下で従順を勧告しているのです。
ところが、9-11節は主語が神です。キリストは神であられたが御自分を空しくし、わたしたちと同じ人間になられ、十字架の死に至るまでへりくだられました。神はそのキリストを大いに高められました。9節で「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」と歌っています。神は父なる神です。「キリストを高く上げ」とは父なる神がキリストを死人の中から復活させ、昇天させ、神の右に座せられたことです。神がキリストに「あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とは、全被造物にまさる位と権能を恵みとしてお与えになったということです。
10節の「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて」とは、宇宙の全被造物を指しています。キリストは宇宙の全被造物を支配する者となられたのです。「イエスの御名にひざまずき」とは神がキリストを高挙され、宇宙の全被造物の支配者とされた、すなわち万物の主とされたので、全被造物がキリストを主と告白し、礼拝するのです。だから11節で「すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」と歌っているのです。
パウロが引用したキリスト賛歌はキリストのへりくだりだけでなく、神がキリストを高く上げられ、キリストが万物の主として全被造物に礼拝されることを通して、父である神の栄光が表されたと歌っているのです。
わたしはパウロのキリスト賛歌を読み、思うのです。これはただわたしたちにキリストのへりくだりを教えているのだろうかと。教会の一致のためにはわたしたちがキリストのへりくだりを模範とすべきだと、パウロが教えているのだろうか。わたしは違うのではないかと思うのです。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにこのキリスト賛歌を通して神がどのようにキリストのへりくだりと高挙を通してキリスト者に新しい生を、大きな恵みの出来事をお与えくださったのかを伝えているのです。
キリストがへりくだり、十字架に死なれ、神がキリストを高く上げられた出来事は教会の一致の出来事でありました。すべての被造物がキリストを万物の主と崇め、礼拝し、神の栄光をあらわす出来事でした。神はキリストが十字架に至るまで御自身に従順であられたので、彼を高く上げて、万物の主として立てられたのです。
今わたしたちが主の日に主イエス・キリストをわたしたちの主として礼拝していること、この恵み、パウロがキリスト賛歌を引用していることの意味ではないでしょうか。神であるキリストがわたしたちと同じ人となり、十字架の死に至るまで父なる神に従順でした。だから神はキリストを死人の中から復活させ、昇天させ、神の右に座さしめ、高く上げて、万物の主とし、全被造物が主イエスを礼拝するようにさせられたのです。こうして神の栄光が表されました。今日はここまでです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第二章5-11節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
どうかわたしたちの教会にも教会の一致をお与えください。わたしたちが同じ思い、同じ愛、そして心を一つとし、互いに協力し、この教会の礼拝を守り、神の栄光を現すことができるようにして下さい。
そのためにキリストはへりくだり、十字架の死に至るまで神に従順でした。どうかわたしたちもキリストのように死に至るまでキリストに従順な者としてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
フィリピの信徒への手紙説教07 主の2025年3月9日
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
フィリピの信徒への手紙第二章12-18節
説教題:「パウロの従順」
本日はフィリピの信徒への手紙第二章12-18節の御言葉を学びましょう。使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに教会の一致を勧めました。そのために鍵となりますのが礼拝であり、フィリピ教会のキリスト者たちの互いのへりくだりであり、従順でありました。そこで使徒パウロはこの手紙の二章6-11節でキリスト賛歌を引用して彼らにキリストのへりくだりと高挙を示して、神であられたキリストが人としてこの世に来られ、十字架の死に至るまで父なる神に従順であられ、父なる神はキリストを死人の中から引き上げて、万物が主と礼拝するお方とされたことを語りました。
12節の「だから」は、使徒パウロがフィリピ教会のキリスト者たちに6-11節のキリスト賛歌に結び付けて従順を勧告しようとしているのです。パウロは続けてフィリピ教会のキリスト者たちに「わたしの愛する人たち」と呼びかけて、キリストが父なる神に十字架の死に至るまで従順であられたように、「いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて」くださいと勧めています。
このように従順が今朝の御言葉を理解する鍵です。パウロにとって信仰とは従うことです。だから福音の宣教者である使徒パウロは福音の聞き手であるフィリピ教会のキリスト者たちを信仰の従順に、すなわちパウロが語ります神の御言葉への従順に常に導こうとしたのです。パウロにとっては信仰の行為は聴き従う行為だったからです。まずパウロが従順をどのように考えていたかをよく理解してください。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「わたしの愛する人たち」と呼びかけています。パウロにとってフィリピ教会のキリスト者たちは共にキリストの愛に浴する信仰の同志でした。パウロは彼らと共に居たとき、彼は彼らに彼の語る福音に聞き従うように熱心に指導していたでしょう。今パウロは牢獄に閉じ込められています。彼は彼らと一緒にいることができません。だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちにこれまで以上に礼拝で宣教者たちが語る福音に聴き従って、従順でいてほしいと勧めているのです。
わたしはパウロが勧める従順の場所は教会の礼拝にあると思うのです。そこでわたしたちキリスト者たちは礼拝します。神の御言葉、すなわち命の福音を聴くのです。だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに彼らが教会の礼拝で聴いた神の御言葉に従うように、彼らに宣べ伝えられたキリストに従うように勧めたのです。
そのように考えますと、パウロがフィリピ教会のキリスト者たちに従順を勧めて、12節後半で「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧告していますことが分かります。わたしは、パウロがフィリピ教会のキリスト者たちにこう勧めたと思います。「愛する人たち、キリストを畏れつつ、キリストの御言葉に聴き従い、その信仰によってあなたがたの救いを完成するように努めなさい」と。
続いてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちにキリストを礼拝し、キリストの御言葉を聞いて、キリストを彼らの主と信じ、従うことが人間の行いではなく、神のお働きであることを伝えています。13節です。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」パウロは彼が勧める従順の主体が人でなく、神であると述べているのです。神の御言葉に聴き従う信仰は人の行いではなく、神のお働きです。たとえば手元の週報の主日礼拝の礼拝順序を見ても、一目瞭然ですね。一目でわかります。礼拝はキリストの招きに始まり、神の御言葉が語られ、わたしたちは聴くのです。その時に神はキリストにあって選ばれた者に聖霊を通して御自身の御心を、まさに御言葉を聴く者が自分で決心したかのように導かれ、従順へと歩まされるのです。だから、パウロはキリスト者の従順は神があなたがたの内に働かれる御業であると言っているのです。
続いてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに従順への道の厳しさと確かな約束を、14節から16節前半で次のように述べています。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」。このパウロの御言葉の背景には旧約聖書の神の民イスラエルの荒野の旅があります。昔神の民イスラエルが奴隷の地エジプトから解放された時、彼らは40年間約束の地カナンを目指して荒野で生活しました。彼らはエジプトの奴隷から贖われて、神の民となりました。主なる神は彼らにモーセの口を通して語られる神の御言葉に聴き従う従順を求められました。しかし、彼らはモーセが語る主の御言葉に不平を言い、主なる神に逆らい、偶像礼拝の罪を犯しました。だからパウロはこの世におけるキリスト者の生活を神の民イスラエルの荒野の生活にたとえて、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と述べているのです。パウロはこう言っているのです。「あなたがたは神の民イスラエルの悪例に従ってはならない。彼らがモーセの語る神の御言葉に不平を言い、主なる神とモーセを疑ったように、わたしたちが語るキリストの御言葉に反抗の態度を表してはいけない」。
パウロは「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」と述べています。わたしは約束の言葉だと思います。フィリピ教会のキリスト者たちが神の御言葉に聴き従い、すなわち、キリストに従う従順の道を歩み続けるならば、彼らは「とがめられるところのない清い者」とされるという約束です。これはわたしの言い方では文句なしに真の神の子とされるということです。
パウロの見方、それは聖書の見方ですが、今、わたしたちのこの世、わたしたちのこの世界は「よこしまな曲がった時代」です。人は神を恐れてはいません。そして人は傲慢です。人はどんな権威に対しても反逆します。だから、神を離れ、その傷のゆえに、今の世に、世界に神に従う者がないという中で、キリストは聖霊を通してこの世のキリスト者たちを「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」ようにしてくださるのです。今の世に、世界に神の御言葉に聴き従うキリスト者がいるということは、パウロの言う神の約束であり、ある意味で奇跡であると、わたしは思うのです。暗い夜空を見上げますと、星が輝いています。キリストに従う従順なキリスト者たちも暗い夜空に輝く星のように輝き、命の言葉をしっかりと持つ者とされているのです。
キリスト者の輝きは命であるキリストの光を照らすのです。キリスト者はキリストの御言葉を聴くだけではありません。キリストの命の光に照らされているのです。わたしは思うのです。わたしはどこでキリストに出会ったのかと。大学生のころに求道し、宝塚教会で礼拝生活を始めました。51年間キリストの御言葉を聴き続けました。今わたしは思うのです。キリストは教会の礼拝に居てくださり、牧師の説教を通して語り続けてくださっていたと。キリストとの出会いは聖書の御言葉を聴くことの中で、礼拝の説教を聴き続ける中で、あったのだと、今のわたしは思うのです。ただわたしが非の打ちどころのない神の子であると、今自信をもって言えません。しかし神の約束の言葉であれば、わたしは信じたいと思うのです。キリストが再臨された日に、このわたしが非の打ちどころのない神の子だと、キリストに宣言されることを。
16節後半から18節はパウロの喜び、パウロがフィリピ教会のキリスト者たちと共に喜ぶことを述べています。パウロが彼らと共に喜びたいことは、第一に16節後半です。「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」「キリストの日」とはキリストが再臨され、最後の審判がなされる日です。そこで使徒パウロは彼の使徒としての評価を、キリストに下されるのです。フィリピ教会のキリスト者たちがパウロの指導に従って福音を聴き続け、キリストに最後まで従ってくれれば、彼らがパウロの働きの証人となってくれるのです。パウロの使徒としての働きが有効であったことが証しされます。だからパウロは、キリストの日に誇ることができると述べているのです。彼の誇りは彼が自分の功績を誇るのでありません。18節でパウロがフィリピ教会のキリスト者たちに共に喜んでくれと言っていますように、パウロと共にフィリピ教会のキリスト者たちが最後まで従順であったことを、神に感謝し喜ぶのです。
パウロが共に喜びたいことの第二は17節です。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。」パウロは牢獄に捕らえられていました。判決は下されていません。死刑の判決が下されるか、無罪放免になるか、パウロには二つの可能性がありました。しかし、パウロにはキリストの福音のために牢につながれているという確信がありました。特にパウロは死刑の宣告が下ることを想定して、自分とフィリピ教会のキリスト者たちとの関係を述べているのです。
パウロは旧約聖書の神の民イスラエルの祭儀を持ち出しています。昔神の民イスラエルは神殿で神さまに動物犠牲を献げました。その時に祭司は犠牲の動物の血を祭壇に灌祭として注ぎました。パウロは自分の死をフィリピ教会のキリスト者たちの信仰の従順のための献げ物とすると述べているのです。
わたしにはまるでパウロがキリストのように自分が祭司となり、犠牲となってフィリピ教会のキリスト者たちの信仰の従順を執り成すと言っているように聞こえるのです。カルヴァンは註解書の中でこう述べています。「ここでわれわれは、信仰の本質、すなわち、それは決して空しいものでも無益なものでもなく、人を神に捧げることであるという有益な教訓を学ばなければならない。また福音の仕え人はここで、信者の魂を犠牲として捧げる神の祭司と呼ばれるが故に、特別の慰めを持つ。この捧げ物が神の嘉し給うものであることを知る人は、どのような熱心をもって福音ののべ伝えに従事すべきであろうか。」
パウロは自分がキリストの福音のために殉教の死を遂げることになっても喜ぶと言っているのです。そしてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに共に喜ぶと言い、一緒に喜んでほしいと願っています。キリストの共同体はキリストにあって共に喜び合う集いです。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く集いです。
わたしはキリスト者の従順を推進する力は聖霊の御力であると思いますが、聖霊はフィリピ教会のキリスト者たちがパウロと一緒に喜ぶことで、彼らのキリストへの従順を推進されていると思うのです。本日はここまでにします。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第二章12-18節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちにもこの教会での礼拝で神の御言葉を聴き続け、キリストに従順に歩めるようにして下さい。わたしたちの今の時代もよこしまな曲がった時代です。どうか聖霊よ、わたしたちに神の御言葉に聴き従う信仰をお与えくださり、小さな群れですが、暗き夜空に輝く星として、わたしたちの住むまわりの人々にキリストを証しさせてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
フィリピの信徒への手紙説教08 主の2025年3月16日
さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。
フィリピの信徒への手紙第二章19-24節
説教題:「パウロの希望」
本日はフィリピの信徒への手紙第二章19-24節の御言葉を学びましょう。使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに2章18節で喜びの勧めをしました。パウロは彼らに「わたしと一緒に喜んでください。わたしもあなたがたと一緒に喜びます」と言いました。パウロはその後に二章19-30節でこれからの計画について具体的に述べています。第一の計画は彼の弟子テモテをフィリピ教会に派遣することです。第二の計画はエパフロデットをフィリピ教会に帰すことです。
本日は使徒パウロが弟子のテモテをフィリピ教会に遣わす第一の計画について学びましょう。使徒パウロは、彼の弟子テモテをフィリピ教会に遣わす理由について、19節で次のように述べています。「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」。
使徒パウロは既に学びましたように、彼がこの手紙をフィリピ教会に書き送りましたとき、牢獄で囚われの身となっていました。そして、彼は死刑の判決の宣告を受けるのか、あるいは無罪放免の宣告を受けるのかを、待っていました。パウロはフィリピ教会を離れていて、愛する兄弟姉妹のことが心配だったのでしょう。そこで彼は共に働いている福音宣教の協力者をフィリピ教会に遣わすことを計画しました。その理由は彼が19節でこう述べています。「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので」と。今は離れていても、パウロの心は常にフィリピ教会のキリスト者たちと共にありました。共にキリストの福音宣教を担う、そして12節でパウロが「わたしの愛する人たち」と呼びかけているフィリピ教会のキリスト者が今どのような状況にあるのかを知りたいと思いました。そして彼自身が今の困難な状況にあるので、彼らによって力づけられたいと思ったのです。
そこでパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」と述べているのです。パウロの言葉は彼のテモテを遣わすというこの計画が主イエスによってわたしが希望したことだと言っているのです。おそらくパウロは牢獄でフィリピ教会のキリスト者たちのために熱心に祈っていたでしょう。その時に主イエスがパウロにあなたの身近にいる協力者をフィリピ教会に遣わすように促されたのでしょう。だからパウロが弟子のテモテをフィリピ教会に遣わすことは、パウロにとっては主の御心だったのです。
そこでパウロは自分がフィリピ教会に遣わす弟子のテモテについて20-22節で次のように紹介しています。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」
テモテはパウロの弟子です。使徒パウロは使徒言行録の16章で第二回目の伝道旅行をしました。その時第一回目の伝道旅行で訪れたデルベ、リストラを再び訪れました。そこでパウロは小アジアのリストラとイコニオンで評判の良いテモテを見出しました。彼の父はギリシア人で、母がユダヤ人でした。パウロは彼を弟子とし、福音宣教に伴いました。パウロがヨーロッパに渡り、フィリピで伝道したとき、テモテも同伴し、フィリピ教会の設立を助けたのです。
だからパウロは、22節で「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と述べているのです。フィリピ教会のキリスト者たちはテモテが常にパウロのそばで、まるで父に従う子のようにパウロに協力していたことを見ていたでしょう。実際パウロは、テモテをわが子のように愛しました。ただパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに誤解を与えたくなかったので、「テモテは息子が父に仕えるように、わたしに仕えてくれた」と言わないで、「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と言い換えています。パウロも弟子のテモテも共に主イエス・キリストに仕える下僕であるからです。
パウロがテモテを見出した時、既にテモテはキリストの福音を聞くことによって立派な主イエスの弟子でありました。だから、使徒パウロがフィリピ教会のキリスト者たちに言いたかったことは、こうです。「わたしがテモテを生んだのではなく、キリストの福音が彼をキリスト者として産み、彼はわたしと共にそのキリストの福音に父のように仕えている」と。
パウロの22節の御言葉からわたしたちは次のことを教えられるのです。教会において人間的親子関係とか、師弟関係は意味がありません。わたしたちはキリストの福音を聞くことによって、神の子として、キリスト者として生まれ変わったのです。だから教会では人が人に仕えることはありません。わたしたち兄弟姉妹は共にパウロやテモテのようにキリストの福音に仕えるのです。
キリストの福音とは福音の宣教者たちが語りますキリストの言葉です。パウロはローマの信徒への手紙十章で福音を宣教する者の足は何と美しいかと述べて、17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と述べています。わたしたちは教会の礼拝において福音として提供されたキリストを救い主と信じて、キリストに従うのです。
だからパウロは、フィリピ教会のキリスト者たちに20節でこのように述べているのです。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」。パウロとテモテは常に同じ思いで、何よりもキリストの福音に仕え、キリストの御心を優先し、キリストが十字架を通して愛されたフィリピ教会のキリスト者たちに対して親身となりました。同じ思いを抱いてとは、パウロとテモテがフィリピ教会のキリスト者たちに対して同じ配慮をしていたということでしょう。パウロがフィリピ教会のキリスト者たちの様子を知り、力づけられたいと思うように、テモテもパウロと同じ思いを持っていたということでしょう。
だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」と断言できたのです。実際にパウロの身の周りにテモテのようにパウロと同じ思いとなり、自分の利益を求めないで、何よりもキリストを優先する者はテモテ以外にいませんでした。パウロはこの手紙の一章17節で「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている」者がいたと述べています。パウロの身の周りにはキリストの福音を宣教する者たちがいたのです。しかし、彼らは個人的な面でパウロに反感を持ち、自分たちの益のために福音宣教をしていたのです。だからパウロの身の周りにはテモテしか信頼のおける者はいなかったのです。
そこでパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに23節で次のように述べているのです。「そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています」。パウロの言います「わたしは自分のことの見通しがつきしだい」とは、牢獄に囚われているパウロが裁判で有罪か無罪かの判決の見通しがつくことでしょう。パウロの裁判の結果が見通せれば、パウロはテモテをフィリピ教会に派遣しようと思っていたのです。
それだけではありません。パウロは24節で次のようにフィリピ教会へ彼が訪問することが主イエスの御心であると述べています。「わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています」。パウロは、主イエスによって自分がこの牢から解放されて、フィリピ教会のキリスト者たちを間もなく訪問できると述べています。
二章17節ではパウロは殉教を覚悟しています。しかし、ここではパウロは新しい計画を立てて
テモテをフィリピ教会に派遣するだけでなく、牢獄にいる自分が解放されて、フィリピ教会を訪れることが主イエスの御心であると、パウロは信じているのです。
パウロは二章19節で「主イエスによって希望しています」と述べ、24節で「主によって確信しています」と述べています。パウロが計画していることは、主イエスによってです。主イエスの御心を求めて計画しているのです。それは、パウロがこの計画のために、牢獄で祈り続けた結果であるということです。パウロはローマの信徒への手紙で次のように述べています。十四章8節です。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。常にパウロは主イエスとの交わりの中に生きているのです。彼は生と死をキリストに委ねています。だから彼は信じているのです。主イエスが彼を必要とされれば、必ず主はこの牢獄から彼を解放し、フィリピ教会のキリスト者たちのところへと遣わされると。
パウロは知っています。たとえ今牢獄で死んでも、キリストと永遠の命に生きる喜びがあることを。しかし、彼はなおこの地上に生かされて、フィリピ教会のキリスト者たちを励ましたいのです。だから、この新しい計画を主にあって立てたのです。本日はここまでです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第二章19-24節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
どうかわたしたちもパウロのように主イエスにあって希望を持ち、この教会に仕えることができるようにしてください。
どうか人にではなく、わたしたちがこの教会の礼拝で説教を通して聴き続けたキリストに仕えることができるようにして下さい。
既に天に召されたわたしたちの指導者や信仰の先輩たちの最後を見て、わたしたちの国籍が天にあることを確信させてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
フィリピの信徒への手紙説教09 主の2025年4月6日
ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。
フィリピの信徒への手紙第二章25-30節
説教題:「パウロの配慮」
本日はフィリピの信徒への手紙第二章25-30節の御言葉を学びましょう。使徒パウロは二章19-30節でこれからの計画について具体的に述べています。前回は第一の計画について学びました。それはパウロが彼の弟子テモテをフィリピ教会に派遣することです。本日は第二の計画について学びましょう。それはパウロがエパフロデットをフィリピ教会に帰すことです。その時にこのフィリピの信徒への手紙はエパフロディトに託されて、フィリピ教会に届けられたことでしょう。
25節前半でパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。」と述べています。「エパフロディト」という名は今日の言葉で「イケメン、魅力的な」という意味です。彼はフィリピ教会のキリスト者でした。
使徒パウロが捕らえられて、牢獄で生活していることを伝え聞きましたフィリピ教会は、エパフロディトを教会の使者としてパウロのところに遣わしました。その目的は三つありました。第一に彼が牢獄のパウロを訪れ、フィリピ教会の挨拶と諸事情を伝えることです。第二にフィリピ教会は牢獄のパウロの生活を支えるためにエパフロディトに贈物を持たせました。そして第三にエパフロディトはフィリピ教会のキリスト者たちの代表として牢獄のパウロに仕えたのです。
ところがエパフロディトにアクシデントが起こりました。そのためにパウロはエパフロディトをフィリピ教会に帰すことにしたのです。その時にパウロは深い配慮をもってエパフロディトをフィリピ教会に帰すことにしています。それがパウロの25節後半から28節の御言葉です。「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。」
パウロはエパフロディトをフィリピ教会に帰すにあたって、彼の有能さを何よりも最初に述べています。フィリピ教会がパウロのために使者として遣わしたエパフロディトが、パウロにとって「わたしの兄弟、協力者、戦友であり」、「わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」ととても配慮して述べています。パウロはエパフロディトに最高の賛辞を述べています。パウロはエパフロディトを信仰の友として、福音宣教の協力者として、信仰の戦いの同志として、そしてパウロの困窮を助けてくれた奉仕者として信頼していたのです。もし彼が重い病気にならなければ、パウロは彼をいつまでも自分の身近に置いておきたかったでしょう。
しかし、エパフロディトが重病であることがフィリピ教会のキリスト者たちに知れ渡りました。エパフロディト自身も大病を患い気が弱くなりました。フィリピ教会の兄弟姉妹たちに会いたいという思いになりました。きっとエパフロディトは心に葛藤を覚えていました。自分が病気になり、フィリピ教会からパウロのところに遣わされた使命を果たせないという負い目と、また同時に牢獄のパウロを見捨てて、自分がフィリピ教会に帰るということのうしろめたさです。
パウロはエパフロディトの内心の葛藤を気遣うと共に、あたかもエパフロディトが牢獄のパウロを見捨ててフィリピ教会に帰って来たという不名誉な扱いを受けないために、とても配慮して26節から28節で次のように述べています。「しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」。
牢獄のパウロとフィリピ教会の間に交流はしばしばありました。だから牢獄のパウロからフィリピ教会にエパフロディトの重病と回復は伝えられていたでしょう。回復したエパフロディトは旅ができる状態になり、自分をパウロのところに遣わしたフィリピ教会の兄弟姉妹のところに帰りたいと願ったのです。パウロはエパフロディトを必要としていましたが、これ以上引き止められないと判断したのです。エパフロディトは自分の重病を覚えて熱心に祈ってくれたフィリピ教会の兄弟姉妹に再会したと願いました。彼はお礼の気持ちと使者としての十分な使命を果たせなかったことを詫びたいと思っていたのでしょう。
パウロはエパフロディトを帰すに際して彼の名誉を傷つけないように配慮しています。パウロはエパフロディトの内心を思いやり、神の憐れみに感謝しました。神はエパフロディトを憐れみ癒してくださいました。さらにパウロを憐れんでくださり、パウロが悲しみにさらに悲しみと痛みを加えないようにしてくださいました。パウロの牢獄の生活を助けるために、フィリピ教会が使者として遣わしたエパフロディトが重病で死ぬということがあれば、パウロはどんなに心を痛め、嘆くことになったでしょうか。ところが神はパウロに憐れみを与えてくださったのです。エパフロディトは重病から回復し、フィリピ教会に帰ることができるのです。パウロの心労が取り去られたのです。
そこでパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに28節で「そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう」と述べています。パウロはエパフロディトをこの手紙を持たせて、すぐにフィリピ教会に帰そうと計画しました。パウロにはこの計画の素晴らしさがありありと想像できました。エパフロディトがフィリピ教会に帰りますと、フィリピ教会の兄弟姉妹たちがエパフロディトを喜び迎えてくれるでしょう。彼らはまるで死んでいたエパフロディトを死から生き返った者のようにその再会を喜んだでしょう。そのようにパウロは想像しますときに、今のパウロの牢獄生活の悲しみが和らぐのを覚えたのです。またパウロはエパフロディトを失うことで、フィリピ教会の悲しみを思ったかもしれません。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちが悲しまずに済んでよかったと安堵したことでしょう。
そしてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに29-30節で次のように勧めをしているのです。「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。」これはパウロがフィリピ教会のキリスト者たちにエパフロディトを推薦しているのです。第一にパウロはエパフロディトを「主に結ばれている者として大いに歓迎してください」と推薦しています。続いてパウロは第二に「彼のような人々を敬いなさい」と勧めています。カルヴァンはフィリピ人への手紙の注解書においてこう述べています。「パウロはエパフロディトを再びフィリピ人に推薦している。パウロはこのことに非常に熱心であったので、善良な忠実な牧者であることを示す人はすべて、大いに尊敬されなければならない。というのは、パウロは唯一人のことを言っているのではなくて、このような者がすべて尊重され敬われることを求めている。これは、神の宝庫から取り出された貴重な真珠であり、それが少なければ少ないほど、それだけ尊重される価値があるからである。神は神が与えた最もすぐれた人物を多くの場合人が無視するのを見る時、われわれから善き牧者を奪って、われわれの忘恩的行為や高慢な侮蔑的言行を神がしばしば罰することは疑うことができない。」
パウロの勧めは、フィリピ教会のキリスト者にとって新しいものでも珍しいものでもありません。当たり前のことです。エパフロディトはフィリピ教会の伝道者、牧者であったかもしれません。フィリピ教会のキリスト者たちはエパフロディトをよく知っていました。しかし、パウロは彼らが親しい関係を離れて、主イエスが恵みによって彼をフィリピ教会に一人の牧者として召されたことをよくよく知るように促しているのです。
そしてパウロ自身が30節でフィリピ教会の中でのエパフロディトの価値を次のように述べているのです。「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。」エパフロディトが牢獄のパウロに奉仕者として仕えたことは、パウロに言わせると、キリストの御業のために命がけの奉仕だったということです。実際にエパフロディトの奉仕はフィリピ教会を代表するものでした。フィリピ教会のキリスト者たちに代わって、彼がパウロに仕えたのです。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにこう言っているのです。「あなたがたが牢獄のわたしを助けるために奉仕したかったことを、エパフロディトが補ってくれたのだ。そのようにエパフロディトがわたしに仕えることを通して、命がけでキリストに奉仕してくれたのだ。だから、帰って来たエパフロディトを喜んで歓迎してください。また彼のような奉仕者を敬ってください。」
パウロの配慮ある御言葉は、初代教会の中で、そしてキリスト教会の歴史の中で、そして今のわたしたちの教会の中で生き続けていると、わたしは思うのです。
戦後と現代のキリスト教会は迫害のない平和の時代を生きています。パウロのように捕らえられて、牢獄に入れられる牧師も信徒もいません。それでも今の時代には、今の時代の困難さがあります。特に今わたしが感じているのは教会が主イエスとの一体感を希薄にしていることです。パウロとエパフロディトとの関係があるでしょうか。パウロはエパフロディトを主イエスの兄弟であり、協力者、戦友、窮乏の時の奉仕者であったと言っています。そのように教会の牧師と信徒が主イエスの兄弟であり、協力者であり、戦友であり、窮乏の時の奉仕者であると、言えるでしょうか。
牧師だけがキリストに仕え、キリストの御業に参与しているのでありません。パウロに言わせると、教会の信徒たちもエパフロディトがパウロの仕えるように、牧師を助けることで、キリストの御業に参与しているのです。
今この教会は無牧です。代理牧師が立てられ、長老たちや数少ない信徒たちが代理牧師を助けることで、エパフロディトのようにキリストの御業に参与されているのです。確かに今牧師はパウロのように迫害に遭うことがありません。長老も信徒も命がけで牧師を助けるということはありません。しかしわたしたちが主日礼拝の奉仕を通してキリストの御業に仕えられていることは確かです。その奉仕によってどんなにこの教会が小さくてもキリストの教会であり続け、礼拝がなされ、キリストの救いの御業が行われているのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第二章25-30節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちはエパフロディトの働きを通して、この教会における今のわたしたちの奉仕の働きの大切さを教えられ感謝します。
無牧の教会でありますが、代理牧師を助け、教会の礼拝奉仕や教会のための働きを通して、主イエスの御業に仕えさせてください。
教会に牧師が与えられている恵みを覚えると共に、わたしたちが今代理牧師を助け、礼拝奉仕に励める幸いを覚えて、主イエスに心から感謝させてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
フィリピの信徒への手紙説教10 主の2025年4月13日
では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
フィリピの信徒への手紙第三章1-11節
説教題:「パウロの誇り」
本日より受難週が始まります。キリストの最後の一週間を、本日から金曜日までたどり、土曜日はお好きな御言葉を読み、祈り、イースターに備えようではありませんか。
さて本日はフィリピの信徒への手紙三章1-11節の御言葉をお読みしました。その中で1節から6節の御言葉を学びましょう。
本日よりフィリピの信徒への手紙第三章に入ります。使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに三章1節前半で「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。」と述べています。「では」という言葉は「最後に」という言葉です。普通手紙の終わりに使う言葉です。コリントの信徒への手紙二の十三章11節で使徒パウロは「終わりに、兄弟たち、喜びなさい」と述べています。この「終わりに」という言葉がここでの「では」です。このようにパウロはここで手紙を終えるつもりで、「最後に」と述べているのでしょうか。そうであれば、続く「主において喜びなさい」という言葉は手紙の終わりの挨拶の言葉となります。「主において喜びなさい」はこの手紙の四章4節でも「主において常に喜びなさい。」と、パウロが繰り返し述べています。この「喜びなさい」は「さよなら」という意味でも使われることがあるのだそうです。
何をわたしが言いたいのかと申しますと、パウロはここでこの手紙を閉じようとしたのではないかということです。フィリピの信徒への手紙をお読みになり、第三章に入ると、パウロの語調が大変厳しくなっています。それからパウロは三章1節後半で「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と述べています。この「同じことをもう一度書きますが」というパウロの言葉は、フィリピの信徒への手紙のどこを指しているのでしょうか。パウロはこの手紙の一章で牢獄のパウロを苦しめるために不純な動機で福音の宣教をしている者たちのことを言及しています。しかしパウロは彼らを通してキリストが告げ知らされていることを喜んでいます。ところが三章ではパウロはフィリピ教会のキリスト者たちにキリストの福音に対する敵として警戒するように伝えているのです。
そう考えると、わたしは三章1節後半からはパウロの別の手紙だったのではないかと思うのです。パウロが述べています「同じことをもう一度書きますが」という言葉は、三章2節以下の手紙の文章ことだと、わたしは思うのです。パウロがフィリピ教会に何通の手紙を書き送ったかは分かりません。わたしはこの手紙以外にも書き送ったと思います。そしてそれらの手紙が礼拝において読まれたでしょう。読まれるだけではなく、それらの手紙が礼拝で読めるものとして、編集したと思います。それが、今わたしたちが読んでいるフィリピの信徒への手紙です。
パウロがどの手紙でフィリピ教会のキリスト者たちに偽教師たちを警戒するようにと書き送ったかは分かりません。しかしパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに今一度同じことを書いて、彼らに警告を与えることが必要であると思ったのです。だからパウロは「これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と述べているのです。
わたしたちはパウロの御言葉に心を留めましょう。いつの世にもキリスト教会には内と外に敵がいるのです。外の敵に対してはフィリピ教会の兄弟姉妹たちが一致して戦うことができるでしょう。問題は内にいる敵です。偽教師、偽キリスト者たちです。彼らとの戦いは教会の分裂というリスクがあります。パウロは何としてもそのリスクを防ぎたかったでしょう。それ以上にパウロはフィリピ教会のキリスト者たちの信仰を守りたかったでしょう。
なぜならこの敵たちはキリストの福音に反することを伝えているからです。この敵たちは福音の真理、キリストではなく、人間の誇りを伝えているのです。キリスト教会は福音の真理、キリストによって建てられています。そのキリストへの信仰によって成長します。だから、その福音の真理、キリストへの信仰を堅く守らなければなりません。教会が守るべき真理を破壊する者がパウロの敵たちです。彼らは肉の思いで、人間的なことを誇っていました。神の教会を人間の教会にしようとしたのです。
パウロは偽教師たちを三章2節で「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と述べています。パウロにとって偽教師たちは「犬」であり、「よこしまな働き手」であり、「切り傷にすぎない割礼を持つ者」でした。「注意しなさい」、「気をつけない」、「警戒しなさい」は同じギリシア語の動詞です。同じ動詞を再度繰り返して偽教師たちを警戒するように、パウロは単刀直入に述べているのです。何か三種類の敵がいるように思えますが、偽教師たちはユダヤ主義者たちです。
彼らは犬のようにパウロに吠え、パウロが異邦人たちに伝えている信仰義認の教えに咬みつきました。そして彼らはパウロの語る福音とは異なる福音を語ったのです。キリストではなく、人間に救いの根拠を置きました。だからパウロは彼らを「よこしまな働き手」と呼びました。彼らはモーセ律法の遵守の必要性を説きました。彼らは異邦人キリスト者たちにキリストを信じる信仰だけでは救われないと主張しました。モーセの律法を守り、ユダヤ人の習慣を守らなければならないと説いていたのです。そして彼らは割礼を強調しました。パウロは彼らを「切り傷にすぎない割礼を持つ者」と呼んでいますね。それはユダヤ人たちの割礼を意味しています。モーセが神との契約のしるしとして割礼を命じました。偽教師たちはユダヤ人で、自分たちにその割礼の傷があることを誇りました。割礼は男子の性器に切り傷をつけることです。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに3節で「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」と述べています。偽教師たちは体に割礼の切り傷があることを誇りました。それに対してパウロは「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」と述べています。
パウロは何を言っているのでしょうか。偽教師たちではなく、わたしたちキリスト者こそ割礼の者だと言っているのです。割礼は神とアブラハムとの契約のしるしとして、イスラエルの男子は生まれて八日目に割礼を受けることが命じられました。だから割礼はイスラエルのしるしと誇りとなりました。しかし、主なる神さまは預言者エレミヤを通して新しい契約を結び、それを真実に守る心の割礼を命じられました。それがパウロの言う「真の割礼」です。パウロは「キリストの割礼」とも言っています。キリストはわたしたちの罪を贖われるために肉体の一部を傷つけるのではなく、肉体の全部、命のすべてを切り捨て、十字架の上で死なれました。わたしたちはこの出来事を全面的に信じて、キリストを主として受け入れ、洗礼を受けたのです。その意味でパウロが言うように「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」。だからパウロの考えですと、もうキリスト者に割礼は必要ありません。
むしろパウロは「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」と述べているのです。このパウロの御言葉は重要です。教会は「神の霊によって礼拝」するところです。「キリスト・イエスを誇り」、「肉に頼らない」ところです。「神の霊によって礼拝する」とは聖霊と聖書の御言葉による礼拝です。教会の週報の礼拝順序をご覧になれば、教会の礼拝は聖霊と聖書と説教の御言葉によって神を礼拝します。そこでは賛美を持って「キリスト・イエスを誇り」、崇めるのです。だから、教会では人間に頼ることはありません。すべては神に頼るところです。
ところでパウロは、4-6節で人間的なことで頼みとしようと思えば、パウロも頼みとできると述べています。「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
誇ることと頼ることはパウロにとって同じ意味です。パウロにとってキリストを誇ることとキリストに信頼することは同じです。パウロは偽教師と同じユダヤ人でした。だから人間的な誇りで、人間的なことを誇ろうとすれば誇ることができ、人間的なことで頼ろうと思えば、人間的なことで頼みにできるものがありました。しかしパウロはキリストだけを誇り、人間的なすべてのことを捨てました。パウロは偽教師たちとこの世的なことで競争しようと思っているのではありません。
むしろパウロはどのような人間的なものであってもわたしたちの救いの根拠とならないことを説明するために、自分のことを述べているのです。パウロは偽教師のように自分を誇りたいわけではありません。それでもパウロは、自分の生まれ持っている誇りと彼が本当に努力して得た人間的な誇りを述べています。
5-6節です。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」パウロは六つの誇りを述べています。最初の三つは生まれながら彼に与えられた誇りです。残りの三つは彼が努力して得た誇りです。第一はパウロが生まれて八日目に割礼を受けたことです。パウロも体に傷を持つ者です。神の民イスラエルのしるしを持つ者です。第二にパウロはベニヤミン族の出身でした。神の民イスラエルは先祖族長ヤコブの12人の子たちから12部族が生まれ、ベニヤミンはその一つの部族でした。しかもベニヤミン族からイスラエルの最初の王サウルが生まれました。第三に「ヘブライ人の中のヘブライ人」です。これはユダヤ人にはヘブライ語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人がいました。ユダヤ人はヘブライ語、アラム語を話します。しかし離散のユダヤ人が多くなり、ギリシア語しか話せない者が現れました。エルサレム教会でヘブライ語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人の間で食事の支給に不公平があったという問題が起こり、七人の執事たちが選ばれ、食事の支給の奉仕をしました。
更に第四に律法に関してはとても厳格なファリサイ派の一員でした。ファリサイ派の人々は厳格に律法を遵守しました。第五にその熱心さのゆえにパウロは教会の迫害者となったのです。律法体制を脅かす新しい教えであるキリスト教を許すことができず、彼はエルサレム教会を迫害し、外国のダマスコにある教会をも迫害しようとしたのです。第六にパウロは律法の義については非のうちどころのない者でした。モーセ律法への忠実さという点では、彼は誰からも非難されるところがありませんでした。そういう意味で若きパウロはモーセ律法を誇り、その律法を彼の救いの根拠として頼りにしていたのです。
以上のことはパウロがキリストに出会う前に、キリスト者、使徒となる前に、彼が誇り、頼みとしていたものです。わたしたちだって、キリスト者になる前、自分の肉を誇り、頼みとしていたのです。家柄、学歴、地位、名誉を誇り、頼みとしていました。また学歴や地位や名誉を得るために、わたしたちは他人に負けないように努力したと思います。
パウロに比べるとまことに恥ずかしいことですが、わたしも肉を誇り、頼みとしました。自分の故郷や家を誇り、頼みとし、小学校から大学までの卒業証書を大切に保存していました。大学を卒業したときに、親戚に小学校の校長をしている者がおり、お願いしたこともあります。しかし、パウロがキリストを知りました時に、この世のものすべてが塵となりました。キリストがわたしたちにお与えくださる永遠の命の前にわたしたちのこの地上のものはすべては空しいものとなりました。本日はここまでです。
次回にどのようにパウロの誇りが人間的なことからキリストに変わって行ったのかを学びましょう。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第三章1-6節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
本日より受難週が始まります。キリストの御受難を覚えてこの一週間を過ごさせてください。
主イエスよ、わたしたちの教会は偽教師、異端の問題はありません。しかし、教会には常に困難があります。外からの迫害もなく、内における分裂の危機もありませんが、伝道が振るわないという困難があり、礼拝の出席が困難な状況があります。
どうか主イエスよ、毎週の礼拝をお守りくださり、新しき求道者をお与えください。教会の礼拝に兄弟姉妹が共にあずかる恵みをお与えください。
次週のイースター礼拝を祝してください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。