フィリピの信徒への手紙説教11            主の202554

では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。

わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

                    フィリピの信徒への手紙第三章111

 

 説教題:「パウロの転機」

 本日はフィリピの信徒への手紙三章111節の御言葉をお読みしました。その中から7節から11節の御言葉を学びましょう。

 

 使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに偽教師たちに警戒するようにという手紙を書き送りました。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と述べています。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに以前にも偽教師に警戒するようにという手紙を書き送っていたのでしょう。パウロは彼らに何度も繰り返し警告することで、彼らが偽教師に惑わされることがなく、福音の真理に立つことを願ったのです。

 

なぜなら割礼を身に付けた偽教師たちはパウロが語ります福音の真理よりも、人間の誇りを伝えていたからです。彼らは肉の思いで、すなわちこの世的なこと、人間的なことを誇っていたからです。そして彼らは神の教会を内から破壊しようとしたのです。

 

だからパウロは三章2節でフィリピ教会のキリスト者たちに「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と強い語調で述べているのです。偽教師たちは体に割礼の切り傷がありました。彼らはユダヤ人でした。彼らは生まれて八日目に割礼を受けました。彼らはその割礼を誇り、イスラエル人であることを誇りました。彼らは神の律法を守り、ユダヤ人の習慣を守っていることを誇りました。

 

そこでパウロも彼ら同様に肉の思いを誇ろうと思えば誇れると話しました。5節と6節です。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

 

これらについては前回お話ししました。パウロは六つのことを誇っています。最初の三つは生まれながら彼に与えられた誇りです。パウロは第一に生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民でありました。第二イスラエルの民の中でもベニヤミン族の出身でした。第三にヘブライ語を話すヘブライ人の中のヘブライ人でした。さらにパウロには彼が努力して得た三つの誇りがありました。第一に律法に関してはとても厳格なファリサイ派の一員でした。第二にその熱心さのゆえにパウロは教会の迫害者となりました。第三に彼はモーセ律法への忠実さという点では誰からも非難されるところがありませんでした。パウロはこのような人間的なことを誇り、神の律法を守ることに彼の救いの根拠を見出し、自らの力を頼りにしていたのです。

 

ところがパウロは7節で彼の回心の体験を次のように述べています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」キリストとの出会いでパウロは180度方向転換したのです。パウロはダマスコへの途上で復活の主イエスに出会いました。その出会いがパウロの人生を変えました。パウロは生まれて八日目に割礼を受けたイスラエルの民であるという誇りも、律法を守り自分の義に生き、栄誉を得ようとする人間的な誇りも、キリストのゆえに一切捨てたのです。これまで誇りであったものがパウロにとってキリストのゆえにすべて何の意味もないものになりました。それどころか、パウロにとって損失、マイナスになりました。それがパウロの回心の体験でした。

 

さらにパウロは8節でパウロの今の心境を次のように述べています。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。「そればかりか」は、7節の「しかし」と同じ言葉です。同じ言葉を「そればかりか」と訳したのはパウロの強い否定を言い表すためでしょう。今パウロはキリストを体験する素晴らしさのゆえに、「今では他の一切を損失とみています」と述べているのです。パウロはダマスコへの途上で復活の主イエスに出会ってから、この手紙を書いている今までキリストの素晴らしさを体験し続けて、この世に存在する価値ありと見なされるすべてのものを今では損と思っているのです。それはパウロがこの世に存在している価値あるものを手に入れられないからではありません。パウロが死人の中から復活された主イエスの素晴らしさを体験したからです。この世に存在する価値あるものはいつか失われてしまいます。ヨブ記のヨブが自然災害や禍で自分の子供たちや財産をすべて失った時に、彼は言いました、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」。わたしたちはこの世に存在する価値あるものを何ひとつ持ってこの世を去ることはできません。キリストに出会わなければ、キリストがわたしの罪のために死なれ、わたしの永遠の命を保証するために復活されたという、この素晴らしいわたしたちの信仰体験はありません。それどころか、わたしたちは自らの罪によってわたしたちの命さえ失ってしまうのです。

 

パウロは7節と8節で「見なす」という動詞を三度使っています。これは「思う」という動詞です。7節の「見なす」はパウロがダマスコへの途上で復活の主イエスに出会って以来、彼がキリストの素晴らしさを体験し続け、今に至るまで彼がこの世に存在する価値あると思ったものをすべて損であったと思っているのです。そして8節の二つの「見なす」という動詞は今パウロがキリストのゆえに損にしてしまっている事実を、今のパウロの状況下で述べているのです。パウロはキリストを体験した素晴らしさのゆえに、この世にある価値あるものすべてを損と思っています。パウロは損と思うだけでなく、今その思いで生きているのです。パウロは「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と述べていますね。パウロはキリストのために何もかもすべて失いましたが、言い方は悪いですが「そんなものは糞くらえだ」とパウロは思っていたと思います。

 

パウロにとって大切なことはキリストを得ることです。8節の終わりにパウロは「キリストを得」と述べていますね。これはキリストを宝物のように大切にしまっておくことではありません。むしろパウロの唯一の益であるキリストに向かって絶えずパウロが体を伸ばして、キリストを追い求めていく姿勢のことです。パウロはダマスコへの途上で復活の主イエスとの出会いという素晴らしい信仰体験をしたのです。その日以来彼はこの世のものには目もくれないで、ただキリストを、信仰を通して追い求めているのです。

 

パウロは9節で「キリストを得」ることを次のように述べています。「キリストの内にいる者と認められるためです。」パウロは自分がキリストの内にある者とされることを望んでいたのです。そのための道は神の御前に義とされる方法しかありません。パウロはキリストに出会う前には、ファリサイ派として神の律法を守って自分の義を神の御前に立てようとしたのです。しかし、その方法は不可能であることが明らかになりました。なぜなら罪人であるわたしたちの心には欲する善をなさず、悪をなすという罪があるからです。パウロはキリストを知り、キリストへの信仰による義を知りました。キリストはパウロやわたしたちに代わって神の律法を守られました。そして律法を守れないパウロとわたしたちの罪の身代わりとして十字架に死なれました。神はキリストを信じる信仰によってパウロとわたしたちを御自身の御前で義とする道を開かれたのです。しかもキリストへの信仰はパウロやわたしたちの功績ではなく、神がパウロとわたしたちに与えてくださる賜物です。

 

神から与えられる義」を、パウロは1011節でこう述べています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」パウロは義認を、すなわち、わたしたちキリスト者がキリストの内にいる者と認められることを、キリストとその御業において見ているのではないでしょうか。義認はわたしたちをキリストの十字架の死と復活との交わりの中に置くことではないでしょうか。それによって使徒信条が告白するようにわたしたちは「罪の赦しと体の甦りと永遠の命」にあずかるのではないでしょうか。

 

神の前に義とされることはただ一度のことです。ただ一度わたしたちはキリストを信じる信仰によって神の御前に義とされます。これをわたしたちはキリストの救いと言っているのです。しかしパウロは「キリストを得」ると言っています。義とされたキリスト者はキリストとの交わりの中に生き、キリストを追い求めるからです。

 

キリストの救いを経験したキリスト者は、パウロに言わせると「わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。パウロに言わせると、キリスト者は受難と死をくぐって復活されたキリストの生にあずかるのです。洗礼を受けたとき、受難と復活のキリストと一つにあわされるのです。このようにキリストの教会はこの世にあってキリストの御苦しみに参与するのです。そしてその苦しみの中でわたしたちはキリストの内にいる者と認められるのです。

 

しかし、この世における教会とキリスト者の苦難は御国への途上に過ぎません。キリストが受難と死から復活を通して御国へと昇られたように、パウロはキリスト者の救いの完成は復活を通して御国に至ることだと考えているのです。そしてパウロはキリストが墓の中から復活されたその神の御力によって、今わたしたちの教会とわたしたちは御国へと支えられているのだと言おうとしているのです。今日はここまでにします。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第三章711節の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちの主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさをお教えくださり感謝します。

 

主イエスよ、わたしたちの教会は小さな群れです。小さいが故に常に困難があります。伝道が振るわないという困難があり、高齢化があり、礼拝の出席が困難な兄弟姉妹がいます。

 

主イエスよ、その困難な中でも毎週の礼拝が守られ、兄弟姉妹が共にあずかる礼拝説教の恵みにあずかれることを感謝します。

 

わたしたちも受難と復活の主イエス・キリストを知り、その御力にあずかり、御国へと歩ませてください。

 

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。