エフェソの信徒への手紙説教26 2024年4月7日
奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
エフェソの信徒への手紙第6章5-9節
説教題:「家庭の倫理 奴隷と主人」
今朝は、エフェソの信徒への手紙第6章5-9節の御言葉を学びましょう。
パウロの家庭訓は、妻と夫、子と親、そして奴隷と主人へと移っています。パウロの時代、ローマ帝国は奴隷制の社会でした。家庭には、奴隷がいました。使徒パウロからエフェソの信徒への手紙を受け取ったキリスト者たちの中にも奴隷がいました。
使徒パウロは、キリスト者の奴隷たちに勧告しているのです。それが、6-8節の御言葉です。
「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。」
使徒パウロは、キリスト者の奴隷たちに「肉による主人に従いなさい。」と勧告しています。「肉による主人」とは、この地上の主人です。「従いなさい」は、パウロが子に「両親に従いなさい」と命じた「従いなさい」と同じです。パウロは、奴隷たちにこの世の主人に聞き従いなさいと命じているのです。使徒パウロは、子供たちに親を敬い、聞き従いなさいと勧告しました。同様に使徒パウロはキリスト者の奴隷たちにあなたがたの主人を尊敬して聴き従いなさいと勧告しているのです。
しかし、キリスト者の奴隷たちには、真実の主人がいるのです。それは、主イエス・キリストです。キリストが御自身の十字架によって彼らを罪から贖われました。彼らの真の主人となられました。
そういうわけですから使徒パウロは、「キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて」と述べているのです。パウロは、キリスト者の奴隷たちに「あなたがたの真の主人であるキリストに服従するように、あたかも自分はキリストのお役に立たせていただいているのだと思って、真心を込めて」と勧告しているのです。
使徒パウロは、キリスト者の奴隷たちに彼らが主人に仕えることにキリストへの忠誠を求めているのです。キリストに褒められる生き方を求めていると言っても良いと思います。
だから、使徒パウロは、続いてキリスト者の奴隷たちに6-7節で次のように勧告するのです。「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」
いつの時代でもご機嫌取りをする人間がいるのです。この世の主人の御機嫌取りをして、表面的に仕える人がいます。自分の心とは裏腹に主人に仕える人がいます。使徒パウロは、キリスト者の奴隷たちにそんな主人への仕え方はだめであると言っているのです。
使徒パウロは、キリスト者の奴隷たちに「心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」と勧めています。
「心から神の御心を行い」とは、キリストに仕えることです。キリスト者は、キリストのものとされたのですから、キリストの奴隷としてキリストに仕えることが神の御心です。だから、キリスト者の奴隷は、「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕え」るのです。
これがキリスト者の労働です。キリスト者の奴隷の労働の喜びは、キリストに仕えるようにこの世の主人に仕えることにあります。だから、キリスト者の奴隷は、キリストのようにこの世の主人に真心を込めて仕えるのです。
使徒パウロは、8節で、キリスト者の奴隷の報酬を述べています。「あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。」
使徒パウロはキリスト者の奴隷たちに断言するのです。あなたがたは知っていると。すなわち、キリスト者であるならば、神は偏り見ることなく、公平なお方であり、奴隷であっても、自由人であっても、神は、御自身の御心に適うことをする人に報いてくださると。
その報いとは、必ずしもこの世のものではありません。使徒パウロは、コロサイの信徒への手紙でキリスト者の奴隷たちに御国を相続させていただけると述べています。キリスト者の奴隷は、主イエスの報いを期待し、この世の主人に喜んで仕えるのです。
使徒パウロは、9節で奴隷の主人たちに勧告しています。この主人たちはキリスト者たちです。「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」
「同じように奴隷を扱いなさい。」とは、「同じ事どもを、彼らに行え」です。「行え」は、8節の「善いことを行えば」の「行え」と同じ言葉です。使徒パウロは、キリスト者の主人たちに、彼らの奴隷たちを善く扱いなさいと勧めているのです。昔の教父たちは、文字通りにパウロの勧告を理解し、奴隷が主人に対して行うのと同じことを、主人も奴隷に対して行うべきだと理解しました。
奴隷たちが主人を尊敬し、キリストに仕えるように主人に真心を持って仕えるように、主人もキリストに仕えるように、彼の奴隷たちを、愛をもって扱うべきだということでしょう。だから、使徒パウロは、キリスト者の主人に、あなたの奴隷を脅すことを禁じているのです。すなわち、主人が彼の奴隷たちに鞭打つことを、足枷をはめることを止めるべきだと勧告するのです。
使徒パウロは、奴隷たち同様に主人たちにも断言します。主人たちと奴隷たちの主は天におられ、人を分け隔てされないと。
キリスト者の主人は、パウロの勧告を通して彼と彼の奴隷が共にキリストの奴隷であることを知らされるのです。キリスト者の主人は、彼もキリストの奴隷であると、ヘリ下ることを教えられるのです。キリスト者の主人は、彼もキリストの奴隷として、彼の奴隷を扱わなければなりません。それは、奴隷と主人を越えるものです。
使徒パウロのフィレモンへの手紙には、フィレモンの奴隷オネシモが逃亡し、使徒パウロの所でキリスト者となり、フィレモンの所に返すに当たって、使徒パウロが執り成しをしています。キリスト者の奴隷オネシモを信仰の友として扱うようにと。
そのように扱うならば、奴隷制はキリスト教会では成り立ちません。奴隷以上の者、愛する兄弟として扱うのですから。
使徒パウロは、真正面から奴隷制反対と叫ぶのではなく、十字架のキリストの愛を通して、キリスト者の主人と奴隷は、共にキリストのものであり、愛する兄弟であると述べているのです。
フィレモンが彼の奴隷オネシモを、奴隷から愛する兄弟に、キリストによって変えられたように、キリストは人の環境を変える力があります。現代は本当に複雑な社会です。しかし、キリストは人を変え、環境を変えられる力があります。だから、わたしたちは、どんな時にも、どんな所にも、どんな方々にも、キリストを伝えようではありませんか。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝はエフェソの信徒への手紙6章5-9節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちは、奴隷制のない、自由な社会に生かされていることを感謝します。しかし、使徒パウロの時代は、奴隷制の社会でした。教会には、キリスト者が主人がおり、その主人の奴隷がいました。
使徒パウロは、創造の秩序として、主人と奴隷を認めつつも、彼らが共にキリストの十字架によって贖われたキリストの奴隷であることを知らしめ、更にキリストにあって愛する兄弟であることを認め合うように勧めています。
今日、奴隷制はありませんが、暴力により虐げる者と虐げられる者がいます。富める者と貧しい者がいます。男社会の中で女性が蔑視されています。健常者によって障碍者が蔑視されています。社会で高められる者と低くくされる者がいます。
この格差を変えるのはキリスト以外にありません。キリストの十字架以外にありません。すべての人がキリストの奴隷であり、神の子であるという事実以外に、この世の人々の格差を解決する道はありません。
どうか、わたしたちにキリストを語る力を、勇気を与えてください。キリストの福音を通して、この世を変えさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教27 2024年4月14日
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
エフェソの信徒への手紙第6章10-20節
説教題:「霊的な信仰の戦い」
今朝は、エフェソの信徒への手紙第6章10-13節の御言葉を学びましょう。
使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙6章10節の冒頭で「最後に言う」と述べています。エフェソの信徒への手紙も終わりが近づいてきました。この手紙の読者たちは、使徒パウロが彼らに何を最後に言ってくれるのかと、期待したでしょう。
それは、困難な中に置かれているキリスト者たちへのパウロの励ましの言葉でした。パウロの最後の言葉は、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」です。「主に依り頼み」は、「主にあって」ということです。「その偉大な力によって」とは、使徒パウロがこの手紙の1章19-21節で述べていることです。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」
父なる神は、キリストに御自身の偉大な御力を働かされて、キリストを死者の中から復活させられました。そして、父なる神はキリストを御国に引き上げられて、御自身の右に着座させられました。こうしてキリストは、今や天にあるすべてのものを支配されているのです。
使徒パウロは、わたしたちキリスト者たちに「その主イエス・キリストにあなたがたは支えられて、キリストを通して示された神の偉大な御力に守られて、強くされなさい」と励ましているのです。
わたしたちキリスト者の強さは、わたしたちの内にはありません。わたしたちは、外からキリストに守られ、強められない限り、この世においてキリスト者として立つことはできないのです。
それにしても、どうして使徒パウロは、この手紙の最後で、わたしたちキリスト者にキリストによって、キリストの復活によって示された神の偉大な御力によってわたしたちが強くされなさいと励ましているのでしょうか。
それは、使徒パウロが続けて述べていることから分かります。使徒パウロは、わたしたちキリスト者に11節で「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と勧めています。
この世に生きるキリスト者は、素手であるなら、容易に悪魔の策略に負けてしまうのです。まさにアダムとエバが蛇に誘惑されて以来、罪に堕落した人間は悪魔の策略に負け続けているのです。
主イエスが荒野で40日間断食された時、悪魔は主イエスを誘惑し、この石をパンに変えよと言いました。主イエスは、悪魔に「人はパンのみによって生きるのではなく、神の御言葉によって生きるのだ」と言われて、悪魔の策略を神の御言葉という武具を身に着けられて、退けられました。
使徒パウロは、わたしたちに同じことを勧めているのです。悪魔は、わたしたちキリスト者たちをキリストから引き離すために、また、わたしたちの信仰を弱めるためにあらゆる策略を巡らせているのです。
わたしたちの日常生活でも、「魔がさす」とか、「一寸先は闇である」という言葉があります。今、アメリカ大リーグの大谷翔平選手の通訳の方がギャンブル依存症で、多額の借金をして、大谷選手の銀行口座から二十何億円をも盗んだというニュースがネットで話題になっています。ちょっとわたしたちには信じられないことですが、通訳の方は魔が差し、ギャンブルに依存し、その暗闇の穴から抜け出せなくなったのでしょう。わたしは、こうした事件の背後には使徒パウロがここで述べている悪魔の策略があるのではないかと思うのです。ギャンブル依存症という病気では片付けられない深い闇があると思うのです。それは、わたしたちの理性によってコントロールできませんし、悪い事であるとその人の心が思う以上に、その人を更に誘惑への誘い込むのです。
もっと些細な事でも、悪魔は策略によって、わたしたちをキリストから、この教会から引き離そうとするのです。
だから、わたしたちは、わたしたちをキリストから、この教会の礼拝から引き離そうとする悪魔の策略に対抗しなければなりません。
悪魔は、わたしたちから自分の正体を隠しています。そして、わたしたちを誘惑し、わたしたちを魔がさすという罪へと導くのです。そして、悪魔は告発者でもあります。神にヨブを告発したように、罪を犯したわたしたちを告発するのです。そして、わたしたちをキリストから、この教会から引き離すのです。悪魔は罪を犯したわたしたちに「お前はもうキリストにふさわしくない」と告発し、「この教会はお前のいる所ではない」と告発するのです。こうしてわたしたちは、悪魔に自分たちの信仰を揺すぶられ、キリストから遠ざかるのです。
使徒パウロは、信仰から脱落する者たちを多く見て来たのです。エフェソ教会のキリスト者たちが信仰から脱落することがないようにと、励ましているのです。
神の武具については、次回にお話ししたいと思います。今朝は、12節の「わたしたちの戦い」について学びましょう。
使徒パウロは、12-13節でこう述べています。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」
「戦い」は、レスリング競技の戦いです。悪魔の策略とのわたしたちの戦いは、一対一の戦いであり、レスリングのようにある意味で取っ組み合いの戦いです。悪魔はわたしたちの日常で、わたしたちの油断に付け入るように、わたしたちを魔がさすという罪へと導くのです。
その時、悪魔はわたしたちの家族や知人を利用するのです。この世の富を利用するのです。だから、使徒パウロは、エフェソの教会のキリスト者たちに「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と述べています。
わたしたちにとって人間は、キリストの福音を伝える対象です。わたしたちの家族、知人、仕事仲間、学校の仲間は、わたしたちの敵ではありません。わたしたちの敵は、目には見えません。しかし、わたしたちの敵は、家族や友人を利用して、わたしたちが魔をさすように罪へと導くのです。
わたしたちの真の敵は、目には見えません。闇の支配者であり、天にいる諸々の悪霊です。それゆえにこの世のものでは対抗できません。目に見えるものでは対抗できないのです。神の武具が必要なのです。
今は、わたしたちキリスト者にとっては、「邪悪な日」です。日々に誘惑があり、キリスト者として生きようとすると、いろいろな障害があります。「邪悪の日」とは、悪い時代です。今、ウクライナとロシアに戦争があり、イスラエルとガザとが戦争し、イランがイスラエルにシリアの大使館の爆撃に対する報復を準備しています。中近東に戦争が拡大しようとしています。
戦争だけではなく、自然災害があり、政治の腐敗があり、世界に貧困があり、人々の道徳的退廃も深刻です。本当にキリスト者として、今ほど主の祈りが必要な時代はありません。
使徒パウロは、今この世は悪い時代であるから、キリスト者たちは今の悪い時代に対抗するだけではなく、その悪に打ち勝つように、キリスト者に堅く立ちなさいと勧めています。そのためには、キリスト者たちがそれぞれ神の武具を身に着けて戦わなければならないと勧めているのです。
このことについては、次回に学びたいと思います。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝はエフェソの信徒への手紙6章10-13節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
使徒パウロは、エフェソの教会のキリスト者たちとわたしたちに最後の勧告をしています。
使徒パウロは、わたしたちキリスト者にキリストにあって強くされ、悪魔の策略に対抗するように、神の武具を身に着けるようにと励ましています。
キリスト者にとってこの世は、信仰の戦いの場です。悪魔は、アダムとエバを誘惑したように、わたしたちが魔をさすようにと罪へと誘っています。どうか、弱いわたしたちですが、キリストの御力に助けられて、悪魔の策略に対抗させてください。
今の悪い時代に対抗するだけではなく、この世の悪に打ち方させてください。
この世の悪からわたしたちをお守りください。
どうか、わたしたちが神の御言葉に堅く立ち、キリストの福音をこの世の人々に伝え、この世の悪に打ち勝たせてください。。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。