エフェソの信徒への手紙説教06           2023730

こういうわけで、わたしもあなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

                   エフェソの信徒への手紙第11523

 

説教題:「キリストの権威を知る」

使徒パウロは、1314節で神をほめたたえましたのち、1523節で感謝の祈りをしました。それは、使徒パウロがこの手紙の宛名のキリスト者たちのキリストと隣人に対する愛を聞いたからです。

 

そこで使徒パウロは、この手紙を受け取りますキリスト者たちを常に思い起こしては、神に感謝しました。

 

そして、使徒パウロは主イエス・キリストの父なる神に、彼らのために執り成しの祈りをしました。それがこの手紙の11718節の御言葉です。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

 

使徒パウロは、彼らに知恵を増す特別な賜物と聖霊による啓示を与え、彼らの目をお開きくださいと祈っています。

 

彼らがキリストにおいて、神が彼らのために何を行われ、今何を行っていてくださっているか、深く理解するためであります。

 

わたしたちは、このパウロの祈りを通して、キリスト者として三つのことを知る大切さを教えられます。第一に神の召しを根拠に、わたしたちが何を希望し、神からどんな賜物が与えられるのかを知ることです。第二にわたしたちはキリストと共に神の御国の相続者とされました。その富の豊かさを知ることです。そして、第三にわたしたちに対する神の御力の偉大さを知ることです。

 

第一と第二については、前回お話ししました。本日は、第三について、2023節の

使徒パウロの御言葉を学びましょう。

 

パウロは言います。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 

父なる神の御力は、わたしたち信仰者に働く偉大なものです。父なる神は御自身の御力を、主イエス・キリストの内に働かせておられます。それは、計り知れないほどの大きな御力です。

 

第一に「キリストを死者の中から復活させ」る御力です。第二に「天において御自分の右の座に着かせ」る御力です。

 

父である神はキリストを死人の中から復活させられたという事実が、信仰においてそのキリストと一つに結び合わされたわたしたちキリスト者も、父なる神が同じようにわたしたちを死人の中から復活させてくださることの保証であります。

 

次に父なる神は、御自身の右にキリストを座させて、すべてのものの支配者となさいました。

 

パウロは、述べています。父なる神は、キリストを「すべての支配、権威、勢力、主権」の上に置かれたと。これは、天上において権力を持つ4つの霊のことです。

 

使徒パウロの時代、人々は世界を三つに、天と地と陰府に分けました。天には、最上部と下層部がありました。天の最上部に父なる神とキリスト、そしてキリスト者たちが住みます。地に接する天の下層部に「すべての支配、権威、勢力、主権」という4つの霊が住みます。そして、地はわたしたち人間が住む世界です。

 

使徒パウロは、この4つの霊がこの世の政府、支配者、公共機関などの地上にある権力を制御し、動かしていると考えているのです。

 

父なる神は、キリストを死人の中から復活させ、天にある御自身の御座の右に座らされました。キリストを、この4つの霊を支配する者として置かれたのです。キリストは、この4つの霊を永遠に支配の下に置かれました。

 

そして、この第一と第二を前提にした第三の神の御力が、「すべてのものを、キリストの足もとに従わせ」ることでした。

 

このように使徒パウロが言っていることは、父なる神が今キリストを永遠にすべての者の支配者とされているということです。主イエス・キリストはわたしたちの救い主であり、宇宙万物の支配者、主であります。

 

過ぎ去った時代や今の世だけではなく、これから来る世も、すべてキリストの支配下に置かれているのです。

 

使徒パウロは、2223節で宇宙万物の主であるイエス・キリストと教会の関係を、次のように頭と体の関係にたとえています。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 

使徒パウロがここで述べていることは、驚くべきことです。キリストが万物を御自身の支配下に置かれていることは、すべてのもののためです。そして、キリストを教会の頭として与えることで、神は万物の支配をキリストの体である教会を通して行われているのです。

 

頭としてのキリストは、この世の諸々の霊力を凌駕し、統合支配するお方です。体である教会は、頭であるキリストに従い、信仰の御力を頭であるキリストからいただき、大きく成長して行くのです。この世の異なる者、敵対する者、多様な者たちが頭であるキリストを通して和解と一致へと導かれるところが、キリストの教会です。

 

使徒パウロは、頭とその体の教会を、夫妻の関係にたとえています。この世において苦難があり、夫婦の危機がありますが、主に結ばれた夫婦は愛し合い、助け合って、この世における苦難と喜びを分かち合います。その夫婦の交わりと一致が頭であるキリストと体である教会の関係なのです。

 

教会は多様性を生かしつつ、各人の賜物と財産を分かちつつ、キリストの体という全体にわたしたち個々人が一つに組み込まれていくのです。

 

使徒パウロが「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とキリストの体なる教会を述べています。それは、頭であるキリストにおいて万物は一つとなる、その場が教会であるということです。

 

このように使徒パウロは、万物の支配者キリストを、頭として与えられた教会がこの世において計り知れないほどに大きなものであると述べています。

 

56人しか礼拝に集まりませんが、宇宙万物の支配者であるキリストは、この教会を通して万物を一つにしようとされ、この教会の伝道を通して御国の建設を遂行されています。そして、頭であるキリストは、信仰、洗礼、聖餐の一致を求められますが、同時にわたしたちキリスト者のそれぞれの異なる賜物を用いて御国の建設を遂行されます世界は人種、国、言語、政治、哲学、文化、価値観は多様です。しかし、頭であるキリストは、体である教会を通して、すべての人種が一つとなり、国が一つとなり、文化が一つとなり、キリストにおいてすべてが一つになるようにされていくのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、エフェソの信徒への手紙の第11523節を学ぶ機会を得まして感謝します。今朝は、2023節のパウロの祈りの言葉を学びました。この教会を通して、キリストの権威に触れることができて、感謝します。

 

どうか、わたしたちが宇宙万物の支配者キリストを、この教会の頭としていることの恵みを、理解させてください。

 

わたしたちはこの世の多様性の中で生きています。人種、言語、文化、価値観が異なる中に生きています。しかし、キリストを頭とする体なる教会は、その中で神は一つ、キリストは一つ、信仰は一つ、洗礼は一つと、キリストを通して一致を目指しています。

 

同時に教会は、個々人の賜物を分け合い、夫婦のように人生の危機の中で互いに愛し合い、助け合って生きています。人種、言語、文化、価値観を互いに認め合い、共有して生きて行こうとしています。

 

どうか、聖書の御言葉を通して、キリストを通して、世界のことに、戦争について、平和について、環境の問題について考える機会を持たせてください。

 

どうかわたしたちがこの教会の礼拝に招かれた意味を考えさせてください。わたしたちがこの世でキリスト者として生きている意味を考えさせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

エフェソの信徒への手紙説教07           202386

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、他の人々と同じように、生れながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上もなく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、—あなたがたが救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

                   エフェソの信徒への手紙第2110

 

説教題:「神の怒りの子」

今朝よりエフェソの信徒への手紙第2章を学びましょう。2章よりこの手紙の本論に入ります。

 

使徒パウロは、本論のはじめに、議論のテーマである命題を語っています。2110節において使徒パウロは、「恵みによる救い」という命題を語っています。

 

その命題を語るために、使徒パウロは、「あなたがた」、すなわち、異邦人キリスト者たちが自分の過ちと罪のために霊的に死んでいたと断言しています。

 

1節です。「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」異邦人キリスト者たちは、キリスト者になる以前、自分の過ちと罪によって霊的に死んでいる人々でした。

 

この「過ち」は、「踏み外す」という意味の言葉に由来します。自分の過ちとは、自分の咎、小さな具体的な罪です。「罪」は「的外れ」という意味の言葉に由来します。咎を引き起こす本質で根本的な神と人との関係を示す言葉です。

 

あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」。キリスト教では神から離れて生きている人のことを霊的に死んでいると言うのです。キリスト教に入信する前の異邦人キリスト者たちは、罪、すなわち、的外れな生き方をしていました。神なき、キリストなき人生を生きていたのです。

 

使徒パウロは、それを、自分の過ちと罪のために死んでいたと言うのです。異邦人たちは、実際、いろいろな罪があり、腐敗した生活をしているのです。しかし、異邦人たちは自分たちの過ちと罪に気づいていません。

 

当然です。彼らは十字架のキリストに出会って初めて、自分たちの過ちと罪に気づいたのです。しかも、彼らがその罪と戦う力が自分たちにないことを知りました。

 

使徒パウロの21節の御言葉を聴いた異邦人キリスト者たちは、自分たちがキリスト者になる以前、自分たちの過ちと罪に対してどんなに自分が無力な者であったか、まさに自分は罪のために死んだ者であったことを思い返したでしょう。

 

同様に、今このエフェソの信徒への手紙のパウロの御言葉を聴くわたしたちも、同じ思いを持つのではありませんか。

 

使徒パウロは、22節で「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」と述べています。

 

使徒パウロは、異邦人キリスト者たちの昔と今を比較します。「この世を支配する者」の「この世」は、今のこの世界です。「支配する者」は、悪魔のことです。

 

主イエスは、ヨハネによる福音書の1231節で「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」と言われています。「この世を支配する者」はサタンです。

 

サタンは、「かの空中に勢力を持つ者」です。天上と地上の間の空中の領域にサタンがいて、人間界に影響を与えていると、パウロの時代の人々は考えていました。

 

121節の「すべての支配、権威、勢力、主権」の霊は、キリストの下に仕える存在です。「かの空中に勢力を持つ者」は、それとは異なる霊的存在です。神に逆らう者であり、この世の支配者です。異邦人たちは、この世の迷信や諸宗教において神々のように恐れられている霊の力の下で、それらの指図に従って生活してきたのです。

 

不従順な者たち」は、不信仰な者たちのことです。使徒パウロがアテネで伝道しました時に、アレオパゴスでアテネの人々に信仰と悔い改めを迫り、次のように言いました。「さて、神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。(使徒言行録17:30)。だから、自分の罪を悔い改めて、主イエスを信じない者は不従順な者なのです。そして、不信仰な者たちの心を支配するのが悪霊です。不信仰な者たちは、悪霊の力に支配され、神に不従順な道を歩んでいるのです。

 

神に不従順な者は、キリスト者になる前の異邦人たちだけではありません。使徒パウロは、23節で「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、他の人々と同じように、生れながら神の怒りを受けるべき者でした。」と述べています。

 

わたしたちも皆」とは、ユダヤ人キリスト者たちのことです。ユダヤ人キリスト者たちは、離散のユダヤ人たちと同じように、異邦人たちの世界に生きていました。

 

異邦人たちは、迷信とこの世の神々に迷わされていました。ユダヤ人たちは、唯一の神主を信仰していました。ところが、ユダヤ人たちは主なる神の御言葉に正しく生きていませんでした。主よりも彼らの欲望を優先して生きていたのです。神中心ではなく、自我中心に生きていたのです。神の慈悲を求めず、己の力で、己の欲望のままに生きていたのです。

 

だから、使徒パウロは、ユダヤ人たちも異邦人たちと同様に生れながら神の怒りを身に受ける神の怒りの子であると述べているのです。

 

異邦人とユダヤ人は、この世におけるすべての人間を表していると、わたしは思います。この世のすべての人間は、旧約聖書の創世記第3章に記されていますように、人類の最初の人であり、代表者であるアダムの罪によって、堕落し、神の怒りの子らとなっているのです。

 

だから、世界のすべての人間は、異邦人であれ、ユダヤ人であれ、主イエス・キリストにおける神の恵みの救いが必要です。神がすべての人に命じられた罪の悔い改めと信仰が必要です。

 

死から命に、わたしたちが変えられるためには、主イエス・キリストを信じる他に救いはありません。

 

しかし、この救いは、わたしたちの行ないによるのではなく、神の無償の愛によるのです。ただ主イエスを信じる信仰のみによるのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝よりエフェソの信徒への手紙の第2章を学ぶ機会を得まして感謝します。今朝は、13節の過ちと罪によりわたしたち異邦人は霊的に死んだものであることを学びました。

 

どうか、罪に対して無力でありますわたしたちが十字架のキリストを見上げることによって、神の愛を通してどんなに豊かな神の御救いに与かっているかを理解させてください。

 

神の御子キリストが人としてこの世に来てくださり、過ちと罪によって死んだ者になっているわたしたちを、永遠の命へと引き上げてくださった救いの恵みをただ信仰によって受け取らせて下さい。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 エフェソの信徒への手紙説教08           2023813

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、他の人々と同じように、生れながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上もなく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、—あなたがたが救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

                   エフェソの信徒への手紙第2110

 

説教題:「神の大きな愛と恵みによる救い」

今朝は、エフェソの信徒への手紙第247節の御言葉を学びましょう。

 

使徒パウロは、213節でキリスト教に入信する前の異邦人キリスト者たちとユダヤ人キリスト者たちが共に自分の罪と過ちによって神の怒りを受けるべき者たちであり、霊的に死んだ者たちであったと述べました。

 

使徒パウロは、「あなたがた」異邦人キリスト者たちと「わたしたち」ユダヤ人キリスト者たちを通して、世界のすべての人間がキリストに出会う前、彼らは自分たちの罪と過ちによって霊的に死んだ者であり、神の怒りを身に受けるべき者であったと述べているのです。

 

そして、24節の「しかし」という接続詞で、主イエス・キリストにあって、神の豊かな憐れみと恵みとによって、異邦人とユダヤ人たちの状況が反転したと述べているのです。

 

使徒パウロは、45節で、それをこう述べています。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上もなく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、—あなたがたが救われたのは恵みによるのです」。

 

使徒パウロは、わたしたちの救いを、神の愛、憐れみに根拠を置いています。

 

主イエス・キリストにおいて御自身をわたしたちにお示しになった神は、罪を裁く神ではありませんでした。罪と誤りによって、悪霊に支配されて、まさに霊的に死んでいたわたしたち人間を、神は憐れんでくださいました。御自身の独り子である主イエス・キリストを十字架に犠牲にするほどに、わたしたちを愛してくださいました。

 

使徒パウロは、その憐れみの豊かな神の愛によって、わたしたち人間は救われたのだと述べているのです。

 

使徒パウロが神の愛について語る時、彼は神がキリストにおいて証しされた神の愛から出発しているのです。それは、キリストの十字架によって証しされた神の愛です。

 

わたしたちが神の御前に何か善き行ないをしたのではありません。そのままでは滅ぶべきわたしたちを、神が憐れみ、御自身の無償の愛によって、それがキリストの十字架の愛ですが、使徒パウロはわたしたちに「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」と述べています。

 

45節の使徒パウロの御言葉は、キリスト教の根本的な立場です。神がわたしたちを一方的に愛して下さったのです。「この上もなく愛してくださり、その愛によって」わたしたちは永遠の滅びから、死の支配から救われました。

 

それをパウロは、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」と述べています。

 

これは、わたしたちの信仰の個人的体験を述べているのではありません。

 

教会の共同体としての信仰の体験です。キリスト教会は、キリストの死と復活によってこの世において命ある存在とされました。死に支配されたこの世において、キリスト教会はキリストと共に、死から命へと生かされました。

 

この教会で毎週の主日礼拝を通して、わたしたちは、説教の御言葉によって神がキリストを死人の中から復活させられたことを聞くのです。それは、わたしたちにとって福音です。なぜなら、わたしたちは死人の中から復活されたキリストによって、わたしたちも死から解放され、新しい命に生きることを約束されるからです。

 

キリストと共に復活に与るという神の恵みの約束を、わたしたちはこの教会の月ごとの聖餐式を通して確信させられているのです。

 

このようにしてわたしたちは、この世で罪と過ちによって死んでしまった者が復活のキリストと共に新しい命に与るという神の恵みを、この上諏訪湖畔教会で教会の共同体として信仰体験しているのです。

 

信仰は聞くことから始まります。キリストの福音の言葉を聞いて、キリストをわたしの主と信じる者は救われます。しかし、救われた者は一人で生きるのではありません。頭であるキリストの教会の肢体として生きるのです。

 

だから、使徒パウロは、続いて6節で、次のように述べているのです。「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

 

キリスト・イエスによって」は、キリスト・イエスにあってということです。使徒パウロは、この手紙の123節で「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と述べていますね。それは、キリストにあって万物はひとつに帰することだとお話ししました。

 

教会の頭であるキリストが復活され、体であるわたしたちも共に復活します。復活されたキリストは王として父なる神の右の座に着かれて、すべてのものを御自身の足下に従わされます。教会の体であるわたしたちは、キリストのように父なる神の右の座に着くことはありません。しかし、わたしたちはキリストのように御国に引き上げられ、王としてキリストの御支配に参与するのです。

 

このように216節の死から命への救いは、何時の世のキリスト者たちも体験するものです。7節は、使徒パウロがその救いの目的を述べているのです。「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです。

 

使徒パウロは、神の無限の恵みを誰かに話したり、伝えたりしたいと述べているのではありません。わたしたちの教会が神の恵みをこの世の人々に公に立証することです。キリストの教会がこの諏訪の地にあるだけで、神の恵みを誰の目にも明らかにできることです。

 

わたしたちの教会は、霊的に死んだ者であったわたしたちがキリストと共に復活させられ、神の右に共に上げられ、神の恵み溢れる大いなる御救いに与かったことを永遠にこの世に証拠立てる物件なのです。

 

それを使徒パウロは神に造られた作品と言うのです。これについては、次回に学びましょう。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、エフェソの信徒への手紙の第247節の御言葉を学ぶ機会を得まして感謝します。前回は、13節の過ちと罪によりわたしたち異邦人は霊的に死んだものであることを学びました。

 

使徒パウロは、4節で「しかし」と述べて、議論を方向転換し、憐れみに富んだ神がわたしたちを愛してくださり、キリストにおいて共に命に生かされ、甦らされ、天上に着座させていただけた恵みを学ことができて感謝します。

 

わたしたちは、小さな群れでありますが、キリストの十字架によって罪より救われた者として、キリストの証人として歩ませてください。

 

また、この上諏訪湖畔教会が神の満ちあふれる恵みを、憐れみを、この世の人々に公にできる物件として、これからもここに建ち続けさせてください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

エフェソの信徒への手紙説教09           2023820

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、他の人々と同じように、生れながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上もなく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、—あなたがたが救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

                   エフェソの信徒への手紙第2110

 

説教題:「信じて救われたのは」

今朝は、エフェソの信徒への手紙第2810節の御言葉を学びましょう。

 

使徒パウロは、213節でキリスト教に入信する前の異邦人キリスト者たちは、自分の罪と過ちによって霊的に死んだ者たちであり、ユダヤ人キリスト者たちも異邦人たちの世界の中で主なる神に対して不従順に生き、神の怒りを身に受けていたと述べました。

 

そして、使徒パウロは、24節の「しかし」という接続詞で、主イエス・キリストにあって、神の豊かな憐れみによる愛と恵みとによって、異邦人とユダヤ人たちの状況が反転したと述べました。

 

使徒パウロは、45節で、神の愛と憐れみを根拠にして、主イエス・キリストにあって罪のために死んでいたわたしたち人間を救われたことを述べました。

 

パウロが述べていることは、教会の共同体としての信仰の体験です。キリスト教会は、キリストの死と復活によってこの世において命ある存在とされました。罪によって死に支配されたこの世において、キリスト教会はキリストと共に、死から新しい命へと生かされました。

 

教会の頭であるキリストが復活され、体であるわたしたちも共に復活します。復活されたキリストは王として父なる神の右の座に着かれて、すべてのものを御自身の足下に従わされます。教会の体であるわたしたちは、そのキリストの支配に与る者とされるのです。

 

このようにわたしたちがこの世で神の救いに与かった目的を、使徒パウロは7節で述べて、わたしたちの教会がキリストの御救いをこの世の人々に公に立証することを述べました。すなわち、この世におけるキリストの教会は、神の恵み溢れる大いなる御救いに与かったことを永遠に証拠立てる物件であるのです。

 

その物件であるわたしたちの教会を、使徒パウロは神に造られた善き作品と言うのです。

 

使徒パウロは、今朝学びます2810節の御言葉で、わたしたちが信仰によって救われたのは、主イエス・キリストにあって善き行ないをして歩むためであり、神はわたしたちをそのように造られ、そのように歩めるように備えられていると述べているのです。

 

先ず、使徒パウロは、8節でわたしたちの救いを、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」と述べています。

 

使徒パウロは、5節で「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」と述べたことを言い換えています。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」これは、わたしたちの側から見た神の救いです。救いは、人間の信じるという行いによって、すなわち、わたしたちの努力や熱心な思いからもたらされるのではありません。

 

神の愛と恵みが先行するのです。「憐れみ豊かな神は、この上もなく愛してくださり、その愛によって」わたしたちは主イエス・キリストにあって罪と死から救われたのです。

 

十字架のキリストがわたしの罪のために死んでくださったと信じる信仰も、主イエス・キリストがわたしの救い主だと信じる信仰も、神がわたしたちにお与えくださった賜物です。わたしたちは、神の無償の愛の賜物である信仰によって救われました。

 

だから、パウロは、9節で「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」と述べているのです。

 

行いによるのではありません。」とは、人が行う美徳です。昔ギリシア人たちは、人間が行う美徳をリストに纏めていたのです。美徳や悪徳を数え上げて、人はこういう美徳を行うことができるし、こういう悪徳を行うと定めていたのです。美徳としては善、真理、正義、親切、寛容等があり、悪徳は悪行、偽善、詐欺、盗み、殺人、偽証等がありました。

 

パウロは、異邦人キリスト者たちにこの世の人々が認める美徳を行ない、悪徳を行わなければ、人は誰でも救われることはないと言うのです。その理由は、人が救いを自分の行ないによるのだと自慢し、神を見下げないためです。この世において美徳を行ない、悪徳をしない者は、自分を誇るでしょう。キリスト者は誰も自分を誇れません。罪に死んでいた者を神が憐れみ愛されて、キリストの十字架を通して救われたからです。自分を誇るよりも、主なる神を誇り、神を賛美するのです。

 

そして、使徒パウロは、10節でその理由を述べています。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

 

キリスト教の人間観は、わたしたち人間は神が創造された被造物であり、神の作品であるという思想です。だから、神がキリストの十字架と復活によってわたしたちを救われるのも、神が人間を創造された目的に沿ってであります。

 

だから、使徒パウロにとって、救いとは、神の御前にわたしたちが良き行ないをするために主イエス・キリストにあって新しい人として造られたのです。

 

そして、使徒パウロは、わたしたちの良き行いも、神御自身があらかじめ準備して下さっているのです。

 

言葉は悪いですが、わたしたちは、この世にあるキリスト教会は、キリストにある神の愛を、神の救いを、そして未来における神お約束を証しする証拠物件です。

 

この世におけるキリスト教会は、キリストにあって造り変えられた神の作品です。キリストに常に結び付いて、神を礼拝し、賛美する神の作品です。

 

神にとって良い行いとは、神の御心に適うことです。この世におけるキリスト教会が毎週日曜日にキリスト者たちが共に集まり、神を賛美し、神の御言葉を聴き、共に聖餐の恵みに与り、この世の人々にキリストの福音を伝えることこそ、良き行ないです。

 

わたしたちがこの教会で神の御前に良き行いができるように、神はキリストにあって、聖霊を通してあらかじめ備えてくださいました。それがキリストの教会です。この教会こそわたしたちがキリストを信じて、神の御前に良き行いをするためのこの世における信仰の器であります。それが、わたしたちがこの世を歩む将来に向けての証拠物件となっているのです。

 

わたしたちは、この世において神を礼拝し、賛美し、この教会で神の御言葉を聴き、共に聖餐の恵みに与り、そして我らの国籍は天にあることを証しして生きるために、キリストにあって救われたのです。

 

この世の美徳に生きる必要はありません。自分がなす悪徳に悩む必要もありません。今必要なことは、ただ、神の恵みにより、信仰によってキリストと一つに結び付き、この教会の礼拝に生きることです。神の御言葉を聴き、聖餐の恵みに共に与り、共に神を賛美し、将来における御国の約束を信じて、ただただ神に生かされることです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、エフェソの信徒への手紙の第2810節の御言葉を学ぶ機会を得まして感謝します。

 

使徒パウロが言いますように、わたしたちはキリストにあって神に造られた作品です。この上諏訪湖畔教会は、わたしたちキリストに救われた者が神の御前に良きことができるように備えられた信仰の器です。

 

どうか、わたしたちが神を愛し、キリストを信じ、この教会で兄弟姉妹と共に良き行いを続けることができるようにしてください。

 

わたしたちの国籍が天にあることを、この世の人々に証しする器としてください。

 

この世の美徳や富を求めるのではなく、神を礼拝し、賛美する人生に心から満足させてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

エフェソの信徒への手紙説教10           2023年9月3日

だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠くに離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠くに離れているあなたがたにも、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それでこのキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

                   エフェソの信徒への手紙第21122

 

説教題:「、キリストに近い者となる」

今朝は、エフェソの信徒への手紙第21113節の御言葉を学びましょう。

 

使徒パウロは、この手紙の2110節で「恵みによる救い」というテーマを語りました。短く纏めれば、こうなります。異邦人キリスト者たちは、以前自分の過ちと罪によって霊的に死んだ者でした。しかし、主イエス・キリストを通して神の大きな愛と恵みを受けて、救われました。そのように信仰によって救われたのは、彼らが善い行いをして歩むためでした。

 

さて、今朝から学びますエフェソの信徒への手紙21122節で、使徒パウロは次のテーマを語っています。それは、この手紙の最も大切なことです。主イエス・キリストにあって異邦人もユダヤ人も一つとなるということです。

 

今朝学びます21113節は、そのテーマの序論です。その序論で、パウロは、異邦人キリスト者たちの以前と今を対置して、すなわち、救われる以前と救われた今を見比べて、異邦人キリスト者たちが以前は神から遠くにいたが、今はキリストの十字架の贖いを通して神に近い者となっていると語っています。

 

使徒パウロは異邦人キリスト者たちに11節で「心に留めておきなさい」と言っています。そして、使徒パウロは、1112節で異邦人キリスト者たちが洗礼を受けてキリスト者になる前にどのような者であったかを、詳細に述べています。

 

使徒パウロが述べていることには、目的があります。主イエス・キリストの十字架の贖いによって異邦人キリスト者たちは、霊的に死んだ者の状態から神の大きな恵みによって救われ、永遠の命に生かされているのです。そのキリストの御救いを賛美し、恵みの神に感謝するために、そして、救われた恵みにこれからも生かされるために、異邦人キリスト者は、彼らの過去の惨めな人生を忘れてはいけないのです。よく覚えて、二度と元の生活に引き返さないようにしなければなりません。

 

使徒パウロは、この段落(21122)で主イエス・キリストにあって異邦人キリスト者たちとユダヤ人が一つにされたことを語っているのです。その文脈で、使徒パウロは異邦人キリスト者たちに過去のことを記憶していなさいと述べているのです。

 

だから、使徒パウロが11節で「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」と言っていますことは、今の異邦人キリスト者のことです。使徒パウロは、こう言っています。「現在のあなたがたは以前には生まれながらの異邦人であり、ユダヤ人たちのように割礼を受けている人びからは、割礼のない者、すなわち、神の民という証印のない者と呼ばれていました。」

 

更にパウロは、12節で続いて、このように述べています。「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。

 

使徒パウロは、異邦人キリスト者たちにさらに思い出してくださいと、彼らの過去について語り続けています。

 

ユダヤ人たちと比べて、割礼があるかないかの違いだけではありません。異邦人キリスト者たちは、洗礼を受けてキリスト者となる前、キリストと全く関係のない生活をしていたのです。もちろん神の民イスラエルの共同体に入ることはありません。旧約聖書の族長アブラハム、イサク、ヤコブの恵みの契約、モーセの契約、ダビデの契約と関係のない生活をしていたのです。

 

その結果、この世で希望を持たずに生活していたのです。これは、永遠の命の希望のことです。いわゆる世間一般の希望はあったでしょう。金持ちになる。有名人になる。憧れのスポーツ選手になるという希望です。大学に出て、一流企業に就職するという希望です。しかし、この世における希望は、わたしたちがこの世に生きているかぎりの希望です。使徒パウロの言っている希望は、永遠の命の希望です。このような希望を持つ者はいません。

 

更にパウロは、異邦人キリスト者たちはキリストに出会う前、「神を知らずに生きていました」と言っています。無神論者ではありません。神との関係がない生活をしているのです。神に無関心に生きているのです。自分では神に無関心に生きているのですが、神の側からは、見捨てられているのです。神が助けてくださらないのです。実に主イエス・キリストにおける大きな神の愛と恵みを知るパウロには、本当に惨めな者たちでありました。

 

今朝、主イエスは、このパウロの御言葉を通して、わたしたちにも「あなたがたは思い起こしなさい。あなたがたが洗礼を受けてキリスト者になる前を」と。わたしたちも生れながらの日本人です。神の民ユダヤ人ではありません。彼らから見れば、わたしたちも割礼のない者です。神の民としての特権を持っていない者です。

 

教会の礼拝に出て、牧師の説教を通してキリストを知るまで、わたしたちもキリストと無関係に生きていました。神の民イスラエルの共同体に属さず、神社の神々の氏子であり、お寺の檀家でありました。アブラハムの恵みの契約とは全くの関係なきものでした。だから、この世における願いやこの世での小さな希望に生きていましたが、この世を越えた永遠の命の希望を知りませんでした。聖書に啓示された真の神を知りませんでした。むしろ、神についても神々についても無関心に生きていました。

 

それは、神の側から言えば、神に見捨てられた者の生活をしていたのです。だから、キリストから離れ、神の民イスラエルの共同体からも締め出され、恵みの契約に無縁の生活をしていたのです。この世において永遠の命の希望を持つことなく生きていたのです。

 

使徒パウロは、わたしたちに、キリスト者となった今も、この以前の惨めなわたしを忘れるなと言っているのです。

 

それをわたしたちが忘れないからこそ、使徒パウロはⅠ3節で、次のように言っているのです。主イエス・キリストの十字架の血によって、神から遠く離れていたわたしたちが神の近くにいる者とされ、今この礼拝で心から神を喜び賛美できるのだと。

 

今、わたしたちがここで、礼拝できること、オンラインを通して礼拝できること、それは、神から遠く離れ、神に見捨てられ、神に無関心に生きていたわたしたちが、キリストの十字架の死を通して、その罪を赦され、神に近い者とされたことを証しするのです。

 

だから、わたしたちの過去の罪と常に向き合い、キリストの十字架を仰ぐことによって神の大きな愛と恵みに目を向けて、毎週の礼拝を通して神を仰ぎ、賛美しようではありませんか。

 

そして、今も教会の外で、神に無関心に生きている人々に、わたしたちの思いを向けて、この人々にキリストを、と祈ろうではありませんか。勇気をもって声をかけて見よではありませんか。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、エフェソの信徒への手紙の第21113節の御言葉を学ぶ機会を得まして感謝します。

 

使徒パウロが勧めていますように、わたしたちが過去を思い起こし、主イエス・キリストの十字架によって、神がわたしたちに示された大きな愛と恵みを、わたしたちの心に留めさせてください。

 

どうか、今わたしたちが教会の礼拝に集うことの恵みに感謝させてください。

 

わたしたちが主イエス・キリストと結び付けられ、死人の中からの復活と御国における永遠の命を希望できることを、ここから感謝させてください。

 

どうか、今、昔のわたしたちのように神に無関心に生きている人々に対して、勇気を出してキリストを伝えさせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。