2026/5/24村手

           「人の子を見たいと望む時」

ルカによる福音書172037

 

梗概(新聖書注解いのちのことば「ルカ」榊原著抜粋)

 三 メシアの教え 9511944

   e メシアの教え・御国の到来 16141814

1.      金持ちとラザロの逆転劇 161431

2.      教会役員への警告 17110

3.      10人の重い皮膚病患者のきよめ 171119

4.      神の国はいつ来るか 172037

5.      不正な裁判官とやもめ 1818

6.      義人と取税人 18914

※前の段落と同じように長短がかなりあります。

 

序 メシアの教え・御国の到来というテーマで6つの話が並べられています。このテーマの冒頭の始まりが1614「金に執着するファリサイ派の人々がこの一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とありますから、世俗化した宗教理解や信仰に対してその誤りを正して戒めるためにお話が並べられています。律法と預言者の御言葉はヨハネの時を約束し、まさにその成就として神の国の福音が宣べ伝えられる歴史上の新時代が到来しています。そのメッセージを地上で聞くことをして既に到来し、完成の暁には「彼は慰められる」のです。問題はここでも神の側ではなく畏れることも信じることもせず自分の理屈と世俗の関心ばかりに生きる人の側にあります。今朝の聖書箇所では最初に「神の国はいつ来るのか」20「どこで起こるのか」37という私たちの関心に対してイエスが「見える形では来ない」20と正されます。二つ目に弟子たちへ「人の子」による統治(ご支配)を待望するところから『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と呼びかける言葉に騙されるな!「出て行ってはならない」と注意されます。そして最後にメシア再臨はノアの時代・ロトの時代にあったようなこととして起こる、すなわち「人の子が現れる日にも同じことが起こる」30ため、世俗のものに心奪われないように「降りるな、帰るな」、「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つ」。ここでは現世の生活を維持しようと悪あがきをするとかえって失うので“手放せ”と勧めます。ノアやロトの時に起こった終末的出来事は誰も免れることがなかったようにメシア再臨の時も免れることはありません。それが34以下「二人」のうち「一人は連れて、残されて」という話で教えられます。その恐ろしさから「どこで」と質問すると、場所ではなく「死」のあるところなら必ずと釘を刺します。

 

1、「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。」」2021

 ここで私たちが考察しなければいけないことは「見える形」という点です。「見張る」「監視する」(「見える」の原語)といった姿勢ではなく、神の国とは神様のご支配(統治)に「従う」という姿勢でしか迎えられません。そこで二つ目の注意、「あそこだ/ここだ」というファリサイ派が期待する「見える」ようなしるしに騙されないようにと促して「神の国はあなたがたの間にある」と正されます。「間」とは場所や理解の仕方ではなくて今既に到来している近さのことでしょう。しかしその近さから信徒は「見たいと望む」ものです。でも『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』という詐欺に引っかかってはいけません。メシアの再臨は私たち人間の努力や期待で招き寄せるものではなく、神の主権的な恵みによって到来するので、特定の人や場所ではなく「大空の端から端」つまりは誰にでも「稲妻」のように「現れ」のです。そこで最後にメシア再臨への心得が教えられるのです。つまりノアやロトの物語を思い起こすことです。信仰者が持つ待望感とは逆に、この世の傾向は結局神の国の到来はない!メシア再臨もない!だから地上の世界は変わることがない!と世俗の関心と現世の生活に埋没するのです。これをイエスは戒めて「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが」「滅ぼしてしまった」。「ロトの妻のことを思い出しなさい。」世俗と現世のものに心奪われ振り返るようなことがないように注意しなさい!と教えているのです。こうした終末を免れる人は誰もいません。一人一人個別に「連れて行かれ、残される」。「どこで」という特定の場所ではなく死体のある所ならどこでも起こります。だから自分が生きて呼吸していたとしても、実体が「死体」になってはいないかを吟味しなければいけません。

 

、「しかし、人の子はまず、必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」25

 こうして一連のお話を総括してみますと、第一にイエスの教えをあざ笑うファリサイ派の不信を正すことから始まっています。「見える形」とは111629で指摘していた「天からのしるし」を求める不信のことです。神の国の到来とは神様への畏れと憐れみを願うところにこそ、神の主権的な恵みとして成就するものなのです。しかし第二点に逆に信仰者たちはこの到来から「人の子の日を一日でも見たい」と思って浮き足だってしまいます。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』という誘惑に引っかかってしまいやすいのです。御国を完成するためのメシア再臨まで信じて待つべきなのです。そして最後に「信じて待つ」姿勢を取る上での注意として世俗化へ警戒をしなければいけません。まさに一人一人が信じて待つという信仰生活が求められるのです。

 ふりかえって思いますのは「見える形」が象徴するファリサイ派の不信にせよ、『見よ、あそこだ』というカリスマティックな呼びかけにせよ、どちらにも共通する人間的な思いや不信というものがその根底に存在しています。ノアの時代ロトの時代の物語は日曜学校の代表的な聖書物語で、ときに大昔の物語として捉えがちですがコロナ禍や戦争を身近に体験し知るものとしては決して侮ってはならないお話です。私たちはもう一度思い出さなければいけません。「その日」「一人残らず滅ぼしてしまった」のです。イエスは「神の国はあなたがたの間にあるのだ」とお教えになり、「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」という救いのご計画をお教えになりました。神の国は地上の人生が終わって入るところではなく、今既に「あなたがた」すなわち「私」たちの「間にある」のです。福音を信じること、悔い改めることをして招かれているのです。天来のしるしなどを求める前にメシアであるイエスは「多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥」されたではありませんか? これはすなわち“私の不信と罪”がしたことであって、イエスも神もその罪を贖い私たちを救うために「まず必ず・・・なっている」というご計画と強い御意志をもって「(私たち)の間」に身を置かれたのです。

神様は聖書の言葉、福音をもって私たちに御自身とその恵みを「現された」ました。わたしたちはその恵みを見た証人なのです。イエス・キリストの十字架の受難と復活の希望を見、信じるようになった私たちが何か別の見えるしるしを求める必要があるでしょうか? 地上の人生の彼方にあるのでもなく、御国の到来はないのでもありません。事実イエスは私たちのもとへ来られました。なぜそれを証しする御言葉以外の『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と求める必要があるでしょうか? 突然の滅びなどではなくて地上の受難の道をイエス御自身も受けて一緒に歩んでくださっています。私たちは決して「一人」でもありません。そうです!この箇所のイエスの教えで気づくのは「神の国」到来ということだけに関心を寄せていることです。神を知らないのにどうしてその神の国が理解できましょう。ましてやその時や場所などを知ることができましょう。日常生活に埋没するのもそれが自分の命になっているからでしょう。日常生活が日常のことでなくなったとしても私たちの命はなくなりません。神の国も日常生活も自分の命に直結してそれだけを求めたりすると詐欺に遭いやすいのでしょう。むしろもっと手前の「自分がいやされたのを知って/イエスの足下に戻って」くることに神の国はあるのでしょう。あなたは一体だれに救われましたか?「一人残される」「死体のある所」にあってあなたは一人ですか? いいえ「最後まで共にいる」と約束された方をこそ、目を向けるべきところではないでしょうか?

父なる神様、主イエス・キリストが最後まで一緒にいると約束された言葉を信じて、御国が来ますようにと祈り続けることができますように。

 

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。