25/1/26

 「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」   マタイ112530

序 今年の年間聖句をマタイ1128といたしました。目標ではなくて単純に覚えていただきたいために年間聖句としました。礼拝の招きの言葉として有名な箇所です。神様に“招かれている”ということを一緒に覚えましょう。

 

.「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」1127

 礼拝のたびに朗読される御言葉のため礼拝に来たことがある人なら誰でもわかる言葉です。だからこそもう一度読み直さなければいけない箇所です。理解していると思い込んでしまうからです。マタイ福音書ではこの言葉を、①イエスによる父賛美2526節、②「わたしに任せられている」という御子イエスの独特な立場27節、“だから”③「わたしのもとに来なさい」というイエスの招きと約束2830節という順番で記されています。最初に①のイエスによる父賛美ですがルカ福音書では1021に記され、その直前に72人の弟子たちが派遣された町々村々の伝道旅行から帰ってきたことが記されています。その弟子の報告を聞いて「そのとき」イエスは父を賛美したと記しています。報告では「悪霊さえ屈服する」と喜んで報告しますが、イエスは「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とお教えになりました。父を賛美した後「彼らだけに」「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。/多くの預言者や王たちは/見たかったが見ることができず/聞きたかったが、聞けなかった」からだと伝えました。この成り行きからわかりますように、宣教の結果が見事に「父よ、これは御心に適うことでした」という出来事への賛美なのです。その御心とは「このことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」というものなのです。その代表としてファリサイ派や律法学者たちが挙げられ、他方罪びとや社会からの疎外者などが福音書には挙げられているわけです。神様は神の国、永遠の命という約束を福音宣教という形で私たちにお与えになりました。パウロはこれを「宣教という愚かな手段」しかし「召された者には、神の力、神の知恵」と言いました。(Ⅰコリント121)この手段が「信じる者を救おう」ということに見事に合致するからです。そしてこの父の御心は②「すべてのことは、父からわたしに任さられている」というイエスご自身の使命にも結び付いているのです。イエスは父を賛美しつつ、まさにその父の御心にふれて自らの使命を強く意識されたのです。父なる神を知っているのは子であるイエスだけです。同様に子を知っているのも父だけです。だから父が「幼子のようなものにお示しになる」という御心はイエスご自身の使命とご意思にも見事に合致していたのです。イエスはこの父の御心を一つに共有していることの喜びを賛美し、同時に自らの強い使命感に喜びを感じられたのだと思います。このイエスの喜びを理解しながら③つ目の招きの言葉を噛みしめなければいけません。イエスの招きは①「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」という招きです。「賢い者/幼子」という人間的な知恵頼みか神への信頼かという前述の賛美からすると“神を真実に求めるものは”と言いたいところですが、イエスが招く対象は「疲れた者、重荷を負う者」なのです。求道の有無というよりは、地上では誰にも助けてもらえず本人自身さえ諦めていたり絶望している状況の人を意識しているのではないかと思います。その意味でもう“神”という方にしか頼めるところがない、しかしそこにこそイエスの目が注がれ強い使命感が表れています。だから②「“わたしのもと”に来なさい」と招いています。これが別の言葉で言い換えられ「わたしは柔和で謙遜な者/わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と勧められます。強い使命感を持ち、この方以外に神を知り求める方法はない唯一の存在です。大抵地上の世界では求める窓口が一つしかなければ相手の要望をのみ、たとえ相手が横暴であっても忍耐しなければいけませんが、父にいたる唯一の存在でありながらも御自身は「柔和で謙遜な者」であるのです。誰でも、かつ特別な知識や才能を持たずとも「来る」のならば喜んで迎える御心をもっているのでこのように名乗ったのです。「軛」とは主人が牛馬を主人の思う方へと導く道具です。軛を負うとは“負担”のことではなくて導きを受けることを意味しています。併せて「わたしに学ぶ」こと、すなわちその導くほうへと歩むことをお教えになりました。この招きには約束がついています。それが③「休ませてあげよう」です。これにも言い換えが付いていて「そうすればあなたがたは安らぎが得られる」です。この休み、安らぎとは最初に招いた時の言葉「疲れた者、重荷を負う者」に呼応した言葉であって、どうにもならない、誰にも助けてもらえない、もう諦めてもいることに対して、開ける道、神の真実、希望の光を得ることができるという約束です。教会では長い間この言葉を礼拝の招きの言葉として朗読してきました。元々の御言葉では礼拝というだけでなくキリスト教、すなわちイエスをキリストとして信じ依り頼もうとするすべて人にイエスがご自身の使命と喜びをもって招いている言葉です。ヨハネ福音書ではイエスが当時の人の願いや求め方が間違っていてそれを正す言葉が記されています。「あなたたちは聖書に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ53940) 永遠の命というものが当時の時代や宗教では最も求められたところだったのかもしれません。むしろ現代人の人生に置き換えたほうが良いかもしれません。どこに何を求めて生きているのかは様々かもしれませんが、当時の人が的外れな求め方をしていたように現代でも求めていることとその求め先が間違っていることは、あながち当たっているかもしれません。イエスの呼びかけは時代が変遷しても変わることのない真実で確かなものなのではないでしょうか?

 

、「更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」ルカ201213

「わたしは尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。/わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。」イザヤ6512

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」ヨハネ黙示録320

 最後に上記の御言葉を補足しておきたいと思います。ルカ20章に記されているブドウ園と農夫のたとえに出て来る一節です。“たとえ”話なので普通にサラリと聞き飛ばしてしまいそうなお話ですが、主人が神様となると違います。皆さんが主人だったら収穫を納めもしない農夫たちに三人も僕を送ったりするでしょうか?これがこのたとえ話のポイントです。一人目は袋叩きにして追い返す、二人目はそれに「侮辱して」を加え、三人目は「傷を負わせて」放り出しました。農夫の態度はいかにも人間らしい行為です。しかし主人は?。「そこで、ぶどう園の主人は言った『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」一度ならず二度三度とエスカレートし、それで最後にあなたなら最愛の息子を派遣しますか?それともこの主人は甘い人だなと笑いますか?このたとえを補ってご紹介したのは、神様からの招きというものの意味をよく考えていただきたいためです。主人は甘いのではありません。人間を知らないのでもありません。誰よりもよくご存じであり、最愛の息子を最後に派遣するほど真実な方なのです。その息子の発言こそ「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という招きです。私たち人間が尋ねよう、求めよう、呼ぼうともしないのに神は尋ね出され見いだされ、ここにいるとさえ答えてくださったのは、主御自身が手を差し伸べてきたからです。今もそしてこれからも、いつもいつも私たちの戸口に立って、つまりすぐそばにいて私たちの心の扉をたたき続けておられます。なかなか開けようとしない私たちにそれでも待ち続けていてくださるのです。ちっとも開けないのでもう食事は済ませた、だからあなたは勝手にしなさいなどと言わないのです。今も明日も「戸口に立って、たたいている」のです。どうか耳を心を開いて招く声に耳を傾けてください。  父なる神様、あなたがそばにいて待っていてくださること、愚かな私たちを真実に招いていてくださるその声に心を開けることができますよう助けてください。

 

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

 

 

 「イエスに触れようと」ルカによる福音書61726

 431節~950節まで「メシアのわざ」というテーマでくくられ、その中に4つのテーマが展開されているようです。前回はその最初で「メシアの権威」というテーマでした。次は612節からで「使命の性質」というテーマになっています。①12使徒の選抜、②大説教、③異邦人百人隊長の信仰、④やもめの息子を生き返らせる、⑤イエスとヨハネ、⑥罪深い女とパリサイ人、という順番でお話が並んでいます。(6127章終わり迄)なんだか「使命の性質」と言われてもピンとこないのですが、前のテーマではイエス様の言葉の権威というものがクローズアップされ、そこから「この言葉はいったい何だろう」436と話題になり、ペトロでさえ網を降ろせと指示されるイエスの言葉に大漁をもって驚嘆したのです。「清くなれ」「罪は赦された」と言い放つだけで病気のみならず、神の前で(祭司、律法に立証されて)清くなり立ち上がったのです。疑念をもつ敵のセリフを借りれば「この男は何者だ」という思いへと読者を導き、徴税人レビを弟子として召してこの問いに答えます。この方は「医者」であり「婚礼の花婿」であって「人の子は安息の主である!」。こんなテーマでお話を並べたのは当時の時代も後の時代も「メシア」待望という信仰は生まれてくるだろうけれども、本当のメシア、神からのメシアとはどういう方であるのか?これを正しく教えたいからです。逆を言えば地上の私たち人間の中に生まれてくるメシア待望が間違っていたり、一方的な希望や要求を押しつけたり、あるいは自己願望になってしまいやすいのです。父なる神様は聖書を通してご自身が約束する救いとその救い主を証ししたいのです。

 ここから展開する次のテーマは、その主イエスの使命に見られる特徴に焦点を当てていくのです。端的に言えば「神の国の福音」を宣べ伝えるのが「私の使命」だと言及されたイエス、ではその福音で伝えられる「神の国」とはどんなものなのか? 私たちは人が亡くなると「天国へ行った」と話しますがイエスを通して開示される「神の国」とはどんなものなのでしょうか? 神の国の特徴がイエスの使命を通して明かされてくるのです。

 

.「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」619

 その最初が12使徒の選抜(①)で始まります。この選抜のためにイエスは徹夜の祈りをされました。それほど重要な選抜だったのです。イエスはペトロでさえ見抜けなかった魚の群れを見抜いたお方です。当然ペトロのことだって他の弟子たちだってご存じでしょう。しかしただ知っている、見抜いているということだけで選抜したようではないようです。ヨハネ1516に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出掛けて行って実を結び、その実が残るようにと・・・わたしがあなたがたを任命したのである」とあるように、選んだ弟子たちのその後の結実まで考えて選抜したようです。12人は旧約の民イスラエル12部族からくるものでしょう。当然選抜された12人はイエスによる新しい神の民イスラエルを象徴しています。大切なことはこの新しい神の民が「使徒」と名づけられるところにあります。神の国の福音にあずかり、その福音によって組織される神の民は「使徒」すなわち「遣わされる者」と呼ばれます。民は世に遣わされて神の国の福音を宣教するために組織されます。この人たちが様々な出所をもつ人であることが名前のリストで明示されるのです。政治思想、イスカリオテ(「町の人」という意味)という都会人、ペトロのような漁師、マタイのような徴税人。つまり神の民はこの地上の政党、価値観、職業などを超越しているのです。しかし超越していても一つ共通するものを持ちます。それが17以降(②)「何とかしてイエスに触れようとした」ところです。この熱意は「イエスの教えを聞くため」また「いやしていただくため」という救いから生まれた熱心です。イエスの言葉と力によって救われた!それが神の民に共有するものです。この熱心は民の信仰に基づくものではなく、本人たちの賜物でもなくて「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたから」というイエスの力によるものです。神の国はこの段落で出てくるように「貧しい人々(620)」「やもめ(712)」「異邦人(百人隊長、72)」「徴税人(729)」「罪深い女(737)」らのものであって、愛と信仰とを必要とするにすぎないのです。そしてそれは病気、死、罪から救われたことによって生まれたものです。これを単なる社会的な弱者と見てはいけません。百人隊長は身分も権威も持っています。むしろ神の招きは地上的人間的な判断とは違うということを意味しています。ルカ1818以降に金持ちの青年議員の「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」との問いに「すべて売り払って私に従え」と教えます。彼が金持ちだったところから非常に悲しみ、この対話を見た民衆は「それでは、だれが救われるのだろうか」とがっかりします。まさに民衆にはこの青年こそ相応しいと見ていたのです。こうした人の判断がここでは取り上げられず、イエスの祈りと憐れみによって驚くべき人たちが救いへと招かれるのです。

 

、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」62223

 そこで今朝の聖書箇所、テーマの中の②段落目に目を向けたいと思います。マタイでは山上の垂訓と呼ばれる説教がルカでは平地の説教として紹介されます。最初に神の国の約束が4つの幸いと4つの警告で語られ、27節から敵への愛、4つの命令(祝福を祈り、頬を向け、拒まず、与えよ)、32節からは4つの憐れみ、37節からは裁かれない4つの態度、39節からは弟子道、46節からは自己吟味と、短いながらもギュとまとめられています。この段落は最初に話した通り「メシアのわざ」というテーマでくくられます。しかし、通常読者はメシヤの業ではなくてマタイの山上の垂訓のように“教え”あるいは“説教”ではないかと思われるでしょう。ルカ福音書がここに大説教を入れている理由は12使徒選抜に始まるお話の「流れ」にあります。イエス様は徹夜の祈りをなして12人を選抜して「使徒」と呼ぶ新しい神の民を生み出されました。更に「山から下りて」ご自身の力によって神の民となる群衆が生み出されます。その神の民に新しい律法を与えられたのです。古のモーセとイスラエルのようにです。十戒ではなく「神の国の福音」、その福音に生きる新しい掟は神の「恵み(33)/憐れみ(36)/罪の赦し(37)/わたしの言葉(47)」を土台にするのです。さらに今朝の箇所では4つの幸いと4つの不幸が語られますが、どちらも新しい神の民に向けて語られていることに注意しなければいけません。地上的人間的には不幸と思われることを、神の国到来をもってすべて幸いであると語った後、22「人々に憎まれるとき、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである/喜び踊れ」と語ります。続く4つの不幸では幸いと思われることを同様に神の国到来による不幸と語った後、26「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸だ」と語ります。どちらも同じあなたがたであって、違うのは地上の人々の態度です。つまり自分がどちらなのかと聞くべきものではなくて、どちらも同様に聞くべき説教になっているのです。救われ赦され癒されて神の民となりました。「神の国はあなたがたのものである」!しかし旧約の民にもモーセは警告しました。申命記811~「主を忘れることのないように注意しなさい。あなたが食べて満足し、・・・建てて住み、殖え、増し、豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。」しかし旧約の歴史は神の民の忘恩を証明したように、何度も忘れて離れていきました。ですからここでも4つの幸い、貧しかった、飢えていた、泣いていた時に福音に救われたことを思い出せ! そして4つ不幸、満腹し、笑い、ほめられるようになった時、心のおごりを戒めよ!と言われたわけです。よく考えてみてください。使徒の選出から、「教えをきくため」「いやしていただくため」に「何とかして触れようとした」信仰のスタートラインを。私たちは何か特別の才能や宗教性をもっていたでしょうか?信仰をもってからもこの世の人々が考える幸不幸とはちがった希望と戒めとを覚えてきました。またイエスを信じるがゆえの忍耐と幸いを覚えてきました。その価値観や希望はすべて「イエスから力が出て」いて、それに触れてきたところの神の賜り物です。神の国はわたしたちのものです。だから忘れてはいけません。イエス様によって救われたこと、受けた憐れみを!「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」

 

 なる神様、私たちに神の国の福音をもって救ってくださり感謝します。どうか新しい神の民として世に遣わされてその恵みを覚えるものとしてください。 主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

 

              25/4/27

   「福音の種蒔き」ルカによる福音書8章4~18節

 前回のテーマはメシア職の性質でした。メシアによる神の国到来は”遣わされる”福音宣教によって到来します。この福音は癒しの業と共に進展します。イエスの大説教では神の国の福音がどのような人に幸をもたらすのかが明らかにされ、裁きよりも和解を求め、敵対よりも神の憐れみをもたらすものでした。異邦人(百人隊長)であっても救われます。福音の権威を信じる信仰のみが救いをもたらすのです。やもめの息子が生き返る業をしてその信仰さえも後のことであって、救いはメシアの一方的な憐れみによることが示されます。こうしてこの方がどのような救いをもたらすメシアであるのか、洗礼者ヨハネの告白と罪深い女性の涙で読者に示されたのです。

 今朝は3番目の段落です。(8章全体)いよいよ「神の国の福音宣教」というテーマでお話が展開します。マルコ福音書では十字架上のイエスを見守る姿で紹介された①女性たちがここではイエスと12使徒団の福音宣教に奉仕をする者として紹介されます。(813)神の御国は軍事力ではなく兵士でもなく、使徒とそれを“支える奉仕”で進展します。②種蒔かれた人々のたとえ(418)で、この御国宣教がイエスの業として教えられ、③「神の言葉を聞いて行う」家族を生み出します。(1921)④突風をも従わせ(2225)、⑤目には見えない霊の世界では人を悪霊から解放し(2639)、⑥死んだ娘、死の病の女性を生き返らせることをして死の悲しみにうちひしがれる人々に命の喜びを回復します(4056)。神の国の福音宣教はそれを聞く人々の内にイエスの業による結実をもたらして、地上の世界、霊の世界そして死の絶望の淵に希望をもたらすという、まさに”神の”国としか言い表すことができない驚きと喜びをもたらすのです。ここでも6つの話で展開されています。

こうしたお話の展開を振り返ってみますと、“神の”国というものがどのようなもので、どうやって進展していくのかを大雑把に理解することができます。宣べ伝えるという一見非力に思える業、あるいは「12人」の使徒と呼ばれる働き人を派遣することで行われますが、ここでもその一行の働きに奉仕する人たちをあえて紹介しています。福音宣教は収穫と違って忍耐と苦労の多い働きです。奉仕する人たちの支えがあってなされるものです。しかし耕しても不毛という堕落した世界の中にあって(創31718)百倍の実を結ぶという常識を超越した喜びが実ります。その意味で肉親の家族を超越した深い結びつきをもった家族とされ、それが自然界や霊界さらには地上の生死の世界にまで、つまり私たちが怯えるような様々な世界にまで力と救いをもっています。一見イエス・キリストの教えと福音宣教などわかりきったように思ってしまいますが、実は何も知らないということをこの箇所の展開は読者に教えています。確かに私たちに蒔かれた福音の種が結実に至るには地上の人生を通しての「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して」という成長を待たなければいけませんが、この言葉を共有する者は肉親の家族以上の深い結びつきがあって、人生の荒波突風の中においても目に見えない霊界のような世界において、そして何よりも命の瀬戸際においても大きな力を持っていることを私たちは教えられ知っているのです。

 

1.「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」15 「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えら、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」18

 地上の世界とは違う”神の”国は聖書が記すところの「福音」によってもたらされ進展します。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら」8:1とはそのことを意味します。このテーマの最初に有名な「種蒔かれた人々の譬え」話が掲載されて、神の国の進展は蒔かれた種、すなわちイエスの告げ知らせる福音の言葉によって進められることが教えられています。ですからこの譬えは、もう一つ加えられた「ともし火の譬え」で結論を述べています。すなわち「どう聞くべきかに注意しなさい」です。イエスの業によって進められた御国の進展、福音宣教なのになぜ神の選民イエスラエルにはなかなか届かないのか、なぜあんなにも喜んで信仰に入った信徒たちの中から離れてしまう者が出てくるのか、という問題意識がこの聖書箇所で扱われているのです。蒔き方が悪かったのでしょうか? あるいは蒔かなかったからでしょうか? つまり蒔いた方に落ち度があったのでしょうか? 逆に自分たちが信仰に留まっているのは自分たちが「良い土地」「立派な善い心」だったからでしょうか? こうした神や教会への中傷や信仰者のうぬぼれを戒めて、人間的な理解を正そうとしているのです。「どう聞くべきかに注意せよ」という結論に追加して「持っている人、持っていない人」が教えられています。この一節はのちに19:11以下の「ムナの譬え」の結論19:26にも引用されます。これは賜物のお話です。どう聞くべきかという注意はすなわち自分がきちんと自分の内に「持っているか、持っていないか」という吟味に繋がります。何を「持つ」のかと言えば自分の心に蒔かれた福音の種への信仰と信頼のことではないでしょうか? しかしこれも「賜物」なのです。つまり自分の能力や品性で掴みとったものではなくて神から”賜った”ものなのです。私たちはこの種蒔かれた人々の譬えからイエスが伝えたかった結論「どう聞くべきかに注意せよ」「持っている、持っていない」の吟味と、なぜ自分がそれを「持っている」のかという意味を考えなければいけません。イエスはイザヤ預言の言葉を引用して「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが」という神の恵み・憐れみによるという秘密を教えます。

 たとえ話はまず最初に蒔き方が悪かったのでも蒔いた方に問題があったのでもないことを示しています。むしろ蒔かれた土地のほうに問題があります。これを「人たち」と説明しています。12「道端のものとは・・・人たちである」。続けて4つの例が紹介されます。種は神の御言葉、道端は「聞くが信じて救われないように悪魔が御言葉を奪い去る」つまり「信じない」聞き方のことです。石地とは「聞くと喜んで受け入れるが根がない」つまり芽や葉は出るがその心に根付かないので「試練に遭うと身を引いてしまう」姿です。茨の中とはきちんと根をはり芽も出て成長しますが、「途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて」結実しない姿のことです。そして最後に良い土地とは「善い心」「よく守る」「忍耐」して御国の命へと結実します。ちなみにルカ福音書では結実の有無だけが大切であって「何倍」かは問題にしていません。このお話の難しさは「悟ることが許されている」という神の憐れみによるのですが、その成長結実が私たちの聞き方によって変わる点にあります。一見私たちの聞き方の行為で決定するかのように思えますが、だったら自己責任となってしまいます。そうではなくて神の憐れみというものが私たちの聞き方までも含めたものなのでしょう。だから自らのへの神の憐れみを認識することがどう聞くべきかの注意や持っているかという吟味にも繋がるのでしょう。

 

、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」8:10

 繰り返しますがこうした結実の有無は確かに私たちの「聞き方」に左右されます。もっと言えば「持っているか、持っていないか」です。これは蒔かれた福音の言葉への畏れと信頼のことです。しかし先にも説明したようにこれは神様から「賜った」ものなのです。決して自分の心が最初から「立派で善い」のでも「忍耐」できる努力家だったからでもありません。それが弟子の質問への答えで明らかにされています。すなわち「あなたがたには・・・許されている」のです。他の人には譬えで話す理由としてイザヤ書6:9の警告を引用します。福音が拒絶されるのは神を捨てた不信であってその不信が審判となって跳ね返った結果です。聞く・聞けない、持つ・持たないは私たちの心に応答される神の憐れみの業によって「与えられ」もし「取り上げられ」もします。すなわち私たちは神の憐れみによって父なる神様、御子イエスへの信頼を持つことができるようになったのです。高ぶってはいけませんし自分なんかにはわからないのだと卑屈になってもいけません。ローマ11:17以下「折りとられた枝に対して誇ってはなりません。」「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」「彼らも不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。」イエスによる神の国の福音宣教は神の憐れみの業なのです。私たちはこの業にあずかって「持つ」ようになったのです。この憐れみの深さと大きさを考えることが「どう聞くか」に注意をもたらします。宣教へ信頼を持ち続けるべきなのです。

 なる神様、私たちを憐れんでくださり感謝します。どうか私たちに届けられた福音をいつまでも喜び感謝することができますように。

 

 主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

 

「眠っているのだ」ルカによる福音書84056

 8章全体が「神の国の福音宣教」というテーマでお話が6つ展開されています。1節「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら・・・旅を」。この世とは違う“神の”国、それが私たちにとって神様からの“福音”として知らされるのです。「福音宣教」という言葉をキリスト教の当たり前の用語として受け止めるとこのテーマについてのお話はよく理解できません。もう一度深く掘り下げて受け止め直すことが必要です。“福音を告げ知ら”されるという意味を考えるのです。ウクライナで戦禍が、ミャンマーで軍事政権の横暴が報道されています。みんな自分の家を追われ、生活を奪われ、難を逃れて行き場もなく彷徨っているのです。「福音」という言葉は喜びの音信を意味し、王の即位や敵への勝利の知らせとして使われました。平和が戻ってきたことの知らせです。623日沖縄慰霊の日が報道されました。沖縄戦犠牲者追悼を県が定めて守ってきた沖縄にとって“特別な日”です。同様にイエスが「福音を告げ知らせ」てくださったのも、私たち罪人にとって人生を通して忘れてはならない特別な知らせなのです。単なるキリスト教伝道ではないのです。ですからその勝利の音信に救われた婦人が紹介され(8137つの悪霊を追い出していただいたマリア」等)、その奉仕が福音の結実として描かれているのです。

 種蒔かれた土地のたとえ話はこの福音を「どう聞くべきかに注意」するための教えです。選民イスラエルであってもその恩恵を忘れて折り取られ、野生の枝である異邦人であっても神は御国の枝として接ぎ木されます。誤解しないでください。どちらも神様による憐れみの業なのです。選民であることも接ぎ木されたことも主なる神様の一方的な業によるものなのです。神様は御国に与らせるために憐れまれたのです。「憐れむ」とは、すなわち神様の主権による惠みの業なのです。だからこそそれに与った私たちは何度も「どう聞いたのか」を掘り下げて注意しなければいけません。このメシア・イエスによる神の国の福音宣教は単なる宗教の宣教活動ではなくて、神の憐れみの業であるのです。言い換えればイエスによる主権的な御業なのです。肉親の家族ではなく神の家族とされ、自然界だけでなく人生の荒波の中にも主の言葉は力をもって「お叱りになると静まって凪ぎになる」。目には見えない霊の世界の中にあっても主が命じれば、霊どもは「湖になだれ込む」のです。私たちはこのメシア・イエスによる憐れみの業と福音の言葉の力がなかなか分からず、時に弟子達のように「おぼれそうです」と慌てふためき「信仰がどこにあるのか」と正されます。悪とされるものが湖に落とされると本当は喜ぶべきなのに、自分も同じ悪を内包するところから「恐れに取り付かれて」「出て行ってもらいたい」と救い主を拒絶したりもします。ですからこのテーマで知るさている8章のお話はたとえ話もあり出来事もあるのですが、福音宣教が一宗教の宣教活動だとか、宗教の教えは心の中だけのことだとかと考える誤りを正して、もう一度私たちの人生や存在の根底から考え直すために記述されたものなのです。それは私たちの想像を遙かに超越して世界といっても様々な世界が存在しますたが、自然界、霊界、生死の世界などそのすべての世界において救いと神の栄光とを仰ぎみることができるものであること、だからこそ何度となく注意してどう聞いたのかを振り返ることが教えられているわけです。

 

1.「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第を皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」」4748

 このテーマの最後のお話が会堂長ヤイロの12歳の娘の死と出血が止まらず12年このかた生死の淵を彷徨った女性のお話です。旅から戻ったイエスを群衆は喜び迎えます。会堂長の娘が死にかけていたからです。しかし群衆に紛れてイエスに触れた病気の女性をイエスは探し回ります。この探索が手遅れの原因となります。一方で死にかけの娘の救助が求められながら、途上の探索で時間がとられて万事休す。もう手遅れです!「お嬢さんは亡くなりました。先生を煩わすことはありません。」しかしイエスは言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる。」「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と。人々が「イエスをあざ笑」う中、主イエスは「手を取り「娘よ、起きなさい」と呼びかけ」て、その言葉どおりに救います。他方で「十二年このかた出血がとまらず、全財産を使い果たし、だれからも直してもらえない女」が群衆に紛れて「後ろからイエスの服の房に触れ」「直ちに出血が止まった。」ああ何という幸いでしょうか!命の象徴であり源でもある血液を12年間も流し続けてきたのです。そうして日常茶飯事に死に脅かされて生きてきたのです。これでもう彼女は安心? いいえ「わたしに触れたのはだれか」「だれかが私に触れた。わたしから力が出ていったことを感じたのだ。」読者である私たちは弟子たちのように言うのではないでしょうか?「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」、つまり“誰だかわかりません”“誰だっていいじゃあないですか”と思います。しかし、主の力が出血を止めただけではダメなのです。事実彼女は「隠しきれない」「震えながら進み出て」きました。治ったのなら、震えることも恐れることもないではありませんか? しかし事実は違います。彼女はイエスの前に進み出ることもなく助けを求めることもなく触れるだけを考えていたのです。イエスの前で「癒された次第」を告白したとき、イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と彼女に告げて帰します。力だけで出血を止める救いは真実な救助にはならなかったのです。それはすぐにまた再発するかもしれない一時の症状に過ぎません。離れれば再び恐怖が襲ってきます。それは今までと変わりない死の淵の日常です。力の出所とその力の主であるところの御心に触れてこそ初めて安心なのです。こうしてこの二人の娘の救いを通して一方では“死んでしまえば万事休す、もう駄目だ”という人間の常識と絶望感に見直しを迫ります。他方では神様の力で病気が癒されればもう安心、というこれまた人間の常識と楽観を戒めてきます。私たち人間は地上の生死について、どれほどのことを知り、その真相を理解しているのでしょうか? 薬と治療、病気の原因が掴めば、すべてを理解していると誤解しているのではないでしょうか? 真の医者や治療は医学や研究成果を緻密に分析し極めますが、同時に極めればこそ命の不思議と、人間の力の限界もきちんと認識いたします。命だけは財産のような持ち物ではないし、その継続も終わりも私たちの手の内で自由にできるものではないのです。だからこそ亡くなったから終わり万事休すではないし、出血が止まればラッキーもう安心なのではないのです。

 

2.「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのはない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。」5253

 そこで私たちはこの二人の娘の救われたお話から生死というものについての常識的な見方を信仰的に見直さなければいけないと思うのです。イエスは「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。私たちの地上の死生観ではこの言葉は滑稽で「あざ笑」ってしまいます。こんな信じようともしない見方に対してイエスは「だれにも話さないように」と両親にお命じになります。命の源である神様の前ではイエスの言ったとおりなのです。死んでいないのです。医学的には心臓の鼓動は止まっても、神の前の命は眠っているだけなのです。12年このかた出血を患うという苦悩は出血を主の力で止めさえすれば癒されたとは見做されないのです。財産(経済)も使い果たし血液も流し続ける、(コロナ禍でどっちが優先という話題がありましたが)果たして人の命はどこにあるのでしょうか?彼女はどちらも使い果たしました。そしてイエスの力で出血が止まりましたが、彼女は救われ命を取り戻したのでしょうか?もうおわかりになるかと思いますが力を出して救ってくださった方の前にひれ伏し、そのすべてを告白した時、つまりその憐れみに触れた時、“救いの主イエスの憐れみを仰ぐ”「あなたの信仰があなたを救った」と言えるのです。命みなぎる12歳の娘の死に死んだらおしまいと思っていませんか?それがあなたの命ですか?

 

「わたしがお前の傍らを通ってお前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって『生きよ』と言ったのだ。」エゼキエル書166 聖書がイエスを命の君、「言葉の内に命があった」と証言するのは、私たちが知っているようで知らない命の根源を教えるためです。命は心臓や血液だけで生きているのではありません。言葉であるイエスの内にこそ命があって、この方の御心と言葉が命を与え、生きるのを得ているのです。 祈り。

 

 

              25/7/27

    「遂げようとしている最後」ルカによる福音書9章28~36節

 431から「ガリラヤの町カファルナウムに下って」巡回伝道での記事が並べられてきました。主にイエスによる業を中心に宣教が進められます。951「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあって、ここからルカ福音書では「メシアの教え」の段落に入ります。そこで今朝の箇所を瞑想するにあたり、少し振り返って431からの記事を思い出していただきたいと思います。メシアの業とはガリラヤから始まる巡回伝道の中で明らかになりました。それで福音書は悪霊追放の記事から始めます。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じる、出て行くとは。」436という人々の驚きの言葉でそれを伝えているのです。「網を降ろして、漁をしなさい54/清くなれ513/罪は赦された520、起きて歩け523/わたしに従いなさい527/手を伸ばしなさい610」と印象深い言葉を業が紹介されます。続く12人の使徒選出から、イエスの業がどのような結果をもたらすのか、その業の性質というものがわかる出来事が並びます。「使徒と名付け」(つまり“派遣される”)612、「いやしていただくため」618、「父が憐れみ深いように」636、「母親を見て、憐れに思い」713、「貧しい人は福音を」722、「罪まで許すこの人は」749。そして8章は神の国の宣教をテーマに“御言葉”とそれが嵐を静め、霊界をも支配し、命をも救うという記事(弟子の湖渡り822~、ゲラサでの悪霊追放826~、ヤイロの娘と回復と出血の女性のいやし840~)で並んでいます。この業の段落の最後が9章になります。いよいよ福音宣教は12人の使徒の派遣によって手広く行われます。その噂にヘロデが「何者だろう/こんなうわさのぬしは」?と紹介し、これに答えるかのように五千人養いの記事が並べられています。こうしてここまでの記事を振り返れば誰でも分かるように、この方こそ「わたしの子、選ばれた者」35メシアなのです。しかしこの最後9章の段落の記事はこうしたイエスの業が証しするところのメシアの正体が、結局のところ地上の人々に理解されなかったことを伝えているのです。それで18節からのイエスの問いかけに弟子だけが「神からのメシアです」と告白し、イエスはその告白するところのメシアを教えるために受難と復活の予告を弟子にだけ教えます。今朝の山上の変貌では残念なことにその弟子でさえも「何を言っているのか、分からなかった」という変貌での体験を伝えているわけです。山から下りてきた時の弟子と群衆の状況を嘆くお話がそれに続いて「信仰のない、よこしまな時代」から人を救出するためにはメシアの受難は避けられない!それで再度受難予告が繰り返されます。944「この言葉をよく耳に入れておきなさい。/人の子は/引き渡されようとしている」のです。今朝の山上の変貌ではイエスが相談して選び取る栄光の道と、イエスの輝く姿にペトロがみる栄光とが大きくずれていたことが詳細に記されています。そこで私たち信仰読者はこの箇所からもう一度、神の栄光とは何であるのか、イエスがメシア「人の子」として「遂げようとしている最後」とは何であったのかを見つめ直したいと思います。

 

1、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた。」2931

 「福音」こそ神による救いを待ち望む者にとってメシア到来の喜びの知らせなのです。しかし、その知らせに「わが主」と告白できないことがメシアの受難を避けて通れないものとします。12人の使徒を派遣しても、集まった群衆をメシアの糧で満腹にしても、神への悔い改めもイエスへの「わが主」告白も出てきません。イエスのジレンマはいかほどのものだったでしょうか。今朝の山上の変貌はそうした中での出来事でした。山から下りてきた時も民衆の訴えに「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」とつぶやかれました。山上で確認してきた受難復活の道を再度弟子たちに予告し「この言葉をよく耳にいれておきなさい」と念を押して伝えられました。よく分からなくても理解出来るときを見越して、受難予告も山上の変貌の話もその意味を悟るための大切な話として伝えられたのです。この変貌の出来事は実はイエスの祈りによって引き起こされた出来事でした。「祈るために山に登られた」とある通りです。イエスにとってまさにメシアの道に進む大きな節目だったのでしょう。ですから姿も「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」し、旧約を代表するモーセとエリヤも到来します。「二人は栄光に包まれて現れ」ました。彼らが去る時には「雲が現れて彼らを覆った」のです。旧約の昔から雲は神の臨在のしるしです。出来事の流れからすればイエスの祈り、モーセとエリヤとの話し合い、雲の現れと天来の父の声「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。つまりイエスは祈りの中でメシアとしての道を父の御心に従って確認し、まさにその御心のとおりに使命を選びとったのです。その祈りの中からの決心に父も御自身の御心に適っているとの応答をされたのです。「わたしの子、選ばれた者(メシアという意味)。(だから)これに聞」け(従いなさい!)。でもこの流れだけでは選び取られたメシアの使命がわかりません。それを明らかにするため「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」と記しているのです。原文では「“エクソドス”について」と記します。これは聖書では出エジプト記(Exodus)の表題です。辞典では①出て行くこと、脱出すること、そこから②死、逝去のことを意味します。それで翻訳では「最期」と表記しています。イエスの人生の最期のことを直接は指しますが、意味としてはメシアとして成し遂げられるところの罪からの脱出を指しています。御自身の命を代償にして人をその罪を贖い、この代償を信じるものに与えられる救い(脱出)を祈りの中で確認していたのです。それは旧約の時代からモーセによるエジプト脱出の出来事で示され、エリヤを代表とする預言によってメシアによる罪からの解放の約束が繰り返し伝えられてきました。人が時代に応じて成長し環境が変化しましても、神の前で罪人であるということには進化も変化もありません。現実に戦争は繰り返され残虐な行為が国家の名前や民族の名前で正当化されているではありませんか。戦争だけではありません。戦争のない国であっても「悔い改める」といった行為がなされたことがあるでしょうか? だからパウロもロマ書の中で「人には弁解の余地はない」「滅び去るものに取り替えた」(だけ)と言ってきたのです。

 

、「その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。」33

 その例証としてペトロは自分でもわけの分からぬ言葉をわざわざここに記録し、伝えられてきました。この理解できないペトロの発言の誤りは大きく二つあります。一つは「ここにいるのはすばらしい」としたこと。もう一つは三つの仮小屋すなわちイエスをモーセとエリヤと並ぶ同格とみたことです。山を下りずに「ここにいる」ことを願うのが人間の考える栄光です。そしてイエスがメシアであるということがわからないことです。私たちを罪から脱出して救うために①輝く姿を捨て、みすぼらしい②人間の姿に変貌をとげ、御子本来の場所である天上の③「ここにいる」ことも捨て、堕落して盲目であるエルサレルで「遂げようとしている最期」に向かって④降りてこられるところに、私たちが敬い崇めるところの真実な「神の栄光」があります。恩師の榊原康夫先生は以下のように記しています。「同じ無理解は、旧約預言者がしきりに語ったメシア的出エジプトの約束を、バビロンからシオンへの帰還という政治的レベルに格下げしてきたユダヤ教会の現世主義に見られます。それはまた、第二次世界大戦後のユダヤ民族聖地復帰を『栄光への脱出』とするユダヤ教にも、あるいは社会的福音と称するキリスト教運動にも通ずる無理解ではありますまいか。人間の根源的罪からの脱出をいつもシオンへの脱出帰国にすりかえる政治的メシア待望-その本山ともいうべき「エルサレム」からの出エジプトこそ、イエスが成し遂げる独自の栄光なのです。」牢屋から逃亡するというのではありません。罪から脱出すなわち解放されることを“最期”と伝えているのです。この最も大切な脱出こそ聖書が“救い”と伝えるものです。私たちはそれを祈り求めているでしょうか?

 

父なる神様、私たちは歴史の中で何度となく滅び去るものを崇めてきました。どうか我らを憐れみ、十字架に現されたあなたの栄光を仰がせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

25/8/24

「収穫の主」ルカによる福音書10章1~20節

序                                        村手 淳 代理牧師

 福音書というものは伝記ではなく物語でもなく福音というものを伝えるために記された書物です。それで福音にも様々な内容、テーマ、教えなどがあって、決して時間順で話しを記したものでありません。その内容やテーマというものをご紹介したくて、私の奉仕では榊原教師の注解と梗概をもとに、特にそのテーマごとのまとまりを紹介しながら福音書を読んできました。近いうちにこの梗概を配布したいと思います。恩師は全体の梗概を大きく三つにわけ、①イエスのメシア性と職務15950、②メシアの教え9511944、③メシア職の完成19452453としています。今朝の9:51「天に上げられる時期が近づくと」と記して前述の②中央段落に入ります。「エルサレムに向かう決意を固められた」とあるようにイエス御自身もこの時からもっぱら弟子に向かって神の国について教育をされます。ご自身のメシアとしての使命と道が明らかになり、それに伴い伝えるべき教えをこのエルサレムへの途上で教育されました。福音書はそれを丁寧にテーマごとに整理して提示しているのです。今朝の聖書箇所はその中の三番目の段落となっています。梗概ではメシアの教えの「a.神の国の使信の意味と受容」というテーマを付けています。これまでと同様に一つにテーマに6つの話が並べられています。①9:51~サマリアでの拒絶、②57~弟子たる者の道、③10章~70人伝道(悔い改めない町への叱責と弟子の幸い)、④10:21~御国を受ける者(幼子のような者)、⑤25~永遠の命を受ける者(善いサマリア人のたとえ)、そして⑥38~神のことばを聞くことの必要(マリアは良い方を選んだ)。以上の話を並べて全体で前述のようなタイトルを付けています。括弧は村手付記。イエスの重要な教えをルカはこの段落に整理して並べたのです。その最初は何と言っても「神の国」の教えです。一般には「天国」と人は言います。しかしそれが意味するところは何でしょうか? 聖書で教えるところの「神の国」とは一体どういうものなのでしょうか? それを教える話として6つの話が並べてあるわけです。日本人の宗教心には天国と地獄というものがあってそれを決定するのは生前の人生の功徳です。そういった他宗教他文化の中にある「あの世」と「この世の生き方」などその関連も含めてこの聖書箇所を比較しながら読んでいただくと少なからず聖書が教える「神の国」についての意味がみえてきます。面白いことにその「神の国」のメッセージを受け入れたのは「幼子のような者」であって「知恵ある者や賢い者」ではありませんでした。更に善いサマリア人のたとえ話では地上の功徳を否定しているかのようです。6つの話を見渡すとサマリアで歓迎されないとか、どこかの町に入り迎え入れられたら・・・逆に迎え入れられなければ・・・。コランジお前は不幸だ。あなたがたを拒む者はわたしを拒むのである。こうした言及には神の国のメッセージに対する受容と拒絶といった行為がつきものです。さらにこの受容と拒絶とは「耳を傾ける」10:16ということを指しているようです。ですから幼子のような者に神がお示しになり、それを見る目は幸いだ。昔の人は聞きたかったが聞けなかった。だから「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」という教えへと導かれます。すなわち「足下に座ってその話に聞き入っていた」となるわけです。善行を積んだり、功徳を頼みにしてきた人生観からはおおきく違うことがわかります。当然喜んで受け入れたいという希求もあれば、こんなこと受け入れられないといった拒絶もあるわけです。

 

1、「そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」」10:2

 サマリアの村に入った時歓迎されず、弟子が「天からの火を振らせて焼き滅ぼしましょうか」と厳しい言及をしたのに対しイエスは戒められました。神の国の使信・メッセージは平和であって裁きではないからです。弟子の派遣でも「まずこの家に平和があるように」と言いなさいと教えました。しかし神の国のメッセージを拒む罪は「陰府にまで落とされる」罪です。聞いても聞かなくともどちらでもいいと言ったメッセージではありません。「多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが聞けなかった」というものなのです。それもそのメッセージは父が子に任せ、子が示そうと思う者にだけ示されます。それが御自身に対して「幼子のような者」なのであって、知恵や賢さを持つ者ではないのです。それもこのメッセージにはメッセージを発せられたメシアの権威がついているのです。「悪霊さえも屈服」し「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」で伝えられたメッセージなのです。二人ずつ派遣するお話の中では72人が派遣されますが、この72はイスラエル12部族に対応した12使徒と同様に、異邦の70民族(創世記10章)に対応した人数と解釈されてきました。特定の選民なのではなくて異邦人を含めたあらゆる人に伝えられる救いの音信だという意味なのです。そのような救いのメッセージをどれほど待ちこがれていたでしょうか。そもそも私たちは神様との間に「平和」など無かったのです。そのことを思い出さなければいけません。パウロは肉の思いは死であり神に敵対し神の律法に従いえないと言いました。(ロマ8:6) 私たちは神様と敵対関係にあったのです。イエスはコラジンやベトサイダの町を叱責されました。ティルスやシドンといった神の裁きにあった町に比して自分たちはましだといったうぬぼれがあったからです。私たちも他者と比較してうぬぼれてはいけません。全く同じように敵対してきたのです。良いサマリヤ人のたとえ話を聞けば明白です。本当に神の律法、御心に従って隣人を愛することができましたか?祭司レビ人と同じではありませんか? 私たちを救ってくれた隣人が誰かいましたか? 神の子であってこの人間の世界では異邦人、すなわちサマリア人のようなイエスという方だけが私たちの隣人に成り得たのではないでしょうか。日本人にはこうした外国人との差別や分断は理解しにくいかもしれませんが。しかし私たちは常に神様の御心に敵対して生きてきました。そうやってしか生きられなかったのです。そんな敵対して歩んできた私たちに神の御子イエスはまさに隣人となって助けてくださいました。この隣人をして「神の国はあなたがたに近づいた」のです。敵のあらゆる力に打ち勝つ権威をもって私たちを悪魔の支配から解放して、昔から神の救いを願っていた人たちが「見たかった」「聞きたかった」神の国のメッセージを告知してくださったのです。「あなたがたは刈り入れまで四ヶ月もあると言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」ヨハネ4:35とイエスは言われました。そうです。人が神に敵対して長い時間が過ぎて神との平和の時を願ってきました。そして今まさに収穫される時なのです! ここで大切なことは神が、あるいはイエスが見ている収穫のタイミングが私たち人間とは大きく異なることです。更に時間だけでなく収穫量の予測も違います。“収穫は多い”だからそれに比して“働き手が少ない”当時のユダヤ人の農耕生活の中で当たり前の予測が、神の畑では大きく違うのです。私たちはまずこの点での信仰の目を養う必要があるようです。収穫は多い!「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」!と言われました。宗教離れが顕著な現代も同様にイエスの目にはだからこそ貴重な穂が見えるのではないでしょうか?

 

、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」」21

 このように時満ちて、つまり満を持して告知された神の国のメッセージですから緊急を要します。だからひたすらに「神の国を言い広めなさい」9:60と教えられます。そして私たちにできることは知恵や賢さを誇るのではなく、また自分の「正当化」でもなく、「幼子のように」「主の足下に座って話しに聞き入る」ことです。主イエスご自身が伝えてくださり、父なる神がただ聞き入るだけの私の名を「天に書き記」してくださることを「喜びなさい」と教えておられます。地上の世界で生きていたように人は召されていきます。だからあの世や天国も地上の行き方で通用できると考えるのでしょう。しかしイエスの教えでは知恵や賢さよりも信じるという愚直な心が鍵となっています。サウルがそうであったように人は自分の持っているカードを使いたがるようです。しかしサウルはそれが間違いであり損失だったと言いました。神の国はただ見たいと願うこと、ただ与えられるものであることの中にあります。信じて耳を傾け、主イエスと聖書の御言葉が語ってくれることを喜びたいと願います。

 

 父なる神様、神の国は近づいたと告知し敵対してきた私たちは安らぎを与えられました。どうか心から喜ぶことができるように導いてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

25/9/28

「偽善のパン種」ルカによる福音書12章1~12節

序 「メシアの教え」段落の二つ目は「神の国と力」というテーマになっています。①11章冒頭113キリスト教的祈祷の意味(主の祈り)、②14~悪霊追放・新時代のしるし(ベルゼブル論争)、③29~イエスの職務の真のしるし(ヨナのしるしとともし火)、④37~パリサイ人、律法学者へののろい、⑤12:1~証人への忠告(偽善のパン種注意)、⑥13~生活の目標(愚かな金持ちのたとえと「思い悩むな、ただ神の国を求めなさい」)、以上6つの話が並びます。冒頭の主の祈りと最後の「神の国を求めなさい」とが対になっているようにも思えます。聖書の神の国という教えにはalreadyyet(すでに・まだ)という両面があります。この段落では明らかに“すでに”到来しているのです。主の祈りはそのことを前提にして教えられています。だから「神の国を求めなさい」と結論づけているのです。ベルゼブル論争でも11:20「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」問題なのはそのことが見えない地上人間界の盲目です。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、そうすればだれでも受け、見つけ、開かれる」9のです。神の国の力は悪霊追放でも明らかなのに「あの男はベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言います。これに対してイエスは「今の時代の者たちはよこしまだ。」だから「しるしを欲しがる」と叱責されます。「ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられない」とは、よこしまへの警告であって神様はきちんとヨナのしるしを示されます。悔い改めにはこのしるしで十分です。問題は神様の側ではなく「目が澄んで」いない人の側にあります。だから「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」35と忠告されます。人の内面的な検証は当時の社会的な尊敬の象徴であるファリサイ人と律法学者にこそ典型的な問題として現れ、メシアは「あなたがたは不幸だ」と叱責されます。「外側はきれいにするが、内側は強欲と悪意に満ちている。」「背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない。」そしてこの問題は時代を問わず繰り返されてきました。神の国が到来している今「そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」51のです。そこで最後に偽善の「パン種に注意しなさい」12:1、「この方を恐れなさい」5、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」15、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」22と注意が並び、最後に31「ただ神の国を求めなさい。」「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」のだからと力強く奨めてくださいます。6つの話を振り返ると神の国が到来しているのにそれを理解できない様々な問題が見えてきます。求道心のなさや父親への信頼のなさ、悪霊に対して仲間は何の力で追い出すのか、結局、空き屋にしかできず前よりも悪くなるのだと指摘します。しるしは十分、むしろ体の中の光のチェック、そして最後に人々への偽善と神への冒涜、自身の貪欲と思い悩み、と並んでいきます。私たちは福音による神の国の希望を仰ぐためにこうした教えを胸に納めながら聞きたいと思わされます。

 もう一つこの箇所「神の国と力」11章~1234節まで、前述の神の国については“すでに”到来しているという信仰で教えがならびますが、緊迫した時代の転換期の中にある危機感がどの話の中にも見られます。⑥愚かな金持ちのたとえでは「今夜、お前の命は取り上げられる」。それに続く「思い悩むな」という教えでは「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ」と“わずかな”生涯をたとえ、「寿命をわずかでも延ばすことができようか」とそのわずかでさえも神の装いを受けていることを指摘します。③しるしを欲しがるよこしまな時代も「今の時代の者たち」と語って、イエス在世中だけのことではなくて御言葉が語られるどの時代にも適用できるように「今」なのです。さらに「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり」と続けています。これは「ニネベの人々は裁きの時」と繰り返されます。つまりこの箇所で語られるお話にはその当時の時代でのことを語られたのではなくて、むしろ新約のキリスト教会の時代だとか、さらには人生上の終活、もっといえば神の御国到来による審判をも含めて、それを先取りにして教えられています。今朝の12章偽善警戒の教えでは神の福音が「言い広められる」とか「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と語って、福音伝道の時代が想定されています。更に124ではキリスト教迫害「体を殺しても」という殉教の時代、128「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間と言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」。つまり現在の態度表明がそのまま「神の天使たちの前」でのこととなります。神の国が既に来ているという信仰は、時代が変遷したり転換して、危機的な状況の中になっていても、そこにも既に到来を見て自らの信仰の立場を表明し、また神の希望を見ているのです。現代も同様に大きな時代の転換期を迎えていると思えます。実のところこの先の見通しが立たないほどに行き詰まりや不安を覚える時代となりました。自然環境も国家間での関係もさらに日本ではこれまでの体制や制度が通用しなくなってきています。宗教、信仰の世界ではその離れが顕著です。だからこそこの箇所での教えは私たちの人生や信仰に大きな励ましと慰めを与えます。

 

1、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」12:2 その上で今朝特に覚えたいのはこのテーマの5つめ「偽善のパン種への注意」です。直前の11章最後にはファリサイ人と律法学者への不幸が語られます。当時の社会では尊敬の対象でしたが、イエスはその問題を「偽善」と指摘します。「外側はきれい」「あらゆる野菜の十分の一は献げ」ます。しかし目に見えない「正義の実行と神への愛はおろそか」なのです。「先祖が殺した預言者の墓を建てる」ことをして預言者を敬いますが、実は「先祖の仕業の証人となり、それに賛成している」からです。「知識の鍵」とは自身の責任を覚えて悔い改めることです。注意点は二つあります。一つは「偽善」、もう一つは「パン種」であることです。外側はよく見えるのです!問題は内側なのです。そして「これこそ行うべきことである」1142と言及して神様の前で本当に大切なことはどこなのかを指摘されました。神の国到来の今、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という神の国の力が発揮されます。福音においては内側の強欲や悪意、先祖の仕業が明らかになってしまうのです。もう一つの問題であるパン種とはイーストキンのことでこれが意味するのは偽善の菌は小さいのですが、膨らませて全体を変えてしまうことの危険です。結局「人々の前でわたしを知らないと言う」姿へと変質してしまうのです。メシアのことを理解できず「人の子の悪口を言う」ことは赦されます。しかし神の国到来で「聖霊」が自分の罪とメシアによる赦しを教えるのです。律法学者の不幸が先祖の罪の仕業の証人であったように、この偽善のパン種を侮ると真実を教えてくれた「聖霊を冒涜」するようにまで全体が膨らむのです。

 

、「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」12:7

 そこで最後に私たちがそのようにならないためにイエス様はえを重ねられました。第一に神の国到来によって地上の人間世界であっても「暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間でささやいたことは、屋根の上で言い広められる」12:3という点です。知らないのは地上の人間社会だけです。「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」8と言い、その逆「知らない」9も言及しましたように「人々の前」と「神の天使たちの前」は一緒なのです。なぜ人は信仰を告白し、働き人たちは殉教までしたのか?その理由がここにあります。信仰者たちは地上にあってすでに神の国にあるからです。第二に「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」ただお一人を除いて心、魂、真実な私には誰一人として「何もできない」のです。イエスは私の一切を握っておられる方を教えられました。「この方を恐れなさい!」この方は雀一羽でさえ「お忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」それほどまでに私たちのことを理解しいてくださるのです。「地獄に投げ込む権威を持っている方」を「恐れなさい」とはこの方の髪の毛までも数えられているほどの深い慈しみのことです。心配することはありません。信仰を貫くことにおいても「言うべきことは、聖霊がそのとき教えてくださるのです。」神の国はそれほどに私たちをしっかりと捉えていてくださいます。 

父なる神様、私たちに聖霊なる神を遣わし、主イエス・キリストとその御国へと導いてくださり感謝します。すでに神の国にあることをいつも教えてください。

 

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

              25/11/23

「思い悩むな」ルカによる福音書12章12~34節

 「神の国と力」というテーマのうちの最後のお話が今朝の箇所です。群衆に対しては「どんな貪欲にも注意を払い、用心」せよ、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という教えが語られます。後半は弟子たちに対して「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」「思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」という教えが語られて二つのセットで構成されています。

 先日新聞に「何を着ようかしら」とかいうタイトルの新刊広告がありました。思わず今朝の御言葉を思い出して宗教批判か聖書利用の哲学書かと思ったら、全く宗教とは関係のないライフスタイルを説くような新刊書でした。「それらはみな世の異邦人が切に求めているものだ」とイエスが言ったように食べ物や装いは時代や環境が変わっても人の変わることのない関心事なのです。

 教えは群衆向けと弟子向けと分かれています。「遺産」相続の話題から「どんな貪欲にも」用心しなさい。なぜなら「人の命は財産によってどうすることもできないから」。つまり持つこと(所有すること)によって自分の命を何とかできると考える誤りを指摘しています。「愚かな金持ち」のたとえを展開してどんなに所有していても結局「命は取り上げられ」てしまいます。更に「お前が用意したものはいったいだれのものになるのか」?つまりその用意したものも自分のものとはならずに取り上げられると言いたいのです。後半の弟子向けの教えでは「命のことで」食物、「体のことで」衣服、別の言葉で「寿命」「装い」などの“心配”を扱っています。「思い悩む」とは(心が分裂)することを意味してこれを戒めています。弟子においては食べること、着ることが些細な悩みではなかったことを覚えなければいけません。それでもこれらを「烏への養い」「野原の花の装い」にみる神の恵みを説いて、悩んでも無力だし栄華を極めたようでも着飾っていないのです。神はこれらの必要をご存じできちんと備えてくださるのです。こうした思い悩みから解放されるためには、神の備えを信じるだけでなく、積極的に神の国を求める心と信仰が大切だと奨めています。そして前後どちらの教えも最後に富と心のことを扱っています。愚か者のたとえでは19「自分に言ってやる」直訳では「自分の魂に言う」「蓄えができたぞ。食べたり飲んだりして楽しめと。」しかし「神の前で豊かにならない者はこのとおり」と結論し「自分のために富を積んでも」「このとおりだ。」つまり「いったいだれのものとなるのか」という問いかけが投げかけられているように命も財も自分の所有とはならず、神に取り上げられて失うのだと言いたいのです。後半は「尽きることのない富を天に積みなさい」「富のあるところにあなたがたの心もある」と結論して神の前での「豊か」を奨めています。こうして二つの話を並べると群衆向けか弟子向けかということよりも命も蓄えも失う貪欲な生き方から解放され、心が分裂するような思い悩みからも解き放たれて神の前での豊かな人生を営めるようにというお話に構成されています。私たちの命とは確かにそれで自分が生きているのですが、財産のような持ち物、自分の所有物ではありません。命や人生は持つこと・所有することに目的があるのではなく、それを与えた神の前で生きることに意味があるのです。旧約のコヘレトの言葉には「神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福でよいことだ。それが人の受けるべき分だ。」5:17神から与えられたものに満足し、神を喜び、感謝することこそ「人の受けるべき分」と教えています。これをイエスは貪欲や思い悩みといった実際的な問題から戒めて教えているのです。

 

1、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」12:15

 愚かな金持ちのたとえは「命」も財も同じ「私の」所有物という誤った考え方があるようです。「命」という言葉には人生も含まれています。「遺産」というものが与える誤解でしょうか?遺産はなぜそれを受けたのか実のところ全く理由がわかりません。その家に生まれたから、その両親の下に生まれたから?持つに相応しい人格や賜物があるわけでもないのです。そこでイエスははっきりと「人の命は財産によってどうすることもできない」と警告します。「有り余るほど物を持っていても」と加えて、「命」が所有するものとは全く別のものであることを印象づけています。このたとえで悟らせたい「愚か」は「これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ」という誤りです。モーセの昔荒野生活でのマナの養いから変わることのない人の愚かさなのかもしれません。この不思議な食べ物は蓄えようとしたら腐りました。毎日に毎日の養いだったのです。もちろん蓄えることがいけないことなのではありません。族長時代にはヨハネが飢饉に備えて食料を蓄えさせました。蓄えで生きているという考えが誤りなのです。この愚かさを悟らせるために「今夜取り上げられる命」と「お前が用意した物はだれのものになるか」という結論が述べられています。欲はほどほどにという欲深さへの戒めでも、自分だけというエゴでも、食べたり飲んだりという放縦の戒めでもなくて、「命」もそのために備える「富」も神様のものなのです。だから「どんな貪欲にも注意を払い用心」せよと教えたいのでしょう。私たちの命を握っておられる神様のもとに「私の魂」を置かなければ「ひと休み」することも「食べたり飲んだりして楽し」むということもできないのです。何もかもを自分の手の内に握ろうとするので「用意した物」にある神の恵みを味うことができないし、まして「財産によってどうすることもできない」。「命」も「取り上げられる」だけになってしまうのです。こうした誤った考えに対して「だれのものになるのか」という問いかけでこの愚かさを悟らせて再考を促しています。弟子向けのまとめでは「擦り切れることのない財布」「尽きることのない富」「盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」という天の富の不動さが教えられて、地上で私たちが用意したり遺産で争ったり、いいえ時には正当な稼ぎではなくて盗んだりして手に入れる富へのすさまじいばかりの貪欲さがいかに愚かなものであるかを教えています。そしてこれを後半では「それらはみな世の異邦人が切に求めているものだ」と言及して貪欲から手にしたものは天の富に比して「擦り切れ」儚く尽き盗人や虫への警戒に「恐れ」続けなければいけないものであることを教えています。

 

、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」12:3334

 「思い悩み」という言葉は心が不安からバラバラになってしまうこと、“分裂”を意味します。この深刻な悩みに対してイエスは烏や野原の花を取り上げてその養いと装いに私たちの視線を向けさせようとしています。ここで私たちは自分の人生を振り返って養いと装いについて自己の無力さを認めなければいけません。「寿命をわずかでも延ばすことができようか」「働きも紡ぎもしない」。果たして私たちは自分の命を本当に自分の力で養ってきたのでしょうか?自分の働きで栄華を極めてきたのでしょうか?家族や周りのおかげ、そして必要に応じて与えられ養われ、装ってくださった方のおかげだったのではないのでしょうか?命と人生には養いと装いがいらないと言っているのではなくて、父はその必要をご存じであり、神の国を求めるという究極の人生の目的のために神はこれらを与えてくださると言っているのです。また富がいけないと言っているのでもありません。何を富とみるのか、その「富のあるところに心もある」と教えたいのです。だから簡単に擦り切れ尽きるような「持ち物は売り払って」「擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と奨めているのです。私たちの地上の人生も神の養いと装いといった神の恵みによって営まれてきました。だから思い悩むのでなく積極的に神の国を求めなさいと伝えたいのです。そしてその神の国は地上の必要を加えて与えてくださるほどに「父は喜んで」与えたいと願っているものなのです。だから神が喜んで与えたいと願っているところを求めるものでありたいと願うのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」Ⅰペトロ1:34

父なる神様、地上の人生に沢山の備えと恵みを与えてくださり感謝します。どうかあなたの変わることのない慈しみを信じてあなたの国を求め続けることができますように。

 

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

「主人の帰りを待つ」

ルカによる福音書12章35~48節         2025/12/28

序 

 951からメシアの教えというテーマで1944まで神の国の教えを中心に6つのテーマが展開されています。

 Ⅲ メシアの教え(9511944

1.神の国の使臣の意味と受容(9511042

 2.メシアの教え・御国とその力(1111234

 3.メシアの教え・御国と審判(12351321)← 本字の聖書箇所

 4.メシアの教え・御国に入る者(13221613

 5.メシアの教え・御国の到来(16141814

 6.エルサレムへの道・弟子たる道と捨てられる王(18151944

今朝の聖書箇所は三つ目のテーマ「御国と審判」の中の最初二つとなっています。①35節から「主人の帰りを待つしもべ」、②41節から「不忠実な管理人」です。この後に③49~「今の時代のしるし・分裂」、④54~「今の時代のしるし・審判直前」、⑤13:1~「今の時代の要求・悔い改めの実」、⑥13:1021「神の国の勝利は必定」と6つの話が並びます。これまでの箇所では神の国はalready“すでに”到来しているものとして教えられましたが、ここからの箇所では御国の完成を見通してyet“まだ”完成していない途上として教えられます。特に上記の6つのお話を総括して見ると、46「予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し・・・」、49「その火が既に燃えていたらと、どんな願っていることか」、58「さもないとその人はあなたを裁判官のもとに連れて行き」、135「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」、7「見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ土地をふさがせておくのか」などどれもこれも審判を思わせる厳しい言及がなされています。神の国はすでに到来しています。だからこそ目を覚まして忠実に用意していなければいけません。メシア到来によって「地上に火が投じられます」49。だから曖昧な関係保持に分裂が生じます。その分裂に今の時のしるしを見て和解に努めなければいけません。他人や社会での人の相対的な比較は意味がありません。「悔い改めなければ皆同じように滅びる」のですから。主人は悔い改めの実を待ち続けてきました。園丁であるメシアのとりなしで土地を取り上げられずに済んできました。その間さんざん「サタンに縛られて」苦しんだのです。神の国は私を「その束縛から解」くために到来したのです。悔い改めの涙は大きな木となって成長し神の国は全体を救いの喜びで「膨れ」させます。聖書が教える神の国にはalreadyyet、“すでに到来”している面と“まだ完成していない”という面があることを前回お話しましたが、時間軸ですべてを理解でない面があります。すでに到来しまだ完成していないので現在はその途上(途中?)というのではないのです。到来したところから完成をも見て取るのです。49節で「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。その火が既に(already)燃えていたらとどんなに願っていることか」とイエスは言及して、本来なら火が象徴する審判が済んでいてくれたらと言いたいのです。しかし済んでいないので「それが終わるまでわたしはどんなに苦しむことだろう」と予告されました。客観的な歴史の時間軸ではなくて、私たち自身の信仰的な目覚めと悔い改めという観点での「すでに」到来しているという点と「まだ」完成していないという点があるのです。審判は未来のことではなくて「今の時を見分け」「何が正しいかを自分で判断」する、まさに人生の途上で今到来して「束縛から解」かれもし、はたまた「主人の帰りは遅れると思い」46「そこから出ることができない」59未来にもなり得ます。そこでこの一連の6つのお話は私たち自身が39「このことをわきまえ」ること、42「時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」という問いかけを自問するようにと教えが展開されています。他人と比較して「災難に遭っ」てない自分に安堵していてはいけません。むしろ私たちはメシアという園丁のとりなしに目を向け、未だに燃え切らない審判の火にメシア御自身が忍耐されているのです。これまでの人生が「サタンに縛られて」きたことを覚えて、神の国到来を希求すべきなのです。

 

1、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」12:37

 今朝の聖書箇所前半は「目を覚ましている」ことが教えられています。別の言い方では冒頭の「腰に帯を締め、ともし火をともして」いる姿勢です。婚宴からの主人の帰りを待つ僕にたとえて教えます。いつ帰ってくるかわからないことを教えています。最後の「泥棒がいつやってくるか」も同じです。泥棒のほうは目を覚ましていないと「押し入られて」しまうという意味で使われています。

いつ帰ってくるかわからないという事態が夫婦や家族で起きれば、怒り心頭、許されることではありません。電話ぐらいして頂戴、連絡ぐらいするのは当たり前! でもここでは主人や泥棒に譬えられるのはメシア・イエスであって、イエスはここに目を覚まして信じて待つことの知恵とご計画を持っておられるのです。連絡や予告があれば誰も待つことなどしないからです。家族などではなくて自分を救いにくるメシアだからこそ、この意識が大切なのです。

驚くべきは真ん中のお話です。目を覚ましている「幸い」とは、主人がじきじきに僕である私たちに給仕してくれるという異例な対応を教えています。メシアは私たちの罪を御自身の命で贖ってくださったので、まさに私の主人すなわち「わが主」であります。しかしこのメシアはそれだけではなくて主人でありながら僕の私たちを「食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」のです。そしてメシア独自の食事、「わたしの食事を味わう」1424食卓を提供されるのです。ここに地上の世界とは異質な神の国があるのです。日常とはちがう特別な食卓、特別な恵みを味わい、受けることができるチャンスをイエスは考えていてくださるのです。

 

、「主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。」」12:42

 この「目を覚ましている僕」の話を聞いたペトロはこれが一般信徒用なのか、自分たち使徒などの弟子用なのかを質問します。しかしイエスは「いったいだれだろう」と返されました。すなわちどちら用でもなく使徒であるあなたがたは「賢い管理人」でありなさいとも言及されません。だれもが自分のこととして考えなければいけません。それも自分のそうだと安堵するのでもないのです。もしかすると自分も不忠実な者たちと一緒かもしれないと恐れながら考えるところに、自己吟味が生じるのです。この吟味することを教えたかったのでしょう。吟味は様々になされます。果たして主人に対して「忠実」であろうか? 召し使いたちに対して「時間どおりに分配」してきただろうか?「主人の思いを知りながら“準備”」をしてきただろうか? そして何よりも問われるのが「主人が帰ってくる」と“いつも”信じてきただろうかということです。「主人の帰りは遅れると思う」というのが反対の理解であって、結局の所遅れるとは帰ってはこないと思っていることです。この思いと判断がわたしたち僕を堕落させます。「すべて多く与えられた者は多く求められ、多くを任された者は、更に多く要求される。」これを判断できるのは「与えられた本人」だけです。つまり「いったいだれであろうか」とは自分を吟味すること、そして自分は大丈夫と安堵するのではなくて、多く与えられ任されたにもかかわらず十分に答えられていない自分の不忠実さを嘆きこと。それが今すぐにでも帰ってくるであろう主人に立ち帰ろうともうながす契機となるのです。

 ちなみに目を覚ましていることも準備をすることも通常なら私たちが地上の仕事や生活でやっているように「いつ」39がわかっていたほうが確実です。わかっていればこそ目を覚まして準備できるように思われます。しかし「いつ」は一切教えない!「信じる」ということにおいては、その時刻がわかれば「待つ」ことはできないのです。信じることが弱い私たちはたちまち堕落するのです。御自身の帰りを御自分の主権の範疇におかれて開示されなかったのは、私たちが堕落せずに救い主を信じて待つためです。平素の信じる姿勢こそが幸いな生き方をするコツなのです。

父なる神様、私たちはなかなか自分のこととして備え、待つことができない者です。どうかあなたの約束の言葉を覚えて、平素からあなたの帰りを信じることができますように助けてください。 

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

(村手 淳)

 

2026/1/25村手

        「安息と解放」

ルカによる福音書131021

 梗概(新聖書注解いのちのことば「ルカ」榊原著抜粋)

 三 メシアの教え 9511944

   c メシアの教え・御国と審判

1.主人の帰りを待つしもべ 123540

2.不忠実な管理人 124148

3.今の時代のしるし・分裂 124953

4.今の時代のしるし・審判直前 125459

5.今の時代の要求・悔い改めの実 1319

6.神の国の勝利は必定 131021

序 “御国と審判”という三つ目のテーマで展開される6つの話の中の最後となります。いわばこのテーマのまとめとして今朝の箇所は提示されました。1235から「腰に帯を締めてともし火をともしていなさい」と勧めます。42「忠実で賢く」あれ、49「私が来たのは地上に火を投ずるためで」あって、だから「平和」よりも「分裂」が生じる。その分裂に御国の到来のしるしを見て、57「何が正しいか自分で判断し」「途中で仲直りするように努めなさい。」「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」あくまでも今は「園丁」であるイエスのとりなしで保たれているのです。一週ごとに安息日が定められて神を礼拝してきたように、安息日だからこそ「束縛から解いてやるべき」時が来ています。こうした御言葉の流れを振り返りますとメシアによる神の国は既に到来していることが前提されています。目を覚ましているのも、忠実であろうとすることも、御国到来によって生じた信仰の覚醒によるものです。この御国は「わたし(イエス)が来た」ことによって到来し、それも一人一人の良心と信仰に問いかけて悔い改めを迫っています。「平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」51というイエスの言葉は、私たちの安直な期待をたしなめて神の前に立たせるものです。「分裂」、現代は“格差”が世界中で顕著な問題となってきて、それこそそれを背景に紛争をはじめとする力による実効支配がまかり通るようになっています。こうした対立や分裂は和を好む日本人には印象が悪いのですが、御国の到来はメシア・イエスによって到来し、私たち一人一人に問いかけ悔い改めを迫っています。印象は悪くとも本当に正当で人としての尊厳が守られるような和でしょうか?逆にイエスの言葉は厳しくとも悔い改めることを一人一人に迫る点で真実で丁寧です。そこで私たちは既に到来したメシアの呼びかけに目覚めた者としての

「幸い」を覚えなければいけません。37「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」38「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」つまりいつでも「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」43「主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」と繰り返し語り、「主人の思いを知りながら」とか「すべて多く与えられた者」と語って自己の幸いを悟って「僕」であろうとすることを促しています。世の中の人々はこうした呼びかけに安直で事なかれ主義の「平和」をのぞみ、世渡りをするために「時を見分け」ますが、「和解する」こと58、「悔い改め」5の実を結ぶことには見向きもしません。それは「自分で判断」57しないからです。そしてその結果が信仰の有無にかかわらず安息日の礼拝に現れてくるのです。安息日礼拝でのイエスの癒やしの業に一方では癒やされ「神を賛美した」「群衆はこぞってイエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」のです。しかし他方で会堂長のように「腹を立てた」人たちがいました。この人々はイエスに「偽善者たち」と呼ばれて叱責され「反対者たちは皆恥じ入」りました。まさに主による業をどのように理解するかによって、その心の思いが明らかにされて分裂となって現れました。最後にイエスは「神の国」を「からし種」と「パン種」に譬えられて、地上の国や世の中とは全く異質な大きさと力とをお教えになりました。

 異端宗教と代表的な政治政党とのつながりが問題となりましたが、どちらも正されそうにありません。当時の社会情勢や環境は当然現代とは違いますが、この“御国と審判”というテーマで構成されたメシアの教えは混濁した現代を生きる私たちにも鋭く悔い改めを迫り、聖書信仰を与えられていることの幸いと希望とを教えています。政治も宗教も世俗にまみれて「自分で判断」することができません。イエスは現代でも同じように「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることを知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」「偽善者たちよ、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と呼びかけられるのではないでしょうか?

 

1.「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」1316

 安息日礼拝に来た腰の曲がった女性にイエスが「婦人よ、病気は治った」と言われて手を置いて癒やしました。「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て」ます。結果としてイエスの業と叱責に彼らは「偽善者たち」「反対者」とされます。彼らの主張と腹を立てた理由は「働くべき日は六日ある」という信仰にあります。これに対してイエスが叱責されたのは「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」というものでした。これは単なる主張や信仰の違いではありません。彼らは婦人を癒やせなかったし、逆にイエスはご自身が語ったとおりに治したからです。彼らが主張する「働くべき」という義務と責任を指す「べき」は結局何もされていなのです。ここにイエスが言う「偽善」があります。治すことはできなくとも何らかのケアなりサポートなりをしていたのなら、この時のイエスによる癒やしの業を本人と一緒に喜び「神を賛美」していたことでしょう。結局この反対者たちの「べき」は偽善でしかないのです。イエスはこの叱責をただ叱りつけるのではなくて丁寧に自分の行為に置き換えて指摘しています。「あなたたちはだれでも、飼い葉桶から解いて水を飲ませに引いていくではないか」。彼女は労働ではなくて「サタンに縛られて」きたのです。さらに自分の家畜は一週間ごとの「安息日」には必ず解くのです。彼女は「十八年もの間」縛られてきました。最後に「牛やろば」に対して彼女は「アブラハムの娘なのに」苦しんできたのです。どちらが大切でどちらが大変だったでしょうか? その苦悩はどれほど長く苦しいものだったのでしょうか? 思いやって想像すればわかることです。これがわからないのは、一つに神ならざる私の「べき」を正義、トランプの言う常識として主張してきたことにあります。二つ目にこの女性と自分とを区別してきたこともうかがえます。それこそ「災難にあったのはほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだ」132と差別してきたのです。逆にそうでなかった自分を正当化してきました。最後に「安息日」をわきまえていなかったからでもあります。「目を覚まし」「思いがけない時に帰ってくる」主人を迎える日こそ「安息日」であり、礼拝の時であるべきでした。

 

2.「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」1319

 ルカ福音書はこの一連のテーマの最後にイエスが続けざまに神の国のたとえ話を語ったことを記載いたします。私たちに神の国の驚くべき業(大きさにおいても力においても)を教えたいのです。からし種とパン種、どちらも小さいものの代表です。からし種はどんな種よりも「小さい」のです。マルコ431「土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが」。しかし「空の鳥が巣を作る」ほど大きく成長するのです。これは世界的な広がりを指します。パン種は全体を変質させます。この変質は良い意味でも悪い意味でも譬えられますが、ここでは「三サトン」約40Lの粉の(一部ではなくて)「全体」を膨らませる圧倒的なパワーをたとえています。どちらもそうですが、誰もが侮るほど小さな存在なのです。しかし完成した暁には「空の」鳥が巣を作り、「全体」がこれによって「膨らむ」のです。現状は138「今年もこのまま」毎度のことで変わらない、神が到来するなら「平和をもたらす」はずなのに「分裂」ばかり、そう考えて神の国とメシア・イエスの言葉を侮ってはいけません。「帰って来て戸をたたく」のを待っている時、すなわち私たちの「思いがけない時」にこそ到来されるのです。あなたはその主人のノックに目を覚ましていますか?

 

 父なる神様、どうか真実な安息が来ることを信じて、主イエスを信じて待つことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 

2026/2/22村手

            「神の国の招き」

ルカによる福音書14章1~24節

梗概(新聖書注解いのちのことば「ルカ」榊原著抜粋)

 三 メシアの教え 9511944

   d メシアの教え・御国に入る者

1.      締め出される者 132230

2.      神に捨てられる都 133135

3.      宴会から締め出される客 14124

4.      塩味を失った弟子 142535

5.      悔い改めた罪人 15132

6.      忠実な管理人 16113

※上記の区分からおわかりのとおり長短がかなりあります。

序 

「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」1322という一句をもって次の話題に入ります。それが「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」1323という問いです。これは入国の多少で自分の可否を図るこの世の関心のあり方を示しています。イエスはこの問いには答えていませんので、この関心の示し方自体が神の国には通用しないのでしょう。147「神の宴会の席に着く」から招かれて席に着く話では結局、1424「招かれた人の中で、わたしの食事を味わう者」なしと言われてしまいます。また1434まで進むと塩気を失えば「外に投げ捨てられる」とまで。そして15章では見失った羊のたとえ話に放蕩息子のたとえと続きます。注解者の梗概では1322から「メシアの教え・御国に入る者」というテーマを付け、①13:22~締め出される者(狭い戸口から入るように)、②31~神に捨てられる都(「エルサレムよ、何度集めようとしたことか」)、③14章~宴会から締め出される客(水腫の癒し、上席を選ぶ客と招く者への教え、招かれた者たちの断りと主人の招き)、④25~塩気を失った弟子、⑤15章から悔い改めた罪人(見失った羊と放蕩息子のたとえ)、⑥16113に忠実な管理者(不正の管理人の抜け目のないやり方をほめる)という段落の分け方をしています。こうした話を並べて神の国の入国に関する疑問への教えをなしています。人間的には有利に見える者が締め出され、ふさわしくないと思われた者が迎え入れられるというどんでん返しがいくつも見受けられます。ファリサイ派の敵31141152を意識したものと、弟子向け142516章、その他一般への教えなどが混ざっていて結局話された相手に関係なく内容のほうから聞き取るように記されているのでしょう。一方では地上的にはふさわしくないと見られた者や一方的な救いや招きによって入国した者を言及します。他方では招かれていたのに締め出される者たちが描かれ、この両面のお話から私たち読者は自己吟味を求められます。そして自分に対する神の国の招きの意味を考察しなければいけません。

 テーマの冒頭の設問1323「少ないのでしょうか」という問いに、イエスは入国の多少ではないこと、むしろ主人が「戸を閉めてしまってからでは」遅いという意味で「狭い戸口から入るように努めよ」と教えます。それも「ご一緒に食べたり」という地上の縁故は役に立たず、「預言者たちを殺し」てきたことを悔い改めること、すなわち「集めよう」としたことに「応じる」ことが入国の鍵であって、東西南北どんな国、民族も問われることはありません。逆に「エルサレム」であるという誇りは「後となり」「投げ出される」ことになりうるのです。水腫という病気は呪われたものという認識から食事の席に“招かれざる者”が同席し、これをきっかけに「人々はイエスの様子」をうかがいます。イエスは1311節で語られた「病の霊に取りつかれている女」と同様に「すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか(いやいない!必ず引き上げるだろう!)」と教え、「神の国の宴会」への招きの観点から地上の交流のあり方を正されます。結局はこうした常日頃の交流のあり方が「わたしの食事を味わう者」となるかどうかに繋がってきます。ここでは更に弟子たる者の条件を教えて、御国への入国には生涯をかけて取り組むべき働きであること、それでも惜しくないほどの道であることを積極的に教えています。その理由は招かれるのが私たちの信仰や神の国の値踏みにあるのではないこと。そうではなくて私というたった一匹の羊のために捜し回ってくださる羊飼いの愛こそが悔い改めの根拠であるからです。私たちの地上人生はまるで放蕩息子のようなものだったのです。地上の「この世の子ら」が不正にまみれた富で「賢くふるまう」ように「光の子ら」である者たちも「会計の報告」を出すときが来ることを思って地上の「不正にまみれた富について忠実」であって、これで「友達を作り、永遠の住まいに迎え入れてもらえる」ことに使ってしまい、金ではなく神を愛して神に仕えるべきなのです。

 

1、「人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。」12

 「招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」7

 「宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。」1718

 今朝の箇所では安息日の宴席での癒しの業が16節まで。宴席での教え二つ714節まで。神の国の宴席への拒絶と想定外の招待1524節で教えられます。三つのお話が別々に語られるというよりも、これらを全体で聞き取るべきだと思われます。安息日ごとのファイリサイ派の交流や議員の家の宴席、安息日礼拝を通して「神の国で食事をする」幸いといったものを当時の人々は自らの誇りあるいはステータスとしていたのでしょう。しかしそこにイエスという独特な人物が招かれ、折しも(直訳)「見よ、ある人が水腫で」という招かれざる人物の構図ができたのです。この通常ではあり得ない構図からイエスは一連の教えを語ります。その結果イエスからすれば「招かれた人たちの中でわたしの食事を味わう者」なし!という厳しい警告を受けることになりました。それは一つに「水腫」を神に呪われた結果と見て招きもせず、(※4「いやしてお帰しになった」ことから招待されていないことがわかります。)また「すぐに引き上げてやらない」無関心が見られたからです。すでに前回でも同じ態度を示していました。ここから二つ目の理由と教えが展開されます。すなわちこうした安息日礼拝の宴席には「お返しできない」者こそ招待すべきなのです。逆を言えばこの時の構図はお互いに招き、招かれという当然の報いを期待した交流だったわけです。「上席を選ぶ」のも同様に、“招待された”のだから自分には当然招待されるだけの身分と報いを期待していたわけです。最後にこうした宴席での交流センスが結局は神の国で食事をするということから、なぜ外れたかという理由を盛大な宴会のたとえで教えます。畑購入、牛購入、結婚といった世俗の関心事が優先されたのです。それが安息日や礼拝、交流といったことにも当たり前のようになったのでしょう。

 

、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」1314

 こうした一連の教えに関連して、私たちは安息日礼拝や神の国への招待を見つめ直しておきたいのです。そもそも水腫どころではなく罪人、大罪人だったのです。私たちもまた同様に「落ちた」ところから「引き上げて」もらったのです。それもその救いにどんな「お返し」もできないほど神の前で貧しかったし、またお返しも感謝もしてきませんでした。「貧しい」は繰り返し言及しています。そんな私を「盛大な宴会」に招き、主人は周到な「用意」をしてこられました。しもべまで遣わしてこられました。病いを癒され喜んだことでしょう。そしてその喜びこそが、安息日に約束されてきたものです。まさにメシアが振る舞われる「わたしの食事」です。招待しても「まだ席がある」ほど多くの慰めと喜びを回復できる宴席なのです。私たちは日曜の礼拝がメシア・イエスによる安息日であることをいつも覚えておきたいと思うのです。この喜びと慰めを思い出し、覚え、喜び、感謝し、神を賛美することこそ、神様を礼拝することなのです。

父なる神様、私たちもかつては落ちた罪から御顔を仰ぐこともできず、ただ憐れみによって引き上げていただきました。どうか礼拝ごとのあなたの招きに救いを思い起こさせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

2026/3/22村手 淳

    「罪人が悔い改めれば」ルカによる福音書15章1~10節

 

梗概(新聖書注解いのちのことば「ルカ」榊原著抜粋)

 三 メシアの教え 9511944

   d メシアの教え・御国に入る者

1.      締め出される者 132230

2.      神に捨てられる都 133135

3.      宴会から締め出される客 14124

4.      塩味を失った弟子 142535

5.      悔い改めた罪人 15132

6.      忠実な管理人 16113

※上記の区分からおわかりのとおり長短がかなりあります。

 聖書注解者は「御国に入る者」というテーマで6つほどに区切るのですが、神の国で地上の秩序がひっくり返るモチーフは16:19以下の金持ちとラザロの話にも描かれるのでこのあたりの段落分けは明確に線引きできるものではないようです。むしろテーマが少しずつ進展していっていることを読者は悟らなければいけないようです。「救われる者は少ないのでしょうか」1323という人間の疑問に対して、数の多少ではなく与えられている時やチャンスの点から語り、それも縁故ではなく神に立ち帰る「悔い改め」すなわち「何度集めようとした」ことへ「応じる」ことこそ「狭い戸口から入る」という意味でした。それに続く安息日での水腫の癒しのお話では安息日が本来神からの約束を指していたように「神の招き」というものを招かれざる水腫の人と同席したこと、またその癒しからイエスはこれを正されました。神の招きというものは招かれた側の特別な立場を敬ったり、お返しを期待してではなくて、招く側の恵みを一緒に喜ぶためになされるものなのです。だから上席に着いてはいけないのも「あなたよりも身分の高い人が招かれており」と語られますが、これは「身分が高い」のではなくて、神の恵みを高く現す人のことを指しています。16章に紹介されるラザロは地上の生涯をただひたすらに貧しく生きた人です。しかし天の宴席においてはアブラハムのそばなのです!地上の身分や働きなどではなく地上に生きている間において報われなかった者たちがきちんと報われ、それによって神の恵みが讃えられるようにと宴席に招かれるのです。問題は神の恵みを意味する招きにあるのではなく、その恵みを理解せずに世俗のことを優先して断ってしまう私たちの側にあるのです。その意味で「狭い戸口」の狭さは「戸を閉めてしまってから」という時間だけのことではありません。25節からの「弟子の条件」という記事も「腰をすえて計算しない者がいるだろうか」2831と読者に問いかけて先を見通して考えることを勧めています。この恵みを意味するところの神の招きを更に詳しく教えようと15章から失ったものを捜す二つのたとえ話と放蕩息子の譬えが展開されます。なぜ神は御自身の恵みをもって私たちを神の国へと招かれるのでしょうか? すでに14章の宴席への招待についての教えで、地上の世界ではお互いになにがしかのものを期待して、招待したり招待されたりするのですが、神の国への招待ではそうしたものがないことを教えておりました。神の国ではただただ宴席と食事にあずかるばかりであって、お返しなどありません。そもそも私たちはそういう招きというものを理解できるでしょうか?今朝の冒頭二つのたとえ話はこの点について考えさせられるのです。

 

1、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。」4

 今朝の聖書箇所は15章前半だけですが、内容的には後半の放蕩息子の譬えを加えて一つの教えに読者を導きます。そこで読者はこの三つの譬え話を聞きながらその中で繰り返される問いかけに耳を傾けることになります。一つ目に「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。二つ目が「その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」そして最後に理由と問いかけを弟と兄とにします。「もう息子と呼ばれる“資格”はありません。」に対して「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と言い、兄に対して「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と言って、これは問いかけなのか断言なのか分からないセリフでたとえを閉じます。つまり読者には兄の立場に立ってこの問いかけの言葉が残るのです。こうして私たちは地上の世界の常識的な判断から、本来ならそんなことを考えもしないし放蕩息子の譬えでは“当然資格などない”と言いたいところを改めて考え直すのです。譬えを話されたイエスのお考えや、その譬えでそれとなく想像できる父なる神という方の御心が私たちの想像するところとは違うのだということを諭されるのです。

見失った一匹の羊を捜すお話では迷子になった羊を捜すことにあまり異論はありません。むしろ百匹持っていて「九十九匹を野原に残して」というところに疑問を感じます。結論で「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人」と言及してこれが全体か一人かの問題ではないことを示します。なぜなら「悔い改める必要のない九十九人」すなわち、そんな人いないからです。明らかにこれは自称義人への皮肉です。「一匹」は数の比較ではなく羊への憐れみの深さを意味しています。これに続き無くした銀貨の譬えでは同じ失ったものでありながらも主題は無くした「女」のほうにあり「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜す」という捜す側の執拗なまでの思い入れを教えています。銀貨の値打ちとか10枚の内の一枚だけという数はここでは全く考えられていません。捜す者にとって無くしたということだけが念入りに捜す理由であり、見いだした時の喜ぶ理由でもあるのです。こうして神様にとって「一人の罪人が悔い改める」ということが比較して相対的に量るようなことなどではなくてただただ「大きな喜びがある」というものであることを教えます。

この譬えでは一見数の比較や一枚の銀貨という価値などを持ち出して語っていますが、それを考慮して考えるならば、捜したりはしないのです。つまり私たちの日常の常識的な価値判断ではないのです。しかしあえてそれを持ち出すことで、神が私たち一人一人をどのように認識しておられるのか、それがどれほど強く、どれほど深いものであるのかを教えたいのです。

 

、「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒いる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。』」3132

 そこで最後にこの「大きな喜び」を伝えるために放蕩息子の譬えをお教えになったのです。放蕩のかぎりをつくした弟が父のもとにいたことの恵みを思い起こして帰ってくる姿を描写します。それを迎えて祝宴を始めたことを知った兄の妬む姿も描写します。思い起こして帰っては来てもそれを迎えたのは父です。「憐れに思って走り寄って首を抱」く父に救われたのです。それを妬む兄は父と一緒にいながらも弟と同様に失われています。兄もまた「友達と宴会」したいと願い、父の思いを共有することもなく、ただ奴隷のように「仕え」てました。そこで兄弟それぞれ立場を違えながらも父は二度同じ言葉で締めくくります。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」2432節。父なる神が一人の悔い改めに対して天に「大きな喜びがある」と言われる理由は、991という比較ではなく、銀貨10枚の内1枚という価値にでもなく「死んでいた、いなくなっていた」ということへの悲しみと「生き返り、見つかった」ということへの驚くべき救いにあるのです。私たちの日常生活ではこんなことをしませんし思いもしません。しかし人生を通して家族や神の存在ということにおいて、比較や価値では測れないものがあることを私たちは知っています。イエスはそのことを思い起こさせたかったのではないでしょうか?

 

 父なる神様、失うという悲しみを覚えます時、私たちは父と御子がどれほどに私たちへの愛情を注いでおられるかを思い起こします。どうか私たちが人生をかけてあなたの元に立ち帰ることができるように助けてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

              2026/4/26村手

                「福音が告げられてから」              ルカによる福音書16章14~31節

 

梗概(新聖書注解いのちのことば「ルカ」榊原著抜粋)

 三 メシアの教え 9511944

   e メシアの教え・御国の到来 16141814

1.      金持ちとラザロの逆転劇 161431

2.      教会役員への警告 17110

3.      10人の重い皮膚病患者のきよめ 171119

4.      神の国はいつ来るか 172037

5.      不正な裁判官とやもめ 1818

6.      義人と取税人 18914

※前の段落と同じように長短がかなりあります。

 伝統的な聖書注解書のテーマに沿ってお話をしております。ルカ福音書中央段落9511944をメシアの教えとテーマし、その中に6つの段落分けをしてきました。今朝の箇所はその5番目で「御国の到来」としています。金持ちとラザロの逆転劇143117章では教会役員への警告、1711~は10人の病人の癒し、20~は神の国はいつ来るか(簡潔に言えば見える形で来ない、あなたがたの間にある)、18章では不正な裁判官とやもめ、18:9~は義人と取税人と、これまた6つの話が並びます。とりわけ「御国の到来」とテーマしたのは前段落から、より顕著に終末的などんでん返しが続くからです。この世と違う「神の」国の驚きが描かれます。貧乏人ラザロ、病気を癒され戻ってきた外国人17:18、取り合おうとされないやもめ18:7、遠くに立つ徴税人1813などが神様に受け入れられます。逆に金持ち16:191623「陰府でさいなまれ」、17:7僕であるあなたがたは1710「取るに足りない僕です」と言いなさいと命じられます。1810ファリサイ派の人は(9自分は正しい人間だとうぬぼれて)それゆえに受け入れられません。神の国とは「福音が告げ知らされ」るという仕方で既に到来をしています1616。だからそれが確定して26節「わたしたちとお前たちの間には大きな淵」ができ「渡ろうとしてもできないし、越えて来ることもできない」となる前に、162930節「耳を傾け」「悔い改める」174「赦してやりなさい」5「信仰を増す」188「信仰」、1710「しなければならないことをしただけ」という謙遜、1718「神を賛美するために戻って来」ること、1813「憐れんでください」という「へりくだり」が求められます。警告として1615「人に尊ばれるもの」1720「見える形」、1727「食べたり飲んだり」といった世俗、189「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」といったことが退けられます。

 

1、「そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」」1615

 今朝の箇所の最初に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」14とあります。現代でも聖書の話、キリスト教という宗教に対して同じような態度は時代を問わずありますし、世俗化している現代は一層強くあるように思います。面白いことに直前の1613では「神と富とに仕えることはできない」と断言しています。金に執着するファリサイ人があざ笑うとすぐに「人に尊ばれるものは神には忌み嫌われるものだ。」とイエスは返されます。お金と人に尊ばれるものには相通じるものがあるのです。金持ちであるということが人に尊ばれるということになるのです。この点で神と富との両者に仕えることはできないし、人に尊ばれるものは神には忌み嫌われるのでしょう。聖書の中のファリサイ派と世俗があざ笑いますのは「自分が正しい」ので「金」が着いてくると思っているからでしょうか? 真相がどうであれ「金に執着」すること、「自分の正しさを見せびらかすこと」に熱心であることは間違いありません。イエスの言葉はそれを真っ向から戒めるものとなっています。そして驚くべきことに「神はあなたたちの心をご存じである」のです。現在も世界ではまだ戦争が続いています。アジアの他国には軍事力による人権侵害も圧政も継続し相変わらずです。そのすべてにおいて「正しい」が主張されていますが、とてもそれが「正しい」とは思われません。人々の生活や命よりも金という利権が優先されているからです。金や人が“尊ぶ”ということの正体を私たちは見極めなければいけません。だから「神はあなたたちの心をご存じである」というイエスの言及は理屈ではない大切な教えです。真実を見極められる神にとって「人に尊ばれるものは忌み嫌われるもの」なのです。だから私たちは神の国が「福音と告げ知らせる」という形で到来していることを侮ってはいけません。神は“心をご存じなので”「福音」という知らせを“告げ知らせる”という仕方をとっておられるのです。悔い改めさせるためです。裁きを宣告するのでもなければ福音でただ慰めているだけでもありません。

 

、「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力づくでそこに入ろうとしている。」16

 「ヨハネの時まで、それ以来」とあると何か時代が大きく転換したように思い「律法と預言者」が意味する旧約聖書が終わったように誤解されますが、そうではありません。 「律法の文字の一画がなくなるよりは天地が消え失せる方が易しい」とあるようにむしろより厳密な意味で聖書の言葉が成就したと言いたいのです。離婚一つとっても罪とされ、神の正しさが「福音」において明瞭になりました。当然これに反対する「自分の正しさ」は退けられます。今まで見せびらかして人に尊ばれてきたものの本当の正体は、神の国の福音においては退けられるのです。そこで金持ちとラザロのたとえ話を持ち出して人の評価と永遠の評価の見事な逆転を絵のようにお教えになったのです。大切なことは逆転そのことにあるのではなくて、たとえ話後半の兄弟5人へのラザロ派遣のお願いにあります。地上の人生において「金持ち」であることや「葬り」をしてもらう人の尊敬も死後の運命には関係がありません。それもその運命では、もはや大きな淵を渡って越えて来るという変更はありません。「生きている間に良いものをもらっていた」のです。兄弟たちも同様に「モーセと預言者がいる」と言われる御言葉メッセージを受けていました。この事実に気づいて「耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があってもその言うことを聞き入れはしない」のです。神の国の福音は律法と預言者が指摘してきたように、神の言葉の正しさと私たち人間の罪をずっと教えてきました。国の主張も政治家の言葉も現代は時代の状況でいともたやすく変わります。しかし、律法と預言者の言葉は一画もなくなることなくその通りに成就してきました。正しさを見せびらかし、人に尊ばれる・見えるところの正体は、神の言葉で明確に指摘されてきたのです。何も福音の時代になってどんでん返しが起こったのではありません。旧約の昔から神の評価と人の評価は大きく違っていてそれを単刀直入に警告してきたのです。神の国の福音はその御言葉に聞いて「自分の正しさ」ではなく自分の「心」を吟味するものに、罪の赦しと神からの平安を約束するものです。だからその御言葉に聞き「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」1813と願う者は、この福音を聞いて「力づくでそこに入ろうと」するのです。他人と比較して罪人でないことを感謝するのではなく、自分の正しさを主張するのでもなくて(すなわち18:1112「わたしはほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」という姿のことです)、自分の心を御言葉によって正すのです。これがファリサイ派の人とならんで出てくる「もう1人の徴税人」です。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」、この姿と理解こそ求められるものなのです。聖書の御言葉に耳を傾けるとはまさにこの心と向き合うことなのです。「だれもが力づくで入ろう」という熱心は一体どこから生まれてくるのでしょうか。そんな国が地上にあるでしょうか?「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められる」という福音こそ私たちの希望なのです。私たちは自己の願望で信じているのではありません。憐れみを神に請うているのです。

父なる神様、あなたの言葉こそ真実です。どうか自分の心に向き合いながら、あなたが約束してくださる御国を信じることができるように導いてください。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。