ガラテヤの信徒への手紙説教16       主の2019519

 

わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。

 

 

 

ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。

 

 

 

すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

 

 

 

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。

 

 

 

なぜなら、次のように書いてあるからです。

 

「喜べ、子を産まない不赴任の女よ、

 

喜びの声をあげて叫べ、

 

産みの苦しみを知らない女よ。

 

一人取り残された女が夫ある女よりも、

 

多くの子を産むから。」

 

 

 

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けいれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ、女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人にならないからである」と書いてあります。

 

 

 

要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。

 

 

 

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

 

            ガラテヤの信徒への手紙第421節-51

 

 

 

説教題:「自由の身の女から生まれる」

 

今朝は、ガラテヤの信徒への手紙第421節から51節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

パウロは、割礼を受けてユダヤ人となり、ユダヤ律法を守りたいと願っているガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに対話しようと呼びかけています。

 

 

 

対話するためには同じ土俵に立たなくてはなりません。そこで、パウロは彼らに旧約聖書の創世記1621章のアブラハムの相続の物語を要約して話しました。彼は女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルと自由な身であるサラから生まれた約束の子イサクとを対比し、彼らに律法の奴隷となるより、約束により自由を得る方が良いと説得しているのです。

 

 

 

42122節のパウロの対話の導入の御言葉を見てください。「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。

 

 

 

パウロの対話の前提は、この手紙の445節の御言葉です。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。

 

 

 

この御言葉を起点として、パウロは、「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち」と呼びかけ、「あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」と、彼らに問いかけて対話しています。

 

 

 

十字架のキリストが彼らを神々の奴隷状態から解放してくださいました。しかし、彼らは再び割礼を受けてユダヤ人になり、律法を守り、その奴隷になろうとしているのです。それゆえパウロは、彼らの誤りを女奴隷ハガルから生まれた子と自由な身の女サラから生まれた約束の子イサクとの対比で気づかせようとしているのです。

 

 

 

パウロは、彼らに「あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」と質問し、アブラハムの二人の息子の話、すなわち、旧約聖書の創世記1621章のアブラハムの相続の物語を要約して語り始めるのです。

 

 

 

パウロが21節で記している「あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」という文章は、モーセ律法の諸規定のことを述べているのではありません。旧約聖書のモーセ五書のことです。すなわち、旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書です。

 

 

 

このパウロの文章には、彼らが聖書の御言葉を聞いて、正しく理解し、彼らの誤りを悔い改めてほしいという、彼の思いが溢れています。

 

 

 

パウロは、モーセ五書の中の創世記1621章を要約して、こう話し始めます。「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。(22)

 

 

 

アブラハムの二人の息子とは、イシュマエルとイサクのことです。イシュマエルは、アブラハムの妻サラの女奴隷であるハガルという女から生まれました。イサクは、アブラハムの妻、自由な身であるサラから生まれました。

 

 

 

更にパウロは、続けて2324節前半で次のように述べています。「ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。

 

 

 

パウロは、彼らにパウロがアブラハムの二人の息子について話す真意を伝えようとしています。

 

 

 

女奴隷から生まれた子は「肉によって生まれた」のです。自由な身の女から生まれた子は、「約束によって生まれた」のです。前者は、自然の身体的プロセスを経て生まれました。この女奴隷から生まれた子は、この世に属するものでした。奴隷状態が続いているのです。

 

 

 

それに対して後者は、神の約束を通して生まれました。神はアブラハムと契約を結ばれ、彼を通して世界の諸国民を祝福すると約束されました。自由な身の女サラが産んだ約束の子イサクは、アブラハムを通して諸国民に祝福が及ぶという神の約束に対する真実、信頼性でありました。そして、イサクの子孫からキリストは生まれられ、キリストは神々と律法の奴隷状態にある者たちを贖い出され、解放し、自由を得させてくださいました。パウロはその福音を彼らに語りました。

 

 

 

さて、パウロは、「これには、別の意味が隠されています。(24節前半)と述べています。パウロは、彼らにアブラハムの相続物語を話すにあたり、二人の女から生まれた子の話は、「別の意味が隠されている」と述べて、24節後半から27節で次のように述べています。「すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

 

「喜べ、子を産まない不赴任の女よ、

 

喜びの声をあげて叫べ、

 

産みの苦しみを知らない女よ。

 

一人取り残された女が夫ある女よりも、

 

多くの子を産むから。」

 

 

 

 パウロは、「この二人の女とは二つの契約を表しています」と述べています。別の意味が契約ということです。パウロが彼らに話したいことは、アブラハムの契約の正当な相続者は律法を守る者たちか、キリストの信頼性に寄り頼む者たちなのかということです。その二者択一を迫るために、彼は女奴隷ハガルと自由な身の女サラが二つの契約を表すと語るのです。

 

 

 

パウロは、女奴隷ハガルから説明します。「子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。(24節後半―26)

 

 

 

子を奴隷の身分に産む方」とは、女奴隷ハガルのことです。奴隷の子は奴隷です。だから、ハガルの子イシュマエルは、アブラハムの相続者になれませんでした。母ハガルとイシュマエルは、アブラハムの家から追い出されました。

 

 

 

 パウロは、その奴隷の女ハガルが「シナイ山に由来する契約を表し」、「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。」と述べています。

 

 

 

ハガルは、出エジプトの時、モーセに神の民が導かれて、シナイ山に着き、そこで彼らは神とシナイ契約を結びました。ハガルがシナイ契約を表し、律法を意味するのです。

 

 

 

パウロがどうして「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります」と説明するのか、わたしにはよく分かりません。ただ、パウロの時代、エルサレムがユダヤ教の本拠地でした。つまり、律法主義の総本山でした。だから、今のエルサレムを母胎にして、そこから律法主義の偽教師たちが遣わされて、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちが割礼を受けてユダヤ人になり、律法を守り、律法の奴隷になっているのです。

 

 

 

だから、パウロは「今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです(25)と述べているのです。シナイ山でのシナイ契約をから始まった律法体制がユダヤ人たちを律法の奴隷状態にしました。十字架のキリストによってユダヤ人たちは律法の奴隷状態から解放されたのに、今なおエルサレムでは律法体制の下でユダヤ人たちが奴隷状態にあり、彼らは異邦人キリスト者たちに彼らの律法体制を押し付けて、律法の奴隷の子たちを生み出しているのです。

 

 

 

それとは反対にパウロは、自由の身の女サラについて、神の約束を表すと説明しています。「他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

 

「喜べ、子を産まない不赴任の女よ、

 

喜びの声をあげて叫べ、

 

産みの苦しみを知らない女よ。

 

 

 

 奴隷ハガルが今のエルサレムであれば、自由の身の女サラは「天のエルサレム」です。天のエルサレムは、天上に現存するところです。天国であり、御国です。そして、パウロはこの「天のエルサレム」を、「これはわたしたちの母です」と述べています。アブラハムの契約で始まりました諸国民の祝福は、十字架のキリストを通して異邦人たちにも注がれたのです。異邦人キリスト者たちは、アブラハムを信仰の父として持ち、サラを信仰の母として持ちました。

 

 

 

パウロは、十字架のキリストを通して律法体制にいるユダヤ人とキリストへの信仰に生きる異邦人が逆転したのだと宣言し、次のようにイザヤ書を引用しています。

 

 

 

喜べ、子を産まない不赴任の女よ、

 

喜びの声をあげて叫べ、

 

産みの苦しみを知らない女よ。

 

一人取り残された女が夫ある女よりも、

 

多くの子を産むから。(イザヤ54:1)

 

 

 

 預言者イザヤは、エルサレムの都を不妊の女にたとえています。そこに多くの異邦人たちが集うと喜び賛美しているのです。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会のキリスト者たちを、兄弟と呼びかけて、彼らを約束の子であるイサクに結び付けようとしています。

 

 

 

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けいれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ、女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人にならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。

 

 

 

パウロは、彼らに割礼を受けて律法を守るユダヤ人たちは、肉によって生まれたアブラハムの子孫たちであり、キリストの信頼性に寄り頼むわたしたちこそ約束のイサクの相続人であると述べています。

 

 

 

そしてイサクがイシュマエルにいじめられたように、キリストの信頼性に寄り頼む信仰に生きている者たちも、割礼を受けてユダヤ人になり、律法を守っている者たちから迫害を受けるでしょう。

 

 

 

しかし、パウロはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、キリストの信頼性に寄り頼んでいる兄弟たちに、迫害する彼らを教会から追い出し、決して一緒に相続人にならないように命じています。

 

 

 

そして、パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、再び兄弟よと呼びかけて、「わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」と宣言しているのです。

 

 

 

キリスト者は、キリストの十字架の贖いによって律法や罪や神々の奴隷状態から解放され、自由な身分を与えられた神の子なのです。

 

 

 

それゆえにパウロは、こう述べています。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません

 

 

 

再びパウロは、445節の御言葉に戻り、キリストの十字架によってわたしたちキリスト者が得た自由を二度と手放してはならないと述べ、神でない神々の奴隷にならないように警告するのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第4章21節から51節の御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。

 

 

 

今朝の御言葉を通して、わたしたちがキリストの十字架によって得ました自由の尊さを心に留めさせてください。

 

 

 

わたしたちは、自由の身の女サラから生まれた神の約束の子であります。キリストの十字架によって罪と律法と神々の奴隷状態から贖い出されて、自由を得、神の子とされ、アブラハムと神との契約のゆえに神の祝福を得、わたしたちの本国は天にありますという恵みを得ました。

 

 

 

どうか、罪のこの世にあっても、神とキリストから離れることなく、常に聖霊に信頼し、信仰から信仰へと歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙説教17       主の201962

 

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

 

ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いだいていた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

 

あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするなら、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまづきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそうのこと自ら去勢してしまえばよい。

 

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。           

 

      ガラテヤの信徒への手紙第5115

 

 

 

説教題:「キリスト者の自由」

 

前回パウロが奴隷の女ハガルと自由な女サラのたとえを用いて、わたしたち異邦人キリスト者たちがキリストへの信頼に基づく信仰によって「自由の身の女から生まれた子なのです」と語りましたことを学びました。

 

 

 

この自由を土台にして、パウロは、今朝のガラテヤの信徒への手紙51節でキリストの十字架と復活の御業の意義を、そしてパウロがガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに宣べ伝えてきた福音の真理を次のように告げ知らせています。

 

 

 

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(5:1)

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちにキリスト者の自由の在り方を勧めているのがガラテヤの信徒への手紙第5章です。

 

 

 

これまで使徒パウロは、十字架のキリストを通して福音の真理が啓示された、わたしたち異邦人キリスト者たちに明らかにされたと述べてきました。その福音の真理とは、キリストの十字架と復活によってユダヤ人キリスト者たちはモーセ律法の奴隷状態から解放されて自由の身とされ、異邦人キリスト者たちは神々の奴隷状態から解放されて自由の身とされたという喜びの福音でした。

 

 

 

ところが、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、パウロの後からやって来た偽使徒たちに欺かれて、福音の真理から逸脱してしまいました。キリストの信頼性に依拠した義、わたしたちが信仰義認と呼んでいるものを捨て、あるいはそれに付け足してユダヤ人のように割礼を受けて、ユダヤ人たちが守っている律法を熱心に守ろうとしたのです。

 

 

 

それは、パウロの目から見れば、折角キリストが十字架と復活を通して彼らの自由を得させ、律法と罪から解放して自由の神の子の身分にしてくださったのに、再び律法という奴隷の軛につながれることだったのです。

 

 

 

パウロは声を大にして、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と呼びかけたのです。

 

 

 

しっかりしなさい」は、文字通りに言うと「堅く立ち続けなさい」です。キリスト者の生活は「わたしがしっかりする」「わたしが頑張る」ことが重要なのではありません。キリスト者の生活にとって重要なことは、「わたしが堅く立ち続けること」です。聖書の御言葉に、キリストへの信頼に堅く立ち続けることです。この手紙では使徒パウロが語る福音の真理に堅く立ち続けることです。

 

 

 

それをパウロは、ここでガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちにキリスト者の自由という在り方で勧めたのです。

 

 

 

このキリスト者の自由の在り方と正反対の在り方が割礼でした。

 

 

 

使徒パウロは、26節で次のように述べています。「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いだいていた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

 

 

 

少しオーバーに日本語に訳していますが、文字通りにはこうです。「見よ、わたしパウロは言う。もし割礼を受ければ、キリストはあなたがたに何の益ももたらさない。重ねてわたしは割礼を受けようとする人すべてに証言する。その人は律法の全体を行う義務がある。だれでも律法によって義とされるなら、キリストから引き離され、恵みから落ちた。なぜなら、わたしたちは信頼性(信仰)に依拠した義の希望を霊によって待ち望んでいるからです。なぜなら、キリスト・イエスにあっては、

 

割礼にも無割礼にも何の意味はなく、愛によって働く信頼性(信仰)である。」

 

 

 

要するに、ここでパウロの言っていることは、こうです。割礼を受けてユダヤ人になり、熱心に律法を守り、自分で頑張っても、キリストは何の益もお与えくださらないということです。彼は、割礼を受けて、ユダヤ人になり、律法を守り、自分で頑張ろうとする者たちに重ねて警告します。律法を守って義を得ようとする者はすべて、律法一つだけを守ればよいのではなく、律法の全体を負う債務者になり、彼は頑張れば頑張るほど、益々キリストから切り離され、その恵みから落ちることになる。だから、キリスト者の生活にとって、割礼の有無は意味がないのだ。むしろ、愛によって働く信仰(信頼性)こそ意味があるのだ。

 

 

 

それは、パウロによれば、キリスト者が頑張れば得られるものではありません。聖霊によりキリスト者に与えられるものです。聖霊がキリスト者の体と心を通して、十字架のキリストの愛を働かせてくださるのです。キリストがわたしのために死なれたという愛を、聖霊はわたしたちキリスト者に隣人への愛へとむかわしめてくださるのです。

 

 

 

キリスト者の生活で大切なことは、割礼の有無という目に見える問題ではありません。キリスト者はキリストの十字架の愛によって自由を得、神の子とされ、キリストの所有、キリストの僕とされました。だから、キリスト者の自由の在り方はキリストに倣うということです。キリストは神の独り子、神でした。しかし、わたしたちのために人となり、十字架で死なれました。わたしのために死なれたのです。わたしたちキリスト者はその信頼性の中でキリストに従い、神を愛し、隣人を愛して生きるのです。

 

 

 

これは、まさにパウロが5節で「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」と述べていることです。わたしたちの頑張りでは不可能なことです。しかし、聖霊がわたしたちを助け、わたしたちの信仰を支え、導いてくださるのであれば、わたしたちは「愛によって働く信仰」を望むことができるのではないでしょうか。

 

 

 

パウロは、キリスト者の自由を妨害する反対者たちに712節で厳しく警告します。「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするなら、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまづきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそうのこと自ら去勢してしまえばよい。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに次の4つのことを述べています。第一は反対者たちの行動は教会の主キリストの御心ではない。第二どんなに少数であろうと、反対者たちの行動がガラテヤの諸教会全体の異邦人キリスト者たちに悪影響を与えている。第三にパウロが割礼を勧めていたら、十字架のつまずきはなく、迫害もなかった。第四にパウロは反対者に主の刑罰を告げ、教会から自ら除き去れと厳しく警告しています。

 

 

 

主イエスも全体に悪影響を及ぼすたとえにパン種を用いられました。教会の群れの中にひとりでも不品行な者がいるなら、その者によって教会全体が悪影響を受けるのです。だから、教会の中に戒規があります。

 

 

 

不品行な者、福音と異なることを教える者に従わないようにと、パウロは警告しています。パウロは、福音の真理に外れた教えは、キリストの十字架のつまずきがないと述べています。パウロは、堂々と十字架につけられたキリストを救い主、わたしたちの神とユダヤ人たちに宣べ伝え、異邦人たちに宣え伝えました。それゆえ、パウロの福音はユダヤ人たちのつまずきとなり、異邦人たちには愚かしいものとなりました。

 

 

 

しかし、聖霊によって「キリストはわたしのために死なれた」と信じる者たちには、罪と死と律法から、この世の神々の支配から自由の身を与えられました。

 

 

 

だから、パウロはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに1315節で次のようにキリスト者の自由の在り方について勧めているのです。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 

 

 

 

どうしてわたしたちは、主によって日曜日ごとにこの教会に集められるのでしょうか。

 

 

 

わたしたちは、51節でパウロが言うように「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。

 

 

 

わたしたちは、キリストの十字架と復活の御業を通して自由を得ました。主以外に何ものにも縛られることはありません。主以外に何ものをも恐れるものはありません。

 

 

 

しかし、パウロは、彼らにこのキリスト者の自由を「肉に罪を犯させる機会とせずに」と忠告していますね。

 

 

 

」とは、わが身のことです。わが身を満足させるために、この自由を利用しないということです。自分のために使わないということです。

 

 

 

むしろ、パウロは彼らに「愛によって互いに仕えなさい」と勧めています。キリスト者の自由の在り方は、自己満足ではなく、隣人愛です。

 

 

 

宗教改革者ルターは、彼が宗教改革を始めて3年目の1520年に『キリスト者の自由』という本を書きました。お読みになった方もあると思います。お読みになっていない方は、講談社の学術文庫にマルティン・ルターの『宗教改革三大文書』という文庫本がありますので、お読みになって見てください。

 

 

 

ルターは、『キリスト者の自由』の本文の冒頭でこう述べています。「キリスト者とは何だろうか。キリストが獲得し、キリスト者に与えてくれた自由とは何だろうか。聖パウロはこれについてさまざまなに書いているが、私たちもこのことを根本的に理解できるよう、私は二つの命題を提示することにしよう。

 

 

 

キリスト者はすべての上に立つ自由な主人なので、誰にも服従することはない。

 

キリスト者はすべてに仕えることができる下僕であり、誰にでも服従する」

 

 

 

ルターはこのキリスト者の自由を二つの命題に従って、霊と肉の面から考察しているのです。そして、彼はこの本の結末にキリスト者の自由とは、次のことであると結論に導いています。

 

 

 

「これらから引き出される結論は、以下の通りである。キリスト者は自分自身において生きるのではなく、キリストと隣人において生きる。キリスト者はキリストにおいて信仰に生きる。また、キリスト者は隣人において愛に生きる。キリスト者は信仰によって自らを超えて神の中に入り、愛によって神から出て再び自らに戻るが、他方で常に神と神の愛にとどまる。<省略>

 

見よ、これが真の霊的な、キリスト教的な自由であり、心を罪と律法と戒めから解き放つものであり、天が地からまったくかけ離れているように、他のすべての自由にまさる自由である。願わくは、神がこの自由を正しく理解する力をわたしたちに与えてくださるように。アーメン。」

 

 

 

ルターは、パウロの御言葉を深く考察し、わたしたちのキリスト者の自由が何かを問い、主人であり、しもべであるキリスト者がキリストによって与えられた自由を隣人愛へと、今日の言葉で言えば命を育む奉仕へと、わたしたちキリスト者の自由の在り方を方向付けているのです。

 

 

 

自由を、自分を満足させるために用いるのではなく、主のため、隣人のために用いることを、今、この世界の中でキリスト者として生きるわたしたちも、今朝の御言葉から求められているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝のガラテヤの信徒への手紙第51-15節の御言葉を学び、わたしたちがキリストによって与えられた自由について、思いを寄せる機会を得ましたことを感謝します。

 

 

 

キリストは、わたしたちに自由を得させるために、この教会に召し集められました。キリストの十字架と復活の御業を通して、わたしたちは罪と死と律法と、この国の神々や戒めから自由にされました。

 

 

 

その自由を、主を愛し、隣人を愛するために用いるように、今朝主は、パウロの御言葉を通してお勧めくださいました。

 

 

 

罪を赦された者でありますが、なお肉によって、罪によって、主よりもわが身を愛し、隣人を愛するより、自分の満足を求めている愚かさをおゆるしください。

 

 

 

どうか、聖霊に導かれ、わが身を主と隣人のために用いさせてください。わたし個人では何もできませんが、教会を通して宣教と執事活動を通して、世の人々にキリストの福音を伝え、献金を通して隣人を支え、今も震災で仮設住宅で暮らされている方々に寄り添っている兄弟姉妹たちを祈りによって支えることができるようにしてください。

 

 

 

これから聖餐式にあずかります。どうか聖餐にあずかりつつ、今朝パウロが述べましたように、「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」というパウロの信仰の希望をわたしたちの信仰の希望としてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙説教18       主の2019630

 

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 

しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 

これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を情欲や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 

      ガラテヤの信徒への手紙第51624

 

 

 

説教題:「キリスト者の現実―霊と肉」

 

前回は、キリスト者の自由の在り方について学びました。キリスト者は、キリストの十字架と復活の贖いの御業を通して、福音宣教により律法と神々の奴隷状態から解放されて、自由の身とされるために、教会に召されました。

 

 

 

ところが、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、偽使徒たちに誘惑され、ユダヤ人のように割礼を受けて、熱心にモーセ律法やユダヤ人の慣習を守ろうとしました。再び彼らは神々の奴隷から律法の奴隷になろうとしていたのです。

 

 

 

そこでパウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに彼らが与えられた自由を誤用しないように警告しました。

 

 

 

パウロは彼らに彼らが自由の身にされた目的を教えました。それは、彼らが神と隣人に対する愛に仕えるためでした。だから、パウロは彼らが自由をわが身の欲望のままに用い、罪を犯させる機会とするならば、わが身と教会が滅ぼされることになると警告したのです。

 

 

 

 続いてパウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、キリスト者の自由を濫用しないために、キリスト者はどのように生きればよいのかを、16節で次のように勧告しています。

 

 

 

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(5:16)

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、「霊の導きによって歩みなさい」と命じています。「霊の導き」とは、聖霊の導きです。「歩みなさい」は、生きなさいという意味です。パウロが言いたいことは、キリスト者の生き様です。

 

 

 

坂口昌浩兄の洗礼式で、誓約がありました。その誓約の4番目は、こうです。「あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを、約束しますか。」

 

 

 

わたしたちは、この誓約が16節のパウロの御言葉を根拠としていると信じています。だから、わたしたちは、聖霊に謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを約束し、決心することができるのだと思います。

 

 

 

しかし、キリスト者の現実は、霊と肉の葛藤があります。17節で、パウロは次のように述べています。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 

 

 

肉と霊は、キリスト者の中の古き人と新しき人と言えないでしょうか。古き人は罪人のわたしたちです。新しき人は、聖霊によってきよめられ、再生されたわたしたちです。

 

 

 

わたしたちは、洗礼を通してキリストと一つとされ、聖霊を授けられて新しき人とされ、キリストの僕としてふさわしく生きようと希望しています。

 

 

 

ところが、わたしたちの内には古き人が生きています。それゆえにキリスト者の現実は、肉と霊が対立しているのです。

 

 

 

肉の業」については、1921節で、パウロは詳しく述べています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 

 

 

パウロは、「肉の業」を3つに区分します。第一は「姦淫、わいせつ、好色」です。これは性的不品行です。第二は「偶像礼拝、魔術」です。これは異教的な宗教活動です。第三は「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴」です。これは隣人関係における悪徳です。

 

 

 

このように「肉の業」は、この世に生きる人間の欲から出た悪徳です。この世を愛する者たちの悪徳のリストです。

 

 

 

パウロが21節で「以前言っておいたように、ここでも前もって言います」と述べていますね。パウロは第二回伝道旅行でガラテヤの諸教会を再訪問しました時に、この世を愛し、肉の業である性的不品行、偶像礼拝や魔術、隣人関係における悪徳を行う者は、神の御国を継げないと警告していたのです。それをこの手紙で繰り返し警告しているのです。

 

 

 

一見パウロは、キリスト者の現実が霊と肉の葛藤であると述べているように見えます。

 

 

 

しかし、繰り返しパウロの御言葉を読みますと、17節でパウロは、肉と霊が対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」と述べています。聖霊がわたしたちを支配し、導かれるので、わたしたちの肉の思いが抑えられるのです。

 

 

 

決してキリスト者の現実は、わたしたちの内で肉と霊が対等に葛藤しているのではありません。むしろ、聖霊がわたしたちの古き人がしたいと思うことを抑えて、キリストの僕として生きるように導いてくださっているのです。

 

 

 

このようにキリスト者の現実は、聖霊がわたしたちをキリストに倣うように、キリストの僕としてふさわしく生きることができるようにしてくださるので、パウロは、18節で「霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」と述べているのです。

 

 

 

そして、パウロは、「肉の業」に対して、キリスト者の生を「霊の結ぶ実」と呼び、2223節でこう述べています。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

 

 

 

キリスト者の現実は、「霊の結ぶ実」です。パウロは「霊の結ぶ実」を9つ挙げています。

 

 

 

第一が「」です。聖霊はキリストの霊です。だから、霊に導かれるわたしたちは、毎週の礼拝説教を通して聖霊にキリストの愛の姿を教えられ、キリストの愛に倣うように導かれています。キリストの神への愛と隣人への愛がわたしたちキリスト者の生の基盤です。

 

 

 

第二が「喜び」です。この喜びは、義と第三の「平和」と関係します。これら3つは、わたしたちが聖霊を受けることで与えられるものです。罪を赦され、神と和解し、神の子とされ、神との平和を得ている喜びです。

 

 

 

第四と五と六は、「寛容、親切、善意」です。霊の結ぶ実として、聖霊はわたしたちに神の忍耐と寛容を植え付けてくださり、サマリア人のように隣人に対する親切、すなわち、優しさを植え付けてくださいます。「親切、善意」は、キリスト者の優しさです。

 

 

 

第七と八と九は、「誠実、柔和、節制」です。聖霊は、わたしたちが隣人との関係において誠実さ、そして隣人を思いやる柔和、そして自己制御を持つようにしてくださるのです。

 

 

 

以上の9つのキリスト者の徳を禁じる掟はないと、パウロは言います。

 

 

 

そして、キリスト者の現実、すなわち、聖霊に導かれたキリスト者の生を支えるのは、キリストの十字架です。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を情欲や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

 

 

 

わたしたちは、過去一度のキリストの十字架によって贖われ、キリストの所有とされました。その時にわたしたちの肉を、その情欲とそこから生まれる諸々の悪徳と共に十字架につけたのです。

 

 

 

だから、キリスト者の現実は、なお古き人と新しき人との葛藤はありますが、聖霊が導かれる限り、わたしたちは肉の欲望に満足することなく、この世から御国へと歩みを続けて行くのです。

 

 

 

宗教改革者ルターは、『九五箇条の提題』の第一で「私たちの主であり、また教師であるイエス・キリストが『悔い改めのサクラメントを受けよ』と宣されたとき、イエス・キリストは信じる者たちの生涯のすべてが悔い改めであることを願った」と記しました。

 

 

 

キリスト者の現実は常に聖霊に導かれ、守られている生です。古き人が残り、キリスト者の内に霊と肉の葛藤がありますが、キリスト者は生涯罪を悔い、十字架のキリストの下に立ち帰るのです。日々古き人である自分に死に、聖霊に導かれて新しき人として生き、御国へと歩む姿こそこの世におけるキリスト者の現実なのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝のガラテヤの信徒への手紙第516-24節の御言葉を学び、わたしたちキリストの現実について、パウロの御言葉から思いを寄せる機会を得ましたことを感謝します。

 

 

 

わたしたちキリストの現実は、わたしたちの古き人による肉の弱さにもかかわらず、聖霊の導きにより肉の弱さから守られ、キリストの僕としてふさわしく生きるように促され、励まされ、慰められていることを感謝します。

 

 

 

どうか、キリストの十字架に支えられ、聖霊に導かれ、わたしたちのキリスト者の生涯が悔い改めの生涯であり、この世から御国への信仰の旅であることを確信させてください。

 

 

 

どうか、聖霊に導かれ、主イエスのように神と隣人を愛し、仕えさせてください。キリストの寛容と忍耐を、わたしたちにもお与えください。

 

 

 

キリストの十字架の愛を、この世の人々に、わたしたちの家族に伝えることができるようにしてください。

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

ガラテヤの信徒への手紙説教19       主の201977

 

わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気を付けなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

 

めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族となった人々に対して、善を行いましょう。

 

    ガラテヤの信徒への手紙第525節-第610

 

 

 

説教題:「聖霊に導かれた共同体」

 

前回は、キリスト者の現実―肉と霊について学びました。彼は肉による行いの悪徳リストとキリスト者の霊の実のリストを対照させ、彼はガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちに霊の導きによって歩みなさいと奨励し、決して肉の欲を満足させてはいけませんと戒めました。

 

 

 

キリスト者の内に霊と肉の葛藤があります。キリストの十字架によってキリスト者はキリストの所有とされ、彼の情欲は十字架と共に滅ぼされました。今なお弱い肉の体を持ち、罪の誘惑を避けられませんが、わたしたちキリスト者の内にはキリストの霊がいまし、罪に打ち勝つように導いてくださっています。

 

 

 

だから、パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに次のように励ましの言葉を語るのです。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。(ガラテヤ5:25)

 

 

 

キリスト者の現実、すなわち、キリスト者個人の在り方から「わたしたち」という共同体、すなわち、教会の在り方へと、パウロは話を進めています。

 

 

 

聖霊に導かれる共同体、すなわち、教会の在り方について、パウロは語ろうとしています。

 

 

 

パウロは、キリスト者個人の在り方としては、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようななことはありません。(ガラテヤ5:16)と勧めました。

 

 

 

キリスト者個人の生き方が聖霊の導きに基づいているなら、キリスト者はこの世で肉の弱さがあり、常に罪の誘惑があり、いろんな試練があろうと、常に主イエスに倣って生きようとしますから、自らの肉の弱さに甘んじることはありません。その弱さは神の恵みとなり、常にキリストの霊である聖霊がキリスト者と共に居て、執り成し、励まし、御国へと導いてくださいます。

 

 

 

 ここではパウロは「わたしたち」という言い方で、彼とガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たち、すなわち、キリスト教会を、聖霊に導かれて生きる者として描いているのです。パウロは、教会を一人格として語っているのです。

 

 

 

 キリスト教会は「わたしたち」といういろんな者たちの集まりですが、一つのキリストの体なる教会であります。

 

 

 

 だから、聖霊という一つの霊の導きに従って生きているのです。ペンテコステの日に聖霊がエルサレムの主イエスの弟子たちの集まりに下られるという出来事が起こって以来、キリスト教会はキリスト者個人同様に2千年間聖霊の導きに従って生きてきたのです。

 

 

 

 だから、新共同訳聖書は、「霊の導きに従ってまた前進しましょう。」と続けて翻訳しているのです。「前進しましょう」は、「一つの秩序の中に存在する、正しい生活をする、踏む、従う、進む、前進する」という意味です。

 

 

 

 パウロは、肉の業のリストと霊の実のリストを対照させ、ガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちに訓戒し、「もしわたしたちが一つのキリストの霊である聖霊に基づいて生きるのであれば、やはり、その霊と一致して、足並みをそろえ続けましょう」と励ましているのです。

 

 

 

 わたしは、それが毎週の礼拝における主の祈りと信仰告白だと思うのです。わたしが初めて宝塚教会で教会の礼拝を体験した時、集まった者たちが皆声をそろえて、主の祈りをし、使徒信条を唱えていました。以来改革派教会のどこの教会の礼拝に出ても、他派の教会の礼拝に出ても変わりませんでした。

 

 

 

 この事実が意味することは、わたしはこうであると信じています。この礼拝に集まる者は、一つの秩序の中に存在するのです。キリストの霊である聖霊に一致して、それに足並みをそろえ続けようとするのです。それが、キリスト教会がキリスト者個人のように正しく生活することです。

 

 

 

だから、続いてパウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」と勧告しているのです。一つの秩序、キリストの霊である聖霊に導かれた教会の平和を壊し、教会が健全に成長することを妨げるからです。

 

 

 

肉の弱さを持つ者たちが集まれば、そこに不和が生まれます。なぜなら、この世に属する者はオンリーワンを求めるのではなく、ナンバーワンを求めているからです。肉ある者は自己中心に生きるのです。だから、ガラテヤ諸教会の中に主がお命じになられた「互いに兄弟を愛し合いなさい」という一致が捨てられ、うぬぼれ、言い争い、妬みという不和が生じたのです。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに6章1-10節で、病んだ共同体に対して処方をしているのです。

 

 

 

信仰に基づいた助け合い」という見出しがありますね。教会が病んだ時、信仰に基づいた助け合いこそ処方箋だと思います。

 

 

 

パウロは、彼らに3つのことを病める教会の処方箋として命じています。第一は過ちの克服です(1)。第二は重荷を負い合うことです(25)。これは、兄弟姉妹が互いに支え合うことです。第三は御言葉を教えてもらう者が御言葉を教える者と持ち物を分かち合うことです(68)。なぜなら、彼が語る御言葉に対するわたしたちの応答によって主は報いられるからです。そして、パウロは、この3つの命令と共に自戒するように勧めています。

 

 

 

第一は、誤りの克服です。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気を付けなさい。

 

 

 

パウロは、具体的に罪を指摘していません。51921節の肉の業のリストが想定されていると思います。

 

 

 

兄弟たち」は、パウロがガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちに親しく勧告しているのです。

 

 

 

万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」という文章は、他者によって罪を発見された場合が想定されています。肉の業のリストにある悪徳を、ある兄弟が犯しているのを、見つけた場合です。

 

 

 

パウロは、次のような処方箋を施せと命じています。「“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。

 

 

 

“霊”に導かれて生きているあなたがた」とは、聖霊に導かれ、生き、足並みをそろえて、一つの秩序の中に存在し、正しく生活している者たちのことです。

 

 

 

パウロは、彼らに柔和な心で罪を犯した者を正しい道に立ち帰らせなさいと命じています。「正しい道に立ち帰らせなさい」という文章は、修復しなさいという意味です。

 

 

 

旧約聖書のネヘミヤ記にバビロン捕囚からエルサレムの都に帰還した神の民たちが神殿を再建したのち、城壁を修復する記事があります。彼らの行為は、主なる神への誠実さへの回帰でありました。同様に教会が罪を犯した兄弟をもう一度主の御元に連れ帰ることは、教会の信頼性、すなわち、教会が主イエスへの誠実さへの回復となるのです。こうして病んでいた教会が健全さを回復するのです。だから、この世の教会には教会戒規とその正しい運用が必要です。

 

 

 

パウロは、そのためには霊の実である柔和が必要であると言います。この柔和は他者との関係における柔軟な姿勢のことです。キリストは柔和でもってあらゆる人と交われました。彼らを無下に非難することなく、おもねることなく、思慮深さをもって相手と接せられました。病める者を癒された主イエスは、その者の癒しも忠告も励ましもいろいろでした。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに自戒を求めて、誘惑されないように気を付けなさいと述べています。この戒めは、教会の指導者に対してうぬぼれ、虚栄にならないようにということでしょう。

 

 

 

第二は互いに重荷を負い合うことです。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。(25)

 

 

 

この重荷は教会の重荷です。教会が直面している困難です。様々な困難です。

 

 

 

パウロは、「そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」と述べていますね。互いに教会の重荷を担い合うことは、キリストの「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(ヨハネ15:17)という律法を実行することです。

 

 

 

教会の重荷を軽減するために、兄弟姉妹たちが互いに重荷を負い合う、兄弟姉妹を愛し、支え合うことで、キリストの律法が実行されるのです。

 

 

 

しかし、パウロは助け合うことを妨げるものがあると述べています。それは虚栄心です。教会の重荷を互いに負い合うためには、それを捨てるべきだと、パウロは思っています。なぜなら、兄弟姉妹たち一人一人が自分の弱さを認め、隣人に助けを乞う謙虚さが必要だからです。

 

 

 

主イエスは、御自身の体である教会にいろんな者たちが必要であるから集められるのです。だから、わたしたち一人一人がこの教会で何ができて、できないか、よく吟味すべきです。自分にできないことは他の兄弟姉妹たちに助けを乞うべきです。

 

 

 

虚栄心は絶えず自分を他者と比較し、自分を優位に立たせようとします。そこにうぬぼれ、誇りがその者に生じて、自分には甘く、隣人には厳しく接します。反対に自分を卑下するならば、隣人をねたむようになります。こうして教会の中に不和が生まれるのです。

 

 

 

教会は、見出しにあるように教会員の「信仰に基づいた助け合い」を無くして、この世に存続することはできません。この教会に召されたわたしたち一人一人が互いにこの教会の重荷を担い合ってこそわたしたちはキリストの体なる教会として、この世で一つの秩序の中に存在することができるのです。

 

 

 

第三は、御言葉を教えてもらう者が御言葉を教える者と持ち物を分かち合うことです(68)。「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに聖霊に導かれた教会を建て上げて行くために牧師、伝道者に対する物質的援助が必要であると述べています。

 

 

 

教えてくれる人」と「教えてもらう人」の「教える」は、情報を提供するという意味の言葉から生まれました。「教えてくれる人」は、福音宣教という情報を提供し、教育してくれる人です。「御言葉」は福音(キリストの伝承)の言葉です。彼らは、ガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちにキリストの福音を語り、信仰教育していたのです。

 

 

 

だから、パウロは学ぶ彼らが宣教者・牧師を物質的に援助し、その報酬を提供するように勧めているのです。

 

 

 

持ち物をすべて分かち合いなさい」とは、生活に必要な糧を分かち合うということです。教える人への報酬を述べているのです。

 

 

 

さらにパウロは、教える人と教えられる人の関係について述べた後で、彼らの行為と報いについて、自戒を求めています。

 

 

 

思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。

 

 

 

パウロは、偽教師たちに欺かれないように忠告しているのでしょう。割礼を受けてユダヤ人になり、律法を守ろうとする者は、思い違いをしているのです。人は、自分の行いで、自分の報酬を得ることになります。割礼を受けて、ユダヤ人になり、律法を守ろうとする者は、肉を蒔き、その肉から滅びを刈り取る者です。なぜなら律法を行う者はその律法によって滅びを招くからです。反対に霊を蒔く者たちは、聖霊に導かれ、キリストへの信仰に生かされ、永遠の命を得るのです。

 

 

 

最後にパウロは、彼らに善を行おうと励ましています。これは、キリスト者の善き業であります。過ちを犯した者を立ち直らせること、教会の重荷を互いに担うこと、教会の奉仕者たちと良き物を分かち合って支えること、これがパウロの勧めるキリスト者の善です。失望することなく、キリストが再臨される日まで聖霊に導かれた教会において神の家族である兄弟姉妹たちに対して善を行おうと勧めているのです。

 

 

 

この善は、最後の審判においてキリストの御前でよくやった忠実な僕よ、褒められる機会です。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝のガラテヤの信徒への手紙第525-610節の御言葉を学び、わたしたち聖霊に導かれた共同体について、パウロの御言葉から学ぶ機会を得ましたことを感謝します。

 

 

 

わたしたちの教会は聖霊に導かれ、育まれ、成長するキリストの体なる教会です。

 

 

 

どうか、過ちを犯した兄弟姉妹にキリストの柔和に倣い、深い思慮をもって彼らが再び教会に戻れるように導くことができるようにしてください。また、わたしたちをこの世の誘惑からお守りださい。

 

 

 

どうか共に聖霊に導かれ、心を一つとし、この教会の重荷を各自で担わせてください。どうか虚栄に満たされて生きるのではなく、正直に単純に自らの弱さを告白し、兄弟姉妹に謙遜に助けを乞わせてください。

 

 

 

どうか、御言葉の奉仕者を支えることができるように導いてください。御言葉の奉仕者のために祈り、自らの献金によって彼らを支えさせてください。また、彼らが語る御言葉に聞き従う従順な心を与えてください。同時に偽教師に惑わされることなく、聖霊に導かれ、主イエスの御跡を歩ませてください。永遠の命を、御国をお与えください。

 

 

 

わたしたちは、神の家族の一員です。この教会の中で、この教会を通してキリスト者の善をなさせてください。

 

 

 

キリストが再臨され、神の最後の審判においてよくやった忠実な僕よと褒められる機会をお与えください。

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

ガラテヤの信徒への手紙説教20       主の2019714

 

 

このとおり、わたしは、今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。

 

割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。しかし、このわたしにはわたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

 

これからは、だれもわたしを煩わせないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。

 

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。アーメン。

 

    ガラテヤの信徒への手紙第61118

 

 

 

説教題:「キリストの十字架以外に誇るものなし」

 

今朝でガラテヤの信徒への手紙は終わりです。手紙の結びのパウロの御言葉を学びましょう。

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙は、初めから終わりまでパウロの論争の手紙です。論争で始まり論争で終わっています。

 

 

 

パウロは、この手紙の結びをこのように書いています。「このとおり、わたしは、今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。(11)

 

 

 

パウロの文章をそのまま日本語にすると、「見よ、わたしはどんなに大きな字で書いたか、わたしの手で」となります。

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙すべてを、パウロが自分の手で、しかも大きな文字で書いたと、彼は述べているのではありません。

 

 

 

推測ですが、この手紙は口述筆記されたと思います。パウロが口で語り、彼の弟子が筆記したでしょう。

 

 

 

そして、この手紙の結びで彼はあたかもこの手紙に自分の名を署名するかのように、大きな字で、彼自らの手で書きました。

 

 

 

パウロは、「見よ」とガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに注意の喚起を促しています。第一に偽教師たちに警戒することです。第二にパウロ自身の生きざまに倣うことです。

 

 

 

この手紙の結びから偽教師たちがガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに割礼を強要している状況が続いていると推測できます。

 

 

 

だから、パウロは、自らの手で大きな文字で、割礼よりも十字架のキリストがキリスト者の生にとって絶対的に優位にあることを示さざるを得ませんでした。

 

 

 

そこでパウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに次のように混乱を持ち込んだ偽教師たちの肉の誇りと彼らの野心と偽りについて記しています。

 

 

 

肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。(1213)

 

 

 

肉において人からよく思われたがっている者たち」とは、偽教師たちです。パウロはどうして彼らは、異邦人キリスト者たちに割礼を強いるかを次のように説明します。「ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかり」にと。

 

 

 

偽教師たちは、同胞ユダヤ人たちから迫害を受けたくありませんでした。むしろ、彼らは同胞たちの中で自分たちを誇りたかったのです。だから、パウロのように十字架のキリストを伝えようとしませんでした。ユダヤ人たちにとっては「木にかけられた者」とは神に呪われた者であり、その者をメシアと伝えることはユダヤ人たちにはつまずきであったからです。

 

 

 

だから、偽教師たちはユダヤ人たちに媚びて、十字架のキリストを伝えず、異邦人キリスト者たちに割礼を強要し、ユダヤ人になり、律法を守るように教えていたのです。

 

 

 

しかし、パウロは、彼らの欺瞞を次のように記しています。「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。(13)

 

 

 

彼らはパウロの福音を覆し、十字架のキリストを信じる信仰によって救われるという福音を捨てさせ、割礼を受けさせて、ユダヤ人とし、律法を守らせようとしましたが、偽教師たち自身が律法を守っていませんでした。ただユダヤ人たち社会の中で自分たちを誇るために、異邦人たちが割礼を受けることを望んでいたのです。つまり、彼らは自分たちの肉、すなわち、虚栄心を満たすために、異邦人たちに割礼を強いて、律法の重荷を背負わせ、主イエスの隣人愛の律法を破っていたのです。

 

 

 

パウロは、彼の敵対者たちに対して自分の生き方を、次のように記しています。「しかし、このわたしにはわたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。(1415)

 

 

 

パウロは、偽教師たちの虚栄心と偽りを鮮やかにするために、彼の生き様を記しています。

 

 

 

パウロは、「このわたしにはわたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」と宣言しています。偽教師たちとの違いを、パウロは強調するのです。

 

 

 

誇るものが決してあってはなりません」は、「決して誇ることが起こらないように」という文章です。パウロも昔偽教師たちのように割礼を誇り、律法を行うことを誇っていたのです。律法の奴隷状態にあり、滅びの中に置かれていたのです。しかし、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」によって、わたしたちの主イエス・キリストが彼に代わって十字架に死なれることで、律法の奴隷状態から解放され、自由にされました。

 

 

 

キリストの十字架は、神の呪いでした。キリストがパウロに代わって神の呪いを受けてくださり、パウロを律法と罪と死から解放して下さたのです。だから、パウロは、偽教師たちのように自分の内にキリストの十字架以外の何ものも誇るものが起こらないようにと宣言しているのです。

 

 

 

この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」というパウロの御言葉は、次のことを強調しています。偽教師たちはこの世を誇るが、パウロは十字架によってパウロはこの世から、この世はパウロから決別していると。パウロは、キリストの十字架によってこの世の邪悪さから決別したのです。自己中心に生きること、虚栄心に生きること、隣人を欺くこと、不和妬み争いから決別したのです。

 

 

 

だから、パウロの関心は、聖霊によって新しく創造された生き方であります。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。(1516)

 

 

 

パウロにとって偽教師たちのように割礼を受けて、律法を行うことは重要な問題ではありません。ユダヤ人であることのアイデンティティも重要なことでありません。重要なことは、「新しく創造されることです」。すなわち、聖霊に導かれ、聖霊に従って生きることです。これを、キリスト者の再生と言います。聖霊に導かれた新しき人として生きることです。それは、この世だけではありません。新天新地が再創造され、そこでわたしたちは新しき人として新しき命に生きることです。復活のキリストの命に生きることです。

 

 

 

このような原理に従って生きていく人」とは、言葉を変えると「霊の導きに足並みをそろえて生きる人」です。キリストの霊である聖霊に導かれて生きる教会です。だからパウロは「神のイスラエル」と呼び、キリスト教会の上に、神の平和と憐れみがあるようにと祈ります。

 

 

 

聖霊に導かれて生きる教会は、十字架のキリストを信じ、パウロの語るキリストの福音に生きます。

 

 

 

この世にある教会は、この世の価値の多様さの中でも、キリストの十字架以外に誇りはないという生を生きるのです。

 

 

 

パウロ同様に、この世のキリスト者は聖霊に導かれ、聖霊に従い、十字架のキリストのゆえに、彼は世に対して死んでおり、世も彼に対して死んでおり、キリスト者にはこの世に誇れるものはありません。

 

 

 

十字架のキリストが復活され、新しき命に生きられているように、キリストものもキリストの霊である聖霊によって新しく創造されました。

 

 

 

わたしたちは、恵みの契約のアブラハムの霊の子たちであり、キリストと共に神の御国を相続し、今神の平和と憐れみの中でこの世に生きているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝ガラテヤの信徒への手紙を終えることができて感謝します。

 

 

 

どうか、わたしたちの教会が聖霊に導かれ、育まれ、成長するキリストの体なる教会として、主イエス・キリストが再臨されるまでこの世で持続できるようにお導きください。

 

 

 

どうかパウロのようにわたしたちもキリストの十字架以外に誇るものなしと告白させてください。

 

 

 

聖霊を頂き、新しき人として、神の御国を目指してこの世を歩ませてください。

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。