コリントの信徒への手紙二説教 05     主の20015年6月7日

 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のようにあなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました、文字は人を殺しますが、霊は生かします。
 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。
 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは“霊”のことですか、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
                                             コリントの信徒への手紙二第2章18節-17節

 説教題:「新しい契約の奉仕者」
 今朝は、コリントの信徒への手紙二の第3章1-18節の御言葉を学びましょう。

 昔パウロは、ダマスコの町に住むキリスト者たちを迫害するために、「大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求め」ました(使徒言行録9;1-2)。これが、今朝この手紙の3章で問題にされている「推薦状」であります。

 推薦状とは、ある権威ある者が諸教会に宛てて出した手紙です。コリント教会を荒らし回っていた偽使徒たちは、その手紙をコリント教会に差し出して、教師として振舞い、パウロが使徒ではないと言いふらしていたのです。そして、彼らは、教会にとって危険な者たちでした。パウロも、彼らをこの手紙の11章13-15節でとても厳しく非難しています。「こういう者たちは、偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っている」「サタンに仕える者たちだ」と。彼らは、パウロが使徒であることを否定するだけではなく、パウロが語る福音を否定し、キリストによって破棄された古い契約に従って、コリント教会のキリスト者たちにユダヤ人たちのようにモーセ律法を守り、その行いによって救われるように説いていました。

 そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに2章14節から7章4節まで自分が使徒であることを弁明しました。

 パウロは、この弁明の手紙がコリント教会のキリスト者への自己推薦状と誤解されると困るので、3章1節で「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか」と記しました。当然、パウロは、それは自分の本意ではないという思いをもって、この手紙を書いています。

 実は、最初に推薦状について説明しましたように、パウロは、昔人の権威に従って行動していた時に、大祭司にダマスコの町にあるユダヤ人の諸会堂宛てにこの推薦状を書いてもらって、ダマスコに住むキリスト者たちを捕らえて、迫害しようとしたことがあるのです。

 しかし、今のパウロは、その推薦状で伝道しているのではありません。ダマスコへの途上でパウロは、復活の主イエス・キリストに出会いました。そして復活の主から直接に異邦人の使徒として召され、派遣されました。復活の主イエス・キリストは、パウロに推薦状の代わりに聖霊をお与えになりました。そして、聖霊に導かれてパウロは、異邦人たちに福音宣教し、生まれた教会の一つがコリント教会でありました。

 ですから、パウロには目に見える推薦状をありません。目に見えるコリント教会が存在するのみです。偽使徒たちのように、パウロには人が書いた推薦状は必要がありませんでした、聖霊がパウロの福音宣教を通してお立てになったコリント教会の存在だけで十分でありました。

 だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちを手紙、すなわち、パウロの推薦状であると宣言しました。異教と不道徳な社会の中で、神々の偶像礼拝とまるで神など存在しないかのように人々が生きている世俗化したコリントの町で、パウロたちは福音宣教を通してコリント教会のキリスト者たちに罪への悔い改めとキリストへの信仰を勧めました。その時に聖霊がコリント教会のキリスト者たちの心の中に働いてくださり、彼らに信仰を起こし、キリスト教会の群れをお造りくださいました。

 コリント教会がパウロたちの福音宣教を通して生まれたことは、当時のローマ帝国内のすべてのキリスト教会に知られていました。コリント教会の存在は、手紙でキリスト教会に知らされるように、公にされていました。

 だから、コリント教会とキリスト者たち自身が、パウロたちの福音宣教を通して聖霊が人の心にお書きになった手紙であり、パウロが使徒であることを証しする推薦状でありました。

 ですから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「わたしが福音を語る資格があり、使徒であることを証しする推薦状はあなたたちである」と弁明しているのです。

 今日でも状況は同じです。わたしに福音を語る資格があるのは、わたしが神学校を卒業し、説教免許試験に合格し、教師試験に合格したからではありません。それらは必要ですが、ここでわたしが福音を語る資格とはなりません。聖霊の導きにより、上諏訪湖畔教会の兄弟姉妹たちがわたしをこの教会の牧師として招聘してくださったから、わたしはこの教会で牧師として働き、説教し、聖餐式の司式をし、牧会をしています。だから、わたしの牧師としての推薦状は、パウロが言うように上諏訪湖畔教会の兄弟姉妹たちであり、この教会の存在そのものなのです。

 推薦状を誇りとする偽使徒たちとは異なり、パウロの確信は、神に源があり、キリストを通して、聖霊によって与えられたものでありました。なぜなら、パウロはキリストに召されて使徒の働きをし、聖霊が彼を導かれて新しい契約の奉仕者とし、神の福音を宣教する者としての力を与えられたからです。
 
 6節の「新しい契約」とは、今朝の聖餐式においてキリストご自身が宣言されていますように、自らの血で立てられた救いの新しい秩序のことであります。そして、それは、ペンテコステの日に聖霊降臨を通して神の民である教会の救いのために定められました。その時から復活の主イエスが使徒たちに「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:22-23)と約束されたことが、使徒たちの福音宣教を通して実現されました。だから、使徒パウロは、「新しい契約に仕える資格、霊に仕える資格が与えられました」と述べているのです。使徒たちの務めは罪の赦しの宣言によって人々に命を与え、救うことでありました。

 パウロの敵である偽使徒たちは、モーセ律法の遵守を主張しました。モーセ律法とは、仲保者モーセを通して主なる神がイスラエルの民に与えられものです。その要約したものが石の板に刻まれた十戒であります。しかし、パウロは、「文字は人を殺します」と述べています。文字とは石の板に刻まれた十戒です。モーセを通して神の民に伝えられた律法は、守らない者たちの罪を裁き、永遠の死に至らせるものでありました。

 そして、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに使徒の務めとモーセの務めを比較します。モーセの伝えた律法は、死の務めでありました。罪人に有罪宣告をし、死に定めるからです。神の律法は、神の御意志であり、神の栄光に輝くものです。旧約聖書の出エジプト記34章にモーセが再度シナイ山で十戒を与えられた記事がありますが、モーセの顔が神の栄光に輝き、モーセは顔に覆いをかけたと伝えられています。

 だが、使徒パウロが仕える新しい契約は、罪人の罪の赦しであり、律法の終わりを知らせます。なぜなら、律法のもたらす死を、罪の赦しによって終わりにするからです。つまり、新しい契約と罪を赦される聖霊こそが永遠に存在するものであります。それゆえにパウロは、モーセの務めよりも使徒の務めの方が優れていると述べているのです。

 律法の栄光の時代は終わり、キリストの時、終わりの時、新しい契約の救いの新しい秩序の時が来ました。キリストが来られ、十字架を通してわたしたち罪人の罪を担われました。死に至るまでキリストは父なる神に従順を尽くされ、律法を完全に守られ、義を得られました。それゆえに聖霊を通して使徒たちは全世界に向けて罪の赦しの福音を伝える栄誉のあずかったのです。

 偽使徒たちは、モーセ律法が過ぎ去るものであり、人に死をもたらすものであることを知りません。古い契約、すなわち、神の律法を守ることで救くわれるという古い秩序、キリストが来られ、聖霊が降られて、地上にキリストの教会が生まれ、福音宣教を始めた時から終わりました。

 今では、だれでも、福音宣教を聞いて、聖霊が導かれる十字架のキリストに心を向ければ、罪を赦され、救われ、あらゆる罪と死の束縛から自由にされます。

 わたしたちの国にも律法はあり、わたしたちも道徳教育を受けて成長しました。しかし、道徳教育には人の罪を克服する力がありません。人は欲望に負け、誘惑に負けて、罪に堕落します。道徳教育がわたしたちを導く先は、希望のない死であります。

 しかし、聖霊はわたしたちの教会を通して、日本中、世界中の教会を通して、牧師、伝道者、宣教師を用いて、わたしたちの証しと伝道を用いて、すべての人々に罪の赦しの福音にあずかるように導かれています。そして、聖霊は、わたしたちを、異教と不道徳な社会の中から、福音宣教を通して、キリストへと向けさせ、教会の交わりへと導かれます。神に反逆した今の世俗化した世界の中で、罪の奴隷状態の中にある者たちに、聖霊は福音宣教を通して、キリストの十字架へと導き、彼らの罪を赦され、そしてキリストの栄光の体に回復し、御国へと導かれています。それが、聖霊のお働きであります。

 お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第3章1-18節の御言葉を学ぶことができて感謝します。今朝の御言葉から、わたしがこの教会で説教できる根拠を教えられ、感謝します。
 
  牧師は教会の招聘なくして、説教をすることはできません。そして、教会は、復活のキリストによりこの世の人々に罪の赦しの福音を語ることを赦されています。
 
  日本の国は、異教と不道徳の社会であります。ものが溢れ、交通は便利ですが、多くの人たちは神を無視して、まるで神のいない世俗の世界の中に生きています。社会が不安定となり、為政者たちは子供たちに道徳教育を学校で教えて、子供たちに郷土愛や国を愛する心を育てようとしています。しかし、人は罪ある者であり、欲望に負け、誘惑に負ける者です。希望のない死という終わりがすべての人々を覆っています。
 
  どうか、わたしたちの教会の福音宣教を通して、この町に住んでいます。あなたの民をお集めください。
 
  わたしたちも新しい契約に、そして聖霊に仕える者としてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

コリントの信徒への手紙二説教 06     主の20015年6月14日

 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを
受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。
                                                             コリントの信徒への手紙二第4章1-15節

 説教題:「土の器の中の宝」
 先週は、この手紙の3章の御言葉を学びました。使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちに自分が使徒であることを弁明しました。なぜなら、偽使徒たちがコリント教会にやって来て、コリント教会のキリスト者たちに使徒であるという推薦状を見せて信頼させ、パウロは使徒の資格がないと宣伝しました。そして、彼らは、コリント教会のキリスト者たちにパウロの伝えた福音を捨てて、モーセ律法を守り、ユダヤ人の習慣を守るように教えました。

 そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように弁明しました。パウロの推薦状は、彼が語る福音によって救われたコリント教会のキリスト者たち自身であると。

 そして、パウロは、コリント教会のキリスト者に彼が伝える福音と偽使徒たちが守るように勧めているモーセ律法とを比べてキリストの福音がどんなに神の栄光に満ちたものであるかを弁明しました。

 すなわち、パウロは、モーセ律法に代表される古い契約とキリストの福音に代表される新しい契約を比較しました。この二つの契約は、神の救いのシステムであります。古い契約は、モーセ律法に代表されるように、神の律法を守ることで神の救いを得るというシステムです。新しい契約は、聖霊がキリストの福音を聞く者に、主イエス・キリストを信じる信仰を起こさせ、その信仰によって神の救いを得るというシステムです。

 アダムの原罪ゆえに、ユダヤ人も異邦人も、すなわち、全人類は生まれながらに堕落しています。だから、古い契約は、すなわち、モーセ律法は全人類をすべて罪に定めます。ところが、新しい契約は、すなわち、キリストの福音は、すべての罪人に対してキリストによる罪の赦しを宣告します。

 使徒パウロは、サウロと呼ばれ、厳格なファリサイ派の律法学者であった若き日に、キリスト者たちを迫害する者でありました。彼はキリストに敵対し、エルサレムのキリスト者たちだけでなく、外国のダマスコのキリスト者たちを迫害しようとしました。当然彼の上に神罰が降っても、パウロは神に文句が言えなかったでしょう。ところがダマスコ途上で現れた復活の主キリストは、パウロを憐れみ、彼の罪を赦し、異邦人の使徒に召されました。

 だから、パウロは、4章1節で「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」と述べています。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに弁明を続けて、使徒の務めに落胆しないと宣言しています。なぜなら、パウロは自分の人間的な思いで使徒になったのではないからです。神の憐れみが、パウロを新しい契約の奉仕者に召したからです。復活の主キリストが、パウロを罪の赦しの福音に仕える者に定められたからです。だから、パウロは、どんな苦境に陥ってもこの使徒の務めに落胆しないと決意しています。

 パウロは、彼の決意を次の4つの行動で証ししようとしています。2節です。「卑劣な隠れた行ないを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにする」。証しの第1は、性的不品行を退けるということです。コリント教会は、近親相姦という恥ずべき性的不品行が問題となっていました。証しの第2は、金銭を騙し取ることをしないということです(12章16節)。証しの第3は、神の言葉を曲げるようなことをしないということです。偽使徒たちは、神の言葉を売り物にしていました(2章17節)。証しの第4は、真理、すなわち、キリストの福音を公にするということです。

 パウロは、使徒の務めを、福音宣教を通して「神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねる」ことであると弁明しています。キリストに遣わされた使徒の務めとは、真理、すなわち、キリストの福音を公に宣教することです。その後のことは、神の御前で彼が語る福音を聞くすべての人の良心の判断に自分自身を委ねる以外にありません。聖霊がパウロの福音を聞くすべての人の良心に罪の自覚とキリストの十字架が聞くすべての人の罪の身代わりであることを信じる信仰をお与えくださるように祈る以外にありません。そして、パウロは、聖霊がパウロの語る福音に自由に働き、聞く者の良心がパウロの語る福音に同意するようにしてくださることを、「ゆだねる」ことで確信しています。

 だから、パウロは、彼が語るキリストの福音を聞く者の心が受け入れない場合について次のように弁明します。パウロたちが公に福音宣教しますとき、覆いがかかる時があります。聞く者たちの心が、福音を拒むという事実であります。それは、聖霊が働かれていないので、そうなるのです。使徒言行録16章7節にパウロが小アジアのビティニア州に入って福音宣教しようとしましたが、イエスの霊がそれを許さなかったと証言されています。

 公に語る福音に覆いが掛かり、聞く不信仰な者たちの良心がキリストを救い主として受け入れないのは、パウロたち使徒の責任ではありません。聞く不信仰な者たちの責任です。滅びの道をたどる不信仰な人々の良心には、福音はおおわれ、キリストの栄光は隠されています。

 どうして不信仰な者には、福音は覆われているのでしょうか。パウロは次のように断言します。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらましている」からであると(4節)。「この世の神」とは、サタンのことです。サタンは、神からわたしたちを離反させて、罪の中に沈め、わたしたちを悪の勢力の下に置くのです。だから、不信仰な者たちは、福音を聞いても神の似姿である栄光のキリストを見ることができなくされています。

 この世は、サタンの支配する闇の世です。しかし、創造主なる神は、闇の中に「光あれ」と光を創造されました。そして、福音を通してわたしたちの心の闇に光をお与えくださいました。その光とは、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光をわたしたちに理解させる聖霊の光であります。

 さて、使徒パウロは、わたしたち人間の体を、土の器に喩えています。その土の器に納められた宝とは、福音であり、キリストの栄光の知識であります。この比喩でパウロがコリント教会のキリスト者たちに次のように弁明しているのです。神は、使徒という弱い人間を、神の恩寵の器とされたと。「並外れた神の偉大な力」とは、溢れるばかりの神の力であります。使徒パウロは、弱い自分の体から溢れるばかりの神の力を体験しました。それは、彼の力ではありませんでした。神から出た、神の力でありました。

 具体的に次のようにパウロは、彼の弱さと艱難の中に溢れるばかりの神の力を感じました。体験の1は、「四方から苦しめられても行き詰まらず」ということです。体験の2は、「途方に暮れても失望せず」ということです。体験の3は、「虐げられても見捨てられず」ということです。体験の4は、「打ち倒されても滅ぼされない」ということです。パウロは、迫害と艱難の中で常に働く神の力を体験し、神の臨在を経験しました。復活の主イエスは11弟子たちに「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と約束されました(マタイ28:20)。だから、パウロは、どこにいても、どんなに困難な中であろうと、キリストの臨在と神の力を覚えました。

 次にパウロは、使徒の道が苦難のキリストの道をたどることであると弁明しています。キリストは、受難の道を歩まれました。ゴルゴタの丘への道を、十字架の死への道を歩まれ、死に、墓に葬られ、3か目に復活されました。

 使徒パウロも、この世に生きる限り迫害を通して十字架のキリストの苦難の道をたどりました。そしてキリストが死人の中から復活されたように、パウロも死から永遠の命の希望の道をたどりました。それによってキリスト者の死は、永遠の命への入り口であることを証ししました。

 最後にパウロは、キリストを死人の中から復活させてくださった神が、主イエスと共にパウロとすべてのキリスト者たちを復活させて、父なる神の御前に立たせてくださることを知っておりました。

 パウロは、詩編116編10節の御言葉を引用して、13節で「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と記しています。使徒パウロは、すでに福音として語られていたキリストの十字架の死と復活の事実を信じました。だから、使徒パウロは、その伝えられ、受け入れた福音をキリストが再臨されるまで教会の聖餐式で語り続けることを命じました。

  パウロが語りました福音が、初代教会で語られ、中世の教会で語られ、宗教改革の教会で語られ、そして現代のわたしたちの教会で語り続けられています。このようにキリストの福音が語られるところで、わたしたちの教会の集まりは復活の命であるキリストの体として生かし建てられて行くのです。永遠の神の御国が建設されて行くのです。そして、聖餐式においてキリストの臨在の御前にいるわたしたちは、必ず再臨のキリストの御前に立つ日を迎えるのです。その時にわたしたちは、ウェストミンスター大小教理問答の問1と答にあるように「永遠に神を喜び」、神の栄光をあらわし、神を永遠にたたえるのです。

 お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第4章1-15節の御言葉を学ぶことができて感謝します。今朝の御言葉から、わたしがこの教会で福音である説教を聞ける喜びを感謝します。聖餐式ごとに十字架と復活のキリストの福音が語られていることを感謝します。
 
  使徒パウロ同様に、わたしたちも自分たちの土の器の中にキリストの福音という宝を納めていることを感謝します。また、福音に覆いがかけられることなく、キリストの福音を聞くごとに、十字架のキリストはわたしたちの罪のために死なれ、復活のキリストはわたしたちの永遠の命の保証として復活されたことを、わたしたちが信じることができ、また家族や友人、この町の人々に語ることができる恵みを感謝します。
 
  わたしたちは、また、使徒パウロのようにこの世にあって苦難と艱難があります。迫害はありませんが、老後の厳しい生活があり、介護の生活があり、病気やいろんな障碍があります。どうか、福音を通して聖霊に導かれ、苦難のキリスト、パウロの御後をわたしたちもたどらせてください。最後には、神の御前に立たせてくださり、キリストより「あなたの罪は赦された」という御声を聞かせてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 コリントの信徒への手紙二説教 08     主の20015年7月12日

 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。                     コリントの信徒への手紙二第5章11‐15節

 説教題:「主のために生きる」
 今年度の教会目標を成し遂げるために、実施項目の一つとして、「教会の維持のための取り組み」を挙げています。難しい課題でありますが、一つでも取り組める糸口が与えられるように願っています。今朝の御言葉から得られれば幸いであります。

 さて、使徒パウロは、5章11節で、1章12節で述べたことを繰り返しています。すなわち、パウロがコリント教会のキリスト者たちに対して誠実であることと使徒の務めに関する弁明であります。

  そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように述べています。「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めています。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしたちは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。」

 先週学びました5章10節の御言葉を読みますと、パウロは次のように述べています。「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」

  それゆえにパウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように述べるわけです。「このように、わたしたちは主の裁きに対する畏れを知っていますので、人々を神と和解させるために説得に努めています」と。
 
  パウロの御言葉から、キリスト者とは「主に対する畏れを知っている」者であるということを学びます。キリスト者は主なる神の臨在を信じています。主は人類とこの世に生きるキリスト者のすべてをありのままに御覧になっており、なしたこと、善であれ悪であれ、すべてを御前に明るみに出され、キリストが再臨されたときに裁かれます。

  ですからパウロが述べています「わたしたちは、神にはありのままに知られています」という御言葉は、パウロの良心の声であり、コリント教会のキリスト者たちやわたしたちの良心の声であります。
 
  わたしたちの教会は、礼拝のプログラムを変更し、礼拝順序の中に罪の告白と罪の赦しの宣言を入れました。キリストの臨在に近づくことは、神にありのまま知られているわたしたちにとっては恐れがあります。だから、わたしたちは神に罪を告白し、罪の赦しの宣言にあずかり、わたしたちを招かれたキリストの臨在に近づき、礼拝します。
 
  さて、パウロの手紙に戻りましょう。彼は、コリント教会のキリスト者たちに次のことを知ってほしいとお願いしています。彼が主に対して誠実な良心を持って近づいたように、コリント教会のキリスト者たちに対しても誠実な良心を持って交わっていること。
 
  なぜなら、今コリント教会に偽使徒たちが訪れ、コリント教会のキリスト者たちに推薦状を見せて、自分たちを誇り、パウロを真の使徒ではないと中傷しました。
 
 それに対してパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません」と述べました。なぜなら、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに3章2節で「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」と述べています。コリント市に教会とキリスト者たちが存在していることが、パウロが使徒であることの推薦状でした。

 だから、パウロにはもう推薦状は必要ありませんでした。それなのに推薦状の問題を、パウロがここで取り上げているのは、コリント教会のキリスト者たちがパウロたちのことを誇る機会を提供するためでした。

  パウロにとって「誇り」は2種類ありました。すなわち、「顔において誇る」という外面的な誇りと「心において誇る」という内面的な誇りです。偽使徒たちは、顔において誇る者たちでした。人の推薦状を見せて、コリント教会のキリスト者たちにあたかも自分たちが大使徒であるかのように傲慢に振る舞っていました(11章5節)。偉そうに振舞っていたのです。そして、コリント教会のキリスト者たちはよく我慢していました。他方パウロたちは「心において誇る」者たちであり、14節でパウロが「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」と述べていますように、聖霊に導かれ、大胆にキリストの十字架の福音をコリント市の人々に伝え、人々に神と和解するように説得していました。

 パウロたちの伝道の姿は、世間の目には「正気ではない」、気が狂っているように見えました。パウロたちは、キリストの所有であるキリストの奴隷たちです。「正気でない」とは、ギリシア語の本来の意味は、「自分を離れて」とか「我を忘れて」という意味です。マルコによる福音書の3章20-21節を読みますと、次のように記しています。主イエスが食事をする暇もないほどに、ガリラヤで神の御国の福音を人々に伝え、そして多くの病人たちや悪霊につかれた者たちを癒されていました。その姿を見た人々が主イエスの身内の者たちに「あの男は気が変になっている」と知らせました。そこで身内の者たちが主イエスを取り押さえに来ました。また、使徒言行録26章24-25節を読みますと、使徒パウロがアグリッパ王の前で弁明をしましたときに、ローマ総督フェストゥスが「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」と言いました。

 わたしたちが神のため、主のためになす行為は、人の目にはまるで狂った行動のように見えるときがあります。殉教という行為、宣教師が宣教のために危険を冒す行為などです。日本プロテスタント伝道史を読みますと、アメリカの宣教師たちは中国伝道、日本伝道への召しが与えられ、太平洋の海を命がけで渡って来ました。船が嵐で難破することが度々であったからです。

 フェストゥスに対してパウロは、「わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです」と答えています。パウロが「正気であるなら、それはあなたがたのためです」と言っているのは、パウロが福音宣教によってコリント教会を形成しようとしたということです。福音の真理を、理に適ったこととして、教えによって説得し、コリント教会のキリスト者たちにキリストを救い主として受け入れ、洗礼を受けてコリント教会の教会員となるように導き、コリント教会を形成して行きました。

 パウロたちの伝道を支えた力こそ、「キリストの愛」でした。パウロたちが、数々の危険や困難を乗り越えて、コリント市を訪れ、コリント市民にキリストの福音を伝え、キリスト教会を建て上げたのは、パウロたちが「キリストの愛に駆り立てられた」からであります。

 昔、聖恵授産所出版局が引退教師の松田一男先生の翻訳で『信徒のための改革派組織神学』という題で上下2冊本を出版しました。残念ながら絶版です。この本は英訳で、「リーズナブルフェイス」、日本語にすれば「理に適った信仰」という意味です。理性的な言葉と教えによらなければ、キリストの教会は形成できません。改革派教会は教理の勉強ばかりしているとよく批判されますが、パウロが「正気であるなら、それはあなたがたのためです」と言うように、キリストの共同体である教会を形成するためには、福音の真実、それを理に適ったこととして教えることでしか、キリスト者を造り、キリストの体なる教会を建て上げることはできないからであります。

 そして、体なる教会の土台は、キリストです。このキリストがゴルゴタの上で、十字架刑で死なれました。それは、すべての人の罪を負われたからです。だから、パウロはこう考えました。自分を駆り立てる「キリストの愛」が次のことに現されていると。すなわち、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人は死んだことになります」。パウロは、わたしたちが十字架のキリストと共に罪に死んだという真実を、キリストの愛という理に適ったこととして受け入れました。

 キリストの十字架の愛は、キリストがすべての人のために死なれたという真実です。パウロは、その目的を続いて、こう考えました。「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。

 キリストの愛は、すべての人のためにキリストが死なれたという圧倒的な愛であります。この愛は、わたしたちをキリストに結びつけます。なぜなら、キリストは死から復活され、生きておられるからです。罪に死んだわたしたちは、キリストの復活と共に、自分のためではなく、キリストのために生きる者と変えられました。なぜなら、罪とは自己中心に生きることです。本来神に創造され、神のために生きるべき人間が、罪ゆえに神を離れ、自己中心に生きる者となりました。
 
  しかし、一人の人、キリストがすべての人の罪を負って、ゴルゴタの丘の十字架刑で死なれました。木に掛けられた者は神に呪われた者です。キリストが死なれたとき、自己中心に生きていたわたしたちも死にました。わたしたちは罪に死に、自己中心に、自分自身のために生きることにも死にました。キリストが復活され、洗礼によってキリストに結ばれたわたしたちもキリストを生活の中心において生きる者とされました。
 
  今朝、パウロの御言葉を通してわたしたちが聞きましたこの福音の真実を、わたしたちが理に適ったこととして理解し、行動すると、具体的にわたしたちキリスト者は、どのような行動をとり、目標を歩むのでしょうか。
 
  パウロたちのようにキリストの愛に駆り立てられて、気が狂ったように福音宣教したのは、使徒言行録、そして使徒たちに訓練を受けた初代教会の時代です。キリスト教会の2000年の歴史を振り返れば、常にキリスト教会は伝道に熱心だったわけではありません。むしろ、終末は近いと、伝道しなかった時期もあります。
 
  今年、上田光正牧師が、教文館から『日本の伝道を考える』という3冊本を出版しました。今1冊目を読んでいます。その本の中で上田牧師は、ローマ帝国時代のキリスト教を検証し、次のように興味深い問いをしています。「キリスト教はなぜ、また何を目指していたので、諸宗教の中で命脈を保ち、やがて文字通りの世界宗教となり得たのでしょうか」。この問いは、「教会の維持のために取り組む」わたしたちの教会にとって無関心ではおれません。
 
  上田牧師は次のように答えています。使徒信条にわれは「聖なる公同の教会」を信ず、とあります。この教会の建設こそ使徒パウロがコリント市の開拓伝道で目指したものであり、初代教会、そして宗教改革、今日のわたしたちが目指している教会形であると。わたしたちが「聖書的教会の形成」と言っているのは、使徒信条の「聖なる公同の教会」の形成であると、上田牧師は指摘しています。
 
  「聖なる」とありますように、キリスト者はこの世でキリストから招集され、一旦この世から離され、洗礼を受け、教会員となり、聖餐にあずかります。世から教会へと脱出するのです。このように世から分かたれることが「聖」です。
 
  「公同」とは、教会が「常に、すべての場所、すべての民」に対して開かれた公のものであり、どの国、どの地域、どの町や村のどの教会でも、教えや信仰告白、礼典が基本的には同じであることです。わたしたちの教会は改革派教会ですが、その前に「公同」教会ですので、使徒信条を信仰告白します。
 
  少し横道にそれましたが、上田牧師はキリスト教がローマ帝国に勝利し、世界宗教になったのに、4つの理由を挙げています。第1は伝道を意識し、常に「聖なる公同の教会」を信じ、その形成を目指したこと、第2に信徒の倫理的生活の高さ、第3に教会生活を重んじ、聖書が権威の書と呼ばれ、聖書が信徒に熱心に学ばれ、説教が熱心聞かれたこと。第4に殉教です。一粒の麦、地に落ちれば、多くの実を結びます。一人の殉教者の血によって、多くの人々の回心が生まれました。
 
  キリスト教史の面から教会の持続を考えれば、わたしたちがわたしたちの教会を愛し、どなたでも一緒に礼拝していただけるように、伝道を意識し、常に教会をオープンにし、常に同じ時刻に、同じ場所で、どなたでも礼拝に来ていただけるように備えていること。わたしたちの倫理的生活の高さを保つこと、創立70周年記念宣言(案)の十戒を学び、信徒個々の生活に生かすことは、わたしたちの教会の維持に有益となるということです。そして、教会生活を重んじ、聖書の御言葉の権威に服し、熱心に聖書を学び、説教を熱心に聞き続けることです。殉教は、覚悟しなくてはなりませんが、必ずしもキリスト者に必然的に伴うものではありません。聖霊の賜物であり、御言葉への熱心、主への忠誠を証しできる機会となるでしょう。
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第5章11節から15節の御言葉を学ぶことができて感謝します。今朝の御言葉から、わたしたちが今年の実施項目の一つである「教会の維持のための取り組み」について考えるヒントを得ることができますようにと、祈ります。
 
  今朝の礼拝でわたしたちが良心の声を聞いて、罪を告白し、罪の赦しの宣言にあずかり、キリストの臨在に近づけているかを知ることができました。
 
  パウロや伝道者、宣教師が正気を無くして行動するのは神のためであり、彼らの心がキリストの愛によって駆り立てられているからであると学びました。
 
  わたしたちの教会形成は、キリストの十字架の愛という真実を、理に適ったこととして理性的な言葉で教え、それを学びなされています。わたしたちの教会生活を通して、改革派教会に、そして改革派信仰に伝わる「理に適った信仰」を、わたしたちにも身につけさせてください。
 
  わたしたちは、パウロの時代と似た世界で、キリスト教を世の人々に伝え、「聖なる公同の教会」を建てようと目指しています。わたしたちも常に伝道を意識し、教会形成に励ませてください。人間の命が軽んぜられている時代です。わたしたちが神からいただく命を大切にし、より高い倫理生活を目指して歩ませてください。聖書を学ぶことを喜び、礼拝の説教を聞くことに喜びと熱心を与えてください。教会は殉教の実によってということを知っていますが、わたしたちが願うのではなく、主の御心をなしてください。
 
  わたしたちの教会にとって、「教会の維持のための取り組み」は困難な課題です。しかし、わたしたちは、主イエスが教えてくださった主の祈りの「天になるごとく、地にもなさせてください」と祈ります。主がどうかわたしたちと共に臨在してくださり、毎週日曜日にここで礼拝がなされ、あなたの民をお集めください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

コリントの信徒への手紙二説教 09     主の20015年7月19日

 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
                           コリントの信徒への手紙二第5章16‐21節

 説教題:「和解させる任務」
 使徒パウロとは何者であるか。パウロは、5章20節で「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。「使徒」とは、「使者、大使、特別な使命を帯びて派遣された者」という意味です。本来キリストが直接に弟子として任命された12弟子たちが12「使徒」と呼ばれました。彼らは、主イエスの復活の証人となり、全世界へと福音宣教をし、すべての国民に洗礼を施し、弟子訓練をし、キリスト教会を建て上げました。

  そして、パウロは12使徒とは別に異邦人への使徒に任命されました。すなわち、彼は最初ファリサイ派人として、キリスト者たちを迫害し、キリストに敵対していました。ところが彼がダマスコのキリスト者たちを迫害しようと、ダマスコに行く途上で復活の主イエス・キリストに出会いました。そして、彼は復活の主イエスに直接異邦人への使徒に任命されました。

 それは、神の御計画でした。だから、パウロは、5章18節と19節で次のように述べているのです。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」

 神の御計画とは、パウロがすでに5章14-15節で述べています。キリストの十字架と復活であります。神は、キリストを通して神に敵対するこの世と和解することを御計画され、実行されました。そして、パウロたちの福音宣教を通して和解の喜びを告げ知らされました。

 だから、使徒パウロの福音宣教は、「神がキリストの十字架と復活によって神に敵対しているこの世界と人間を御自分と和解させ、彼らの罪の責任を問わないで、むしろ、赦しを宣言する神の御業なのです。」それを、パウロは神の「和解の言葉」と述べています。なぜなら、神がパウロたち、福音宣教する者たちを通して、聞く異邦人たちに御自身との和解を勧めておられるからです。

 そして、パウロは、自分の使命であるこの和解の福音を語り、この福音が信頼できる根拠を、次のように5章21節で述べています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」

 パウロが神と敵対するこの世を和解させるのではありません。神が、この場合は「父なる神」が御子であるキリストの十字架の死を通して、御自分と敵対するこの世を和解させてくださるのです。そのために父なる神は、罪とはかかわりのないキリストを罪ある者として、神の呪いの十字架に渡されました。この神の御計画によって、アダムの原罪により生まれながらに罪に汚されているわたしたちも、キリストと共に十字架に死にました。そして、キリストが死人の中から復活され、わたしたちもこの復活のキリストの命をいただき、キリストを通して神の御前に義なる者とされ、永遠の命を得ました。

 この素晴らしい恵みを、パウロは知りましたので、5章16節と17節で次のように述べているのです。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

 「肉に従って知ろうとはしません」というパウロの言葉は、いくつかの理解があります。第1に「自己中心的な基準で」という意味です。この手紙の1章12節でパウロがコリント教会のキリスト者たちに次のように述べています。「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下で行動してきました」。

  パウロは、ここでは「肉に従って」を「人間の知恵によって」と述べています。「人間の知恵」とは「肉的な知恵」です。この知恵とは、「自己中心的な知恵」であります。具体的には、この知恵は5章15節の「自分自身のために生きる」という生き方に結びついています。
 
  ダマスコへの途上で復活の主イエス・キリストに出会う以前のパウロは、すなわち、回心する前の彼は、まさにファリサイ派人として「自分自身のために」「自分自身を誇るために」生きていました。彼はキリストに敵対し、キリスト者たちを迫害しました。なぜなら、ファリサイ派人として自己中心的な誇るべき生き方を、エルサレム教会を中心に広がり始めたキリストの弟子たちであるキリスト者たちによって脅かされていると思ったからです。

 しかし、パウロはダマスコへの途上で復活の主イエス・キリストに出会い、ダマスコでアナニアというキリストの弟子から洗礼を授けられ、キリストに結び付けられました。そして、今この手紙を書いている時までパウロは、回心前の彼の生き方を捨て、神のために、キリストのために生きています。これが「肉に従ってキリストを知ろうとしない」という意味であります。

 第2に「肉に従って」を「人間として」というふうに理解します。すなわち、「肉に従ってキリスト」を知るとは、この地上に人として生きたキリストを、少なくともパウロはゴルコタの丘で十字架刑になったキリストを、その場に居合わせた群衆の一人、ファリサイ派人の一人として見聞きしていたかもしれません。

 第3にユダヤ人たちは、ダビデ王のような地上のメシアを待望していました。「肉に従って」キリストを知るとは、ユダヤ人たちの期待したメシア、すなわち、イスラエルの国を建国し、支配する地上のメシアとして、主イエス・キリストを知ることをしないということです。

 今朝の御言葉から教えられることは、パウロたちだけでなく、キリスト者は皆、神の和解のために奉仕する任務を与えられているということです。わたしたちは、家族や知人を神と和解させる力はありません。しかし、主イエスをわたしの救い主と信じて、洗礼を授けられ、キリストと一つに結ばれたときに、わたしたちも和解のために奉仕する務めを与えられました。そうでなければ、キリスト者の個人伝道、家族伝道に意味はありません。

  この世のからわたしたちは、教会へと脱出しました。だから、この世にあって教会は、この世とかかわらないように存在しています。しかし、キリストはパウロたちのように、わたしたちをこの世へと遣わされます。そして、わたしたちは、パウロたちのように家族や知人たちに、そして町の人々に「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と勧めるのです。
 
 だが、パウロは、この勧めをコリント教会のキリスト者たちにしています。パウロの務めは、福音宣教を通してキリスト教会を建て上げることです。そのために今パウロにとって、彼の福音宣教を支援してくれるコリント教会のキリスト者たちとの良き交わりが必要でした。わたしたちの目を外に向けて、一致して伝道するためには、教会の中に争いがあっては難しいと思います。今コリント教会は、党派争いがあり、不道徳で不品行な問題が起こり、強いキリスト者たちと弱いキリスト者たちの不和がありました。そして、今外から偽使徒たちがやって来て、パウロたちを使徒でないと言いふらし、同調する者たちがおりました。コリント教会の中が罪におおわれ、再度教会は何によって立っているのかを確認しなければならない状態だったのでしょう。

  どうして自分自身が、本当にキリストを通して父なる神と和解させていただいたことを、罪を赦されているという喜びを知らずして、家族や町の人々に和解の言葉を運ぶことはできるでしょうか。また伝道も続かないし、将来教会を維持することも困難になるでしょう。
 
  コリント教会とわたしたちの希望は、パウロが語ります次の御言葉にあります。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
 
  わたしは、コリントの信徒への手紙ⅠとⅡを読むごとに、正直に心の中を明かせば、このコリント教会を見ても、わたしたちの教会を見ても、弱くて自信のない伝道者、信徒というイメージが浮かんできます。
 
  だが、パウロたちは、コリント教会の弱くて自信のないキリスト者たちを見捨てませんでした。キリスト御自身が見捨てられていないからです。父なる神御自身が見捨てられていません。むしろ、逆です。父なる神は、常に弱いわたしたちと和解しようとされています。だから、わたしたちに代わって罪なきキリストをゴルゴタの丘でわたしたちのために罪としてくださいました。そして、キリストを死人の中から復活させてくださいました。わたしたちがキリストゆえに神の義と永遠の命を得るためであります。こんなに駄目で弱くて自信のないコリント教会のキリスト者たちのために、罪の無いキリストは代わって彼らの罪を負い、死なれました。そして、今のわたしたちのためにも死なれました。
 
  当然わたしたちが和解の言葉を伝える者たちのためにもキリストはその罪を負ってくださいました。だから、わたしたちは、キリストから遣わされた使者として、「あなたの罪は赦されている。お願いします。キリストを信じてください」と喜んで和解の言葉を伝えることが許されています。

  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第5章16節から21節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
 
  わたしたちは、パウロたちと同じように、和解のために奉仕する務めが与えられていることを学ぶことができて感謝します。どうか、この教会の中でも、この世でもわたしたちを和解のために奉仕させてください。
 
  そのためにパウロが語りましたキリストの十字架と復活の福音をはっきりと豊かに理解できるようにしてください。まずは、キリストを通して自分が父なる神と和解させていただき、すべての罪を赦されている恵みと喜びを確信させてください。
 
  わたしたちを、聖霊を通して生まれ変わらしてくださり、自分中心ではなく、キリスト中心の生き方を通して、常にキリストの十字架と復活を仰ぎ、歩ませてください。
 
  わたしたちは、自分たちの弱さと自信のなさを知っています。家族にも、近隣の人々にも、和解の言葉を伝えられません。本当に自信がないからです。今朝のパウロの御言葉を通して、神がわたしたちを見捨てることなく、和解してくださり、「十字架のキリストは、あなたの罪の赦しである」と確信させてくださり、感謝します。
 
  聖霊により頼み祈ります。どうか、わたしたちにチャンスをください。家族に和解の言葉を伝え、近隣の人々や知人に伝えることができるようにしてください。
 
  一人が一人に和解の言葉を伝えることができれば、わたしたちは教会にとっての課題である「教会の維持のための取り組み」を一歩進められると思います。主イエス・キリストよ、わたしたちに少しの勇気と踏み出せる一歩をお与えください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。