25/1/26
「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 マタイ11:25~30
序 今年の年間聖句をマタイ11:28といたしました。目標ではなくて単純に覚えていただきたいために年間聖句としました。礼拝の招きの言葉として有名な箇所です。神様に“招かれている”ということを一緒に覚えましょう。
1.「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」11:27
礼拝のたびに朗読される御言葉のため礼拝に来たことがある人なら誰でもわかる言葉です。だからこそもう一度読み直さなければいけない箇所です。理解していると思い込んでしまうからです。マタイ福音書ではこの言葉を、①イエスによる父賛美25~26節、②「わたしに任せられている」という御子イエスの独特な立場27節、“だから”③「わたしのもとに来なさい」というイエスの招きと約束28~30節という順番で記されています。最初に①のイエスによる父賛美ですがルカ福音書では10:21に記され、その直前に72人の弟子たちが派遣された町々村々の伝道旅行から帰ってきたことが記されています。その弟子の報告を聞いて「そのとき」イエスは父を賛美したと記しています。報告では「悪霊さえ屈服する」と喜んで報告しますが、イエスは「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とお教えになりました。父を賛美した後「彼らだけに」「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。/多くの預言者や王たちは/見たかったが見ることができず/聞きたかったが、聞けなかった」からだと伝えました。この成り行きからわかりますように、宣教の結果が見事に「父よ、これは御心に適うことでした」という出来事への賛美なのです。その御心とは「このことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」というものなのです。その代表としてファリサイ派や律法学者たちが挙げられ、他方罪びとや社会からの疎外者などが福音書には挙げられているわけです。神様は神の国、永遠の命という約束を福音宣教という形で私たちにお与えになりました。パウロはこれを「宣教という愚かな手段」しかし「召された者には、神の力、神の知恵」と言いました。(Ⅰコリント1:21)この手段が「信じる者を救おう」ということに見事に合致するからです。そしてこの父の御心は②「すべてのことは、父からわたしに任さられている」というイエスご自身の使命にも結び付いているのです。イエスは父を賛美しつつ、まさにその父の御心にふれて自らの使命を強く意識されたのです。父なる神を知っているのは子であるイエスだけです。同様に子を知っているのも父だけです。だから父が「幼子のようなものにお示しになる」という御心はイエスご自身の使命とご意思にも見事に合致していたのです。イエスはこの父の御心を一つに共有していることの喜びを賛美し、同時に自らの強い使命感に喜びを感じられたのだと思います。このイエスの喜びを理解しながら③つ目の招きの言葉を噛みしめなければいけません。イエスの招きは①「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」という招きです。「賢い者/幼子」という人間的な知恵頼みか神への信頼かという前述の賛美からすると“神を真実に求めるものは”と言いたいところですが、イエスが招く対象は「疲れた者、重荷を負う者」なのです。求道の有無というよりは、地上では誰にも助けてもらえず本人自身さえ諦めていたり絶望している状況の人を意識しているのではないかと思います。その意味でもう“神”という方にしか頼めるところがない、しかしそこにこそイエスの目が注がれ強い使命感が表れています。だから②「“わたしのもと”に来なさい」と招いています。これが別の言葉で言い換えられ「わたしは柔和で謙遜な者/わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と勧められます。強い使命感を持ち、この方以外に神を知り求める方法はない唯一の存在です。大抵地上の世界では求める窓口が一つしかなければ相手の要望をのみ、たとえ相手が横暴であっても忍耐しなければいけませんが、父にいたる唯一の存在でありながらも御自身は「柔和で謙遜な者」であるのです。誰でも、かつ特別な知識や才能を持たずとも「来る」のならば喜んで迎える御心をもっているのでこのように名乗ったのです。「軛」とは主人が牛馬を主人の思う方へと導く道具です。軛を負うとは“負担”のことではなくて導きを受けることを意味しています。併せて「わたしに学ぶ」こと、すなわちその導くほうへと歩むことをお教えになりました。この招きには約束がついています。それが③「休ませてあげよう」です。これにも言い換えが付いていて「そうすればあなたがたは安らぎが得られる」です。この休み、安らぎとは最初に招いた時の言葉「疲れた者、重荷を負う者」に呼応した言葉であって、どうにもならない、誰にも助けてもらえない、もう諦めてもいることに対して、開ける道、神の真実、希望の光を得ることができるという約束です。教会では長い間この言葉を礼拝の招きの言葉として朗読してきました。元々の御言葉では礼拝というだけでなくキリスト教、すなわちイエスをキリストとして信じ依り頼もうとするすべて人にイエスがご自身の使命と喜びをもって招いている言葉です。ヨハネ福音書ではイエスが当時の人の願いや求め方が間違っていてそれを正す言葉が記されています。「あなたたちは聖書に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ5:39~40) 永遠の命というものが当時の時代や宗教では最も求められたところだったのかもしれません。むしろ現代人の人生に置き換えたほうが良いかもしれません。どこに何を求めて生きているのかは様々かもしれませんが、当時の人が的外れな求め方をしていたように現代でも求めていることとその求め先が間違っていることは、あながち当たっているかもしれません。イエスの呼びかけは時代が変遷しても変わることのない真実で確かなものなのではないでしょうか?
2 、「更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」ルカ20:12~13
「わたしは尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。/わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。」イザヤ65:1~2
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」ヨハネ黙示録3:20
最後に上記の御言葉を補足しておきたいと思います。ルカ20章に記されているブドウ園と農夫のたとえに出て来る一節です。“たとえ”話なので普通にサラリと聞き飛ばしてしまいそうなお話ですが、主人が神様となると違います。皆さんが主人だったら収穫を納めもしない農夫たちに三人も僕を送ったりするでしょうか?これがこのたとえ話のポイントです。一人目は袋叩きにして追い返す、二人目はそれに「侮辱して」を加え、三人目は「傷を負わせて」放り出しました。農夫の態度はいかにも人間らしい行為です。しかし主人は?。「そこで、ぶどう園の主人は言った『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」一度ならず二度三度とエスカレートし、それで最後にあなたなら最愛の息子を派遣しますか?それともこの主人は甘い人だなと笑いますか?このたとえを補ってご紹介したのは、神様からの招きというものの意味をよく考えていただきたいためです。主人は甘いのではありません。人間を知らないのでもありません。誰よりもよくご存じであり、最愛の息子を最後に派遣するほど真実な方なのです。その息子の発言こそ「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という招きです。私たち人間が尋ねよう、求めよう、呼ぼうともしないのに神は尋ね出され見いだされ、ここにいるとさえ答えてくださったのは、主御自身が手を差し伸べてきたからです。今もそしてこれからも、いつもいつも私たちの戸口に立って、つまりすぐそばにいて私たちの心の扉をたたき続けておられます。なかなか開けようとしない私たちにそれでも待ち続けていてくださるのです。ちっとも開けないのでもう食事は済ませた、だからあなたは勝手にしなさいなどと言わないのです。今も明日も「戸口に立って、たたいている」のです。どうか耳を心を開いて招く声に耳を傾けてください。 父なる神様、あなたがそばにいて待っていてくださること、愚かな私たちを真実に招いていてくださるその声に心を開けることができますよう助けてください。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
「イエスに触れようと」ルカによる福音書6章17~26節
序
4章31節~9章50節まで「メシアのわざ」というテーマでくくられ、その中に4つのテーマが展開されているようです。前回はその最初で「メシアの権威」というテーマでした。次は6章12節からで「使命の性質」というテーマになっています。①12使徒の選抜、②大説教、③異邦人百人隊長の信仰、④やもめの息子を生き返らせる、⑤イエスとヨハネ、⑥罪深い女とパリサイ人、という順番でお話が並んでいます。(6:12~7章終わり迄)なんだか「使命の性質」と言われてもピンとこないのですが、前のテーマではイエス様の言葉の権威というものがクローズアップされ、そこから「この言葉はいったい何だろう」4:36と話題になり、ペトロでさえ網を降ろせと指示されるイエスの言葉に大漁をもって驚嘆したのです。「清くなれ」「罪は赦された」と言い放つだけで病気のみならず、神の前で(祭司、律法に立証されて)清くなり立ち上がったのです。疑念をもつ敵のセリフを借りれば「この男は何者だ」という思いへと読者を導き、徴税人レビを弟子として召してこの問いに答えます。この方は「医者」であり「婚礼の花婿」であって「人の子は安息の主である!」。こんなテーマでお話を並べたのは当時の時代も後の時代も「メシア」待望という信仰は生まれてくるだろうけれども、本当のメシア、神からのメシアとはどういう方であるのか?これを正しく教えたいからです。逆を言えば地上の私たち人間の中に生まれてくるメシア待望が間違っていたり、一方的な希望や要求を押しつけたり、あるいは自己願望になってしまいやすいのです。父なる神様は聖書を通してご自身が約束する救いとその救い主を証ししたいのです。
ここから展開する次のテーマは、その主イエスの使命に見られる特徴に焦点を当てていくのです。端的に言えば「神の国の福音」を宣べ伝えるのが「私の使命」だと言及されたイエス、ではその福音で伝えられる「神の国」とはどんなものなのか? 私たちは人が亡くなると「天国へ行った」と話しますがイエスを通して開示される「神の国」とはどんなものなのでしょうか? 神の国の特徴がイエスの使命を通して明かされてくるのです。
1.「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」6:19
その最初が12使徒の選抜(①)で始まります。この選抜のためにイエスは徹夜の祈りをされました。それほど重要な選抜だったのです。イエスはペトロでさえ見抜けなかった魚の群れを見抜いたお方です。当然ペトロのことだって他の弟子たちだってご存じでしょう。しかしただ知っている、見抜いているということだけで選抜したようではないようです。ヨハネ15:16に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出掛けて行って実を結び、その実が残るようにと・・・わたしがあなたがたを任命したのである」とあるように、選んだ弟子たちのその後の結実まで考えて選抜したようです。12人は旧約の民イスラエル12部族からくるものでしょう。当然選抜された12人はイエスによる新しい神の民イスラエルを象徴しています。大切なことはこの新しい神の民が「使徒」と名づけられるところにあります。神の国の福音にあずかり、その福音によって組織される神の民は「使徒」すなわち「遣わされる者」と呼ばれます。民は世に遣わされて神の国の福音を宣教するために組織されます。この人たちが様々な出所をもつ人であることが名前のリストで明示されるのです。政治思想、イスカリオテ(「町の人」という意味)という都会人、ペトロのような漁師、マタイのような徴税人。つまり神の民はこの地上の政党、価値観、職業などを超越しているのです。しかし超越していても一つ共通するものを持ちます。それが17以降(②)「何とかしてイエスに触れようとした」ところです。この熱意は「イエスの教えを聞くため」また「いやしていただくため」という救いから生まれた熱心です。イエスの言葉と力によって救われた!それが神の民に共有するものです。この熱心は民の信仰に基づくものではなく、本人たちの賜物でもなくて「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたから」というイエスの力によるものです。神の国はこの段落で出てくるように「貧しい人々(6:20)」「やもめ(7:12)」「異邦人(百人隊長、7:2)」「徴税人(7:29)」「罪深い女(7:37)」らのものであって、愛と信仰とを必要とするにすぎないのです。そしてそれは病気、死、罪から救われたことによって生まれたものです。これを単なる社会的な弱者と見てはいけません。百人隊長は身分も権威も持っています。むしろ神の招きは地上的人間的な判断とは違うということを意味しています。ルカ18:18以降に金持ちの青年議員の「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」との問いに「すべて売り払って私に従え」と教えます。彼が金持ちだったところから非常に悲しみ、この対話を見た民衆は「それでは、だれが救われるのだろうか」とがっかりします。まさに民衆にはこの青年こそ相応しいと見ていたのです。こうした人の判断がここでは取り上げられず、イエスの祈りと憐れみによって驚くべき人たちが救いへと招かれるのです。
2 、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」6:22~23
そこで今朝の聖書箇所、テーマの中の②段落目に目を向けたいと思います。マタイでは山上の垂訓と呼ばれる説教がルカでは平地の説教として紹介されます。最初に神の国の約束が4つの幸いと4つの警告で語られ、27節から敵への愛、4つの命令(祝福を祈り、頬を向け、拒まず、与えよ)、32節からは4つの憐れみ、37節からは裁かれない4つの態度、39節からは弟子道、46節からは自己吟味と、短いながらもギュとまとめられています。この段落は最初に話した通り「メシアのわざ」というテーマでくくられます。しかし、通常読者はメシヤの業ではなくてマタイの山上の垂訓のように“教え”あるいは“説教”ではないかと思われるでしょう。ルカ福音書がここに大説教を入れている理由は12使徒選抜に始まるお話の「流れ」にあります。イエス様は徹夜の祈りをなして12人を選抜して「使徒」と呼ぶ新しい神の民を生み出されました。更に「山から下りて」ご自身の力によって神の民となる群衆が生み出されます。その神の民に新しい律法を与えられたのです。古のモーセとイスラエルのようにです。十戒ではなく「神の国の福音」、その福音に生きる新しい掟は神の「恵み(33)/憐れみ(36)/罪の赦し(37)/わたしの言葉(47)」を土台にするのです。さらに今朝の箇所では4つの幸いと4つの不幸が語られますが、どちらも新しい神の民に向けて語られていることに注意しなければいけません。地上的人間的には不幸と思われることを、神の国到来をもってすべて幸いであると語った後、22「人々に憎まれるとき、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである/喜び踊れ」と語ります。続く4つの不幸では幸いと思われることを同様に神の国到来による不幸と語った後、26「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸だ」と語ります。どちらも同じあなたがたであって、違うのは地上の人々の態度です。つまり自分がどちらなのかと聞くべきものではなくて、どちらも同様に聞くべき説教になっているのです。救われ赦され癒されて神の民となりました。「神の国はあなたがたのものである」!しかし旧約の民にもモーセは警告しました。申命記8:11~「主を忘れることのないように注意しなさい。あなたが食べて満足し、・・・建てて住み、殖え、増し、豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。」しかし旧約の歴史は神の民の忘恩を証明したように、何度も忘れて離れていきました。ですからここでも4つの幸い、貧しかった、飢えていた、泣いていた時に福音に救われたことを思い出せ! そして4つ不幸、満腹し、笑い、ほめられるようになった時、心のおごりを戒めよ!と言われたわけです。よく考えてみてください。使徒の選出から、「教えをきくため」「いやしていただくため」に「何とかして触れようとした」信仰のスタートラインを。私たちは何か特別の才能や宗教性をもっていたでしょうか?信仰をもってからもこの世の人々が考える幸不幸とはちがった希望と戒めとを覚えてきました。またイエスを信じるがゆえの忍耐と幸いを覚えてきました。その価値観や希望はすべて「イエスから力が出て」いて、それに触れてきたところの神の賜り物です。神の国はわたしたちのものです。だから忘れてはいけません。イエス様によって救われたこと、受けた憐れみを!「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」
父なる神様、私たちに神の国の福音をもって救ってくださり感謝します。どうか新しい神の民として世に遣わされてその恵みを覚えるものとしてください。 主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
25/4/27
「福音の種蒔き」ルカによる福音書8章4~18節
序
前回のテーマはメシア職の性質でした。メシアによる神の国到来は”遣わされる”福音宣教によって到来します。この福音は癒しの業と共に進展します。イエスの大説教では神の国の福音がどのような人に幸をもたらすのかが明らかにされ、裁きよりも和解を求め、敵対よりも神の憐れみをもたらすものでした。異邦人(百人隊長)であっても救われます。福音の権威を信じる信仰のみが救いをもたらすのです。やもめの息子が生き返る業をしてその信仰さえも後のことであって、救いはメシアの一方的な憐れみによることが示されます。こうしてこの方がどのような救いをもたらすメシアであるのか、洗礼者ヨハネの告白と罪深い女性の涙で読者に示されたのです。
今朝は3番目の段落です。(8章全体)いよいよ「神の国の福音宣教」というテーマでお話が展開します。マルコ福音書では十字架上のイエスを見守る姿で紹介された①女性たちがここではイエスと12使徒団の福音宣教に奉仕をする者として紹介されます。(8:1~3)神の御国は軍事力ではなく兵士でもなく、使徒とそれを“支える奉仕”で進展します。②種蒔かれた人々のたとえ(4~18)で、この御国宣教がイエスの業として教えられ、③「神の言葉を聞いて行う」家族を生み出します。(19~21)④突風をも従わせ(22~25)、⑤目には見えない霊の世界では人を悪霊から解放し(26~39)、⑥死んだ娘、死の病の女性を生き返らせることをして死の悲しみにうちひしがれる人々に命の喜びを回復します(40~56)。神の国の福音宣教はそれを聞く人々の内にイエスの業による結実をもたらして、地上の世界、霊の世界そして死の絶望の淵に希望をもたらすという、まさに”神の”国としか言い表すことができない驚きと喜びをもたらすのです。ここでも6つの話で展開されています。
こうしたお話の展開を振り返ってみますと、“神の”国というものがどのようなもので、どうやって進展していくのかを大雑把に理解することができます。宣べ伝えるという一見非力に思える業、あるいは「12人」の使徒と呼ばれる働き人を派遣することで行われますが、ここでもその一行の働きに奉仕する人たちをあえて紹介しています。福音宣教は収穫と違って忍耐と苦労の多い働きです。奉仕する人たちの支えがあってなされるものです。しかし耕しても不毛という堕落した世界の中にあって(創3:17~18)百倍の実を結ぶという常識を超越した喜びが実ります。その意味で肉親の家族を超越した深い結びつきをもった家族とされ、それが自然界や霊界さらには地上の生死の世界にまで、つまり私たちが怯えるような様々な世界にまで力と救いをもっています。一見イエス・キリストの教えと福音宣教などわかりきったように思ってしまいますが、実は何も知らないということをこの箇所の展開は読者に教えています。確かに私たちに蒔かれた福音の種が結実に至るには地上の人生を通しての「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して」という成長を待たなければいけませんが、この言葉を共有する者は肉親の家族以上の深い結びつきがあって、人生の荒波突風の中においても目に見えない霊界のような世界において、そして何よりも命の瀬戸際においても大きな力を持っていることを私たちは教えられ知っているのです。
1.「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」15 「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えら、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」18
地上の世界とは違う”神の”国は聖書が記すところの「福音」によってもたらされ進展します。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら」8:1とはそのことを意味します。このテーマの最初に有名な「種蒔かれた人々の譬え」話が掲載されて、神の国の進展は蒔かれた種、すなわちイエスの告げ知らせる福音の言葉によって進められることが教えられています。ですからこの譬えは、もう一つ加えられた「ともし火の譬え」で結論を述べています。すなわち「どう聞くべきかに注意しなさい」です。イエスの業によって進められた御国の進展、福音宣教なのになぜ神の選民イエスラエルにはなかなか届かないのか、なぜあんなにも喜んで信仰に入った信徒たちの中から離れてしまう者が出てくるのか、という問題意識がこの聖書箇所で扱われているのです。蒔き方が悪かったのでしょうか? あるいは蒔かなかったからでしょうか? つまり蒔いた方に落ち度があったのでしょうか? 逆に自分たちが信仰に留まっているのは自分たちが「良い土地」「立派な善い心」だったからでしょうか? こうした神や教会への中傷や信仰者のうぬぼれを戒めて、人間的な理解を正そうとしているのです。「どう聞くべきかに注意せよ」という結論に追加して「持っている人、持っていない人」が教えられています。この一節はのちに19:11以下の「ムナの譬え」の結論19:26にも引用されます。これは賜物のお話です。どう聞くべきかという注意はすなわち自分がきちんと自分の内に「持っているか、持っていないか」という吟味に繋がります。何を「持つ」のかと言えば自分の心に蒔かれた福音の種への信仰と信頼のことではないでしょうか? しかしこれも「賜物」なのです。つまり自分の能力や品性で掴みとったものではなくて神から”賜った”ものなのです。私たちはこの種蒔かれた人々の譬えからイエスが伝えたかった結論「どう聞くべきかに注意せよ」「持っている、持っていない」の吟味と、なぜ自分がそれを「持っている」のかという意味を考えなければいけません。イエスはイザヤ預言の言葉を引用して「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが」という神の恵み・憐れみによるという秘密を教えます。
たとえ話はまず最初に蒔き方が悪かったのでも蒔いた方に問題があったのでもないことを示しています。むしろ蒔かれた土地のほうに問題があります。これを「人たち」と説明しています。12「道端のものとは・・・人たちである」。続けて4つの例が紹介されます。種は神の御言葉、道端は「聞くが信じて救われないように悪魔が御言葉を奪い去る」つまり「信じない」聞き方のことです。石地とは「聞くと喜んで受け入れるが根がない」つまり芽や葉は出るがその心に根付かないので「試練に遭うと身を引いてしまう」姿です。茨の中とはきちんと根をはり芽も出て成長しますが、「途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて」結実しない姿のことです。そして最後に良い土地とは「善い心」「よく守る」「忍耐」して御国の命へと結実します。ちなみにルカ福音書では結実の有無だけが大切であって「何倍」かは問題にしていません。このお話の難しさは「悟ることが許されている」という神の憐れみによるのですが、その成長結実が私たちの聞き方によって変わる点にあります。一見私たちの聞き方の行為で決定するかのように思えますが、だったら自己責任となってしまいます。そうではなくて神の憐れみというものが私たちの聞き方までも含めたものなのでしょう。だから自らのへの神の憐れみを認識することがどう聞くべきかの注意や持っているかという吟味にも繋がるのでしょう。
2 、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」8:10
繰り返しますがこうした結実の有無は確かに私たちの「聞き方」に左右されます。もっと言えば「持っているか、持っていないか」です。これは蒔かれた福音の言葉への畏れと信頼のことです。しかし先にも説明したようにこれは神様から「賜った」ものなのです。決して自分の心が最初から「立派で善い」のでも「忍耐」できる努力家だったからでもありません。それが弟子の質問への答えで明らかにされています。すなわち「あなたがたには・・・許されている」のです。他の人には譬えで話す理由としてイザヤ書6:9の警告を引用します。福音が拒絶されるのは神を捨てた不信であってその不信が審判となって跳ね返った結果です。聞く・聞けない、持つ・持たないは私たちの心に応答される神の憐れみの業によって「与えられ」もし「取り上げられ」もします。すなわち私たちは神の憐れみによって父なる神様、御子イエスへの信頼を持つことができるようになったのです。高ぶってはいけませんし自分なんかにはわからないのだと卑屈になってもいけません。ローマ11:17以下「折りとられた枝に対して誇ってはなりません。」「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」「彼らも不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。」イエスによる神の国の福音宣教は神の憐れみの業なのです。私たちはこの業にあずかって「持つ」ようになったのです。この憐れみの深さと大きさを考えることが「どう聞くか」に注意をもたらします。宣教へ信頼を持ち続けるべきなのです。
父なる神様、私たちを憐れんでくださり感謝します。どうか私たちに届けられた福音をいつまでも喜び感謝することができますように。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。