ジュネーヴ教会信仰問答41           主の2022330                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第204-6節(旧約聖書P126) 申命記第5810(旧約聖書P289)

 第二部 律法について

 第二四聖日

問150 先を続けましょう。

 答 神は刑罰規定を付け加えておられます。すなわち、御自身が私たちの神エホバであり、御自身が憎む者には父の罪を子に報いて三・四代に及ぼす、と。

問151 どうして神は御自身の強い力について語られるのですか。

 答 御自身の栄光を守って、犯されたならば報復する十分な力を持つということを、こうして表明しておられるのです。

152 「妬み」という言葉はどんな意味ですか。

 答 御自身と同等の者、あるいは同輩となる者を忍び得たまわないという意味です。すなわち、神は私たちに無限の慈しみを与えたもうたように、私たちも完全に彼のものとなることを欲しておられます。そして、彼に捧げ切り、彼に全く固着することが私たちの魂にとっての貞潔であり、それに反して彼からそれて迷信に曲がって行くのは、いわば姦淫によって身を汚すようなものであると言われるのです。

153 父の罪を子たちに報いるとは、どういう意味で言われたのですか。

 答 これによって私たちにさらに大きい恐れを突き付けるのです。すなわち、彼を怒らせたてまつる者らに罰を与えて威嚇するに留まらず,その者の子孫までも呪いたもうのです。

154 しかし、他の人の過失ゆえに罰せられるとは、神の公平に相応しいことでしょうか。

 答 人類の状態が如何なるものであるかを考えて見れば、問題は解決します。すなわち私たちは皆生まれながらの呪いに縛り付けられており、この境遇のままに捨て置かれても、神に不平を言う謂れはありません。しかし、子孫にまで祝福を及ぼして、敬虔な者に対する愛を示したもうたように、神は不敬虔な者に対してはその子らからも祝福を奪うことによって、報いを遂行されるのです。

155 先に進みなさい。

 答 それに反し、神を愛しその戒めを守るすべての者に対しては憐れみを約束して、慈しみ深く、甘美さをもって私たちを誘って下さるのであります。

156 敬虔な人々の純潔さは、たとい不敬虔な者がいても子孫全員を救うとあなたは理解しますか。

 答 決してそうではありません。これは次のようになっております。神は信ずる者にその慈しみを注ぎ、彼らに対する恵みのゆえにその子たちまで及ぼしたもうのです。しかも、単にこの世の命に関して彼らの持ち物を栄えさせたもうのみでなく、彼らの魂を聖化して、御自身の群れのものと看做して下さるのであります。

157 しかしこれが永久的でないことは明らかです。

 答 その通りです。神は宜しとされる時には不敬虔な者の子たちにも憐れみを示したもうように、その顧みたもう人々のうちから御旨にしたがってある人々を退く、御自身の恵みが信仰者の子らに固定されることがないようにされるのです。しかも神はこの約束が空しくなく、偽りでもないことが確立されるよう調整したまいます。                       ローマ六・一、ローマ二・三―一一

158 どうしてこちらでは千代であり、刑罰の断罪についてはただ三・四代にとどまると指定されるのですか。

 答 これは御自身が厳しさよりもむしろ優しさに傾いておられることを表わしています。これは他の所に「神は罪を赦すに速やかであり、怒るに遅い」と言われる時証しされているのと同様であります。

                        出エジプト三四・六-七、詩篇一〇三・八

 

ジュネーヴ教会信仰問答の第二四聖日、問150158と答を学ぼう。第二三聖日の問143149と答において、十戒の第二戒の解説を学んだ。その続きである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問150と答で第二戒の解説を続けている。問150と答は、次の刑罰規定の付加についてである。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う(出エジプト20:5)。ジュネーヴ教会信仰問答は、答でこう記している。「神は刑罰規定を付け加えておられます。すなわち、御自身が私たちの神エホバであり、御自身が憎む者には父の罪を子に報いて三・四代に及ぼす」と。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問151158と答でこの刑罰規定の付加について解説する。問151と答においては、どうして主なる神は報復する力の強さを述べておられるのかである。第一に神の栄光を守るためである。第二に主なる神が報復するに十分な力を持たれていることを示すためである。

 

主なる神は、他の神々や被造物を偶像礼拝し、御自身の栄光を傷付ける者に対して激しく怒られる。主の報復は、主を否む者だけではない。彼の子孫、三代、四代にも及ぶほどのものである。これは、恵みの契約に基づいているからである。主なる神は神の民イスラエルと永遠の契約を結ばれた。だから、違反者だけではなく、その子孫にも神の怒りは及ぶのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問152と答は、「わたしは情熱の神である」の「情熱」にいての解説である。これは、妬みのことである。主なる神は、嫉妬深い神である。これは、主なる神を擬人化している。私たち人間が持っている感情である。この感情は、夫婦関係によく見られる。夫婦関係は互いに相手に対して貞潔を要求する。同様に主なる神は、恵みの契約者である神の民に対して御自身にのみ献身を要求される。それゆえに主なる神から離れ、他の神々を神とし、偶像礼拝することは、霊的姦淫の罪である。夫婦が姦淫した相手に対して嫉妬するように、主なる神は神の民イスラエルが偶像礼拝によって霊的姦淫し、身を汚すことに対して嫉妬され、激しい怒りを下される。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問い153と答は、「父の罪を子に報いて三・四代に及ぼす」ということについて解説する。父祖の罪をその子孫に報いるとは、どういう意味なのかと問うている。第一に主なる神は神の民イスラエルに大きな恐れを抱かされている。それは、刑罰を受ける当事者だけではなく、彼の子孫にも及ぶ恐れである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、その理由を述べてはいない。恵みの契約の故であると。それよりも問154と答において父祖の罪が子孫に及ぶことは、主なる神が不公平ではないかと問うている。刑罰は罪を犯した者のみが負うべきものであるからである。問154の答は、恵みの契約のことを述べているのです。アダムの罪によって全人類は生まれながらに神の怒りの子となった。神の怒りによって滅ぼされて当然である。しかし、主なる神はアブラハムと恵みの契約を結ばれて、彼と子孫の神となり、彼らは神の民とされた。アブラハムのように主なる神に忠実に従う者と彼の子孫は祝され、主なる神に不従順になる者とその子孫は神の厳しい刑罰を受けるのである。

 

 

155158と答は、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」という主なる神の約束の御言葉の解説である。ジュネーヴ教会信仰問答は155と答で、この約束がどんなに神の民にとって、甘美であるかを教えている。以下は次回に学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答42           主の202246                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第3449(旧約聖書P151)、ローマの信徒への手紙第2311(新約聖書P274275) 

 第二部 律法について

 第二四聖日

155 先に進みなさい。

 答 それに反し、神を愛しその戒めを守るすべての者に対しては憐れみを約束して、慈しみ深く、甘美さをもって私たちを誘って下さるのであります。

156 敬虔な人々の純潔さは、たとい不敬虔な者がいても子孫全員を救うとあなたは理解しますか。

 答 決してそうではありません。これは次のようになっております。神は信ずる者にその慈しみを注ぎ、彼らに対する恵みのゆえにその子たちまで及ぼしたもうのです。しかも、単にこの世の命に関して彼らの持ち物を栄えさせたもうのみでなく、彼らの魂を聖化して、御自身の群れのものと看做して下さるのであります。

157 しかしこれが永久的でないことは明らかです。

 答 その通りです。神は宜しとされる時には不敬虔な者の子たちにも憐れみを示したもうように、その顧みたもう人々のうちから御旨にしたがってある人々を退く、御自身の恵みが信仰者の子らに固定されることがないようにされるのです。しかも神はこの約束が空しくなく、偽りでもないことが確立されるよう調整したまいます。                       ローマ六・一、ローマ二・三―一一

158 どうしてこちらでは千代であり、刑罰の断罪についてはただ三・四代にとどまると指定されるのですか。

 答 これは御自身が厳しさよりもむしろ優しさに傾いておられることを表わしています。これは他の所に「神は罪を赦すに速やかであり、怒るに遅い」と言われる時証しされているのと同様であります。

                        出エジプト三四・六-七、詩篇一〇三・八

 

ジュネーヴ教会信仰問答の第二四聖日、続きの問155158と答を学ぼう。問155158と答は、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」という主なる神の約束の御言葉の解説である。主なる神の「慈しみ」は、「恵み(ヘセド)」である。この語は、旧約聖書においては契約の概念と密接な関係にある。人間のヘセドは変わるが、主なる神のヘセドは変わることがない。だから、主なる神は、預言者イザヤを通してこう言われる。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

 

幾千代」は、「千」の複数形で、幾千代は意訳である。文字通りに幾千代ではなく、非常に長い期間という意味である。神の民の指導者モーセを通して主なる神は、申命記第79節でこう述べられている。「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる」。主なる神は誠実な神である。主なる神は、主を愛し、主の戒めを守る者に対してまことを尽くされる。神のヘセドは長い期間変わることはない。だから、ジュネーヴ教会信仰問答は155と答で、この約束がどんなに神の民にとって、甘美であるかを教えていると述べているのである。

 

しかし、主なる神の不変のヘセドは、子孫が不敬虔であっても、祖先の敬虔によって救われるものではないと、ジュネーヴ教会信仰問答は問156と答において述べている。主なる神のヘセドによる恵みの契約は、主なる神の一方的な恵みである。確かに主なる神とアブラハムとの恵みの契約は、主なる神と彼と彼の子孫との約束であった。主なる神はアブラハムを通して彼の子のイサクを、彼の孫のヤコブを、そして彼の子孫たちである神の民イスラエルを祝福された。主なる神が恵みの契約を通して示されたヘセドは、アブラハムの子々孫々に及ぶほどもものである。そして、この恵みの契約の祝福は、この世において子々孫々に及ぶだけではない。この世から神の民たちを分かちて、聖なる者とする。この世で神の民として歩ませるのである。

 

更にジュネーヴ教会信仰問答は、恵みの契約が機械的にアブラハムの子々孫々に永久に続くものではないと述べている。恵みの契約は肉的ではなく、霊的である。使徒パウロもローマの信徒への手紙978節でこう述べている。「また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子どもということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。

 

恵みの契約は、主なる神のヘセドを義務づけ、固定するものではない。それゆえにアブラハムの肉の子であるイシュマエルは斥けられた。イサクから生まれたエサウは捨てられ、ヤコブが恵みの契約に入れられたのである。主なる神のヘセドは変わらない。しかし、主なる神は主権的な選びによってアブラハムに約束の子イサクを与え、イサクから生まれた兄のエサウを捨て、弟のヤコブを選ばれた。

 

恵みの契約は、アブラハムから子のイサク、孫のヤコブ、そしてヤコブの12人の息子たちへ、モーセと神の民へ、ダビデ王を通して、キリストへ、そしてキリストを通してわたしたち異邦人へと結ばれたのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問158と答において神のヘセドは幾千代、神の御怒りは三、四代と述べられていることの意味を問うている。主なる神は、その本質において愛なる神である。だから、主なる神の戒めを守り、愛する者たちには、変わらない愛と慈しみを注がれる。しかし、主なる神は戒めを守らず、主なる神を憎む者に対して、究極的には怒りと裁きを下される。しかし、主なる神は憐れみと寛容を示して、しばらく彼らの罪を忍ばれるのである。

 

主なる神はモーセを通して神の民に出エジプト記3467節でこう宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。

 

 

この主なる神の御言葉は、第二戒を犯して当然処罰される神の民に対して、永遠にヘセドである主なる神は、常にアブラハムとの恵みの契約を覚えられ、彼らの罪を赦し、恵みと憐れみにより恵みの契約を更新されるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答43           主の2022413                                                                                                                                       

聖書箇所:ルカによる福音書第2216(新約聖書P153)、出エジプト記第207(旧約聖書P126) 

 第二部 律法について

 第二五聖日

159 さあ、第三戒に進みましょう。

 答 「汝の神エホバの名を濫りに口にあぐべからず」。

160 どういう意味ですか。

 答 神は御名が濫用されることを拒否されるのです。それは単に偽り誓う時だけでなく、必要がないのに誓うこともそうであります。

161 神の名を誓約の中で正当に用いることは出来るのですか。

 答 はい出来ます。正しい理由で用いる時は良いのです。第一に、真実を確認するため、第二に、人々の間に相互の愛と一致を育成するために誓約を立てるのが相応しい場合にこれは大切なものであります。

162 ここでは神の御名を汚し、あるいは神の誉れを低める誓い以外には言及されていないのですか。

 答 神は一種類を挙げることによって全般に亙る警告を私たちに与えたもうたのでありまして、恐れと敬いとをもって、また御名の栄光を表わすも目的をもってする外、神の御名は私たちによって公に称えられてはなりません。すなわち、それは最も神聖な名でありますから、これを侮ると見られ、あるいは侮る機会を作ったりすることがないように、私たちはすべての言い方に気を付けねばなりません。

163 どうすればそれが出来ますか。

 答 神および神の御業については、その栄光を目指す以外の如何なることも思わず、また語らぬようにすれば良いのであります。

164 次に続くのは何ですか。

 答 罰則であります。「その御名を空しいことに用いる者を罪なしとしない」と警告されます。

165 他のところでも御自身の律法に違反する者は罰せられると宣言されているのですから、ここにはそれ以上にどういうことが含まれるのでしょうか。

 答 神が御名の栄光を如何に尊ぶべきものとしたもうかがこれによって示されます。すなわち、もしこれを汚す人がいたならば、復讐が用意されているということを見る時、私たちはいよいよ努力するようになるのであります。

                                                     

 今週は、受難週を過ごしています。十字架の主イエスの御苦しみを覚えて主イエスの死がわたしたちのためであったと、感謝し、日々を過ごしましょう。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答の第二五聖日、問159165と答を学ぼう。十戒の第三戒である。問159と答は、第三戒の前半の部分である。渡辺信夫先生は文語訳で訳されている。「汝の神エホバの名を濫りに口にあぐべからず」。新共同訳聖書は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない(出エジプト記20:7)と訳している。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、出エジプト記の第207節の十戒の第三戒を二つに分けて、前半を問160163と答において解説し、後半の罰則を問164165と答において解説している。

 

159と答は、第三戒の前半の部分である。ジュネーヴ教会信仰問答は、問160と答でこの前半の意味について解説している。問答は、答において第三戒の前半の部分を「神は御名が濫用されることを拒否されるのです」と述べて、「それは単に偽り誓う時だけでなく、必要がないのに誓うこともそうであります。」と解説している。第三戒は、神の御名の濫用の禁止である。

 

 第三戒のキーワードは「濫りに」である。これはヘブライ語の意味が「空しい」である。実体のないことである。この言葉は、「欺く」と「たくらむ」という言葉と関連して使われる。神の御名の濫用とは、正しくない目的のために神の御名を用いて祈願することである。それを、第三戒は禁じる。具体的には信仰という実体なく、信仰の伴わない空虚な心で神の御名を使用することである。だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、「偽り誓う時」、「必要がないのに誓うこと」と述べている。守らないのに神の御名で誓うこと、約束を反故するのに神の御名で誓うことを禁じている。

 

 第三戒は、第一戒が礼拝の対象である主について、第二戒が礼拝の方法について、それに続いて礼拝の在り方、礼拝者の主にたいする信仰が問われているのである。主イエスは、弟子たちに「神は霊である、だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(ヨハネ4:24)と命令された。礼拝者の礼拝態度が主なる神に対する信仰の伴う真面目なものでなければならない。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答は、問161と答において正しく神の御名によって誓約することを教えている。聖書の中で誓いをする時、必ず神の御名によって誓いをする。これが最も有効な誓いの方法である。ジュネーヴ教会信仰問答は、神の御名によって誓いをすることは良いことであると述べている。その理由は第一に真実の確認である。第二に人々との相互の愛と一致のためである。

 

主なる神はモーセを遣わして神の民に次のように主の御名を告げよと命じられた。「わたしはある。わたしはあるという者だ(出エジプト記3:14)と。主なる神はこの御名によってエジプトから神の民を救う決意をされ、実行された。だから、主の御名は、常に主の真実を証しした。そして、主は御名によって神の民をエジプトから救い出された。神の民たちは主とモーセを信頼した(出エジプト記14:31)。このように神の御名は神の民の救いに結び付いている。わたしたちが神の御名を唱え、呼び出すことは、わたしたちの主なる神に対するまことの信頼である。主は必ずわたしたちを助けて下さると。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答は、問162と答において第三戒はどうして神の御名を汚し、神の名誉を貶める誓いだけを取り上げているのかと問い、答えている。これは提喩法と呼ばれるものである。一つのもので全体を表すことである。一つの禁止によってあらゆる方法で神の御名を汚すことを禁じているのである。神の栄光の目的でのみ、わたしたちは神の御名を称えるべきである。あらゆる機会においてわたしたちは、神の御名を汚す危険がある。だから、常にわたしたちは信仰によって神の御名を唱え、呼び求めるべきである。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答は、問163と答において第三戒を日常生活の中で守ることが出来るかを教えている。日常生活で私たちが罪を犯すのは、人との会話である。口は災いの元である。わたしたちは、キリストの十字架によって罪と死から贖われたのである。わたしたちはキリストの所有である。だから、話すのもキリストのためにということを心に留めるべきである。

 

 

 次回この続きを学ぼう。 

 

ジュネーヴ教会信仰問答44           主の2022420                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第20811(旧約聖書P126) 申命記第51215(旧約聖書P289)

 第二部 律法について

 第二五聖日

164 次に続くのは何ですか。

 答 罰則であります。「その御名を空しいことに用いる者を罪なしとしない」と警告されます。

165 他のところでも御自身の律法に違反する者は罰せられると宣言されているのですから、ここにはそれ以上にどういうことが含まれるのでしょうか。

 答 神が御名の栄光を如何に尊ぶべきものとしたもうかがこれによって示されます。すなわち、もしこれを汚す人がいたならば、復讐が用意されているということを見る時、私たちはいよいよ努力するようになるのであります。

                                                     

 第二六聖日

166 第四戒に進みましょう。

 答「安息日を覚えて、これを聖とすべし。六日の間働きて汝のすべての業をなすべし。されど、七日目は汝の神なる主の安息なり。何の業もなすべからず。汝の僕、はしため、汝の牛、ろば、汝の門のうちに住む寄留者もしかり。そは、神は六日の間に天と地と海とその内にあるすべてのものを完成し、七日目に休みたまえばなり。されば、神は安息日を祝福し、かつ己がために聖別したまえり」。

167 わたしたちが七日目に休めるように、六日間働け、と命じたもうたのですか。

 答 そのような単純なことではありません。むしろ、六日間は人間に労働することを許し、七日目は休みに定められた日として除外されるのです。

168 どのような労働も私たちに禁じられているのですか。

 答 この戒めは他の戒めと違った特別な原理を持っています。休息を守ることは旧約の儀式の一部をなしているからです。したがって、キリストの来臨によってそれは廃止されました。

169 この戒めは本来ユダヤ人に向けられていて、それゆえ期限を付けられていたものに過ぎないとあなたは言うのですね。

 答 そうなのです。儀式的なことに関する限りはそうです。

170 ではどうなのですか。儀式以外の何があるのでしょうか。

 答 この戒めは三つの理由から授けられているのです。

171 それを聞かせてください。

 答 霊的安息を象徴するため。教会の制度上の秩序を保つため。隷属しているしもべたちを解放するため、の三つです。

172 「霊的安息」という言葉によってあなたは何を理解しますか。

 答 私たちが自分の業を止めるとき、神が私たちのうちに御業を遂行したもうということです。

173 休息の仕方はどうなのですか。

 答 私たちの肉を十字架に付けること、すなわち、神の御霊によって治められるために、私たちの生来のものを捨てることが休息です。

174 そのことは第七日に行えば十分ですか。

 答 もちろん継続しなければなりません。私たちは一度始めたからには全生涯に亙って遂行しなければなりません。

175 では、なぜ、この意義を表わすために特定の日が定められるのですか。

 答 象徴はそれの表わす真理と、すべての点で対応しなければならないわけでは必ずしもありません。象徴とする理由が十分であればそれだけで相応しいのです。

176 しかし、なぜ他のどれかの日ではなく第七日が命じられるのですか。

 答 この七という数は聖書では完全を示すものです。したがって永遠性を印づけるに相応しいのです。同時に、これはこの霊的安息が今の世の生においてはただ緒に付いただけであって、私たちがこの世を旅して行く間は決して完成しないということをも示すのであります。

 

 

ジュネーヴ教会信仰問答の第二五聖日、問164165と答を学び、第二六聖日、問166以下の第四戒、安息律法について学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問164165と答は、十戒の第三戒に付されている罰則についてである。神の御名を偽りや実体のない空しいこと、あるいは必要のないことに用いることを禁じるだけではなく、主なる神は第三戒を破る者に対して罰則を警告された。ジュネーヴ教会信仰問答は、それによって私たちが神の栄光のために増々努力するようになると教えている。

 

さて、第二六聖日と第二七聖日、すなわち、問166184と答は、第四戒、安息の日に関する戒めである。

 

166と答は、第四戒の聖書本文である。渡辺信夫先生は文語訳聖書を引用されている。「はしため」の漢字が出ないので、ひらがなで表示した。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、安息の日について二聖日を用いて解説する。ジュネーヴ教会信仰問答(カルヴァン)は、問168169と答において第四戒の安息の日について、他の戒めと原理の違いを指摘する。そして、この戒めはユダヤ人に、儀式的なもの、すなわち、安息日律法として、期限付きで授けられ、キリストの来臨で廃棄されたと教えている。

 

ピューリタンは、旧約聖書の安息日を、キリスト教安息日として守った。ウェストミンスター信条は、ユダヤ人たちの安息日律法を、キリスト教安息日として適用し、キリストが復活された主日を、キリスト教安息日として守るように教えている。ところが、ジュネーヴ教会信仰問答(カルヴァン)は、キリストの来臨によりユダヤ人が守っていた安息日律法は廃止されたと教える。

 

旧約聖書の出エジプト記第20812節、申命記第51215節に十戒の第四戒の本文がある。出エジプト記は、安息日律法が神の創造と関係する。神が六日働かれ、七日目に休まれたことに、安息日の起源がある。申命記は、安息日律法が出エジプトの御救いと関係する。神が神の民を奴隷の地エジプトから救い出されたから、神の民は第七日に、それを想起すべきなのである。

 

出エジプト記の第四戒と申命記の第四戒の安息日の制定理由に相違がありますが、主なる神がモーセを通して神の民に十戒を授けられ、恵みの契約を結ばれたという事実を見過ごしてはならない。神の民が安息日を守るのは、主なる神との契約の故である。

 

 

次回に続いて安息日について学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答45           主の2022427                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第20811(旧約聖書P126) 申命記第51215(旧約聖書P289)

 第二部 律法について

 第二六聖日

166 第四戒に進みましょう。

 答「安息日を覚えて、これを聖とすべし。六日の間働きて汝のすべての業をなすべし。されど、七日目は汝の神なる主の安息なり。何の業もなすべからず。汝の僕、はしため、汝の牛、ろば、汝の門のうちに住む寄留者もしかり。そは、神は六日の間に天と地と海とその内にあるすべてのものを完成し、七日目に休みたまえばなり。されば、神は安息日を祝福し、かつ己がために聖別したまえり」。

167 わたしたちが七日目に休めるように、六日間働け、と命じたもうたのですか。

 答 そのような単純なことではありません。むしろ、六日間は人間に労働することを許し、七日目は休みに定められた日として除外されるのです。

168 どのような労働も私たちに禁じられているのですか。

 答 この戒めは他の戒めと違った特別な原理を持っています。休息を守ることは旧約の儀式の一部をなしているからです。したがって、キリストの来臨によってそれは廃止されました。

169 この戒めは本来ユダヤ人に向けられていて、それゆえ期限を付けられていたものに過ぎないとあなたは言うのですね。

 答 そうなのです。儀式的なことに関する限りはそうです。

170 ではどうなのですか。儀式以外の何があるのでしょうか。

 答 この戒めは三つの理由から授けられているのです。

171 それを聞かせてください。

 答 霊的安息を象徴するため。教会の制度上の秩序を保つため。隷属しているしもべたちを解放するため、の三つです。

172 「霊的安息」という言葉によってあなたは何を理解しますか。

 答 私たちが自分の業を止めるとき、神が私たちのうちに御業を遂行したもうということです。

173 休息の仕方はどうなのですか。

 答 私たちの肉を十字架に付けること、すなわち、神の御霊によって治められるために、私たちの生来のものを捨てることが休息です。

174 そのことは第七日に行えば十分ですか。

 答 もちろん継続しなければなりません。私たちは一度始めたからには全生涯に亙って遂行しなければなりません。

175 では、なぜ、この意義を表わすために特定の日が定められるのですか。

 答 象徴はそれの表わす真理と、すべての点で対応しなければならないわけでは必ずしもありません。象徴とする理由が十分であればそれだけで相応しいのです。

176 しかし、なぜ他のどれかの日ではなく第七日が命じられるのですか。

 答 この七という数は聖書では完全を示すものです。したがって永遠性を印づけるに相応しいのです。同時に、これはこの霊的安息が今の世の生においてはただ緒に付いただけであって、私たちがこの世を旅して行く間は決して完成しないということをも示すのであります。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の第二六聖日、問170176と答を、第四戒の安息日についての霊的意味について学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、第二六聖日と第二七聖日で、すなわち、問166184と答で、第四戒、安息の日に関する戒めを解説している。

 

本日は、先週の続き、問170176と答を学ぼう。ジュネーヴ教会信仰問答(カルヴァン)は、問168169と答において第四戒の儀式的なもの、すなわち、ユダヤ人に安息日律法として、期限付きで授けられ、キリストの来臨で廃棄されたものについて解説した。安息日律法は儀式的な面と霊的(道徳的)面に分けられる。儀式としての安息日律法は、本体であるキリストの影であり、キリストの来臨によって破棄されたのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問170と答において第四戒が神の民に授けられた儀式面以外の三つの理由があると述べている。そして、問171と答においてこの三つの理由を述べている。第一に「霊的安息を象徴するため」、第二に「教会の制度上の秩序を保つため」、第三に「隷属しているしもべたちを解放するため」である。この三つは、安息日律法の儀式面とは異なり、キリストの来臨によって破棄されず、永遠性のものである。

 

172と答は、「霊的安息」という言葉についての私たちの理解である。その理解は、創世記第223節の御言葉に基づいている。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

 

神の天地万物の創造の御業は第六日の日で終わり、第七の日に完成された。だから、天地創造は神が安息された第七の日を含んでいる。安息(休むこと)は、創造の秩序に不可欠な要素である。第七の日を聖別されたとは、他の六日と分離されたという意味である。神の完全な安息日である。この第七の日の神の安息が一週間のサイクルの起源である安息日の根拠である(出エジプト記20:811)

 

神は第七の日に御業を休まれ、安息された。神が創造の御業を休まれ、安息し、御自身の御業を瞑想された。私たちもその安息に入れられることが「霊的安息」である。ジュネーヴ教会信仰問答が「私たちが自分の業を止めるとき、神が私たちのうちに御業を遂行したもう」と述べているのは、礼拝と瞑想と祈りである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問173と答において私たちがどのように霊的安息を過ごすべきかを教える。霊的安息は、永遠の御国における安息である。しかし、ジュネーヴ教会信仰問答が私たちに教える霊的安息は第三の理由と関係する。出エジプトと過越の祭が象徴する安息である。神の贖いである。神の民イスラエルは、奴隷の地エジプトから贖われ、カナンという安息の地を得た。そこで彼らは安息日に主を礼拝したのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答46           主の202253                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第20811(旧約聖書P126) 申命記第51215(旧約聖書P289)

 第二部 律法について

 第二六聖日

173 休息の仕方はどうなのですか。

 答 私たちの肉を十字架に付けること、すなわち、神の御霊によって治められるために、私たちの生来のものを捨てることが休息です。

174 そのことは第七日に行えば十分ですか。

 答 もちろん継続しなければなりません。私たちは一度始めたからには全生涯に亙って遂行しなければなりません。

175 では、なぜ、この意義を表わすために特定の日が定められるのですか。

 答 象徴はそれの表わす真理と、すべての点で対応しなければならないわけでは必ずしもありません。象徴とする理由が十分であればそれだけで相応しいのです。

176 しかし、なぜ他のどれかの日ではなく第七日が命じられるのですか。

 答 この七という数は聖書では完全を示すものです。したがって永遠性を印づけるに相応しいのです。同時に、これはこの霊的安息が今の世の生においてはただ緒に付いただけであって、私たちがこの世を旅して行く間は決して完成しないということをも示すのであります。

第二七聖日

177 しかし、主なる神が御自身の範例にならって休まねばならないと私たちを励ましたもうのは何を意図してされたのでしょうか。

 答 六日間で世界の創造に終結をお付けになりましたので、神は七日目をこれらの御業の熟慮に充てたもうたのです。神は私たちをいよいよそれに向けて励ますために御自身を模範としてお示しになるのです。なぜなら、私たちにとっては神の形にならって教え込まれるにまして望ましいことがないからです。

178 ところで神の御業の瞑想は継続してなすべきですか、それとも七日のうち一日を定めれば十分でしょうか。

 答 私たちは毎日このことの修練をしなければなりません。けれども、私たちの弱さのために特別に一日が定められるのです。そしてこれが先程申しました制度上の秩序なのです。

179 ではこの日にどのような秩序を守らねばなりませんか。

 答 民らがキリストの教理を聞き、公の祈りを捧げ、己が信仰の表明を行なうために集まるという秩序であります。

180 この戒めによって、隷属のもとにある人々に憩いを齎らすことを主なる神が望んでおられる、と先に言ったことの説明をここでしてください。

 答 他人の権力のもとに置かれている人に幾らかの緩和を与えるため、という意味です。またこのことは公共の制度を維持するために役立ちます。すなわち、一日が休みに定められているところでは、各人は他の日に仕事にいそしむのであります。

181 さて、この戒めが私たちにどの程度まで関わっているかを見ましょう。

 答 儀式に関して言えば、指示している真理がキリストにおいて現われた時、廃止されたと私は言うのです。                                    コロサイ二・一六―一七

182 どのようにしてですか。

 答 彼の死の力により私たちの古き人は十字架に付けられ、そして私たちは新しい命に甦らせられるからであります。                               ローマ六・四-六

183 ではこの戒めのうち私たちに対してなお有効なものとして残るのは何ですか。

 答 教会の霊的秩序にかなう聖なる制度を決してないがしろにせぬこと、特に神の言葉を聞き、聖礼典を祝い、厳かな祈りを捧げるための聖なる集いを、定められている通りに繰り返し守ることであります。

184 しかし、この象徴が私たちに与える益はさらに豊かなのではないでしょうか。

 答 確かにそうです。というのは私たちはこの象徴の指し示す真理へと注意を喚起されずにはおられないからです。すなわち、私たちはキリストの体に接ぎ木せられ、その肢とされ、己れ自身の業を放棄し、こうして神の支配に己れを委ねまつるからであります。

 

先週は、ジュネーヴ教会信仰問答の第二六聖日、問170172と答、すなわち、第四戒の安息について、儀式的な面以外に三つの事柄があり、その一つである「霊的安息」の意味について学んだ。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問172と答で、「霊的安息」について教える。旧約時代、安息は七日目に体を休めるだけではなかった。彼らが自分たちの御業を休めると、主なる神が彼らを通して御業を始められた。贖いの御業である。その象徴がヨベルの年である。7年ごとに畑を休ませる安息年が七度巡った翌年、50年目がヨベルの年である。その年は贖いの年である。売却された土地が持ち主に無償で戻された。ヨベルの年は解放の年であり、土地と同様に貧困のゆえに奴隷にされた神の民が自由の身に解放された。

 

それゆえに「霊的安息」は永遠の神の安息のことではない。私たちが身体を休め、自らの御業を休むことで、主なる神が私たちを贖う御業をされるのである。それが、主の日である。私たちが罪の奴隷状態から解放され、神の民として贖われる時である。旧約時代の神の民が貧しさのゆえに奴隷状態になることがあり、ヨベルの年に自由に解放されたように、キリスト者も罪と律法の奴隷状態から自由に解放されるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答はこのように「霊的安息」を理解するので、問173と答で「霊的安息」をどのように過ごすべきかを、次のように教えている。「私たちの肉を十字架に付けること」と。これは、キリストの十字架によって贖われたキリスト者が罪に死ぬことである。罪の奴隷となり、欲望に生きていた古き自己を捨てなければならない。次にキリストに贖われたキリスト者は、自分は自分のものではなくなった。キリストの所有とされた。生きるはキリストである。キリストのために生きることが、キリスト者の真の安息なのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、私たちにキリストに服従して生きることを継続すべきかと。問174と答で問うているのである。第七日目は、安息律法が定めた日である。罪に死に、自己の欲望を否定することは、禁欲的に安息律法を守ることではない。日々キリストの霊である聖霊に導かれ、キリストのために生きることである。自分の罪に死に、キリストに生きることを日々修練し、継続しなければならない。

 

 

ジュネーヴ教会信仰問答(カルヴァン)は、安息律法を守ること、一週間のうち、一日を特別な日として守ることを否定する。毎日がキリスト者にとっては安息日である。聖霊の支配の下で生きるべき日である。主の日がその真理を象徴するのである。主の日ごとに私たちは、罪に死に、キリストに生きることを始めるのである。キリスト者の地上の生活は生涯完成されない。旧約の民が第七日に、新約の私たちが第一日に安息を守る。新約の私たちは、キリストの復活の日を安息日として守る。

 

 

私たちキリスト者も、キリストの十字架によって罪から贖われた。今、この世においてキリスト者はキリスト教安息日に自分たちの業を休み、主を礼拝する。この世における霊的安息とは、肉体を休めることではない。キリストの十字架によって贖われたことを喜び感謝することである。それが主の日の礼拝である。主の日に自分の業を休み、すべてを主に委ねるのである。