ジュネーヴ教会信仰問答61           主の2022824                                                                                                                                       

聖書箇所:マタイによる福音書第211822(新約聖書P41) 

第三部 祈りについて

第三六聖日

248 しかし、祈る時、結果についての確信なきままに、行き当たりばったりに言葉を並べるのですか。それとも、主なる神から聞き上げていただけると固く確信するのですか。

答 私たちの祈りが主なる神によって聞き上げられ、またおよそ私たちが請い求めることは私たちの益である限りかなえられるということ、これが祈りの永久の基礎でなければなりません。この理由でパウロは神に対する正しい祈りが発するのは信仰からであると教えるのです。すなわち、神の慈しみについての確かな信頼にやすらわぬかぎり、何人も神を正しく呼び求めることがないからです。

                                            ローマ一〇・一四

249 それでは、躊躇しながら祈る人、祈りによって何の益を得るかについて心定まらぬ人、さらに自分の祈りが神に聞かれているかどうかについて確信のない人はどうなりますか。

答 そういう人たちの祈りは空しく、無益です。何の約束によっても支えられていないからです。私たちは確かな信仰をもって祈り求めよと命じられており、付け加えて、およそ信じて請い求めることは何でも私たちに与えられるであろうとの約束があるからです。

                                       マタイ二一・二二、マルコ一一・二四

250 あと残っているのは、あらゆる点から言って神の御目にかなわない私たちが、それにもかかわらず敢えて御顔の前に立つこの確信は、どこから来るのかという問題です。

答 第一に、私たちは約束を受けており、この約束によって、単純に、己れの価値についての顧慮を捨てて立つべきであります。第二に、私たちは神の子であるからには、神の御霊が私たちを勇気付け、また励まし、あたかも父に対するように神を呼び、神が私たちを親しく受け入れてくださることをごうも疑わないのであります。そして、うじ虫のようなもので、己れの罪の意識に押しひしがれている私たちでありながら、神の栄光の稜威に対し何の恐れもないように、神は私たちに仲保者キリストを差し出し、これによって私たちに御自身に近付く道を開き、恵みを獲得することについて全く不安がないようにされるのであります。

     詩編五〇・一五、九一・一五、一四五・一八-一九、イザヤ三〇・一五、六五・二四、エレミヤ二九・

     一二-一四、ヨエル二・三、五、マタイ九・二、二二その他、Ⅰテモテ二・五、ヘブル四・一六、Ⅰヨハ   

     ネ二・一 

251 あなたは、ただキリストの御名によってしか神を呼び求めてはならないと理解しますか。

答 そのように理解しております。なぜなら、そのことははっきりと御言葉によって命じられており、これに約束が付け加えられているからです。すなわち、キリストの執り成しによって私たちの願い求めることは与えられる、との約束であります。

252 それゆえ、この弁護人に信頼して、神に親しく近付き、またこの御方ひとりを神から与えられ、それを通して祈りが聞き上げられる唯一の御方として持つことは、軽率や傲慢の責めを帰せられるべきではありません。

答 全くその通りであります。すなわち、このようにして祈る人は、いわば彼の口によって祈るように祈るのであります。というのは、その人はキリストの弁護によって己れの祈りが支えられ、また推薦されていることを知っているからであります。

                                     Ⅰコリント一四

前回はジュネーヴ教会信仰問答の問240247と答を学んだ。祈りの仕方について、真心を持って神に祈ることの大切さを学んだ。

また、聖霊が私たちの心に何を祈るべきかを執り成してくださることを学んだ。

 

今回は、ジュネーヴ教会信仰問答が教えているのは、祈りの確信と祈りは主イエス・キリストの御名によって祈らなければならないことである。問248250と答で祈りの確信について、問251252と答で祈りは主イエス・キリストの御名によって祈らなければならないことを教えている。

 

祈る時、確信が必要である。祈りが神に聞かれるという確信である。それなくして、どんなに祈りの言葉を並べても、無意味である。ジュネーヴ教会信仰問答は問248と答で祈りの永久の基礎を教えている。それは、祈りの確信である。神は、私たちの益である限り、祈りを聞き届けてくださるという確信である。その祈りの正しい確信は、使徒パウロによれば、信仰から発している。神を信じていなければ、神に祈り求めることはない(ローマ10:14)。神の慈しみについての確かな信頼が祈りの基礎である。

 

だから、問249と答で問答は、確信のない者の祈りは空しく無益であると言う。確信がないのは、彼の祈りが何の約束にも支えられていないからである。主イエスは、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と約束してくださった(マタイ21:22)。祈りの基礎は、この主イエスの固い約束である。また主イエスはこう命じられた。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる(ヨハネ16:23)。祈りは、主イエスの「わが名によって祈れ」という命令と「祈りならば必ず祈りは聞かれる」との約束によって成り立っている。

 

250と答で問答は、罪人である私たちの祈りの確信がどこから来るのかと問うている。それは神の約束である。主イエスの約束のゆえに、罪人の私について顧慮する必要はないし、私たちは神の子である。子が父を信頼するように、私たちも信頼して「アバ父よ」と祈り求めるべきである。父は、私たちに仲保者主イエス・キリストを差し出してくださった。キリストの十字架によって私たちの罪を赦すだけではなく、私たちと和解され、私たちが父なる神に近づける道を開かれた。キリストの愛から私たちを引き離す者は何もない。仲保者キリストが私たちを父なる神に執り成してくださる。この確信が私たちに祈りが聞かれるとの確信を与える。

 

主イエスは、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう(ヨハネ14:13)と約束された。祈りは、キリストの執り成しによって適うのである。だから、祈りはキリストの御名によって祈る。それ以外の者の名による祈りをすべきではない。カトリック教会の聖母マリアの名によって祈ること、聖人の名によって祈ることは誤りである。

 

 

主イエスは、私たちの弁護人である。だから、主イエスだけを信頼し、主イエスの名によってのみ祈るべきである。私たちが祈るべきお方は主イエス以外にないのである。このお方以外に祈りを聞き届けてくださる方はないのである。なぜなら、弁護人である主イエスに私たちの祈りが支えられ、父なる神に聞き届けられるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答62           主の2022831                                                                                                                                       

聖書箇所:マタイによる福音書第6515(新約聖書P910) 

第三部 祈りについて

第三七聖日

253 それでは、信仰者の祈りにどういう内容が含まれなければならないかを論じることにしましょう。私たちは心に思い付くままに、何でも神に求めることが許されているのですか。それとも、このことでは確定した規範を守るべきでしょうか。

答 自分自身の願望を大目に見ているならば、祈りの仕方は余りにも倒錯した・肉的なものになると私は判断します。つまり、私たちは祈って良いことかどうかを判定するのに余りに愚かであり、それに、私たちは手綱をもって抑制しなければならない欲望に駆られてとめどなく労するのです。

254 では、どうすることが必要ですか。

答 ただこの一つの道だけが残されています。それは、神が祈りの正しい型を私たちに指示して下さることです。こうして私たちは手を引かれるように御言葉に教えられたままに従えばよいのです。

255 神はどんな定めを私たちに指示したもうたのですか。

答 聖書にはこれに関する教えが至る所で豊富に、また詳細に与えられています。しかし、もっと確かな目標にむけて集中するようにと、神は一つの定式を整え、いわば口授して下さり、如何なることを神に祈るのが正しいか、そして私たちに相応しいかを、短く纏め、また少数の主要項目に整理してくださったのです。 

256 唱えてごらんなさい。

答 私たちの主であるキリストは、どのように祈るべきかを問われた時、答えて言われました。

「あなたがたは祈ろうとする時、次のように祈りなさい。

『天にましますわれらの父よ。願わくは御名を聖ならしめたまえ。御国を来たらしめたまえ。御こころの天になるごとく地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに負い目のある者を我らの赦すごとくわれらの負い目をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と、力と、栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アァメン』」。

257 ここに含まれる内容をもっと良く理解するために、項目に分けましょう。

答 六つの部分からなっています。初めの三つは私たちの利害を顧慮することなく、固有の目的として唯神の栄光のみを目指します。あとの部分は、私たちの幸福ためを目指すものです。

258 それでは,私たちに何の良きものを齎らさないことについて、神に祈らねばならぬのですか。

答 神御自身は無限の慈しみにしたがって、一切のことを良く整え、御自らの栄光に帰すべき如何なるものも私たちの救いのためにならぬことがないようにしておられます。したがって、御名が聖とされる時、私たちにとっては聖化となることが実現されます。御国が来ることがないとすれば、私たちは決してそれに与れないわけです。ではありますが、祈りにおいては、これらすべての点にわたって、自らの利益を差し置いて唯神の栄光のみを注視しなければなりません。

259 この教えによりますと、はじめの三つの求めは私たちの利益と結び付いているとはいえ、神の御名に栄光あらしめる以外の如何なる目標も目指してはならないことになります。

答 その通りです。そして残りの三つは私たちの状況と救いとにかかわることを祈るように本来定められておりますが、そこにおいても神の栄光のための心遣いを私たちは持たねばなりません。

 

前回はジュネーヴ教会信仰問答の問248252と答を学んだ。祈りの確信についてと祈りは主イエス・キリストの御名によって祈らなければならないことを学んだ。

 

今回は、ジュネーヴ教会信仰問答が教えているのは、祈りの内容である。それは、私たちの心に思い付くままに祈ることではない。私たちの行動に十戒という規範があるように、祈りにも「主の祈り」という規範がある。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は問253と答で「信仰者の祈りにどういう内容が含まれなければならないかを論じることにしましょう」と述べて、祈りが心に思い付くことを何でも神に求めることが許されるか、それとも祈りには定まった規範があり、それを守るべきかと問うている。答は祈りには規範が必要であるということである。なぜなら、私たちは何を祈るのが良き事かを判断できないからである。使徒パウロも、「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」と述べている(ローマ8:26)。心に思い付くままに祈るなら、その祈りは自己中心的な祈りとなる。

 

だから、問254と答で問答は、残された一つの道を教えている。それは、神が私たちに祈りの正しい型を指示してくださることである。主イエスは弟子たちに異邦人のような言葉数が多ければ神に聞き入れられるというような祈りをしてはならないと言われた。そして、主イエスは弟子たちに「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい(マタイ6:89)と言われて、主の祈りを教えられた。

 

255256と答で問答は、祈りの手本について述べている。聖書には祈りの手本が豊富にある。例えば詩編である。カルヴァンは、旧約聖書の詩編を祈りと神賛美の手本として、礼拝で詩編歌を歌うことを奨励した。特に主イエスが弟子たちに教えられた主の祈りが重要である。これは何を私たちが祈るべきかを要領良く纏め、神についての祈りと私たちのための祈りを項目ごとに整理している。

 

257と答で問答は、主の祈りの内容を、私たちがよく理解できるように、六つの部分に、項目を分けて、最初の三つの項目は神の栄光のみを目指し、後の三つの項目は私たちの幸福を目指すと述べている。

 

問答は、問258と答で私たちに益を齎さないことを、神に祈るべきかと問うている。問答は神の無限の慈しみによって神は一切のことを整え、神に栄光を帰する如何なるものも私たちの救いに益するようにしてくださっていると述べている。例えば、神の御名が聖とされる時、私たちの聖化が実現するのである。御国が来なければ、私たちは御国に与れません。このように神の栄光を目指す祈りは、結果として私たちに益を齎すのである。神の栄光と私たちの救いは結び付いている。

 

しかし、祈りは私たちの御利益を求めてするのではない。むしろ、神の栄光のために、ただ神の栄光を目指してするのである。

 

問答は、主の祈りの最初の3つで神の栄光を目指し、後の三つで私たちの幸福を目指すと述べたが、問259と答で後半においても神の栄光が目指されていることを忘れてはならないと述べている。

 

 

キリスト者の祈りは、主イエスが教えられた主の祈りという規範が、手本がある。私たちは自由に祈ることを許されているが、それは心の赴くままに祈りの言葉を羅列することではない。主から教えられた祈りをするのである。主の祈りを規範とし、手本として祈るのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答63           主の202297                                                                                                                                       

聖書箇所:申命記第3236(旧約聖書P332) 

第三部 祈りについて

第三七聖日

260 では、逐語説明に進みましょう。さて、初めに外ならぬ「父」という名が神に帰せられるのは何故ですか。

答 祈りを正しく捧げるためには、第一に良心の確固たる信頼が要求されるのですから、神は純粋な甘美さ以外の何をも意味しない「父」という名を御自身に帰したまいます。それは、私たちの心から一切の不安を除き去って御自身に親しく請い求めるよう招くためであります。

261 ということは、子が親に対してするように私たちは神に向け、困難を覚えず、真直に敢えて進み出るべきだということですか。

答 その通りです。私たちは「求めることは必ず与えられる」とのますます揺るがぬ確信を持つのです。すなわち、私たちの教師が注意を促したもうたように、私たちは悪い者であっても自分の子には良きものを拒むことが出来ないし、彼らを空手のままで追い払うことも忍び得ず、パンの代わりに石を与えることも出来ないならば、最高に慈しみ深くあられるにとどまらず、慈しみそのものにいます天の父から遥かに大きい恵みを期待すべきではないでしょうか。

262 この「父」という名から、初めに全ての祈りはキリストによる弁護に基礎づけられねばならないと言っていたことを論証出来るのではないでしょうか。

答 そうです。最も堅固に論証されます。というのは、私たちがキリストの肢である限りにおいてでなければ、神は私たちを子としての位置に置きたまわないからです。 

263 あなたにとっての個人的な父ではなく、むしろ「我らの」共有の父として神を呼ぶのはなぜですか。

答 信仰者はめいめい神を「私の父よ」と呼んで良いのです。けれども、主は私たちが祈りにおいて愛の修練に慣らされるように、「我らの」という共通の形容詞をお用いになりました。めいめいが自分のことだけ心配し、他の人を忘れることがないためです。

264 神が「天にいます」と付け加えられているこの言葉はどういう意味ですか。

答 それはちょうど、いと高く、権能があり、把握し得ない、と唱えているのに当たります。

265 それは何のためですか。また、どういう理由によってですか。

答 神を呼びまつる時、このようにして私たちの精神を高く挙げることを教えられるのです。すなわち、神を肉的な、あるいは地上的なものと考えず、私たちの尺度に合わせて神を測ることもせず、神を何か卑しいものと理解したり、私たちの意志に従わせて神を引き下げたいと願うことなく、むしろ、恐れと敬いをもって栄光の尊厳を仰ぎ見るように学ぶのです。つまり、御旨のままに万物を統べ治めたもう天上の主・また保護者を誉めたたえる時、これは神に対する私たちの信頼を奮い立たせ、かつ固くせずにおかぬ力を持つのであります。

 

前回はジュネーヴ教会信仰問答の問253259と答を学んだ。祈りの内容について、祈りには規範が必要であり、主は祈りの正しい型を指示してくださった、「主の祈り」である。これは、六つの祈願から成っている。初めの三つは神に栄光を帰し、残りの三つは私たちとわたしたちの幸福を目指すことを学んだ。そして、祈りはすべて神に栄光を帰すことが重要である。

 

今回は、ジュネーヴ教会信仰問答問260265と答を学ぼう。「主の祈り」を、問答は逐次的に説明する。「主の祈り」の語順は、最初に「父」が来る。私たちキリスト者は、主イエスを通して神を「私たちの父」として知ったのである。それゆえに神を「父よ」と呼び掛けて、礼拝し祈るのである。主イエスは父なる神の御子である。子が父に願い求めるように、キリストに結びつく私たちは、主イエスのように神を「父よ」と呼び掛けることが許されている。教会は、キリストの体であり、私たちはその肢々である。それゆえに、主イエスの弁護、すなわち、執り成しに基礎付けられて、私たちは神に対して「父よ」と呼び掛け、あたかも子が父を信頼して願い求めるように、私たちも父なる神に祈るのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は問261と答で、そのことを述べている。父はこの願いを受け入れる。主イエスは、悪人でもわが子がパンを求めるのに、蛇を与え、石を与えることはない。この求めるものを父は与えると言われている。だから、私たちは、神が父として私たちの祈りを聞き届けてくださると信じて祈らなければならない。慈しみ深い父なる神に、私たちは思いを越えた神の大きな恵みを期待すべきである。

 

262と答は、すでに問260と答で述べた。問251252と答で祈りは、主イエス・キリストの御名によって神に祈り求めることを学んだ。キリストの執り成しなしに私たちが父なる神に近づくことは出来ない。だから、私たちが「父よ」と神に呼びかけて祈ることは、私たちの生まれながらの感情ではない。キリストの贖いに基礎付けられ、私たちがキリストの体なる教会の肢であることに基礎付けられている。

 

263と答で問答は、共同体の祈りを教える。祈りは、私たちが「私の父よ」と個人的に呼びかけることは誤りではない。しかし、主イエスは「我らの父よ」と呼び掛けて祈るように教えられた。祈りはキリストに贖われた者たちの祈りである。キリスト者は、キリストのものである。だから、主イエスは弟子たちに「我らの父よ」と呼び掛けるように教えられた。共に祈ることを通して、主にある兄弟姉妹として、互いに愛し合う者として祈ることを教えられた。教会の共同体を忘れた祈りは、キリスト者の祈りではない。

 

264と答で問答は、「天にいます」という言葉の意味を問い、答えている。これは、神のお住まいを問題にしているのではない。「いと高く」は神の超越性、尊厳性を意味する。神は超越し、権威があり、有限な人間が理解できないお方である。

 

265と答で問答は、神に祈る私たちの心を高く挙げるために「天にいます」と呼び掛けるのだと教えている。決して神を、この世の目で見える偶像に引き下げてはならない。神は主権者であるので、神を私たちの意志に従わせようとしてはならない。神の権威と尊厳を守り、神の栄光を仰ぎ見て祈るのである。「彼は造り主なる父 あなたを造り、堅く立てられた方。」(申命記32:6)である。

 

主権者なる神、創造主、万物の統治者なる神を仰ぎ見る時、父なる神への祈りは堅い信頼と力を得ることになるのである。

 

 

 ジュネーヴ教会信仰問答64           主の202297                                                                                                                                       

聖書箇所:ルカによる福音書第1112(新約聖書P127) 

第三部 祈りについて

第三九聖日

266 第一の求めの要点を言って御覧なさい。

答 神の「御名」という言葉は聖書では神についての認識と栄誉を意味します。即ちこれによって神は人々の間でほめたたえられるのです。ですから、神の栄光がいたるところで、すべてのことについて前進するよう私たちは願うのであります。

267 しかし、神の栄光が増大したり・減衰したりすることがあり得るのでしょうか。

答 それ自体として、神の栄光は増加も減少もしません。けれども、神の栄光が人々の間で、それに相応しいように輝くことを私たちは請い願うのであります。それは神が何をなしたもうても、すべての御業においてそのあるがままに栄光に満ちたものとして顕われ、こうしてあらゆることを通して神に栄光が帰せられるためであります。

268 第二の願いの中にある神の「御国」という言葉を、あなたはどのように理解しますか。

答 これは主に二つの部分から成っています。すなわち、選ばれた者らを御霊によって支配することと、神への服従を拒絶する見放された者らを打ち倒し・滅びに渡すこととです。こうして、神の力に逆らい得るものは何もないということが明らかにされるのです。 

269 どのようにして御国が「来る」ことを祈るのですか。

答 主が信仰者の数を日毎に増し加え、御霊の賜物を繰り返し新しく積み重ねて、遂に全く満ち満ちるに至らせたまうように。また、御自身の真理がサタンの闇を払ってますます明らかにかつ明瞭にされるように。そして、御自身の義をあらわに公示して一切の不義を廃止されるように、と祈るのです。

270 これらすべてのことは日毎に起こっているのではないでしょうか。

答 それは起こっています。ですから、神の国は始まっていると言うことが出来ます。したがって、それがたゆみなく増大・前進し、ついに最高の高みにまで達するように願い求めるのです。私たちはこれが終わりの日についに成就するのを待ち望むのです。その時、それぞれの位置にへりくだらしめられた全ての被造物によってただ神のみが崇められ、高められ、こうしてすべてにおいてすべてとなりたもうのであります。

 

前回は、ジュネーヴ教会信仰問答の第三八聖日、問260265と答を学んだ。「父」という名について、それに付け加えられている「天にまします」という言葉の意味を学んだ。

 

今日は、第三九聖日、問266270と答を学ぼう。第三九聖日と第四十聖日で、ジュネーヴ教会信仰問答は、主の祈りの第一部の三つの祈願について解説している。第三九聖日の問266270と答は、主の祈りの第一部の三つの祈願のうち、第一と第二を解説している。

 

266と答は、主の祈りの第一部、第一の祈願の要点である。それは、「御名が崇められますように」という祈りの「御名」である。神の「御名」は、神の名の尊称である。神の性格・本質を指す。問答は、「神の「御名」という言葉は聖書では神についての認識と栄誉を意味します」と解説している。

 

主なる神は、モーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と、御自身の御名を告げられた(出エジプト記3:14)。「わたしはある」というのは、神が一人一人の人間に対して語りかける時の名である。主という御名で神は、神の民イスラエルに語られた。御名を知らせることは、神御自身を知らせることである。「御名が崇められるように」とは、神が聖となるようにという意味である。私たちは、神を聖なる方として礼拝する、ほめたたえる。それが、神に栄光を帰すことである。だから、神礼拝を通して神の栄光が広がるように、前進するようにと、祈願するのである。

 

267と答で問答は、神の栄光が増大したり、減少したりすることがあるかと問うている。神の栄光に増加も減少もない。しかし、私たちは、人々の間で神の栄光がそれに相応しく輝くことを祈り求める。第一の祈願の要点は、神が御名の栄光を表わされることと私たちが礼拝と祈りを通して神に栄光を帰すことである。

 

主の祈りの第二の祈願は、「御国が来ますように」である。問答は問268と答で神の「御国」についてどう理解するか説明を求めている。問答は、「御国」が主に二つの部分からなると解説し、次のように述べている。「すなわち、選ばれた者らを御霊によって支配することと、神への服従を拒絶する見放された者らを打ち倒し・滅びに渡すこととです」。支配と裁きである。御国は選ばれた者に対しては、御霊と御言葉による支配であり、神に対して不従順で見放された者たちに対しては裁きである。神に敵対する者が裁かれ、私たちの救いは完成する。

 

268と答は、どのように「御国を来ますように」と祈るのかと問い答えている。神の国は、突然来るのではない。父なる神が御計画し、キリストが再臨され、御国が完成する。その御国の完成に私たちキリスト者は参与している。教会が前進する、日々に信者の数が増えて行く、聖霊の賜物が日々新たに増し加わり、遂には御国が完成するのである。だから、そのように祈ろうと述べている。

 

この世はサタンに支配され、闇である。だから、神御自身の真理がサタンの闇を追い払い、ますますサタンの支配が退くように祈ることを述べている。そして、神御自身がこの世において義を現され、この世の一切の不義に打ち勝たれるように、祈るのである。

 

270と答は、神の国が既に始まっていることを述べている。神の国は神の支配のことである。キリストは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4:17)と言われた。そして、御自身が十字架に死なれ、三日目に復活し、天に昇天し、父なる神の右に座されて、今この世を支配されている。だから、私たちは、その支配がたゆみなく前進し、遂には完成するように祈るのである。

 

使徒パウロは、こう述べている。「世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、全ての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。(Ⅰコリント15:2426)

 

そして、パウロは、「神がすべてにおいてすべてとなられるためです(Ⅰコリント15:28)と述べている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答65           主の2022921                                                                                                                                       

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第14712(新約聖書P294) 

第三部 祈りについて

第四〇聖日

271 神の御意志(みこころ)が行われるように祈るのはどういう意味ですか。

答 すべての被造物が神への従順に導かれ、神の御意志でないものは何一つ行われないほどに、その御意向に心服することを祈るのです。

272 それでは、神の御意志に反して何かがなされ得るとあなたは考えるのですか。

答 私たちが願うのは単に神の決定しておかれたことが神の御前で起こるだけでなく、すべての頑なさが制御されまた屈服させられ、全ての人が挙げて神の御意志に帰属し、従順になるように整えられることであります。

273 ではそのように祈る時、私たち自身の意志を明け渡すのではないでしょうか。

答 まことにその通りであります。すなわち、神の御意志に逆らう我が内なる願いをすべて空しくされるためのみでなく、神が私たちの内に新しい精神と新しい心を造り、こうして自分からは何一つ己のために欲せず、むしろ神と完全に一致するように神の御霊が私たちの願いを支配したもうことを祈るのです。 

274 「天におけるごとく地にもなさせたまえ」と祈るのはなぜですか。

答 天上の被造物たる聖なる御使たちが、すべてのことについて神に従いまつり、語りたもうことに常に耳を傾けることを唯一の目的とし、従順に服しよう自発的に備えているのに対応して、人間たちも同じように服従を志向し、こうして各人はれ己れ自身を神への自発的服従に全面的に差し出すのであります。

 

前回は、ジュネーヴ教会信仰問答の第三九聖日、問266270と答を学んだ。主の祈りの第一部の三つの祈願の内、第一の祈願と第二の祈願について学んだ。「御名が崇められますように」と「御国が来ますように」という祈願を学んだ。ジュネーヴ教会信仰問答は、第一の祈願の要点を述べさせ、第二の祈願の「御国」の理解とどのように御国が来るように祈るのかと問うている。

 

今日は、第四〇聖日、問271274と答を学ぼう。ジュネーヴ教会信仰問答は、主の祈りの第一部の第三の祈願について解説している。第三の祈願は、神の御意志が行われることを求めている。問271と答は、第三の祈願の意味を問うている。「神の御意志(みこころ)が行われるように祈るのはどういう意味ですか。」と。

 

第三の祈願は、「御こころの天になるごとく地にもなさせたまえ」である。「天と地」は、「初めに、神は天地を創造された(創世記1:1)と、聖書にあるように、神が創造された被造物である。

 

主なる神は、御自身の御言葉によって天地を創造された。主なる神は、天に住まわれ、人は地に住んでいる。そして、主なる神は御自身の全能の御力によって天地のすべてにおいて「御意志を行なう」ことがおできになる。

 

ところが、天においては神の御使いであった悪魔が主なる神に反逆し(Ⅱペトロ2:4、黙示録12:9)、地に投げ落とされた。また、地では人が罪によって堕落し、主なる神に反逆した(創世記第3)。その結果、神の造られた地の被造物は虚無に服している(ローマ8:20)。使徒パウロは、被造物が虚無に服しているのは、「自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるもの」と述べている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、第三の祈願が全ての被造物が主なる神に従順になることを求めていると解説する。この祈願は、主なる神への従順に導かれ、主なる神の御意志でないことは、何も行わないで、心から主なる神に従うことを求める祈りである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問272で神の全能を疑うのかと問うている。人は神の御意志に反して何かができるのかと。

 

答は否である。人は神に反して何かができるわけではない。人は生れながらに堕落し、創造主である主なる神に敵対し、主に従順になれないのである。だから、問答はすべての人が神に従順になれるようにと、祈る。

 

問答は罪人の主なる神への敵対心が制御され、また、心の頑なさが砕かれて、主なる神に服することを祈る。さらに天における天使たちのように、人がすべて心から主なる神に従順になるように、と祈る。

 

神への従順は罪人の心の再生を求める。ジュネーヴ教会信仰問答は、それを、問273で「ではそのように祈る時、私たち自身の意志を明け渡すのではないでしょうか。」と問うている。罪人の心が変えられない限り、人が主なる神に従順になることはない。

 

そこで人の心が変えられ、主なる神への敵対心が空しくされねばならない。次に聖霊なる神が人の心を新しく再創造されなければならない。キリストが私たちの内に生きられるようにしなければならない(ローマ14:79)。自己の願いではなく、私たちの内に住まわれるキリストの御意志に私たちが服従することを願うのである。それが問答の述べている「神と完全に一致するように神の御霊がわたしたちの願いを支配したもうことを祈る」ということである。

 

274は、「「天におけるごとく地にもなさせたまえ」と祈るのはなぜですか。」と問うている。ジュネーヴ教会信仰問答は、私たちに天における天使たちの従順を模範として、人は己を全面的に主なる神に明け渡して、積極的、自発的に従順となるように勧めている。

 

問答は、次の用意を想定する。それはこの世における教会の礼拝での私たちの神の御言葉への聴従である。主なる神への従順が天使たちの存在の目的である。彼らは常に主なる神の御言葉を聴こうと備えている。私たちも心を新たにされ、己を捨て、主なる神に心を向け、主の御言葉を常に聴従しようと備えるべきである。それが、私たちの主の日への備えである。

 

週報に次週の礼拝の御言葉が予告されているのは、主なる神が語りたもう御言葉に常に耳を傾けるという準備のためである。どうか日々その御言葉に親しみ、次週に語られる主の御言葉を聴くことに備えてほしい。それが、私たちの主への従順である。

 

 

少年サムエルは大祭司エリに導かれ、主なる神の御言葉を聴く備えをした。主が三度目、彼の名を呼ばれたとき、彼は主に「どうぞお話しください。僕は聞いております(サムエル記上3:10)と答えた。

 

ジュネーヴ教会信仰問答66           主の2022928                                                                                                                                       

聖書箇所:マタイによる福音書第611(新約聖書P9) 2534(新約聖書P1011) 

第三部 祈りについて

第四一聖日

275 さあ、私は第二部に行きます。あなたが請い求める糧が「日用の」といわれるのはどういう意味ですか。

答 これは総じて現世の生命を養うべきものを引っ括めて言うのです。単に食べ物、着る物だけではなく、外的な生活を支えるに必要な他の一切の手段を意味します。こうして私たちは主がよしと知りたもう限りにおいて自分のパンを静穏に食べるのであります。

276 パンは自らの労働によって獲得せよと命じられている物なのに、どうして神から与えられることを願うのですか。

答 食物を得るために働き、汗を流さねばならないとはいえ、私たちは自らの労働、勤勉、注意深さによって養われるのではなく、ただ神の祝福のみによって養われるのです。この祝福こそ私たちの手の業そのものを栄えさせ、これなしでは労は空しくなるのです。さらに、次のように考えなければなりません。たとい私たちの手もとに肉が豊富にあって、それを食べているとしても、私たちはその肉の実体によって養われているのではなく、ただ神の力のみが私たちを養うのです。というのは、肉の本来そのような力を備えているのではなく、神が天からそれをいわば御自身の恵みの器官として働かせたもうからであります。

 

277 神から与えられることを求めていながら、どういう権利をもって「我らの」糧と呼ぶのですか。

答 それは神の恵みによって私たちの物となるのでありまして、決して私たちに帰しているのではありません。また、私たちはこの言葉から、他人のパンを欲しがることを抑制し、正規の手段で神から齎される物で満足すべきであると注意を促されます。 

278 「日用の」というのを加え、さらに「今日も」と言うのはなぜですか。

答 この二つの言葉は、節度と、自制とに向けて私たちを教えるものであって、必要の限度を越えて願いをさせないためのものです。

279 すべての人がこの祈りを共通にしなければならないとすれば、家に有り余るほど、長期に耐える穀物の蓄えを持つ、富める人は、この日一日分を与えたまえと求めることがどうして出来ましょうか。

答 富める人も貧しき人も等しくこのことを確定したものと思わねばなりません。すなわち、彼らの持つ如何なるものも、もし神がそれの用いられることを許し、恵みをもってそれを有効ならしめ、それを用いることが実りあり・効力あるようにしたまわぬ限り、決して益になりません。したがって、必要かつ十分なだけを神の御手からその都度その都度受け取るのでない限り、私たちはすべてを所有しておりながら何一つ持たないのであります。

 

前回は、ジュネーヴ教会信仰問答の第四〇聖日、問271274と答を学んだ。主の祈りの第一部の第三の祈願について学んだ。第三の祈願は、神の御意志が行われるように祈っている。神に服することを祈るのである。ジュネーヴ教会信仰問答は、私たちに天における天使たちの従順を模範として、己を全面的に神に明け渡し、積極的に、自発的に従順となるように勧めていると解説している。

 

さて、本日より主の祈りの第二部を学ぼう。主の祈りの第二部は、私たちについての三つの祈願である。主の祈りの第四-六の祈願である。第四一聖日の問275279と答は第四の祈願である。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」である。

ジュネーヴ教会信仰問答は、問275で私たちが請い求める糧を、「日用の」という意味について問うている。主の祈りの第二部は、私たちの地上生活の支えに関する祈願である。問答は、「日用の」という言葉を、「これは総じて現世の生命を養うべきものを引っ括めて言うのです」と答えている。「日用の糧」とは、毎日のパンである。日々の食事である。問答は、更に「単に食べ物、着る物だけではなく、外的な生活を支えるに必要な他の一切の手段を意味します。」と解説する。住環境を含めて「日用の」と述べているのである。

 

問答が「こうして私たちは主がよしと知りたもう限りにおいて自分のパンを静穏に食べるのであります。」と解説する時、マタイによる福音書第62534節の主イエスの御言葉を思い起こすだろう。主イエスは、私たちに食べ物のことで、着る物のことで心を煩わせるなと警告されている。空の鳥、野の花のように、主なる神は私たちを養って下さる。主なる神の摂理を信じて、今日の必要なものを祈り求めることが大切である。

 

問答は、問276で「パンは自らの労働によって獲得せよと命じられている物なのに、どうして神から与えられることを願うのですか。」と問うている。創世記第3章で人間の罪と堕落を物語った時、主なる神は罪を犯したアダムに「お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ」と言われた(創世記3:17)。問答は、この主の御言葉を根拠にして、なぜ日々の糧を神に請い求めるのかと問うている。

 

 使徒パウロは、テサロニケ教会の怠惰な兄弟たちにこう述べている。「わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました(Ⅱテサロニケ3:10)。そしてパウロは彼らにこう命じている。「そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。(同上3:12)

 

 確かに住環境を整えるために、働かなくてはならない。しかし、問答が私たちに伝えたいことは、私たちが日々生きる力は、自分たちの力や勤勉さ、知恵によるのではなく、神の祝福によるのだということである。どんなに住環境が整い、食糧を長年分蓄えても、主なる神が私たちの命を養わなければ、あの愚かな金持ちと同じである(ルカ12:1321)。私たちは、日々主なる神に生かされているのである。

 

 問答は問277で主なる神に日々の糧を乞い求めながら、どうして「我らの糧」と呼ぶのかと問うている。私たちの住環境は、神の恵みの賜物である。本来私たちの所有ではない。創造主である主なる神のものである。だから、与えられた住環境に満足すべきである。他人のものを欲することなく、正しい手段で得られたもので満足すべきである。

 

 問278と答は、「日用の」と「今日も」の二つの言葉が私たちに節制と自制を教えるもので、必要の限度を越える祈りを諫めている。明日のことまで思い煩う必要はない。

 

 問279と答は、第四の祈りが豊かな者に必要かと問い、豊かな者も貧しい者も共通の祈りであると答えている。豊かな者も貧しい者も、神の恵みと祝福なしに日々に生きることはできない。主なる神の御心なしに、今日という一日はないのである。

 

 

 ジュネーヴ教会信仰問答67           主の2022105                                                                                                                                       

聖書箇所:マタイによる福音書第612(新約聖書P9) ヨブ記923(旧約聖書P785) 

第三部 祈りについて

第四二聖日

280 第五の求めの内容は何ですか。

答 主が私たちの罪を認めたまわないようにということです。

281 この赦しを必要としない程の義人は死すべき人のうちに一人も見出せないのでしょうか。

答 まことに、一人もいません。というのは、キリストはこの祈りの型をあまねく全教会に課せられたものとして、使徒たちに与えたもうたからです。したがって、この必然的な定めから自己を免除しようとする者は信仰者の共同体から出て行くことにならざるを得ません。そして、確かに私たちは聖書の証を聞いているのです。「神の前で一つのことについて己れの潔白を言い張るものは千もの点にわたって罪ありと認められる」と。そういうわけで、すべての者には神の憐れみだけが避けどころとして残されているのです。

                                                    ヨブ記九・二-三

282 どのようにして私たちの罪が赦されるとあなたは考えますか。

答 キリストの御言葉そのものが言う通りでありまして、罪は負い目であり、換言すれば、私たちを永遠の死を負うべき者として拘束します。ついに神が純粋な寛大さをもって私たちを解放したもうまでは私たちはそのように拘束されているのです。 

283 それならば、私たちは神の価なしの憐れみによって罪の赦しを得る、とあなたは言うわけです。

答 その通りであります。たった一つ、あるいは最も小さい罪の刑罰からも贖い出されねばならないとすれば、私たちは到底償いを果たすことが出来ません。ですから、恵みによってすべての罪が罪と認められずに、赦しが与えられることこそが必要なのです。

284 この赦しから私たちにどのような益が来るでしょうか。

答 私たちは神に受け入れられて、あたかも義なる者・罪なき者のようにされるとともに、同時に、神の父としての慈しみに信頼を置き、それによって確かな救いを得ることを良心に確信させられるのであります。

285 「我らに負い目のある者を我らが赦す如く、我らの負い目をも赦したまえ」と条件が付け加えられたのは、もし自分に対し何かの罪を犯す人々を赦すならば、私たちが神から赦されるに価する功績になるという意味ですか。

答 決してそうではありません。なぜなら、もしそうであれば、これはもう価なしの赦しではなく、また十字架において私たちのために死にたもうたキリストの唯一の償いに正当に基礎付けられたものでなくなります。そういうことではなく、私たちは神の寛容と慈愛にならって、己れに加えられた害を忘れることによって、事実そのものにより自らが神の子であることを示すのですから、神はこの印によって私たちを堅くしょうとされたのです。そして同時に、その逆に、彼らを容易に赦さず、柔和な態度を示さないならば、神から、この上ない、情状酌量の余地なき厳しさのほか何も期待すべきではありません。

286 それならば、受けた損害を忘れることが出来ないすべての者は、神から退けられ、神の子の位置を抹殺され、天において赦しに与かる自信を持ってはならない、とあなたは言うわけです。

答 私はそのように考えます。他の人に適用したのと同じ秤で自らも量られるということが成就されるのであります。 

 

前回は、主の祈りの第四の祈願について学んだ。私たちの住環境は神の賜物である。この地上の生活を支えるための祈りである。私たちは、日々主なる神が与えてくださる糧によって生かされているのである。暴飲暴食をすることなく、日々に与えられた神の賜物を、自分だけのために用いてはならない。飲むにも食べるにも、何事をするにも神の栄光を表わすべきである(Ⅰコリント10:31)

 

 ジュネーヴ教会信仰問答は、問280286と答において主の祈りの第五の祈願について解説する。主なる神に罪の赦しを願う祈りである。

 

キリスト教は贖罪宗教である。キリストの十字架による罪の赦しがその中心である。

 

問答は、既に問101105と答において「使徒信条」の「我は罪の赦しを信ず」を解説している。「罪の赦し」とは、私たちの罪を無くすことではない。罪ある私たちを、父なる神は十字架のキリストの贖いによって、義とされる、神と私たちが和解することである。そのために罪なきキリストが私たちに代わり、罪を償われたのである。

 

 問280と答は、第五の祈願の内容である。問答は、言葉を換えて言えば、主なる神が私たちに「罪あり」と有罪判決を下されないようにと祈るのであると、解説する。

 

 その理由を、問281と答で解説している。つまり、一言で言えば、神の御前に罪のない義人は一人もいないのかということである。問答は「まことに、一人もいません。」と答えている。使徒パウロが詩編1413節を引用して、「正しい者はいない。一人もいない。」と述べている(ローマ3:10)。問答も使徒パウロに同意する。この真理を、問答は「必然的な定め」と解説する。だから、自分の罪を認めない者は、「信仰者の共同体」、即ち、教会から出て行くことになると言う。「神の前で一つのことについて己れの潔白を言い張るものは千もの点にわたって罪ありと認められる」という文章は、カルヴァンがヨブ記923節を翻訳したものである。ヨブは神の御前で自分が正しいと主張できる人間はいないと述べている。神と争っても、千に一つ自分が正しいという答を得られないだろうと述べている。それをカルヴァンは誇張して翻訳しているのである。

 

 それゆえに問答は、罪人である人に残されているのは、価なしに罪人を赦してくださる神の慈愛だけであると述べている。

 

 それが問283と答である。罪人である私たちは、自分たちの罪を償えない。神の御前に一つも善をなせず、常に罪を犯すからである。どんなに小さな罪であろうと一つあれば、私たちは自分たちの罪を償えないのである。だから、価なしに、ただ神の憐れみによって、私たちの罪が認められないことを祈る必要がある。

 

 問284と答は、次のことを解説する。「この赦し」とは、十字架のキリストの贖いである。この赦しによって私たちは父なる神に神の子として受け入れられた。同時に私たちは、神を私の父として信頼を置く。そして、聖霊によって私たちの良心に救いの確信を得るのである。

 

 問285と答は、「我らに負い目のある者を我らが赦す如く、我らの負い目をも赦したまえ」という祈りについての解説である。この祈りを読むと、一見自分たちの良き行いによって、自分たちの罪を赦してくださいと祈っているように感じられる。問答は「決してそうではありません」と否定する。罪の赦しは神の価なしの恵みである。キリストの十字架に基礎付けられたものである。神に無償で罪赦されたから、私たちは兄弟の罪を赦し続けることが出来るのである。 

 

ジュネーヴ教会信仰問答68           主の20221012                                                                                                                                       

聖書箇所:マタイによる福音書第613(新約聖書P9) Ⅰペトロ5811(新約聖書P434) 

第三部 祈りについて

第四三聖日

287 その後に続くのは何ですか。

答 主が私たちを「試みに会わせず、むしろ悪より救い出し」て下さるようにという祈りです。

288 この全体が一つの祈りになっているのですか。

答 ここには一つの願いしかありません。後の部分は初めの部分の説明なのです。

289 要約すればどういう内容ですか。

答 主が私たちを倒したまわず、あるいは罪に陥ったままでいるのを宜しとされぬこと、悪魔や絶えず攻撃してやまぬ肉の欲に敗北するのを許したまわぬこと、むしろ、それに抵抗する力を備えさせ、御手をもって支え、御保護のもとに守りまた庇いたもうこと、こうして私たちが神に保護され、世話されて安らかに住まうにいたりますように、ということです。                                 ローマ七・二三 

290 では、そのことはどのようにしてなされるのですか。

答 私たちが神の御霊に支配されて、義に対する愛と願いとに満たされ、それによって罪と肉とサタンとを克服するとともに、反面、罪を憎み、こうして私たちを世から分かち、純粋な聖さのうちに保たせることによってであります。すなわち、私たちの勝利は御霊の力にあるからです。

291 この助けはすべての人に必要ですか。

答 誰がこれを欠くことが出来ましょうか。悪魔は絶えず隙を窺い、吠えたける獅子のように、食い尽くそうとして歩き回っているからです。しかも、私たちはひ弱なため、忽ちに倒れてしまいます。まことに、神が私たちに御自らの武器を持たせ、御手をもって強くし、戦いに向かわせたもうのでない限り、一瞬たりとも自分から戦えないのであります。

292 「試み」という言葉はあなたにとってどういう意味を持ちますか。

答 これはサタンの策略また陰謀のことであります。これらによって私たちは止むことなく襲撃され、もし神の助けがなければ、直ちにやすやすと取り囲まれてしまいます。わたしたちの精神の生来の空しさゆえにサタンの欺瞞に隷属させられ、私たちの意志も常に悪に傾き、忽ちに屈服してしまうからであります。

293 しかし、どうして神があなたを試みに会わせたまわないようにと祈るのですか。これはサタン固有の業であって、神の業でないと見られるではありませんか。

答 神は信仰者がサタンの欺きに圧倒されたり、罪に打ち負かされたりすることがないように、保護を加えて守りたまいますが、一方それと同じく、罰そうとされる者らを恵みなき状態に捨て置くにとどまらず、サタンの暴君的支配に渡し、目が見えぬようにし、邪悪な精神に投げ入れたもうのです。こうして彼らは全く罪に委ねられて、すべての試みの打撃にさらされることになるのであります。

294 「国と、力と、栄えとは、限りなく汝のものなればなり」との結びの言葉が付け加えられたのは、何を言わんとするものですか。

答 私たちの祈りが私たちの確信に立つよりも、むしろ神の力と慈しみに支えられていることを、今一度思い起こさせるためであります。さらに、私たちのすべての祈りが神讃美をもって結ばれることを教えるためであります。 

 

前回は、主の祈りの第五の祈願について学んだ。神に罪の赦しを乞う祈りである。神の御前に罪のない義人は一人もいない。それゆえに私たちに残されているのは、価なしに罪人を赦される神の慈愛だけである。だから、罪を償い得ない私たちには神の慈愛によって価なしに罪の赦しが必要である。罪の赦しとはキリストの十字架の贖いであることを学んだ。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答は、問287294と答において主の祈りの第六の祈願についてと結びについて解説する。主なる神にサタンの欺きと罪に打ち負かされることからの保護を願う祈りである。結びは神の恵みに支えられていることを今一度思い越し、神を賛美している。

 

主の祈りの第六の祈願は、キリスト者の聖化と深く関係する。キリスト者は、洗礼によってキリストに結び合わされ、キリストの義に接ぎ木され、聖霊によって再生され導かれてこの世から御国へと救いの完成を目指して歩む。御父と御子が遣わされた聖霊は、私たちがこの世でサタンの欺きに陥らず、罪に打ち負けないように神の御言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)、そして祈りを通して守り、保護してくださり、御国へと歩ませ、私たちの救いを完成させてくださるのである。主の祈りの結びは、私たちが三位一体の神の恵みと支えを思い起こし、賛美しているのである。

 

 問287と答は、主の祈りの第六の祈願の内容である。問答は、主なる神が私たちに「試みに会わせず、むしろ悪より救い出し」てくださるように祈るものであると教えている。問答は問288と答で第六の祈りが全体で一つの祈りであると解説している。つまり、「試みに会わせず」と「悪より救い出し」たまえという二つの祈りではなく、一つの祈りで後半の「悪より救い出し」は、前半の「試みに会わせず」の説明であると解説する。

 

 問答は、問289と答で第六の祈願の内容を要約している。私たちキリスト者は罪赦された罪人である(ルター)。この世に生きる限り、サタンと罪の誘惑から逃れられない。だから、第六の祈願は、主が私たちに、こう祈れと言われている。主が私たちを罪ある状態から見捨てたまわないこと、悪魔の攻撃と私たちの肉の弱さから私たちが敗北せず、抵抗する力を主から賜わること、御国に至るまで主がこの世で私たちを御手でもって支え、保護してくださること、神に守られて聖化の道を歩めるように祈るのである。

 

 問答は問290と答で、私たちがどのようにして聖化の道を歩むのかと問うているのである。キリスト者の聖化は、聖霊の御支配である。聖化の土台はキリストの義認である。私たちはキリストを信じる信仰によって義とされた。聖霊は、私たちにその義に対する愛と願いを満たして、罪と肉とサタンとを克服するように励まし、力づけてくださる。また、聖霊は私たちに自分の罪を憎むようにしてくださり、私たちをこの世から聖別し、罪と汚れから私たちを守られる。問答は、キリスト者の聖化、勝利は聖霊の御力であると解説する。問答は問291と答で、聖霊の御力による助けは、私たちすべてに必要であるかと問うて、次のように答えている。聖霊の御力は、キリスト者は誰も欠くことは出来ないと答えて説明する。悪魔が常に私たちを罪に陥らせようと隙を窺っていると。使徒ペトロの「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(Ⅰペトロ5:8)と言う御言葉を引用している。問答は、聖霊の御力の助けなしに、私たちは悪魔と戦うことは出来ないと解説する。

 

 

 問答は、問292と答で「試み」について解説し、問293と答でどうして第六の祈願を祈るのかと問うている。また、試みが神の固有の御業か、サタンの固有の業かと問うている。試みはサタンの固有の業である。問答は、サタンの業が神の支配下でなされると述べている。主は信仰者を保護されるが、そうでない者をサタンの支配に委ねられる。問294と答において問答は三位一体の神を賛美する

 

ジュネーヴ教会信仰問答70           主の20221026                                                                                                                                       

聖書箇所:ヨハネによる福音書第1715(新約聖書P202)  

第三部 祈りについて

第四四聖日

295 この定式に含まれる以外のことを神に願い求めてはいけないのでしょうか。

答 他の言葉を用いたり、他の言い方によって祈るのは自由です。けれども、正しく祈るための唯一の規範であるこの定式にかなわない祈りが決して神を喜ばせることが出来ないのを心得ねばなりません。

 

 第四部 聖礼典について[神の言葉について]

 

296 私たちが整理して置いた順序にしたがって、今や神礼拝の第四部を論じましょう。

答 それは私たちが神をすべての善きことの作者と認め、彼の慈しみ、義、知恵、力を、讃美と感謝をもって崇め、一切の善きことについての全き栄誉を徹頭徹尾彼のうちに置くことにあると先に申しました。

297 この第四部についての規範が何か規定されていないでしょうか。

答 聖書のうちにある神を讃美する言葉はどれもみな私たちの規範となるべきです。 

298 この第四部に関することは主の祈りに含まれていませんか。

答 確かに含まれています。神の御名が崇められるようにと願う時、私たちは神の栄光がその全ての御業によって明らかにされることを願っているのです。すなわち、あるいは罪人らを赦すことによって憐れみ深い方として知られ、あるいは罰を遂行することによって義なる御方として、あるいは約束されたことを果たすことによって真実なる御方として、認められるようにと願うのであります。要するに、私たちは神の如何なる御業を見る時も、神に栄光を帰しまつらなければなりません。まことに、これこそ全ての善きことについて神に讃美を帰することであります。

299 それではこれまで私たちが論じて来たところから、ひっきょう何が結論されるのでしょうか。

答 それは取りも直さず、真理そのものが教えるところで、私たちが初めに言っておいたことです。すなわち、永遠の生命は唯一のまことの神を父として知り、また父がイエス・キリストを遣わしたもうたことを知るにあります。この神に、私は申しますが、負うところの敬いと礼拝を明らかにし、彼が私たちの主であるにとどまらず、父また救い主であられることを知り、一方私たちは神の子またしもべであり、それゆえに彼の栄光を顕すために己が生を捧ぐべきであると知るのであります。

 

前回は、主の祈りの第六の祈願についてと主の祈りの結びについて学んだ。第六の祈願は二つの祈りではなく一つの祈りである。試みは試練という面と誘惑という面がある。神に選ばれた者が聖霊によって御国に至るまで守られ、支えられ、信仰を全うすることがこの祈願の主題である。結びは福音書のテキストにない。主の祈りの根拠としては、神が一切の力と支配を持っておられることにある。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答は、本日より第三部の祈りから第四部の聖礼典に移行する。ただし問295と答は、祈りについての問答である。ジュネーヴ教会信仰問答は、主の祈りを祈りの規範として扱う。しかし、問答は主の祈りを定式通り祈るべきであるとは考えない。祈りは自由に祈ることができる。しかし、6つの祈願は祈りの規範であるので、それを無視して祈っても神に喜ばれない。神の律法が神を愛し、隣人を愛することに要約されるように、祈りも主の祈りの六つの祈願に要約される。

 

 問296と答から第四部聖礼典(神の言葉について)に入る。(神の言葉について)は、カルヴァンの死後、彼の弟子のベーズが問296308と答に「神の言葉について」という見出しを付けたのである。

 

 問296と答は、この問答についての確認である。問答は、神礼拝を信仰(使徒信条)、律法(十戒)、祈り(主の祈り)、聖礼典の順序にしたがって論じる。その理由を、問答は問七と答においてこう述べている。問七「では、神を正しく崇める仕方は何でしょうか。」答「神に私たちの一切の信頼を置くこと。みこころに服従しつつ、神を全生活を挙げてほめたたえるように努めること。何かの窮迫に悩ませられる毎に神の内に救いを求め、およそ求めてよい善きものはすべて神に祈り求めること。そして、最後に、神こそ一切の善きものの唯一の作者であられると、心でも口でも認めることであります。」

 

 問答は以上の整理された順序にしたがって、問8131と答で信仰(使徒信条)について、問132232と答で律法(十戒)について、問233295と答で祈り(主の祈り)について論じている。そして、問296373と答で聖礼典(神の言葉について)について論じて、この問答を閉じている。

 

 「神をすべての善きことの作者」とは、見えるのも見えないもの、天と地、この世と永遠の一切において神が善の源という意味である。罪人の救いも私たちの肉体を養われることも、神が善あるお方だからである。それを私たちが認める時、心から感謝が生まれる。善ある神への感謝の応答こそ神の御言葉を聴くことであり、聖礼典に与ることである。

 

 問297と答は、神の御言葉を聴くことと聖礼典に与ることについての規範が聖書に規定されていると述べている。それは、詩篇であり、旧約と新約聖書において神を讃美している御言葉である。神礼拝は神を崇め、讃美することである。問答は、その際に聖書の神の御言葉の規範に従うべきであると考えている。

 

 問298と答は、第四部聖礼典と主の祈りとの関係を述べている。御名が崇められるように祈り願う時、私たちは神の栄光が神のすべての御業によって明らかにされることを願っている。即ち、神は罪人を赦すことによって憐れみ深いお方として、罪に対する刑罰を遂行することによって義なるお方として、約束を果たすことによって真実の御方として、私たちに認められることを願っている。そして、私たちが認める時、神に栄光を帰し、神を讃美すべきである。

 

 問299と答は、直前では問298と答であり、神を知ることについては問1314と答である。神の御言葉を聴くこと、聖礼典に与ることで大切なことは、父なる神と神が遣わされたキリストを知ることである。神はキリストにある御自身の憐れみを、私たちに対する愛を明らかにされた。私たちの信仰の基礎は神をキリストにおいて知ることである。そして、神をキリストにおいて救い主として知る時、私たちは自ら神の僕、神の子として知る。それゆえに私たちは神に栄光を顕すために自分を神に献げるべきであると知るのである。神礼拝である。神礼拝は神の御言葉を聴くこと、聖礼典に与ることから成っている。