ジュネーヴ教会信仰問答71           主の20221130                                                                                                                                       

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一第51622(新約聖書P379)  

第四部 聖礼典について

第四七聖日

315 聖礼典が私たちの必要にとっての補助手段として神に制定されたことが真実ならば、それを不必要な・無くても済ませられるものと判断する人は、思い上がっている者として罪に定められねばならないのではありませんか。

答 まことにその通りです。したがって、それを用いることを自発的に止めたり、必要なしとしたりする人は、キリストを侮り、その恵みを退け、御霊を消すのであります。

316 しかし、善人も悪人も入り交じって与かる聖礼典から、良心を固くする如何なる確信、如何に確かな平安が捕らえられるのですか。

答 たとい不敬虔な者らが聖礼典において己れに差し出された神の賜物を、いわば無に帰せしめるとしても、それ自体に関する限り聖礼典の力と本性がそれによってなくなるということはありません。

317 それでは、どのような方法で、何時、聖礼典執行の効力が伴うのですか。

答 私たちが聖礼典を信仰をもって受け、それのうちにただキリストと彼の恵みとを求める時であります。 

318 どうしてキリストをこそ求むべきであると、あなたは言うのですか。

答 私はこう理解します。私たちは見える印に固着して、そこから救いを求めてはならず、あるいは、そこに示される恵みの力がそこに結び付けられ・また含められた力があるかのように想像してはなりません。むしろ、この印は私たちが真直にキリストに向かい、彼から救いと確かな祝福とを請い求めるための支えであります。

319 聖礼典を用いるには信仰が要求されるのに、この信仰を固くするため聖礼典が私たちに与えられ、こうして神の約束について私たちをいよいよ固く確信させるとあなたが言うのはどういうことですか。

答 信仰は私たちのうちに一度始まっただけでは十分ではありません。これは継続的に養われ、日に日に成長しなければなりません。それゆえ、信仰を養い、強め、前進させるために、主は聖礼典を制定されたのです。パウロが聖礼典は神の約束を証印する力を持つと説いた時、言わんとしたのはこのことであります。

                                           ローマ四・11

320 しかし、他の所から固くされるのでなければ、神の約束についての揺るがぬ確信を持てないというのは不信仰の証拠ではありませんか。

答 確かに、信仰の弱さを証明するもので、この弱さのもとで神の子たちは労しているのです。しかし、それだから彼らが信仰者でなくなるわけではありません。彼らは信仰を持っていても、それは未だ微かで不完全なのです。すなわち、私たちがこの世の歩みをしている間は私たちの肉に不信仰の残滓が常にまつわり付いていて、生涯の終りまで止むことなく成長し続けない限り、どんな方法でも振るい落とすことができません。ですから、さらに先に向けて常に前進することが必要であります。

                                                

前回は、第四六聖日の問309314と答を学んだ。第四六聖日より聖礼典について学び始めた。聖礼典は、御言葉によって神が御自分を伝達されたことを証印するものである。だから、聖礼典だけでは意味がない。神の御言葉に結び付けられて、意味があることを学んだ。聖礼典は、私たちの信仰の弱さのゆえに与えられた。それは、神の約束を私たちが確信できる証印である。

 

宗教改革は、礼拝改革であり、カトリック教会の迷信から民衆を解放した。宗教改革の形式原理は聖書のみであり、実質原理は信仰義認である。救いに必要なのは聖書と神の御言葉、それを信じる信仰である。聖礼典は補助手段である。救いにとって絶対に必要なものではない。神は私たちが神の約束を確信し、信仰を強める制度として聖礼典を設けられた。

 

しかし、カトリック教会の迷信を否定する余りに、信仰義認を強調する余りに、キリストが定められた聖礼典を軽んじる者たちが現われた。ジュネーヴ教会信仰問答は、その者たちの傲慢さと罪を鋭く指摘する。彼らの罪は聖礼典の制定者キリストを侮り、その恵みを退け、聖霊を否定することである。使徒パウロが「霊“の火を消してはいけません」(Ⅰテサロニケ5:19)と言うのは、聖霊の助け、導きである。聖霊の助けと導きなくして、神の御言葉を理解することも、聖礼典によって神の約束を確かにし、信仰を強めることもできない。だから、キリストは聖霊を否定する者は救われないと言われた(マタイ12:3132)

 

316の「善人も悪人も」とは、敬虔な者も不敬虔な者もという意味である。この世の教会は、主イエスの毒麦の譬えのように敬虔な者だけでなく、不敬虔な者も入り交じっている。そして、信仰告白した者は洗礼式・聖餐式に与かる。ジュネーヴ教会信仰問答は、それによってキリストが制定された聖礼典の本性と効力が変わることはないと言う。与る弱い者の信仰を強める。

 

317と答は、聖礼典の効力がどのような時に発揮されるのかを教えている。聖礼典に必要なのは、信仰である。信仰告白していない者に、聖礼典は意味がない。その者の信仰を強めるものであるからである。信仰があるなら、彼は十字架のキリストを仰ぎ、彼の恵みを熱心に請うだろう。聖霊が聖礼典を通して彼の心を満たされる。

 

318と答は、聖礼典で用いられる物質、すなわち、私たちの目に見える水、パン、ぶどう酒に何か救いがあると思ってはならないと教える。十字架と復活のキリストへの信仰をもって聖礼典に与かるべきである。水にもパンにもぶどう酒にも何の力もない。これらは、しるしにすぎない。洗礼を受け、私たちは復活のキリストと一つに結び合わされる。聖餐式のパンはキリストが十字架で裂かれた体、ぶどう酒はキリストが十字架で流された血、それを記念し、我らの国籍が天にあることを確かめ合うのである。

 

319と答は、聖礼典の継続性である。洗礼は一度限りである。しかし、聖餐式は礼拝ごとに繰り返されるのが理想だろう。神の御言葉によって私たちは礼拝ごとに神の約束に与かる。そして聖餐式を通してそれを確かめることができる。このようにして神の御言葉を聴き続け、聖餐式に与かり続け、私たちは信仰を養われ、強められ、この世から御国へと力強く信仰の道を歩めるのである。

 

320と答は、聖礼典が私たちの信仰の弱さを証明するものであると言う。神の子たちはこの世で労苦している。この世は彼らにとって聖化の道であり、彼らの聖化はこの世では完成しない。不信仰は常に彼らを苦しめる。彼らは生涯信仰から信仰へと成長しなければならない。聖礼典は彼らの信仰の歩みに欠かすことはできないのである。

 

 

信仰者の生涯に完成はない。不完全な信仰で終わる。しかし、それは成長し続ける信仰である。キリストが再臨され、すべての信仰者が復活し、信仰が完成するまで、私たちは教会において聖礼典の執行を継続しなければならない。

 

ジュネーヴ教会信仰問答72           主の2022127                                                                                                                                       

聖書箇所:使徒言行録第23742(新約聖書P216217)  

第四部 聖礼典について

第四八聖日

321 キリスト教会には聖礼典が幾つありますか。

答 ただ二つです。その二つが全信仰者の間で共通に守られるのです。

322 それは何々ですか。

答 洗礼と聖晩餐です。

323 両者の間にどういう類似点と相違点がありますか。

答 洗礼は私たちにとって教会に入るいわば入口のようなものです。私たちはもともと外部の者、無縁の者でありますのに、神の家族のうちに受け入れられ、家の者のうちに数えられるということの証しをそこに持つからです。一方、晩餐は神が私たちの魂を養うことによって御自身を父として私たちに示したもうことを証しします。 

324 この両者の持つ真理を私たちがより明快に知るように、聖礼典の一つ一つを取り上げましょう。先ず、洗礼の表わす意義は何ですか。

答 これには二つの部分があります。すなわち、そこには罪の赦し、次に霊的生まれ変わりが象徴されています。

                                        エフェソ五・二六、ローマ六・四

                                                

前回は、第四七聖日の問315320と答を学んだ。聖礼典は救いにとって絶対に必要なものではない。しかし、聖礼典はキリストが制定されたものであり、軽んじることは許されない。聖礼典を否定する者は、聖礼典の制定者キリストを侮り、その恵みを退け、聖霊の照明能力を失わせる者である。聖礼典の本性と効力は、不敬虔な者によって軽んじられてもなくなることはない。聖礼典が効力を発揮するのは、信仰を持って受け入れられる時である。聖礼典は信仰によってキリスト伝達が現実となるしるしである。信仰者の生涯に聖化の完成はない。不完全な信仰で終わる。だから、私たちは教会において聖礼典の執行を継続しなければならない。

 

今回は、第四八聖日の問321324と答を学ぼう。問321322と答は、聖礼典の数についてである。教会における聖礼典の数は、カトリック教会とプロテスタント教会では異なる。カトリック教会は、7つある。洗礼、堅信、ゆるし、聖餐、叙階、婚姻、癒しである。プロテンスタント教会は、洗礼と聖餐である。プロテスタント教会では洗礼と聖餐の二つを、全信者たちが共通に守っている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答が聖礼典の数を問題にするのは、ローマカトリック教会が7つと主張するのに対して、プロテスタント教会はキリストが制定された洗礼と聖餐のみに限定しているからである。洗礼に関しては、マタイによる福音書2819節で主イエスは「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」と命じられている。聖餐に関しては、主イエスが「わたしの記念としてこのように行なえ」と命じられた(Ⅰコリント11:24)

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問323と答で洗礼と聖餐との類似点と相違点について問うている。類似点は、キリストが制定されたという点である。霊的な制度である。問答は、二つの類似点を神の家族に譬えている。洗礼は神の家族に入る入口であり、聖餐は神の家族を養う食事である。

 

洗礼はキリストの教会への入門である。聖餐は教会の頭である主イエスから与えられる食事である。パンとぶどう酒を与えることによって主イエスは私たちの魂を養われる。

 

洗礼は恵みの契約に入ったことの確認であり、聖餐は恵みの契約の中で養われていることの確認である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、更にこの二つのものの持つ真理をより明快にするために洗礼と聖餐をそれぞれ取り上げて説明しようとする。先ずは、洗礼の意義である。洗礼の意義は二つある。罪の赦しと霊的な生まれ変わりである。次回から洗礼について、その意義を学ぼう。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答73           主の20221214                                                                                                                                       

聖書箇所:ヨハネによる福音書第3115(新約聖書P167)  

第四部 聖礼典について

第四九聖日

325 洗礼の水と、これの表わしている事柄との間にはどういう類似がありますか。

答 罪の赦しは一種の洗いであって、これによって魂はその汚れを洗い落されます。それは水によって体の汚れが洗い潔められるのと異なりません。

326 生まれ変わりについてはどうですか。

答 私たちの生まれながらの本性の死滅が生まれ変わりの初めであり、新しい創造物になることがその終わりでありますから、頭に水が注がれることによって死の印が私たちに示され、一方、私たちが水のなかに沈んだままでなく、ただ一瞬の間いわば葬られたようになるだけで、すぐに立ち上がることの中に新しい命の印が示されます。

327 では、あなたは水が魂の洗いであると考えますか。

答 いいえ決して。そのように考えることはキリストの血から栄誉を奪い取る不正だからです。すなわち、彼が血を流したもうたのは私たちの一切の汚れを潔めて、神の御前に純潔かつ汚点なきものとするためでありました。そして、聖霊がキリストの聖なる血を私たちの良心に注ぐ時、私たちはその潔めの実を捉えるのであります。そのことの証印を私たちはこの聖礼典のうちに持つのであります。

                                           Ⅰヨハネ一・七、Ⅰペトロ一・一九 

328 しかし、水には赦しの象徴以外の何物も帰せられないと言うのですか。

答 私の理解では、それは象徴といっても、実体が伴っているような象徴だということです。神が私たちに与えたもうた約束は一つとして私たちを欺くことがないからです。したがって、罪の赦しと新しい命とが洗礼において私たちに差し出され、私たちによって受け取られることは確かであります。

329 この恵みは全ての人に無差別に満たされるのでしょうか。

答 多くの人はその邪悪によって恵みの道を塞ぐので、彼らにとっては効果は空しいのです。したがって、この実は信仰者にしか及びません。しかし、だからといって聖礼典の本性が減退したのではないのです。

330 生まれ変わりはどこから来ますか。

答 キリストの死ならびにその復活からです。すなわち、キリストの死はそれによって私たちの古き人を十字架に付け、私たちの本性の邪悪をいわば埋葬し、もはや私たちのうちで活動出来なくさせる効力を持ちます。また、私たちを新しい生へと改革し、神の義に服従せざるを得なくさせるのは、復活の齎らす賜物です。

331 これらの恵みが洗礼によって私たちのものとなるのは、如何にしてですか。

答 そこに差し出されている約束を退けて、実りなきものしない限り、私たちはキリストを着、キリストの御霊を与えられるのです。

332 洗礼を正しく用いて益を得るために私たちのなすべきことは何ですか。

答 洗礼の正しい用い方は信仰と悔い改めにあります。言換えれば、第一に、私たちはキリストの血によって全ての汚れを洗い潔められて、神に喜ばれるものとなったのだと心の確固たる確信をもって信ずべきです。第二に、彼の御霊自らが私たちのうちに住みたもうことを体得し、このことを行ないによって他の人に表明するのです。こうして私たちは肉を殺すことと神の義に従順になることを絶えず思いつつ修練を重ねるのであります。 

                                        

 

 前回は、第四八聖日の問321324と答を学んだ。聖礼典の数について、聖礼典の数は二つであり、洗礼と聖晩餐であることを学んだ。そして洗礼と聖晩餐の類似と相違について学んだ。類似はキリストが制定された霊的な制度であり、神の家族に譬えられる点である。相違は、洗礼が神の家族である教会への入口であり、聖晩餐が神の家族の中で養われる食事である。次回の伏線として洗礼の表わす意義について、罪の赦しと霊的生まれ変わりであることについて学んだ。

 

今回は、洗礼の表わす意義について、すなわち、罪の赦しと生まれ変わりについて詳しく学ぼう。洗礼の意義は罪の赦しと霊的再生の二点である。聖礼典は印であり、事柄そのものではない。印は事柄そのものを表わし、際立たせるものである。問325と答で問うているのは、洗礼と水が印であり、それが表している事柄が主イエス・キリストによる罪の赦しと霊的再生である。類似は答にあるように「洗い」である。洗礼は水による洗いである。罪の赦しは一種の洗いである。罪の赦しは魂の汚れを洗い流すことである。水で体の汚れを洗い流すことと異ならない。

 

326と答は、霊的再生、生まれ変わりについてである。霊的再生は新生とも呼ばれる。古き人(自己)に死に、新しき人(自己)に生きることである。使徒パウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5:17)と述べている。私たちキリスト者はキリストに結ばれて、古き自己は十字架に死に、新しき自己がキリストの復活によって生じたのである。洗礼は古き自己の死と新しき自己の再生を表わすのである。

 

327と答は、水で魂の洗いができることを否定する。なぜならキリストの血から栄誉を奪うことになるからである。罪の赦しは水によるのではなく、キリストの十字架の血によってである。彼の流された血によって私たちは魂の汚れを洗い流され、神の御前に汚れなき純潔な者とされたのである。洗礼という聖礼典はそのことの証印にすぎない。

 

328と答は、洗礼は象徴、印だが、単なる象徴、印ではなく、実体を伴った象徴、印であることを教えている。それは、神の約束という実体を伴うのである。だから神の約束として洗礼において罪の赦しと霊的再生が差し出され、私たちは洗礼を通して罪の赦しと霊的再生を受け取るのである。

 

329と答は、洗礼による罪の赦しと霊的再生の恵みは信仰者にも不信仰者にも無差別に与えられるのかという問いである。全的堕落という教理がある。人は皆アダムの原罪の故に生まれながらに腐敗しているという教えである。だから、多くの人はその邪悪さによって罪の赦しと霊的再生の恵みの道を自ら塞いでいるので、その効果は空しいのである。信仰者だけが洗礼によって罪の赦しと霊的再生の実を得ることができる。それは、聖礼典の本来のあるべき姿を減退させたということではない。

 

330と答は、生まれ変わり、すなわち、霊的再生がどこから来るかという問いである。使徒パウロは、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ14:79)と述べている。生まれ変わりは、キリストの十字架の死と復活から来ている。キリストの十字架と埋葬によってわたしたちの古き人は死に、キリストの復活によってわたしたちの新しき人が生まれた。主のものとして主に服従し、神の義に服するのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答74           主の20221221                                                                                                                                       

聖書箇所:使徒言行録第162534(新約聖書P246)  

第四部 聖礼典について

第四九聖日

331 これらの恵みが洗礼によって私たちのものとなるのは、如何にしてですか。

答 そこに差し出されている約束を退けて、実りなきものしない限り、私たちはキリストを着、キリストの御霊を与えられるのです。

332 洗礼を正しく用いて益を得るために私たちのなすべきことは何ですか。

答 洗礼の正しい用い方は信仰と悔い改めにあります。言換えれば、第一に、私たちはキリストの血によって全ての汚れを洗い潔められて、神に喜ばれるものとなったのだと心の確固たる確信をもって信ずべきです。第二に、彼の御霊自らが私たちのうちに住みたもうことを体得し、このことを行ないによって他の人に表明するのです。こうして私たちは肉を殺すことと神の義に従順になることを絶えず思いつつ修練を重ねるのであります。 

 第五〇聖日

333 正しく洗礼の益を受けるには以上のことが要求されるとすれば、私たちが幼児に洗礼を施すのはどういうことですか。

答 洗礼に際して信仰と悔い改めが常に先立たねばならぬわけでは必ずしもありません。信仰と悔い改めを為し得る年齢に既に達した人にだけこれが求められるのです。ですから子どもたちは成長して後、自らの受けた洗礼の力を見せれば十分です。

334 それで間違いない理由を示すことが出来ますか。

答 はい出来ます、主が理に反するようなことを何一つ制定したまわなかったという主張が容認される限りはです。すなわち、モーセと全ての預言者は割礼が悔い改めの印であると教えていますが、パウロはこれがまた信仰の聖礼典であると証しします。しかも、子どもたちがこの聖礼典から除外されていなかったのを私たちは見ています。

                        申命記一〇・一六、同三〇・六、エレミヤ四・四、ローマ四・一一

335 しかし、割礼に当てはまったのと同じ理由が洗礼に適用されるでしょうか。

答 全く同じ理由なのです。というのは、昔、神がイスラエルの民に与えたもうた約束は、今や全世界に公にされているからです。

336 しかし、そこからあなたは印も用いなければならないと結論するのですか。

答 割礼と洗礼の二つについて、すべての点を十分に考え合わせた人はこの結論に導かれます。すなわち、先にイスラエルに賜わった恵みをキリストは私たちに対して少しもおぼろげにされず、あるいは如何なる部分も欠けないという定めのもとに、与からせて下さるのです。いや、それどころか私たちに対しては一層明らかに、また豊かに注ぎたもうたのであります。

337 子どもたちを洗礼から遠ざけるならば、神の恵みがそれによってなにがしか減ることになり、キリストの来臨が恵みを小さくしたと言われることになると思うのですか。

答 はい、そうなることは明らかです。というのは、神の恵みを証しし、約束を固くするに大いに益ある、際立った印が取り去られるならば、旧約の人たちが受けていた特別な慰めは私たちにないことになるからです。

338 ですから、あなたの考えはこういうことですね。神は旧き契約のもとで御自身を小さき者たちの父として示すため、救いの約束を目に見える印として彼らの肉体に刻みつけることを欲したもうた。だから、もしキリストの来臨以後。信仰者がより小さい確証の印しか持たぬとすれば、相応しくない。なぜなら、旧約の父祖たちに与えられたと同じ約束が今日私たちに向けられ、神は御自身の慈しみのより明らかな例証をキリストにおいて私たちに示したもうからであると。

答 私はそのように理解します。さらに、洗礼の効力、またいわば実質に子どもたちも与かることは十分に確定しているのですから、実体の下位にある印が子どもたちに認められないとすれば、明らかに彼らに対し不正が為されたことになります。

339 それでは、子どもたちはどういう条件のもとに洗礼を授けられるのですか。

答 洗礼は彼らが信仰者の子孫に約束された祝福を継ぐことの証しとして為されますので、成長してから、先に受けた洗礼の実質を悟って、その実りをとらえ、また実らせるようにするのであります。

 

前回は、第四九聖日の問325330と答を学んだ。洗礼と水の類似点、生まれ変わりについて、水が罪の洗いと考えることの間違いについて、生まれ変わりがどこから来るのかということを学んだ。

 

今回は、前回の残された問331332と答を学び、第五〇聖日の問333339と答を学ぼう。問331と答は、罪の赦しと再生の恵みがわたしたちのものとなることである。ジュネーヴ教会信仰問答は、私たちが神の御言葉によって差し出されている恵みを退けない限り、不信仰によって実り無きものにしない限り、私たちは洗礼によってキリストを着、すなわち、キリストと一つにされ、キリストの霊である聖霊をいただき、罪の赦しと再生の恵みに与かることが出来るのである。問332と答は、洗礼の正しい用い方についてである。それは、私たちが信仰と悔い改めに生きることである。第一に私たちはキリストの血によって罪を洗い清められ、神に喜ばれる者となったということを心で確信をもって信じることである。第二に聖霊が私たちの内に住まわれていることをよく知り、聖霊に寄り頼み、神の御言葉に従って自分の肉を殺し、神の義に生きるように修練することである。

 

第五〇聖日の問333339と答は、幼児洗礼に関してである。旧約の神の民イスラエルと新約の教会は、共に恵みの契約に生きる神の民である。旧約の神の民は、割礼によって恵みの契約に入り、教会は洗礼によって恵みの契約に入る。旧約の神の民は、彼らだけではなく、彼らの子どもたちにも割礼を施した。同様に教会は信者だけではなく、彼らの子どもたちにも洗礼を施すのである。

 

333と答は、幼児洗礼に成人洗礼と同じ条件が求められないということである。幼児洗礼に与かる子どもたちに信仰と悔い改めはない。彼らが成長した時に、信仰と悔い改めを表明し、幼児洗礼を受けた恵みを示すだけでよいのである。

 

334と答は、幼児洗礼の根拠を、旧約時代の割礼に言及する。主なる神は、理に反することを制定されない。なぜなら、割礼は、旧約時代信仰と悔い改めの印だった。そして、信仰と悔い改めを言い表せない彼らの子供たちも、生まれて八日目に割礼を受けたのである。

 

335と答は、割礼と洗礼は同じ神の約束に与かる印であると述べている。キリストによって御国を相続するという約束に、神の民も教会も共に与るのである。だから、旧約の民は割礼を受け、新約の教会は洗礼を受けるのである。問336と答は、旧約の神の民に対して、キリストを通して神の約束に与かる教会は更にはっきりとした恵みを示されていると述べているのである。

 

 

337と答は、幼児洗礼を拒むことに対する不利益を教えている。子どもたちが恵みの契約の中にあるという喜びを減らされ、旧約の契約のもとで、神御自身が父として示された慈しみを失うことになるからである。キリストを通して私たちは父なる神の愛を知らされているからである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答75           主の20221228                                                                                                                                         

聖書箇所:マタイによる福音書第262629(新約聖書P53)  

第四部 聖礼典について

 第五〇聖日

338 ですから、あなたの考えはこういうことですね。神は旧き契約のもとで御自身を小さき者たちの父として示すため、救いの約束を目に見える印として彼らの肉体に刻みつけることを欲したもうた。だから、もしキリストの来臨以後。信仰者がより小さい確証の印しか持たぬとすれば、相応しくない。なぜなら、旧約の父祖たちに与えられたと同じ約束が今日私たちに向けられ、神は御自身の慈しみのより明らかな例証をキリストにおいて私たちに示したもうからであると。

答 私はそのように理解します。さらに、洗礼の効力、またいわば実質に子どもたちも与かることは十分に確定しているのですから、実体の下位にある印が子どもたちに認められないとすれば、明らかに彼らに対し不正が為されたことになります。

339 それでは、子どもたちはどういう条件のもとに洗礼を授けられるのですか。

答 洗礼は彼らが信仰者の子孫に約束された祝福を継ぐことの証しとして為されますので、成長してから、先に受けた洗礼の実質を悟って、その実りをとらえ、また実らせるようにするのであります。

 第五十一聖日

340 聖晩餐に移りましょう。先ず初めに、その意義が何であるかを聞かせて下さい。

答 これはキリストによって制定されたもので、私たちの魂が永遠の生命の希望のうちに育てられるということを御体と御血の伝達によって教え、それを私たちに確かにしたもうのです。

341 しかし、なぜ主の御体がパンにより、またなぜ御血が葡萄酒によって表わされるのでしょうか。

答 パンが肉体を養って現世の命を支えるのと同様な力が主の御体にあって、魂を霊的に養うということを私たちはこれによって教えられます。また葡萄酒が人の心を喜ばせ、力を新たにし、人間の全身を活気付けるのと同じことを魂は主の御血から受け取るのです。

342 それならば、私たちは主の体と血を飲み食いするのですか。

答 私はそう理解します。すなわち、彼が御父に示したもうた従順が、あたかも私たちの差し出したものであるかのように御父から受け入れられるために、私たちの救いの担保は悉く彼のうちに置かれるのですから、彼が私たちによって所有されることが必要です。というのは、彼が御自身を私たちのものとしたまわない限り、良きものは私たちに与えられないからです。

343 しかし、彼が御自身を与えたもうたのは、その身を死に投じて私たちを死の判決から贖い、御父と和解させたもうた時だったのではありませんか。

答 それは、まことにその通りです。けれども、今私たちが彼を受け入れ、こうして彼の死の効力と実りが私たちに及ぶのでなければ十分でありません。

344 彼を受け入れる方式は信仰にあるのではありませんか。

答 その通りだと思います。しかし、次のことを同時に付け加えます。すなわち、彼が死に、それによって私たちが死から解放され、彼が甦り、それによって私たちに命が獲得されたことを、ただ信じるだけでなく、彼が私たちの内に住みたまい、私たちが彼に結び付けられて、体の肢が首と結び合うような、そのような一致を為し、こうしてこの一致のお陰で彼のすべての良きものに私たちが与らしめられるということを認める時に、それは成し遂げられるのです。

 

前回は、第五〇聖日の問333337と答を学んだ。幼児洗礼について学んだ。問388339と答の学びが残っているので、簡単に述べて、問340と答から聖晩餐について学ぼう。問338と答は、恵みの契約の統一性である。旧約の民も新約の教会も恵みの契約の民である。旧約の神の民は割礼によってその恵みにしるしを肉体に刻まれ、新約の教会は洗礼によって授けられる。共に同じ神の約束が与えられる。だから、子供に幼児洗礼を授けないことは、不正を犯すことであると、ジュネーヴ教会信仰問答は述べている。不正を為さないために幼児洗礼を施し、子どもたちが将来洗礼の意味を理解し、その実りである信仰告白に導かれるように、教会と両親は契約の子を信仰教育すべきである。

 

今回の五十一聖日から五十三聖日まで、問340356と答においてジュネーヴ教会信仰問答は、聖晩餐について教えている。問340と答は、聖晩餐についての意義を教えている。聖晩餐は、主イエスが12弟子たちとの最後の食事で制定されたものである(マタイ26:2629)。ジュネーヴ教会信仰問答は、その目的を「私たちの魂が永遠の生命の希望のうちに育てられる」と述べている。それを教えるために、主イエスの御体と御血にあずからせるのである。

 

その意義を教えるために問341と答でパンと葡萄酒が印として用いられると述べている。キリストの御体の印にパンが用いられるのは、パンが私たちの体を養うように、主の御体が私たちの魂を霊的に養うからである。また、葡萄酒が人の心を喜ばせ、人に新たな活力を与えるように、キリストの御血によって私たちの魂が喜び、新たな活力を得るからである。

 

342と答でジュネーヴ教会信仰問答は、私たちに聖晩餐がキリストの体と血を飲み食いすることかと問うている。問答は、実際に飲み食いすると言っているのではない。この飲み食いは、私たちがキリストを受け取るという意味である。父なる神に従順に従われ、御自身を私たちの罪のために差し出されたキリストを、私たちは受け取り、そのキリストのものとされることである。そうしないと、私たちはキリストから罪の赦しと永遠の命という良きものを得ることは出来ないのである。なぜなら、救いの担保はキリストである。キリストが十字架と復活という客観的担保になられたのである。

 

343と答は、キリストが御自身を与えられたことは、2000年前の十字架で起こったのではないかという問いである。その時にキリストは御自身の死によって私たちを死の判決から解放し、御父と和解させてくださったのである。信仰問答は、その通りであるが、その恵みが私たちに効力があり、実りあるものでなければならないと言う。だから、キリストが2000年前に御自身を差し出されたのを、今私たちは受け取るのである。信仰によってキリストを受け取ることで、今私たちはキリストから義をいただくのである。

 

だから、問344と答で、信仰問答は私たちがキリストを受け取る方式を信仰によるのではないかと問うている。信仰によってキリストを私たちが受け取る。これによって私たちはキリストと一つにされる。キリストが十字架に死なれた時、キリストのものとされた私たちも十字架に死んだのである。キリストが三日目に復活されたように、私たちも同じ復活の体に与かっているのである。キリストは内住のキリストである。聖霊としてキリストは、今私たちの内にいる。こうしてキリストと私たちは一つとされている。

 

信仰によってキリストを受け入れるだけではなく、今キリストが私たちと共に居てくださることを認めるように、ジュネーヴ教会信仰問答は述べている。すなわち、キリストは聖霊として私たちの内におられ、私たちに信仰の賜物を与え、私たちが礼拝と神の御言葉を聴従すること、聖餐式に与かり、御国へと歩むように導かれているのである。インマヌエル、神と共に生きるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答76           主の2023111                                                                                                                                       

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一書第112326(新約聖書P314315)  

第四部 聖礼典について

 第五十二聖日

345 それでは私たちはこの交わりをただ聖晩餐によってのみ獲得するのですか。

答 決してそうではないのですキリストは福音によって私たちに伝達されたもうとパウロは証ししています。すなわち、私たちが彼の肉の肉、彼の骨の骨であること、彼が私たちの魂を養うために天からくだった生けるパンであること、彼が御父と一つであるのと同じく、私たちが彼と一つであること、および同様のことを福音によって聞くのでありますから、パウロがこのように教えるのは至当であります。

                       Ⅰコリント一・四‐九、エフェソ五・三〇、ヨハネ六・五一、一七・二一

346 では、それ以上の何を私たちはこの聖礼典から受けるのですか。あるいは、それ以上のどんな益が私たちに与えられるのですか。

答 それは、先に申しました交わりが私たちに固くされ、かつ増し加えられることであります。すなわち、洗礼において、また福音においてキリストが私たちに示されてはいても、私たちは彼の全体を受けてはいず、ただ一部を受けるに過ぎないからです。

347 それではパンのしるしにおいて私たちは何を受けるのですか。

答 キリストの体は一たび私たちのために、わたしたちを神と和解させるべく、犠牲として捧げられましたが、そのように今や私たちに与えられて、この和解が私たちに及んでいることを確かに知るのです。

348 血のしるしには何があるのですか。

答 キリストは、私たちの罪の償いとして、また贖いの代価として、その血を一たび注ぎたまいましたが、そのように今、それを飲むようにと私たちに差し出し、こうして、そこから私たちに達すべき実りを体得させたもうのであります。

349 あなたのこれらの答によると、主の聖なる晩餐は私たちを彼の死に赴かしめ、こうしてその死の効力に与らせるものであります。

答 その通りです。すなわち、あの時、私たちの救いに十分な唯一・永遠なる犠牲が果たされましたので、私たちにはそれを享受することだけが残っているのであります。

350 それならば、聖晩餐は御子の御体を神に捧げるという目的のために制定されたものではありませんね。

答 決してそうではなかったのです。永遠に唯一の祭司であられる彼のみが犠牲を捧げる特権を持っておられます。そして彼の御言葉が「取って食べよ」と言う時、意味するのはそのことなのです。つまり、彼の体を私たちが捧げることでなく、ただそれを食べることが命じられているのです。

                                       ヘブライ五・五‐一〇、マタイ二六‐二八

 

 

前回の第五一聖日から聖晩餐について学び始めた。問340と答で聖晩餐についての意義を学んだ。聖晩餐はキリストが制定されたもので、その目的は「私たちの魂が永遠の生命の希望のうちに育てられる」ことであり、それを私たちに伝えるために、主イエスの御体と御血にあずからせるのである。

 

その意義は、問341と答でパンと葡萄酒を印として用いることで示される。すなわち、キリストの御体の印にパンが用いられ、主の御体が私たちの魂を霊的に養うことを示し、キリストの御血の印に葡萄酒を用いられ、キリストの御血が私たちの魂に喜びを、新たな活力を得ることを示すのである。

 

342と答でジュネーヴ教会信仰問答は、私たちが聖晩餐でキリストの体と血を飲み食いすることを、キリストを受け取るという意味であると述べている。私たちはキリストを受け取り、キリストのものとされ、キリストから罪の赦しと永遠の命という良きものを得るのである。救いの担保はキリストである。問343344と答えで信仰によってキリストを受け取ることを学んだ。

 

今回は、第五十二聖日、問345350と答を学ぼう。問345の「この交わり」とは、キリストが私たちに与えられ、内住されることである。あるいは「私たちが彼の肉の肉、彼の骨の骨であること」である。御父と御子との交わりに、私たちが与かるという交わりである。これは、聖晩餐によってのみ私たちが獲得できるものではない。使徒パウロが証言するように、キリストは福音によってこの交わりを私たちに伝えられた(ガラテヤ2:20)。ジュネーヴ教会信仰問答が「福音」と述べているのは、福音の説教によってという意味である。私たちは、毎週の主日礼拝の説教を通して「たちが彼の肉の肉、彼の骨の骨であること、彼が私たちの魂を養うために天からくだった生けるパンであること、彼が御父と一つであるのと同じく、私たちが彼と一つであること、および同様のこと」を聞くのです。そして聞いたことを信仰によって受け入れるのです。

 

346と答でジュネーヴ教会信仰問答は、私たちに福音の説教によって聞いたこと以上の何を、どんな益を聖晩餐から受けるのかと問うているのです。問323と答で洗礼と聖晩餐の類似と相違を述べている。そこで洗礼が神の家族に受け入れられることで、聖晩餐は神の家族の中で養われることであると述べている。聖晩餐は、私たちの魂を養い、信仰を強め、神の家族の交わりを固くし、増し加えるものである。福音の説教は私たちにキリストの全てを伝えてはいない。一部である。だから、聖晩餐によってこの交わりを固くし、強められる必要がある。

 

347348と答で、ジュネーヴ教会信仰問答は、聖晩餐に用いられるパンと葡萄酒の印によって何を受けるのかと問うている。パンと葡萄酒という印は、キリストの実体と対応する。すなわち、パンはキリストが私たちのために体を裂かれたこと、葡萄酒は血を流されたことに対応する。キリストはただ一度父なる神に御自身をささげられた。今、聖晩餐を通してキリストは御自身を私たちに差し出されているのである。キリストはただ一度御自身を神に捧げて、神の私たちの和解を執り成され、得られた和解を今私たちに差し出されるのである。流されたキリストの血は、罪の贖いの代価である。それによって私たちの罪のための賠償金は支払われたのである。その恵みを、私たちが信仰によって葡萄酒を飲むごとに確信させられるのである。

 

349と答でジュネーヴ教会信仰問答は、聖晩餐が羅針盤の役割を果たすことを教えている。すなわち、聖晩餐は、使徒パウロが言うように、「主の死を告げ知らせる」ものである(1コリント11:26)。私たちをキリストの死へと導き、その恵みの効果を教えるのである。聖晩餐ごとに私たちはキリストの唯一の犠牲の死を直視する。そして、私たちは罪を赦され、神と和解し、永遠の命の恵みに入れられたことを理解し、確信するのである。

 

 

350と答でジュネーヴ教会信仰問答は、カトリック教会のミサに反対し、キリストが永遠に唯一の祭司であり、彼のみが神に犠牲をささげる特権を持たれていると主張する。更にキリストが命じられたのは「取って食べよ」であり、「御自身を犠牲として捧げよ」ではないと述べている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答77           主の2023118                                                                                                                                       

聖書箇所:ローマの信徒への手紙書第83139(新約聖書P285286)  

第四部 聖礼典について

 第五十三聖日

351 どうして私たちは二つのしるしを用いるのでしょうか。

答 これらのしるしによって主は私たちの弱さのための対策を講じて下さったのであります。すなわち、御自らが私たちの魂の食物であるだけでなく、飲み物でもあり、彼をおいてほかのどこにも霊的生命の一片だに求めてはならないということを、いっそう身近に分かりやすく教えたもうのです。

352 すべての人は例外なくこの両方のしるしを等しく用いなければなりませんか。

答 キリストの命令はそのように要求します。何らかの仕方で一部を撤廃したり、反対の何かを企てたりすることは、最高の不正であります。

353 私たちは聖晩餐のうちに、あなたの言うそれらの恵みのしるしを持つだけですか。それとも、事柄そのものが私たちに明示されるのですか。

答 私たちの主キリストは真理そのものであられますから、私たちに与えたもうた約束が同時に成就するとともに、象徴には実体を伴わせたもうということを、決して疑ってはなりません。ですから、御言葉としるしによって証しされている通り、私たちが彼の本質に与かる者とされ、こうして彼と一つなる命に合わせられることを私は疑いません。

354 しかし、キリストの御体は天にあり、私たちはなお地上に遍歴しているのに、こういうことがどうして起こり得るでしょうか。

答 このことは彼の御霊の奇しくまた隠れた力によって成し遂げられます。御霊にとって、空間的な隔たりによって分けられているものを結び付けることは困難ではありません。

355 すると、あなたはパンの中に御体が含まれるとも、杯のうちに御血があるとも想像しないのですね。

答 決してそう考えません。むしろこう理解します。私たちはこれらのしるしの表わす実体を我がものとするため、精神を天に向けて高めなければなりません。そこにキリストがいまし、そこから彼が審き主また贖い主として来たりたもうのを待ち望むのです。これら地上的要素の中に彼を尋ね求めるのはよこしまであり、空しいことです。

356 あなたの言ったことを纏めて見ますと、聖晩餐には二つのことがあるとあなたは主張するわけですね。先ず、パンと葡萄酒。これは目で見、手で触り、味覚で味わいとるもの、次にキリスト。このキリストによって私たちの魂は内的に、いわば本来の食物によって養われます。

答 本当にその通りです。さらに、私たちの体も生命のしるしに与かるのですから、そこでは丁度保証が与えられたのと同じで、体の甦りすらも私たちに確証されるのです。

 

 

前回の第五二聖日で聖晩餐がキリストと私たちの交わりを固くし強めるものであることについて学んだ。キリストは私たちに聖晩餐を通して御自身を差し出されているのである。私たちはキリストの御体を食べ、血を飲むことによって、神との和解を得て、霊的命を養うのである。

 

今回の第五十三聖日は、ローマカトリック教会のミサに対して、あるいは考えに対して、宗教改革者であるカルヴァンの見解を述べているのである。

 

351で聖晩餐において「どうして私たちは二つのしるしを用いるのでしょうか。」と問うているのは、カトリック教会のミサでは、会衆はパンしかあずかれないからである。そこで問答は、聖晩餐でパンと葡萄酒をしるしとして用いる理由を述べている。それは主が二つのしるしを用いて私たちの弱さに対する対策を講じて下さったからである。パンと葡萄酒の二つのしるしが私たちの魂を養い、信仰を強める糧なのである。だから、キリストは、私たちに「わたしの体を食べなさい」と命じ、「わたしの血を飲みなさい」と命じられました。

 

352と答でジュネーヴ教会信仰問答は、聖晩餐ですべての人が例外なく、パンと葡萄酒に与からなければならないかと問うている。そして、この問いの背後にカトリック教会の誤りがある。カトリック教会には教職者と一般信徒との区別があり、ミサで教職者はパンと葡萄酒に、会衆はパンだけに与かる。問答は、これをキリストの命令に対する最高の不正であると断じているのである。しかし、今日カトリック教会は、過去の誤りを認めてはいないが、会衆に葡萄酒を認めている。

 

353と答で、問答は聖晩餐において二つのしるしとキリストの実体とが切り離せないことを教えているのである。聖晩餐においてパンと葡萄酒というしるしで、キリストという実体が差し出されているのである。キリストは真理であり、実体である。だから、聖晩餐において私たちに差し出されたキリストは真理であるから、私たちが受けた約束は実現する。しるしのパンと葡萄酒は、キリストの体と血に結び付けられ、私たちがパンと葡萄酒に与かることはキリストと一つとなることであり、キリストと一つなる命となることなのである。 

 

354と答でジュネーヴ教会信仰問答は、私たちに聖晩餐における聖霊の働きを教えている。聖書が証言するようにキリストは昇天し、天におられる。私たちはこの地において遍歴している。すなわち、御国を目指してアブラハムのようにこの世に生きているのである。天と地は交わることができない。ところが聖霊が天にいますキリストと地にいる私たちを結び付けて下さるのである。聖霊はキリストの霊である。聖霊が御言葉と聖礼典を通して私たちをキリストと結び付けてくださる。インマヌエル(「神我らと共にある」)という奇跡を起こされるのである。

 

355と答で、ジュネーヴ教会信仰問答は、ローマカトリック教会の偶像礼拝を批判しているのである。パンと葡萄酒は、単なる食べ物飲み物である。パンにキリストの体が含まれていないし、葡萄酒にキリストの血が含まれてはいない。だから、パンと葡萄酒を偶像礼拝することはない。むしろ、印であるパンと葡萄酒に与かることで、その実体であるキリストと一つになることで、心を高く天に上げるのである。そして、再び来られる審き主であり贖い主であるキリストを待ち望むのである。

 

356と答でジュネーヴ教会信仰問答は、聖晩餐について纏めている。聖晩餐には二つのことがある。一つは私たちの目に見えるものである。しるしであるパンと葡萄酒を目で見ること、手で触ること、口に入れて味覚で味わい取ることである。もう一つは私たちの目で見ることは出来ないキリストである。信仰によって私たちは、パンを食べ、見えないキリストの体を食べる。信仰によって私たちは、葡萄酒を飲み、キリストの血を飲む。私たちはキリストによって魂を養われるのである。

 

 

356の答でジュネーヴ教会信仰問答は、聖晩餐によって私たちがキリストの命に与かる保証を得たと述べている。それは私たちの復活すら確証するものであると述べている。聖晩餐において私たちは、魂が養われるだけではなく、私たちの復活の確証を得ることが出来るのである

 

ジュネーヴ教会信仰問答78           主の2023125                                                                                                                                       

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一書第112734(新約聖書P315)  

第四部 聖礼典について

 第五十四聖日

357 しかし、この聖礼典の正しい・然るべき受け方はどういうものですか。

答 パウロが定める通りでありまして、人はこれに近付く前に自分自身を検討するのであります。

358 その検討によって何を究明するのですか。

答 キリストのまことの肢であるかどうかをです。

359 何によってそのことが分かるのでしょうか。

答 まことの悔い改めと信仰があるかどうか。隣り人に対して誠実な愛を尽くしているかどうか。そして、魂が一切の汚れと悪意から純潔であるかどうかであります。

360 あなたは人のうちに完全な信仰と愛を求めるのですか。

答 信仰も愛も全きものであって、何ら見せかけでないことが必要です。しかし、あらゆる部分に亙って欠陥が何もないような絶対的な完全さ求めても無駄であります。そんな人は人々の間に見出せないからです。

361 それならば、今なお私たちがそのもとに労苦している不完全さは、私たちが聖晩餐に近付くのを妨げるものではないのですね。

答 それどころか、もし私たちが完全な人であったならば、聖晩餐は私たちのうちに何の益も持ちません。なぜなら、これは私たちの不完全さのための対策であるべきだからです。

362 この二つの聖礼典はそれ以外の目的を持たないのでしょうか。

答 これらはまた私たちの告白の標識で、いわば認知票のようなものです。すなわち、これらの聖礼典に与かることによって人々の前に自分の信仰を告白し、またキリストにおいて信仰の一致があることを証しするからです。

363 これらの聖礼典に与かるのを拒否するような人がいるとすれば、彼に対しては何が為されるべきでしょうか。

答 それはキリストの者でることの遠回しの否定になります。確かにこのような人はキリスト者たることを告白する気がないのですから、キリスト者のうちに数えられるに価しません。

364 両礼典は生涯の間に一度受ければ十分ですか。

答 洗礼は一度で十分であって、繰り返しがあってはなりません。しかし、聖晩餐は別であります。

365 その違いは何ですか。

答 主は洗礼によって私たちを子として受け入れ、御自身の教会に加え、以後、私たちを家の者として扱いたまいます。主が私たちを御自身の民に加えて後、継続して養うよう配慮されることを聖晩餐によって証しされるのです。

 

前回は聖晩餐でどうしてパンと葡萄酒の2つのしるしを用いるのかと問い、ローマカトリック教会が教職者と信徒を区別し、教職者にはパンと葡萄酒を、信徒にはパンしか与えないことを批判して、二つのしるしによって私たちの弱さに対するより良い対策が取られていることを教えた。すなわち、キリストは私たちの魂にとって霊的食べ物でありの飲み物である。霊的生命の養いはキリスト以外にないのである。

 

今回の第五十四聖日は、聖晩餐の相応しい受け方を教えている。聖晩餐は私たちの信仰告白の標識、認知票であると述べている。そして聖晩餐を拒む者は、キリスト者であることを遠回しに否定するものである。最後に洗礼と聖晩餐の違いを述べている。

 

357と答で問答は、聖晩餐の相応しい受け方を問うている。「パウロの定める通り」とは、コリントの信徒への手紙一112734節で述べていることである。パウロは、「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯を飲むべきである(28)と述べている。聖餐を相応しくないままで受けてはならない。だから、聖餐に与かる前に私たちは「自分自身を検討する」のである。

 

358と答で問答は、聖晩餐で私たちは自分自身を検討して、何を究明するのかと問うて、「キリストのまことの肢であるかどうかをです」と答えている。私たちが真実キリストと結びついているのかを、検討するのである。検討するためには、問359と答で基準が必要であると述べている。それは霊的な事柄である。すなわち、まことの悔い改めと信仰であり、兄弟愛・隣人愛であり、魂の純潔である。魂の純潔は基準というよりは励みの目標である。聖晩餐を正しく受けるために自分を検討する基準は信仰と愛だけで十分である。

 

360と答で、問答は、「あなたは人のうちに完全な信仰と愛を求める」と問うて、問答は信仰と愛は本物でなければならないと答えている。ただし、欠陥のない絶対的な完全さを求めても無駄であると述べている。罪人である私たちには完全な愛と信仰は得られないのである。 

 

361と答は、私たちにとって慰めである。私たちは罪を悔いては、また罪を犯す者である。キリストを信じているが、心に疑いを持つ者である。だから、問答が言うように私たちは、「今なお私たちがそのもとに労苦している不完全さ」を持つ者である。しかし、それが私たちを聖晩餐に与らせることを妨げはしないのである。私たちにとって聖晩餐は、私たちの不完全さのための対策であるからである。私たちの弱さを強めるためにあるのである。

 

362と答で、問答は、二つの聖礼典にそれ以外の目的はないのかと問うて、聖礼典が私たちの信仰告白の標識であり、認知票であると答えて、聖礼典に与かることで私たちは人々の前で自分の信仰を告白し、キリストにおいて信仰の一致があることを証ししていると述べている。

 

363と答で問答は、聖礼典を拒む者についてどうすべきかを問い、聖礼典を拒む者は遠回しにキリスト者であることを否定しているので、キリスト者のうちに数えるに価しないと述べている。

 

364と答で問答は洗礼と聖晩餐の両礼典を生涯の間に一度受ければ十分かと問うて、洗礼は一度で十分で、繰り返してはならないと述べ、聖晩餐は別であると述べている。聖晩餐は一度では十分ではない。何度も繰り返す必要がある。できれば、主日礼拝ごとに繰り返すべきである。カルヴァンは、聖晩餐は「きわめて頻繁に、少なくとも週に一度ずつ」と述べている。

 

 

365と答で問答は、洗礼と聖晩餐の違いを述べている。洗礼は私たちは神の子としてキリストの教会に加えることである。私たちを神の家の者として扱う。聖晩餐は継続して私たちの魂を養うのである。これは問323と答で学んだことの繰り返しである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答79           主の202321                                                                                                                                       

聖書箇所:マタイによる福音書第281820(新約聖書P60)  

第四部 聖礼典について

 第五十五聖日

366 洗礼と聖晩餐の司式は無差別に万人に許されているのでしょうか。

答 いいえ、この役目は公の教えの務めに任ぜられた人のものです。なぜなら、救いの教理をもって教会を養い育てることと、聖礼典の執行とは結び合っているからです。

367 そのことを聖書の証言を引いて私に証明してくれますか。

答 キリストは洗礼を施せとの命令を特に使徒たちにお与えになりました。そして聖晩餐の執行については、彼のなさった範例に倣うようにと命じておられます。さらに、主がこれを人々に分配された時、教職者の公の任務をなしたもうたのであると福音書記者は語っています。

                                         マタイ二八・一九

368 ところで、聖礼典を執行することを委ねられた牧師たちは、全ての人に誰でも選択なしにこれを許可するのでしょうか。

答 洗礼に関しては、今日これは小児しか施されませんから、見分ける余地はありません。しかし、聖晩餐について言えば、相応しくないことが明らかな者に授けないよう牧師は注意しなければなりません。

369 どうしてですか。

答 それはこの聖礼典に侮辱と冒瀆を加えずには置かないからです。

370 しかし、キリストはユダが不敬虔であるにもかかわらず、聖晩餐の交わりに与かるに価するとされたではないでしょうか。

答 確かにそうです。彼の不敬虔は未だ隠されていたからです。すなわち、キリストには知られずに置かなかったとはいえ、まだ明るみに出ていず、人々には分からなかったからです。

371 それでは偽善者はどうですか。

答 牧師は彼を相応しくない者として退けることは出来ません。神が彼らの不正を露わにし、人々の目に明らかにしたもう時までは差し控えているべきです。

372 もし、ある人が相応しくないことを牧師が知るか、人から注意されるとすればどうなりますか。

答 正しい手続きを踏んで調べ、教会による判定が下されない限り、その人を聖晩餐に与る交わりから退けるに十分でありません。

373 それゆえ、教会を治める一定の秩序が定められる必要があります。

答 まことにその通りであります。そうしないならば教会は品位を保つことが出来ず、正しく建て上げられないからです。そして、その実施方法は、長老が選び出され、彼らが人々の品行の検討を司り、油断なく小さい躓きに心を配るのです。この長老たちが、聖晩餐に与る資格なしと認め、また許しておけば聖礼典を汚す外なしと見た者たちを、晩餐から退けるのであります。

 

今回の第五十五聖日でジュネーヴ教会信仰問答の学びは終わりである。前回の第五十四聖日の問357365と答で聖晩餐の相応しい受け方を学んだ。聖晩餐は私たちの信仰告白の標識、認知票である。だから、聖晩餐を拒む者は、キリスト者であることを遠回しに否定する者である。洗礼と聖晩餐の違いを、問323と答で学んだが、繰り返し学んだ。

 

今回は、聖礼典の執行者は誰か、聖書の証言はどこにあるか、また、聖礼典に与ることに相応しくない者を、どのように判断するのか、裏切り者ユダを例に学ぼう。そして、最後に聖礼典と長老主義の政治との密接な関係を学ぼう。

 

366367と答でジュネーヴ教会信仰問答は、聖礼典の執行者が誰で、その聖書的証言を求めている。洗礼と聖晩餐を執行するのは、御言葉を語る牧師である。牧師は按手によって説教と聖礼典を執行することを公の務めとして委ねられている。復活の主イエス・キリストは、11弟子たちに宣教命令をし、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:1920)と言われた。また、主イエスは、12弟子たちを最後の晩餐に招かれ、彼らにパンと葡萄酒を分け与え、教会で守るように命じられた(マタイ2629)。問答は、主イエスが牧師の公の任務を為さり、パンと葡萄酒を弟子たちに配られたと教えている。問366の答の「救いの教理」とは説教のことである。

 

368369と答でジュネーヴ教会信仰問答は、牧師が聖礼典を相応しくない者に与らせて、聖礼典に侮辱と冒瀆を加えないように注意を促している。カルヴァンの時代ヨーロッパはキリスト教国であり、洗礼は幼児洗礼だけであった。だから、洗礼は幼児洗礼しかなかった。幼児たちは皆洗礼を施された。しかし、聖晩餐は判断の余地があった。不信仰者、不敬虔な者がいたからである。姦淫、人殺し、盗み、偶像礼拝、占い、かけ事等を行う者たちは相応しい者ではなかった。

 

370371と答で問答は、裏切り者ユダが最後の晩餐に与った例を取り上げて、聖晩餐に相応しくない者と判断できるのは、公にその者の罪が明らかな者だけであると教えている。ユダのように罪を隠している者を、主イエスはご存じであっても、他の弟子たちはユダの不敬虔を知りません。だから相応しくないと判断できないのである。隠された罪は、偽善者同様に、主に裁きを委ねる他ない。罪を隠している者、偽善者が公に罪を表わすまで、相応しくない者と判断することは控えるべきであると、問答は教えている。

 

372373と答で、問答は、正しく聖晩餐が執行されるために、長老政治という秩序が必要であると教えている。教会は、牧師が支配する所ではない。主イエスが支配される所である。主イエスは、聖晩餐に与るに相応しいか、相応しくないかを、牧師個人の判断に委ねられてはいない。むしろ、教会の群れの中から長老たちを選び、彼らが群れの一人一人の信者の信仰と行いを吟味し、聖晩餐に与るに相応しい者とそうでない者を判断し、教会の群れに躓きとなるものを避けるようにされた。 

 

改革派教会が長老主義を採用するのは、ローマカトリック教会のように牧師が教会の群れを監督するのではなく、牧師と教会の群れの中から選ばれた長老たちによって共同に統治するためである。

 

今年の会員総会が終わった。年報の作成等に小会は忙しい思いをした。しかし、小会の本来の使命は、教会の霊的統治である。誰に洗礼を許し、教会員とするか、聖餐に与る者は誰が相応しく、相応しくないかを判断することである。小会は、戒規を執行する。自発的告白により罪を犯したことを認める者、誰の目にも不敬虔であり、不信仰である者を、教会裁判によって裁き、除名し、聖晩餐の停止を下すのである。こうして教会の潔さを守ることが小会の第一の務めである。

 

 

教会は、この世にあり、組織であり、管理すべき所であるので、教勢、財政等の問題がある。小会は毎月教会の教勢、財政の統計を取り、教会を運営をしている。しかし、教会は信仰の共同体であり、キリストが霊的に支配されている所である。だから、小会は教会員の信仰に配慮すべきである。